ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年10月

 
  アドラー教について(2)
 
   アドラー心理学サロン
   https://twitter.com/PositiveSalon
 
 
短い言葉で人生の秘訣を教えようとする無理が表れています。
 

嫌いな人や苦手な人にまで良い顔をする必要は無い
好きになれない人は必ずいます
苦手なら、極力関わらないようにすればいい
「悪いから…」
「失礼がないように…」
そんなことを考えてばかりだと、他人の為に自分を犠牲にして生きることになる
もっと、自分の気持ちに素直になっていいんですよ

 
目を覚ましてください。
私たちは
「悪いから…」「失礼がないように…」
という理由で人と関わることを決めているでしょうか。
そういう人に良い顔をしているでしょうか。
違うでしょう。
 
好きだったり、興味があったり、ためになると思うから関わるのです。
だから、嫌いや苦手の人からは離れてゆくのは、言われなくても、必然なのです。
 
嫌いや苦手を、上のような言葉で我慢しているでしょうか。
そんなに我慢はしていないと思います。
 
「苦手なら、極力関わらないようにすればいい」・・などという言葉に振り回されないでください。ちょっと関わったくらいでは、その人が、どういう人かは分からない場合が多いです。
 
人との付き合いで、恐らく、ひどい目にあっているブログ主の、短絡した断言を、そのまま、人に向けないでほしいです。他者などお構いなしの自己中にならないでください。
 
人間関係の問題は、一言では言えません。深い思考と経験が必要なことです。ここに、それぞれの、人と状況に応じて、思考の意味があるのであって、ちょっと感じたくらいでは分かりません。豪語する教祖的な者に従うことに安易に解決を求めないほうがいいのです。
 

職業はその人の価値を表すものではない

 
立派な職業人は尊敬される、ということを無視して語る者は、
恐らく、立派な仕事をして尊敬されたということもないのでしょう。
それで目立つことを言って、一気に憂さを晴らしたいのかもしれません。
 

どんな職業に就いていても、その人の人間性は計れない
社会的な評価は絶対的なものではなく、指標の一つ
他人が決めた指標でした仕事の価値を計れないあなたは、どんな仕事をしても不幸ですよ
良い仕事、悪い仕事があるのではなく、自分がどう思うのかが全て

 
仕事の評価を自己の満足だけで測る人になりたいでしょうか。
他者の評価も指標の一つだということです。
仕事の恩恵を他者が受けるような仕事はどうでしょう。
 
価値の押し付けにならないようにしてほしいものです。
 
察するに「指標でした」→「指標でしか」でしょうか。
ならば
「他人が決めた指標でしか仕事の価値を計れない」人が多いのでしょうか。
価値の指標を他者に委ねる仕事も多いのではないでしょうか。
他者のために仕事することを誇りや生き甲斐にしている人もいるでしょう。
「自分がどう思うのかが全て」ではありません。それでは無反省になります。
豪語の断定が、裏目裏目に出ています。
 
自分がどう思うのかが全て、これこそ、自己中の勧めです。
自分がどう思うのか、ということに、「全て」を付ければ、
他者への配慮を無視し続けることになります。
どう受け取られるかを考えない言い方だと思います。
 
自己中に仕事を選んで、仕事がなくなることもあるでしょうし、
他者への思いやりで仕事をする心を、失うかもしれません。
 
社会的に偏向した考えを持つ者のうち怨念を育てている者は、
付き合いがうまくいかないものだから自分の思い通りの夢を見て広めようとするのでしょう。
どうか処世の限られた一部を、人生の金科玉条にしないでください。
 

バカは死ぬまでバカなのです
これは愚痴でも悪口でもありません

 
よほど、人のことをバカだと言いたいか、言ってきた人だと思います。
あるいは、言われてきた人かもしれません。
 

本当の話なのです
どれだけその人のことを考えてあげても、親切に手助けをしても無駄な人は必ずいる
人は自分が学習しようとしたり、成長しようとしない限りは何も学ばない
何を言っても、どう思うのかは他人の課題なので割り切ろう

 
悪口ですね。
なんだか実感がこもっているような気がします。
いっぱい切り捨ててきた感がうかがえます。
それは個人的な経験であって人間関係の総てではありません。
 
他人の課題だからと、割り切る、つまり無視する
ということを言って解決する問題ではありません。
 
距離の取り方にも、学習と成長が必要なのだから
嫌われること以上に、恐れるべきでないのは、失敗することです。
そこから学び取る図太さを身につけるべきであって、
大事なのは、無視で楽を得るのではなく、
じっくり考えて、乗り越えることが大事なのです。
 
それも学習なのだから、精神を病まない範囲で、考えることが大切ですから、
思いわずらうようなら、いったん保留して休憩すればいいのです。
 
ひと言で格言のように表して、ひと言で切り捨てて、
それで解決するようなことではないのです。
 

「信用」するのではなく「信頼」するのだ。
「信頼」とは裏付けも担保もなく相手を信じること。
裏切られる可能性があっても相手を信じるのである。

 
これは、何なのでしょう。
人間関係についてならば、舌足らずです。
ブログ主を信じよということなら、まさにカルトの信じ方になりますが。
 

嫌いなら関わることない。
嫌いなら話しかける必要も無ければ、相手にしなくたっていい。
結局、嫌い嫌いと言いながら、その人にまとわりつく人は、自分に自信が無いだけ。
自分の人生に意義を感じたり、集中できないから他人に目が行くのです。
あなたの勝手な都合で、他人を傷付けないで下さい。

 
嫌な人には、関わらない、話さない、相手にしない、というのが、
気に入らないことは無視するというアドラー教の常套句ですが、
これ、悪口を言って、憂さ晴らししているのと、たいして変わりないです。
 
危険からは、当たり前に、一目散に逃げるしかない。
 
しかし、無視する、逃げる、ということが、いつも正しいわけではなく、
そもそも、いつもできるわけでもないのです。教える言葉だけの気安さが全開です。
 
相手に面と向かってでもなく、傷つけないでください、と言って、相手は傷つけなくなるでしょうか。言葉の気安さでは、解決しないことがいっぱいある現実世界で。
 
>他人が何をやっていようが、そんなことはあなたには関係の無いことですよ?<
 
また、一面的な決めつけです。
自分に関係のあることをやっているかもしれません。
 

そんなにその人が気になって仕方がないのなら、その人の為に何かしてあげたらどうですか?
他人への関心は、優しさ以外は無意味

 
気になって仕方ないなら、優しさには関われと言っています。
極端に問題を単純化しています。
その同じ記事の流れの中で、さかんに無視を勧めているくせに。
 
優しさ以外は無意味でしょうか。冷静な知性と感性を忘れてはいけません。
優しさにも見かけだけの偽善的なものもありますから、関われと一概には言えません。
 
正しいことが何かを、求めなくていいのでしょうか、考えなくていいのでしょうか。
 

人の詮索ばかりする人は、他人の話をして、他人を引き立てるだけの存在として人生を終える。

 
また、預言者か。言葉だけの気安さで、余計なお世話をしているのは、誰だろう。
 
 

自分の歩んでいる道をしっかりと見よう
その先に何が待っているのか、その先のどこにゴールがあるのかは自分次第です
それを決めるのは自分次第であり、他人によそ見をしてはいけない
よそ見をすれば、車の運転と同じように必ず事故に繋がる

 
自分の歩んでいる道がしっかり見えることは稀だと思います。
自分次第、というのは、無責任な言い方で、具体的なアドバイスにはなりません。
よそ見に喩えても、具体的にはなりません。
 
>あなたの道のりは、他の誰のものとも同じではありません<
 
ブログ主とも違うのです。一人一人違うのです。
何が分かったつもりで物を言っているのでしょう。
 
短い言葉で表しても、それが格言的であっても、
すべてが解決して幸福に結ぶ付くような短い格言はありません。
言葉を信用しすぎないようにしてください。
大事なのは心です。心を表すのに、短い言葉で済むはずはないのです。
 
共感と共有を大事にして、深く広い思慮を求めることが必要です。
これは、短兵急に学べることではありません。
短い言葉を、一面的な格言としての限界を知らずに鵜呑みにするのは、とても危険です。
 
 
(2019年10月26日)
 
諍い(いさかい)
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  アドラー教の思いこみ
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
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   2019-03-31  
  自分はできる❗️そう思い込むと人生は上手くいく❗️
  アドラー心理学サロンです。
 
 
アドラー教の、乱暴で強引なポジティブ思考、偏った意味づけの勧め、無責任で能天気な予測、学習できない無反省、などが明らかになってきています。
 

マハトマ・ガンジー氏はこう言いました。
「人間は、その人の思考の産物にすぎない。人は思っている通りになる」
これはまさにアドラーの観点からも言えることで、アドラーはこの世界には客観的に立証できる事実は存在せず、すべてはあなたの与える意味づけ次第であるとしています。

 
(ネットより:)
・人間は、その人の思考の産物にすぎない。人は思っている通りになる。
・私は「自分はできる」と確信を持ったときに、最初は自分がもっていなかった能力でさえ確実に手に入れるようになる。
・信念が変われば、思考も変わる。思考が変われば、言葉も変わる。言葉が変われば、行動も変わる。行動が変われば、習慣も変わる。習慣が変われば、人格も変わる。人格が変われば、運命も変わる。
・人間というものは信じた自分になることが多い。もし、自分にはそんなことはできないと思ってしまうと、それで本当にできなくなってしまう。しかし、もしできると信じたならば、たとえはじめはそのような能力がなかったとしても、それをなし遂げる力を得ることができるのです。
(名言ノート:マハトマ・ガンジー)
https://meigennote.com/134#i-6
 
これは、むしろ、理想を成し遂げる力のことを言っているのでしょう。
自分の課題ではないというアドラー教の思考は、成し遂げるというより、気に入らないから無視するのだから、大きな理想を最後に成し遂げるという感じではないので、このガンジーの言葉は、アドラー教には、当てはまらないような気がします。
 

つまり、このアドラーの「意味づけ」の論理では、あなたという存在はあなたがどんな意味づけを与えるのかによって定義されているということになります。

 
つまり、ガンジーの言葉を、このようなアドラー教の意味付けに結び付けるのは、理路として、成り立たないような気がします。
 

どんな状況にあっても自己肯定感を失わずに、自分を信じて前向きな行動を起こせるセルフ・イメージを持つことは、幸福な人生を歩む為に非常に大切なのです。

 
どんなときにも、肯定、前向き、という、多くのスピリチュアルやカウンセリングのサイトが言っているようなことを言っています。
 
肯定は、否定を知ることで、見出され、前向きは、後ろ向きを知ることで、見出されることです。
つまり、否定的な状況で、気に病まない範囲で、考えることが、先に必要です。状況を受け止めることなく、やたら、自己肯定と前向きを勧めることは、自己中を勧めることになります。
 

思い込むだけで自信に満ち溢れた成功する人生の舵を切ることができるのなら、思い込んで自信を無くし、不幸な人生に進むくらいなら、良い方へ思い込まないと損ですよね(笑)

 
不幸を無視して、自身に満ち溢れよというのでしょうか。無理にかじを切ると、風と波に煽られ、沈没することもあるでしょう。「損ですよね(笑)」・・いかにも安い宣伝・・
 

自分のセルフ・イメージを高く保つことができれば、自己効力感という心理学用語で「自分にはできるんだ!」という肯定的な感覚を覚えることができます。
自己効力感があれば、どんなに酷い苦境にあなたが陥っていても、あなたは何度でもやり直せます。

 
(ネットより)
自己効力感(じここうりょくかん)またはセルフ・エフィカシー(self-efficacy)とは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知していること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%8A%B9%E5%8A%9B%E6%84%9F
 
難しい言い方をしていますが、「自分にはできるんだ!」と思い込め、と言っているわけです。
教えとして、陳腐な励ましで、しかも、場合によっては、無理なことを勧めていると思います。
 
アドラー教は、心を肯定的に強くすることを教えているようですが、いつも、できる、できる、と思い込む習癖は、思考の躁的状態を目指すことになり、一方で、反省力を奪ってゆく可能性があります。いつも、単方向に言葉が過ぎる体質のブログ主のようです。
 

どんなに最低な失敗をしても、何も学ぶところ、得られることが無いなんてありえないのです。
ささいな失敗であれ、重大な失敗であっても、ひとまずは「ラッキー!」や「自分はツイてる!」と小声でもいいのでつぶやき、思い込むようにしましょう。

 
失敗から学ぶには、失敗を自覚し、反省することが必要です。それを促すのに、いつも肯定的に思い込むことを勧めるのは、理路が錯綜しているような気がします。
 
>人には、認知的不協和という性質があると心理学では確認しております。<
 
(ネットより)
認知的不協和(にんちてきふきょうわ、英: cognitive dissonance)とは、人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
「煙草を吸う人が肺ガンになりやすいのは、煙草が肺ガンを誘引するのではない。ストレスを抱えている人がストレスを和らげるために煙草を吸うだけであり、ストレスが要因となって肺ガンを引き起こすだけで、煙草と肺ガンの間に因果関係はない。」
「煙草を吸うと肺ガンになりやすい」を変化させることで、認知的不協和状態を解消させようというものである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%8D%94%E5%92%8C
 
不協和を解消するために態度や行動を変更するということのようです。
 
アドラー教のブログ主は、認知をゆがめて不協和を解消させることを勧めているようです。だから、ここでは、情報を利用しているだけで、肯定的に捉えているとは思えません。
 
アドラー教と呼ぶのは、こういうところなのですが、
学問は、命題を表すのであって、どうしなさいという命令を表しません。したがって、教える姿勢で語るならば、それは学問ではなく、学問を解釈した発言者、ここではブログ主の教えということになります。
 

これは自分の行動や言動と、自分の認知のつじつまを合わせようとする性質です。この心理学の認知的不協和という性質を理解して応用してしまえば、前向きな言葉を自分にかけることで無理矢理に自分の思考を前向きに軌道修正することができ、行動を前向きにすることができます。

 
つまり、無理矢理な軌道修正は、あくまで無理矢理なわけです。認知を、むしろ、ゆがめて、不協和を解消させる、つまり、認知のゆがみを正す認知療法の、逆を行くことを言っているようです。
 
どうも、ブログ主の語るアドラー心理学は、方向性に無理があるような気がして、あちこちで、言い過ぎで、修正というより、このままでは、不自然にゆがめてゆくような気がします。
 
むしろ、認知的不協和という術語は、
「人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている」と
書いてあるように、不協和を自覚して、そうではない方向に是正してゆくためにあるのではないのかと思われますが。
 

どんなに最悪な失敗を犯していたとしても、取り敢えずポジティブな言葉を自分にかけてしまいましょう。
こじつけ感があってもいいので後付けでポジティブな意味づけをアドラー流で与えてしまえば打開策を見つけられます。

 
とうとう、こじつけも正当化して、勧め始めました。無理矢理ポジティブという感じですが、無理をすれば、必ず、しわ寄せが来るでしょう。
 

失敗した時にネガティブな言葉を口にすると、どうしても認知的不協和の性質によって思考がネガティブになり、取れる行動も後ろ向きなものになってしまいます。
失敗をした時に「しまった…」と考えてネガティブなことを口に出してしまえば、前向きに打開策が考えつくことはありません。

 
むしろ逆ではないでしょうか。失敗したときに、自信たっぷりにポジティブなことばかり言う人を信頼できるでしょうか。状況把握が出来ていない人は、克服も立ち直りも、歪んだものになり、それを自分の課題として固着させれば、言い張るだけの妄想狂のような様相を示すかもしれません。
 

常に自分に対してポジティブな言葉をかけたり、自分の好きなものを近くに置いて、嫌いな人やものを遠ざけるだけであなたの自分自身に対する意味づけはポジティブなものに変わっていき、自己効力感を高めてどんなことが起きても切り抜けられるようになります。

 
ここに、かなり、はっきり表れていると思います。どんな忠告も、どんな失敗も、反省材料とせずに、まるで好きなものだけ近くに置いておくように、力んで笑顔を作って強張っているような、悔いることも修正することも忘れた能天気な独り善がりになりそうな気がしてきます。そういう人は、一般に、恐ろしく、傍迷惑です。
 

あなたが自由に与えることができる意味づけならば、アドラーの言う通り自分の好きなように付け替えて幸せな人生を歩みましょう!

 
今まで、無条件ポジティブを乱暴に言ってきて、「自由に与えることができる意味付け」とは何でしょう、そして、「自分の好きなように付け替えて」・・これで、いいものでしょうか、これこそ、無責任な自己中心の勧めでしょう。
 
 
約8年間批判してきた、シャロームという偽牧師がいて、傍迷惑のサンプルのような人で、何を言われても、強がって、言いがかり、言い逃れ、そして、批判に対しては、反論でも弁明でもなく、当てつけや嫌がらせを書いてくるだけです。しまいには、自分側の信者や支持者の数で優位を誇って罵ってきます。何を言っても無駄なのは、不都合を受け取らず、思考と感性が、ガチガチの訂正不能・成長不能に陥っているからです。言論の責任を取らずに、言いたい放題です。
 
約1年間批判してきた楽山というアドラー教宣伝者がいますが、とても、いい加減なで、都合の良いところ以外は無視して、文脈を読んでも全体の流れを把握できず、また、何ごとも心で受け取ることができず、一部の言葉だけを、薄く浅い理屈でいじっては、いちゃもんだけを書いてきます。心にかかわる大事なこと一切を、気に入らないものとして無視してきた結果だと思います。いちゃもんに反信仰も自尊過大も表れていますが、言論の責任を取らずに、曖昧な書き方でごまかしてきます。
 
この二人は、ひょっとして、アドラー教が基軸にあるのではないかとさえ思えてきます。
 
騙される人は、作為か正直か分からないまま、騙されてゆきます。表面的な遣り取りが多いネットですが、そこが、カルトの企みの温床になっているようです。
 
 
幸福へのアドバイスは、ネットでも受けているようですが、安易な短絡で出来ているなら、必ず、自他ともに、しわ寄せは来るのです。
 
言論の自由を行使するなら、言論の責任は必ず問われることになります。
 
一端に過ぎない短い豪語で、総てを語り得たつもりで、幸せになれると言うなら、もうとっくに、幸せは溢れているはずです。言葉は万能ではありません。人間ですから誤解や曲解を受けるのは常ではありますが、あまりに無責任な豪語が激しければ、揺り返しも激しくなるでしょう。
 
 
(2019年10月25日)
 
罵る(ののしる)
 
 
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  アドラー教について
 
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短い言葉で人生を断言することの無理が表れています。
言葉で表すということに、恐れをいだかない者の所業でしょう。
自己中心、結果に対する無責任、逃避、鈍麻、の勧めと言ってよいでしょう。
 
人間関係を考える上での安易さが作り出した心無い短絡的豪語。
カルトであって、心理学という学問ではないと思う。
 

人間関係の中では、他人には素直になってはいけない時もある
自分に素直になれないと、自分を押さえ付けてしまうだけ
本当の自分を押さえ付けてしまうと、自分の気持ちを満たすことができない
一度きりの人生、この世界にたった一人しかいない自分を幸せにできるのは自分だけだ

 
自己中の臭いがプンプン
 
他人の意見を無視して、自分をコントロールしないことが、自分を幸せにするのか、
それとも、怒りを買って、殴られ、逆に、無視されることになるのか・・
 
>好きの反対は無関心、嫌いの反対は好き<
 
言葉の細工をして何になるでしょう。
 
>本気であなたを嫌い、見下しているのなら人は無関心になるのです<
 
殴ってくる輩もいるでしょう
 

嫌いだからって文句をつけてきたり、嫌がることをしてくる人は本心ではあなたに構ってもらいたいだけ

 
そういう気色の悪いことを言って、シャロームという自己中の訂正不能の妄想を広めている愚か者もいます。相手を怒らせて退かせようというナルシシストの憎まれ口の一つ。怒気が籠っている。
 

要は自分の不幸をあなたのせいにしようとしているのです
そんな人達は完全に無視をしよう

 
無視して解決したことにしても、相手は無視されて、地獄の鬼となることもあります。
無視するという態度は、関係がなくなることではなく、人間と見なさないという、とても冷たい態度として受け取られることを分かっていない。心が無い人の思いきり方。
 
>みんなが自己中になれば、世界は平和になるのかも。<
 
という意見がありました。
人間が何も求めないということはなく、自己中に求めるなら、
世界は、大小の諍いや闘いや戦争に入り乱れるでしょう。
 

この世界は全てが移り変わり、過去を正確に覚えている人間は一人もいない。
あなたがどんな失敗をしようと、どんな恥を晒しても、誰もあなたのことなんて覚えていない。
根本的に、人は他人に興味は無い。
どう思われるのかを気にしたところで、あなたのことをそこまで思ってるのはあなただけです。

 
ごくまれな、思ってくれる人を、失うかもしれませんね。
 
次から次に、言葉の暴走です。
そもそも、幸せになる方法を、言葉ですっきり表せる、という考え方が間違っていると思います。
 

「暗い」のではなく「優しい」のです。
「のろま」ではなく「ていねい」なのです。
「失敗ばかり」ではなく、「たくさんのチャレンジをしている」のです。
捉え方を変えるだけで、短所も長所になります。
ポジティブに捉えるか、ネガティヴに捉えるのかで、見える世界は大きく変わります。

 
暗くて冷たい人もいるでしょう、のろまで雑な人もいるでしょう、失敗ばかりで、たくさんの機会を駄目にすることもあるでしょう、・・ここまで来ると、言葉を捻じ曲げる暴力。独りでポジティヴに曲げていると、曲げていない人から攻撃されるかもしれません。
 
捉え方を変えているのではなく、言い方を細工しているだけではないだろうか。
口八丁手八丁で、言葉は変えられるが、関係は変えられない。
人は、勝手に扱われることを決して好んだりはしない。
また、ネガティヴを忘れて、ポジティヴは存在しません。
 

勘違いしている人に、物事を分からせようとしてはいけません。
勘違いしている人は、その勘違いの世界で生きています。
軽く諭しても変わらないのなら、そのままにしておきましょう。
あなたが消耗するだけです。
あなたの考え、相手の勘違い、どちらが正しいのかにこだわっても消耗するだけです。

 
「あなた」については、考えと、「相手」については、勘違いと、当てるのは恣意的です。
 
勘違いは、一時の間違いから訂正不能の妄想まであります。そこを明らかにしないまま、無視して、放置して置くと、言葉で割り切るほどには割り切れない関係が、返されてくるでしょう。
 
どちらが正しいのかにこだわらない、という割り切り方は、
消耗が明らかなときに限られるのです。最初から割り切るのはカルトです。
 

いじめられたら、すぐに逃げ出してしまいましょう
そんな人達と関わる必要も、我慢する必要もありません
あまり我慢して、我慢している自分に酔ってしまう方がよほど問題です

 
つまり、こういう教えの先には、しばしば、逃げる、ということが付いてきそうです。
逃げられない場合を考えないのは、教える側が、言葉だけの気安さだから。
 
我慢して、我慢している自分に酔うかどうかは、自分の問題です。
忍耐せずに、結果を見ずに、言葉だけ、逃げを勧めるのは、
それこそ、教える側の、逃げなのです。
この無責任な説教者を、逃がさないようにしてください。
 

いじめ、嫌がらせには、大した理由はありません。
「自分が悪いのかな?…」なんて考えてはいけません。

 
自分が悪いんだと思い込む必要はありませんが、だからと言って、自分が悪いのかな?という思考を忘れることは、無反省の自己中心を勧めることに他なりません。
 

本気であなたが嫌いなら、そもそも関わってきません。
自分の虚しい思いを、いじめや嫌がらせで発散しているような人間と関わる価値はない。
そんな人間や場所からは、離れてしまいましょう。

 
本気で嫌いになったら、逆に、無視、疎外、物扱い、嘘、暴力、など、ヤバい人から、いろいろな方法で、返される可能性~危険を考えないのでしょうか。
 
>悪口を言ったり、いじめをするような人達は永遠に不幸のどん底に生きる<
 
永遠とは・・預言者か。
 
>幸せな人や努力出来る人は、悪口を言ったりいじめなんてやる暇は無い<
 
人の時間割が分かるのか。脳天気な見方です。
 

絶望して、自分を惨めだと思っているから他人を傷付けて憂さ晴らしをする
他人のあら探しをして優越感に浸ったり、自分を大きく見せることがその人達の人生

 
自分に都合の悪い人を、憂さ晴らし、優越感、大きく見せる、と罵って無視しておれば、
悪口、冷たい、という評価が返ってくるだけでは済まない場合があります。
 
 
※ 
 
約8年間、自己中妄想教理?が訂正不能な偽者の自称クリスチャンと、
約1年間、アドラー教を宣伝している自己中に関わって、批判しています。
二人とも、ここで宣伝しているようなことを、強引に実践しているかのようです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12537802783.html
人の都合を全く考えない、とてつもなく迷惑な存在として、
こちらの理路を全く把握できない、返せるところだけ返して理路がバラバラになっている、仲間の言うことには無条件で賛成する、感情が鈍化している、無反省で学習機能が無い、昔の疑問がずっと今も疑問のまま、建設的な思考が出来ない、ああでもないこうでもない、結論が出ない、相手を疲労させるだけの言い逃れの山、さらには、どんどん口が悪くなり、中身がなくなる、それで、真っ当な議論をしたつもりになっている、裸の王様、独りよがり、インテリ気取り、誰も認めていないのに、自尊が過大で、してやった根性、上から見下ろす態度、見せかけだけの丁寧語、掘り下げることも深めることも出来ない、同じことを何度も言ってくる、そういう人、まるで、議論にもなりません、話になりません。
 
言葉は気安く使われます。言葉を過信しないでください。
現実の事態は、もっと複雑です。人間関係は、複雑です。
歯切れの良さや、思い切りの良さに、だまされないでください。
そういう説教には、説教者の経験からの主観的な反発の過激な勢いが入っているものです。
 
自分にとって気に入らないというだけで、不可避であることの根拠が不明確のまま、ばっさばっさと無視してゆくならば、反省が疎かになり、人間性の鈍化を招き、他者の言動に鈍感なボンヤリ人間をつくるでしょう。かつ、人間は、総てを把握することはできません。知らないところで、破壊が起こっていることに気づかない場合があります。
 
 
(2019年10月24日、同日一部修正)
 
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   踏む
 
 
踏まれた虫は
踏まれて易々と無視されるが
 
踏まれたという怒気の記憶が
踏んだ足の裏に隠れる
 
無形の返し技
 
取るに足らぬ者が
街を行けば
 
一歩一歩に別の世界を踏み
 
故郷から
 
取り返しのつかない異土の住人になってゆく
 
見知らぬ街に、ここはどこ?
いつもの顔は、いつもの顔か
 
足下は
なじみの故郷でしょうか
 
夜の暗がりから
目覚めればいつも仰天している
 
日常はいつも前人未踏である
 
 
(2016年08月16日)
(2019年10月20日、一部修正)
 
故郷(ふるさと、こきょう)
異土(いど)
仰天(ぎょうてん)
足下(あしもと)
前人未踏(ぜんじんみとう)
 
 
  堕落
 
 
苦し紛れの眼力に
言葉の関数になるくらいなら
言葉など壊してしまいたい
 
 最初に捨てた季節
 
身に受けた水分が
潤いにならないのなら
排泄だけが気象を変えるのか
 
 最初に泣いた砂
 
動いていることさえ否定して
歪んだ凹凸を笑みと言うのなら
剥がしても潰しても顔ではない
 
 最初に折れた距離
 
堕落は草花の痛覚に息をする野原で。
 
 
(2016年07月??日、同日一部修正)
 
眼力(がんりき)
歪む(ゆがむ、(ひずむ))
凹凸(おうとつ) 
  cf.凸凹(でこぼこ)
剥がす(はがす)
潰す(つぶす)
(忘れそうな漢字、勉強してます)
 
 
 
宗教は一対一の説明をしたがるが、
信仰は辛うじて多義と不全を磨こうと思う。
 
 
 
(2019年10月23日、過去作、修正、再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  妄想コメント
 
   shalomのコメント(シャローム、シャロム、あなた、彼)
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/3906183.html#comments
 
 
シャロームは、私の記事を引用して、コメントを書いてきました。いずれも、根拠のない結論だけです。ずっとそういう筆致です。これでは私の批判に対する何の反論にも弁明にもならないと、何度も書いているのに、またしても、同じような、けなし言葉を書いてくるのです。
 
さらに、今回は、理路不全の思考障害に加えて、シャロームの思い込み信仰?の気味の悪い誇大妄想の部分が、かなり、明らかになっています。
 

1. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年10月21日 12:53
stさん いつものようにおはようございますと挨拶を送ります。

 
何とも、奇妙な書き方をしてきます。挨拶書けば、丁寧に書けば、まとも、というのは、とうの昔に、成り立たなくなっているのに、それでも挨拶を書かないと気が済まないのは、恐らく、習慣が強迫観念になっているからでしょう。
 

「シャロームshalomは、現在、所在不明ですが、
キリスト者そして元牧師と称しながら
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい
というキリスト信仰とは真逆の信条を持っている
つまり反キリストであり、カルト教祖です。
受け入れられて広まれば
権威という実行力を持つ社会悪となる危険大であります。」
とのことですが、
カルトに囚われた人達からよく聞くことのできる
他者に対する批判の言葉そのものですね。

 
シャロームは、私がカルトに囚われた人だと言いたいわけです。そして、シャロームが、根拠を示さず、どういうものかを説明せずに、カルトに囚われた人からよく聞くと、皮肉を書いて、決めつけてくる、というような嫌がらせは、ずっと昔からです。
 
私は、シャロームのことを反キリストと言っているのだから、シャロームは弁明するべきなのですが、弁明は一度も成り立ったことはないのです。代わりに、言いがかりと嫌がらせばかりを書いてくるのです。
 
根底には、頑固な、啓示と聖霊といった神聖が自分だけに分かる、という妄想があるのです。
 

また
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい
というキリスト信仰とは真逆の信条を持っている」
とのことですが、
イエス・キリストへの信仰、悔い改めは神からの恵みの賜物であって、
生まれながらの人の自由意思によるものではありません。

 
「悔い改めは神からの恵みの賜物」・・前にも記事とコメントに書きましたが、
シャロームは、信仰と悔い改めを並べて、信仰は賜物だから悔い改めも賜物だと言いたいようです。悔い改めは、信仰のはじめと、信仰生活において必須のことであり、何度も言ってきたように、悔い改めは人がすることです。
 
恵みばかりをありがたがるシャロームには、何度言っても分からないわけですが、シャロームが悔い改めないのは、神が、あなたの都合の良い恵みなど、与えていないという証拠となるのです。
 
あなたシャロームのような悪意の人に、悔い改めの意志が、生まれながらの自由意志か、そうでないか、どうして分かるのでしょう。またしても、自分に神聖を当てはめているシャロームです。
 
あなたの言っていた聖霊体験や神の啓示は、みんな、嘘っぱちでした。何故なら、そのような体験があれば、今、悔い改めをしないでいるなどということはないからです。また、悔い改めたというなら、罪を認めないことや悔い改めていないことの正当化などするはずがないからです。
 
でも、また、創世記や、キリストを試みた悪魔のところなど言うつもりなら、あなたの勝手な言い分は、害毒なので、聞く気はありません。
 

「真剣な言論者に対して
糧を与える代わりに精神の疲労を与え
無駄な時間を費やさせる悪意の病原と言えるでしょう。」
所在不明で、相手の見えない闇夜で剣を振りかざし続けるのは大変でしょうから、私が元気にしていることをお知らせするために
コメントをしました。

 
「相手の見えない闇夜で剣を振りかざし続ける」・・何度も言いましたが、私は、あなたという偽善カルトの警戒情報を広めるために、また、そのことは、多くのカルトに類似したところがあるので、批判を続けています。あなたシャロームの健康状態とは何の関係もないです。
 
あなたシャロームは、生死に関わらず、健康か否かに関わらず、既に、長きにわたる反キリストの思いこみ信条による妄想的カルトの例となっています。そのことを、私は、これ以上、誰もカルトに騙されることのないように、記事とコメント書いてゆくだけです。
 
あなたの健康状態など知らせなくて結構ですよ。私は何の関心もありませんから。
 
ちなみに、私は、正直言って、あなたシャロームの筆致を読むたびに、吐き気がします。
 

真剣な言論者とはstさんのことですよね?
yahooブログの閉鎖より約2カ月経過しましたが、
相変わらず独り相撲に大事な時間の浪費をつづけ、
精神の疲労を深くしておられるのは気の毒です。

 
真剣な言論者は、私だけではないでしょう。
 
ただ、嘘吐きの妄想家であるあなたシャロームでないことは確かです。
 
独り相撲と言いながら、あなたは、コメントを書いて関わるのですか。
 
「独り相撲に大事な時間の浪費」・・また、罵り言葉だけを書いて、一方では、
「疲労を深くしておられるのは気の毒」などと、白々しい丁寧語を書いてくるのは、
まさに、うわべだけの同情の世辞を書いて、人を惑わすシャロームの特徴であります。
もはや、何の効果もなく、真に受けず、無意味な虚言として処理しています。
 

人としての自由意思や共感をなにより大事にしながら、
正当な言論、真剣な言論といって多くのブログを開設し、
他者を執拗に批判をし続けておられますが、
どなたかstさんの自由意思と共感を共有しておられる方はおられますか?
それともだれもいなくとも、天上天下唯我独尊の心境なのでしょうか?
(続きます)

 
あなたシャロームは、人の記事を読まないし、読んでも読解できないからでしょうか、
私は、記事に、

「stさんに同調し、支持し、私に対して注意された方のHNを教えてくださいませんか」と、
嫌らしい丁寧語の当てつけで、お仲間という数を頼んでの皮肉を言うなど、正常な理路を失って、むしろ、相手に打撃を与えようという悪意の意図だけがあからさまになります。
 」
また、

カルト信条のシャロームの仲間の数が多いなら、それは、そのまま、社会の脅威なのです。
 」
と書いているわけです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12537802783.html
 
それを、また、今さらのように、

どなたかstさんの自由意思と共感を共有しておられる方はおられますか?

と同じことを書いてくる嫌らしさ倍増のコメントを書くことの、どこに、あなたシャロームは、意義を見出しているのでしょう。常識的思考による判断が出来ないからでしょうか。嫌がらせでしょうか。
 
>だれもいなくとも、天上天下唯我独尊の心境なのでしょうか?<
 
それは、自分を特別に神の啓示が分かる神聖?の位置において、自我の成り上がりの誇大妄想を勘違いして、ぐだぐだと語っているあなたシャローム自身のことです。
 
 

2. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年10月21日 12:58
stさんは人間らしい自由意思によって信仰を告白し、
人間らしい共感をとても大事にして、
信仰の歩みをしておられるようですが、

 
あとを見れば、これは、世辞でしょうか、皮肉でしょうか、正気でない表れでしょうか。
 

御言葉と御霊による自由意思は全く機能していないようですね。
ですから
「糧を与える代わりに精神の疲労を与え
無駄な時間を費やさせる悪意の病原」
としか思われない

 
シャロームは、人間らしくない神の啓示と聖霊による信仰らしいです。
人間らしくない魔物を与えるのが神だと思っているようです。
 
信仰・希望・愛、いずれも、人間に理解と共感可能だから大切なのです。
シャロームは、信仰の一番大事なところが、全く分かっていません。
ゆえに妄想しか語れなくなっています。決して、関わってはいけない人です。
 
また、超常の神聖を根拠にしたことで、さらに、「御言葉と御霊による自由意思」などという、もっともらしい子供だまし、でっち上げの安易な自己正当化の組み合わせによる造語的な言葉を使って、シャローム自身には機能しているという主張をするところに、人間性と良心を失ったカルトの、神がかりと人間離れが、表れています。
 
シャロームは、なんでも、自分に都合のいいように言い張る根拠に妄想の中の神聖?を使うしかないのでしょう。まさに、ひとかけらの信仰もなく、ただ、神?の自分びいきの超常だけを言い張るカルトの醜さが、彼の頼りとなっているのです。自己崩壊が、惜しみなく、駄々漏れしています。
 

私shalomに囚われてしまい、所在不明の私や他の人を
自由(楽山)さんや易〇さんの名前を書いて、
いつまでも繰り返し、成りすましだと邪推しつづけるのは、
stさんがいつも強調しておられる人間らしい自由意思による
選択の自由が機能不全になっているからではありませんか。

 
意味不明です。言葉の意味を汲み取れず、組み立てられないシャロームの特徴です。
 
私が、いつ、シャロームに囚われたというのでしょう。恐らく、シャロームは、囚われているから批判するのだと言いたいのでしょう。ずっと前に、自分に依存しているから批判する、というのと同じです。
 
シャローム、あなたには、囚われるような何の魅力もありません。既に何度も書いたことです。
 
私は、シャロームが、いつまでも、書いてきて、その度に、妄想が明らかになってくるのを見ていますが、かなり悲惨です。治療か、反省に、あなたは専念するしかないのです。
 
所在不明なのは、シャロームのネットでのブログのアドレスのことです。
 
また、批判は、私の自由意志による批判です。あなたシャロームが、選択の自由の機能不全などと言うのは、知りようのない他者の心を見たかのような、これも、妄想です。いつものように、心配するような口調で、平気で、おとしめてくるシャロームです。
 

神なき人の自由意思は病み、機能不全なのです。
人の自由意思による知性や理性によっては気づくことのできない
病識、霊的な病であり、罪という言葉の意味なのです。
この病識の気づきを与えられることが悔い改めのようです。

 
あなたは病んでいます。だから精神全般に機能不全です。
内因性によるのかカルト的思考によるのかは分かりませんが、
あなたの信仰?は、聖書の伝える信仰とは正反対の妄想です。
 
信仰は皆無、反信仰は全開です。今回も、それが明らかになっています。
根拠は、今まで、数えきれないほど、書いてきました。
一つは、反キリストの信条だからです。
 
シャロームには無いようだが、人間は、自由意志や知性や理性の、健康で謙虚な良心があるから、信仰に気づけるのです。あなたの超常の神聖妄想など、全く必要ないのです。
 
あなたには、人間らしい良心がないから、霊的、というより、良識では了解不能な思い込みに囚われています。それは、罪の自覚のない信仰上の病気です。病識が無いのは、あなたが、確信して訂正不能になっているからです。
 
あなたは良心を持ったことがないので、神聖にこだわり、引き寄せられない神聖を引き寄せた気分になっているだけです。誇大妄想と何の違いがあるでしょう。
 
悔い改めは、自由意志で、人間の側から、罪人であることを認めて祈り、赦しを乞うことです。
 
悔い改めないあなたが、どうして、悔い改めは・・云々を語るのでしょう。
病的で、聞くに耐えません。
 

今年も10月下旬となりました。
間もなくクリスマス・ソングが街に聞かれるようになります。
本当に時の流れの速さを感じます。
どこからどこへ流れているのかを問う必要があります。
だれに問うことが出来るでしょうか。
私たちが自問自答をしても答えは人の手のうちにないようです。
イエスさまはご存知だといわれましたが、
その道は十字架の道という人知では理解できない道でした。
ですから、ピリポはわかりませんといいました。
それは今も変わりません。
人の生まれながらの自由意思による道は
ますます混迷を深めているようです。
また所在不明に戻りましょう。

 
シャロームの御託に従うのは、悪魔の誘惑に乗ることです。あなたには、悪意による妄想しかないから、あなたの信仰?そのものが妄想であり、さらに混迷を深め、混乱して、また、さらに進行して、あらぬことを口走るでしょう。あなたの信仰は、信仰ではなく強迫性を伴った信仰上の病気であり、このままでは、破滅に向かって進行するだけです。
 
人知で理解できないことを、神聖によって理解したつもりの誇大妄想から、世をを憂えても、シャロームあなたの虚言には、うんざりです。今まで一度も、信仰も感動も共感も納得も理解も、また、その糧となりそうなことも、あなたシャロームの言には、見出せたことがありません。
 
私は、それをあなたの自業自得だと思うので、特に同情もせず、他者へ与える悪影響を考えて、冷静に、批判してゆくだけです。第2のシャロームが出てこないことを祈るばかりです。
 
>shalom!
 
強迫性によって、こういう挨拶、書かないと気が済まないのでしょうね。
 
まあ、発言を控えて、養生することが大事ですが、自尊を守るために、さらに書いてきても、また、あなたの、強迫性と妄想と自分信仰と神がかりと人間離れの自分信仰が表れてくるだけだと思います。 
 

 
シャロームのような超常の神聖を決めつける信条と聖書解釈は、日常の人間らしい感覚と思路と情感を損なってゆきます。本人は、どんどん誇大的な方向へ奔逸してゆくか、体系化して固着してゆき、その妄想を繰り返し出してきますが、そのために、人間らしい理路も共感も必要ないと思い込むので、不可逆になりやすく、これは、脱却が困難になる社会悪のカルトと同じだろうと思います。
 
 
(2019年10月22日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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