ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年09月

 
  神義論?
 
   『サピエンス全史(下)』の感想 つづき
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12528138068.html
   楽山日記 (a) 2019-09-21 19:23:49
   テーマ:ななめ読み
 
 
神義論とは、神の正しさについての議論というようなことでしょう。
神を信じていない楽山などには書いてほしくないし、全くの見当違いで、神を否定してくる楽山の幼稚な理屈に付き合う人がいないことを祈るばかりです。
 

『サピエンス全史(下)』をぱらぱら見直してたら、第12章の「善と悪の戦い」で神義論的な話題が出てた。善であり全知全能である神は、なぜこの世の悪や苦しみを無くさないのだろうというやつ。著者はこれに対してよくある回答例として「神はそうすることで人間に自由意志を持たせているのだ」というものを挙げつつ、それならば全知である神は、誰が悪を選び、地獄で永遠に罰せられることになるかを知っているだろうに、なぜわざわざそのような人を創造したのかという疑問をぶつけてる。多分この疑問にはそれなりの回答はあるのだろうけれども、この手のことが議論になるということは、少なくとも著書の言う通り「一神教信者が「悪の問題」を処理するのに苦労していることは否定できない」という点だけはまちがいなさそうではある。

 
悪の苦しみをなぜ神はなくさないのか、また、全知である神が、何故、悪を創造したのか、という疑問は、信仰の初期に、多くの人がいだく疑問ですが、信仰者にとっては、神の秘密として、人には分からないこととして、この地上では答えを出そうとせず、保留するのです。
 
何故なら、信仰者は、疑問をいだく以上に、神を必要とし、キリストを必要としているからこそ、信仰者であり、生きてゆく上で、神の、キリストの、癒しと救いと導きがないと、生きてゆけない経験を持っているからであります。
 
神の導きに与ることを拒否し続ける妬みの権化となった楽山のような者だけが、信じたこともないくせに、あたかも、真理を見つけた、信仰はこうだ、神がいるのはおかしい、などと言うためだけに、克服も保留もできなかった課題に、心で信仰を必要と認めることが出来ない自分の正当化のためだけに、要らぬ差し出口を挿んでくるのでしょう。
 

ちなみに自分がこの話に興味を持ったきっかけは、スティーヴン・キングの「デスぺレーション」を読んだことだった。これはキング作品なので当然のごとくホラーものなのだけど、大雑把なあらすじは、主人公の少年は、友人が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、宗教に興味を持ち、牧師のもとに通いはじめ、やがては多大な犠牲を払いながらも、永い眠りから目覚めて悪をなしはじめた邪悪な悪霊らを地下に封印し、世界を救うという使命を果たすというものだけども、この少年は作中で、神は僕に僕の役割を果たさせるために、友人をあんな目に遭わせた、神は友人を救うことができたのに、そうしなかった、友人があんな目に遭うのをゆるしたんだ、僕はそんな神をどうしてもゆるせないと悩んでいたのだった。

 
そうして、楽山のような、心で読み取ることのできない者は、興味本位だけで、本を読み漁りますが、心と人間性において読める本ではなく、超常話のホラーやヒーローものの心のない筋書きを読んで、いい気になり、神聖についての知識であるかのように、ひけらかすのです。楽山の、子供だましに引っかからにようにしてください。
 
神は神聖でありますから、人が、人の劣った知恵で読み解けることなどないのです。むしろ、神にとって、どういう者が、救いの導きから自ら漏れてゆくかということを、表すために、楽山のような者が存在するのかもしれません。それが、今言える真相であり、私たちは、神を知識として知るのではなく、神を仰ぐ人は、神に逆らう者を区別するために人間の知性と感性と信仰が与えられているとしか言えません。まことに、そのことに沿って、楽山は、アンチ信仰を言いまくるという成り行きになっているのです。
 

自分は不覚ながら、これを読んで初めて、もし神が全能であるなら、神はこの世の不幸の全てを止めることができるなずなのに、それをしない、これはつまり不幸の存在をゆるしているということになるのじゃないかと気付いたのだった。

 
信仰が興味に過ぎない段階で、欲望まみれの知性をもって、そういうことを気づく者は、稀ではないのです。私もそうでした。そのことに、大人になっても、中高年になっても、成熟しない者だけが、こだわり続けているという悲惨を、楽山は表しているに過ぎません。心で感じることのできない者は、そうなってしまうのです。そして、楽山のような者は、信仰者を嘲笑いながら、信仰者の信仰を、むしろ鍛える結果になってゆくのです。
 

もう一つこれと似たことは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」にもある。有名な大審問官の前段で、イワン・カラマーゾフは大体次のような主張をしている。歴史上、罪もなくいたいけな子供たちが不当な仕打ちを受け、虐待され、殺される事件は幾度も起きている、なぜ神はそんな子供たちを救わないのか、なぜ子供たちが苦しめられるがままにしておくのか、もし仮に偉大なる神の計画なるものがあって、その計画の成就のために子供たちの犠牲が必要であり、一切が済んだ後は犠牲になった子供たちも復活してみんなが幸福になるというすじがきがあったとしても、子供を犠牲にするようなそんな計画は認められない、神は存在しないというのでなく、そのようなことをする神は認めない、認めたくない云々と。

 
もろにキリスト信仰者を攻撃しているようです。本当に嫌な奴って、いるものですね。誰も、楽山など、何の当てにもしていないのに、文句だけ言って、分かるなら答えてみろと、自己満悦の境地から、なおも、心ない者としての役割を果たしているのです。
 
神の秘密、すなわち、神秘について、人は、決して答えを見つけることはできません。もし見つけることが出来るなら、その者は神秘を知る者となり、神の秘密ではなくなるからです。楽山のような者が、いかに、神を、自らの浅薄な知恵をもって、批判しても無駄なのです。必要だから信じるのです。必要ない者は黙っていなさい、ということです。まことに、楽山は、執拗で、小蝿か蚊のように、なんて煩わしいことでしょう。
 

これも言われてみれば確かにその通りではある。善であり、何でもできる全能の神であるなら、誰をも犠牲にしない計画を立てて、それを成就することもできるだろうに、なぜに子供が犠牲になるのをゆるすのか分からん。そんな計画をする神のいる天国に入るより、そんな神にノーと言い、天国への招待券は謹んでお返しすることこそが正しいことであり、これこそが真なる神の求めていることではないかとさえ思えてくる、もし真なる神が存在するとしたならば。

 
このように執拗に、自分の知恵だけで理解できないと、おかしいと文句を言ってきます。人間の知恵で理解できるなら、それは神ではありません。すなわち、楽山は、今まで、一度も神について語ったことはない、ということです。邪魔するだけの存在だから、ますます、宗教にも信仰にも縁がなく、ただ自尊の自惚れだけを後生大事に、神?として崇めているのです。真なる神が、心無い楽山に対して存在を示すことは、恐らく、ないでしょう・・。
 

ちなみにマクグラスの『キリスト教神学入門』ではイワンの無神論を「抗議する無神論」としてるし、同書によれば孫引き的になるけどユルゲン・モルトマンは「唯一の真剣な無神論」としていたそうだ。宗教信者のなかにはイワンの主張を理解せず、単なる無神論であり典型的な悪魔の論理であり間違いであると断定してバッサリ切り捨ててまったく心を動かされず関心も持たない人もあるようだけども、自分としてはそれよりかは「抗議する無神論」「唯一の真剣な無神論」と受け止める方がよほどまともなのではないかと感ずる。

 
無神論は、一定の役割を果たします。何故なら、多くの信仰者は、神がいるなら云々、神はいるのか、という疑問にぶつかるからです。そのとき、物を言うのは、神、私の場合はキリストですが、キリストを離れて、生きてゆくことが出来るかどうかなのです。その問題を、投げかけてくるのが、無神論かもしれませんが、既に、絶対孤独からの解放という信仰の恩恵を受けている、ゆえに、キリストを離れることはできない。
 
その疑問を克服し、限りない愛を示すために、御自ら、全く無力で孤独な殺され方をもって、命を捧げたゆえに、イエスは、私に共感と解放を与え、私の主となった。
 
楽山のような知恵の浅い者は、いつまでも、浅薄な自意識で、魔法使いのヒーローのような救世主を、きっとこうだ、きっとこんな神だ、来なければ信じない、答えよ、神、とでも、わめきながら、待っているがいいでしょう。さもなければ、神についての記事など書くのは、全くの身の程知らずで、人心を惑わす偽善でしかない。
 
楽山は、その引用する無神論ほどにも、何の役割も持っていません。ただ煩わしいだけの人です。楽山が、どんなに本を読み漁っても、楽山の幼稚な興味を卒業しない限り、神の恵みも導きも、楽山に訪れることはないのです。心が別の余計な自尊の執着で満たされ、心貧しくないからです。
 

…と、まあ、あれこれと書いては見たけれども、やはり一神教的な見地から、悪の存在を考えてみると、いろいろと難渋するということは言えそうではある。ついでに書くと、一神教では、悪の存在だけでなく、悪の発生についても説明するのに苦労しそうだ。善なる神が、善なるものとして創造した世界において悪が生れたというのは、どうも理屈に合わないし、矛盾してるだろうから。

 
まだ、言ってる・・。理屈って、人間の理屈だし、神のあり方など、知る者はいないのだから、知るのが当然であるかのように慢心している楽山は、なおも、信仰周辺を飛び回るのでしょう。信仰とは、神とは、と言いながら、信仰の世界を知ることもなく、的を外し続けるのです。
 

もっともぶっちゃけていえばこの手の議論は、著者が第20章で書いているように、「過去四〇億年近くにわたって、地球上の生物は一つ残らず、自然選択の影響下で進化してきた。知的な創造者によって設計されたものは一つとしてなかった」と言い切って、神も善も悪もそんなものはすべて人が後から考えたものであって、人に先立って存在したわけではないとしてしまえばそれで終了してしまうのだけども、生まれつき優柔不断で根が信心深く、かつ迷信深くもできている自分はそこまで単純には割り切れないのだから仕方がない。そういう自分はそういう自分の性質を承知した上で科学的客観的とされる現実解釈と折り合いをつけつつ、両者のズレをうまいこと調整しながら生きて行くよりほかはないんだろうな…。

 
またまた、楽山特有の、反省や謙譲に見せかけた嘘で結ぶようです。
「生まれつき優柔不断で根が信心深く、かつ迷信深くもできている自分」
「そこまで単純には割り切れない」
一生、割り切れないまま、知ったかぶりを続けるのでしょう。この言が、既に、いかなる説諭をもってしても、割り切れないのです。謙譲も反省も見せかけであること、優柔不断はボンヤリ言語の言い訳であること、迷信深さは既に妄想的な域に達していること、ゆえにシャロームと仲良くできること、など、明らかになったことだけで、楽山は、自分は単純ではなく思索を専らとする者だと自慢したいだけです。
 
人間の分際で、小蝿の力量で、嘘吐きの経歴で、的外れの執拗な継続で、蚊の羽音で、蝿の五月蠅さで、幼稚な理屈で、高校生のままの説得力の欠如で、卒業できない自分を正当化するためだけに、心をどこかに置き忘れたまま、本当の謙譲も敬虔も知らないまま、信仰に邪魔なだけの言説で、粘液のような執拗さで、屁理屈ををを繰り返して、解答にも納得につなげられない楽山を、間違っても誰も信頼することのないように、心から願っています。
 
 
  偽善を重ねる
 
   『おカルトお毒味定食』2019-09-22 09:34:48
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12528343750.html
   楽山日記より抜粋。
 
 
強姦の話から、いじめの話になり、焦点を逸らし、まるで、加害者の味方をして、最後に、同情をひき、共感があるかのように見せかけるために、ごまかしの言葉で結んでくる、偽善者であり、カルト宣伝者の楽山の筆致です。
 

たとえば、いじめ加害者の言い訳としては、「自分は冗談のつもりだった。自分がツッコミを入れると、あいつは笑ってた。自分のツッコミを面白がってくれてると思ってた。嫌がってるなんて思わなかった」云々というものがあると思うのだが、これはいじめはひどいことで誰もが拒否反応を示すものだという見方に固定化されているがゆえの言い訳かもしれぬ。

 
ここは、強姦という犯罪についての文章から続いているものです。楽山らしく微妙な書き方ですが、
「いじめはひどいことで誰もが拒否反応を示すものだという見方に固定化されている」
楽山は、そう思わないのでしょうか。学校などで、大きな問題となっている「いじめ」を拒否することを、固定化された見方と書いています。
 
いじめは、ひどくなれば、大人の殺傷事件にも結び付きかねない犯罪です。いじめで、亡くなった子供もいたのではないでしょうか。大問題であり、大事件なのです。
 
荒らしの易坊の筆致にも似ています。易坊は、他者のブログに乗り込んで、無意味な問い詰めや、攻撃目的だけの雑言で、50~100コメ超の遣り取りを強いる者です。私も被害者の一人です。成りすましを疑っています。もし、そうなら、良心も良識も欠けていて、いじめを楽しむ人格異常です。
 

実際は嫌なことをされたときに、怒って反撃に出る人、無抵抗でただ嫌な顔をしたり、泣いたりする人、それから内面の感情は表に出さず、顔で笑って心で泣く人など、人それぞれであり、いろいろな反応がありえるのだけども、いじめはひどいことで誰もが何らかの抵抗を示すものだと決めつけていると、

 
いじめに対する反応は人それぞれだと言っています。そして、「いじめはひどいことで誰もが何らかの抵抗を示す」ことを「決めつけ」だと言っています。いじめに対する反応が人それぞれであるなら、いじめがひどくなく、何らかの抵抗を示さない場合もある、とでも言いたいのでしょうか。抵抗を示さない場合とは、抵抗する意志がないことでしょうか。
 
抵抗を示さない、ということから、抵抗できない状況とかを、楽山は考えないのでしょうか。
 
そして、これだけのことを書いておきながら、
 

周囲に分かるような抵抗を示さない限りはそこにいじめは存在しないとみなされ、被害者側の内面の苦しみ悲しみは放置されがちになるのではないかと。

 
楽山は、被害者の味方みたいなことを書いているのです。理路が成り立っていません。こういう詭弁が、ああでもない、こうでもない、ボンヤリ言語で、どちらとも決められないような、ごまかし方をする楽山の筆致なのです。
 
まるで、いじめそのものより、被害者が抵抗を示さないのが問題であるかのような、内面、という、直接は見えず、推測するしかないことを、放置している誰かが悪いかのような書き方です。悪質な詭弁として、いじめる側の、ごまかしの言い方に、偏っているような気もします。加害者の経験でもあるのだろうか、と思ってしまう楽山の、理路の欠陥です。
 

議論でもこれと似たところはある。異論があるなら反論するはずだと決めつけていると、反論しない理由は異論がないということだけでなく、議論をする時間が取れない、議論に意義が見いだせない、いちいち答えるまでもないほどに分かり切ったことだ等々、さまざまな理由があり得るにもかかわらず、異論がなく同意したとみなされてしまい、その結論はどうあっても動かせなくなるとか。

 
楽山は、いつも、自分を客観的で中立な批評をする側の立場を装って書いてきます。しかしながら、コメントの遣り取りや、記事において、その立場は、大きく偏っていて、カルトの肩を持ち、無条件に詭弁に白々しい賛同を示し、自らも加担して、批判者をおとしめることだけを書いて、何の弁明にもなっていない、という経過があるのです。
 
そして、ブログがヤフーから変わっても、性懲りもなく、このように、分かっているふうの、逆説を楽しんでいるかのような記事を書いてくるわけです。今までの問題は、何も解決していません。この楽山を、どうか信用しないでください。
 

どうやらこうしてみると陳腐でありふれた結論だけども、やはり何事も決めつけはよくないということにならざるを得ないようだ。

 
決めつけだけで、片方の、どう考えても、罪を認めないで悔い改めをしないシャロームshalomという偽善者の肩を持ち、それで結論が出たかのようなことを書くだけで、あとは、おとしめの雑言だけを並べてきたのが、楽山です。彼の常套手段ですが、またしても、自分が言われそうなことを、他者のことのように書いてきます。
 
そして、気に入らないことは無視する、というアドラー教の教えを実行して、立ち直るのではなく、不感不応のまま、このような記事をサディスティックに楽しむように書いてくるのです。荒らしの易坊に、よく似ています。易坊は、自らを知的に見せかける罠のような言葉で、人を操って楽しんでいたのです。このようなやり方を、これ以上、通用させてはいけないのです。
 
例えば、罪を認めず悔い改めないシャロームが、悔い改めは神が与える、と言って、自己正当化をしてきたことを、全肯定して、すっきり決着がついたようなことを、ずっと後になって、平然と書いてきたのも、楽山です。
 
悔い改めていないことは、神がシャロームに何も与えていないということなのです。つまり、シャロームは、キリスト者ではなく、反キリスト者だから、神に対しても、詭弁を向けることが出来ると言うことを、シャロームの詭弁は表しているに過ぎません。
 
その詭弁の味方をするアドラー教宣伝者の楽山には、理路はなく、詭弁があり、誠意がなく、恣意があり、良心がなく、慢心があり、信心はなく、悪意があるだけだと思っています。
 
楽山、シャロームshalom、易坊、他にもありますが、一人による成りすましを疑っています。単独で見てきても、要旨がハッキリせず、理路がおかしい文章で、ただ書き方のうわべだけが丁寧なだけの記事やコメントを書いて、優しい人柄をアピールしてきたのが、楽山です。
 

物事をざっくりと単純化して自分に有利な方向にもっていきたい人や、相手の気持ちを察したり空気を読んだりすることが不得手な人、相手より優位な立場にありそれを当然としてその立場に胡坐をかき下位の存在に対して同情を感じない人などからしたら、こういう決めつけほど使い勝手がよく便利で楽ちんな判断はなかろうけれども、それをされる側からしたらたまったもんじゃないから困る。

 
自分に有利な方向に持ってゆく、相手の気持ちを人間として察することが出来ない、これらは、楽山こそが、あらわにしてきたことです。一方的で、訂正不能です。今回の記事も、そうです。
 
上にも書いたように、楽山は、いつも、相手より優位な立場に自分を置いて胡座をかき、同情も共感もなく、悪の興味だけで詭弁などの策を弄し、人間らしい心の温もりも潤いもなく、上から詭弁と嘘を並べて、一方的に、おとしめる、ということを、平然と、してきた人です。楽山が書いているところの、それをされてたまったもんじゃないという人には、楽山は決して含まれません。
 

この辺については自分も鈍感なところも無きにしも非ずなので、気をつけたいものである。

 
このように、被害者寄りをアピールしたり、見せかけだけの謙譲を書いてくるのが、根腐れの、陰険な、策略であることを覚えてほしいと思います。正直さ、誠実、柔和、いずれも、装いだけで、実質は真逆の楽山です。恐らく、人間としての、共感性、羞恥心、罪悪感、反省力などが、欠けているのだろうと思います。
 
楽山のような、心を追わず、思いやれない人が、事実と理屈だけを追いかけて、思い付きで言っても、何の弁明にも主張にもなりません。
 
人間ならば・・という直観的、直感的、かつ、情緒的文脈を持たない者の筆致は、いつも浅く、はかりごとの空しさに満ちています。
 
批判精神抜きで、あるいは、うっかり、楽山に関わって、聞こえのいい言葉の装いに騙されて、真に受けると、引き込まれ、同じような人間性の破壊が待っているでしょう。実際には、こちらが真面目に言えば言うほど、疲労だけが積み重なってゆきます。楽山や、シャロームや、易坊は、そういうやり方だけを学習してきたのような人です。まともな批評など出来るような人物ではないと思う。
 
 
(2019年09月25日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  信仰者の立場から
 
 

私は、もう長いこと、教会には行っていない。
教会を否定しているわけではないが、向かないと思ったことはある。
「誤解」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12445725961.html
 
 
今まで書いてきたことを、キリスト信仰の立場から考えてみようと思ったが、
思い出話になったかもしれない。
 
教会で説教を聞いて、心がふるえるほど感動することは、恐らくないだろう。
魂の救いを求めているけれど、それこそ、短兵急に得られると思うのは間違いだろう。
 
私が洗礼を受けるに至った経緯は、牧師の説教に感動したからではない。
聖書に興味を持ち、説教にも、興味くらいは湧いたと思うが。
讃美歌も、かなり影響を受けた。孤独な魂の救いと感じることがあった。
 
牧師は、毎週、説教を考えないといけない職業である。
多くを、ましてや、総てを手短に求めるほうが無理というものだ。
 
 
聖書に忠実な説教や記事というのは、神とキリストを中心に書いてあることが多く、その中で、その時の神の意志と行為が書かれているが、神の意志と行為である、つまり、奇跡を起こしても不思議のない御方のなされようである。ときに残酷と感じるし、大方手に負えない。
 
キリストについては、教理が中心となることが多い。処女懐妊、数々の奇跡、十字架の贖い、肉体を含めた復活、超常現象としか言いようがないもので、それを否定することはできないが、超常ではない今の自分にとって、物や肉体の奇跡は、やはり、手に負えない。
 
物や肉体の奇跡が手に負えないという意味は、否定はしないが、驚きはしても、今生きていて、滅多に起こらないわけだし、生きる支えとして当てにするには、現実離れしすぎているという意味である。キリストと人間の心の交流の記事に比べると、超常の奇跡は、孤独からの解放にもなりそうにないということは、今までも書いてきたことである。
 
その奇跡だけで、驚いて、ありがたくて、涙が出るようなことは、私にはない。素適な説教でしたとありがたがる人は、ありがたがらなければならないという強迫観念があるのではないかとさえ思っている。
 
私の記事においては、キリストと、救われた人々の間の遣り取り、キリストの言葉、などを中心に書いてきたつもりで、祈りにおいて神に対しては立派な祈りや讃美を・・ではなく、神の前に正直でしかありえなかった人が、犯したであろう罪によらず、救われていることを書いてきた。そして、キリスト者の善行は、信仰の結果に過ぎないとも書いた。高が知れている人の善行に救いの鍵はないと思っている。
 
聖書、特に、福音書を読む場合、どういう人が救われ、どういう人が批判されたかが、特に重要だと思っている。ここには、信仰生活の努力の方向のようなものが暗示されていると思うからだ。
 
 
私は、長いものでは8年間、批判記事を書き続けている。キリスト者の立場から批判をする、という人は、あまりいないようである。悪い言葉を使ってはいけない、という教えの誤解か曲解によるところの、批判=悪口、という先入観があるような気がしてならない。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
キリスト者だと偽って、さらに、元牧師だとさえも言いながら、罪を認めず悔い改めもしない、という、とんでもない者がいるのに、さらに、キリスト教系、また、キリスト教内部から、カルトが出てきているのに、悪い言葉を使ってなならないという聖句は、批判しないことを正当化するための言い訳に感じる。
 
批判をしたくないのなら、聖句を利用して正当化するならば偽善になってしまうのだから、正直に率直に、そういう気にならないとか、苦手だと言えば済むことなのです。
 
偽善者は、批判をしない代わりに、批判に対しては、嫌らしい当てつけや皮肉や決めつけなどの悪口を返してくる。詭弁も常套手段で、実際は、反論も弁明もできないからだろうと思っている。
 
それに関連しているような気もするのだが、敬虔というのを、腰が低く、口数少なく、控えめで、丁寧で、優しいことと理解して、実行というか真似をしている人が多いような気がします。私に言わせれば、敬虔は、神を恐れることから表れることであって、弱い自分を隠さないことであり、身振りや口数とは関係ないと思う。
 
「恐れる」を「畏れる」と書いて、神は恐怖ではなく畏敬だという考え方には反対です。言葉とイメージの辻褄合わせだと思います。雷や嵐とともに顕れ、背く者たちを滅ぼしたりする旧約の神のイメージは、恐怖以外の何ものでもない。恐怖と同じくらい、仮に、人は神に直接出会ったら、おののくしかないと思っている。神について、私には、優しい父のイメージはない。
 
神に祈れるのは、キリスト・イエスがおられるからであることは言うまでもないです。
 
神は全知全能の創造主と、キリストは救い主と、信じるしかありません。
 
もしおられるなら、全知全能こそは何よりも怖いのである。総て既に知っておられる、というのは近づきがたい存在である。もしおられるなら、と書きました。存在の証明も出来ず、会ったこともないということです。また、信仰は、絶えることのない希望であり、神はいる!と信じ込んで言い張ることではない、という立場です。
 
神について、分かっている、知っている、見えている、に対しては、私は、とても不機嫌になります。前に、私たちは完全になれるのですと言ったキリスト教系カルトを、もはや人間とさえ思えなくなっているような気がします。
 
 
幸福になるにはどうしたら、ということが、ネットでも、あちこちでブログの話題やテーマになっているようです。その一つで、私はアドラー教と呼んでいるが、アドラー心理学というのを批判しています。人間の不完全な言葉らしく、ときに極端に断定し豪語し、ときに言い訳めいたことを、また、疑問に対して否定だけで語っているようで、両極端だと思っている。
 
人間が完全を目指すとき、それが、安らぎであれ、成功であれ、人間の言葉の不完全さが、もろに表れてくるような気がします。
 
気に入らないことは無視しましょうと言いながら、試行錯誤を必然として進めたり、完全を実現できるような高ぶった調子でありながら、できないときはできないと言い、それを補うかのように、ダメなら他のことに没頭すれば結果は出る、というような安請け合いの慰めを言う、こういうのは、とりつくろうしかないカルトの詭弁的な特徴だということです。
 
聖書には、完全を目指したら、バベルの塔のことがあり、思い上がり浮かれてしまえば、ソドムとゴモラの滅亡やノアの洪水があり、キリスト信仰においては、何よりも、神の前で、パリサイ人のように自慢したり戒律の形式だけになったりすればキリストを殺すことになって最大の悪役となるのは、聖書を読めば、必然なのでしょう。
 
神秘を説くのではなく、神秘、特に奇跡を、そのまま信じこむのではなく、私たちは、どのような人が救われ、どのような人がキリストの敵となったかを聖書から考えるべきです。
 
嘘ばかり吐いて、それでも神は自分をどんでん返しの奇跡で守り救うと言い張っている者もいますが、失言と嘘だけが目立つようになり、どんどん壊れてゆくようで、いくら彼が、神は救うと豪語しても、キリストの名前に巣食っているだけの反キリストだと判断しています。神はいつも優しく微笑んでいるばかりではないことくらい聖書を読めばわかるはずなのです。
 
恐らく、彼は、聖書も、ろくに読んでいない偽善者だと思う。裁きは、最終的に、神がなさることですが、人間は、信仰の節操を弁えていないと、自ら信仰の道から遠ざかり、偽善者となり、自らを破壊してゆくということもあるようです。彼は、キリスト者と称しながら、人の話を殆ど受け取っていません。すでに通用しない自説を、また繰り返してくる始末です。
 
ですから、何度も書いてきたことですが、信仰の節操としては、
神の前では、つまり一人で祈るときには、努めて、故意に嘘は吐かないでください。人に対して隠したり飾ったりしても、神の前では通用しません。神は全知の御方であり、既に見抜いておられるからです。そして、正直な祈りを捧げることに精いっぱい努めることだけが、救いに与る必要十分条件だと思っています。
 
悔い改めということについては、罪を犯さなくなることだとしたら、果たして罪を犯さなくなるだろうかと考えると、無理があるような気がします。神に正直に祈ることこそが、言い換えると神に祈り正直さに立ち返ることであり、世俗のほうから神のほうへ向きを変えた、つまり、悔い改めだろうと思っています。
 
ただし、嘘を吐いたら、あるいは、言うべきことを言わなかったら、気づいたときに、また祈ればいいのです。それが、キリスト者の負うべき、キリストのくびきの負いやすさであり、キリストの荷の、言い換えると、負荷の軽さであり、また、神の限りない寛容であります。(ちなみに、殉教まで、神が信仰者に求めておられるかどうか、私には分かりません)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-29、新約聖書)
 
ここに書いたことは、キリスト者のつもりでいる私という個人の見解に過ぎません。そして、私は、もっと心に響く信仰の考え方や感じ方があれば、見解を修正する用意があると思っています。これは、とても大事なことで、修正不能になった信仰は、新しいことが受け入れられなくなり、成長しなくなり、言葉に、行ないに、儀式に、しがみついて、人の技か習慣に過ぎなくなり、キリスト信仰の真実の深みを失ってしまうからです。
 
ゆえに、自分について、違和感を感じたり、おかしいと思ったときには、正直に祈ることが大切です。祈ること自体が発散になり、反省になり、癒しの効果を持つかもしれません。
 
神は、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、どこまでも寛容であり、キリストは、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、命を惜しまぬほどに共感し、限りないアガペーの愛を用意して、同伴されるでしょう。信仰の節操は、負いやすく軽いのです。そして、私たちの信仰の情熱は、ときに、エロスの愛のように一途でさえあり得るのです。
 
 
(2019年09月24日、同日一部修正)
 
23日、日記:風でうつむいたBSアンテナ
台風の風が強かった昨日からBSが全く映らなくなった。見なきゃ見なくても・・とか思っていたが、やっぱりスポーツとか脳ベルショウとかクリミナルマインドとか、見たい、ということで、ベランダに出てみると、手すりに付けてあるBSアンテナが、やや下向きになっていた。地上から見て下のほうに放送衛星はない。これくらいかと、上向きに、わりと、ぞんざいに、力任せにズルーっと向きを変えてみて、二度やって、元通り映るようになりました。電気屋さんが、割としっかり取り付けたものだったが、風だけで?曲がる?ズレる?、すごい力だな・・と思う。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  短兵急な豪語
 
   アドラー心理学サロン(アドサロ)‏ @AdlerSalon · 11時間11時間前 
   https://twitter.com/AdlerSalon?cn=ZmxleGlibGVfcmVjcw%3D%3D&refsrc=email
 
 
アドラー教の説教は、
詳しく言えば、話が込み入ってきて、面倒になり、全体の把握がしにくくなり、
短く豪語しようとすれば、短兵急になって、まとまらなくなるようです。
 
私がアドラー教と呼んでいる教えは、課題の分離と言っても、大事なところが、疎かになりやすく、元々実践的には、まとめることが難しいだろうと思います。
 

他人のモノを欲しがる人は、永遠に欠乏感に苦しむ。
他人の持っている高級品、多くの友人、輝かしい経歴など、外から見るとキラキラしてます。
ただ、他人の芝生は青く見えますが、近くにいけば遠くから見えないゴミや雑草があって意外と汚いもの。
自分の価値基準を、他人任せにしてはいけません。

 
アドラー教が言わなくても、人間としての思慮があれば、当たり前のことです。
ただ、他人任せにしないことと、他人を無視することとは違います。
 

嫌われたことは、悲しみではなく喜びの始まりかもしれません。
嫌われたということは、あなたは誰かに媚びを売ることを止めたということ。
それはつまり、どう思われるかよりも、自分がどうありたいのかを優先できたということ。
他人に合わせた人生よりも、自分の人生を生きた方が幸せになれます。

 
嫌われないということは、誰かに媚びを売ることでしょうか。
アドラー教は、極端な言い方をして、何か特別のことを言ったつもりになるようです。
 
自分がどうありたいのかを優先するのも当たり前のことですが、
自分がどうありたいのかを考えるときに、完全に他者の存在を除外できるでしょうか。人間は、関わりの中で、互いに影響を受けながら、生きているのです。
この当たり前のほうが抜けています。
 
他人の影響を受けることは、あるいは、他人の人生を知って参考にすることは、他人に合わせた生き方でしょうか、違うと思います。
 

「今」というこの瞬間は、もう2度と来ません。
あなたの人生は、あなたの生きられる残りの時間そのものです。
限りある自分の資源を、嫌いな人や嫌なことを考えて浪費してはいけません。
自分の好きな人、好きなことを考えて、自分の人生を幸せに変えよう。
意識次第で、あなたは幸せになれます。

 
時間が限られていることを言って、焦燥感を煽って、文句を言う時間と気持ちをなくしてゆくのは、カルトが、よくやることです。
 
時間は限りあるのだから、嫌な人や嫌なことを考えるな、という教えのようですが、好きな人だけでなく、まだよく知らない人のことを考えるのは、普通にするべきことなのです。
 
また、嫌な人が、付き合っていると、好きな人に変わることもあります。
 
嫌だと思ったら、一生、関わらないでいなさいという教えでしょうか。
何ごとにつけ、アドラー教は、見切りが性急で、不可逆になりやすいようです。
 
限りある人生だから、自分大事だけになって、他人を大事にするという生き方を捨てるのでしょうか。アドラー教は、短兵急に事を決めつけてしまいがちだと思います。
 
限りある人生だから、自分が大事なら、もっと思慮深くあって、もっと深い情緒をもって、生きるべきではないでしょうか。このことは、省略も短絡もしてはいけないことだと思います。
 

自信が無くてもいい。
ただ「やりたい!」と思ったことは妥協してはいけません。
できる時はできるし、できない時はできないのです。
自信があろうと無かろうと、完璧なタイミングなんてありません。
取り敢えずやってみて、ダメなら他のやりたいことにひたすら没頭すれば、自ずと結果は出るもの。

 
妥協してはいけないと言いながら、できないときは出来ないと言って、さらに完璧なタイミングはないとも言って、挑むことが大事なのか、諦めることが大事なのか、よく分からない言い方をしています。
 
急いで答えるために、八方美人になると、両極端で、急いでまとめようとして、総てを言おうとして、一貫性を欠いてゆくのです。
 
教える側は、聞く側以上に、妥協してはいけないはずですが、そこはアドラー教の課題の分離で、教えるのも、教える側の気持ちの良さの範囲内になってしまうのでしょうか。
 
ダメなら・・結果は出る、という5行目は、安請け合いもいいとこでしょう。
 

あなたが何を思い、何を欲しがって、何をしたいのかは他人が決めることではない。
あなたのことは、あなたの課題であって、他人が決める課題ではありません。
他人が何を言ってこようが、何をしてこようが関係無い。
物理的に制限を受けることはあっても、あなたの思考だけは自分以外は犯せません。

 
1~2行目は、当たり前ですが、3行目からの、他人が何を言ってこようが関係ない、と決めつけるのでしょうか、他者のアドバイスを聞かないのでしょうか。ブログ主は、人間嫌いなのでしょうか。
 
時間を含めて物理的な制限は、誰でも、どのような考え方でも、あるわけです。
自分以外の思考で決めるのではなく、常識的に、他者の意見を参考に、決めてゆくものなのです。
 
人の言うことを聞いてはダメだ、というのは、カルトが、理不尽な教えを呑みこませるために、信者を焦らせて、考えさせないやり方として、よく使うところの、情報の遮断に似ています。
 
時間が限られていると言っても、その時間の中で、じっくり考えることが大切です。
自分の判断に、他者の意見や生き方を参考にしないならば、一生を決める決断において、不十分な自分の材料だけで決めて、しかも、訂正不能の思いこみに固まって、柔軟さを失い融通の利かない人間になってゆく恐れがあります。
 
アドラー教が強く言うときは、言った人の、スパッと言わなくては、という気持ちによって、片落ちになりやすく、功を焦る心のほうが目立ってくるようです。熟慮の上で言っているかどうか怪しいところが、稀ならず、あると思うので、警戒してください。
 
 
アドラー教の人は、仲間の言うことは、大方、もろに賛同しますが、批判者の言うことは、殆ど、聞いていないか、忘れているようで、前に、別のことで、めいっぱい批判しても、しばらくして、こちらの言うことなど、まるで、聞いてないということは、また同じような言い方をしてきて、それで結論が出ているような言い方をして決めつけることから分かります。
 
こちらが一生懸命に書いても、こちらの言い分を忘れているのです。これが、気に入らないことは無視しましょう、という教えの一つの結果だから、批判なしで、受け容れてはいけません。そのように、忘れてしまう人とは、話し合いが成立しないので、付き合わないほうがいいのです。
 
アドラー教が、アドラー心理学という学問だと主張しても、宗教に学問の名を使って、安心感を持たせる作戦のようにも感じます。もし組織があれば、その辺も徹底できるわけです。
 
不都合を平気で忘れてしまって、それが正当だと思い込んで、楽ですよ、と平気で主張する人になりたい人がいるのでしょうか、多いのでしょうか。嘆かわしいことです。それこそ、他者である仲間の基準に、独立した人間として考えないまま、そのまま信じている人の姿ではないかと思います。
 
課題の分離については、自分が考え判断をするべき課題に他者が関わっていることが否めないのですから、自分の課題だとしても、判断材料として、他者の言動を無視してはいけないはずです。
 
他者の精神や思想の支配を受けないことは大事ですが、無視するということとは別なのです。無視して、参考にも、思考の糧(かて)にもしないならば、いちばん、その欠けた思考の欠点の報いを受けるのは、自分自身なのであります。
 
自分が傷つかないように、自分が楽なように、その原因を排除してゆくと、結局は、自己中心にしかならないのです。ひどくなる必然として、感情鈍麻の不感不応に陥るでしょう。また、理路と感性の学習が、不感の習性によって損なわれるので、まともな思考からも情緒からも外れてゆきます。
 
深い考察が出来なくなり、まともに見せかけるための世辞しか言えないようになるかもしれません。そして、負債として、他者に対する蔑視と怨念だけが、潜在的~顕在的に増えてゆくでしょう。自己中心に生きることで、人生の問題が解決することはありません。
 
誰も避けることの出来ない、傷つくことや、不都合によって、くよくよと、いつまでも考え込んでいたり、心身の健康を損なう、ということを避けるためには、無視の気楽さや浅さではなく、むしろ、人間についての深い考察と洞察が必要です。
 
人間は、限られた時空を生きて、限られた見識と言動で、様々な問題を克服し成長しながら生きてゆくことが宿命づけられた存在です。人間は、学習し成長することで、改善することは大いにありますが、けっして完全にはなれません。
 
だから、必要なのは、スカッと解決することではなく、また無視ではなく、時々の癒しです。かなりの部分は、時が解決するということもあるでしょう。
 
それが嫌で嫌でたまらない者が、すかっと短兵急な解決法を求めて、一部うまくいったら、大発見のように宣伝するのです。
 
個人の知恵だけでは乗り越えられない場合もあるでしょうから、書物、相談、場合によってはメンタルクリニックが必要になる場合もあるでしょうけれど、不都合なことを含めて、誰にでも、じっくり情緒的にも理性的にも、乗り越えるために出来ることは、その人なりの、学習と成長です。それを阻害するような生き方を選ばないでほしいと思います。
 
時と場合を個別に考えずに、人間の言葉で、こうすればよい、というような近道はないと思います。何かを、一気に、思考や情緒から排除することで、何かスーパーな生き方が、簡単に見つかるかのような宣伝には乗らないでほしいと思います。
 
人間が、思い煩いから解放されるときには、何らかの経緯によって、共感と共有が生まれます。自分だけではないことに気づいたり、他者の気持ちが分かるように感じるときです。そこには、人間存在に対するシンパシー(共感、同情)があり、絶対孤独からの解放があると思います。
 
孤立は心の傷や病を深めます。総て明るくなって全部うまくゆく生き方ではなく、何とか生きていますと言える生き方を目指してほしいと思います。
 
事情はさまざまですが、悩んでいるのが自分だけではないことを知ってください。
余裕があるように見せていても、良心があれば、悩みは尽きません。
 
人間は、誰でも、長く生きておれば、多かれ少なかれ、傷だらけなのです。
 
 
※ 22日(日)午後11時現在。台風。
 こちら長崎県諫早市ですが、今、あっけないほど静かです。先ほどまで、ひょっとしたら窓ガラスが割れて、風とベランダなどの物が一気に部屋に飛び込んでくるのではないかと恐れていました。
 日が落ちる頃から、風音が強く、部屋の中にいて、風を受けてはいないが、部屋の中にいても、風の音と圧力を感じました。外の風圧がガラスを押し内側のカーテンを揺らしていました。ベランダの物音が激しく、部屋の中なのか外なのか、ギギギギ、トントントン、ガタガタッ・・などと、大小の変な音がして、そのうちに、停電、すぐ回復、また停電、しばらくして回復という具合で、いきなり真っ暗になるのを、久しぶりに体験しました。PCオンのままだったので、クラッシュしたかと心配しましたが、今のところ、正常に動作しているようです。被害は、今のところ、特に、ないようです。
 天気図では、まだ暴風圏の赤い円の中にいるようだけど・・。
 皆さまのご無事をお祈りいたします。拝。
 
 
(2019年09月23日アップ)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  人のせいに?
 
   アドラー心理学ブログ批判
   人のせいにした時点で、あなたの負けです❗️
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/09/14/085624
    2019-09-14  
   人のせいにした時点で、あなたの負けです❗️
   アドラー心理学サロンです。
 
 
やはり、勝つために宣伝してきたようです。幸福になるということは、勝つことでしょうか、ということは、相手を負かすことでしょうか、人を出し抜くことでしょうか。勝者として、敗者を下に置きたいのでしょうか。だとすれば、社会正義とは違う、というか、対立するのでしょうね。
 

あなたもこれまでの人生で、何らかの局面に「言い訳」をしたご経験はあるのではないでしょうか?
もちろん、正当な理由であるのであれば「言い訳」ではありませんが、それはやれることをやり切った上での話であり、判断をするのは他人の課題です。

 
とてもあいまいな部分に気がついたでしょうか。
正当な理由、これが、そのとき分かるでしょうか。ブログ主は、読者を有能という前提で語っているのでしょうか。
また、やれることをやり切った、ということが、いつでも、誰でも分かるのでしょうか。
肝心なところで、教えが、責任逃れのように、曖昧になっていることに気づいてください。
 

自分以外に自分が起こした行動の責任を取らせるような思考は、あなたの人生を破滅に導きます。
「人のせいにする癖」は、他人に責任を求めて自分を守る方法として、多くの人達が活用してしまう本能的な技術です。
しかし、「人のせいにする癖」は、決してあなたを正当化してはくれませんし、自分を守れてはいません。

 
人のせいにした時点、と言いながら、ここでは、人のせいにする癖、という言い方になっています。
ここで、あるときの言動と、いつもの言動が、混同されています。
 
それと、人のせいにしても正当化できないし自分を守れていない、ということは、それは私の問題ではない、と思って、無視して、気持ちが楽になったような気がしても、いつも、ついてくることなのです。
 
気に入らないことや他者を無視して、無かったことにして、正当化できるものはありません。即ち、楽になるのは、自己中の一時的な気分に過ぎません。無視は、負債となるでしょう。無力の自覚ゆえの保留とは、全然、違うのです。
 

もちろん、あなたの中では「自分は悪くない」と思い込むことができて、自分を否定せずに済むので安心感が得られることでしょう。
ただ、それは本質的に問題解決になっているのでしょうか?
むしろ、人のせいにしたことによって、自分で自分の首を締めているだけの行為ではありませんか?

 
安心感が得られることを、アドラー教は、宣伝してきました。しかし、ここでは、問題解決と思うことが、問題となっています。つまり、アドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、という教えは、何も解決していないということでしょう。
 
その上で、人のせいにすることを戒めています。いったい、どれを指して、ブログ主は、自分で自分の首を絞めていると言いたのでしょうか。アドラー教の宣伝をやめたほうがいいのではないでしょうか。自分の首を絞めているのはブログ主ではないでしょうか。
 

あなたが自分で望むと望まざるとにかかわらず、行動した結果を何でもかんでも他人のせいにしてしまっているということは、あなたは自分で自分の人生を他人に委ねていることになります。
人のせいにして言い訳をするということは、自分では決して変えることのできない他人によって不幸にされてしまうことを良しとしているのです。

 
アドラー教の影響を受けた者で、最も悪質な者たちは、何でもかんでも、すまして、平気で、他人のせいにしてきます。他人との関わりに依存しているということです。
 
言うならば、他人を変えることが出来るのが当たり前という先入観を取り除くことが重要なのです。
 
自分では他人を変えることはできないと断定していますが、断定していいものでしょうか。ときには、自分がきっかけとなって他人が変わるということはありうるからです。
 
自分が変えたのではないが、自分が影響を与えることは、常にあると思っていたほうがよいのです。知らないうちに、とんでもない敵に囲まれている可能性が、嫌われる勇気を推奨しているアドラー教にはあります。そのときが一種の破局点になるでしょう。
 

どんなに大変な状況でも、どう考えても自分の責任ではなくて他人の責任であっても、あなたにできることは自分のできることを最大限に努力することでしかありません。
人のせいにした時点で「自分の努力」を放棄して、他人任せにしたことになります。

 
他人のせいにするということは、決めつけであり、批判とは全く違う判断です。批判は、他人のせいにして保身することではなく、どう考えても特定の他人が、まともでないときに、どこがどういうふうにおかしいのかを指摘することです。
 
ブログ主は、ここで、批判をするなと言っているのでしょうか。アドラー教の宣伝をしてきた者も、執拗に、同じことを繰り返して、相手をおとしめるために、閉鎖した理路を堂々巡りしていました。
 
人のせいにすることは責任放棄だというのは当たり前のことなのです。責任放棄は、信頼されないということです。失敗したら、原因と結果を明らかにする務めがあり、責任を負うということは、自分の都合で他者を無視していたのでは、決して出来ないことなのです。
 

つまり、人のせいにするということは「言い訳」を口にするかしないかというよりも、あなたの心の中で「自分は悪くない、あいつのせいなんだ!」と思った時点で成立するのです。
他人が何であれ、周りの環境がどれだけ悪かろうと、他人が自分の都合に合わせて変わってくれることはありません。

 
自分は悪くないと人のせいにすることを戒めているようですが、自分の悪には、自分の気に入らないことが必ず含まれています。それを無視するな、と言っているようなものです。これは、気に入らないことは無視しましょう、という教えと矛盾しています。アドラー教は矛盾しています。
 
私は、無視することは間違っているという主張ですが、ブログ主は、気に入らないことは無視しましょう、と言いながら、自分の都合の悪いこともある、ということを、今は、受け入れさせようとしています。とても、いい加減な説教によって、とても、いい加減な、その場しのぎのような言い逃れと言ってよいでしょう。
 

もちろん、「~してくれない?」などとお願いすることは大切ですが、実際にどうするのかは本人次第です。
それならば、自分でコントロールできることに集中しましょう。
「あんな奴がいるから」、「あの人が~してくれない」だの文句ばかり言っていないで、自分にできることを考えて行動するしかありません。

 
「~してくれない?」などとお願いすることは大切なのでしょうか。この書き方では、おねだりしているようです。しかも、どうするかは、本人次第だと付け加えています。書く意味、あったのでしょうか。
 
自分でコントロールできることに集中するように言っています。アドラー教では、自分の課題は自分でコントロールできると言いたいのでしょうか。
 
自分の課題を、しばしば、自分でコントロールできないところに、その自覚に、宗教は芽生えてゆきます。コントロール不可による苦しみを乗り越えることが信仰の目的でもあります。それは、無視することによっては、決して解決しません。
 
そして、最後には、文句ばかり言ってないで、自分に出来ることをするように言っています。当たり前の説教です。課題の分離という難しそうなことを言いながら、結局は、ぼやいているようです。このように、理路を考えてゆくと、めんどくさくなってしまうのが、アドラー教なのです。
 

むしろ、みんながニコニコしてあなたのご機嫌を取るように振舞ってくるような環境に、あなたは囲まれたいのですか?
みんなが本心を隠して、あなたのご機嫌を伺ってくるような歓喜では、人間不信になってしまいますし、気持ちも悪ければ居心地も良くはありません。

 
実際、アドラー教を宣伝していた者は、優しいお人柄、と言われて気をよくしていました。アドラー教を信じて、問題を起こさない方法は、世辞しか言わないことになってゆきます。
 

あなたがお店を経営していたとして、お店が儲からない理由を「お客さんに見る目がないからだ」として売れない理由をお客さんのせいにしてもどうにもならないでしょう?
ならば、お客さんが欲しがるものを調べて提供するようにしたり、どうしたら売れるのかを考えるのが筋合いなのです。

 
まるで、小学生に教える道徳のような書き方です。こんなことを言ってみても、アドラー教の欠陥とズレはどうしようもないと思います。当たり前と妄想のあいだを、無限往復しているようなものです。
 

あなたが失敗した理由は、良いお客さんと環境に恵まれなかったからですか?
そんなこと、あなたは望んではいなかったはずです。
自分にできることを最大限に努力して、試行錯誤することであなたは自分の納得のできる結果を得られるようになります。

 
試行錯誤には、お客さんの意見や不満を聞くことも、当然、含まれているわけですが、一方では、それは、客の課題だからと、気に入らないことは無視しましょうと、何もせず、何も聞かないでいることを勧めてきたのです。今さら、当たり前の正論を語ろうとしても、無駄でしょう。課題の分離は、役に立つ説教にはならないということです。
 

何だって同じことですが、どんなに努力してもできないことは存在します。
今からプロ野球選手になりたいと言い出す大人がいたとして、可能性はゼロではないにしても現実性は低いことでしょう。
できる時はできますし、ダメな時はダメなのです。

 
出来ないこともあると、勢いがなくなっています。諦観がアドラー教なのでしょうか。ダメなものはダメ、できることはできる、と教えられることが、普通の社会において、生きにくいから、新しい教えを求めたのではないでしょうか。それに答えられないなら、最初から、語るべきではないのです。
 
実際に必要とされるのは、なんでも成功ではなく、失敗したときの癒しと立ち直りなのです。
 
問題を掘り下げて考えることなしに深い洞察もなく豪語していたのでは、どやしているに過ぎず、何も解決はしないでしょう。
 

とにかくやってみて、ダメならダメで「自分にできないこと」が分かり、そこには答えは無いと一歩前進できているのです。
自分にできないことを知れば、自分にはどんなことができるのかを知る良い機会にもなります。

 
答えが無いということが、一歩前進だそうです。つまり失敗や出来ないということが、一歩前進という逆説になります。出来ないことを知ればできることを知る、という単純な言い分といい、失敗したアドラー教徒には、ずいぶん、鉛のように鈍くて重たい言い逃れと責任回避が付きまといそうな雲行きです。
 

無駄な努力は存在しませんが、報われない努力は存在します。
ただ、無駄な努力を積み重ねることによって、あなたは新しい知識や経験を得て、着実に前進しているのです。

 
無駄な努力は、無駄だと分かるから、無駄ではない、ということを言っているようです。しかし、幸福になれると意気込んでいたのは、誰なのでしょう。前に言ったことを訂正しないまま、このようなことを言うのは、それこそ、責任逃れなのです。
 
最初から大言壮語してはいけなかったのです。アドラー教は、その本質において、自己中にしか向かいません。自己中心は、それこそ、感じ方も考え方も自己中になって狭小化するので、人間の正常な情感と理路を奪ってゆきます。
 

多くの人達は、無数の試行錯誤の中から、自分のできることを見つけ出しています。
あなたも「今やれること」に集中することで、必ず今よりもより良い未来を獲得することができます。

 
無数の試行錯誤が、他者からの苦言を無視しているなら、これは、社会において、見逃してはいけないと思います。それこそ、やってみよう、ということで、考えもなしに、考えることを、悔いることを、他者を想うことを、やめようと言ってきた責任を取ってほしいです。無責任に豪語して事を運んできたのが、ブログ主その他のお仲間なのです。
 
ですから、今回の批判によって明らかになったのは、アドラー教の教えで、学問であるはずのアドラー心理学を唱えるのは、実践的に破綻百出であり、無理があるということなのです。
 
何につけても、人が自分で考えて作り出す宗教的な当為は、自分本位、自分中心になりやすく、絶対を自分の外ではなく自分の中に置いて、不安定かつ勢い任せ、思い込み、自己満足、尊大、誇大的、恐れを知らぬ傲慢、訂正不能、そして、妄想に、そして、他害的になりやすい危険が付きまとうと思います。
 
 
(2019年09月22日)
(2019年09月24日、一部修正)
 
21日夜、日記、余談:
テレビの”キングオブコント”で、
もしかしてだけど♪の、どぶろっくが、金の斧と銀の斧の話、
そして、大きなイチモツをください♪・・と歌って、優勝しました。
 
昔々、私、子どもの頃、素人演芸会で、若い女性が、
「アルゼンチンは男ばかり。なぜなら有る全チンだから」というネタに、
審査員のミヤコ蝶々さんが「次はチン抜きでお願いします」と言ったのを思い出しました。
金の斧ってのも、妙につながって、しばらく、こびりつきそうです。
私のイチモッツ君は、もはや斧の芋っ子、やっぱりこびりつきそうです。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
   憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
 
目を閉じる
 
 
 (2016年06月27日)
 
 憂い(うれい)
 慌てる(あわてる)
 
 
(2019年09月20日、一部修正再録)
 
なかなか、書くのが難しくなってゆくようです。
 
 
  近況 20190920
 
 
今日は、月一回、母が介護施設から内科に受診する日。
 
私は、6月に原因不明に体調を崩して、不完全に回復してから、筋力の衰えが目立ってきて、家の中もヒョコヒョコパタンパタンと歩く感じで、外に出るのも億劫で、家は、市の指定ゴミ袋を買いに行かないために、ゴミ屋敷に近くなっている。
 
7~8月は、母の顔を見ていないので、いくらなんでも、ということで、昼ごろ、私は、タクシーで先に病院へ、しばらく待つと、介護士同伴で、福祉車両の車に乗って、車椅子の母が病院に来て、診療が終わるまで付き添っていた。
 
女性の介護士さんは、ネットで見た可愛いカワウソによく似ていて、顔も体格も、ぽっちゃりしていて、明るく元気な人だった。予診、検査、診察と付き合って、まあ、私が役に立つことは何も無かったけど、むしろ、私のリハビリみたいな感じで、とにかく、歩行という運動にはなったようだ。
 
台風が来るので、帰りは雨が激しくなってきた。天気がよかったら、外出したついでに、ゴミ袋を買おうと思ったが、タクシーでまっすぐ家へ。
 
一応、きれいではないが、着てゆく服があり、きれいではないが、歩ける私がいることが分かって、お金とティッシュと薬を携帯しながら、贅沢にもタクシーを使ったが、近くへの買い物なら、歩いて行けそうなので、台風が過ぎたら、ゴミ袋を買いに出てみようと思う。
 
暗く考えて自分を卑下しても仕方ないから、些細なことでも、6月よりはマシ、という希望的観測を残すことにして、このまま順調なら、部屋にも母の座るスペースが出来るから、来月は、前のように、母が家に一時帰宅して、昼食に、いつもの握り寿司でも一緒に食べようと思っている。
 
あの病院、顔で選んで雇っているのだろうか。受付嬢は、特に美人だ。チラリチラリと見て、目の保養というか、看護師さんたちも、上述の介護士さんも、顔が生き生きしているのを感じるので、見るなら、美人に越したことはないが、明るく元気な姿を見ていると、待ち時間も気にならないだろう。好印象の女性が活動しているのを見るというのは、これは、確かに、待ち時間が結構長いことを考えると、その対策としても、なんだか、・・いい感じかもしれない。
 
さあ、早く、ゴミ屋敷を脱することが出来ますように。
人類にとっては、取るに足らず、見る価値もなく、実際、見る人などいない弱い私の一歩だが、
私にとっては、これから長くはないであろう余命の、死活を左右する、大切な一歩なのです。
そのアホみたいな一歩を踏まなければ、次の一歩はないのですから。
 
 
(2019年9月20日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

このページのトップヘ