ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年11月

 
  神の与える益
 
 
シャロームという偽善者の最悪の実例を見てきたことから、
信仰というものを、よくよく考えてみる必要があります。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ3:28、新約聖書)
 
このことについて、シャロームは、次のように書いています。
 
「かつてはその弱さにつけ込まれ誘惑されて罪を犯していたのですが、しかし、信仰によってその弱さが神の愛と力があらわされる恵みの水路となるのです。神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方であると聖書に書かれているとおりです。」
 
シャロームは何をしてきたかと言うと、
1.罪と認めず、悔い改めをしない、という、キリスト信仰とは真逆な信条、
2.1を批判し、おかしいと指摘すると、悔い改めは神が与える(だから今はしない)などと言う言い訳。
3.さらには、人間の自由意志を、聖霊による自由意志とは違う、という詭弁。聖霊を知っているかのように、自分を神格化しているだけです。
4.おびただしい偽の解釈と、詭弁だけでなく、平気で嘘を吐く、でっち上げの作り話で、批判者をおとしめる、など、悪意だけが明らかになってきたのです。
いったいどこが、神によって益とされたと言うのでしょう。人にとって害となることだけなのです。
 
つまり、シャロームは、聖句の益ということを、自分に好都合の益だと思い込んでいるのです。だから、何を仕出かしても、神が与えた益だからありがたやと、反省しないのでしょう。
 
神が「万事を益となるようにしてくださる」とは、「ご計画に従って召された者たちと共に働いて」と書いてあるように、人と神の共同作業であり、信仰の恵みを受けて答える双方向であり、導きの願いと、行いと悔い改めの祈りの、信仰生活そのものなのです。
 
それを、曲解して、シャロームは、神が益としてくださったのだから、なんでも正しいと思い込んで、好きなように、自分の身勝手を通す理由にしているのです。
 
信仰には、勘違いしやすいことがあります。さらに妄想化したのがシャロームです。
 
救いは具体的な奇跡が起こること、恵みと益は自分の身勝手の実現、罪に死んだから無罪になった、神の平安と言って自らの無為と怠慢の安穏の正当化、二千年前の肉体の復活を根拠にして信仰の心に根拠を求めなくなる、聖霊、異言、預言などの異常体験、神は絶対だから信仰も絶対とばかり豪語して自らを絶対化する、自己正当化の絶対化、
等々は、おぞましき背教であり、シャロームは、このほとんどが当てはまるのです。
 
これらの悪い見本を、否定してゆくことで、望ましい信仰を、浮き彫りにすることが、ある程度、可能です。
 
1.神の与える恵みや益は、人にとって、いつも分かりやすいわけではなく、人の都合の良いものとも限らないこと。
2.物や肉体の奇跡は、少なくとも現代では、めったに起こっていないこと。
3.神の与える平安は、癒しであり、信仰という道の途上で、悲しみに対して与えられるものであり、信仰者が何時も味わえるようなお気楽な安穏の境地ではないこと。
4.信仰の根拠は、心の癒された体験と、キリストを忘れられない気持ちがあり、キリストの同伴を祈る気持ちであります。人間の良心と心から離れたところに信仰はありません。
5.聖霊体験や、異言や預言は、それが神からのものか、人の自己顕示欲によるものか、見分ける必要があり、さらに見分けるのは必ずしも容易くはなく、一般的には、神の意志と行為を決めつけてはいけないということが言えるのです。
6.神は絶対ですが、人は絶対ではない、ゆえに、人の信仰も絶対とは成りえません。
 
私たちの信仰は、赦し、癒し、慰め、導きを与えられるために、神に憐れまれることを求めることであり、それは、魂の奇跡として、人の心に与えられるものです。
 
祈りも悔い改めも、信仰生活も、そのためにあり、物や肉体の奇跡は、人の手に負えるものではなく、神に任されることであります。
 
絶対ではない人間は、絶対である神に対して、祈ることをもって双方向となり、信仰者となった後も、正直な祈りをもって神に仕え、神の民としての人生を送ることを唯一の信仰の目的としています。
 
 
 悪意による破壊:コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4236059.html
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、性懲りもなく、またコメントを書いてきました。
いつものように、あざといことです。
 

1. st5402さん お久しぶりです。
 2019年11月21日 09:20
「山本太郎は・・、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。」
 「イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです」
 送り込んだ、遣わされた、対応させたとみるのが自然だと思いますよ。書き方の不備だと思います。上の「わからい」も、よくあることですが、じっくり読み直してみてください。


おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です。
10数年前と相も変わらず、ご親切に、
文字や文章を修正、校正することがお上手ですね。
ありがとうございます!

 
わからないですか。本心で「お上手ですね。ありがとうございます!」と言う人は、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉は言わないんです。あなたシャロームの、軽蔑の笑いが表れています。
 
つまり、「おやおや」「いつまでもお疲れ様です」「お親切に」という皮肉の後に、褒めて、礼を言う、ということから、あなたの悪意の笑いがイメージされてしまうわけです。
 
いつまでも、執拗に、意地悪コメント書いてきているのは、あなたシャロームのほうです。
 
「おやおや」「いつまでもお疲れ様です」「お親切に」・・ずっとこんな調子で通ると思っているのが不感不応・学習不能の経過と結果なのでしょう。私が、あなたシャロームの褒め言葉を真に受けることはないと分かり切っているのに、また書いてくる。
 
あなたシャロームのコメントには中身がないから、考える材料にもならず、こちらは殆ど遊び感覚になっています。
 
書くたびに、恥ずかしいことになっていると、あなたシャロームだけが、気づかない。
 
 
  悪意という病:コメント欄(補足)
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html#comments
 
もう一度、3度目ですが、シャロームの発言を考えてみます。
 

山本太郎は自分は落選しながら、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。山本太郎はカトリックですが、イエス・キリストを信じるクリスチャンのようです。まるで末期症状を呈している日本にイエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです。

 
分けて見ます。
 
1.>山本太郎は自分は落選しながら、船後さんと木村さんを国会に送り込んだ
2.>山本太郎はカトリックですが、イエス・キリストを信じるクリスチャンのようです
3.>イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです
 
2が特に不可解でした。カトリックならクリスチャンのはずと思うので「ようです」の不可解は、
シャロームが、1の二人の議員さんをクリスチャンの「ようです」と喩えたということでしょう。
 
行為の主体が、1.山本太郎、2.山本太郎、3.イエス・キリスト。
行為の客体が、1.船越さんと木村さん、2.キリストを信じるクリスチャン、3.遣わされた人々。
という対応にしていると考えると、
 
2は、山本太郎はカトリックですが、議員の二人はまるでキリストを信じるクリスチャンであるかのよう。
3は、キリストによって、二人が遣わされたかのよう。
と考えると、
「ようです」は、行為の主体が3つ、好意の客体が3つ、この2つがそれぞれ同一であるかの「ようです」ということなんでしょうか。
コメントの遣り取りでは、シャロームが、早速、分からないのですか、と言ってきたのは、わざと分かりにくくして、引っ掛けるための罠だったかもしれない、ということを示唆しています。しかし、それは、そのまま、分かりやすく書くのではなく、罠として、分かりにくい書き方をする、あるいは、書き方がお粗末である、ということを示すことになります。
 
シャロームがどう考えたかにかかわらず、日本語の筋道としては、
「クリスチャンのようです」が仮想となり、「遣わされた人」も仮想として、二つの「ようです」が不自然だという問題も、いずれも、仮定の比喩表現となって、シャロームの言葉遣いの意図が、薄々見えてくる「ようです」。
 
シャロームが、いい加減な文脈を、推敲・修正せずに、書いてきたために、山本太郎をキリストに喩え、議員二人を遣わされた人に喩えたことが、無理があるために、分かりにくかったということでしょう。
 
文脈を理解した上で、なお、この比喩は、信仰上、無理があるということになります。シャロームが、誤解させるために、この文脈を作為したとすれば、かなり、あくどい煽動と刷り込みの詐欺師のわざであり、底知れないシャロームの悪意ということになります。
 
シャロームは、しばしば、人に問いかけ、人を試すような書き方をしてきました。彼が、習ったかもしれない牧師の影響があるのでしょうか。人を試す、ということは、自分は分かっていることを表します。そのことが、さらに、どうしようもなく、牧師としても、信仰者としても、資格のないシャロームの、あざとい見栄なのでしょう。
 
その欺瞞の姿こそ、シャロームの反信仰の証拠として空しさだけを表しており、この反面教師の偽キリスト者シャロームから、信仰者は、信仰において見栄を張ってはいけないことを学ぶだけです。シャロームの信仰?は、文章の上からも、箸にも棒にも掛からないほど、救いがたい醜さを露呈しています。
 
 
あなたシャロームの信仰は、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という発言と訂正不能によって、全否定されています。誰にとっても、益にならず、害にしかならない、自己中の妄想です。
 
私の批判コメントに対して、あなたシャロームは、削除、コメント欄閉鎖、未承認としました。つまり、隠蔽し、無視しました。私はあなたシャロームの嫌がらせコメントに対して、いちいちレスして批判しています。この違いは明らかです。
 
私は、あなたシャロームが、実に白々しく嫌な丁寧語の書き方で、前と同じような嘘っぱちを、独り得々として、だらだら書いてきても、無視するのではなく、コメントの質が悪くても、あなたシャロームが下劣な悪意の表れでしかなくても、どんなに、つまらない、何の糧にもならないコメントでも、受け取ったのち、批判を書いて晒し、かつ、記事にしています。
 
そうする私の意図は、汚い言い方ですが、
これがクソです、ということを示すことで、クソでないものを大切にしたいからです。
 
私は、最初から捨てることで解決することなどないこと知っており、ゆえに、読んで、考えて、返して、保存して、記事にするのです。
 
あなたシャロームは、捨て去ることで、経過するので、捨て去ったものに気づかず、いつか、捨て去ったものに、忘れたものに、捨て去られてゆきます。
 
これらは、次の記事にも書きます。
 
 
(2019年11月27日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  被害的・他罰的(3)
 
   st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)
   2019-11-21
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547467881.html
   楽山日記(a)より抜粋
 
 
楽山は、すでに書いて私が批判した記事に、追記して、よほど私を悪者にしたいようです。それに、相変わらず、批判と悪口の区別がつかないようです。
 
私は、罪深い人間ですが、楽山は、罪を隠して、人を罪に誘導する偽善者です。
 
今回、最悪に近いです。悪意がそのまま出ています。
こういう人をうっかり信頼して引っかかっていると人生を失うでしょう。
 
(楽山)

*動機(追記 2019.11.23)
  ちなみに今回の記事を書こうと思ったのは、下のやり取りを見たから
 だ。shalomさんは、vさんはstさんの攻撃で深く傷つけられたと語ってる。

 
シャロームは、いつも、余裕綽々な様子で、びくともしないという風情を見せて、書いてきます。それは、こちらの言うことを、完全に無視するという不感不応の凝り固まった自尊があるからです。このシャロームの自尊で、関わる人を亡者に変えてゆくのでしょう。
 
(シャローム)

[省略]
vさんは神学者、哲学者として福音を土台として人間学的な聖書理解をしようとしておられました。イエスの死とよみがえり、聖霊信仰もその根底にありました。そのことで、あなたの激しい批判の的にされ、中傷され、人格否定をされ苦しまれたのでしょう。
あなたは謝罪したようなコメントもされていたようですが、
あなたの姿勢はその時から一貫して変わっていないようですね。
 思い当たるのではありませんか?
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4173311.html#comments

 
すでに書いたことは、私は絶交したのだから謝罪していないこと、Vさんは、シャロームの影響下から逃れられなかったこと、そして、私のコメントを隠して、シャロームに調子合わせの受容をしてしまったこと、そのことで、私は、Vさんと絶交していること、などです。シャロームになびけば、そういう奴隷のような人になってしまうのです。それを、シャロームは、私のせいにしているわけです。シャロームは、心の底まで腐った男。そのシャロームの仲間が、楽山であります。
 
(楽山)

これに対して、stさんは、それはshalomが原因だ、shalomは何でも人のせいにするといいつつ、すべてをshalomさんのせいにしてる。vさんについても、shalomさんの味方をしたから批判したとか何とかいって、vさんに落ち度があったからだとしてる。

 
Vさんには、確かに落ち度があったのです。しかし、ここでのことには関係ありません。
 
なぜ、ここに、Vさんが出てくる?・・シャロームの言うことを鵜呑みにしたに過ぎない。一連のここでの批判には無関係なVさんという他者を巻き込むことに罪悪感を全く感じない楽山です。
 
怖いことです。こういう書き方をするんです。良心がない証拠です。相当の勇気と覚悟が必要だと再認識します。
 
(楽山)

自分も言い過ぎたようで申し訳ないことをしたという謝罪反省の言葉は見当たらない。これには驚き、あきれずにはいられないし、これからも同じ事を繰り返すんだろうなと思わずにはいられない。だからこの記事を書くことにしたわけである。将来、stさんに標的にされ、粘着攻撃されて難渋してる人が、この記事を見つけて、いくらかでも楽になってくれたらうれしい。

 
訂正不能に自己中な者に対して批判するときに「自分も言い過ぎたようで申し訳ないことをしたという謝罪反省の言葉」などと書くようになったら、私は、おしまいだと思っています。
 
ストレートに書かず、デマをもとに決めつけて、嫌がらせばかりで粘着攻撃しているのは楽山のほうです。私は、表れている不正から、それを指摘して批判しています。彼ら易坊類に対して、言い過ぎました、などと言うことはないのです。もし仮に権力を持てば、人間を、社会を、国を、滅ぼすような、邪悪な精神性を持っている者たちです。
 
いくつか前の記事で書いたことですが、
シャロームの「罪はく改めなくても赦されるから気にしなくていい」が、キリスト教およびキリスト信仰に反していて、それこそ真逆であること、および、この信条で生きてゆくなら社会悪になる自己中心であること、つまり、成り立たないことは、一般教養としての知識があれば、分かるはずです。・・(A)
楽山は、それが分からず、シャロームのゴタクですっきり解決したなどと言い、シャロームの味方をしたのだから、その時点で、二人に、常識がない、キリスト教を知らない、ということは、既に、確定しているわけです。それを、訂正せずに、後で何を加えても、いくら芝居をしても、無駄なのです。楽山は、シャロームの仲間、キリストを殺す側の者、つまり、反キリストです。・・(B)
 
つまり、はっきりした根拠があるから、批判しています。AとBだけではないですが、大きな根拠ではあります。
 
楽山の、大嘘と敵意と悪意が、明らかになっています。だんだん悪性度が増し、凶悪さが加速されていることが、筆致に表れています。
 
一貫して、楽山は、反省していません。というより、自己愛性人格障害か何かのために、反省という心の機能を持っていないのです。今後は、シャロームと同様、サイコパス相当として考えてゆかねばならないでしょう。
 
反省しない人間は、訂正不能の自己愛から、逆に、こちらが無反省だと決めつけてきます。互いに、無反省を当てて、水掛け論に持ってゆくのが狙いでしょう。しかし、上に書いたAとBからも、楽山が、教養も、知識も、常識も、信仰も、持っていないことは明らかであります。
 
楽山が、易坊やシャロームの、仲間か友人か親族か、あるいは、成りすましで意図的に筆致を変えたキャラなのか、今のところ、不明ですが、AとBなどより、彼ら易坊類には、弁明の余地はありません。
 
楽山は、本格的な罵りモードに入っています。AとBは特に重要です。つまり、楽山とシャロームの易坊類に、反省を求めること自体が無駄なのでしょう。彼らに、やさしい人だと思いますよとか言って、下手に関わらないでください。彼らを裁くのは、神ご自身の運びに任せるしかないのかもしれません。人に必要なのは、たかだか、おかしいことを、おかしいと言う勇気です。
 
楽山「いくらかでも楽になってくれたらうれしい」・・嘘です。本気でそう思っているなら、今すぐ、いかなる記事も書くことをやめるべきです。今は、それしかありません。粘着攻撃は、今、楽山がしていることです。楽山は、批判と攻撃の区別も出来ないのです。
 
これから楽山は、シャロームと同じように、息を吐くように嘘を吐いてくるでしょう。偽善者の成り行きは、目覚めてから眠るまで、そして、死ぬまで、嘘で捏造してゆくしかありません。そして、さらに、嘘と詭弁だらけになって、信仰とも希望とも愛とも、反する破局に、自ら向かってゆくのです。
 
ただ、神の前に、神の見ているところで、精いっぱいの正直を示し得る信仰者なら、人の前でも、この記事に書いたような恐ろしい人格破壊の嘘と欺瞞に走ることはなかったのです。
 
神は、人間が、自由意志をもって、ご自身のほうを向くように導かれます。神は、そのために、人をロボットのように従順な者としてではなく、自由意志によって信仰の道を選ぶことを願っておられるのだろうと思います。
 
神に対しては、導きに反応する人と、反応しない者と、あざ笑う者がいます。
 
何故、楽山やシャロームや易坊という、総称して易坊類と言っていますが、そのような、偽善者が出来てしまうのか、私には、分かりません。彼らは、真実の代わりに嘘を食らい、信仰の代わりにカルト妄想を食らい、希望の代わりに野望を腹にため込み、愛の代わりに憎しみを育てて、命の伝道の代わりに命を食い尽くす欲望の自尊を養っています。
 
今までの経過から、こちらが丁寧に話して、易坊類が丁寧に返してきたとしても、彼らは、何も気にせず、何も残らず、何も成長しません。そして、罵りの材料以外は、忘れてゆきます。精神のブラックホールのように、彼らは、人の良心を呑みこんでゆきます。
 
易坊類の書く文章には、わざとらしい、白々しい、あざとい、うそ臭い、胡散臭い、独特の、詭弁臭と偽善臭があります。実感とは、かけ離れたところで、企みによって誘導と操りのための言葉を組み立てるからです。ドラマの感想も、日常のことも、感謝も、好意に返す言葉も、仕返しするときも、書けば、その臭みは腐った人間の悪臭として思慮深い人には分かるでしょう。
 
彼らは、嘘がばれることを、避けますが、恐れません。何故なら、全く道理の成り立たないところでも、嘘を吐くことが出来て、結果を無視することが出来て、忘れることが出来るからです。
 
信仰の危機は、このような易坊類からもたらされると思います。何故なら、彼らの行動パターンは、逆らう者は許さないという独裁と酷似しているからです。今は悪口で攻めてきますが、もっとひどくなる可能性があります。彼らについて、物騒なことを言っていない、ふつうに見える、などと安心しないでください。それは、芝居です。
 
そういう柔らか返事は、相手が自分の脅威でないときに返され、そうでないときには、つまり、真実に近づけば近づくほど、はぐらかし、無視、言い逃れ、言いがかり、皮肉、当てつけ、詭弁、妄想豪語、というふうに、エスカレートするでしょう。その先に、どういう問題を起こすかは、彼らが、どれほど、具体的な力を持つかで決まります。
 
サイコパス相当の易坊類のような人は、この世界に、いっぱいいると思います。批判すれば、同じ批判を返し、前もって、言われそうなことを相手に当てることもあります。彼らに賛同すれば、気色の悪いほど飾った世辞を重ねて返してくるでしょう。餌を蒔いているのです。
 
楽山の世辞と言えば、「元気になれる」「もりもり力が湧いてくる」「自信が持てて」「他人のことも大切にしたくなる」「素敵なお話」「どえらいツボ」「リアル」などを、最近、書いてきました。
 
くじけることのない悪意と敵意による作為は、人間の尊い命から、かけ離れたところに、幻の自尊の世界と自分を同一化しているからでしょう。つまり、自分に舞い上がっているのです。
 
愛とか思いやりとかは、人を操るための言葉として、彼らに存在しているだけであって、本体がどこにもないので、こう言えば好感度を得るために、戦略のように身につけて覚えているだけだから、褒め言葉が大袈裟で、わざとらしく演技的で、しまりがなくなるということです。
 
彼ら楽山やシャロームなどの易坊類は反省をしません。代わりに次はこうしようという作戦の練り直しをすることで、取り入ってくるのです。人の心の隙間に。
 

*反省(追記 2019.11.24)
今さらながらに気づいたが、自分はまた同じ失敗を繰り返したようだ。上に述べた通り、今回の記事は、将来またvさんのような被害者が出ないように注意喚起したり、もし不幸にして被害者が出てしまったらその手助けになればと思って書いたわけだが、よく考えてみれば自分は情に流され、取り越し苦労をし、要らぬことをしてしまったかもしれぬ。

 
楽山は、稿を改めないで、先頭ではない記事の末尾に追記しています。
先頭に書かず、隠すことで自己満足したいのでしょうか。問題にしていないから・・とでも言いたいのでしょうか。多くは書けないからでしょうか。そっと、読む人に、読んでも知らないうちに、私について、悪い印象を与えたいのでしょうか。
 
楽山のブログには、ときに、読む人を無視しているかのような長い記事があります。段落分けをせずに、さらに、ぎっちり文字を書いた画像を出してきたときもあります。テキストのように簡単にコピペで引用して批判の題材にされるのを防ぐためかもしれません。今回の批判対象記事も相当長くなりました。
 
執拗に稿を重ねながら、読者を侮っている感じです。可能な見やすさを考えていない、褒めてくれる人以外に用はない、という、自己中心の自己顕示欲が表れています。
 
取り越し苦労ではなく、悪意による罵りのネタに使っているのです。
それらしくなってきました。
 
楽山のこの記事は、反省ではありません。大もとの自分の非を認めていないのだから、またしても詭弁であります。
 
楽山は、こともあろうに、人を思いやり、よかれと思うことを、やめるのかもしれぬ、と言っているようです。人を思いやることが、取り越し苦労で、要らぬことだと言っているようです。
 
楽山の愚行は、人を思いやるふりをして愚弄してくることです。そして、Vさんが私の犠牲者だと、今回、はっきり決めつけることで、嘘吐きと騙し屋の正体をあらわにしています。
 
音信がないので詳細不明ですが、Vさんは、シャロームに相づちを打つことで、シャロームの犠牲になったのかもしれません。もしそうだとすれば、Vさんは、楽山やシャロームなどの易坊類ではないのかもしれません。私は、絶交してからは、関わりはありません。
 

こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。

 
楽山の情とは、こういうものです。つまり、はかりごとの中で、反省に見せかけ、情があるかのように見せかけることです。またしても、情ではなく、底知れぬ作為の災いの有り様を、楽山は見せているのです。
 
楽山が、情に流されると、悪意がむき出しになるということ。つまり、情に流されないと、悪意を隠すということでしょう。
 
あらゆる救いを拒み、神の敵となってゆく者の定めのように、まるで、罪悪感がない、ということを、自分を正常な方向に改めることなく無視と鈍麻の境地に沈没することで、改めて?楽山は自分で証明しているのです。
 
どう改めねば・・と言っているのでしょう。もっと不感不応になるというのでしょうか。もっと嘘を吐こうと言っているのでしょうか。身の毛が弥立ちます。修正不能の恐ろしさ。
 

でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。

 
やはり、以前の記事ではアドラー教に不満を述べていたのに、アドラー教から離れるどころか、再確認だそうです。役に立つ方法論だそうです。結局、楽山は、小細工の言葉で逃げ切ろうとして、柔和を装い、また、必要だと思って、再確認と言っているのは、宗教を道具としか考えていない証拠です。
 
しかし、楽山の悪意は、楽山の課題です。重要なことが明らかになっています。自己中の人は、ますます、アドラー教を自己中に向かわせる。何故なら、自分の課題について、自己中の方向にしか修正できないからです。
 
つまり、アドラー教によって、自己中は、ますます、自己中になるのです。
 

ついでに書くと、以下の考え方も、余計なことに手を出してしまいがちな自分にはどうしても必要なものだ。
 「人の心は変えられない。変えられるのは自分の心だけだ」
 「他人の事をとやかく言う前に、まず自分の事をしなさい」
 「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ(ニーバー)」
 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)」
 「修身斉家治国平天下」

 
自分の考え方だけは、修正不能に正当化し続ける楽山なのです。このように、修正と学習の出来ない自我は、サイコパスの特徴である無反省と絶対自己正当化になります。
 
ここで、また、自分を悪と偽善の圏外に置いて、聖句を、相手にだけ向ける、という、楽山の偽善が全開です。そうして、ますます、これからも、偽善一筋の決意でしょうか。
 
これらが、楽山やシャロームなどの易坊類が、「自分の目の中の丸太に気づかない」理由でしょう。批判者の目ばかりをとやかく言うのも、そのためでしょう。
 
心の根っこが腐った者は、このように、不敵な、そして、醜いことを、平気で、行ない、かつ、何も気づかない固定した観念の世界に安住することを、余計なことに手を出さないこと、と言う自家製の道徳にしてしまうのです。ますます恥を知らなくなるでしょう。
 

やっぱり自分は、他人のことを心配するより先に、まずは自分づくりに専念しよう。といっても、またすぐに情に流され、自分のことより他人の事に手を出してしまうのだろうけれども、それでも自分づくりに専念しようという意識は常に忘れないようにしよう。

 
楽山は、自分も、他人も、破壊してゆくことに、何を指摘されても気づかない、というのが、絶対自己正当化である、という例示となっています。
 
他者との人間関係を無視して、自分づくりなど出来ません。だから、詭弁をまくしたてて、またしても破壊の種を蒔きながら、自他破壊の洞窟を歩んでいる楽山です。
 
楽山に本当の情はありません。今まで、楽山は、悲しみの情を表したことがないからです。オーバーなゲラゲラ笑いと、わざとらしい分かったふうのニヤニヤ笑顔と、反省に見せかけて騙そうとするエヘヘ笑いのイメージだけであり、それは、情ではなく、悪意と作為だからです。根底にあるのは、悲しみとは対極の、憎しみに他ならないのです。
 
楽山やシャロームなどの易坊類にあるのは、とても陰湿な怨念であります。それは、今、楽山において全開です。だから、このように、まわりくどい偽の理屈をこねて、途方もなく的を外した聖句の悪用までやってのけるのです。
 
(ネットより)
修身斉家治国平天下(読み)シュウシンセイカチコクヘイテンカ
デジタル大辞泉の解説
《「礼記」大学から》天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%AE%E8%BA%AB%E6%96%89%E5%AE%B6%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E4%B8%8B-526978
 
楽山ふうに言うと、楽山は天下を治めたいっぽいのでしょうか。
 
付け焼刃の知識で利用すると、自分を斬ることになるようです。昔の道徳である修身だけにしておけばよいものを、ナルシシストは、我が物顔を出さずにおれないのでしょう。
 
私も知識は付け焼刃で、検索を多用していますが、付け焼刃であることを承知で使っています。だから、引用して、読む人と同じ地平で物が言いたいのです。誰でも分かるように。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、のぼせたインテリ批評家気取りだから、無から有を作り出す気分で、いたるところで、いたるときに、大きな言葉を使ってしまうのでしょう。それが、今回は、楽山の文章に表れているということです。
 
隠れていたものが表れると、ここでは、隠していた自己愛が、のぼせ頭から表れると、とても、醜い、二目と見られない、という例です。上の格言だけでなく、引用した本文も、また、本音を隠して冷静に書いているつもりで、意識するしないに関わらず、空回りして、うっかりぽろっと自分の偏った見方を、漏らしてしまうのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)10:26
だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
 (マタイ10:26、新約聖書)
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、脆弱な精神を隠します。弱さを見せず、強さを誇ります。謙譲は言葉だけで、この記事でも自分の正当性の立場からしか物を言いません。だから、反省という言葉も空回りして、違和感となるのです。まことに、見苦しい有り様です。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、雑踏のようなものです。過ぎてしまえば、何も残らない、本人にさえ。特にシャロームの言は、すっかり忘れてしまうような無意味なものです。このような者たちに関わって、後には疲労感と空しさだけ、ということの無いように批判を書いています。
 
では私はというと、私も残りはしないでしょう。でも、人間の心で受け取れるものだけを書く、ということを努めているつもりです。楽山やシャロームなどの易坊類といっしょにされたくないという気持ちはあります。
 
楽山やシャロームなどの易坊類の目指すのは、誰かの受け売りか、デマか妄想か、でっち上げに過ぎないものですから、有意義な中身は皆無です。自己正当化のために書くと、そうなります。
 
 
ときに完全の理想を目指して努める今の歩みはあっても、完全である今の位置などは無いのが人間です。そこに、何よりも尊い人間らしさがあるからなのでしょう。
 
ですから、自分に欠点があることを自覚できる人も信仰者もいるでしょうから、私発信の言葉も交えているつもりです。また、前に書いたように、批判は、対象を悪い見本として提示することで、その対極に良いものを暗示しているので、それを表すことを忘れないようにしようと努めている途上です。
 
心貧しさの幸いは、不完全な罪人であるがゆえに、
完全なる神の前に、正直以外持ち得ないことです。
 
 
(2019年11月26日)
 
 
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  被害的・他罰的(2)
 
   st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)
   2019-11-21
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547467881.html
   楽山日記(a)より抜粋
 
 
被害者根性の見苦しい言い訳を追記している楽山です。
 

*心配無用(追記 2019.11.22)
こんな心配をしてたとは思わなかった。本気でこんなことを考えてるなら気の毒だ。

シャロームと楽山のような易坊類は、今後、非合法な手段を考えるかもしれません。そうなると、カルト組織であるなら、私は無力なので、姿を消してしまうのかな・・とか考えています。今回の記事は長かったけど、一応、ここまでとします。
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html
 」
これについては、私はカルト組織など持たないし、誰かを消そうという考えもありませんと明確に否定しておく。stさんが身近にいる全然関係ない人のことを、こいつが楽山に違いないと思い込んで、やられる前にやれとばかりに先制攻撃を仕掛けるようなことがあってはならないと思うので…。

 
私の危惧は、このまま、楽山やシャロームが、うっかり、受け入れられて、お仲間の数が増えていったら、という話をも含んでいます。大きくなって事件を起こしてからでは遅い、ということが、当事者である楽山やシャロームには不都合なので、先制攻撃などと言っていますが、楽山とシャロームは、既に長きにわたって、良心を攻撃しているという見方なのです。
 
楽山とシャロームが、何も書かなかったら、私の批判もなかったのだから、楽山が、こちらを先制攻撃と言うのは、前に書いたように、被害的・他罰的にしか考えない本性の表れです。
 
批判は、本質的に、いつも、受けて書くことです。先制攻撃はあり得ません。
 
楽山は、先制攻撃として、おかしな説教を書いてきて、批判されると、保身のために、被害者気取りで、逆に、他罰的な体質から、いつも、いちゃもんをつけてくるのです。
 

*テーマ(追記 2019.11.22)
これは、shalomさんのコメントだけど、読書感想文を批判するなら、当該書籍を読んでからにすべきだろうというのは正論と思う。

 
これは、楽山とシャロームの、人の弱みにつけ込む商法と似たところです。正直に言うと損をする、という世界に生きているからでしょう。私は、楽山の書いたものの質(たち)の悪さを批判しています。
 
引用書籍を読めなどと言われて、そうすれば限りなくなるので、無限を追うことも無限に深入りすることもしないのです。批判されたことに答えられないものだから、これも、楽山・シャロームの、鼻で笑っているような、質の悪さでしょう。
 
(シャロームからの引用)
>>
16. st5402さん おはようございます2019年11月18日 11:42
 [省略]
あなたは楽山さんが読まれた本の読書感想文なのに、
あなたはその本を読まずに楽山さんの読書感想文の内容について
批判し、人格まで中傷しているのではありませんか。
[省略]
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html
<<
(引用終わり)

あと、楽山日記の主要テーマには、幸福の科学(HS)教義の相対化及び無効化によるマイコン解除もあるので、その手の記事は、HS教義の知識があった方が分かりやすいとは言える。
HSは自分らは自由な団体だと誇るけど、実際にはタブーがすごく多い。あの映画は地獄的だからダメ、あの著者の本は波動が悪いからダメ、あの思想は間違いだ…云々。このタブーは、退会と同時にすっぱり忘れられればいいけど、なかなかそうはいかないところがつらいところだ。だから私は、そこのところを狙って書いている。
楽山日記は、一見HSとは無関係な映画、小説、ドラマなどを多く取り上げるお気楽ブログに見えることもあるかもしれなけれども、ここで取り上げるエンタメ作品の多くは、自分が見て、味わって、HSのタブーを乗り越えるのに役立ったもの、または役立つと見込まれるものだ。思想、宗教がらみの話題であれば、その傾向はさらに強まる。だから楽山日記で取り上げた作品をなぞっていけば、自然とHS教義を相対化、無効化して、マイコン解除に至るようになってる。誰もがそうなるかは断言できぬが、少なくとも私はそうだったし、私と似た個性、状況にある人もたぶんそうなるだろう。

 
HS批判だからという言い訳をしている。実際には、お気楽ブログの記事に当てつけを含ませている以上には、伝わってこないのだから、空疎な自分可愛さコメントになっています。
 

次に、もう少し具体的な話をすると、HSの根幹には、大川隆法に対する信仰がある。大川隆法は人にはできないことができるから、人を超えた存在であり、仏陀であり、大救世主である、したがって、一般信者には、人を超えた大川隆法の心を理解できるわけもなく、ただひたすらに信じてついてゆかねばならぬということになっている。ざっくり言えば、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムという信仰スタイルだ。それだから遠藤周作のイエスは無力でみじめな存在だったという考え方は、HSの信仰観とは相容れぬものであり、否定される。

 
ここで、また、イエスは無力でみじめ、という嫌がらせを含ませている。大川隆法というカルト教祖と対比させるのは、的外れも甚だしい。
 

でも遠藤周作の「イエスの生涯」などを読めば、氏は奇跡を信じない現代人でも、イエスを神と信じることができる道を示しているのが分かる。イエスは奇跡は起こせず、無力だった、病者と交われば病気をうつされ死ぬかもしれなかった、被差別者と交われば自身も差別されるかもしれなかった、しかしそれでも彼らに寄り添わないではいられなかった、そうまでして寄り添った彼らに裏切られても、恨み言一つ言わなかった、これこそが愛ではなかろうか、神は愛であるとすれば、そこに神がおられたということではないかと。

 
愛とは正反対の自らを反省せずに、イエスを神と信じることができる道、これこそが愛、などと言っても、楽山の、どこまでも一人前の批評家を気取っている醜さが表れているだけです。蹴とばした後、なでなでしているサディストは、気障(きざ)だが、本当の愛を知らない。
 

こんなふうに遠藤周作の考え方は、イエスは奇跡をおこない、権威ある者として説法できたから神だというのでなく、より弱く、みじめで、非力で、無力であればあるほどに、身を捨てて隣人を愛し続けた精神性の尊さは増し、それゆえにイエスは神としか考えられないという信仰になっていて、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどを克服しており、大川隆法崇拝という偶像崇拝から脱却するきっかけになりえる思想になっている。

 
イエスを、弱く、みじめ、非力、無力、というところにおとしめて、精神性の尊さと言う、あざとさは、一段高いところから見下ろして、救世主をも、浅薄な己の辻褄合わせの対象とするところに明らかですが、楽山が、身の程も弁えず思い上がって、その落差をもって、ナルシシズムの破局を招いてゆく必然を表すものです。
 
楽山が、物わかりの良さを気取って言っているのは、既に多くの人が言った後の、足下のちりを拾って並べたものばかりです。しかも、それを、認可するのは自分だとばかり、気持ちの悪いボンヤリ言語で書いてくるから、ナルシシストの偽善が際立つことになります。
 

中村元の原始仏教もこれと同じ構図だ。HSでは、大川隆法の過去世は仏陀であり、偉大な神通力を持っていて、人を超えた存在だったとしている。だから仏陀の神通力や、奇跡話やらは、後世の神格化の過程で生まれた神話伝説であって、現実の仏陀はそうではなく、その人格的な高貴さによって尊崇されたのだろうという中村元は批判されることになる。
でも私に言わせれば、中村元の考え方は、遠藤周作の考え方と同様に、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどの偶像崇拝をしりぞけ、HSのマイコン解除に益ありということになる。
先の遠藤周作と中村元についての記事には、以上のような背景があるし、こういうHSの知識があれば、よりその意図が分かると思う。もっともこの辺りの事情は、HSとは無関係な人は知る由もなかろうし、そんなことは気にせず読んでもらって構わないけど、一応知っとく方が深く読めるというのは言える。

 
キリストのみならず、仏陀をも、無力にしたい楽山の企みは、楽山の、自身を高める意図から逃れられない醜悪な自我の執拗な執着に他なりません。楽山に、読書の手ほどきを受ける必要のある人は、恐らく、一人もいないでしょう。自尊の過剰から気取るだけでは何も生まれないということを、楽山という実例で学ぶということ以外、何も意味はないのです。
 
 
前の記事で書いたことですが、
 
シャロームの「罪はく改めなくても赦されるから気にしなくていい」が、キリスト教およびキリスト信仰に反していて、それこそ真逆であること、および、この信条で生きてゆくなら社会悪になる自己中心であること、つまり、成り立たないことは、一般教養としての知識があれば、分かるはずです。
 
楽山は、それが分からず、シャロームのゴタクですっきり解決したなどと言い、シャロームの味方をしたのだから、その時点で、常識がない、キリスト教を知らない、ということは、既に、確定しているわけです。それを、訂正せずに、後で何を加えても、いくら芝居をしても、無駄なのです。楽山は、シャロームの仲間、キリストを殺す側の者、つまり、反キリストです。
 
楽山は、前に、神がいるなら、何故、悪が生まれるのか、という、いちゃもんで、キリスト信仰を、けなしました。まことに、神は、何故、楽山やシャロームのような偽善者が生まれるのを黙認したのでしょう。神は、何故、彼らが、好きなように嘘や詭弁を言い、策略をもって信仰者や求道者をおとしめるのを、裁かず、見ておられるのでしょう。
 
人として受け取れることには無関心でありながら、自らの知恵で神を測れると思い上がる者が、そのような悪と偽善を行うのでしょう。
 
御心は測りがたいということです。ただ、神は、いつまでも、黙って見ておられるわけではないでしょう。信仰者は、ただ、できることをするのみであります。
 
 
(恐らく楽山の追記部分)

・さらについでに、注意事項を一つ。
楽山がshalomさんと話してたら、stさんはshalomと話すならその仲間として批判するというようなことを言ってきた。今はその通り、楽山も批判対象となったらしい。
そんなら、楽山と話すなら楽山の仲間として攻撃するという発想もするんだろう。
この点、ご注意願います。

 
これは、デマ宣伝と言ってよいでしょう。私は、楽山がシャロームの味方をしているから、仲間であるか、なりすましであるか、いずれにしても、批判対象になる、というようなことを、ずっと書いています。
 
注意してください。「シャロームの味方なら仲間だから批判する」という私の意見を、「shalomと話すならその仲間として批判する」という、話しただけで仲間として批判してくるんですよ、という意味にすり替える詭弁なのです。そして、被害だけを書き、他罰的な加害者である自分を全く反省しない人です。
 
私の発言について
私の主張、すり替え前:批判する理由は、シャロームの味方をするから。
楽山の、すり替え後;批判する理由は、シャロームと話すから。
悪い印象を吹き込むための、とんでもなく汚いすり替えです。
 
彼ら易坊類は、どんどん悪性化してゆきます。ご注意願います。
 
詭弁に騙されないでください。楽山は、ほのめかしと印象操作と詭弁を、刷り込みとして使うような、汚い汚いカルト宣伝者です。
 
楽山は、言葉の辻褄の小細工で言い返すような卑劣な精神しか持っていないのでしょう。そのことを知る人は、楽山やシャロームの低劣・卑怯な文章には、吐き気を催すようになるでしょう。
 
 
易坊類は、自分が傷つくことが我慢できないのです。だから、罪も認めないのでしょう。代わりに他人を傷つけて、単純に自分を守っているのです。
 
そして、何を言われても、自分の欲望通りのことだ受け取って世辞を言い、それ以外は、無視し、忘れて、何の糧にもしない人です。それで、学習と成長がなくなり、いつまでも子供のような口喧嘩を書くしかなくなっているのでしょう。
 
だから、良心と良識が育たない人です。そして、良心と良識がないというのは、ホラーなのです。発する言葉が、みな、作為的~詐欺的になってゆくからです。
 
そういう者は、ネットの匿名性を悪用して、書きたい放題、無反省に、悪口を書き、刷り込んだり、煽ったり、成りすましたりしているのだろうと思います。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、学習できないために、人のためになる言葉を一つも持ち合わせていないから、他者の辻褄を借りて、勝手に、いじるしかないのでしょう。
 
(ネットより)
2、常時「論点のすりかえ」をしている人の弱点
ではこのような行為を繰り返す人というのはどのような人でしょう。端的に言えば、自分の主張が常に正しいと思わずにはいられない人、もしくは(たとえ自分が間違っていると薄々感づいていたとしても)批判されることに耐えられない人、といったところでしょうか。他にもあると思いますが、主なタイプはこの二つ、特に後者のほうでしょう(前者はガチでヤバい奴って感じですが、後者は比較的普通のことなので)。
https://ncode.syosetu.com/n2956eo/
 
批判されて返せないのに、執拗に、お芝居のようなお気楽記事も、批評家気取りの記事も、書くのをやめないのは、自己正当化と自尊の過大~絶対性があるのかもしれません。だとすると、楽山やシャロームのような易坊類は、前者ではないかと思っています。
 
 
   『まだ結婚できない男』 #7 カフェが好きで悪いか!!
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547913476.html
   2019-11-23:楽山日記(a)
 
 
楽山は、悪口ばかりの長い記事を書いた後で、お気楽記事を書いています。こういう記事を、人を長々と貶す記事と、信仰者でもないのに信仰の記事を書いた後で、平気で書いて、趣味の記事だという言い訳が成り立つから・・と思っているであろう楽山は、どういう人なのでしょう。
 
自粛とか自制とかいうことを考えないのは、そういうことを気にしないでいられる自己中心の特徴です。どの記事も、趣味と同じように書き、批判されたら悪口を書き、また趣味の記事を書いて、自分には余裕がある、と言いたいのでしょうか。
 

この場面、どえらいツボだった。笑いが止まらない。
「何か意地悪なこと言おうとしたでしょ」
 これって、リアルでもある。
  こういうやつとか。
女「今、××って思ったでしょ」
男「……」
女「あ、今度は〇〇って思った」
男「……」
女「ふふふ…」

 
好きなドラマだから私も見ましたし、それなりに面白い場面ではありますが、記事に書くだけの内容が、記事の中に表されているでしょうか。特記事項が何かあるでしょうか。「笑いが止まらない」ほどでしょうか。「リアル」だったでしょうか。楽山は、自分の感性が、こんなに人間らしい・・とでも言いたいのでしょうか。
 
楽山は、前に、同じドラマの記事を書いて、コメディに、サスペンスが中心となって底に流れている、というような、ピントの外れた感想を書いていました。
 
心を読むゲームのように、桑野を、弁護士の女性が、からかって問い詰めている場面です。この場面以前も以後も、二人の微妙な関係が続くドラマなのでしょう。読心術が出来る女性がいる、ということを描く場面ではありません。
 

でも何でこんなに人の心が分かるんだろう。女のカンは侮れん。

 
楽山は、ドラマに事寄せて、なんでこんなに人の心がわかるんだろうと、心の読み合いの場面として感想を書いています。リアルに読心術者がいると勘違いしているのでは?とさえ思えます。
 
真剣なときには真剣に、受けて答えていた人の話なら、それほど、違和感は感じなかったでしょうが、今までの、批判返しの悪口、そして、本を引用しての、宗教や信仰や真実追求の話について、深く掘り下げる姿勢が全くない楽山の場合には、話は違ってきます。
 
女のカンは侮れん・・と言って、笑っているようですが、今までの記事とコメントの流れから考えると、他者を、あるいは、真実というテーマを、楽山が、いかに趣味の対象であるかのように侮ってきたか、を表すことになります。
 
楽山は、反省することがなく、何があっても、受け止めるべき何ものも残らない人なのでしょう。いつでも、例えば、コメディドラマを見て、笑っていられるのと似たような心性が、人に対しての侮りとなって表れてきました。
 
世辞が通用しない相手には、楽山は、嫌がらせしか出来ない人です。
 
つまり、どういう今までの記事投稿の流れだったかを考えてみると、真実に対して、趣味に対するのと同じような軽さで、言葉と辻褄を、本気とは全く違う方向で、いじくって、楽しんでいる人なのでしょう。
 
宗教や信仰など、一度も、本気で考えたことがないから、本を読んでも、勝手な解釈を言って、趣味の本棚に納めることが出来るのでしょう。前の洗濯機の記事と同様に、不自然な気分転換の白々しい楽山です。訂正不能の自己中は、的外れも進行し、人格全体に及ぶことになります。
 
楽山は、宗教と信仰について語ってほしくない人物だと思っています。楽山から、真実について、どんなに好意的な言葉をかけられても、楽山を聞くことは、刷り込まれること、だまされること。十分に警戒してほしいです。
 
笑いで糊塗しても、偽善の色は消えません。
 
 
(2019年11月25日)
 
 
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  欺く者
 
   自分に自信が持てて、元気になる考え方
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547780606.html
   楽山日記(a)2019-11-22
 
 
楽山は、他者の記事を引用して、以下のように、とても短い記事を書いて、べた褒めしています。わざとらしいという自覚がないのでしょう。
 
(楽山)

このページは、上馬キリスト教会のツイッターで知ったけど、読んでるだけでなんか元気になれる。もりもり力が湧いてくる。自分に自信が持てて、他の人のことも大切にしたくなる。素敵なお話だ。

 
「元気になれる」「もりもり力が湧いてくる」「自信が持てて」「他人のことも大切にしたくなる」などと言っていますが、楽山が、どういう言動をしてきたか、そしてどういう人かを考えれば、これが、自己正当化のための芝居の台詞だということが分かるのです。
 
クリスチャンな日々(1)MARO
https://www.christianpress.jp/maro-1/
 
以下、上記サイトからの引用と、私の意見です。
 

第1回 「ふさわしい」必要なんてないんです。
主の御名をあがめます。
皆様、ごきげんいかがでしょうか。はじめまして。上馬キリスト教会の教会員、MARO(マロ)と申します。ツイッターをやっていらっしゃる方でしたら、「上馬キリスト教会のまじめ担当」と言ったほうが話が早いかもしれません。
「教会員」というのは、クリスチャンではない方にはなじみのない言葉かもしれませんが、簡単に言えば「平信徒」ということです。牧師でも神父でも伝道師でもない、単なる平信徒にすぎない僕が、神様の導きを受けまして、この「クリスチャン・プレス」で連載をさせていただくことになりました。不才ながら、がんばらせていただこうと思います。よろしくお願いいたします。


さて、つい上の文章で「不才ながら」なんて言葉を使ってしまいましたが、これは実はキリスト教的には必ずしも適切な表現ではありません。なぜならキリスト教では、「神様が何かの仕事や使命を与えてくださるときは、必ずそれに必要な能力も与えてくださるのだから心配することはない」と考えるからです。ですから「不才ながら」というのは、「神様が十分に能力を与えてくれないかもしれませんが」という意味にもなってしまい、あまり適切ではないんです。

 
「不才ながら」が本心で言っているか、あるいは、社交の世辞の謙遜に過ぎないかによるでしょう。前者なら真実の告白として尊いことです。後者なら偽善につながるかもしれません。
 
どちらであるかは、それは、明らかなこともあり、分かりにくいこともあるでしょう。
 
私が批判している楽山とシャロームの易坊類は、今回もそうですが、実に、わざとらしい謙譲の言葉を使います。ああいうのを見ると、言葉への信頼はどんどん薄らいでゆくのです。
 
少なくとも、神が能力も与えてくださるからといって、必ずしも、「不才ながら」と言うのが適切ではないということにはならないと思います。
 
神が与えるからと言って、神が、その人に必要な能力をどう見積もっておられるかは、人間には分からないことです。神に対して人が適切かどうかを、人が決めることのほうが、適切ではないかもしれません。
 
神は、人の正誤を見て、正しいから、信仰の義を与えるというのではなく、神ご自身に対して、人が、ただ本当に正直であるかどうかを見ておられるような気がします。本心からであるならば、言ってはならないことというのは、そんなにないと考えてよいと思います。
 
楽山は、今までの経過から、本心で、遜(へりくだ)っているとは、到底、思えません。また嘘を吐いていると思います。楽山には、今までの経過を見れば、弁明の余地はないのです。
 
ふさわしくなくてもいい、ということを、楽山が、自分は、ふさわしくないからと、喜んでいるならば、とても、変な話であります。
 
楽山のように、宗教と信仰を、心で受け取らず、辻褄だけを考えて、けなして、いちゃもんをつけて、嘘や世辞の優しそうな言葉で糊塗するような、いつも、神が最も嫌うようなことをしている者は、いつの時代も、信仰者を迫害する側におり、信仰の敵となってきました。
 

とはいえ、それでもやっぱり僕も人間ですから、仕事をするにあたり不安や心配もあるんです。「牧師でも何でもない自分が本当にこの仕事にふさわしいのだろうか。僕にそんな能力なんてあるのだろうか」と、いくら神様を信じていたって、そんなことを思ってしまうんです。この連載のほかにも、ありがたいことに本を書かせていただいたり、テレビやラジオでお話をさせていただいたり、さまざまなお仕事をいただくのですが、いつだってそんな不安はつきまといます。
近頃そんなときはいつも自分にこう言い聞かせます。「ふさわしい必要なんてない!!」。さらにもう少し踏み込んで、「ふさわしいかどうかを決めるのは神様であって僕ではない!!」と。そうすると心がすーっとラクになるんです。

 
相応しいかどうかを神が決めることを、楽山は、信仰がないので、知りません。そして、楽山の自分飾りの嘘偽りは、心の中まで、総て、神に見抜かれているのです。
 
楽山が、批判されて、返せず、かえって、文句ばかりを記事に書いていることが、そして、この記事によって、さらに、自己正当化をしていることが、自己愛と訂正不能と無反省と学習不能を表しているのです。
 

旧約聖書に登場する「海割り」で有名なモーセさんだって、神様からイスラエルの指導者に任命されたときは、「私はふさわしくありません」と言い、神様から「いいからお前がやれ」と怒られました。そのほかにも聖書には似たようなシーンがたくさんあります。聖書で偉業をなしとげた人物の中で、はじめから「俺はこの偉業にふさわしい男だ!」なんて自信満々だった人なんて一人もいないんです。みんな、「私なんかでよろしいんですか」と神様に問い、神様から「そうだ、お前だ!」と言われて、不安な中で一歩を踏み出し、神様の力をいただきつつ偉業を成し遂げたんです。

 
ふさわしくない人という自覚が本当にある人は、人間としての自分を見ています。
 
楽山は、自覚ではなく、受けねらいで、謙虚を装います。
 
人は騙されることがあっても、神には、偽りの心で装うことは、通用しません。
 

そもそもクリスチャンであること自体、「自分はふさわしくない」と思ってしまう方がたくさんいます。クリスチャンであるために、「清く正しく」、「人に親切で」、「怒らず」、「下品な言葉を言わず」、「まじめで」などなどなど、たくさんの「ふさわしい条件」を自分で設定してしまって、それで自分を苦しめたり、教会から遠のいてしまったりする方がたくさんいます。ノンクリスチャンの方でも、おなじような条件を自分に課してしまって、「自分なんかが教会に行ってはいけない」とか「聖書なんて畏(おそ)れ多い」とか思ってしまう方もたくさんいます。

 
通念的に清廉潔白に見える人ではなく、恐れを知っている人が、即ち、神ゆえに、自分の小ささを知っている人が、神の民として選ばれるということでしょう。ここは、ふさわしくない自覚を持つ人が、ふさわしい、という一種の逆説になっています。
 
楽山は、批判されると、反省しないだけでなく、また、弁明や反論でもなく、批判者をおとしめてくるだけの人です。弱さを、装って、世辞の曖昧ボンヤリ言語で受け容れられることを求めてきます、というより、だまそうとしているのです。
 
弱さの自覚は救われますが、弱さの芝居なら偽善です。
 

でもね、いいんです。ふさわしくなくっていいんです。むしろ、聖書や教会は「ふさわしくない人」にこそ開かれているものなんです。イエス様は「罪深い人」から先に救ったんですから、「ふさわしくない人」こそイエス様は優先的に救おうとしているんです。

 
嘘で自分を高めようとする者は、神を拠り所としておらず、救いを拒んでいるということです。
楽山は、罪深さの自覚を表したことがありません。
 
救われた人は、みな、神の前に、罪深いけれど、何よりも、正直でした。
 
信仰は、いかなる時も隠し事をしないでいい御方を知ることです。罪の告白を憐れみをもって聞かれる御方だからです。その恵みを知った人は、少なくとも、神の前で、故意に嘘を吐くことはしなくなります。ゆえに、また、人の前でも、だますような白々しい嘘は吐かなくなるのです。
 
それが信仰の節操であり、行為義認でなくても、信仰義認が行為に影響を及ぼすということです。
 
楽山とシャロームには、正直さがありません。楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい、という、とんでもない妄想教理の味方をしました。ふさわしくないのでもなく、ふさわしいのでもなく、楽山は、キリスト信仰とは真逆のシャロームの妄想による邪教に賛同したのです。
 
シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」が、キリスト教およびキリスト信仰に反していて、それこそ真逆であること、および、この信条で生きてゆくなら社会悪になる自己中心であること、つまり、成り立たないことは、一般教養としての常識があれば、分かるはずです。
 
楽山は、それが分からず、シャロームの味方をしたのだから、その時点で、常識がない、キリスト教を知らない、ということは、既に、確定しているわけです。それを、訂正せずに、後で何を加えても、いくら芝居をしても、無駄なのです。楽山は、シャロームの仲間、キリストを殺す側の者、つまり、反キリストです。
 
神の前に、偽りの言葉を使ったり芝居をする者は、そのことで、既に、救いを拒んでいるのです。
 

キリスト教や聖書に限らず、仕事でも学業でも恋愛でも何でも、「自分はふさわしくない」と思って苦しんでいる方はいませんか。そんな方は、「ふさわしいかどうか」を自分で判断するのを一度やめてみるのはいかがでしょう。その判断は神様にお任せすることにしてみませんか。それで心がすーっとラクになるかもしれません。一歩を踏み出す勇気が生まれるかもしれません。「ふさわしくないからこそ選ぶ」ということも神様はよくなさるお方ですから。

 
ふさわしくないという自覚は尊いものです。
 
しかし、好き放題に偽りと欺瞞に生きてきて、ふさわしくなくても信仰者として生きられるから、しめた!と引用して、気軽に嘘と詭弁でキリスト信仰をもてあそんでいるのが、楽山です。神は、既に、総てをご存知です。
 

そんなわけで、今日から隔週金曜日に「ふさわしくない」MAROが皆様のお相手をさせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。
主にありて。MAROでした。

 
楽山が、正直な告白をするなら、信仰について、心にもないことを言った、ということを認めることから始めなければいけないのです。
 
楽山とシャロームに、引用元も、読者も、誰も、騙されることのないように、
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
 
(2019年11月24日、同日一部修正)
 
 
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  被害的・他罰的
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547467881.html
   楽山日記(a)2019-11-21
 
 
反省を全くしない人というのは、批評家みたく、自分を問題の外に置きます。そして、今回のように、当事者であるにもかかわらず、「 st、shalom 問題 」と、平気で書いてしまうのです。
実際は、「st、楽山、 shalom 問題 」ということです。
 

*経緯説明
先日、shalomさんからコメントがあったので、何気にその方面について検索してみた。いろいろと見てみたが、どうもこれまでの経緯をまとめておいた方がよさそうに思うので、ざっと書いてみる。
なるだけ時系列に沿って書こうと思うが、はなはだ頼りないことながら、早くも記憶は薄れてきてるので、勘違いがあったり、事柄が前後したりすることもあるかもしれない。ご了承願いたい。
というわけで、まずはこの辺りから書いてみる。

 
頼りないという自覚があるなら、書かないことです。やっていることと、言っていることの、釣り合いが取れていません。そのあとの、前もっての言い訳は、白々しい作為であり、見苦しい限りです。
 

・楽山ブログにstさんからコメントが入る。
stさんのブログを見ると、訂正不能はダメとか、教条主義でなく情緒が大切とか、共感できる考え方だった。

 
「・・とか」という言い方で、語れるほど、楽山の意識の低さが表れています。楽山から共感を得たということは、無いと思います。楽山は、嘘ばっかり言ってます。
 

・stさんがすごく落ち込み、傷付いている様子の記事が出る。
気の毒に思って、事情を調べてみると、ヨシュアという人からボロクソ言われたせいらしい。

 
やはり、嘘は全開のようです。ヨシュアは、個人情報をブログから引っ張り出してはダメ人間とか精神病とか言ったり、罵詈雑言ばかりを言いますがから、付き合えない人ですが、楽山と違って、ヨシュアは本性丸出しなので、こちらが傷つくことはないのです。
 

stさん側に同情、擁護。
ヨシュアさんは、st自由同一人物説を主張してきた。

 
だから何なのでしょう。恩でも着せたいのでしょうか。
 

・stブログで、shalomさんを偽善者などと糾弾する記事を出る。
偽善はダメとか、訂正不能はダメとか、それはそうだろうと思う。

 
シャローム批判の「記事を出る」ではなく、シャローム批判なら、楽山と出会うずっと前から約8年間書いています。
 

・stブログで、shalom批判記事がつづく。
shalomブログをちらと確認するも、そこまで強く批判する理由はいまいちわからず。
でも偽善はダメ、訂正不能はダメとかは、それはそうだろうと思う。

 
楽山は、シャロームのお仲間だから、分からないと言うわけです。シャロームの味方ですし、こちらを否定してきたのだから、楽山もシャロームの仲間としてカルト批判の対象になります。
 
「偽善はダメ」「訂正不能はダメ」という言葉に「それはそうだろう」と、実感もなく肯定しています。この軽さは、楽山も、嘘とボンヤリ言語の偽善者だからでしょう。
 

・shalomさんが楽山ブログに来る。
stさんの批判記事を見ていたので、悪い人かと思っていたら、話してみると、わりと普通。
ときどき、stさんに向けて皮肉めいたことをチクリというので、これが問題視されているのだろうなあと思い、注意すると素直に応じる。
いつぞやは、皮肉か何かを言ったことで、stさんに謝罪し、そのあと、負けるが勝ちといって舌を出すようなことをした。案の定、stさんは激怒。
言わんこっちゃない。

 
「謝罪」、のち、「負けるが勝ち(笑)」とは、シャロームの白々しい嘘の一例にすぎません。シャロームの恐ろしさは、反省しない、自己中心、訂正不能の神がかり人間離れの妄想信仰などです。だから、これは、付き合い上、無礼だったという話ではなく、シャロームの体質を表している重大なことです。
 
最近、シャロームは、何度か、私のライブドアブログに、説得力のないコメントを書いてきました。私は、返しましたが、シャロームは、それを受け取って返すことの出来ない人です。妄想信条に染まったものは、こうなるということです。
 
楽山に、妄想があるかどうかは、まだ、はっきりしませんが、人間的な感情の鈍化と、理路を読み書きの拙劣さが、今まで目立っています。子供の作文のような記事をもって、宗教と信仰と真実を扱うので、いつも、的を外しています。この楽山の記事も、タイトルからして、真面目に話す自覚などないことが表れています。
 

たしか、この頃、shalomさんは皮肉を言うことについて、あんまり酷い言われようなので、皮肉の一つも言いたくなるというような説明をしていた。
当時はそれでも止めといた方がよかろと思ったけど、今はそりゃそうだろうなと思う。

 
シャロームは、あんまり酷い言いようで、はぐらかし、言い逃れ、言い訳、詭弁と妄想教理、という間違ったことばかり言って、こちらの指摘に全く答えません。8年間、ずっとそうです。
 
>・stさんの執拗なshalom批判はつづく。<
 
8年間、今まで、そして、これからも、シャロームが書いてきたら批判を続けて、広く知らせるほかにないのです。シャロームは、反省も学習もしないからです。
 
批判が「つづく」ことを、いちいち書いているようだが、これは、しつこい、という印象を与える刷り込み、すなわち、印象操作に当たります。
 

はじめのうちは、記事を公開したら、それに批判があったとしても、ある意味当然だろうとか、shalomさんの記事に対して、stさんなりの感想を書いてるんだろうと考えていたものの、shalomさんの発表する全記事に噛みついてるようなのは、ちょっとどうかとも思う。

 
感想ではありません。批判ですから、本人が変わらない場合、読者に警鐘を鳴らすために続くことになります。シャロームは、記事を書くたびに、惜しみなく偽善を表してきました。
 

stさんに対して、批判のやりすぎをそれとなく注意してみたり、北風と太陽の話を振ってみるが、反応はいまいちなので撤退する。
以後、折を見て、批判のやりすぎはよくないという話をするも、効果なし。それどころか逆ギレの気配あり。おそろし。

 
いつのまにか、批判のやり過ぎということになっている。
 
そして、本性を表し、おそろし、という、とても幼稚な、決めつけが表れています。
 
子供レベルで、真実追求や批判の話をすると、こうなるという例でしょう。
 

・易坊さんとstさんの議論のとき、stさんの応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていない、ありえない勘違いというか、そんな感じ。
易坊さんは、ほらこれだという風に示してたので、こういうことは過去にもちょくちょくあったっぽい。

 
いつの話が分からない、遣り取りの例示も出来ないことを上げて、易坊を正当化し、ありえない、ちょくちょくあったっぽい、という刷り込んできます。吐き気のするような誘導です。
 

・shalomさんがサイクリングして楽しかったことをコメントしてきたことがあった。これに対して、stさんは、あなたにはそんなお気楽なことを書いてくる資格はないとか激怒してた。

 
文脈から、全く場と文脈にそぐわないことをシャロームが言ったのだろうと思います。
また、シャロームは、確かに、気楽な日常話をする状況ではありません。今も。
 
私が批判していることを承知の上で、楽山は、私が異常だという印象を刷り込んできます。
 
とても気色の悪い筆致と文脈ですが、私を怒らせようとしているのか、それとも、とにかく悪いのだ、という決めつけを貼りつけてきたのか、楽山が理路を追わない人であり、とても議論など出来ないような、当てつけ臭い煽動者であることを自ら表しています。
 
ケチな煽動家は、ふつうに、こういうやり方ですから警戒してください。言い方を選ばないので、近づかないのが一番です。これで、楽山は、恥ずかしくないのです。恥も罪悪感もないからでしょう。おそろし。
 

またshalomさんは、ご親族が骨折した話をコメントしてきたことがあった。これに対するstさんの反応は、shalomは同情を引こうとしているという糾弾だった。
私は、いくら意見対立がある相手だとしても、それとは関係なしに、日常の楽しかったこと、不幸などについては、「楽しそうで何よりだ」「気の毒に、大事にしてください」みたいに普通に応答するもんだと思ってるので、stさんの態度は理解不能ではあった。

 
意見が対立しているときに、お互いに意見を受け取って反応している場合は、日常的なことは普通にやり取りできるでしょう。
 
しかし、楽山、シャロームは、こちらの意見を受け取らずに、自分の言いたいことだけを言います。そういうときに、普通の応答をするのが正常だと思うこと、そして実際にそうすることのほうが異常です。
 
実際には、しばしば、楽山とシャロームは、全く状況に合わない世辞を入れてきます。これが異常だと理解できない楽山は、まことに異常です。
 

私も、けっこうな批判屋ではあるけど、さすがに議論テーマと関係ないことまで激怒したり、批判する気にはなれないので。
これがいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというものかと思ったりもした。

 
楽山は、批判屋ではなく、詭弁家、そして、煽動者です。今までの文章から、楽山に理路を整えた批判は出来ません。このように、全くの自己中心の身勝手で、楽山もシャロームも決めつけてきます。だから、直接の遣り取りより、彼らの言い分には、批判を当ててゆくことが必要なのです。
 

・shalomさんが、stさんのことを自他未分化と批判してた。
初めて聞く言葉なので、その意味ははっきりとはわからないものの、字面からゆくと、一理あるかもしれぬとは思う。

 
シャロームは、先ず、いかなる分化もしていないと思います。何故なら、神と自分の区別もつけていないからです。いつも神の啓示と聖霊の導きのつもりで、どこにも届かない妄想教を捏造し、教えようとしてきます。これは、常に、徹底的に拒否し、根こそぎ否定しなければいけません。
 

stさんは、楽山に対して、shalomさんと口を利くなとか、あれこれ命令してきて、楽山が独立した人格であることに、てんで気づいていないようだったので。

 
そう言ったかどうかは覚えていませんが、少なくとも、今は、口をきくなとは言いません。シャロームも楽山も、独立した人格ではなく、受け入れれば、社会悪につながるような狂った判断を決めつけてくる同じ穴のムジナだと分かったからです。今、まさにそうです。
 

・もう一つ、shalomさんがstさんのことを、自戒と他戒の区別がついてないとか批判してたことがあった。
そう言われて見れば、stさんが訂正不能はダメとかいうのは、訂正不能にならないようにしようという自戒というより、shalomは訂正不能だからけしからんと裁くことに使われてた。偽善とか、その他のことについても同様だ。

 
訂正不能を批判するのが、どうして、裁くことになるのでしょう。被害的とは、このこと。
けしからん、などと、感情的な言い方はしていないと思いますが。
 
私は学習可能で訂正可能です。楽山もシャロームも、私が訂正するような、よりよい意見を言ったことが、一度もないだけです。このことも、何度か書いてきたのに、受け取っていないようです。
 
誰よりも、自戒が出来ず、他戒にもならない嫌らしい当てつけや、嫌がらせをしてくるのが、楽山とシャロームであります。今回もそうです。不治の病のようです。
 
シャロームは、同じような妄想を、楽山は同じような理路にならない決めつけを曖昧ボンヤリ言語で、一方的に言うだけなのです。決して近づかないでください。彼らは、明らかに病的な異常です。
 

・shalomさんはお話し好きなようで、他のブログのコメント欄を訪問することがよくあった。でもそうすると、そこにstさんが突撃して、shalom批判を連投していた。
そういう場合、そこのブログ主さんは、shalomさんとは対話しても、stさんはスルーしてるようであった。

 
私は警鐘を鳴らしているだけです。シャロームは、他のブログの言い分を理解していないのに、他者の言葉にシャロームのゴタクを混ぜて、褒めあげるという卑しいやり方をして、悦に入るという常習の性癖があります。そういうやり方なのでしょう。
 

・易坊さんはいつどや、stさんと楽山はさびしいんだと思うとか、友達を欲しがってるとかそんなふうなことを言ってて、私はいまいちピンとこなかったのであるが、今はstさんはそういうところはあるように思う。

 
実に、余計なお世話であり、同情とは全く別の、楽山の軽蔑のやり方でしょう。シャロームもそのような同情めいたことを言うことがありますが、結局、自分を高みにおいて、相手を哀れで未熟な者として下に見ることが目的です。
 
つまり、さびしいんだ、友達を欲しがっているんだ、という決めつけは、それだけ、相手にされない哀れなやつ、という、おとしめに他なりません。楽山は、今回も、婉曲的に、持ち前の嫌らしさを出してきました。
 
二人とも、相手を低く見て、シャロームは教師として教えようとし、楽山は注意・忠告のような書き方をしてきますが、そういう上からの話は無礼だから控えるべきなのに、自分を見ることが出来ないために、分からないのです。親切ごかし、そして、偽善です。
 
話し合いをする上で大事なことが何も分からない二人なのです。決して二人と話し合おうなどと思ってはいけません。付き合い続ければ、異常・病気が体質として刷り込まれる可能性が高いです。自分を見ないゆえに反省不能で、ゆえに他者の気持ちが全く分かっていない自己中心なのです。おそろし。
 

shalomさんと私が話をしてると、強引に割り込んできたし、人は人、自分は自分という風に、他に過干渉することもされることも回避する考え方に、猛烈に反発するのはそのせいかなと。
人恋しい人が、スルー推奨という考え方に賛同するわけもなかろと。

 
コメント欄では、そういうことはあるわけだから、それを異常と思うことが、むしろ異常です。答えられないものだから、今、いちゃもんを付けているだけです。
 
人は人、自分は自分、というのは、独り立ちしていて、それぞれに、するべきことをしている人間同士に成り立ちます。楽山とシャロームは、人の気持ちも、人の迷惑も、何も考えていないと思います。だから、今回も、一方的主張で、私をおとしめています。そうしないと気が済まないなら、それこそ、病気でしょう。
 

・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。

 
自己中心、無反省、訂正不能、罪悪感と羞恥心の欠如、いつも人のせいにする、人の言うことは聞かない、だけど言いたいことは言う、という点において、楽山とシャロームの二人はお仲間であり、体質的にも似ていて、同軸であります。ゆえに、成りすましを疑っています。
 

それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。

 
楽山の記事について、私の批判が曲解・歪曲であるという根拠と例示などを上げての説明を、楽山は、一切していません。何を、勝手にまとめて、根拠もなく、言っているのでしょう。
 
楽山の文章は、ストレートな批判より、よほど、たちの悪い、当てつけと嫌がらせという雑言で出来ています。そこが分からない楽山だから、丁寧に書いておけばよいという気安さで、人を侮辱しているのです。
 
ボロクソ節の豪語は、シャロームの得意技です。私怨ではなく、社会悪につながる危険があるから、批判し、二人のことを広く知らせる必要があるのです。極めて偏った人格の二人です。丁寧語に騙されないでください。
 

stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。

 
楽山から見て、酷くない文章というのは、楽山の文章なのでしょう。しかし、私から見れば、楽山の文章は人格破壊を表しているだけなのです。そういう文章を書くようにだけはなりたくないのです。
 
批判というものは、自分に向けられたとき、不当に思われ、被害的、他罰的になりやすいものです。そこを自覚し反省し克服できる人が、真実の追求に向いています。楽山の言っていることは、真逆であります。だから、楽山は、分かっていないのです。
 
楽山は、自分が批判対象になって、ますます、その反応に理解力のなさが目立ってきています。今回の記事が、それを表しています。省みる姿勢が何も感じられません。丁寧語によるボロクソ節を言うことに躍起になっている楽山です。
 

・以上、この件についての顛末はこのようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。

 
まるで、正当な顛末になっていません。楽山の理路は、相手のせいにし、相手を責める一方向に固定して、駄々を捏ねているだけの子どもだましです。
 

・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。

 
楽山は、これらを知りません。自分の決めつけや思い込みがそうだということを認識できないからです。恐らく情緒面に欠陥があり、冷静な理路の判断が出来ないのだろうと思います。
 
このことは、哀れではありますが、もともとの体質が、そうなのかもしれませんし、少なくとも、私が関わってから、一度も内省的なところを見せたことがないのです。
 
砕けた言い方に惑わされないでください。楽山は、自分が上の異常に当てはまることを認めたくないから、逆に、上のように書いて、ごまかすしかないのです。
 
よくも知識が必要などと言えたものです。楽山は、子供じみており、一方的で、話の分からない駄々っ子なのです。やさしく接すれば、それだけ、思い込みを強くするだけです。
 
楽山は、言葉を覚えるだけで、その意味も、使い方も、理路も、感性的理解も、分かっていない人です。本を読むけど、煙に巻くような、ああでもないこうでもないというボンヤリ言語しか表せません。
 
今までは、それで、だまされて受け容れてくれる人が多かったのでしょう。しかし、重大なテーマ、宗教、思想、人生などについて、楽山が語ることは、一切、信頼できるものではないのです。決して、関わってはならないと思います。
 
今回、楽山は、何を、だらだらと書いているのでしょう。あることないこと、ぶちまけて、私のせいにして、何が、よくなると思っているのでしょう。憂さ晴らしと嫌がらせ以外の何ものでもない、いちゃもんと、ひねくれた一人前気取りの独り相撲に過ぎません。
 
私は、批判対象として、今は、楽山とシャロームです。易坊はどうしているか知りません。ただ3者の成りすましを疑っています。
 
楽山は、今回、まとめて批判したつもりなのかもしれません。しかし、読んでみると、楽山が、いちゃもん、クレーム、文句、不平不満、という悪口と、批判を、全然、区別できていないことが分かります。理路がなく、決めつけているだけです。
 
シャロームのような楽山のお仲間や、楽山やシャロームと仲良しで、既に、楽山のボンヤリ言語やシャロームの丁寧語に染まって、すっかり、二人を支持しているような人については、何を言っても無駄でしょう。恐らく、似たような、破壊された人間の様相を示すようになるでしょう。
 
しかし、楽山やシャロームとの関係を断つなら早いうちがいいです。致命的な影響を受けないうちに、染まることのないように、冷静に、楽山から、離れてください。そして、二度と関わらないようにしてください。二人は、自分が何者か、まるで分かっていないのです。
 
私は、誰でも批判しているわけではない、という事実が、楽山がだらだら書いた長文を、全部否定しているわけですが、この二人だけは、それが分からないのでしょう。
 
シャロームの丁寧語や楽山のボンヤリ言語を聞くと、吐き気を催すようになっています。もう殆ど、生理的に、感知している臭いなのです。
 
今回の楽山の記事で、楽山は、何か弁明か、批判返しをしたつもりなのでしょうか。全く、理路がなくて、じめじめした、しつこくて陰湿な悪口だけになっています。文章の歯切れが悪く、掘り下げることが出来ず、判断することも出来ず、わざとらしい砕けた言い方で、柔和に見せかけて、ごまかしていますが、受けを狙っているのでしょうか。
 
今回の楽山の文章に賛同する人は、かなり、自我の弱い人で、それこそ、楽山に騙されている御ひいき筋ということになるでしょう。楽山に影響されて、楽山と同じように、言葉の組み立ては出来ないのに、執拗に、ねちねちと文句だけを言うような人にはならないでほしいです。
 
そして、今後は、楽山の文章こそが、被害的で他罰的な精神が固定されて訂正不能になっている楽山を否定してゆくのです。そこには、楽山の異常が、前にもまして、積まれてゆくでしょう。自己中心が招く人格破壊は進行性だからです。シャロームにおいて、如実に表れてきたのです。
 
楽山が、正直な告白をするなら、心にもないことを言った、ということを認めることから始めなければいけないのです。正直とは、そういうことです。信仰とは、そういうことなんです。
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
 
 
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