ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年08月

 
  日本教で反日?
 
   嫌われる勇気
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41571142.html
   楽山ブログのコメント欄。私のコメントは、大方、記事用です。
   批判対象:楽山と、シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼 )
 
 
(私)
コメント欄の続きです。シャロームは、自身の罪と偽善と嘘の問題から目を逸らし、政治の転載記事を載せる一方、「日本教」の「空気」問題を日本を責めるために言いたいようですが、シャロームがボロクソな自説を言えば言うほど、無反省な人であること、自分の責任を負わない卑怯者であること、思想家気取りであることなどが、浮き彫りになってゆくのです。
(私)
しかし、シャロームは平気なのです。何故なら、楽山と同様、自分に都合の悪いことは無視して忘れてしまうからでしょう。シャロームの足跡には、罪悪の偽善の履歴が累々と積まれて繋がっているだけになるのです。
(私)
シャロームの前に道はない。シャロームの後に罪悪が残る。
(私)
シャロームが正義を語れば、ことごとく、
まさにその正義に反しているシャロームが浮き彫りになる。
シャロームは、日々、墓穴を掘っているのです。
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「山本七平の思想」を読み終え、改めて山本七平の「空気の研究」あとがきを読むと、空気と水によってかもし出される状況倫理によるご都合主義、際限なき相対化の支配は人を神のようなものとする偶像礼者とすることであって、日本においては天皇を現人神とする天皇制であるということのようです。
 
(私)
相対化の支配はシャロームの、状況を弁えない世辞の賛同と妄想豪語に表れてきました。シャロームは、むしろ、熱心な日本教徒というべきなのでしょう。
 
(シャローム)
空気と水を把握し、その拘束から解放される道は固定倫理によるしかないということのようですが・・・。
状況倫理、固定倫理については水の通常性の研究」(三)(四)・・・に書かれていますが、空気に水を差すことによって固定倫理に到達することはむずかしく、新たな空気の醸成をもたらすというのですから、救いようがないようですね。
 
(私)
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という固定倫理によって、おびただしい罪悪を、なかったかのように無視して、思想家気取りに逃げているのです。おぞましい偽善者の処世、あってはならないことです。
 
(シャローム)
たしかに戦後日本は立憲君主から立憲民主主義に変っていますが、戦後日本の実態は戦前と少しも変わっていないことによって今日の日本において顕著に証明されているようですね。
今日の有権者(主権者)の劣化についての記事もその証明と言えるのでしょうね。
2019/8/25(日) 午前 8:37[ shalom ]返信する
 
(私)
戦後日本は、戦前と少しも変わっていないでしょうか。戦前ならば、反政権の人々は、捕らえられていたでしょう。多くの人がABsに騙されているとはいえ、シャロームは、早くも、ボロクソ節基調で、日本の現状を嘲笑っているようです。こうやって、憂国を語るようで、実は、かえって母国をボロクソに、けがしてゆくシャローム。心から汚い人だと思います。
 
(楽山)
空気に支配されるということでは、日本だけでなく、欧米もそれっぽいですよ。たとえば、ポリコレ関連のニュースをみてると、欧米ではかなり厳しい空気に支配されてるみたいだし、この空気に水を差すのはほとんど不可能っぽい。
日本は戦前も戦後も空気に支配されてるのは変わらないだろうし、海外もそうだとすると、空気に飲まれるというのは日本だけの問題というより、人の性みたいなものかもしれません。
2019/8/25(日) 午前 9:24[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
楽山のボンヤリ言語、「ぽい」言語が出ています。シャロームの、ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)は、恐ろしく反日に偏向してきたので、コレクトではないようです。こうやって、逃避して、政治や思想の話を書けば書くほど、シャロームは卑怯者という証拠になってゆくことを何とも思わないのでしょうか。・・思わないでしょうね、昔から無責任で、無理解な人だったから、まともな人間に対してのように説くことは無意味でした。
(私)
楽山のボンヤリ言語による世辞の交流も、シャロームの丁寧語による世辞の交流も、空気としてずっと作用しています。それが策略と暗示による誘導というものです。戦前戦後ではなく、カルトへの服従があり、一方では、他者に対する軽視~無視を、いつも根深く隠し持っているのです。
(私)
その軽視~無視は、批判すると、敵意と否定となって、あるいは、その代わりに、ごまかしと詭弁となって、表れてくるものです。批判しないのであれば、彼らの世辞に惑わされないでください。
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん
[空気に飲まれるというのは日本だけの問題というより、人の性みたいなものかもしれません。]
そうですね。
人の性(サガ)・・・人の性ではなく、自分自身の性ですが
それを聖書では罪というのです。
 
(私)
自分自身の罪を決して認めないシャロームが言っていることを忘れないでください。
 
(シャローム)
聖書は神による固定倫理が証しされているのですが、
 
(私)
神の固定倫理を人は知りえません。人は不完全だからです。だから決めつけて固定することなく、反省しながら、祈りとともに、悔い改めを神に捧げ、その都度、信仰を新たにして、学習し成長するのが信仰の道です。シャロームは、このことが分からないので、固定倫理が証しされている、などと言ってしまうのでしょう。それは、人が神に成り上がっている、という、ありえない偽善者の立場なのです。
 
(シャローム)
人が神が食べてはならない、それを食べるときっと死ぬといわれた善悪を知る木の実を食べ、固定倫理を見失うと罪という的外れの状態という奴隷となり、自らを神のような存在とし、状況倫理によるご都合主義と際限なき相対主義の拘束支配から自由になることは出来なくなり、混乱、争い、ついには死と滅びを招くというのです。
 
(私)
固定倫理を見失うと罪の奴隷と言っていますから、シャロームは、固定倫理を知っているつもりであることが明らかになっています。そして、自らを神のような存在として思い上がるのです。思い上がるゆえに、またしても、罪を、アダムとエバのせいにしています。アダムとエバは、今の私たちなのですが、何度言ってもシャロームは聞く耳を持ちません。
(私)
自らを神のような存在とし、状況倫理によるご都合主義と際限なき相対主義の支配となっているシャロームのボロクソ論理において答えは明らかです。自らを神のような存在にすることは決してできないのに、それをしているつもりのシャロームは、言うことが矛盾して、ばらばらになり、ついには、混乱、争い、ついには死と滅びを招く、というふうにボロクソ悪口で他者を貶めるしかなくなるのです。自らに迫っていることを、人に当てはめるのは、シャロームの虚しい言い逃れです。
 
(シャローム)
人の言葉や論理による逃れる術、道はないのですね。
歴史はその確かな証言です。
2019/8/25(日) 午前 10:30 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームという人の言葉や捏造妄想教理によっては、逃れるすべも道もないのです。信仰の立場から言えば、シャロームが、いかに、妄想教理を捏造しても、隠そうとしても、神は見逃すことはなく、ゆえに、神が裁くのです。全能の神が、罪と偽善の証拠がないからと、できない、ということは、決してないのです。
(私)
まさに、最終的には、神が裁くのだ、というところに、正直なキリスト者であれば、偽善者シャロームの自己満悦とは全く異なるところの、ゆだねる心の、神の平安があるのです。
(私)
今までの経過、そこに表れた発言などには、嘘吐き、偽善者、妄想家、ボロクソ思想、証拠隠滅、コメント不承認による選別、理路の破綻、弁明不可、という、あらゆるインテリ気取りの偽りと罪が、シャローム自身によって、あらわになっているのです。隠そうとも、真実において、あらゆる正義は、シャロームを敵とするでしょう。うわべで演説ぶっても無駄なのです。
 
(楽山)
空気については、進化論的にも考えることは出来そうに思います。
 前に読んだ本には、群れの中の評判と生存、羞恥心について書いてました。
その内容は、大体こんな感じだったかと。
 動物を観察すると、群れのルールを破ったものより、破らないものの方が交尾の相手を見つけやすい。
つまり動物にも、評判というものがあるらしい。
 人は進化の過程において、この自分に対する評判を分析する力を進化させて、他人が自分をどう評価するかという感覚を獲得した。これが羞恥心のもととなった。
これが本当なら、空気に逆らえないというのは、周囲の目を気にしていることだろうし、この辺りの機能が関わってる気はします。
あとは空気に逆らおうとすら思わないのは、魚や鳥の群れは一斉に同じ動きをしがちだけど、それと同じようなことなのかも。
2019/8/25(日) 午後 1:00 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
楽山は、インテリ風味に見せかけて、動物の群れへの従順が、人間の羞恥心のもとだという説を載せています。楽山は、動物の本能と、人間の意志を、区別しないようです。区別しているなら、そのことを言うはずだからです。アドラー教で平板な思考になっているゆえに、単純に進化論に呑まれて、関連しているよとばかり、その知識を、考えもせずに披露してくるのでしょう。
(私)
ボンヤリ言語の「かも。」が出てきています。さらには、魚や鳥の群れの行動にまで広げています。魚や鳥は、気温・気象・環境などには体感があるかもしれませんが、集団の空気を読んで一斉に行動するのでしょうか。このように、楽山は、ボンヤリ言語の思考に支配されて、言葉づらの要素的繋がりの短絡が専らとなり、人間についての、一般的な理解さえも掘り下げることが出来ずにいるようです。
 
(楽山)
嫌われる勇気は、内向的で人の目を気にしすぎる人にとっては必要だろうけど、
 
(私)
必要ではないし、それ以上に邪悪でしょう。と思います。ますます内向的になり、改善が望めなくなり、さらに嫌われるだけでなく、他罰的で、逆に嫌い恨む人にもなるでしょう。必要なのは、嫌われるかどうかにかかわらず、自分が正しいと思うことを主張して、かつ、省みて必要なら修正する心です。
 
(楽山)
知り合いの前では丁寧でも、見知らぬ他人の前ではマナー違反しても平気だとか、
目上の人の前では謙虚でも、格下の人には高慢に振る舞うタイプの人たちには、全然、必要ないかもですね。
2019/8/25(日) 午後 7:23 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
嫌われる勇気は、目上の人の前では謙虚でも、格下の人には高慢に振る舞うタイプの人たちには、必要ないのではなく、態度を変える自分の欠点の醜さに気づかず、嫌われる勇気と言い換えて飾っているだけです。シャロームの、賛同者と批判者に対する態度に、ぴったり当てはまります。
(私)
シャロームは、他者を格下と見て軽視~無視します。ただし、社会的地位のあるような学者みたいな人には、世辞を加えて、一回り大きく賛同します。ごますりのようで、いやになります。どちらにせよ、本気ではなく、自分を一人前の立ち位置に見せるためで、敬虔とは似ても似つかない。
(私)
意見というものは、自分に当てはめてどうなのだ、ということを弁えておかないと、被害的、他罰的な体質になってゆくのです。見かけだけの謙虚ではない、真に謙虚な心というのは、絶対の正しさへの恐れですが、言葉だけでなく、他者をも、未知なるところの大きさをもって、おそれをもって、大切にすることです。
(私)
世辞をもってあしらうことと、心を込めて大切にすることの区別を付けられるようにしたいです。
それが全くできず、世辞で丁寧に言えば、礼を尽くしたつもりになって、それが当たり前に正しいと思い込んでいる人を見てきましたから。
 
 
(2019年08月26日)
 
 
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  無視教の狭窄度
 
   嫌われる勇気
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   楽山のブログ記事+コメント欄
 
 
楽山は、嫌われても書いてゆくのでしょう。嫌われたことを無視するわけですから。
嫌われても気にしないということは、嫌われる原因も、自分の欠点も、無視することを表しています。そういう人は、つまり、反省によって自分を正すことをしない人だということです。
 
記事本文と批判:
 

『嫌われる勇気』を読んでいる途中だけど、
その主張をざっくりといえば、
ものの見方、考え方を変えれば、
世界が変わるし、自分も変わることができる
ということのようだ。

 
アドラー教の宣伝に過ぎないと思います。
楽山には、人に何かを勧める資格はないと思います。
アドラー教によって
気に入らないことは無視する、ということに徹底しているからこそ、
提示された疑問や批判に何一つ答えることなく、
根拠を示さず、代わりに、詭弁を弄して、
また、性懲りもなく、記事を書くことが出来るのです。
 
人の話など聞いていないからです。
言いたいことを言って、それで終わりなのです。
お仲間のシャロームが相づちを打っているだけです。
どうか底意地の悪い二人に近づかないでください。
 

スピリチュアルな方面では、
心を変えれば、すべてが変わる
というような考え方があるけど、
それと瓜二つと言えるかも。

 
楽山は、スピリチュアルについて語る資格はありません。
心を変える、総てが変わる、などということを、平気で言えることに
心というものを、いかに軽く考えているかが表れています。
真実の深淵に、指一本触れていないと思います。
 

したがって、
本書は、
事実について研究するというよりは、
人生をどう解釈するかという
人生観、人生哲学といった風合いなので、
合う人もいれば、合わない人はいるだろうなとは思う。

 
事実について研究するのが学問です。
アドラー心理学が、心理学という学問ではなく、
人生観や人生哲学という美名によって
説教をする宗教であることを楽山が明示しています。
 
実際には、
楽をしたい、自己を肯定したい、
という人間の欲望の弱みにつけ込んで、
誘導をするカルトであることが明らかになっています。
 

ちなみに自分はどうかといえば、
部分的には共感できるところもあるが、
アドラーの教えによって、
すべてを解釈しようとしているところは、
若干、無理があるのではないかと感じた。

 
いつからか、楽山は、引き気味になっていますが、芝居だと思います。
欠点もあるが・・ということなら
欠点を明示して、良いところを汲み取るように説明するはずですが、
どちらも明らかに表してはいません。
 
万事が、このように、はっきり言わずに、ボンヤリ誤魔化して、
結局、書籍紹介して進めているわけですから、
アドラー教を勧めていることは明らかなのです。
既に、この記事が、誘導なのです。
 

もっともこれは、
アドラーの教えに限ったことではなくて、
どんな思想であっても、
一つの体系をこしらえて、
それですべてを説明しようとすれば、
屁理屈、こじつけ、辻褄合わせ…
などが生じるのは仕方ないのだろうけど。

 
屁理屈、こじつけ、辻褄合わせ…を好きなだけ続けているのが
楽山とシャロームです。しかも、楽山は、明らかな批判ではなく、
仕方ない、という不可抗力の表現をしています。
微に入り細に入り、楽山は詭弁を弄します。
 
そして、どんな思想であっても、と言って
他の思想を巻き込んで、正当化しようとしています。
ボンヤリ言語を通して
微に入り細に入り、楽山は詭弁を弄します。
 
このように、批判に応えることなく平気で詭弁を続けることによって、
さらに、楽山が、
ボンヤリの奥底に、悪意を燃やしていることが明らかになるでしょう。
 

ただそうはいっても、
本書に提示されている考え方には、
自分が過干渉するのも、されるのも退けて、
自己の人生を充実させるために
活用できそうなものも多々あるし、
この部分については
知っておいて損はないのは確かではある。
この意味で、一読の価値はある本だと思う。

 
過干渉について、
ボンヤリ言語による暗示、詭弁、誘導、誘惑を含めていないのです。
知るだけ、取り込まれ、洗脳され、他者無視=自己中心となり、
自分を、人格を、かえって失い、カルトの部品になって、
活発な、意欲も、感性も、損なってゆくでしょう。
 
あらゆるアクティブな心の活動を損ない
うすぼんやり、どんより、もやもやした
霧か煙のような存在にしたうえで支配しようと企む者たちに
魂を売ってはいけません。
代価は、グロテスクな鈍感、つまり、人間でなくなることです。
楽山の記事は、それを、既に表しているのです。
 
 
コメント欄と批判:
 
(シャローム)
自由さん こんにちは
yahooブログもいよいよあと一週間となりましたね。
「自分が過干渉するのも、されるのも退けて、
自己の人生を充実させるために
活用できそうなものも多々ある」
私も嫌われる勇気を読んでなるほどと思いましたが、
 
(私)
悪辣で、そのくせ、理路も情感も持ち合わせていない
という証拠だけを約8年積み上げてきたシャロームは、
妄想教理と他者に対する不感不応によって、
今までと全く変わらない口調で、一人前の思想家気取りで
臭い芝居を、今日もここで、繰り返しています。
怖いのは、破壊的な過干渉が、刷り込みという手段によって
隠れていることなのです。
 
(シャロームj)
でもちょっと疑問も残っていますね。
自分自身が他者に過干渉したり、他者から過干渉されたりすることから自由であるには、基本的に確かなI am OK!という自己肯定感なしにはむずかしいと思いましたが、どうでしょうか。
また他者が自分に対して過干渉であったりすることはその人自身にかかわることだという理解とYou are OK!という他者受容も必要ですね。
 
(私)
基本的に確かな自己肯定感とシャロームが言うとき、
シャロームの、罪を気にせず、悔いることも反省することもない、
という妄想教理を表してきたのが、この8年間でした。
シャロームは、どうしようもない人です。
自己中心の尊大だけが今も物を言っているようですが、
シャロームは、人間性の、温もりも潤いも持たない、
それを、丁寧語と世辞で補っているつもりの狂信者です。
(私)
ある意味、自己中心による人格破壊を
そのまま、なぞっている結末が、シャロームその人なのです。
 
(シャローム)
そのような確かな肯定感はどこから与えられるのかなとも思いました。
その肯定感なしには嫌われる勇気をもって自分の人生を充実したものと生きるのは難しいのではないかなと思いました。
shalom!
2019/8/24(土) 午後 3:35[ shalom ]返信する
 
(私)
シャロームは、肯定感を繰り返し強調しています。今となっては、自己中心の妄想家であるシャロームを、シャロームが肯定する以外にないからです。これは独り言に過ぎません。
人間性を失って滅びゆく者の末路なのです。だから、平気で嘘を吐いてきたのです。
(私)
罪を犯しても、偽善を働いても、その罪と偽善を無視している、という点が、楽山のアドラー教と共通しています。成りすましを疑っています。
 
(楽山)
いま、第四夜を読み終わったところですが、その点については、勇気づけという方法が紹介されてました。
「ありがとう」と感謝されることによって、自分は共同体に有用な存在だと思うことができて、勇気をもって主体的に生きられるようになると…。
 
(私)
楽山の「ありがとう」をはじめとする様々な説明が、あまりに、幼稚で、白々しくて、醜くて、楽山の本心ではないことを今まで書いてきました。
平気で、世辞を言い、やさしいお人柄を装い、一方で、執拗で頑迷な信条を、ボンヤリ言語で表して、刷り込んで、受け入れさせるために、今日もアドラー教の無視力をフルに活用しているのが楽山です。
 
(楽山)
自己肯定感については、感謝がカギになってるんだろうと思います。
あとは、アドラーでなく、ユング心理学の方の人ですけど、林道義の本で、自己肯定感は乳幼児期の環境が大切だと説いていたのを読んだ記憶はあります。
 
(私)
私の「心の理論」という記事において批判しましたが、
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
楽山は、他者の誤信念を判断できるようになる理路について書いてある簡単な質問を見抜けないばかりか、仏様の気持ちがわかる、という霊感に結び付けて、子どもには、そして楽山自身にも、霊感があるかのような気持ち悪い話として書いていました。それを批判したわけですが、楽山は、それを無視しているから、今回のように、性懲りもなく、また、平気で学問気取りの記事が書けるのです。
(私)
このように、反省と修正が必要な事柄でさえ無視して、今までと同じ訂正不能のまま、生きてゆくことが、アドラー教の教えに結び付いているのです。
 
(楽山)
乳幼児期に周囲から愛され、大切にされていると、自分は愛される価値あるという刷り込みがなされ、長じてからも自分に自信が持てるようになるとのことでした。
2019/8/24(土) 午後 5:27[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
愛情を、刷り込みだと言っています。それで自信が持てると言っています。
(私)
恐ろしいことです。誰が作為で子どもを愛するでしょう。恐ろしいことです。
(私)
楽山は、愛されたことがないのでしょうか。
愛さえも行為の要素か手段のように対象化して語れると思っているのです。
・・OUTだろうと思います。
 
(楽山)
ブログについては、
先日は、アメブロにブログを作ってみました。
なんか、広告に埋もれてる感じですね。
・楽山日記(a)
https://ameblo.jp/aankzf2019/
2019/8/24(土) 午後 5:42[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
楽山の上記アメーバブログを見てみると、
現時点では、刷り込み記事の合間に書く、音楽のリンクが張ってある記事です。
また、アドラー教宣伝を続ける気なのでしょうか。やめてください。
楽山こそ、邪魔で厄介な広告です。
 
(私)
私は、子どもの頃から、内向的で、物もろくに言えない性格でした。そのために、失格者みたいにレッテルを貼られるような体験もあります。しかし、私は、人間を見るのが好きで、その振る舞いや、言葉、リアルには表情などに、興味をいだいていることが、今も、人間の信仰というものを考える、という経過になっているようです。
(私)
そういう私から見て、美しいとは、人間らしいことで、それは、微笑ましく、大切にしたい心なのです。カルトには、読むたびに、人間らしさを微塵も感じさせず、かつ、人間らしさを奪うものとして、明確な憤りをいだきます。私の人生の残りは、そう長くはありませんが、召される時まで、書けるあいだ、批判を続けてゆきます。
 
 
(2019年08月25日、同日一部修正)
 
 
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  アドラー心理学(2)
 
 
ネットでの読み書きで判断したことを書いておきます。
 
表に出ているのは、アドラー心理学
という19世紀から20世紀に生きていた心理学者の名をとった心理学のことらしいです。
 
ネットで言われているアドラー心理学を、私は、アドラー教と呼んで、カルトとして批判しています。人格破壊につながるからです。
 
気に入らないことは無視しましょう、という教えがあります。
教えている段階で既に学問ではなく宗教です。
 
気に入らないことを無視するとどうなるか。
 
議論、さらには、真面目な話し合いが、成り立たなくなります。何故なら、こちらが言ったことの中で
気に入ったことだけ覚えていて、気に入らないことを無視しているから覚えていません。少なくとも話題が公平ではなく、好みによって取捨選択されて、偏ります。
 
ゆえに自分の都合だけに合わせて反論するが、全体の流れを考えていないので、力不足以上に、偏った言い分を通して、ちゃんと反論したつもりになる自己満足を愛する一種のナルシシズムとも言えるでしょう。
 
自己肯定感の勧めが流行っているので、アドラー教が受け入れられて広まる可能性を危惧しています。
 
こちらが言ったことの中で、都合の良いところだけしか話題にせずに、あとは、なかったことにしてしまうという乱暴な考え方です。
 
議論は、また、真面目な話し合いは、社交のお付き合いとは違うので、気に入らないことも、つまり不都合なことも、流れの中で話題となる必然があります。それらをすり合わせて、暫定的な結論や合意を見出すために進めてゆくのが議論や話し合いの進行ですが、それが出来なくなるわけですから、先ず、そのとき、議論も話し合いも成り立たなくなります。
 
残っているのは、社交のお付き合いだけになり、世辞、つまり、褒めたり、いたわりの言葉だけになるわけです。ということは、話が進まないし、結論も出ないのです。テーマについて深めることも掘り下げることも出来なくなります。
 
やさしいお人柄ですね、感謝、とかの、世辞の褒め合いにしかならないでしょう。
 
それがアドラー教徒の本心かというと、同意しているわけではなく、既に否定された異なる意見を、別の機会には、また執拗に書いてきます。否定されたことを無視して忘れているからです。そして、こちらの意見は聞かないで無視するわけです。言うには言うが、聞かない態度なのです。話はしても、真面目な話し合いは成り立ちません。疲労物質と喩えました。
 
話し合いが成り立たない、話が進まない、結論が期待できない、ということは、話し合いの相手にとっては、どこまでも実りのない疲労物質です。本人はどうなるでしょう。
 
自分の言いたいことを言い、他者の言うことが不快ならば聞かないで無視する、ということは、自分の言いたいことだけが蓄積されてゆきます。考える筋道が自分の都合と言う単方向に限られてゆき、視野が狭くなり、単純な短絡や詭弁が増えてきて、ワンパターンの思考が思路を占めてゆき、同じことを繰り返すだけの思慮の浅い人間になり、少しでも複雑な問題については、もはや、合意を共有することが出来なくなります。
 
つまり、結論が単純な、お決まりの話題に、短絡してゆく思路なのです。話し合い、人間同士の交流、特に、議論を、放棄することなのです。
 
アドラー教に従うと、不快な思いをしないで済むという主張ですが、その分、周りを、実に、不愉快にしてしまうわけです。不快を感じなくなる、ということは、不快な問題に対して乗り越えるすべを学習しませんから、不快に対する処し方や凌ぎ方を得ることもありません。不快は、総て無視、という無理を通す信念は、自他に対する圧力として蓄積されます。
 
原始的な逃避である無視を専らとすれば、複雑な感情の機微を経験せず、単純な快感だけになり、思いやり、気遣い、相手の身になる、共感、などが出来なくなり、結局は、感情、特に高等感情が鈍麻してゆくのです。表情が乏しく、ぼんやりして、躍動感のない人間になるでしょう。
 
思路の停滞と欠陥、感情の鈍麻と平坦化が現れ、進行します。
不活発なのに、物わかりが悪く、柔軟性がなく、自己主張だけが執拗な人間になるでしょう。
それを隠して自己正当化をするために、曖昧な表現が目立つことになり、その書き方が、バランスのとれた柔和さや中立なのだという勘違いが固定して常態化してゆきます。
 
自分勝手で、議論が苦手で、自分の言いたいことだけ言って、人の言うことは聞かない、という自己中心で、話が分からない人というのは、昔からいます。話の理路が分からず、整わない人です。そういう人が、話し合いの中で、不愉快にならないための、心理学風味の合理化をしているという便法かもしれません。しかし、間違っていると思います。しかも、それを万能のように信じ込むことから、とても迷惑なカルト信仰になってしまいます。
 
よくアドラーサイトを見てみると、結局は、
どうにでもなれ、自分が気にしなければ自分は楽なんだから、それでいいんだ、
という言い分になっているようです。自己中心絶対教と言ってよいでしょう。
 
それは、社会で生きる上で、他者の迷惑になるわけですが、
そういうことも、お構いなしだということです。
悪の勧めと言ってよいのです。勧めている人の気が知れない。
この国と社会に乱れと不和と争いを起こしたいのでしょうか。
 
 
誰でも、心を病みそうなほど、また、思い煩うほどには、考えても仕方のないことです。そういうときには、話し合いを保留し、思考を保留すればよいのです。
 
つまり、そのとき、結論に至らなくても、保留することで、捨てていない分だけ、何らかの記憶として残り、別の機会には対応できる可能性が残るようにすれば、視野を失わずに済むでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:34、新約聖書)
 
思いわずらうことなんて一生なくなる、とは書いてありません。
 
生きていることには、一日一日があり、明日があるのです。
今日のうちに、明日や先のことまで苦しまなくてよい、という教えです。
 
未知の明日が与えられるのに、一生を決めつけてはいけない、という教えでもあります。
信仰は、いつも安穏でいられる境地ではなく、未知は未知として、
人間らしい意志と思慮と情感をもって、耐え忍びながら、学習と成長を期する賜物です。
 
それが面倒臭くてしないか、できずに、短絡して無視してしまうことを生き方の万能薬としてしまうのが、アドラー心理学というよりアドラー教カルトなのです。
気に入らないことを無視して、自己中心の安穏を得て生きることは何の意味を持つでしょう。自己中心は、身勝手ですから、いつか必ず衝突します。まるで、今、せっせと、火薬を、ため込んでいるようなものなのです。
 
 
(2019年08月24日)
 
 
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 恐れを知らぬ
 
  気の合う仲間?
 
   気の合う仲間が見つからない人
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568360.html
 
 
ボンヤリ言語を用いた楽山の曖昧な感慨と作為の誘導であろうと思われます。
 

若い頃は、
気の合う仲間がたくさんいて、
いつも誰かと一緒にいて、
しゃべったり、遊んだりしてた。

 
楽山に気の合う仲間というのは、にわかには信じがたい。
楽山は、易坊やシャロームと同様、誰とも気は合わないと思います。
楽山は、大方、他者をバカにして笑っているだけだと思います。
 

でも、
宗教に凝るようになってから、
気の合う仲間は、ぐっと減った。
宗教に凝ったら、
そりゃそうなるだろうとは思うのだが、
原因はどうもそれだけではなかったらしい。
ようは、
あまり深いことを考えたり、
話したりしないうちは、
相手の思想、価値観などは
さして気にすることなく
広く付き合えたけど、

 
宗教的な人物は、社交的でないことがあり、深く考えることが多いから、
ということなら、ある程度、言えるかもしれません。しかし、これは、
楽山が言っているところの、宗教に凝ること、とは関係ありません。
 
宗教に凝るということを、楽山がどう考えているかが明らかになっています。
宗教に凝ると気の合う仲間は減るのだそうです。否であります。
 
これはカルトのように訂正不能の妄想を信じ込んだ場合に他なりません。
 
楽山は、実際は、深い思考を表したことも深い話をしたこともありません。
楽山の、そういうことをしないから広く付き合えるというのも、
浅い社交の話でしかないと思います。それは、記事にも表れています。
 
宗教のせいではなく、楽山のパーソナリティの問題だと思います。
ころころ変わって、いろいろ手を伸ばして、
あるときキリスト者、あるとき評論家、そして、全部気取りだけ、
こういう人は、信頼されません。
 
楽山は、たくさん芝居しました。これからもするでしょう。
生きることが演じることになってしまったら、
どれもこれも嘘になり、軸もなく、目先しか見えなくなります。
 

宗教、人生について、
ある程度、突き詰めて考えるようになると

 
楽山は、つきつめて考えてなどいないと思います。
今まで、実に軽い様々な口。
楽山は、普通を装って書いているつもりかもしれないが、
全然、普通ではないのです。
 

それについて
他者との考え方の相違が気になってしまい、
結果として、
交際範囲はぐっと狭まるということだったんだと思う。

 
楽山は、自らの不首尾を他者のせいに、また、宗教のせいにする人です。
 

でも最近はようやく、
宗教観、人生観の違いは
さほど、気にならなくなってきた。

 
ボンヤリが板についたということでしょうか。麻痺したのでしょうか。
怪しさが、煙幕のように、近づいてくる感じがします。
 

これらは、
その人の個性、環境によって、
違いが生じるのは当たり前だろうし、
自分と同じ個性、自分と同じ環境でもなければ、
自分と同じ宗教観、人生観を持っていないのは当たり前だ、
と思えるようになってきたので…。

 
当たり前のことが、前提になかったというのが、むしろ奇怪です。
 
しかも、宗教観、人生観、というものは、成長してゆく必要があります。
真理を得たとばかり不変の境地にしてしまうと、あとは執着や欲望が腐らせてゆくのです。
 

なんだか、
ウン十年も生きてきて、
他者との価値観の違いをあまり気にせず付き合うという
若い頃に無意識にやってのけていたことを、
再びまたできるようになってきたのを喜ぶというのは、
いささか情けないような、アホらしいような気もしないでもないが、
とりあえず、この生き方は、
自分にとっても、周りの人にとっても、
いい具合になっているようではあるし、
しばらくこのまま進んでみようと思う次第である。

 
少しも、いい具合ではありません。
中立と思っていたら、振り回されて、裏切られて、
そういう類の人?!・・と、結局、思われるのだから、
関わった者からの結果として楽山が味わうのは、
生涯、敵視されてゆくことです。
 
 
  やりたいことがありすぎる?
 
   やりたいことがありすぎる
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568352.html
 
 
当たり前の説教のようなことを書いて
楽山が言いたいのは、善人アピールに他なりません。
 

人生の折り返し点は
とうに過ぎたと思うが、
いまだに
やりたいことが
まだたくさん残ってる。

 
しないでほしいと思います。
何を考えているかがコワい人です。
 

あれと、
これと、
という具合に数えてみると、
人生の残り時間は
すごく短くて愕然とする。

 
時の流れを振り返れば残り少ないことは誰でも感じることでしょう。
特別な事情や個人の考え方の説明抜きで、一般的なことを書いたつもりでも
こんなに軽い「愕然」も珍しい。
 
普通に書いているつもりでも作為の不備は漏れ出てきます。
言葉を甘く見ているからです。
 

このままだと、
あれも、
これも、
できないままに
時間切れとなりそう。
でも、
考えてみれば、
これは、
死ぬまで忙しくできて
退屈しないで済む
ということだろうし、
いいことなんだろうな。

 
楽山が退屈しないとき、誰かが騙されているでしょう。
気に入らないことを無視するアドラー教には、誰も関わってはいけない。
 

残りの人生は、
できるだけ有意義なものとし、
楽しく過ごすように心がけるとしよう。

 
残りの夏休みは・・と言い換えれば、そのまま小学生の作文でしょう。
 
私が試しに砕けた口語体を使って
嫌な誘いの例として書いてみると、
「これでも、自分は、気持ちは優しいほうかなぁ、
 人と話すのがのが好きで、エヘ、ちょっとお茶目で、
 ていうか、なんだか、友達、欲しいな、の心境でぇす」
安い出会い系サイトにありそうな、我ながら実に気持ち悪い書き方でした。
 
理解ある人を自認しているつもりで下手にブリッ子的な若者の真似をすると、
自覚もなしに、悲惨なことになってる、ということが言いたいのです。
 
そういう類の書き方がボンヤリ言語とだという話です。
他者をアホだと思っていて、アホにも分かるように
やさしい言葉で書けばイチコロだろうと舐めているのかもしれません。
 
 
楽山の、残りの人生が、今までと同じなら、
意義はないと思います。
その代わり、道義的な、ひょっとしたら法律的な
罪状と前科が増えるだけでしょう。
 
 
神に対してだけは正直に、と私は他の記事に書いていますが、
それは、赦しと癒やし、そして、救いであるとともに、
人間としての個人の存在証明なのかもしれません。
それが出来なくなると、本当の自分がいなくなり、
芝居だけになってしまうのかもしれません。
 
本人のいない芝居は軸のないコマのように揺れて、
色がパラパラ剥がれやすくなるのだろうと思います。
 
 
私は、役に立つようなことを殆ど出来なったような、みじめな人間ですが、
みじめな自分という位置から求めようと努めているのです。
 
私が、カルトや異常な信仰?を批判するのは、
できるだけ、そのような者に関わってほしくないからですが、
一方では、彼らの過ちを通して、その対極に信仰が暗示されているからなのです。
 
偽善の悪は、大方、いつも、その対極として、真実の善を暗示しています。
讃美の言葉よりも、悪と偽善の動き方を知ることのほうが、信仰には参考になるのです。
 
 
みじめさや、乏しさを、ごまかしてばかりいる人は、
結局、一生のあいだ、自分ではない人を演じることになるのでしょう。
 
そこに陶酔があり、上気があり、ルサンチマンがあり、ナルシシズムがあり、
人格を持った信仰者ではなく、人格を持った演技者でもなく、
大根役者であり、安易な成りすましであり、
 
それゆえ、生きている本人の実感が欠けていって、存在しない仮想の人格が、
入れ替わり、立ち替わり、下手な芝居をすることになるのでしょう。
 

 
ルサンチマン:
 
弱者に募る怨念、負け犬根性、ねたみの反動による高ぶり、など。
 
いじけた根性からの恨みと憎しみであり、革命や戦争の暴力の原動力になったり、
シャロームのように、思い込み信仰?による自尊や他者への侮蔑になったりする。
 
学ぶことによって克服するしかないことを、学ばなかったのがシャロームと楽山だろうと思っています。
 
 
(2019年08月23日)
 
 
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  信仰の心
 
   『イエス・キリストは実在したのか?』(レザー・アスラン著、白須英子訳)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568314.html
   楽山のブログ記事。
 
 
楽山の読後感想文です。結論は出ていません。相変わらず、楽山は、史実や奇跡に興味があるようですが、心に受け取ることがなければ、いくら本を読み、聖書を読んでも、信仰を受け取ったり理解することはないのです。
 
もともと信じる気のない楽山が受け取るのは知識だけのようです。求める心がなく、ただ興味本位で扱っているからでしょう。
 

本書はこれまでは何度かチラ見しただけだったけども、今回ようやく通読できたのでその内容と感想をメモしておきたい。
まずタイトルについて書くと、訳者あとがきによれば、本書の原題は「革命家 ナザレのイエスの生涯とその時代」ということになるらしい。この点、邦題はおかしなものになっている。本書はイエスは実在したかどうかを検証するものではなく、イエスは実際はどんな人物だったのかを探るものなので。
次に内容について書くと、本書は三部構成になっている。まず第一部では、イエスの生れたエルサレムの状況について説明されている。ローマによるユダヤ支配の方法、ローマと祭司の癒着、当時のユダヤ人の暮らしぶり、ユダヤの解放、独立、ダビデの王国の再建を試みる人々など。


第二部ではイエスの実像について語っている。その中で印象的だったのは、当時の識字率、イエスの職業などから、イエスは読み書きはできなかったろうと推測していること。洗礼者ヨハネについて、かなり大きな存在として描いているのも印象的である。

 
聖書の中のキリストの心を受け取らないで、史実の中の人間イエスに興味を示すのは、自分が自分の視野の中で肯定する事実以外何も受け取らないのと同じですから、自分の外に真実の可能性を望み求める信仰には、逆行する心の向きなのです。興味本位で、キリスト関連の本を何冊読んでも、楽山が受け取って満悦することは、信仰とは何の関係もないことになるでしょう。
 
心を揺さぶる霊感が、神からのものであるかどうか、それは、人間には分からないものですが、心が揺さぶられたことは、そのときの個人的な真実であり、それが新しい経験によって、修正されるまで、真実としての重みを持つものです。
 
楽山が、それを、知識として、一気に受け取ろうとしている間、真実にならない知識が無駄に増えてゆくだけだろうと思います。
 

著者はここで、福音書と史実との食い違いを多く指摘しつつも、福音書作者は、自らの信仰と、イエスの本質を書き記そうとしたのであって、実際の歴史を綴ろうとしたのではなかったとしているのも印象的である。福音書作者と史実を探る自身との立場や視点の違いを強調しているのには、福音書作者への配慮がうかがえる。

 
聖書から、知識だけを求めて、自分の視野で真偽を処理することは、辻褄合わせで謎解きの興味の範囲を超えることはなく、聖書が伝える真実に一歩も近づきません。その選択において既に自尊が勝っていて高慢のベースが元々ある人のすることで、むしろ、真実を拒否して無感動な平板のゲームに興じているに過ぎません。
 
一方、聖書から、心を揺さぶられる経験をしたら、聖書の史実、つまり、二千年以上前の史実にこだわる必要はありませんし、そのような考え方ではいられなくなります。
 
私たち一人一人の人生において、心を揺さぶるものだけが、命を生かし心を動かすことになるからです。何故なら、心を揺さぶるものは、過ぎ去ることがなく、新しく揺さぶられるまで、そこから、学びが生まれてくるからです。
 
楽山は、学校で勉強するのと大して変わらない学習をしているわけで、そういう知識であるかぎり、人生は、負から正には、死から命には、絶望から希望には、変わりようがありません。
 

またイエスの行った奇跡について、それが神による奇跡であるか、魔術であるかの議論はあっても、奇跡それ自体があったかどうかを疑う文書はないとしてるのも印象的である。当時の人々にとって、何による奇跡かは問題になっても、奇跡が事実かどうかは問われなかったらしい。

 
ここから、楽山は、奇跡にこだわり、奇跡があったというほうに傾いているのでしょうか。何による奇跡かにこだわるのでしょうか。ここで言う奇跡とは、物や肉体に起こる奇跡のことで、そういう奇跡があってもなくても、現代では、めったに起こらないのだから、すがりついても、すがりついても、神だけがそれを決めることで、人の手には負えません。奇跡は神に任せて、人間として、努めて、導きを祈る以外に何が出来ましょう。
 
物や肉体の奇跡は、神に任せるしかないものなのです。私たち人間が求めるべきは、魂の奇跡、言い換えれば、心に起こる奇跡のほうです。この奇跡は、今も、人間に、起こっており、これからも起こることです。そして、それらは、人間と人生の深みに関わってきます。ゆえに、人間は、この奇跡について、感じ取り、考えるべきであります。
 
なお、魂、心、霊、精神、などを、人間は区別できません。使い方や文脈によって、使い分けているだけです。人間の心を、霊とか霊的とか言い換えて、言い得たと満足するようにならないでほしいです。
 
人間にとって形無きもの、かつ、大事なものは、心に働きかけるものであり、心にあるものです。言葉だけ言い換えても、言い換えなくても、同じです。この心が渇いているところにのみ、信仰は必要なのです。知識を得て、知ったとか、分かったとか、結論しないでください。
 

あとは…当時は、障害者や病気の人が神殿に入ることは許されず、もしどうしても入りたければ、祭司に高額な費用を払って特別な儀式をしてもらわなければならなかったが、イエスは費用をとることなく、無料で、それらの人々を癒し、浄め、神殿に入れるようにしたのであって、これは祭司に対する強烈な批判になっていた指摘は格別印象に残った。

 
宮清めのことでしょうか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:12
それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
 (マタイ21:12-13、新約聖書)
 

第三部では、イエスの死後の弟子たちの動きについて書かれている。イエスの死後、弟子たちのリーダーになったのはペテロではなくて、イエスの弟ヤコブだったこと、ヤコブは教団の内外から義人ヤコブと言われるほど尊敬されていたこと、ヤコブらが主流であり、パウロはそうではなかったこと、ヤコブは殺され、ローマによってエルサレムは焼き落されるにいたってヤコブらの流れは細くなり、パウロ側の勢力が増していったことなど。

 
誰が重要で、リーダーだったかにこだわるのは、偉くなりたい者たちの自尊のゆえなのです。楽山の読み方は、自分は知っているのだと、ケチをつけるために読んでいるような読み方です。楽山は、勢力争いやゴシップにだけ目を向けていて、信仰そのものについて何も受け取っていないことが分かります。
 
人間理解について少しも受け取ろうとする気持ちがなく、興味本位だけで読む人は、謎解きや、言葉尻にこだわって、結局は、聖書も信仰も茶化すだけになるのでしょう。
 
少なくともキリスト信仰に限っては、完全無欠で、満足がいくような、つまり、信じたら完全無欠にしてくれるような信仰?に出会うことはありません。そのような超常信仰はカルトの大好物に過ぎません。どんなに聖書を熟読しても、人間の理解力が不完全だという自覚のないところに、欠点や失敗そして罪の自覚のないところに、信仰が芽生えることはないのです。
 

最後に全体の感想を書くと、本書のように宗教の起源について書いたものを読むと、宗教は神によるものであるという考えを批判し、宗教は神によるものではなく、人の中から生じるものだとする意見に対して効果的な反論を試みるのは難しくなるようである。

 
楽山は、聖書を信仰を受け取るためではなく、知ったかぶりの興味本位ですから、大切なことを受け取ることなく、勢力争いや党派に関心が向くようです。そういう読み方しかしていないのに、「宗教は神によるものではなく、人の中から生じるもの」などという分だけ、浅はかで傲慢なのです。つまり、人間が神を俯瞰しているような読み方だということです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
20:25
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
20:26
あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
20:27
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
20:28
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
 (マタイ20:25-28、新約聖書)
 

ただそうは言っても若干、心に引っかかるものがないでもない。例えば本書では、ユダヤ民族の独立を目指した自称メシアは大勢いたとしつつ、その中でイエスの名が残ったのは、イエスの復活を信じた人がいたからだとしているが、ではなぜイエスの復活を信じる人が現れたのか、なぜその信仰は共感をよんだのかについての答えは見当たらない。ここはちょっと不満ではある。

 
偽の神を信じる者も、偽キリストも、偽預言者も、多くの時代に、われこそは、と現れます。身近なところでは、預言者気取りの反省しない偽善者シャロームが、ぴったり当てはまります。一時的に、世辞や詭弁や刷り込みが効いて、未熟なまま信じる人や慕う人が出てきたりするから怖いのです。
 
キリストを忘れられず、キリストの復活を信じてゆくのは、キリストが、それだけのものを残していったからに他ならないでしょう。筋書きをなぞるだけの読み方では、心が砂袋のようなものになっているので、キリストが残した大切なものを受け取る器にならないのです。
 

「どのようにして?」ならともかく、「なぜ?」という問いは、事実を問うというより、自身が納得できるかどうかを問う要素が強くなりすぎて、あまりよろしくないとは思うのだけども、でもやっぱりここは気になるところではある。これについては宗教や進化心理学の本を読み漁ることになるのだろうけれども、とりあえずは今後も自分のできる範囲で調べてみるとしよう…。

 
このように、事実のみを問うて、個人的な納得を軽視する楽山のような向きは、いくら進化心理学などと難しそうな学問の種類をあげて気取ってみても、たとえ、それらを読んだとしても、今までと同じように、信仰者を惑わし、信仰を妨げるだけでしょう。人間として、聖書に表されたキリストを知ろうとするのに必要な動機と求める本気の心がないからです。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
19:1
さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。
19:2-4
ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
19:5
イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
19:6
そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
19:7
人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8
ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
19:9
イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10
人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
 (ルカ19:1-10、新約聖書)
 
ザアカイは、金持ちだったが、取税人だったので、さげすまれていました。救いなど、とんでもないと言われていたのでしょう。そこで、キリストの噂を聞いて、木に登ってでも見ようとしました。キリストを求める心があり、キリストは、ザアカイの救いを求める姿勢に気づいておられたということです。
 
10節が、最も、そのことを表しています。ザアカイのような、失われたもの、そういう人が、キリストの救いに与(あずか)ります。文句を言わずに信じろと言うのはカルトです。キリストは、誰がご自身を必要としているかを知っておられました。
 
楽山の姿勢は、ザアカイとは異なっています。知識を仕入れて、実在したかどうかを云々し、奇跡は実際あったのかにこだわる姿勢は、何よりも、知識で矛盾のないことが真実だと思い込んで、それらが、全部クリアされたら、信じてやろう、という、自らを高みに置いた姿勢です。
 
このような高慢な位置にいる者の心には、その位置が変わらない間、分かっているさと、いくら信仰芝居を書いてみても、本当のキリストが表れても気づかないでしょう。そして、キリストについて、いちゃもんのような文句ばかり言うことになるでしょう。
 
知識があってもなくても、自らを恥じる心を持つ人は、ザアカイの心に共感できるでしょう。さらに、キリストが歩んだ絶望的に孤独な生き方と死に方が、無駄ではなく、二千年の時を超えて、心に響くことを受け取れる時が来るだろうという希望もいだいているから、私は書き続けています。
 
信仰は、意味と言葉尻を合わせる辻褄合わせではありません。
 
聖書から、
理屈を覚えるのではなく、良いことだけを覚えるのでもなく、
神と人、キリストと人、人と人、心と心を合わせるのが信仰です。
その答え合わせは、この地上では確定しないのだから、
祈りと赦しが必要なのです。
 
 
(2019年08月22日) 
 
 
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