ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年12月

 
  偽善者が狂うとき
 
   私の「トンデモ信仰」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5067526.html
   シャローム(シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、遠慮も反省もなく、私のブログを荒らしてきます。特徴は、コメントが、みな、自己中心の解釈の決めつけで出来ていることです。恥を知らなくなると、こうなります。そして、最後は、理由もなく笑うしかなくなるのです。理路も、情緒も、常識も、良心も、なくなるからでしょう。
 

1. shalomです。おはようございます
 2019年12月24日 08:35
「私は、楽山やシャロームなどの易坊類については、早く忘れたいところです。しかし、彼らは、厚かましく、サディスティックに、かつ、自慢げに、信仰を妨害してきます。」
早く忘れたいが忘れられないのですね。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
 

それはそうでしょう。気の毒に!
それはきっとあなたの心が不自由だからでしょう。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
恥ずかしくないのですか。
 

イエスさまは真理はあなたがたを自由にすると言われましたし、
またイエスさまは私は道であり、真理であり、いのちである、とも言われました。誰でも私によらないでは父のもとに行くことは出来ない、つまり私も父であられる神のもとにも来ることもできない、つまり私も父なる神をも信じることができません。だからいつまでも罪の中にとどまり、不信仰に、不自由に縛られているのですと言われたのです。あなたの聖書には書いてないのでしょう。
あるいはまだお読みになっていないのでしょう。
ですから、あなたの信仰は人に妨害されてしまうのでしょうね?

 
信仰が人に妨害される、というシャロームの言い分の幼稚な詭弁を覚えてください。シャロームは、信仰は神が与えるものだから人に妨害されるのは信仰ではないと言いたいようです。だとすると、シャロームは、自分が神の操り人形のように動いているから、間違いないとでも言うのでしょうか。ならば、今まで、おびただしい嘘を吐いてきたのは、神が嘘を吐かせてきたとでも言うのでしょうか。自分の酷い背教の行為を、神のせいにしています。
 
シャロームは、私が批判してくるのは信仰を妨害されているからだ、とでも言うのでしょうか。私は、信仰を妨害されてはいないからこそ、批判しているのです。
 
人に妨害されることがあるとすれば、迫害においてですが、まさに、キリスト信仰を妨害するような妄想信条を言い張るシャロームこそが、妨害者そして迫害者なのであります。
 
それで、また、何を、こちらのせいにしてるんですか。耄碌ですか、悪意ですか。
 
あなたシャロームの説教など、もはや、言い逃れ以外の何ものでもありません。
 
罪にとどまって、罪に飼われているのは、シャロームです。今もそうです。
 
信仰を妨害しているのは、無駄なコメントを書き続けているあなたです。
 
「不信仰に、不自由に縛られている」だけでなく、背教に、妄想に、縛られているのは、あなたシャロームです。どこまでも他者を縛ろうとして、醜いコメントを書き続けているあなたシャロームです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言った反キリストは、あなたシャロームです。人間をやめてしまったあなたなのです。気持ち悪いです。
 

それはあなたの信仰が単なるあなたの論理妄想にすぎず、
聖霊の導き、助けなしの聖書に基づいていない信仰だからです。
だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できないとも聖書には書いてありますね。
他者の信仰を批判する前に自分でしっかり聖書をお読みください。
shalom!

 
楽山の応援なのか。言葉だけが滑り続けるシャローム。論理妄想?、恐らく、造語。
 
結局、シャロームの言いたいことは、批判するな・・だけで、だから言いますが、こういう腐れコメントを書いてくることが、批判の動機を、ますます強めています。
 
総ての悪と偽善は、あなたシャロームのような自己中で訂正不能の狂信条から始まっています。
 
人のケツを舐めてないで、自分のケツは自分で拭きなさい。
 

6. 楽山さん st5402さん こんにちは
 2019年12月24日 11:58
shalomです。2019年12月24日 11:42
(楽山)
「こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。
  でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。」(楽山さんのコメント)

 
楽山の、アドラー教から抜け出ていないことが分かる発言ですが、何が言いたいのでしょう。
 
楽山に、流されるほどの情はありません。
 
「余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗」・・自己中の楽山は、自分の本質的な誤謬を、被害的に解釈して、人のせいにしています。
 

カウンセリングの世界ではよく過去と他人は変えられないと言われますが、
自分の無力感や敗北感、挫折感に苦しめられている人は変えられない過去と他者を批判して変えようとし、それがうまくいかないと非難中傷したり、人格否定に走りやすく、自分の苦しみを過去や他者に転嫁して自分を守ろうとしてしまうようですね。

 
前からですが、自分さえ弁えないシャロームは、言い逃れに、私が、いかに、みじめで、病気であるかを説明しているつもりのようです。私を、患者に仕立てないと気が済まないようです。
 
シャロームの場合、決して自分の無力感や敗北感、挫折感に苦しむことがなく、人を苦しめ、逆らう者を、誹謗中傷したり、人格否定に走ったり、罪と偽善を、他者に着せて、保身したつもりになるようです。
 
もはや、人間ではなく、鬼畜の様相を呈していることに気づかず、丁寧語で飾ればバレないだろうという単純さで、罪に罪を、偽善に偽善を、恥に恥を、上塗りしてゆくのです。
 
私の挫折感は、あまり書いていませんが、そういう記事もたまにはあり、あなたシャロームの背教と反キリストと違って、ことさら隠す気はありません。それ以上に、私の個人的な弱さを、妄想的解釈でネタにして、それで批判してくる、という病理を捏造することこそ、あなたシャロームの病理なのです。
 

「自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。」(楽山さんのコメント)…ということの原因も自他の区別、課題の区別ができないために陥りやすい要因のようですね。

 
楽山の失敗の原因を、「自他の区別、課題の区別ができないために陥りやすい要因のようですね」と言っています。・・楽山と仲たがいでもしたのか・・
 
自他の区別が出来ていないのは、こうして、迷惑も省みず、鋭さや説得力の、まるでない当てつけや嫌がらせをしてきて、自己の正しさを主張したつもりのシャロームのことです。他者の思いを、自分で捏造して、説明した気になっている、という、とんでもない未分化なのです。
 

なかなか誰もが俺は、私は大丈夫とは言えない罠だと思います。

 
ただ、シャロームだけが、大丈夫の立場に立って、自他の区別なく、捏造に捏造を重ねている醜態であり、このようにだけはなりたくないという自他を破壊する人格の姿です。私はこれを、ふつうに、悪魔性と呼びます。
 

ですから他者を批判せずにはおられない人も自分と他者との区別、課題の区別ができないために、アドラー心理学の自他の区別、課題の区別が心情的に受け容れることができずにいたずらにアドラー心理学もも批判せずにはおられないのですね。
それがst節(ブシ)の妄想的理路、印象操作の本質なのですね。
shalom!

 
シャロームは、自他の区別ができず、シャロームのことを私が言ったところの、ボロクソ節、妄想、印象操作を、もじって返して批判返しをしたつもりなのです。他者を、我がことのように、区別できずに、捏造の解説を得々と語っています。
 
単純すぎて、説得力が無いばかりか、自分の醜さをモニターできない性質を惜しみなく、あらわにしています。こういう人を見つけたら、先ず、即、言論の場から追放するか、でなければ、逃げるしかありません。百害あって一利なしです。
 
自他を区別できないために、シャロームが、妄想的理路、印象操作、など当ててくる・・こういうことは、自分の部屋で、ゲヘヘと笑いながら、よだれを垂らしながら、壁か鏡に向かって言って、できたぞ、返したぞと、独りで分かったつもりになっておればよい。
 
全く、理路、根拠、どちらもない、折り紙を紙くずにするに等しい言語。あなたシャロームが、治らないということだけは、よく分かりました。
 
楽山やシャロームなどの易坊類の本業であるところの、荒らしのための荒らしになっています。羞恥心のない人間もどきの醜態をさらしているのです。
 
シャロームは、妄想信条のために、必要な最低限の知能も失い、自分の言葉を育て損なっているために、わけもわからずに、こちらの言葉の真似をすることしか出来なくなっています。
 
私が言ったことを主語を代えて私に向けるところの、おうむがえし、本に書いてあった言葉を繰り返すインテリ気取りの猿真似、それらは、楽山にも共通していますが、シャロームは、恥も、罪も、偽善も、醜さも、お構いなしです。・・殆ど、シャロームの訪問は、汚染物質漏出警報と言ってよいでしょう。
 
 
   私の「しらばくれる」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5062659.html
   シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
楽山やシャロームなどの易坊類の、大仰だが、品のない笑いが目立っています。
 

1. 楽山さん st5402さん こんにちは
 2019年12月24日 12:13

「私は、そろそろ、死んでもおかしくない年齢に到達しているので、暴力ではなく、法的制裁でもなく、批判を続けることに、結果によらず、迷いはないのです。一生、出会いたくないような者たちに、私は出会ってしまったのですから。」
 」
そう迷いはないのですか!素晴らしい!
でも、一生、出会いたくないような者たちに、出会ってしまったのですから」なのですね。 お気の毒に!

 
「一生、出会いたくないような者たち」・・あなたシャロームのことなのですよ。分かっていますか。分かっているけど、「なのですね。 お気の毒に!」と、とぼけているのですか、ひらきなおっているのですか。それで、また、あなたは、のぼせ口調で、みにくく笑っているのですか。
 

わたしのほうこそ、あなたよりもいつ死んでもおかしくない年齢に到達していますが、
私はst5402さんに出会ったことを決して悔いてはいませんよ。
申し訳ありません!(笑い)
おかげで楽山さんにも会えたのですから!(再び笑い)
ありがとうございます!
shalom!

 
シャロームの、いかにも、サディストらしい発言です。そう、このように、シャロームには、いつも、慎重、敬虔、慎ましさの代わりに、白々しい世辞と讃美と、「(笑い)」があります。笑うことで、相手を見下ろして、勝った、と思いたい欲望が、節操もなく漏れ出しているだけなのです。一種の浮かれパニックと言ってよいでしょう。
 
シャロームの「(笑い)」は、冗談ではなく、和みでもなく、余裕を見せたいのでしょうが、下品で愚劣で凶悪な、あざ笑いです。ニコニコの談笑ではなく、笑う理由のない状況での、しまりのない、だらしのない、ゲヘヘ・・のシャローム、なのです。
 
今まで、ずっと荒らしコメントで、嫌がらせを書いてきて、「悔いてはいませんよ」・・それはそうでしょうね、あなたは、悔い改めない反キリストですから。
 
「申し訳ありません!」と矛盾した(笑い)、そして、(再び笑い)、そのあとに、実に白々しい「ありがとうございます!」で、何を言いたいのでしょう。感謝では文脈が成り立たないから、感謝に見せかけた皮肉でしょうか、破綻を隠さなくなったのでしょうか。
 
こういう人に、捕まった人は、確かに、人格は破壊されるだろうということを、シャローム自身が表しています。シャローム自身が、既に、破壊が進行した人だから、こうなるのです。
 
・・もう、誰も、だまされてはいけません。
 
 
(2019年12月31日、同日一部修正)
 
 
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  むき出しの自己愛性(3)
 
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   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
投稿が遅れた記事です。
 
だんだん、筆致が乱暴になり、尊大が目立ち、決めつけが酷くなり、パチパチポトっと落ちる線香花火の終末シャローム。
 
シャロームの、相手を笑う筆致が、目立ってきます。ホゥホゥホゥとでもいうような笑いで、大きく包み込んだつもりで、余裕を表したい、相手を笑って、相手を見下している悪意だけの筆致ですが、笑う理由は、どこにもないのです。的外れが、気味の悪いシャロームです。
 

9. shalomです。おはようございます
 2019年12月15日 07:55

「なお、動画でしたか、最初に、霊的・・云々とあったので内容を察しただけです。全部は見ていません。なぜ、見ていないかというと、動画が間違っているかどうかではなく、あなたが勧めたからです。
あなたシャロームは、もはや、訂正不能でしょう。」
 」
とうとうyahooブログ最後の日となりましたね。
8年間もの長い間、お疲れ様でした。
一日に100件のブログを訪問し、記事をロクに読まずに、
いいね!をして、どなたか一人でも心を通わせる方との出会いはありましたか?相変わらずの唯我独尊で締めくくられるのでしょうか?

 
揶揄、嫌がらせ、決めつけ、悪の本性丸出し。いよいよ、正体を現しています。
 

「なお、動画でしたか、最初に、霊的・・云々とあったので内容を察しただけです。全部は見ていません。」とのことですが、
「最初に、霊的・・云々とあったので内容を察しただけです。全部は見ていません。」と自白しておられるように、
聖書についても全部どころか、あちこち拾い読み位しかしていないのでしょう。

 
「自白して」のあとに「おられる」と書く。攻撃しながら、無意味な敬語を使う例。
崩れ人格の、遠慮を失った形。
 
あなたシャロームは、聖書の一行さえ理解してはいない。それだけが表れてきました。
 

10. shalomです。おはようございます
 2019年12月15日 07:57
ヨハネの4章24節
「神は霊でですから、礼拝する者も例とまことをもって礼拝するべきである。」
ヨハネ6章63節
「イエスさまは人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしはあなたがたに話した言葉は令であり、またいのちである」と述べておられます。
コリント第1の手紙12章3節
「聖霊によらなければ、誰も、「イエスは主である」という子緒は出来ない」と書かれています。
ローマ人への手紙1章2~4節
「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。」
聖書は、イエスキリストは、福音は霊に無知では信じることも、理解できないことがわかります。

 
あなたは、霊を、まるでホラーの幽霊の霊のストーリーのように考えているのでしょう。しかも、それが分かると言ってきたのです。
 
聖句に頷いて、超常の神秘かホラーの映画を頭に作っても、条文のように引用しても、信仰にはなりません。そのような教条の知識は、心で受け取るものがなければ、愛がないのと同じであり、いくら聖句を引用し、大仰に唱えても、何の役にも立ちません。
 
聖句を殺してしまうのが、そのような教条主義の思い込み信仰?すなわちカルトなのです。シャロームの説教は、実に、喧しいシンバルに過ぎないのです。
 
あなたシャロームこそが、聖霊について、何も分かっていない。神聖の三位を云々する資格は、背いているあなたシャロームには、無い。煩わしいだけのシャローム。
 
聖句を引用しても、意味がない。心のないあなたシャロームは、何も理解していないから。
 
令、子緒、・・また、変換修正していないガサツさ。ケダモノに触られているよう。
 

2019年12月15日 07:59
以上ほんの数か所の聖書の言葉を読むだけで、とは言っても、読書障害であるあなたには「最初に、霊的・・云々とあったので内容を察しただけです」と書いておられるように、読むことも、理解することもできないのです。

 
あなたシャロームに何が分かるのだろう、私の心についても、何が分かるのだろう。
 
読書障害を責めて、読書障害者への侮辱をしています。
 
貶めるためなら、手段を選ばない無節操が、シャロームの特徴です。裸のシャローム王様は、逆らうと、なんでも言って侮辱してきます。世辞の皮、剥けば黒くて薄い人
 

ヨハネは「反キリストの霊による」とはっきり書いています。
どこに書いてあるかは折角ですから、自分で読んで、どこに書いてあるか調べてください。

 
愚かな!・・あなたに言われて、私がすることは批判だけである。もはや、先生風吹かせても、何の意味もないのです。
 

最後ですから、またあなたの大好きな「悔い改めについて」のメッセージ紹介しましょう。
また
「なお、動画でしたか、最初に、霊的・・云々とあったので内容を察しただけです。全部は見ていません。」
ということになることは承知していますが・・・

 
今回は、無視します。
煩わしいシャロームの言うことなど、塵か埃のようなもの、払わないと、汚れます。
 
誰も、あなたの余計なお世話に乗りませぬように。
 

聞くは一時の恥という言葉はご存じなのですから、
それともそんな言葉は私の辞書にはないということかもしれませんが・・・

 
あなたシャロームこそが、8年間、実際は、何十年にもわたって、やってきたことでしょう、自分の言葉以外、総て無視するのは。
 

イエスさまはよく聞く耳のある者は聞くがよいと言われました。
だれにも耳はありますが、聞く耳があるというわけではありません。
この一年の締めくくりに御視聴ください。

 
あなたシャロームは、一度も聞いたことはないと思います。主の言葉を本当に聞いておれば、今のシャロームのようには、決してならないからです。あなたは、他のキリスト者のための反面教師にしかならないのです。こうなったら、おしまい、という悪例か悪霊に過ぎません。
 

12. shalomです。おはようございます
 2019年12月15日 08:01
そして新たな年をお迎えください。
「なぜ、見ていないかというと、動画が間違っているかどうかではなく、あなたが勧めたからです。」と言って、私の言葉を退けるのはあなたの自由ですが、聖書の言葉を退けてはあなたの信仰を否定するという結果を退けることは出来ません。

 
これこそ、余計なお世話ですね。あなたシャロームの言葉は、たとえ聖句の引用であっても、あなたシャロームが選択し、シャロームを飾る目的だけだから、誰も、誰一人として、聞くべきではありません。
 

人の心はカレンダーのように、カレンダーを変えるようには
変えることは出来ませんが、悔い改めのエキスパートのst5402さんには難しいことではないと思います。

 
悔い改めにエキスパートはいません。悔い改めるキリスト信仰者と、悔い改めないシャロームのような背教偽善者がいるだけです。大仰に揶揄して、大滑りが、今回は著しい。
 

13. shalomです。おはようございます
 2019年12月15日 08:02
追伸。
新しい年もまたお訪ねすると思います。
よろしくお願いします。
出来れば新たな歩みをしておられるst5402さんのブログ生活と出会うことができればと期待しています。
また新しい批判の標的になられる犠牲者がないように・・・

 
反省はせず、修正もせず、標的になる犠牲者と書いて返すだけしかできない、あなたシャロームは、決めつけではなく、もう、他に考えようがないほど、約8年分、証拠を積み重ねています。
 
そのしるしでしょうか、あなたシャロームの言が、いっそう幼稚な繰り返しになっている。
 

とは言え、今年もまだ終わったわけではありませんので、
st5402さんが楽山さんの記事について性懲りもなく云々・・・と書き綴っておられるのは、まさに性懲りもなく8年も続けられたあなた自身の姿を、わたしや楽山さんに投影しておられることにお気づきになられるようにと思います。
[あなたst5402は、もはや、訂正不能でしょう。]
というレッテルをご自分に貼り付けられないように・・・
Merry Christmas!
shalom!

 
(ネットより)
心理学における投影とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまうような心の働きを言う。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる。
(ウィキペディア)
 
シャローム批判を8年続けたのは私です。それをまた、どうして私があなたシャロームに投影するのですか。対象に、8年前知らなかったお仲間の楽山が加わっただけで、重複しています。これは投影の指摘になっていません。つまり、シャロームの言は、理路になっていません。
 
むしろ、私があなたシャロームに対して指摘した、訂正不能を、根拠もなく、私に向けているというあなたシャロームの言こそ、投影と言えるでしょう。子供か。 
 
私が、あなたシャロームを批判する理由と根拠については、この8年間、ずっと書いてきました。あなたが、それを、受け取っていないだけです。
 
投影という言葉で、もっともらしく心理学用語を知っていると思わようとしているだけです。自分の言葉が無く、自分の思考が無く、自分の感性も無く、信仰だけが自分信仰となっているシャロームは、滅びの種を蒔く人です。
 
・・もはや、誰の目にも、悪意が、すっかり単純に分かるようになってしまって・・
 
あなたシャロームが、ただただ、書けば書くほど、あなたシャロームの悪意と悪霊と背きと人間離れと神がかりが明らかになり、背教の典型がどういうものかを示す材料になってきただけなのです。・・すごい・・
 
底なし沼ですね・・
 
真善美の反対、偽・悪・醜、それがシャローム、欺の悪臭を、振り撒かないように。
 
いつも詭弁で自己正当化をする者を、正当と認める神がいるとでも思っているのか。
 
 
(2019年12月30日、同日一部修正)
 
 
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  偽善者の言
 
   私の「トンデモ信仰」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5067526.html
   シャローム(シャロム、あなた、彼)
 
 
あれやこれやと、因縁付けをして、いちゃもんつけて、バカにしてくるシャロームです。
 

1. shalomです。おはようございます
 2019年12月24日 08:35
「私は、楽山やシャロームなどの易坊類については、早く忘れたいところです。しかし、彼らは、厚かましく、サディスティックに、かつ、自慢げに、信仰を妨害してきます。」
早く忘れたいが忘れられないのですね。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
 

それはそうでしょう。気の毒に!
それはきっとあなたの心が不自由だからでしょう。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
何でも人のせいにして、恥ずかしくないのか。
 

イエスさまは真理はあなたがたを自由にすると言われましたし、
またイエスさまは私は道であり、真理であり、いのちである、とも言われました。誰でも私によらないでは父のもとに行くことは出来ない、つまり私も父であられる神のもとにも来ることもできない、つまり私も父なる神をも信じることができません。だからいつまでも罪の中にとどまり、不信仰に、不自由に縛られているのですと言われたのです。あなたの聖書には書いてないのでしょう。
あるいはまだお読みになっていないのでしょう。
ですから、あなたの信仰は人に妨害されてしまうのでしょうね?

 
詭弁、誘導、嘘、丁寧語、刷り込み、印象操作、などによって、信仰を妨害する人、つまり、シャロームを批判しています。妨害している犯人が、人に妨害されてしまう信仰と言っています。
 
シャロームの妄想信仰は、人に妨害されることはないのでしょう、妄想ですから、人の言うことを聞く耳を持ちませんから、不都合を総て相手のせいにしていますから。
 
それで、また、何を、こちらのせいにしてるんですか。耄碌ですか、悪意ですか。
 
あなたシャロームの説教など、もはや、言い逃れ以外の何ものでもありません。
 
罪にとどまって、罪に飼われているのは、シャロームです。今もそうです。
 
信仰を妨害しているのは、無駄なコメントを書き続けているあなたです。
 
不信仰に、不自由に縛られている、だけでなく、背教に、妄想に、縛られているのは、あなたシャロームです。どこまでも他者を縛ろうとして、醜いコメントを書き続けているあなたシャロームです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言った反キリストは、あなたシャロームです。人間をやめてしまったあなたなのです。気持ち悪いです。
 

それはあなたの信仰が単なるあなたの論理妄想にすぎず、
聖霊の導き、助けなしの聖書に基づいていない信仰だからです。
だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できないとも聖書には書いてありますね。
他者の信仰を批判する前に自分でしっかり聖書をお読みください。
shalom!

 
楽山の応援なのか。言葉だけが滑り続けるシャローム。
 
あなたシャロームこそが、聖霊の導きなど、あなたシャロームにはないから、というより、拒んでいるから、妄想に浸かっているのです。
 
結局、言いたいことは、批判するな・・だけで、だから言いますが、こういう腐れコメントを書いてくることは、批判の動機を強めているだけです。
 
総ての悪は、あなたシャロームの狂信条から始まっています。
 
人のケツを舐めてないで、自分のケツは自分で拭いてください。
 
「他者の信仰を批判する前に自分でしっかり聖書をお読みください」と言っていますが、シャロームは、聖書のどこからも導き出せないような真逆の信条「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」ということを、罪を認めることなく、悔いあらめることなく、根拠もなく、言い続けています。彼の思想は、反キリスト、反信仰以外も何ものでもありません。
 

6. 楽山さん st5402さん こんにちは
 2019年12月24日 11:58
shalomです。2019年12月24日 11:42
「こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。
  でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。」(楽山さんのコメント)

 
楽山は、シャロームの味方をしているだけで、何の世話もしていません。楽山がしてきたことは、余計なお世話ではなく、非常に迷惑な信仰への嫌がらせです。楽山もも、シャロームと同じ、貶める意図を持つ者です。
 
楽山は、自らの時間や労力を、ことごとく無駄にするだけでなく、他者の時間と労力を、ことごとく無駄にしてしまう者です。分かりもしないことを、分からないと言えずに、本を読んで理解したかのように、奇跡とか、信仰とか、神とか、宗教とか、子供だましの詭弁で否定して、信仰をあわれむ?、という偽善を繰り返しています。
 
時間や労力を無駄にしないためにアドラー教を学んだつもりで、実際は、不都合を無視する自己中に走り、その結果、あらゆる精神活動を無駄にしてしまっているのが楽山です。
 

カウンセリングの世界ではよく過去と他人は変えられないと言われますが、
 自分の無力感や敗北感、挫折感に苦しめられている人は変えられない過去と他者を批判して変えようとし、それがうまくいかないと非難中傷したり、人格否定に走りやすく、自分の苦しみを過去や他者に転嫁して自分を守ろうとしてしまうようですね。

 
このように、相手を、事情も知らないくせに、トラウマから人格否定の誹謗中傷をしているものと見なすのは、前からですが、決めつけを書いても無駄なのに、何度も言ってるのに、また、書いてくるという機械的な説教に、誰も付き合うことのないようにしなくてはいけません。シャロームの口から出るものに、人間も、神も、いません。
 

「自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。」(楽山さんのコメント)…ということの原因も自他の区別、課題の区別ができないために陥りやすい要因のようですね。

 
楽山の失敗を言っていますが、仲たがい、ではないなら、シャロームのほうが、上の立場なのか、シャロームがそう思っているだけなのか、もはや、シャロームの常套句にようになった自他未文化と、アドラー教の課題の分離みたいな話をしています。
 
何も理解できず、言葉だけ借りてきて、それを繰り返すのが、シャロームの筆致です。中身がないのです。陥りやすい要因、と言っていますが、いちばんの要因は、あなたシャローム自身であります。
 

なかなか誰もが俺は、私は大丈夫とは言えない罠だと思います。
ですから他者を批判せずにはおられない人も自分と他者との区別、課題の区別ができないために、アドラー心理学の自他の区別、課題の区別が心情的に受け容れることができずにいたずらにアドラー心理学もも批判せずにはおられないのですね。
それがst節(ブシ)の妄想的理路、印象操作の本質なのですね。
shalom!

 
まるで理路になっていないことを、シャロームは、自慢げに説教口調で言ってきます。だから、シャロームには、一見、まともそうに見えても、全否定以外ないのです。シャロームは言うだけで、聞かない人であることを肝に銘じて、シャロームの話を、ただ、狂信条と自己中と訂正不能という根拠をもって、最初から最後まで、否定しなければいけません。
 
シャロームは、なんでも、しつこく書けば、大方の人が、疲れて退くことを、カルトとして、知っているわけです。だから、シャロームは、エネルギーを何も使わないで書いてきます。結果、何も語らないのといっしょで、その代わりに、恐ろしい疲労の繰り返しを与えてきます。
 
こういうことですから、シャロームが、キリスト者ではなく、反キリストの悪態と、疲労物質として機能だけで、人間破壊の凶暴性しか持っておらず、人を食ったあざ笑いの、ゲヘヘのシャロームとして、対処するしかないことが、表れています。
 
シャロームは、弁明ではなく、妄想を繰り返し語ることで、満悦するので、どんなに恥知らずになっても、それを悔いることがない、という、8~9年の罪と偽善の履歴であります。これは、批判した期間ですから、実際は、もっと長いと思います。
 
このコメントのように、シャロームは、こちらに当てつけてきますが、妄想や理路や印象操作などの、こちらの言葉を使って、当ててくるだけで、根拠も説得力も皆無ですから、何も、まともなことなど、書けない人だと思います。
 
これに、何か答えようとしてはいけません。ウンコ泡くらいに思うしかないのです。決して、まともに相手しようなどと思わないでください。
 
以前には、うっかり、言葉の表面だけ受け取って、シャロームに説教されて、やさしくて丁寧なお話で、熱心な信仰ですよ、などと言ってくる人がいて、私に、シャロームに対して失礼じゃないの、と言ってきた人もいます。信仰を、社交と世間話として扱えば、そういうことが起こりうるのです。
 
間違ってもシャロームと遣り取りをして、対話しました、などと思わないようにしてください。シャロームの術中に嵌っている表れです。言葉が発信オンリー機器のリピート装置でしかないシャロームは、誰とも、本当の対話をしたことはないのです。
 
シャロームを聞き、受け容れた時点で、シャロームの妄想に取り込まれ、一生を棒に振るところの、盲目の広き門へ、ぬるぬる流されて堕ちてゆく入口だと思ってほしいです。シャロームを相手に、一切の対話は成立したことがありません。シャロームには、理路も情緒もありません。
 
 
信仰を持つことは、なんの権威にもなりません。また、自らの正義が保証されるわけでもありません。全き正義は、永遠に神のものであります。その神を恐れることが信仰です。そして、神のもとで、学び、成長し、キリストの同伴と祈りの双方向によって、小さくても弱くても、人間として生きてゆくのが、信仰の恵みです。
 
 
(2019年12月29日)
 
 
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  本質知らず
 
   2019年12月21日
   『ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯 原始仏教1/中村元選集 第11巻』
   http://mn266z.blog.jp/archives/22691792.html
 
 
投稿の順序が前後していると思いますが、楽山批判の下書きが、今の時点で、一つ残っているので、アップしておきます。それぞれ、相手の言葉を引用しての逐一批判なので、順序が前後しても焦点がズレるという影響はないと思いますが、ご意見など、ありましたら、コメントください。
 
キリスト信仰について、本質を求めずに、ゴシップ的なことばかり熱心で、軽く見て、どうでもよいものとして、宗教をおとぎ話にしてしまいたい楽山は、仏教も同じように、オモチャにしたいようです。自分だけが客観的に分かっている賢者という自己顕示欲のためでしょう。
 

本書では、神格化された信仰上の釈尊ではなく、実際の釈尊はどのような人物であり、どのような生涯をおくったかを明らかにする試みがなされている。たとえば初期の仏典では、弟子でさえも釈尊のことを、「シャカ」「ゴータマ」などと呼び捨てであったのが、時代が下がるにつれて尊称がつけられ神格化されて行く様子を明らかにしたり、梵天勧請のような伝説はなぜ生まれたか、現実はどうだったかなどについて語られている。また当時の釈尊は剃髪していただろうから、事実かどうかという視点から見た場合は、仏像に髪があるのは間違いだと見もふたもないことも書いている。

 
だから、楽山は、先ず、史実にこだわります。キリスト信仰の心ではなく、キリストや神についての史実から、いちゃもんをつけてきたように、いちゃもん屋の楽山は、知識豊かな博識と言われたいのでしょう。教えそのものよりも、表面に浮いてきて掬いやすい灰汁のような知識を求めて、宗教を、安く手に入る惣菜として料理したいのでしょう。
 

こういう試みは、信仰上のお釈迦様を大事にしたい人からしたら愉快ではないかもしれないが、自分は信仰上のお釈迦様のみならず、実際のお釈迦様はどうであったかにも関心があるので非常にありがたいし、わくわくするほど面白く読めてよい。大いに歓迎する。

 
楽山は、いったい、どういう立場で言っているのでしょう。知りもしない信仰の教祖について、大いに歓迎する、などと言えるのは、いったい、どういう尊大さなのでしょう。わくわくするほど面白がるのが信仰だとでも思っているのでしょうか。真面目に救いを求めている人々への侮辱だと分からないのでしょうか。
 
仏教についても、また、既に、キリスト教についても、楽山の自己愛による自己中の身勝手と傲慢は、個人の安易な知識欲と興味の範囲でしかないのに、そこを超えて公開文書で語ってしまうのが、楽山の特徴であり、宗教の知識として受け取れる質を持っていません。しかも、人の意見を全く聞かないのだから、自己愛のインテリ気取りの独り有頂天ほど迷惑なものはありません。
 

とはいえ、こういう自分もかつてはこの種の試みは大嫌いだった。仏陀はこの世だけでなく、この世を超えた世界をも知り尽くしている故に仏陀なのであって、仏陀の超人的、超自然的な側面を除外して見ようとするならその真の姿は決してつかみ得ぬだろうし、それは仏陀を矮小化し、自分の解釈可能な範囲内に押し込めようとする甚だしく不遜で愚かな行為であり、無意味なことだと考えていたのだ。

 
楽山は、あるときは、霊が分かるっぽいと自分で思って、超常の世界を好むくせに、別のときには、神やキリストの実在を問うのと同じように、幼稚な疑問で否定しにかかる、という、興味のおもむくままに、宗教を茶化してきただけなのです。
 

でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。

 
楽山の言う近頃というのは、どれほどのタイムスケールなのでしょう。仏様の声が分かるっぽい発言は、昔のことであっても、それをブログで語っているわけです。祈りや聖句などを書いてクリスチャン芝居をして記事に書いたのは、何年も前というわけではないでしょう。自分の興味によって、ころころ、立場を変えているだけという節操のなさは、宗教を語る者として、どこにも通用しないです。
 

信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。

 
楽山に信仰心旺盛だったことなど無いと思います。それは、たぶん、超常に浮かれていた頃のことを、そう言っているのでしょう。楽山にとって、宗教に気分をよくしているときは、超常へ興味が向かうときで、宗教に悪口を言うときは、史実にこだわったり、幼稚な疑問だらけになるようです。そんなに前のことではありません。
 
楽山は、自己愛のために、現実が分からなくなっており、好き勝手に、こだわり方を変えて、仮想現実のような何でもありになることがありますが、楽山の半端な理路では、現実問題に答えることなど出来るはずもありません。奇跡の見分け方についての記事とか、妙に浮かれた言葉を並べるとか、不安定な精神状態が、楽山の書くものに表れてきました。
 

現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。

 
またしても、おかしな思想背景から、ほどほどにしといたほうがよいなどと、信仰を侮辱しています。信仰は現実において生きるためにあります。楽山にとって、信仰は非現実、という、とても安っぽい先入観が働いているわけで、そのことこそが、楽山の、信仰を語ることにおける欠格を表しているのです。
 
「捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといたほうがよかろう」信仰?など、むしろ、持つ価値など全くない信仰?であり、真の信仰に救われた人々に対する最大の侮辱です。信仰の奥深さを全く知らない者の著しい誹謗中傷であり、単純な無知が、傲慢による無恥を伴うと、こうなるという例です。
 
 
  「st、楽山 問題を振り返る」2019-12-20
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
  楽山日記(a)( 楽山日記(DL)とは別のブログです)
 

*実際のところ
 ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。
 yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。

 
自分が何をしているか、まだ分からないようですね。反信仰として批判するということは、楽山ブログの閲覧者ゼロを目指すということです。誰にも、楽山には、関わってほしくないということです。
 

知名度の高い人気ブログであれば、批判、炎上によってアクセス殺到ということもあるかもしれないが、楽山日記のような閑散ブログの場合は、もとから興味を持っている人は稀であるし、そういう楽山の批判が書かれたり、コメ欄炎上したところで、誰も読まないということなのだろう。

 
楽山の記事やコメントが、読む価値がなく、読んでも嘘と間違いだらけで、むしろ害毒のほうが大きいと判断して、批判しています。信仰を知っているキリスト者にとっては、楽山は、嘘を宣伝しているわけだから、甚だ迷惑で、しばしば、書くのをやめるようにも言ってきたのです。
 

また仮にわずかながらも楽山日記を愛読してくれる人がいたとしても、そういう人はstさんとは考えは合わないだろうから、stさんの楽山批判を読んでもそれに影響される人はいないだろう。

 
楽山と一蓮托生のお仲間たちにとっては、自主性も創造性もなく執念深さだけの根性にマインドコントロールされているわけだから、私とは考えが合わないのが当たり前ということです。
 
私は、私と同じ考えになってくれとか、私と一緒に批判してくれとか、頼むために批判記事を書いているわけではありません。私の務めとして、楽山やシャロームなどの易坊類が邪悪だという情報をできるだけ広めるために書いています。それに、コメントを読む人は少ないでしょうし、批判の本体は、私のブログの記事であります。
 

ようはstさんが、楽山がああだこうだといくら書いても、現実は変わらないということ。おそらくこれは、shalomさん、マリアさんについても同じだ。stさんがマリア批判をしたところで、それ以降もマリアさんとこは人気ブログであり続けてるし、shalom批判をしたところでshalomさんが皆から糾弾されるということもないし、shalomとの会話を拒否する人もいないだろう。

 
ネットでは、興味本位のブログが多いですから、だいたい、批判記事というのは、嫌われる傾向であることも知っています。
 
相手が変わるかどうかではなく、間違っているということを、書けるのに書かないでいることは反信仰を放置したという罪そして反信仰になるので、批判を書ける人、あるいは、書こうという意志のある人が書くべきなのです。
 
だから、訪問者数に依存したブログを書こうとして、受けるための興味本位の書き方を工夫したり、他者に迎合するようになるなら、信仰の記事を真剣に正直に書くという節操にも反してくるのでしょう。嫌われ、読まれなくなっても、言いたいこと、大事だと思うことを最優先に書くことにしています。
 
楽山もシャロームも、お仲間の数や、訪問者数のことを、おとしめる目的で書いてきますが、それは、信仰者としての節操も弁えも使命感も持っていない、例えば、流行るかどうかを判断の基準としているような香具師(やし)か的屋(てきや)みたいな下劣な姿勢と体質を表しているということです。
 

私から見た現実はこのようなものではある。stさんは、マリアさんのブログでは下のような決意表明を書いていたし、命がけでカルトと戦っているつもりかもしれないけど、そろそろ現実に気づいてもいい頃ではないかと思う。

 
楽山から見た現実は、バーチャルであることがよく分かる文章です。核心に入ってゆけないために、分かりやすい指標に頼って、批判しても無駄だと、おとしめてきます。無駄でよいのです。真善美から程遠く、高慢から礼節も弁えず、だらだらボンヤリ言語を垂れ流し、社会悪につながりそうな自己中の邪悪に対して、できることをしているだけですから。
 
 
(2019年12月28日)
 
 
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  無駄なあがき(2)
 
   私の記事「長い引用で欺く」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5057433.html#comments
   シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
荒らし、荒らし、中身のない、荒らし、荒らしの、楽山やシャロームなどの易坊類。
 
荒らしの特徴は、罵詈雑言の有無で判断するのではなく、理路と根拠の有無によって判断されます。反キリストが、言い訳のために、こんなに知ってるぞ、という自己顕示欲と自慢の決めつけの醜い意地が滲み出ているシャロームによる、何の役にも立たない繰り言です。
 

17. st5402さん こんにちは  shalomですよ。
 2019年12月24日 12:34
>>8
「あなたは、聖書と、神と、キリストと、信仰総てを「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言って裏切ってきただけではないですか。」
これはあなたの妄想による決めつけ的外れ批判ですよ。
あしからず!

 
てれっと無根拠に「あなたの妄想による決めつけ的外れ批判ですよ」と書いただけのシャローム、あしからず!とも・・あなたの決めつけは、もう、何の影響も与えることは出来ません。だんだん、哀れなヒト型動物になってゆくこと、あなたシャロームだけは、気づかないのですね。
 

悔い改めは生ける神の愛と憐みをイエスさまの十字架の死とよみがえられたイエス様との出会いによって体験した時、与えられる神の賜物プレゼントなのです。そこから悔い改めという主の道を導かれる信仰の歩みが始まるのです。

 
約8年で、あなたシャロームが、一歩も歩んでいないことが、反証です。あなたは、悔い改めを否定し、その後、詭弁でごまかし、今、また、与えられると言い張っています。悔い改めは、人がすることです。
 

ここに書かれたなが~いコメントは聖書に記されている弟子たちに起こった出来事を書いているのです。
弟子たちが体験したことを今も御言葉と聖霊の導き、助けにより今も体験できるのです。
聖書を読んでいるのであればすぐにわかることですよ。
shalom!

 
聖書を読み違えて、というより、聖書から何も受け取っていないから、聖書を読んでいるのであればすぐにわかると嘘を吐きながら、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」などと平気で言えるわけです。
 
長い話は、シャロームの引用で、シャロームの前歴を考えると、引用することが既に大嘘に過ぎないのです。むしろ、平気で引用することに、あなたシャロームの凶悪が滲み出ています。
 
また、あなたシャロームは、何も体験していません。聖霊体験も嘘、キリスト者も嘘、元牧師も嘘、総て、嘘によって騙して、今まで暮らしてきたのです。その根拠は、私の記事の8~9年の積み重ねに表れています。
 
全部、あなたが、都合よく忘れている私の批判の根拠ですが、うまくいってるつもりでも、人の言うことを忘れて、自己正当化をするという、自分に絶対を当てはめることの報いなのです。
 

18. st5402さん こんにちは  shalomですよ。
 2019年12月24日 12:58
>>9

「肉体の蘇りに執拗にこだわった信仰?が、人間にもたらしたのは、言葉の飾りに過ぎない丁寧語と世辞と聖書語の乱発、それによる言葉の破壊、嘘吐き、偽善、詐欺行為、妄想信条、共感の欠如、魔術的超常奇跡にこだわり良心を捨てること、すなわち、真実を捨てることだと、あなたシャロームを見ていると、実に、よく分かります。

「 肉体の蘇りだけを信じて、曽於に固執する分、キリストと人々との心の交流を無視して、結果、大切な心を捨ててしまったシャロームは、信仰の恵みを受け取る器を捨ててしまったのです。」
 」
使徒パウロによって書かれたローマ1章1~4節
 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、目されて使徒となったパウロからーーーーこの福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちのイエス・キリストである。」使徒パウロによって書き記されています。
パウロは生前のイエスさまに一度もあったことがないばかりか、イエスさまを信じる人々である教会の迫害者だったのです。迫害者であったパウロはよみがえられたイエスさまと出会い、打倒され、使徒と変えられたのです。
使徒行伝にパウロのその個人的体験が記されています。
聖書を読んでいないあなたには受け入れられないことでしょうが、あなたの妄想的思考とパウロの体験に基づく証言、どちらが信じられるか明らかですね。

 
妄想と言われたものだから妄想と言い返すことしか出来ないシャロームです。根拠はいつも皆無。
 
聖書を解釈して伝えることのできない者の特徴として、都合の良い聖句を当ててくるというのがあります。困ると、いつも、聖句を並べ、聖書語をだらだら書きまくるシャロームの常套手段です。
 
パウロの体験は、パリサイ人サウロから、使徒パウロに生まれ変わる体験です。
 
シャロームの体験は、嘘吐きシャロームから、笑い続けて大嘘を吐き続ける醜い愚か者で反キリストのシャロームに増悪する体験です。あるいは、荒らしの易坊か。
 

グダグダ妄言をしていないで、もっと聖書を読みなさい。
そうすれば傷つき、乗っ取られたあなた心にもいのちの息吹きが吹き込まれ、生きたものと変えられるでしょう。
パウロのように!
すばらしい!
ハレルヤ!
shalom!

 
シャローム、または、易坊、罵詈雑言と讃美言葉が混ざり合っていますよ。これが、あなたシャローム、または、易坊の、独特の悪魔性の筆致、どちらかを隠していることが多いが、今、表れている、・・隠れているもので明らかにならないものはない・・という聖句の成就でしょう。大仰さが、臭い、臭い。
 
 

19. st5402さん こんにちは  shalomですよ。
 2019年12月24日 13:13
>>12
「キリストが、赦したのは、ペテロは泣いて悔いたのであり、トマスは疑ったことを訂正し、悔い改めたからです。」
あなたの読書障害は単に文字を読むことができないというのではなく、その内容を理解し、とらえることのできない霊的障害です。聖霊の助け導きに盲目ということです。
トマスは正直に自分の目で見て、自分の手でよみがえられたイエスさまにふれることができなければ、イエスさまがよみがえられたなんて信じられないと言ったのです。
するとその後、トマスにイエスさまはよみがえられたご自分をトマスに表してくださったのです。どこに先にトマスが悔い改めた、と書かれていますか?ペテロも同じです。
それはわたしも、あなたにも同じなのです。
あなたには別であればそれは反キリストの霊による異なる福音、異端です。
 聖書に書かれていることです。
shalom!
shalom!

 
トマスは使徒です。触れなければ信じないとトマスは言いました。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
 (ヨハネ書20:24-25、新約聖書)
 
信じない罪は、信じると言う信仰告白によって赦されます。それが悔い改めです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:27
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:27-29、新約聖書)
 
トマスは、主よ、と言って、神のほうを向いた、すなわち、悔い改めたのです。
 
しかし、見ないで信ずることが幸いと主は言っておられます。赦されるかどうかは、肉体によるのではなく、悔い改めと信仰告白によるのです。主よ、と言っても、嘘吐きは赦されず、救われません。あなたシャロームは、嘘ばかりついてきました。赦されないことが、報いとなることを、シャローム自身が招いたのです。
 
信仰がないというのは、未知ということですから、将来、悔い改めと信仰告白によって赦される希望があります。信仰告白は、罪を認めることであり、世俗から、神のほうへと、向きを正す、という悔い改めです。
 
信ずるという信仰は、キリストの心を受け取って、嘘の祈りをしないことです。
 
シャロームのように、キリストの心を、受け取る敬虔もなく、受け取る経験もしていないのに、やたら、讃美しまくるのは、偽善であり、嘘であり、神の前に冒涜であり、背教であり、自己顕示欲の産物であり、すべて、神によって、見抜かれており、そのままでは、おしまい、なのです。
 
そして、見ないで信じることは、キリスト以後の、キリスト者の悔い改めです。私もそうです。
 
しかし、シャロームは、肉体に固執して、見たのと同じことを主張して信仰者に要求しているのだから、そこに、本当の信仰はないのです。心が無いからです。残念なことですが、他者にはどうしようもない。悔い改めの信仰告白は、自分でする以外、方法はないのですから。
 
シャロームは悔い改めの主語が滅茶苦茶ですね。神と人は双方向ですから、悔い改めるのは、人が主語、そして、赦すのは、神が主語です。当たり前のことですが、分からない人がいて、以前から、詭弁ばかり弄しているようです。
 
聖書に書かれていることですが、シャロームは、うわべの薄っぺらな言葉だけで満悦して、心を受け取っていないのです。だから、見えない真実の御方を信じることができずに、信仰?に見せかけるために、うわべだけ見えるつもりの肉体の復活を、大仰に唱えているのです。
 
 
(2019年12月27日)
 
 
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