ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年09月

 
  短絡人間
 
    2019-05-20  
   ナルシストで何が悪い❗️自分で自分を褒めよう❗️
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/05/20/%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E6%82%AA%E3%81%84%E2%9D%97%EF%B8%8F%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%A7%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E8%A4%92%E3%82%81%E3%82%88%E3%81%86
アドラー心理学サロンです。
 
 
人間を一面的、一方的にしてしまう、アドラー心理学というよりアドラー教と言うべきカルトの、短絡志向が表れています。そして、全体に、全く反省の必要と余地を認めていません。
 

自分で自分を褒めてあげることは、単純なようで自分に元気と余裕を与えることができます。

 
程度問題ということを知らないのでしょうか。
 

自分が他人にしてあげた思いやりへの見返りが無かった時に、人は落ち込む時があります。
勝手な期待をして、自分の期待通りに相手が反応してくれなかったからと恨んだり、嫌ったりすることは依存になりかねません。
しかし、人間ですので、時と場合によっては自分の思いやりへの期待外れな相手の反応に失望してしまう時もあることでしょう。
その代わりに、自分で自分を褒めてあげるのはいかがでしょうか?
「上手く相手には伝わらず、感謝の言葉も無かったけど思いやれる自分は素敵だな」
「他人を思いやれることができる私には、存在価値があるんだ!」

 
他者の評価を気にして、それに左右される自分であってはいけないというところから、じっくり考えるのではなく、自分を褒めることでマイナスがプラスになると言っています。とても早計で単純で身勝手な短絡だと思います。
 
ナルシシズムの勧めでしょうか。過ぎれば、自己愛性人格障害となり、話が通じない人になってゆきます。ブログ主は、放言が好きなようです。
 
言いたいことを言うが、人の話は聞かない、教えたがるが、学習しない、こういうふうになったら、人格が破壊されているのです。
 

自分で自分を褒める自画自賛な行為は、謙虚であることを良しとする日本人には抵抗があるかもしれません。

 
程度問題だから、抵抗云々ではなく、過ぎれば、謙虚さという知恵を失うのは当然です。ますます反省の出来ない人になるでしょう。
 

時には、バカバカしいとまで思ってしまうかもしれませんが、人に聞かせる訳でもなく、自分の心の中で思うだけのことなので恥ずかしがることはありません。

 
心に思うことを繰り返すことが、思い込みとなり、訂正不能となって固定して、偏向した人格を作ってゆくのです。
 

むしろ、落ち込んで自己肯定感を下げてしまい、やる気を失ってしまうよりは、どんな方法であれ自分を鼓舞して気持ちを盛り上げることはとても健全です。

 
反省せずに、鼓舞ばかりしていることは、不健全、というより、異常です。直感的に分かるはずですが、その直観が、既に壊れた人が教えているのでしょうか。
 

不機嫌になることは惰性であり、嫌なことや辛いことがあった時に機嫌悪く振舞ったり、やる気を失ってダラダラと仕事をしたりすれば、他人の迷惑になりかねません。

 
ブログ主がそうだった、ということを言っているのでしょうか。上手に反省できなかったものだから、やたらプラス思考になって、自分を褒めてばかりいるナルシシストになったのでしょうか。
 
ここで、他人の迷惑、と言っていますが、反省せずに自分を褒めてばかりいるナルシシストのほうが、人の言うことを聞かず、進歩も成長もしないので、よほど迷惑度が大きいのです。
 

それならばむしろ、自分で自分を褒めて、自分の意思で上機嫌になってやる気を取り戻りましょう。

 
褒めれば上機嫌になる、という、お粗末な短絡命題です。人間を、道具か機械のように扱って、あるいは、実験用単細胞のように見ているようです。
 

あなたのご機嫌なんて、他人は取ってくれません。
自分の機嫌を取ることは、自分の課題です。

 
よほど、機嫌を取ってほしいのでしょうか。ご機嫌取りに左右されるような性格なのでしょうか。ブログ主は、自分の機嫌を取る、ということに、直感的に恥ずかしさや醜さを感じる、というセンスを持たない人のようです。
 

フランスの哲学者であるアランは、言葉で明確に「上機嫌は意思、不機嫌は惰性」という言葉を残しております。
アドラー心理学でも、かなり似通った考え方をしております。

 
上機嫌になり、ハイになり、そう状態になり、節度を失って、しかも、それが頻繁になったり、常態になったり、・・こういう人になりたいのでしょうか、あるいは、既に、なっているから情緒が変になって言っているのでしょうか。
 
不機嫌になる原因や要素について冷静に考えてゆくことのほうが大切です。
 

心理学うんぬん以前に、不機嫌になって「あれやだ、これやだ」言ってると、子供じみた印象を与えてしまいます。

 
子供じみた未熟な印象は、この記事全体に、表れています。ブログ主は、かなり偏った性格で、マイナスを極度に嫌い、そのために、やたらプラスだけになりたいのでしょう。自己愛性は、自己中心でもあります。ブログ主の話は、節度が欠けています。だから程度問題が直観できないのでしょう。
 

どんな時も、他人や環境がどうであるかに関わらず、自分がどうするのか?という視点を持てるようにしておくことは、充実した人生を生きる為にはとても大切な考え方です。

 
他人を想わず、環境を考えず、自分のことばかり考えたいようです。そういう人生は、身勝手が高じて、思慮に欠けて、深みのない情緒となって、浅薄で幼稚な決めつけ魔になってゆきます。しかも不快を無視しますから、訂正不能なのです。
 

心理学者アドラーは他人と自分の課題の分離という考えを持っており、応用すると自分の機嫌を良くするのか悪くするのかは自分の課題であって、他人の課題ではないと考えることもできます。

 
課題の分離が、ここでは、自己中心に、自分だけで何とかできると思っているようです。そういうことは、無人島にでも住まない限り出来ないことです。人間社会と人間の心は、そんなに単純に割り切れるものではないと思います。
 
自分の機嫌を良くするとか悪くするということを、極めて、単純に考えて、自分を褒める一辺倒で、あっさり変えられると思うなら、結局、あっさりしすぎて深みのない薄笑いだけになるでしょう。
 
不機嫌は、多くの場合、他者が関係しており、その関係における自分の行いの結果でもあります。そこで反省せず、自分を褒めていたのでは、いつまで経っても、自分の課題を見つけられず、また、立ち向かうことが出来なくなります。
 
ここで言う課題の分離は、問題点の無視であり、自分勝手の始まりであり、経過であり、結果としての、自家発電的な頑固な思い込みとともに、誰からも孤立することを意味しています。とんでもない話です。
 

あなたが不機嫌でも、それは他人には何の関係も無いことなのです。

 
自分の不機嫌は、交わりや作業において、必ず、他人に影響します。
 
不機嫌の原因が自分にあるなら・・などとは考えてもみないわけですから、他者の立場を思いやることの出来ない、自己中心の典型的な身勝手になり、何を言っても改善せず、例えば、クビを言い渡されるまで気づかない人になるでしょう。ついには、クビにされ続けて、犯罪に及び、なおも、牢屋で、薄笑いしているような人間になるのでしょうか。
 

失敗したり、嫌なことがあっても、取り敢えず自分を無理矢理にでも褒めることで、気持ちを前向きに保つことができます。

 
無理は無理なのです。そこには、建設的な道理は生まれません。やたら機嫌がよく、つまり、多幸的で、言論において、無遠慮で、攻撃的で、同じことを何回も繰り返し、指摘してもニヤニヤしているだけの、進歩と成長のない、何も解決する意志のない存在になるでしょう。結局、周りから賢い人は去って行って、自己中は孤立に至るのです。
 

常に自分を前向きな姿勢にできるようにしておくことは、幸せにつながります。
最初は照れくさいかもしれませんが、そのうち習慣となってあなたを元気と余裕で満たしてくれます。

 
自分を褒めれば、何も解決していなくても、前向きになる?という短絡があります。無条件に前向きになることは、照れ臭いなどという次元の問題ではなく、何も解決していないところに、無理にでっちあげた上機嫌によって、他者はどうでもよく自分だけが大事という極端な個人主義、つまり、自己中心を信条として、あらゆる節操や道徳を無視するようになるでしょう。
 
自己中心は、良識や良心から、乖離し、どこまでも離れてゆくベクトルだということを知ってほしいです。そのような人格のアンバランスは、社会にとって、有害無益の作用しか及ぼしません。それは、幸福なのでしょうか。
 
時と場合の状況を弁えない無理な自画自賛の上機嫌は、自己中心にしかならず、他者の不幸にしか生まないのです。他者の不幸を前に、冷静な思考と感受性を失って、なおも、不自然で、狂気に近く、さらに平気で笑っていられるような人になりたいでしょうか。もはや、人間とは思われません。
 
こういう態度は、例えば、カルトなどの有頂天や陶酔気分に現れるものです。習慣となり体質となれば、やはり、人格を捨て去った薄っぺらがモノだけは言う、文句だけは執拗に言う、人の話は聞いていない、という存在になりたいでしょうか。
 
ここで語られているアドラー心理学は、一面的で、一方的で、とても危険な、人間破壊のカルトです。
今までの記事で、一面的、一方的、というのが、既に、教えに、刷り込まれて、教え込まれているのが分かります。反社会性人格障害を作りたいかのようです。
 
ブログ主は深く考えることをせずに、読者に深く考えないことを勧めて、乱暴で原始的な方向に話を持ってゆこうとしています。無思考、無反省、無視の、三無主義から、独善と感情の鈍化の必然に誘っているようです。見ざる、聞かざる、そして、言うだけは言う、という、社会において、さらに、いかなる人間関係においても成り立たない人間離れのカルトだと思います。
 
人間は、単純な短絡で、不自然に、語り、行なえば、人格を損なうように出来ています。自らを省みない者は、他者を顧みないで、自覚的に好きなように生きることを目指しているので、いずれ、反社会的存在となるでしょう。何だか、この社会をぶっ壊したい陰謀ではないかとさえ思われます。
 
 
(2019年09月20日)
 
 
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  罪と偽善
 
 
私たち人間は、どう役に立つのか、ある程度は明確になる場合もあるけど、道具や生産物のようには明確にならない場合が多いと思います。つまり、生きることが先で、役に立つことは、継続する一生の問題になり、目標への道ということになります。自分は役に立たない、と自分で思うことも、私も含めて、稀ではありません。
 
しかし、稀にあるかもしれないという希望を持つことと、稀にしかないんだと失望に変えてしまうこととは、キリストが、社会が絶望の烙印を押してしまった人々を訪ねて救ったことを考えれば、前者が、神の御心に適うことは、言うまでもありません。
  
かといって、やはり、はっきり自分の役割が見つからないときや、一生続くかもしれないマイナス面を持っていると思うときには、さらに、心無い人にマイナスの評価をぶつけられたときは、失望や絶望が親しく近寄ってくるかもしれません。そのとき、どうするべきでしょう。
 
思い煩いが長引いて、来る日も来る日も思い煩いにに明け暮れたりなどはしたくないけれど、一切無視したつもりで、無理に笑えば、いずれ、笑えないときに笑った無理が返ってくるでしょう。
  
私見ですが、自分はダメな人間ですという位置から、ときには、自分は塵や埃やウンコみたいなものですという位置から、できることを考える生き方を、慈しみの眼差しで見ておられ、目いっぱい、という、それだけで善しとしてくださる御方がおられます。
  
劣等感や妬みで生きることのないように、いじけることのないように、また、敵意や恨みで生きることのないように、生きる日常が他者へのボロクソ節にならないように、一人一人をすべて見て、功績や才能ではなく、その正直さだけを評価される御方がおられます。言い換えれば、正直さ以外は、通用しない御方です。
 
偽善は、罪を隠し、世辞を言ったり、嘘を吐いたりして、偽りによって、善人ぶる分、罪よりもさらに重い最悪の罪であり、二千年前に、キリストが見抜き、キリストの敵となったものです。
 
偽善も罪だから赦されると言って、平気で嘘を吐き続ける偽善者もいますが、思考も情緒も破壊されて、正常な思路の発言も情緒的な共感も出来なくなっています。それでも、笑い続け、嘲り続けるのが偽善者です。
 
神の前に正直さを失うと、人の前にするのと同じような体裁を繕うようになり、神に対して嘘を吐くようになります。それを、神が見逃すことはないのに、見抜かれることを恐れないので、神を恐れなくなり、結果として、罰ではなく、裁きでもなく、ますます、救われるために大切な人格を、自らの嘘と偽りの保身が壊してゆくのです。
 
 罪は地獄への片道切符ではありません。
 罪は正直な祈りの告白によって赦されるでしょう。
 それが悔い改めです。
 
 罪を隠し善を装う偽善が地獄への片道切符になるのです。
 
 罪を告白する正直さは、
 祈りによって宝となります。
 
 
(2019年09月19日、過去記事に修正加筆)
 
 
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  アドラー心理学:言い訳
 
    2019-04-07  
   【読まないと損❗️】試練は幸せへの扉
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/04/07/%E3%80%90%E8%AA%AD%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E6%90%8D%E2%9D%97%EF%B8%8F%E3%80%91%E8%A9%A6%E7%B7%B4%E3%81%AF%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89
    アドラー心理学サロンです。
 
 
気に入らないことは無視する、という、教えの招く矛盾を、詭弁で言い逃れようとしているように思われます。ストレス解消のように言ってきた無視、という言い方を、今回は控えているようです。
 

あなたはこれまで辛かったこと、悲しかったことを経験されたことはありますか?
あなたを含めて、この世に生きる人には必ず何らかの試練が待ち受けております。
ただ、試練は乗り越えれば、乗り越えるほどにあなたの心は強く磨かれていきます。

 
気に入らないことは無視しましょう、と言ったのは誰でしたか。
無視するのと、乗り越えるのとは、違います。
 
前者は無かったことにすること、つまり、何も学習しません。
後者は、無視ではなく、受け止めたうえで何らかの処理や対策を考えなければ出来ないことです。
 
無視することは、乗り越えることをも無視することになります。
 

一度大きな試練を味わった人は同じような試練に見舞われても、それほど慌てずに冷静に対処できるようになります。

 
無視せよと、また、言うのでしょうか。
それとも、あれは、間違いだったというのでしょうか。
 

最初の試練を乗り越えることさえできれば、その経験があなた自身の大きな自信となって、次の試練に冷静に対処できるようになれます。

 
乗り越え方を、まだ、何一つ、語っていません。言えば、無視することに、少なくとも、無視しましょうと言ったことに、言及せざるを得ないからでしょう。
 

どんな試練が訪れても、最初の試練を先ずは乗り越えれることが大切なのです。
むしろ、試練なんて早いうちにできるだけたくさん経験しておく方が、後の人生の大きな宝にも武器にもなります。

 
ずっと無視し続けるということでしょうか。
 
>試練は幸せへの扉でもあるのです。<
 
とても、気安く美味しい言い方、カルト的な美味しい言い方です。
 

アドラー心理学では、何事も捉え方次第であり、すべては主観的な判断でしかなく、主観的にあなたがどう捉えるのかがポイントであるとしています。

 
自分勝手に、都合よく捉えよと言うのでしょうか。
 

試練に対する捉え方を「幸せへの扉」に変更してみれば、試練が単なるつらいものには見えなくなります。

 
カルト的な詭弁です。言葉を変えても、現実は変わりません。
 

周りは幸せそうなのに、自分ばかりがつらい思いをしている…
自分ばかりつらい思いをしている…と思われている方へ、そんなことはありません。

 
くよくよしないことと、他者を無視することは違います。
 

人は生きていれば、試練が必ず訪れるのです。自分ばかりが大変な思いをしているわけでもありませんし、他人にも同じくらい大変なことが起きているのです。

 
人と比較するなと言ってたのではないですか。
 

試練には、見えやすい貧困などの苦労ばかりが注目されがちですが、それ以外にも星の数ほどの種類の試練があります。
経済的に豊かで恵まれていても、その内実の家庭環境も同じように豊かで恵まれた環境であるとは限らないのです。

 
当たり前のことを書いて何になるのでしょう。
 

あなたから見たらうらやましいことも、その人から見たら不幸であることもあれば、その人から見たら、あなたにうらやましいところがあります。

 
気に入らないことは気に入らないこと、失敗は失敗、不都合は不都合、なんですけど。
 
めいっぱい、他者のことを言っているではないですか。他者の課題を、自分の課題から切り離して、無視して、それで、他者のことを考える、なんてことは出来ません。
 

それは人それぞれの価値観によるものですので、一概には言えません。同質社会でありみんなが良いとすることを絶対的な価値と混乱しやすい日本では、他人との比較で苦しむ方が後を絶ちませんが、本質的には価値観なんて他人とは共有なんてできないのです。

 
だから、人は人、と言って、気に入らないことは無視すればいい、と教え続けてきたのでしょう。
 

心理学者アドラーの提唱する課題の分離の考え方の真髄は、ここにもあります。
他人が何を考えて、何をするのかは自分の課題ではなく、その相手の課題です。

 
他人がすることによって、良くも悪くも、影響される自分に対して、相手の課題だと、無視するように勧めてきたわけですね。
 
課題の分離とは、実は、他者に対する不感不応なのでしょう。それでは、人間は、学習のしようがなく、成長のしようがないのです。
 

他人のことを変えることはできず、自分にできることは相手に自分が良いと思うことを教えてあげる程度であり、本質的には他人の課題には介入なんてできませんし、介入すべきでもありません。

 
唐突に、他人を変えることはできないとか、他人に介入とかになっているが、
自分の学習と成長のために、どうしたらよいかという問題のはずです。
すごいスリ替え、ずっとやってますよね。
 

こう言うと、「分かりました!他人のことなんてどうでもいいと思って自己中に生きていきます」と短絡的な理解をされる方がおります。

 
まさに、それは、ブログ主であり、アドラー教の中心のように言っ放っていたではないか。
 
言葉だけ否定しても、今まで言ってきたこととの整合性が取れません。
 

そうした人に私が聞きたいのは「他人の課題である、他人が起こした行動や言動の責任を、すべてあなたは取れるのですか?」と。

 
スリ替えたテーマ上で言われても、それこそが、自分がどうすればいいかについては何の関係もないことです。他人の課題を、他人のことを、自分がどう考えるか無視するかという問題です。
 

要するに、他人と自分の課題を区別することは、相手を尊重することにも、自分を守ることにもつながるのです。

 
気に入らなければ、他人の課題として、無視するのではなかったでしょうか。
 
他人の課題だからと無視することは、無視された相手からすれば、否定も肯定も批判も意見もなく、言うだけ無駄なのだから、疲労を与えるだけで、何の尊重にもならないことは言うまでもありません。殴られるほうがまだマシかもしれません。すさまじい詭弁です。
 

少し話が逸れましたが、他人と自分の比較をしても根本的に課題が違うので比較する意味が無いのです。

 
課題を共有する場合があることを否定しています。
だから、結局、人のことは考えるな、という教えにしかならないわけです。
 

あなたの試練はあなたの試練、他人の試練は他人の試練です。もちろん、自分の負担にならない程度に助けようとしてあげたり、相手が困っている時に助けてあげる優しさは大切です。
しかし、無闇に他人の課題に介入するのは良いことではありません。

 
どっちなのですか。こういうことは、一概には言えず、個別のこととして検討するべき課題です。
「自分の負担にならない程度に」とは、実に曖昧な基準です。
 
さらに、他人の課題に介入することと、他人に対する自分の立場を考えることは、別なのですが、むしろ、課題を分離するべきなのは、ブログ主のほうではないのか。
 
つまり、アドラー教は、他者とのかかわりについての理路において矛盾を来たしており、その言い訳に、助けてあげる親切はいいが、分離して介入不要、という、両極を机上で結び付けて、言い逃れようとしているのです。
 
親切ということについて、例えば、
ある種の、ひどい侮辱として、あなたを哀れみます、と言うのがあります。
例えば、
こちらに無視されて、こちらの負担にならないように、哀れみますと、こちらに言われた相手が、侮辱と感じて、それで、怒って、罵詈雑言を言ったら、しめたものという口喧嘩のやり方があります。怒ったことで、全部、相手のせいにするのです。
 
どうやら、この記事を書いたブログ主は、人間関係を深く考えたことがないようです。恐らく、人間関係が面倒で面倒で、嫌だな、と思っていたところで、アドラー心理学に出会い、飛びついたのでしょう。好きなように、言葉をつないで、ごまかして、一貫性をなくしてゆく途上のようです。
 

アドラーの課題の分離は、合理主義的でいて、冷酷なイメージを強く持たれることが多いのですが、あなたと他人のお互いの幸せにもつながります。

 
だいたい、課題というのは、複数の人がいっしょに関わっている場合、そんなに誰の課題か、はっきり分離できるものなのか。それはあなたの問題と、分離するのは、自己中心~利己で決めつけないと出来ないことではないだろうか。
 
ある愚か者は、人の話を、返せるところだけ返して、残りは全く反応せず、無かったかのように無視しました。だから、どこまでも、全体の文脈での話が通じません。会話や遣り取りが成立しません。
 
その者はアドラー心理学の名をあげて言ったのです。気に入らないことは無視しましょうと。とんでもない命題です。私は、そのときから、カルトだと思って、アドラー教と呼んでいます。アドラーの真意がどうであれ、自己中心な人によって、たやすく、自己中心な方向に伝わっているわけです。
 
対話や議論、共有や共感、こういったことが出来なくなるような無視を勧めて、学習と成長を困難にして、人格の退行と、ゆくゆくは人格の破壊に至る方向を助長しています。
 
人の話を受け止めて、考え、反応して返す、という、初歩的なことが出来なくなるような人格破壊を招くでしょう。人間関係が成り立たなくなります。世辞ばかり言うようになって、それで、いい交わりを持ちましたと自己満悦する者を育てています。
 

お互いの試練を区別することで、自分主導で試練を乗り越えた経験を持つことができますので、その成功体験はより大きな自信になります。

 
自分の課題は、言われなくても自分主導で試練を乗り越えるしかないのは当たり前です。
具体的にどうするのかということです。何も実のあることを語っていないではないですか。
 
課題は分離したとして、相手の課題はどうするのですか、無視するのでしょうか。
 
その課題に自分が関わっていても、共通の課題でも、無視するのですか。
ならば最初と同じ不都合無視教です。だから、嫌われても平気だと教えていますね。
 
問題は、嫌われることではなく、無視した分、学習が疎かになり、
感性が鈍感になってゆくことです。
 
それとも、関わるのですか。ならば、無視しましょうなんて言えないですね。
 
無視して気楽になるのは、一時のこと、無視すれば学習も成長もないのです。
 
それに、アドラー心理学が心理学という学問ならば、指示や命令はしないはずです。
 
「気に入らないことは無視しましょう」というカルトとしか思えない教えを引っ込めないかぎり、自信ではなく、一時的な自己満悦で、傍迷惑な人を育ててゆくだけですが、その責任は取らないのでしょう。それは、あなたの課題だ、とか、言うつもりでしょうか。
 
こういう、簡単ですよ、心理学だから安心ですよ、幸せの扉、などと言ってくるのは、カルトの要素を持っていると言われても不思議ではなく、控えめに言っても、学問ではなく宗教です。
 
 
※ 
プロフィールの画像は、アドラーのようですが、ブログ主の解釈を語るのなら、ブログ主の何かにするべきであって、アドラーの画像は出すべきではない。また、同じ理由で、ブログのタイトルには、アドラーの名を出すべきではありません。
さらに、また今後も同じことを教え続けるのなら、明らかに宗教です。こうしましょう、こうしなさい、ということを言いたのなら、心理学という言い方も使うべきではありません。
 
 
(2019年09月18日)
 
 
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  嘘吐きの妄想
 
   楽山日記(a)『サピエンス全史(下)』
   『サピエンス全史(下)』2019-09-15 06:00:04NEW !
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12525444275.html
 
 
宗教も信仰も理解できない者が、それらを妄想と決めつけて、都合の良い本を引用して、面白い、面白い、と言いながら、結論としては、極めて曖昧で、何の救いにもならないようなことを書いています。これが、楽山と言う人の筆致であり言論なのです。
 
誰にも、癒しの話も、救いの話も、楽山は、提供し得ず、ただ、自慰行為のように、自分が納得するだけの記事を書いて、宗教と信仰を揶揄しています。
 
その曖昧なボンヤリ言語をもって、訪問者を、宗教と信仰から引き離し、恐らく、アドラー心理学という学問だから安心ですよと、自身のアドラー教カルトへと、誘導したいのでしょう。どこまでも、作為と悪意の企みの止まない楽山です。
 

上巻と比べて、下巻は少々飽きてきておもしろさはさほど感じなくなってきていたが、「第19章 文明は人間を幸福にしたのか」では目が覚める思いがした。科学は進み、社会制度は充実することで、人は本当に幸せになったのか、私たちは、前近代の人々、はたまた国家誕生前に少数の集団で狩猟採集を営んでいた時代の人々よりも、本当に幸福になったといえるのかという疑問提示はよくあるものではあるが、そのあとの幸福とは何かという考察はおもしろい。

 
これは、本当に、よくある話です。かといって、古代に戻りたいと思う人は、殆どいないでしょう。これを書いて、次に、楽山が面白いと感じる話に入ります。
 

幸福とは、金持ちになったとか、夢が現実になったとか、外的なことではなく、内的なこと、自分の心が決めることだろうというのはわりとよく聞く普通の結論ではあるが、そうであれば幸福かどうかはその人の思考の背景にある遺伝、脳内作用などで決まり得るのかという掘り下げ方はおもしろい。

 
面白いそうですが、幸福という基準自体が曖昧な話について、もともと曖昧な楽山は、遺伝と脳内作用しか考えないのでしょうか。何でも、その機械的な仕組みしか思いの及ばない心の貧困を感じさせる文章です。これで、楽山は、科学的かつ学問的に書いているつもりなのです。
 
幸福という学問の外にあるテーマを、学問で、こじつけたがる心性が表れています。それで、こういう本を選択するというのも、楽山の心性なのでしょう。付け焼刃の興味だけで考えるのを、昔、私は、オモシロガリズムと呼んだことがあります。
 

たとえば幸福の尺度が1から10まであるとして、ある人の脳は5~8の間で働き、またある人の脳は2~6の間で機能するようにできていたとしたら、外部の環境はどうあれ前者は概ね幸福であろうが、後者はそのようにはなれないだろうとか、

 
幸福の尺度を1~10などと気軽に定められるのでしょうか。だいたい、主観なのか客観なのか、客観化することは困難だろうし、主観ならば、気づいていない幸福もあるでしょうし、このようなあっさりした書き方で割り切れるものと考えることに疑問があります。
 
このように、例えばの話にしても、分かりやすくしたつもりで、数字を出してきて、わざわざ分かりにくくしているのです。それこそ、遺伝か脳内作用の欠陥を持っている人は、恐らく、今まで、お仲間同士の世辞や仲間ぼめ以外、誰とも、本当の共感や理解の共有に至ったことはないのでしょう。
 

独身者より既婚者の方が幸福だという話があるが、結婚相手としては前者のような人の方が選ばれやすく、悲観的な後者は選ばれにくいだろうから、既婚者になる人は結婚する前からもともと幸福を感じやすく、独身者の方はそうではないようになっているのではないかとか、もし仮に後者のような人物が結婚したとしても、はなから幸福は得られにくい脳を持っているのだから、結婚によっていつも幸福になるとは期待できまいとか。

 
そういう人は、こういうナゾナゾのような話を好むのでしょう。そして、どうすれば愛されるのか、どういう生き方をするべきか、といった話には恐ろしく無関心なのです。だから、人生の重要な問題も、全部、謎解きのクイズと言葉遊びのレベルでしかなく、面白がることしかできずに、深く考えることが出来ないのでしょう。
 

また中世の人々は、現代と比較したら、かなり厳しい環境にあったようにも思えるが、当時の人々はたとえ現世では苦しくとも、信仰によって幸福であったろうとしている。「中世の祖先たちは、死後の世界についての集団的妄想の中に人生の意味を見出していたおかげで、幸せだったのだろうか? まさにそのとおりだ。そうした空想を打ち破る者が出ないかぎりは、幸せだったにちがいない」と。

 
ここで、また、信仰を集団的妄想そして空想と決めつけて、好きなだけ、おとしめています。反キリストというのは、こういう者なのです。恐らく楽山には信仰に結び付く心など、ひとかけらもないと思います。そういう男が、クリスチャン芝居をブログに書いていたわけですから、いかに、キリスト教を嫌っているかが分かるでしょう。バカにしたいだけなのです。
 

さらに著者はこのあと例によって、科学的な見地からすれば、人類は目的を持たない進化の過程で生まれた存在で、人生に意味はないとしつつ、宗教のみならず、人間至上主義的意義も、共産主義的意義も、資本主義的意義も、みんな妄想と断じ、したがって自分自身の妄想を、その時々に社会の主流になっている妄想と重ねることができれば、とりあえずの幸福感は得られるだろうという皮肉なことを言ってる。いやはやこれは著者の言う通り気が滅入ることである。

 
心のない理路が、いかに無意味であるかが表れています。総ての正しさを目指す人文科学系の学問や宗教と信仰を妄想だとする話を出してきます。強烈に罵ったうえで、ごまかしのように、ボンヤリ言語で、いやはや・・気が滅入る・・などと、おふざけで済ましている狡猾さです。実に汚い。
 

ただ著者は最後に一つの希望を述べてはいる。仏教でいわれるように渇愛から離れれば安らぎを得られるかもしれない云々と。不快からも、快からも、苦しみからも、喜びからも離れ、なにものにも執着しないならば、そこに安らぎがあるという風に。

 
安易な話です。渇愛から離れれば安らぎと言っています。快・不快・喜怒哀楽の感情に執着しなければ安らぎと、仏教的なことで、意味を強めています。そんなに離れられるものでしょうか。つまり、このことこそが、真の安らぎを得ることは賢者が挑むのであっても難しい、ということを物語っているのです。賢者とは真逆の俗物である楽山が偉そうに何を言っているのでしょう。
 

これについては宗教が妄想なら仏教も妄想ではないか、仏典のなかで釈尊が説くような境地に人が達することは果たして本当に可能かどうかというような議論も不必要ではないように思われるが、一応の結論としてはこれで十分ではあるのだろう。

 
「議論も不必要ではないように思われるが、一応の結論としてはこれで十分ではあるのだろう」というのが、楽山特有の曖昧で遠回しの、そして、卑怯な自己正当化の手段であるところの、ボンヤリ言語です。そして、さらに、どうしても、楽山は、宗教の総てを、妄想としないときが済まないようです。
 
そのくせ、以前の記事「心の理論」では、自分は仏様の心が分かるっぽい、という意味のことを言って、自身の霊感をアピールしているのです。何ごとにつけ、いい加減で、一貫性がありません。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 

なにごとかを欲することもなく、欲しないこともなく、したがって喜ぶことも、喜びを失うこともなく、心は常に平安であるなら、そりゃあ生きるのは楽になるだろうから。

 
「欲することもなく、欲しないこともなく、したがって喜ぶことも、喜びを失うこともなく」という、否定でも肯定でもない表現は、ただ、何も言えない者が、お茶を濁しているだけなのです。付き合わされるほうは、じれったくて、たまらないと思います。こういうことを言って、読者を煙に巻くくらいなら、何も言わないほうが、まだマシなのです。
 
それでも、これで十分だと言っていますが、上に述べたように、いちばん、陰性の感情や欲望や自分の都合や保身や自己正当化や快楽や執着に縛られて、批判者を罵る楽山が、どうして、引用のような、無我の悟りの境地に至れるでしょう。読者を愚弄するのも、いい加減にしてほしい。あらゆる、真実追求の言論において、楽山は、失格です。
 
「そりゃあ生きるのは楽になるだろう」・・この言い方に、楽山の筆致として、真剣味がなく、おざなりに、乱暴に、他者を嘲笑うかのような、いい加減なことを言って、結びとして、ごまかしてしまう、そして、自分が満足すれば他者など、どうでもいい、という、書くことに投げやりな姿勢が表れていることを忘れないでください。どこまでも、無自覚で、訂正不能の、怖い男です。
 
思い出したのは、楽山は、自分のブログのコメント欄に批判を書かれると、実に嫌らしいレスを入れてきますが、こちらのブログで批判記事を書いてもなにも反応しません。つまり、自分が見に行かなければ、批判について読むこともなく、ゆえに何も感じないで、すなわち、そのことを、ハッピーでいられることと見なすわけです。それが、楽山のアドラー教のようです。
 
つまり、楽山は、自身が正しいという慢心の境地から、批判を煩わしものと見なすゆえに、批判を受けて考えるのではなく、批判を自分が感じなくなることをハッピーな結果と感じるわけで、これは「気に入らないことは無視しましょう」というアドラー教に従っているのです。批判されているという事実などは、楽山にとって、どうでもよいのでしょう。
 
ここにおいて、心の真実に加えて、出来事の事実さえも、無視してしまう安楽の道が、楽山の勧めるアドラー教なんだと分かるのです。知らないうちに、周りが様変わりしていても、平気で、今まで通り、幼稚な嘘、つまり、臭い芝居とボンヤリ言語で、優しいお人柄を演じ続けるのでしょう。これこそが、詭弁と嘘の美味しい誘導によって、うっかり捕らえられると、人間の心を吸いこみ呑みこんで、光さえも脱出することが出来ない良心のブラックホールなのです。
 
 
宗教と信仰を、冗談半分に愚弄する者には、決して分からないことを申し上げます。
 
私たちは、奇跡が大昔起こった事実と信じ込んだから、または、神について、空想だが必要悪、などと理屈が言えるから、軽い気持ちになって、罪がチャラになるのではないし、癒されるのでもないし、幸福になるのでもないし、救われるのでもありません。
 
赦し、慰め、癒し、救い、導きを、信仰の幸いとして、折々に、神様から、与えられるのは、私たちが、今、慢心できるような何ものをも持たず、ただ、温もりと潤いを、何よりも心に欲して、神の前に、小さい魂をふるわせて、正直な祈りを捧げようと努めているからに他ならないのです。
 
 
(2019年09月17日)
 
 
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  嘘だと言う嘘
 
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   楽山日記(a)2019-09-14 07:48:38
   (楽山)
   特にテーマは限定することなく、趣味的なことを、風の吹くまま気の向くままに書きます。
 
 
楽山は、性懲りもなく、宗教を、個人的に軽視するだけでなく、嘘、必要悪、ほのかな期待の灯、などと、揶揄しています。恐らく、宗教に対する強烈な嫌悪があると思います。しかし、自らは、自己中促進のアドラー教を宣伝していたのです。真っ当な信仰者の敵として批判してきました。
 
(楽山)
「はじめはざっと眺めるだけにするつもりだったのだが、予想以上に面白くて結局通読してしまった。ホモ・サピエンスが出現し、ネアンデルタール人が滅ぶ頃の話は興味深いし、大勢が参加する大きな社会をまとめるには神話が必要とされ、宗教、人権などもそのような役割を担っており、虚構であるとしてるのには驚かされた。いやそういう考え方があるのは前々から知っていたことではあるし別に驚きはしないが、それをあからさまに断言してしまうところに驚いた。著者はとてつもない勇者か、言論の自由がよほど尊重されるところに身を置いているか、それともその両方なのだろう。
宗教も、人権も、それから〇〇主義も、みんな神話、虚構であり、ざっくり言えば嘘っぱちだとしても、巷には必要悪という言葉もあるし、もう14歳の反抗期でもないので、大人はみんな嘘つきだなどと暴れる気にもならないし、現実なんてそんなもんさとニヒルなポーズを決めようとも思わないのであるが、それでも社会の基盤となる価値基準はすべて嘘だとされれば、若干、足下の地面が揺れているような不安定な感じがしないでもない。」
 
(楽山)

宗教も、人権も、それから〇〇主義も、みんな神話、虚構であり、ざっくり言えば嘘っぱちだとしても、巷には必要悪という言葉もあるし、

 
宗教を、嘘っぱちだと言い、必要悪だと言っています。
宗教に真実など、かけらもない、という考えでしょう。
この記事は、反信仰の記事ということです。
 
史実という事実は詳細には分からなくても、
楽山が、真実、特に、宗教的真実というものを理解していないということは、よく分かります。
事実とその証明ばかりを追って、何も生きるための収穫がないのは、心に何も受け取っていないからでしょう。
 
真実は生きるために必要なまこと、史実や事実であるかどうか、また、証明できるかなどは、関係ないのです。
 
嘘は、自分の利益のために言う偽り、楽山やシャロームが、ずっと言ってきたことです。
 
宗教は、必要悪でしょうか。楽山は、例えば、おとぎ話か空想の存在に拝んでお祭り騒ぎをすることを宗教と思っているようです。そういう者が、必要悪だと言えば、宗教は、慰めか気晴らしみたいな意味として考えているということです。そして、分かっているふうに、それを宣伝しているのが、この記事です。
 
(楽山)

社会の基盤となる価値基準はすべて嘘だとされれば、若干、足下の地面が揺れているような不安定な感じがしないでもない

 
楽山にとって、宗教は、足元の礎(いしずえ)ではありません。足下の地面が揺れているような気がする程度のもの、つまり、それは、楽山の思想の足腰が不安定で、ふらついているだけなのです。
 
すべて嘘・・とは、思い切ったものです。では、楽山の吐いてきた嘘や詭弁を考えるとき、楽山という存在も、楽山の言うことも、嘘という他はありません。成りすましの疑惑もあります。
 
このように嘘という悪いことを、「嘘だとされれば」と、他者のしわざにのみ当てはめ、実は自己中心に、被害者みたいに嘆いてみせるのは、楽山の技であり、ボロクソ節で、こき下ろすのは、シャロームであります。この者たちと何かを共有するならば、自己中心と訂正不能への虚無への堕落だと思います。
 
証明しろ、証拠はあるか、などと、しるしを求めてばかりの者は、聖書の話にもありますが、そのままでは、本当の命に至ることはありません。楽山のような人は、恐らく、言葉という石を並べて、ああでもない、こうでもないと、上から批評して、それで言い得たと終わってしまうだけでしょう。
 
それが知性だと思っているのでしょうが、足らざるを知らぬ、ということを、自らに当てはめたくない者は、宗教を言葉だけで対象として、けなす側に回り、少しばかり便利だと思ったアドラー教に惹かれて、自己中心を宣伝したりするのです。
 
真の宗教と信仰は、楽山の考え方ともアドラー教とも本質的に違うのです。真実を心に持たない者は、このように、幼稚な勘違いをして、遠慮も慎みもなく、軽しめとおとしめを公共の場に書いて、平気でいるのです。または、別の短絡として、シャロームのように、奇跡で守られているから、罪は気にしなくていい、などという世迷言を、だらしなく言い続けるしかなくなるのです。
 
神は、誰によっても、その存在も不在も証明されてはいません。だから信じても、絶えることのない希望として信じるのです。キリスト信仰は、多くの人を救い続けています。決して空想への逃避による慰めでも気晴らしでもありません。そのためには、滅多に起こらない超常の奇跡よりも、人間らしい思慮と情緒、そして、人間としての意志の正直さを必要とするのです。楽山には、それが無い。
 
 
(楽山)
「でも現実を直視するというのはある意味こういうことなんだろう。一寸先は闇は当然として、足下も地面があるのかないのか分からないくらいにゆらゆらしていて、まるでどでかいトコロテンの上にでもいるような心持ちがし、」
 
楽山は、何を血迷ったのか、アニメみたいなたとえを書いています。自分に救いがなくなると、読者を、地獄に落ちるんだと言って、脅したいのでしょうか。
 
(楽山)
「…と、まあ、深刻そうなことを書きつつも、こんな思いはごくまれにふとした弾みに一瞬の間だけうたかたのごとく心に浮かんで消えるだけで、大概は朝から晩まで何も考えず、くだらん冗談を言いながら、のほほんと気ままな生活を送ってるだけなんだから気楽なもんだね。」
 
楽山の、白々しい筆致です。この記事全体を、結びに至って、軽くして、半ば否定しているかのようです。その気楽さが、浅く軽い筆致となって、小学校の道徳のような月並みなことを、私が、ボンヤリ言語と呼んだ、焦点のない書き方で、クリスチャン芝居をしてみせたり、優しさアピールみたいなことを書いてくるところに、その底にある、どす黒いものを感じないではいられません。
 
(楽山)
「意を決して地面の下をのぞいてみれば何の支えもなく漆黒の闇が口を開いているだけというイメージ。そこに地獄の業火でも見えれば、やはり地獄はあったか、そんなら天国もあるんだろうとほのかな期待の灯をともすこともできなくもないだろうが、そんなささやかな期待もゆるされぬほどの底なしの闇があるだけ。怖ろし。」
 
楽山が、「意を決して」何かを言うのを一度も見たことはありません。楽山は、いつも、曖昧で、結論にも判断にもならないことを言ってきました。あるいは、小学校の説教のような当たり前のことを書いてきました。
 
今度は、ホラーみたいに書いて、お伽噺で結ぼうとしています。どこまで宗教と信仰の的を外し続けるのでしょう。全く宗教人にとっては迷惑です。「怖ろし」いのは、楽山のことです。
 
(楽山)
>地獄の業火でも見れば
 
楽山は、見ることなど考えていないと思います。神聖を毛ほども恐れていない体質です。
 
(楽山)
>地獄はあったか、そんなら天国もあるんだろうとほのかな期待の灯をともす
>ささやかな期待
 
地獄も天国もマンガかアニメほどにも表せていない楽山にとっては、冷やかしのための題材に過ぎないようです。天国は、気休めのような引用の言い方で語られるところではありません。
 
信仰者にとって、ほのかな期待でもなく、ささやかな期待でもなく、生きている今、希望し、考える必要のある切実なテーマであります。楽山は、心が無いために、それを受け取れず、開き直って揶揄したいだけなのです。
 
信仰の立場から言えば、天国について詳細は知りません。しかし、信仰によって、祈りによって、癒しを感じるとき、天国を垣間見ているのかもしれません。それは、時々の感動であり癒しであり慰めであります。ほのかでもなく、ささやかでもなく、それは、真剣に信仰しているものにとって、なくてはならないものなのです。
 
楽山は、いつも底なしの闇を見ているのでしょう。そして、共感に見せかけて、人を誘っているのでしょう。弱っているなら、救いを求めるはずですが、楽山の一貫して変わらない姿勢は、天国も神聖も、上から見下ろすスーパーバイザーの視線で、気安く批評しているに過ぎません。それは、決して成り立ちません。天国も神聖も、上から下を見る視線では、決して見えてはこないからです。
 
(楽山)
「ところで手元にある本の帯には、「種の繁栄か、個の幸福か―」なんて言葉があるけど、その方面の本を読んでみると群淘汰は微妙な状況にあるらしいが、これは純粋に科学的な知見によるだけでなく、全体主義をタブーとし個人の尊重をよしとする昨今の政治的な空気との関連はないのだろうか。なんか全くの無関係でもないような…まあこんなのは愚問ではあり勘ぐりすぎであろうが、ちょっと気にならないこともない。」
 
(楽山)
>全体主義をタブーとし個人の尊重をよしとする昨今の政治的な空気
 
楽山は、いったい、いつの政治的な空気を語っているのでしょう。国民の無関心と、いい言葉はいい意味に受け取るという単純さの蔓延によって、政治が、一方的な方向に、さらに独裁に向かいつつあることが、思慮深い人々によって叫ばれていることを知らないのでしょうか。むしろ、危惧されるのは、全体主義であり、個人の尊厳と自由と生存権が侵害されてゆく危惧なのです。楽山は、何も分かっていないし、分かろうともしていないようです。
 
このように、ズレまくったセンスで物を言うのが、今までの、そして、今回の、楽山の言論の筆致と中身なのです。本から言葉づらだけを拾ってきて、一度も暫定的な結論にも至らず、また、現実を見て、正当な判断をすることも出来ない人です。なのに、何の遠慮も慎みもなく、謙遜も敬虔もなく、いつもボンヤリ言語でごまかしながら、発するほうだけは、まともなつもりで、宗教や思想について、図々しく書いてくるのです。この執拗な図々しさは、よく言われる図々しさとは全然異なって、体質のように染みついていて訂正不能であり、稀であり、カルト的であり、悪質です。
 
私は、楽山とシャロームを、的外れ応答しかしてこないために相手を疲れさせるだけなので、ネットにおける疲労物質と呼んでいます。詭弁を弄し、話を恣意的に逸らし、ご機嫌取りに世辞を言い、人を大事にしているかのような優しい振る舞いの見せかけの狡猾さだけは持っていて、そこから、広まれば人格を壊すようなカルト思想を書いてくるのです。表れ方は違っても、この二人は、よく似ていることから、易坊を加えて、成りすましを疑っています。
 
 
(2019年09月16日)
 
 
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