ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年09月

 
  心の問題
 
 
一応、シンプルな信仰のたとえ話なのですが、
信仰に限らなくてもいいようなところもあると思います。
 
蟻が紙の上を這っているとする。
蟻には紙の上の世界しか見えない。
 
蟻の能力はそこまでで
飛んだり跳ねたりもしないと仮定して
 
信仰が心の問題だというのは
このような場合にも少なくとも二通りの蟻がいるということ。
 
ある蟻Aは、
ずいぶん旅してきたが、どこを見ても神はいない。
神などどこにもいない、神など信じるなんて馬鹿げていると思う。
 
しかし別の蟻Bは、
ずいぶん旅してきたが、どこを見ても神はいない。
でも自分の見ている世界以外に自分には分からないような
もっともっと広い世界があるのかもしれない。
自分には分からないけど、そこに神はいるのかもしれない。
そこから私を見て、守ったくださったらなあ・・と思う。
 
蟻Aは、
自分の狭い了見が世界だと思っている。
自分が把握しているだけの世界が全てだと思っている。
その狭い世界だけで、判断している。
自分の、知らない、分からない、見ることの出来ない世界を
推測、想像することが出来ない。
つまり自分の能力を超えた存在を認められないのである。
これは、総ての自分信仰に共通する視野の狭小である。
 
蟻Bは、知らない世界があることを認めていて、
その世界へのあこがれを持てるのは
自分の世界と自分の存在の小ささを認めているからだ。
 
以上のことを、
科学めいた仮説のたとえ話だと思ったり
信仰と何の関係があるのだと思う人もいるかもしれないが、
 
これは、絶対と呼べる存在に対して
自分がいかに小さいかを
理屈よりも人生経験で学んでいる人でないと
実感にはならないということです。
 
前に書いたことがあります。
 視野は
 その狭さを実感するとき最も広く
 その広さを人と比べて自慢するとき最も狭い。
つまり自分の外に別の視野を認められるかどうかであり、
感じることの出来ないことがある自分を知っているかということです。
 
信仰に必要なのは、優れた知性でも感性でもありません。
信仰に必要なのは、自らの知性と感性が不完全であるという自覚です。
それはまた、全能の神に対して、人間であることの条件でもあるのです。
 
そして、それゆえにこそ、自分の個性である知性と感性を大事にすることです。
 
こう表せば、このことが
論理的推測ではなく、感情的言い張りでもなく
人生経験と書いたように、全人格的な経験に、
特に心が貧しいとしか言えないような
不完全さの気づきに基づいていることが理解できるでしょう。
こういう考えは世界観だけではなく
あらゆる人間関係に影響する問題なのです。
 
多くのブログを見ていて
学問、芸術、のみならず、生活と言葉について、
ときどき、いいな、と思う感じ方に巡り合うことがあります。
 
小さいがゆえに、小さいことに気づく、小さいことに心が届く、
ということがあり、そこには、人間の最も興味深く、最も愛すべき要素があると感じます。
あやかりたいと、いつも、思うところであります。
 
信仰は、知っている者が、知らない者に教える、という関係ではなく、
総てを知ってはいない、知らない世界や知らないことがある、という自覚と共感であります。
その自覚が、全知全能に対する恐れと弁えになり、
その共感が、不全なる人間同士の愛のベースになるからです。
 
 
しかしながら、普通に考えているのに神はおかしいじゃないかと言う者は、
普通と言いながら、普通以上の他の存在を認めていないことが多い。
だから、その者は、実際は、普通ではなく、
貧困なベースの上にあぐらをかいているのである。
 
(※ 聖書の「心貧しい」、と、心や精神の貧困を、混同しないようにしてください。)
 
見えるものであるか、または、証明されるものでないと、信じないというのは、
それこそ変な話なのです。
見えるものや、証明されるものは、信じる必要はないのですから。
 
また一方で
何の理由も切っ掛けもなく、夢物語を信じるというのも、おかしな話なのです。
信じるに至る動機がないで信じ込んでしまうなら、その人の世界は
現実離れしてゆき、人間離れしてゆき、おとぎ話になってゆきます。
おとぎ話では、現実を生きられません。さらに、ホラーになることもあります。
これは、自分信仰やカルトの入り口なのです。
 
信仰の話のプロセスを間違えると、不可知の共有や不完全の共感に至らず、
逆に文句を言い、否定的な考えを無遠慮に広めようとするのです。
一種のカルト発生の素地でもあるでしょう。
共感をはじめとして、思いやり、恥ずかしさ、罪悪感、などを持てないような
人間的な情緒面に問題のある人が多いと思います。
 
 
信仰に至る、ということは、必ず、何らかを恵まれているから起こります。そして、その賜物は、とても、人間的なもので、冷たくなく、涸れることもない、泉のようなものです。
 
現実に生きて、耐えられないときの、癒しや救いの言葉、孤独からの解放、温もりと潤いの時間、など、言葉では尽くせない体験があり、既に恵みをいただいているから、信仰から離れることなどしないし、人間から離れることもしないのです。
 
神からの恵みは、一人の人間にとって、いつも溢れているわけではありません。分からなくなることもあるでしょう。希望は、持ちましょうと言って持てるものでもないですから、困ったときは、余計なことをあれこれ考えずに、何よりも、その日一日を生きて、過ごしてください。
 
喜びの時も悲しみの時もそのまま居座ることはなく、
必ず過ぎてゆきます。全部、すっきり嫌なことがなくなるわけではなくても、
残った問題については、また改めて、考える機会があるでしょう。
 
 
(2019年09月30日)
 
 
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  アドラー教(2)
 
   アドラー心理学サロン
   https://twitter.com/adlersalon
   より抜粋。
 
 
アドラー教は、誤用や悪用が起こりやすいのです。実際、絶対自己中心になって、人の話を聞かなくなった者がいて、批判を続けています。アドラー教は、不感不応を促進することになります。
 

1. 自分と他人を区別する
2. 人がどう思うかは、相手の課題だと割り切る

 
どう思われるかを気にしないことを勧めています。
自分という存在に、他者は関係ないのでしょうか。
違います。別人格同士は、影響しあって進む
という部分を無視しているだけです。
 

3. 他人の課題に介入しない
4. 自分の課題に、他人を介入させない

 
課題は、それほど、分離しやすいようにはできていません。
特殊な場合を、全体に当てはめようとする詭弁です。
 
他人が何か言ってきて、不快なら無視するアドラー教に従うと、
原始的な反応が対人関係を支配するようになり、
人格は未熟なままだけでなく、鈍化し、破壊されてゆくでしょう。
 

5. 他人への優しさは忘れない
6. 利己主義にならない

 
上ではまずいと思ったのか、
小学校レベルの道徳を歯止めにしてきました。
この深みのなさが、アドラー教の、いい加減さなのです。
 
人には好きなように言って
人の言うことは原始的な判断で聞かない
という対話不能の人間を作り、
それでいて、
優しく思いやりのある人間になりなさい
という継ぎはぎを当ててきていることを見逃さないでください。
 

7. 結果の責任を自分が引き受けることは自分の課題

 
どういう結果でしょう。一般的に言ってよいのでしょうか。
 
自分と他人が一緒に関わった課題をどう区別するのでしょう。
 

1. 他人との課題を分離する

 
分離できない課題はないのでしょうか。
無理して、この部分は私、その部分はあなた、と言い張るのでしょうか。
常識的に課題の認識に無理があるのです。
 

2. 承認欲求を否定する

 
承認欲求だけではいけませんが、
承認欲求を否定することは簡単ではありません。
さらに、承認欲求を全否定すると、自分で勝手に事を運び、
結果については無視して無視して不感不応の人生を過ごすことになります。
そういう人間を自己中心そして人間離れと言います。
 

3. 劣等感を健全に克服する

 
当たり前の結論だけです。きれいごとの飾りです。
そう言って済ませるほど、劣等感を克服すること自体が、そんなに易しいことではありません。
 

4. 家族も他人だと割り切る

 
言葉が乱暴です。筆者は専門家ではないようです。
このままでは、家庭崩壊を招きかねないことを平気で勧めています。
別人格ですが、他人と違って、関係性は否定できません。
 
さっきから、出来そうもないことを勧めています。
それこそ、解脱して悟りを開けと言ってるようなものでしょう。
心を理屈で考えると、こうなるという例でしょう。
 

5. 人への優しさを持つ

 
言うだけなら、当たり前の結論だけです。飾りです。
 
実際には、優しい人間になることは、そんなに易しくはありません。
今までの筆致から、筆者は、全然、優しくない人です。
 

6. 人に期待し過ぎない
7. 主張すべきは主張する

 
当たり前のことですが、容易ではなく、
整合性を持たせようとする強迫観念による、つじつま合わせでしょう。
結局、そんな難しいこと言うてもしょうがないやろ、という感じになる。
 

1. 人は人を誤解する生き物

 
人は人を理解しようと努力する生き物でもあります。
否定だけを、歯切れよく書いて、気持ちいいのは筆者だけ。
 

2. 客観性は存在せず、全ては主観
3. 正解も間違いも存在しない

 
1.極言と、2.暴言。
 

4. 人の記憶なんて曖昧でいい加減
5. 人は他人に興味が無い

 
筆者は、いったい、どんな世界に生きているのでしょう。
カルトが、辻褄合わせが出来なくなって潰れてゆくときの台詞か。
 

6. 論理性には限界がある
7. 感情や主観がある限り、他人の理解と意見は当てにならない

 
感情や主観はあるわけですから、他人は理解も出来ないし意見も当てにするなと言っているのと同じです。これで自己中じゃなくて何なのでしょう。
 

好きな人、嫌いな人なんて存在しない。
あるのは、自分に合う人か合わない人かです。

 
筆者は、ロボットなのでしょうか。
ロボットになることを勧めているのでしょうか。
筆者は、人間の良識を全く信頼していないようですが
一方では、当たり前の常識を書いているという矛盾だらけの有り様です。
 

どんな人であっても、誰かにとっては良い人であり悪い人なのです。
人が他人の良し悪しを決める道理はありません。
誰かが良い人間なのか悪い人間なのかを論じるよりも、自分はどういう人間なのかに集中しよう。

 
人間は、不完全、そして絶対ではなく、相対的と言うべきところです。
他者の良し悪しの判断をしないで、自分に集中しようことを言っています。
進歩しない人類になろうという勧めになってしまいます。
 
自分という存在に、どれほど、他者の影響があり、それは、余計なこともあれば、必要なこともある、というようなことは考えないようです。
 

いじめをするような人たちは、心が貧しい。

 
この、心が貧しい、とは、精神が貧困だという意味でしょうけど、
 

人のアラを探して、いじめて自分の劣等感を穴埋めしようとしているだけ。
そんな人の心が理解できない、読もうともしない人たちは落ちぶれる。

 
「そんな、人の心が・・」と書きたかったのでしょうが、それにしても、決めつけから、呪いになってきました。
 

更生してもらうことなんて考えず、あなたまで落ちぶれてしまうので「関わらない・距離を取る」を徹底しよう。

 
嫌われる勇気と同様のことを言っています。これで、平気で、気持ちいいなら、異常です。
「あなたまで落ちぶれてしまう」は、分からないことですから、呪いと脅迫の付け足しです。
 
「人のアラを探して、いじめ」をする人たちなら、ときには、告発するべきです。
 
「関わらない・距離を取る」だけというのは、暴言です。
それだけでは、人間は生きてゆけないからです。
 

心と身体が限界なら、全て投げ出してでもひと休みする。
とても大切なことです。
あなたが壊れてしまってはもっと重大な事態にも発展しかねません。
上司や先輩、同僚からどう思われようが関係ありません。
他人を気にかけて、あなたが必要以上に消耗してはいけません。

 
これは、当たり前のことです。付け足しの飾りです。
 
心と身体が限界かどうか、自分で判断できない場合もあるでしょう。
一見、まだできるようで、自分も、そうかも・・と思う場合です。
大事なことは省略して、言葉の思いやりの、よさそうなことを言っています。
 
以上、注意深く読むと、ひどい話をしているのがアドラー教です。
 
全否定(肯定)と部分否定(肯定)など、理路全般に、日本語による文書作成が未熟で、
こう書いたら、誤解されてしまうのではないか、という気配りが働かない人のようです。
 
元々のアドラー心理学は、語られ広められているほど、単純ではないような気がします。
 
筆者たちは、
日常の言葉で書かれたところが、常識的におかしいから、そういう指摘をしても、
ちゃんと読んでから言え、みたいな、貶めだけを書いてくる人たちのようです。
 
人間性において不自然なことを、新発見のように豪語する者たちを警戒してください。カルト的増長のために、人間性において不自然なことは通らないということが分からないでいるのかもしれません。
 
 
(2019年09月29日)
 
 
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  アドラー教
 
   アドラー心理学サロン(アドサロ)‏ @AdlerSalon
   https://twitter.com/adlersalon
 
 
アドラー教は、言葉を暴走させるのが好きで、それを欠点とは思っていない、ということが明らかになっています。
 

人の噂話ばかりしているあなた、
そんなことしていないで自分の
人生を頑張ったらどうですか?

 
当たり前のことを言っています。
こういうところからカルトの誘導は始まります。
 

他人ネタでしか楽しめない人は
自分の人生に退屈している
他人の詮索をしてはあること無いこと
話をしたところであなたの人生は変わらない

 
楽しめず、退屈する人は、他人の詮索をするのでしょうか。
それは、人生を変えるためでしょうか。
 
他者の話から学ぶこともあります。
他者の話は、あること無いことと言っていますが、
あることを拾う作業が嫌なのでしょうか。
 
他者の話で注意するべきは
他者が自己中心に言っていることは自分のためにならないこと、
他者が悪意を持っているときは聞かないことです。
 
他者の人生に向かって、よくもここまで端折って言ってくるものです。
先ず、この人が、歯切れのよさそうな言葉と、疑問への叱責と、
余計なお世話の数々を、やめるべきだと思います。
 

そんな暇に自分の人生を良くする
努力をした方が100倍は有意義

 
人生をよくする努力は大切ですから
人生を詭弁で悪くしそうな説教を見逃すことはできません。
少なくとも批判的に見る眼を持ち
批判する努力をするべきなのです。
 

人はそれぞれの世界を生きて
それぞれの幸せをつかむ

 
当たり前のことを言っています。飾り言葉です。
 

どんな仕事をしていようと
どんなことを好んでいようと
それは他人には関係は無いし
勝手に優劣を付けてはいけない

 
関係ない、というのは、ひどい言い過ぎですね。
多くの仕事や作業は他人に関係しています。
優劣云々とは別のことです。
何を吹き込むつもりなのでしょう。
 

人が人の価値を決める道理も
見下す道理も無い
自分の人生が上手くいかない
憂さ晴らしの為に他人に八つ当たり
してはいけない

 
当たり前のことです。飾り言葉です。
 

あなたを傷付けるようなことを
言ったり、やってくる人は臆病者
他人の欠点を見つけ出そうとしたり
人を悲しませたりする人は前向きに
努力できない
そのくせ自分の弱さを悟られない
ように他人を見下して「自分は強い」
と錯覚している

 
そう言っている人は、恐らく、弱みを見せたことはないと推測します。
我が身を振り返らずに人をミソクソに言うのは偽善者です。
 
その人の中では、
臆病者、悲しませる、努力できない、
こういう人は価値が無いと言っているのでしょうか。
「自分は強い」と錯覚しているのは、誰でしょう。
 

幸せに生きる人はあら探しをしたり
人を傷付けたりはしません

 
おかしいですね。
彼の言う、幸せに生きる人、というのは
アドラー教徒のことでしょうけれど、
人を傷つける要素満載です。
それを気にするなと言うのが嫌われる勇気なのでしょうが、
嫌われるだけではなく、傷つけることになるでしょう。
その結果、誰とも、良い関係を結べなくなるでしょう。
 

食わず嫌いは損をしてます
食べ物に限らず人でもどんな事
にも共通することですが何となく
「〜嫌い!」は損です
よく知りもしないことを理解しよう
ともしないでそれを避けることは
自分の可能性閉ざしているだけ
苦手だと思っていたけれど実は
美味しかったり良い人だったり
することはかなり多い

 
だから、最初に、アドラー教のように、
気に入らないからと無視すると、
美味を見逃してしまうことになります。
 

どんな人生を送ってもいい
自分の人生は自分だけのもの
あなたが好きなように生きて
幸せならばそれが正解なのです

 
当たり前のようですが、
好きなように生きて幸せならば正解と言えば、
何をしても自分が幸せなら正解でしょうか。
 
犯罪者がアドラー教徒なら喜ぶでしょうね。
こういう不備が、あちこちにあるのがアドラー教です。
 

人生は一度きりであり正しい人生
の定義は人それぞれ
多くの人達が世間の常識に合わせて
いますがそういう人で幸せに生きて
いる人は少ない
正解はあなたの気持ち一つ
でしかない

 
正解は個人の気持ち一つと言っていますが、
一般に個人を制御する道徳や社会正義や法を無視してよいのでしょうか。
 
発言の加減を弁えない人のようです。
こういうことを、すぱっと公開される文章に出すところに
ゆるゆるの自己制御不足を感じます。
 

人は自分に都合のいい理解しか
しない
人間は正確な理解をしようとする
のではなくもっともらしいことを
盲信しないと生きてはいけない

 
言いすぎでしょう。
どこまで、人を画一的に決めつけるのでしょう。
言論が苦手の人なのでしょうか。
 

人は「理解できないこと」を恐れて
いる
全てを自分の理解できるものに
捏造して自分を守っている

 
煽って叫んでいるような決めつけです。カルトらしい。
格言的に決めつけないと気が済まないのでしょうか。
 

他人が何を思い、何をするのかは
あなたが決める課題ではない

 
自分と他者が、ときに、影響し合うことを
完全に排除するならば、自己中にしかなりません。
 

人は他人のことになると好き放題
言ってくる生き物です。
言いたいだけ言わせておいて
あげましょう。
他人の批判に忙しい人は
他人を批判することで自分の価値
を高めようとする
それしか無くて自分の人生が空っぽ
なのです。

 
これは批判に対する反論として理路がないですから、
しかも、拒否と否定しか書いていないから、
人生空っぽなどと言うのは、罵詈雑言の悪口になります。
 
批判は、間違っているところを指摘することで悪口ではありません。
 
こういう記事のようなことを書くのは、
間違いを指摘されても無視する人で、
その結果、嫌がらせの悪口しか返せなくなるのです。
 
嫌われる勇気とアドラー教は言っていますが、嫌われていいのでしょうか。
嫌った人々からは機会が与えられなくなるでしょうけど、それでいいのでしょうか。
 
私は、嫌われないように、おべっかを使えと言っているわけではないのです。
嫌われてもしょうがない相手はいます。そういう人には、礼儀がどうのと言っていては、こちらが煙に巻かれているうちに失うものが多くなるばかりです。
 
そういう人に対してだけは、いくら嫌われても構わない、という意志を持って対峙するべきです。こちらも、相当のことを言ってきたのは、読んできた人はご存知だと思います。
 
しかしそれは特殊な個別の場合です。"嫌われる勇気"などと一括して勧めることは決してできないと言いたいのです。
 

自分のことで忙しいあなたには
そんな人に構ってあげる時間なんか無い

 
こうなると、殆ど、利己主義の勧めでしょう。
忠告や批判や議論を拒否するときの台詞です。
 
今日も言葉が暴走しているのがアドラー教です。
 
全否定(肯定)と部分否定(肯定)など、理路全般に、日本語による文書作成が未熟で、
こう書いたら、誤解されてしまうのではないか、という自省が、まるで働かない人がいるようです。
 
アドラー心理学は、語られ広められているほど、単純ではないような気がします。日常の言葉で書かれたところが、常識的に、おかしいから、そういう指摘をしても、ちゃんと読んでから言えみたいな、反論ではなく、貶めだけを書いてくる人たちのようです。
 
 
(2019年09月28日、同日一部修正)
 
 
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  共感性
 
 
私のような者でも
少しは共感する性質があると思っています。
最近、台風が窓を破るのではと恐れましたが
自分が恐れるだけでなく
他者の無事を祈ってもいました。
我がことのように祈ったかは疑問ですが
全然気にならないわけではない
くらいのことは言えるでしょう。
 
特に、リアルに知り合いでなくても、
ほんの一部でも似た境遇だったりすると、
察している、察しているつもり、察していたい、
という気持ちが湧いてくるものです。
 
共感は人間の性質ですが
神様も人間に共感する御方です。
さらにキリストの人間への共感性は鋭く深く
見抜いてかつ命を惜しまぬほどの共感と愛を表しました。
人間は、なかなか、そうはいきません。
 
知ったという発言だけなら誰にでもできるでしょう。
しかし神については、人には、思いこみが入ります。
入らないようにしましょう、ではなく
入るものだと言う自覚が必要です。
人は、ある時点においては思い込みの生きものです。
それを補うのは反省力です。
反省力も共感という土台の上に成り立ちます。
共感は信仰に近似してきます。
 
人は不完全です。
人の心は不完全です。
人の思考も不完全です。
人の言葉も不完全です。
人の信仰さえも不完全なのです。
 
このことを理解しておかないと
カルト的な決めつけの信仰?になってしまうでしょう。
 
決めつけないことには
人間の不完全つまり罪の性質への人間同士の共感があります。
それゆえに個別でありながら信仰の心を分かち合うことが
ある程度は可能になります。
 
福音書におけるキリストと救われた人々との交流は
物や肉体の奇跡とは比べものにならないくらい
福音書の最も大事なところです。
 
キリストは人を見抜き
人への惜しみない鋭敏な共感のために
特に悲しみを共にされます。
キリストが人生の同伴者と言われるゆえんです。
 
キリストに敵対する者たちは
殆ど共感性を持ちません。
ゆえに私たちも彼らに共感を覚えません。
そういったところ、つまり共感性の有無が
両方とも神を唱えているにもかかわらず
真の信仰と反信仰を分けるだろうと考えているわけです。
 
共感は高等感情ですが素直な心です。
優しい心でもあります。
 
しかし優しい言葉は使いまくるが共感性はゼロで
共感は必要ないとまで言っていた偽善者もいます。
根拠は聖霊と神の啓示でした。
議論の対象にならないと言っていたが
まともな議論をしたことなど元々皆無なのです。
この人がキリスト者なら、この世は闇です。
 
共感は、人間の場合
弱い人が弱さを自覚しているときに
おもに弱い人々の間で生まれます。
ふと思い出した聖句ですが
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間は、弱さを自覚しないとき
高ぶることが多く、共感することは難しくなります。
つまり、信仰者の共感は
自分の低さを知っている人間同士において生まれるものです。
また信仰に似ています。
 
共感は信仰を情緒的に成り立たせるものかもしれません。
また信仰の心を分かち合うときに必要なのかもしれません。
 
罪、低さ、弱さ、分かち合い、共感、信仰、
救われる人と救われない人を
人が区別するのは困難ではありますが
人を差別するためではなく
むしろ、自分が何を大切にして生きてゆくか
ということを考えるときヒントになるかもしれません。
少なくとも信仰の周辺事情ではないと思います。
 
このように、信仰については
教理的な言葉を駆使すれば語れるというものではなく
人間の日常の言葉の中に
信仰と切っても切り離せないものがある可能性を感じます。
 
信仰は人間のためにあります。
信仰は決して人間離れではありません。
すなわち
信仰はキリスト教の用語だけでは語れないところの
いわば懐の広さというような幅をもって
私たちを、そして、様々な境遇にある全ての人を
決して特別になれというのではなく
かといって一人一人が特別なのだというその境遇において
惹きつけ、招いているような気がします。
ゆえに特別な学習・学問・能力によって獲得・規定されるものではないのでしょう。
 
共感は、人間性に与えられた賜物です。
共感できる人は人間らしいのかもしれません。
欲望などと違って
信仰が動かす良心の表れであります。
 
良心については直観的に理解しているだけですが
良心の欠落をカルトに見ることが出来ます。
そこに欠けているものは、他に、
反省力、学習機能、訂正機能、成長などがあります。
 
これらは、カルトに欠けていることです。
そして、似ている機能を表しているこれらは、
みな、先ず、自分で心がけるべきことで、誰にとっても必要なことです。
 
神を信じて、教理を学んで、
自分が特別になったなどと思わないでください。
また
自分が特別だから選ばれたなどとも思わないでください。
 
言ってみれば、上に書いたように、みんな特別なのです。
しかも優劣はないということが、信仰のもたらす恵みの特徴です。
 
信仰は、悔い改め、即ち、折々の正直な祈りによって成長します。
キリストに癒され、神によって赦されることは、
悔い改めを通して起こるところの、魂の奇跡であります。
 
 
(2019年09月27日)
 
 
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  信仰とは人間とは
 
 
信仰とは、
超常の奇跡を信じることを本質とはしない。
物や肉体に起こる奇跡を信じたとしても
それで信仰が深くなり
ますます奇跡が起こるということはない。
何故なら物や肉体に起こる奇跡は
神の御心と計画によるのであり
人間が関わってよいことではない。
 
物や肉体に起こる奇跡は、
人間の理解を超えており、
つまり神に任されることであり、
人間には手に負えないし、
人間が奇跡が起こると信じ込んではいけない。
神のわざを、人が決めつけることはできない。
 
神と神の奇跡がついているなどと思いこんではいけない。
いつどこで神が力をどう示すか、それは神が決めることだ。
 
信仰は、人間のためにあり、
人間だけが信仰を持ち得ます。
つまり信仰とは、
人間が最も求め最も必要とすることに答えるための
神様からの恵みであります。
 
つまり信仰と人間は切り離すことはできない。
信仰と人間は片時も離れてはならず、
信仰は決して人間離れしてはいけない。
信仰と人間性、
信仰と人間の人間らしい性質、
信仰と人間の良心とは離れてはいけない。
 
神はご自身に似せて
自由意志を人に与えました。
神はご自身との決定的な区別として
人から自由意志のもたらす罪を犯す性質を除きませんでした。
しかし神は人に
罪の性質に支配されることのないように
良心を併せて与え
その良心は人が神のほうを向く心となり
それを信仰と呼ぶのであります。
 
信仰は心のあり方であり
贖罪とか契約とかいった人間の乾いた言葉で
表されるためにあるのではありません。
信仰は人間の言葉に尽くせない賜物です。
 
現実を見ると
信仰を謎解きのように考えて
事実と理屈ばかりを追う人もいるようです。
心のない信仰は信仰ではありません。
それはゲームかカルトのものです。
 
また救われることばかり
都合の良い恵みばかりを言っては讃美して
悦に入る熱心さもあるようですが、
節操のない信仰は信仰ではありません。
それは感傷かカルトのものです。
 
信仰には
明らかに守るべき節操があります。
神への恐れであり
言い換えると
神を決めつけないことです。
 
信仰には
受け取るべき器があります。
それは心のうちの先入観のないところであって
信仰生活の経験と感受と思索によって
成長してゆく信仰を入れる成長可能な器であります。
 
器は神が与えるものですが
器、器、土の器と
習慣的に言うだけになって
人として地上の努めを怠っていると
硬くて割れやすい器になってしまいます。
 
信仰を受け取る人の心は
神の御心と違って
不完全で不安定なものです。
これが人の罪性であり
だから人は罪を犯します。
 
その罪は悔い改めによって
新しくしていただくしかありません。
悔い改めは正直でなければいけません。
神と人は双方向ですから
正直さを欠いたら、不正直に対応した報いを
人が呼んでいることになります。
つまり背きとは
人のほうから神への正直さを忘れることです。
 
祈りにおいてだけは努めて正直であってください。
でないと、神と人の双方向が成り立たないからです。
 
嘘だと、飾りだと、分かったときには
その都度、改めて祈れば
神の寛容さとキリストの愛によって
改めて信仰の義を与えられるでしょう。
 
このように信仰は
かたくなではなく可逆的であります。
たとえ誤って罪を犯しても
正直であるなら
立ち返る道は祈りを通じて
いつも用意されているのです。
 
神のほうから救いの約束を反故にされることはありません。
それが絶えることのない希望としての信仰です。
 
 
(2019年09月26日、同日一部修正)
 
 
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