ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年12月

 
  無駄なあがき
 
   私の記事「長い引用で欺く」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5057433.html#comments
   シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、既に、信頼度ゼロです。なのに、コメントを長々と書いてきます。楽山の応援かもしれませんが、長々と聖書のことを書いていますが、シャローム自身が、今まで8~9年の記事とコメントによって、反キリストだとバレているので、今回も、嫌がらせ以外の何ものでもありません。
 
シャロームは、私のライブドアブログに、うんざりするような嫌がらせコメントを書きました。楽山批判を邪魔したかったのかもしれませんが、楽山がまとめて書いた記事に対する批判が一応済むとともに、しばらくは、シャローム批判が続くことになります。
 

1. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:42
楽山さん stさんは碌に聖書を読んでいないのですから、所詮我流の信仰でしかないのですから、論争しても徒労になるだけですよ。
聖書に聞くことでしかイエスさまに出会うことも信じることも出来ないのです。

 
シャロームは、聖書の一行も理解していないのですから、所詮我流の妄想信仰でしかないのですから、論争しても徒労になるだけだと知っています。
 
聖書に一言も聞いてないばかりか、詭弁と妄想だけのシャロームは、キリストに出会ったことも信じたこともないのです。
 
証拠もあがり、バレてしまった偽キリスト者、偽牧師、そして、反キリストのシャロームが、バレたことを、全部無視して書いてきても、記録が残っているのだし、無駄なのです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言って、キリストを殺す者と似たような信条を持っている反キリスト、シャローム、今日も、門口に罪が待っています。いっぱい書いた分だけ、罪は増し加わります。
 
投稿者の名前を書きなさい。無責任シャローム。
 

弟子たちはイエスさまがゲッセマネの園で捕えられた時、イエスさまを見捨てて逃げたのです。
でも、ペテロは大祭司邸の庭で裁かれため引き立てられて行かれるイエスさまのあとを顔を隠しながら、隠れるようにそ~っとについていったのです。
でも裁かれるイエスさまを見つめているペテロを大祭司邸の女中が見つけ、あんたはあのイエスの仲間だろうとそこにいる人たちにわかるように大声で聞いたのです。そんなことが三度もあり、とうとうペテロはイエスを知らない、関係ないとイエスさまを呪ってしまい、その場から逃げ出してしまったのです。
門外に出ようとしてふとイエスさまの方を見ると、イエスさまがペテロを静かなまなざしでじ~っと見つめておられることに気づき、たまらずペテロは泣いたのです。
その後、弟子たちは戸を固く締め切った部屋に人々を恐れ、また自分たちの弱さ、醜さに打ちひしがれて閉じこもっていたのです。

 
昔、あなたシャロームの、こういう説教を、真に受けていたことがありました。騙されていたからです。
 
自分の弱さにも、醜さにも、打ちひしがれるどころか、閉じこもるどころか、なお、声を大きく、たくさん言えば伝わると思っているシャローム、総て、無駄なのです。滑稽なだけです。
 

大祭司はイエスさまが人々を惑わし、神を汚すものだとして、人々の訴えもあり、十字架につけることにしたのです。
しかし、当時のイスラエルには死刑にする権限がなかったので、ローマ総督ピラトによって死刑の判決をさせ、執行しなければならなかったのです。(領主ヘロデのもにも連れて行かれるのですが省略しました)
そこでイエスさまはローマ総督ピラトの裁きに座に引き立てられたのです。ところがピラトにはイエスさまを死刑にする罪が見当たらないので、再三赦そうとするのです。(人々の訴えが妬みのために訴えていることがピラトにはわかっていたのです。)

 
なぜ、聖書の話をしているのですか。あなたは、聖書と、神と、キリストと、信仰総てを「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言って裏切ってきただけではないですか。
 

2. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:43
しかし、イエスラエルの指導者たちはイエスはローマ皇帝に対する反逆なのに、あなたがイエスを死刑にしないのであればローマ皇帝にあなたを訴えると言い始めたのです。
そこでピラトはイエスさまが死に当たる罪人ではないことを知りながら、イエス様に死刑の判決をし、十字架につけたのです。
そしてイエスさまは十字架につけられ、墓に葬られたのです。

 
また、肉体の蘇りを、信仰?として、説教するつもりでしょうか。そのあなたの信仰?の結実が、あなたシャロームの、身の毛の弥立つ醜さだったのです。結果が、既に、総てを語っているのです。あなたシャロームは、嘘吐き、偽善者、詐欺師、妄想カルト、キリストを殺した者たちと同根、サタンと同根です。
 

その三日後の日曜日の朝イエスさまはかつて繰り返し弟子たちに話されたようによみがえられたのです。
最初によみがえられたイエスさまに出会ったのはマグダラのマリヤとイエスさまの母マリアともうひとりの女たちでした。
イエスさまはマリアに閉ざされた部屋に閉じこもって隠れている弟子たちに、イエスさまはよみがえられたと伝えなさいと告げられ、女は弟子たちのところに行き知らせたのです。
弟子たちは知らせを聞いてびっくりしましたが、信じられない思いで、ペテロとヨハネの二人がイエスさまが葬られた墓に向かって走りだし、墓の中にはイエスさまの遺体を包んでいた布だけしか見ることができなかったのです。
 弟子たちはイエスさまがよみがえられたなんて信じられずに閉じこもったままだったのです。
するとその後その弟子たちのところによみがえられたイエスさまがご自分をあらわされたのです。
 女の知らせを聞いた時、トマスという弟子はその場にいなかったので、後で弟子たちの話を聞き、私は自分のこの目でイエスさまを見て、この手てイエスさまの手の傷にふれることができなければ信じないと言っていたのです。

 
肉体の蘇りに執拗にこだわった信仰?がもたらしたものは、言葉の飾りに過ぎない丁寧語と世辞と聖書語の乱発、それによる言葉の破壊、嘘吐き、偽善、詐欺行為、妄想信条、共感の欠如、魔術的超常奇跡にこだわり良心を捨てること、すなわち、真実を捨てること、人間でなくなることだと、あなたシャロームを見ていると、実に、よく分かります。
 
肉体の蘇りだけを信じて固執する分、キリストと人々との心の交流を無視して、結果、大切な心を捨ててしまったシャロームは、信仰の恵みを受け取る器を捨ててしまったのです。
 

3. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:45
ところがそのあとで、トマスがいる時、イエスさまが再び来られて、トマスにご自分がよみがえったイエスであることを示されると、トマスはわが主、わが神と言って膝まずいたのです。
それでも弟子たちはあまりのことで、信じられない思いでいたのです。そんな弟子たちはエルサレムからガリラヤ湖にかえり、漁をしようといってかえってしまったのです。
 一晩中漁をしても一匹の魚も獲れずに朝早く湖畔に帰ってきたのです。するとだれか浜辺で火を焚いていたのです。
疲れ切った弟子たちが舟をこいで浜辺に近づいてくると、火を焚いている人がそこで網を打ちなさいを言ったのです。弟子たちはプロの漁師ですから、朝明るい朝、漁をしても魚がとれないことがよく知っていたのです。でもその人はまた網を打ちなさいと繰り返したので、弟子たちは網を打ったのです。するとなんとたくさんの魚が網に入っていたのです。
そのとき、ペテロが思い出したのです。同じことがイエスさまの言葉に従ってやはりたくさんの魚が取れたことを!
ペテロはとっさに、主だ!と火を焚いている人がイエス様であることに気づいてとっさに水に飛び込み、イエスさまのもとに生きひれ伏したのです。

 
聖書のストーリーを書けば、信仰を知っていることになるとでも思っているのでしょうか。逆です。聖書のひと言で生き返る魂もありますが、あなたシャロームは、知っているぞとばかり、貧相な知識だけをだらだら書いて、自慢しているだけです。また、いっそう、無反省であり、いっそう、醜い。
 

4. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:46
長いこと、聖書の書かれていることを書いてみました。

 
書くだけで、オレが上だと自慢しても、実際の嘘と欺瞞を知られてしまったのだから、バカげています。丁寧語と聖書語が傲慢を作るという実例になるだけです。誰も心にも届かない。あなたは、もはや、だますだけ、そして、だますことで、心に届く言葉の一切を、失っています。
 
あなたは、今、聖書のことを書いているが、あなたシャロームに必要なのは、今までの信仰?を全否定することであり、悔い改めること以外には、ない。
 
したがって、ここにあなたシャロームが何を書いても、それが、聖書のストーリーでも、聖句でも、それは、あなたの役目ではないのだから、無意味な言い訳の手口として全否定されるのです。
 
何か、易坊にでも、言われたのでしょうか。後で、シャロームじゃないとでも言うつもりでしょうか。何の意味もありません。つまり、詐欺師の楽山やシャロームなどの易坊類が書くこと自体に、もはや、何の意味もないのです。
 

裏切って逃げ去り、自分の弱さ、愚かさを恥じ、また人々の目を恐れて隠れるしかなかった弟子たちでした。
イエスさまにまた会えるとも、信じることなんて思ってもみませんでした。合わせる顔もない思いでいたのです。
しかし、よみがえられたイエスさまは真っ先に弟子たちによみがえられた姿を弟子たちに繰り返し、ふたたびご自分を表してくださったのです。
またよみがえられたイエスさまと会ったのに、ガリラヤ湖に帰って漁をするしかなかった弟子たちが一匹の魚も獲れず、疲れ果てて帰って来る弟子たちを迎えるために浜辺で火を焚いて待っておられたのです。
弟子たちはただ自分の弱さ、醜さしかない自分たちに失望していたのです。その弟子たちのところにご自分をあらわし、shalom!(平安あれ!)と声をかけてくださり、また疑い深いとマスにさえ、ご自分の方からトマスにご自分を表してくださり、それでも信じられないですごすごとガリラヤの古巣に帰るしかない弟子たちに再びご自分を表され、弟子たちの傷ついた心の痛みを癒し、新たな心を与えてくださったのです。

 
キリストが、赦したのは、ペテロは泣いて悔いたのであり、トマスは疑ったことを訂正し、悔い改めたからです。あなたシャロームは、悔い改めないかぎり、いくら、肉体の復活を、強迫行為のように譲れないと、しつこく書いてきても、信仰に対して、ただ、裏切ってきただけであることをもって、罪を認めず悔い改めず、裏切り続けていることをもって、全否定されるしかないのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:26
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:26-29、新約聖書)
 
キリストの、絶えることのない愛は、心で受け取るべきもの、見ないで信じるものであります。そして、そこに、微塵の嘘もないものであります。愛と肉体と、どちらが大事で、どちらにこだわるべきか、・・前者であることは、明らかであります。それが分からないなら、人間でさえない。
 
肉体の蘇りだけを信じているということは、そこに愛はないのだから、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じであると書いてある聖句を思い出させ、つまり、肉体の蘇りだけを声高にいくら唱えても、いっさい空しく、それは全く信仰とは呼べないものになってゆきます。
 
あなたシャロームから、世辞の讃美言葉の鬱陶しさを何度も聞かされたけれど、真実の愛のある言葉は、一つも聞いたことはないのです。
 
あなたは、何も大事なことを受け取っていないから、書けないのです。
 
肉体の復活については、既に、書いたことがあるので、ここには書きません。あなたに言っても無駄でしょうから。肉体の復活にこだわり、愛も共感も捨てたあなたシャロームは、肉体だけ不死身のゾンビの姿で蘇っているというわけでしょうか。魂が滅びています。怖いことです。
 
悔い改めないシャロームが、いくら、聖書の話をして、嘘の讃美言葉を並べても、ペテロやトマスのように悔い改める、という祈りを経ないならば、一切は、やかましいシンバルに過ぎません。シャローム、黙りなさい。
 

弟子たちはよみがえられたイエスさまが自分たちの罪を赦し、そのままで、ありのままの自分たちを受け容れてくださっていることに気づかされたのです。この気づきはイエスさまが与えてくださった恵みの賜物だということがわかります。
こうしてイエスさまがかつて弟子たちにあなたがたを人間を獲る漁師にしようと言われた言葉が実現され、弟子たちは人を獲る漁師に変えられた新しい生き方が始まったのです。それが教会の誕生であり、始まりなのです。

 
またしても、主が与える、神が与える、という方向に持っていって、悔い改めをしないことを正当化したいシャロームですが、悔い改めるのは、人間です。
迷惑だから、書いて来ないように。
 

5. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:47
随分長いコメントになってしまいました。
 聖書の言葉を丁寧に読むことなしにイエスさまと出会い、
 新しい歩みは始まることはないので
 それが人を生かすのは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、いのちである、と言われたイエスさまの言葉の意味なのです。

 
違います。偽善者の戯言です。いくら幽霊のように、霊であって、霊であり、と繰り返しても、それは聖霊ではなく、今までの経過が根拠となって、あなたが書くものが、あなたシャロームの嘘と偽善の背教の悪魔性を証言しているのです。
 

聞く耳のある者は聞くが良いと今もイエスさまは私たちにも語りかけておられます。
shalom!

 
聖書の一言からでも、キリスト者の一言からでも、信仰は生まれ得ます。そこから、人間として謙虚に勉強し、聖書と経験から学習することになるでしょう。それが信仰者の成長です。
 
一方、聖書を暗記するほど読んでも、どれだけ聖書の言葉を覚えても、どれだけ語っても、信仰の欠片も持ち得ない人もいます。真逆のことしか言えず、人より上に立つ思い上がりしか持たない人がいます。つまり、どうしても過大な自尊が取れない人は、自分を飾る神しか浮かばないのです。
 
どこまでも見苦しいシャローム、聞く耳を持たないあなたシャロームよりは、人間として、耳なし芳一のほうが、まだ好感が持てます。
 
あなたは、キリスト者ではありません。いつまでも、自己顕示欲で説教してこないように。
自尊と偽善と嘘と悪意の作為が、とても臭いんです。
 
 
物や肉体への超常の奇跡が分からないのは、神に祈ることで、赦されるでしょう。
神は、人には分からないことが多いことを、既にご存知だからです。
 
分かっている態度で、求められてもいない説教をして、妄想信条を改めない者は、どう考えても、自ら赦しを拒んでいるのであって、赦されようがないのです。
 
 
(2019年12月26日)
 
 
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  奇跡について?
 
   奇跡の受け止め方 (『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』)
   http://mn266z.blog.jp/archives/17512961.html
   楽山日記(LD)
 
 
批判対象は、2018年04月02日の記事ですが、ずいぶん前の記事です。私が積極的に掘り出すことはないので、楽山が、どこかにリンクでも貼っていて、削除したのか。どうして、この記事を見つけたのか、よく分かりません。しかし、あまりに問題が多いので批判対象とします。
 
楽山は物や肉体への奇跡や霊が大好きのようです。物や肉体の奇跡について肯定的です。肯定的であることの危うさを考えないのでしょう。
 
先ず、奇跡の一般的な意味について検索してみる。
 
(ネットより)
きせき【奇跡・奇蹟】
常識では起こるとは考えられないような、不思議な出来事。特に、神などが示す思いがけない力の働き。また、それが起こった場所。(検索画面)
奇跡(奇蹟、きせき、英: miracle)は、人間の力や自然法則を超え、神など超自然のものとされるできごと。基本的には宗教および信仰と結びついていることが多い。
奇跡、miracleという表現はどちらかと言うとキリスト教などを中心として用いられる用語で、それに相当するような内容を仏教や神道では「霊験」(れいげん)と言い、たとえば「霊験あらたか」などと表現する。 (ウィキ)
 
楽山は、奇跡が分かるっぽいとでも思っているのか、辞書的意味を書かないで、話を進めてゆくのですが、楽山は、読書しましたとばかり、ここでは、ドーキンスやヒュームといった学者の文章を引用しているのは、箔を付けたいのでしょうか。
 
しかし、学者の名前を出したからと言って、正しいとは限らず、さらに、楽山のフィルターを通していることを忘れてはいけません。ここでも、矛盾だらけの、とても受け入れられないような"奇跡の見分け方"を書いています。
 
また、「っぽい」「かなあ」「とも言えない」「否定はできない」「かもしれない」「分からん」「分かりやすくなった。でもまだピンと来ない」など、というような、私がボンヤリ言語と呼んでいる曖昧表現を使うことが多いのは、断定はしなかったつもりの責任逃れでしょう。それで、楽山の文章は、大方、しまりのない文章になります。
 
しかも、楽山は、そういう曖昧さのまま、なんとなく結論に持っていって、今回の場合、「活用できるように覚えておきたい」などと、自分は分かっているふうな文章に見せてくるのです。いわゆる、責任を回避して、印象を刷り込んでゆく書き方になっています。ずっとそうです。
 

この前、読んだ本に、奇跡の受け止め方について書いてあった。
忘れないうちに、その概要をメモしておこうと思う。
まず奇跡の受け止め方の参考として、著者はヒュームの言葉をひいている。
孫引きになるけど、一応、貼っておくと、それはこういう言葉である。

 
辞書的意味を書かずに、さっそく哲学者の名を出して、受け取り方というより受け売り方に入っている楽山。
 

証言の虚偽が証言の確立しようとしている事実以上に奇跡的であると言えるような種類のものでないならば、いかなる証言も奇跡を確立するのに十分ではない。
(『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』リチャード・ドーキンス著、大田直子訳、早川書房、2012年、p.254)
これでは全然、分からん。著者が解説するには、次のような意味とのことである。

 
要するに、虚偽ということが、奇跡だということ以上に、事実として確からしいなら、または、ありそうなら、奇跡ではないということでしょう。
 
しかし、多くの奇跡は現実の常識を超えており、つまり、虚偽であると見なしたほうが、現実的であるわけです。この見分け方は、現実的ではない奇跡を見分けるのには、おかしい、あるいは、むなしいと思います。特に物や肉体の奇跡は人知を超えているわけですから、人知で区別がつかないということを、楽山は考えていません。
 
奇跡で、人間が受け取って、または、肯定して、意義があるのは、心すなわち魂に起こる奇跡だけだと思います。この奇跡は、超常ではなく、人間が実感として、あるいは、癒しとして受け取れることであり、かつ、いつでも起こり得ることです。楽山やシャロームなどの易坊類には起こっていないだけです。
 
信仰として考えると、物や肉体に起こる奇跡を起こせるのは、神だけです。したがって、奇跡を、人間が見分けることができて、本当なら信じるというのは、神への冒涜です。神ではなく、現象を信仰することになるからです。
 
超常とか霊とかの、非現実に気持ちがのめり込んでいる者は、とかく、物や肉体の不思議現象にこだわりますが、物や肉体に不思議が起こっても、それは、人間を怠慢にはしても、いつも人間の生きる力になるということはありません。何故なら、物や肉体の奇跡は、人間の側に必然が全くないからです。
 
物や肉体に起こる奇跡は滅多に起こっていない、という現実を考えると、物や肉体に起こる奇跡に頼ることが、実際そう信じているシャロームのような、狂気の妄想信条に至るだけなのは想像に難くないのです。
 

ジョンがあなたに奇跡の物語を話したとして、「その話がうそ(または勘ちがい、または錯覚)である」という事態が、とうの奇跡よりありそうもない奇跡である場合にのみ、あなたはそれを信じるべきなのだ。
(同上、p.254)
これで大分、分かりやすくなった。でもまだピンとこない。

 
楽山は、分かりやすくなったと言っていますが、楽山は、奇跡が、人知を超えた現象であることを、理解していないから、このような見分け方で納得してしまうのです。幼稚だと思います。
 

それは著者も承知しているのか、さらに一つの例を用いて説明してくれている。
それは、二人の少女(エルシーとフランシス)が撮影したとされた妖精写真である。
これについて、次の二つのうち、どちらの方がより有り得ないことかというのである。
1 妖精、つまり羽のある小さい人が本当にいて、花のあいだをひらひらと飛び回っていた。
2 エルシーとフランシスがそれをつくり上げて、にせの写真を撮影した。
(同上、p.255)
こたえは言うまでもない。
妖精が実際にいたというより、
年頃の少女たちが偽写真を撮って遊んだという方が、いかにもありそうなことである。
2は1以上の奇跡とは言えないので、1は本当ではないだろう。

 
当たり前のことです。多くの超常的奇跡は、そのようなものだから、奇跡と呼ばれるのです。
 

また、著者はファティマの奇跡についても書いている。
以下の三つのうち、どれが一番もっともらしいかというのである。
1 太陽が実際に空を動き回り、おののく群衆に向かって落ちてきたあと、もとの位置にもどった(または、太陽が動いたかのように見えるように、地球が回転のパターンを変えた)。
2 太陽も地球も実際には動かず、7万人が同時に幻覚を見た。
3 まったく何も起こらず、すべてのできごとは誤報か、誇張か、単なるでっち上げだった。
(同上、p.257-258)

 
ありそうな度合いは、3>2>1です。当たり前のことです。これを理解して、どうなるのでしょう。
 

このこたえも言うまでもないようである。
流れとしては、前よりも後の方が奇跡から離れている。
著者の説くヒューム方式からすれば、
太陽が大空を動き回り踊っているようだったというのは、現実の奇跡ではなかったようだ。

 
奇跡から離れている、という捉え方ではなく、当たり前に、奇跡から離れたほうが、現実的、というだけのことです。楽山が、あたかも見分け方の法則のように、まともそうに書いていることに惑わされてはいけません。あくどい詭弁だな・・
 

この考え方からすると、
どうもこの世に奇跡なんてものは存在しないようにも思えてくるが、
逆に言えば、だからこそ、それは奇跡と言えるのかもしれぬ。

 
奇跡は存在しないように思えることですから、これは、存在しない奇跡が存在するのが奇跡、という、循環論法になっています。楽山の奇跡肯定のための詭弁です。以上の見分け方はインチキです。だまされないようにしてください。
 

奇跡は有り得ないことだから奇跡なのだろうし、
単なる嘘や錯覚にすぎぬことを奇跡だと思い込んでしまわないようにするためにも、
以上の方法を上手に活用したいものである。

 
以上より、楽山は、極めて幼稚な言葉で誘ってきています。霊が分かるっぽいと言っていたところの、楽山の勧めることを真に受けてはいけません。
 

ちなみに、この方法は、霊能者の鑑定にも使えそうだ。
1 彼は、神や霊と話すことができて、この世とあの世を自在に行き来できる。
2 彼は、神や霊と話すことができて、この世とあの世を自在に行き来できると嘘をついている。またはそのように勘ちがいしている。
この場合、1より2の方が奇跡だとは言えなかろうし、結論はいうまでもないことである。

 
当たり前のことを、さも、新発見でも語るように言う楽山の言は、実に、くだらないと思います。
 

また、これは神を自称する教祖にも応用できそうだ。
1 彼は、神の生まれ変わりである。
2 彼は、自分は神の生まれ変わりだと嘘をついている。またはそのように勘ちがいしている。
この場合も、2は1以上の奇跡とは言えないので、1は本当ではなかろうということになる。

 
このような考え方だと、神の子イエス・キリストも神聖ではない、ということになりそうですし、それを狙っての、楽山の詭弁であることが、ここで、明らかになっています。
 
つまり、キリストの神性を否定して、ただの人間と見なして、さげすみながら、あわれみたいのでしょう。心の問題など、お構いなしに、宗教を語れば、詭弁だけが、まともに見えてきて、楽山のように、そして、詭弁と幼稚な短絡で、自分は奇跡を見分けられるのだと思い込むようになるのでしょう。
 
そこで利用されるのは、物や肉体の奇跡は、ないよね・・と言う印象を吹き込みやすいということです。
 
楽山は、奇跡には否定的なのでしょうか。シャロームは、物や肉体の奇跡を、肉体の復活を含めて、信じるのが信仰だと思っているようです。
 
どちらも、いちばん大事な、心と魂の奇跡について、全く無頓着であります。興味も感受性も持っていないと言ったほうがいいでしょう。
 
私は、物や肉体の奇跡が実際あったかどうかは分かりようがなく、かつ、それを信じ込んでも、人間にとって、生きる支えにはならないと主張しています。
 
しかしながら、キリストの、物や肉体に起こる奇跡は人間が信じなくても分からないと言っても、楽山が全く気づかないし考えもしないところの、もう一方の、魂に起こる奇跡は人間が共感できるものなのです。
 
孤独からの解放による癒しや慰めという魂に起こる奇跡は、驚くべきことであると同時に、愛と共感から生まれてくるものなので、人を生かす力を持っていて、かつ、信仰者には、しばしば起こっていることであります。楽山のインチキの詭弁とは大違いです。
 
楽山は、自己愛が強すぎて、魂の奇跡を受け取る心の器を失っているために、物や肉体の奇跡ばかりにこだわり、その結果、キリストの恵みを、少しも受け取れなくなっているのです。
 

こうしていろいろと考えてみると、やはりこの判断方法は、嘘、いかさま、勘違いに惑わされないためには有用であるようだ。いつでも活用できるように覚えておきたいと思う。

 
詭弁をもって惑わしているのは、「惑わされないために」と言っている楽山のほうなのです。超常が分かるっぽい立場に固執するところの、楽山の詭弁の誘惑を、真に受けてはいけません。
 
人間の手が届くところにあり人間が大切にするべき心の問題を疎かにして、人間の手の届かない超常の奇跡に安易に救い?を求めるのがカルトの特徴です。
 
楽山の説く宗教と信仰こそ、嘘、いかさま、勘違いの惑わしです。よく、こんなインチキな話と記事を、出してこれたものです。楽山が偽りである証明も、もはや、十分ではないかという気がします。
 
この記事に書かれていることは、とても幼稚なことですから、活用できるような代物ではありません。楽山は、信じるということの心と感性がないために、代わりには決してしてはいけないところの、だますという手練手管のほうに頼ってしまい、こういうことに手を出すしかなくなってしまっているのです。
 
楽山の記事は読んでみて、え?、なんなんだ?、くさい、・・と気持ち悪さだけが追っかけてくるような、程度の低い記事です。書けば書くほど、胡散臭さと怪しさが、どんどん増してくる楽山です。
 
 
(2019年12月25日)
 
私のブログは、酷い話題が多いですが、その原因となっているところの楽山やシャロームなどの易坊類は、集う仲間がいれば、いっそう、のぼせて大仰なことを豪語して、クリスマスを祝うでしょうね。
 
巷は、クリスマス商戦から、どんちゃん騒ぎになるのでしょう。そして、26日になると、街は一変して、クリスマスの跡形もなくなり、すべて正月の装いになるのです。毎年、同じです。
 
私は・・ひっそりとロウソク一本でも灯そうかな・・メリー・クリスマス・・
 
 
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  トンデモ信仰
 
  2019年12月22日 「st、楽山 問題を振り返る」
  http://mn266z.blog.jp/archives/22718002.html
  からのリンク
  2018年07月05日 信仰について思うこと (過去の短文記事から)
  http://mn266z.blog.jp/archives/17513006.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
 
楽山は、2つのブログに、彼の過去記事を掘り出して、記事を書き、また、再録し、長い記事に、いっぱいリンクをつけてきたことで、彼の宗教の未熟で安易な考え方を明らかにすることができそうです。
 
楽山は、ブログのタイトルを、楽山日記(仮)→楽山日記(仮、倉庫)→楽山日記(LD)と変えています。でも、私のブログのリンクで分かると思いますが。
 
楽山は、都合の悪い記事を削除して無かったことにしますし、読みにくいように、批判しにくいように、子供のイタズラのような細工もしてきます。前からです。精神は、成長していないのかもしれません。その流れで、成りすましもしている可能性があります。
 

*信仰について
信仰についての短文記事を、加筆修正のうえで以下にまとめてみた。
*神のイメージ
神のイメージは人によって様々であり、恐ろしく厳しい存在だという人もいれば、限りなく優しい存在だという人もいる。
自分の場合は、後者であり、もし神が存在するならば、優しく、穏やかな存在にちがいないと思える。というか、そういうイメージしか持てない。

 
楽山が、どういうイメージを持とうが、楽山の勝手です。しかし、キリスト者のイメージに干渉して、ああだこうだ、母性だ、神は疑問だ、ということは、言論の責任を問われることであります。
 

*神を忘れる信仰
痛いところはどこもなく、健康なときは、体のことは忘れているという。たしかにその通りである。
そうであれば信仰についても、健全な状態のときは、神のことは忘れているものかもしない。

 
健康なときには、楽山のような者は、信じていないのだから、神を忘れるでしょう。
 
信仰者にとって、神とキリストは、人生の同伴者だから、忘れることはないのです。
 
私は、楽山やシャロームなどの易坊類については、早く忘れたいところです。しかし、彼らは、厚かましく、サディスティックに、かつ、自慢げに、信仰を妨害してきます。
 

*信仰について (無宗教という信仰)
自分には、無宗教が性に合っているようだ。

 
だったら、宗教については、身の程知らずに語らないことです。
 

特定の宗教を信じているわけではないが、かといって神様を信じていないわけではなく、いろいろな神様に対して素直に手を合わせるという感じである。

 
念のため、キリスト信仰は、神様と信じていないわけではない、という信仰ではありません。だから、信仰告白があり、悔い改めがあり、祈りがあるのです。
 
色々な神様に対して素直に手を合わせるのは、楽山が、何も信じていないという証拠です。
 

神社、寺、教会、墓、仏壇…どこでも手を合わせるというのは、節操がなさすぎる気もするが、自分にはこういうのが落ち着くようだ。

 
ならば、キリスト信仰について、とやかく、まるで知っているかのように、語るな。
 

*信仰について (ことばの限界)
宗教体験は、言葉では表現できないといわれる。
けれでも、これは言葉の限界を示しているというよりも、その人の認識力や表現力の限界を示しているだけではないだろうか。

 
人間の言葉には限界があります。人間はどこが限界かさえ知らずにいる。
 
とりわけ楽山の認識力や表現力には、身の程を知らないと言えるほどの限界があり、まるで、子どもが政治を語っているようなものである。
 

自分の体験を的確に言葉に置き換える能力があるなら、宗教体験を言葉で表現することも可能となるのではないか。

 
人間には、何事も、的確に完全に言葉に置き換える能力はなく、人間の言葉自体も、テレパシーや神の啓示のような高性能ではないので、様々な誤解が生まれるのです。
 
>ことばが神であるとするならば、ことば(神)に不可能はなさそうである。
 
楽山は、「ことば(神)に不可能はなさそう」などと、人間の言葉と神の言葉を区別しないで言っているのは、自分が何か語れると言いたいがための、導入の詭弁でしょう。、
 

*信仰について (合理性)
信仰は、論理を超えることはあっても、論理に反することはないのではないだろうか。

 
このような、幼稚な論理しか、楽山は持っていないのです。「心の理論」を勘違いするような、心無い楽山の児戯に等しい論理では、信仰を語れないのです。さらに、それだけでなく、謙虚さがなく、語れると思っているからこそ、そのゆえに、楽山は、とても信仰を語れる器ではないのです。
 
>三次元の論理で結論が出せなくとも、異次元の論理で結論が出せる場合はあるかもしれない。
 
夢でも見ているのか。
 

けれども、三次元の論理ではっきりバツと結論が出たのに、異次元の論理では、それとは反対にマルになることなんてあるのだろうか。

 
異次元の論理?を知っているそうです。幻覚を見ているのか。
 

三次元と異次元の世界が、まったく別個の独立した世界なら、そんなこともあるかもしれない。
でも三次元を異次元の世界が包み込んでいるとするならば、三次元の論理ではっきり出せた答えが、異次元の論理でひっくり返るというのは考え難いように思う。

 
楽山の幼稚な空想で、あるいは妄想で、信仰が語られることは永遠にないでしょう。
 

*信仰について (議論の困難さ)
信仰についての議論が難しいのは、信仰は理性を超えたものであり、議論には適しないからなのだろうか。
それとも、信仰は論理ではなく、情緒であるからだろうか。
どちらが本当だろう? どちらも本当かな。

 
楽山の、持ち前の安易な粉末のような言い方なら、どちらも、嘘です。
 
「超えた」という言葉の、安易さには呆れる。
 

*信仰と妄想
信仰とは、素朴に、善なる存在を信じること。または論理的、宗教的に突き詰めて考えたあとで、それでも信じることを止めないこと。

 
信仰とは、究極的には、善とかではない。人間の善など、高が知れているし、それより、人間に完全な善悪の判断など出来ない。
 

妄想とは、馬鹿げたことを、考えなしに事実と思い込むこと。または屁理屈を重ねて、馬鹿げたことを事実だと言い張ること。

 
非合理の現実離れ、訂正不能、異常な確信、というのが、妄想の条件であり、その典型、または、妄想のような作為のでっち上げが、シャロームの信条?である。楽山は、シャロームの味方である。このことから、楽山の信用度はゼロである。
 

*信仰とトンデモ
信仰は、真摯で、切実で、涙に通じる。
トンデモは、興味本位で、軽薄で、笑いに通じる。

 
加えて、自己中心で、訂正不能であるのが、シャロームのトンデモ。そのシャロームに、楽山は、賛同した事実は、楽山が反省し、はっきり否定して、それを表さない限り、消えない。
 

*信仰の共有は可能なのか?
同じ宗教を信じている者同士でも、信仰について話をしてみると、なかなか意見が合わなかったりする。浅い話であれば合わないこともないが、深く掘り下げていくと段々に合わなくなってくる。

 
信仰話の、浅い深いが、楽山に分かるとは思えない。さらに、楽山は、信仰の話を、深く掘り下げることが、全くできていない。なのに、言い分だけが、愚かだと分かるほど、尊大である。
 

こういうことが何度もあると、どうも信仰とは個人的なものであって、他人と共有することはできないのではないかと思わないではいられない。

 
今までのことから、楽山が信仰について語ることの信用度はゼロである。
 

「これからの宗教は、組織的なものではなく、個人的なものとなっていくだろう」という意見があるけれども、これは自分に関しては当たっているようだ。

 
楽山は、自己中で自己愛が強く、信仰の欠片もなく、実に安易に信仰を語っている間、偽善者である。
 
なのに、楽山は、シャロームという狂気に、味方したのである。その時点で、楽山は、信仰の敵となった。早く、信仰と宗教について語るのをやめるべきである。
 

*信仰について (個人的な問題?)
神は、個々人が心に描いた妄想にすぎないなら、信仰は、個人的な問題にすぎないのかもしれない。
けれども、神は個人の妄想でなく、客観的に存在するなら、信仰は、個人的な問題ではすまず、もっと大きな問題となりそうだ。

 
神の存在も不在も証明できないのだから、この楽山の「かもしれない」「なりそうだ」、および、神が妄想か客観か、などという問題について語ることは、この楽山において、いちばんの神への冒涜になるだけで、ことごとく無意味なのです。
 

*信仰と自己責任 1
信仰は、自分の意思だけでは、どうにもならないものらしい。
たとえば、〝神を信じなければならない〟と思うのに信じられなかったり、
〝この宗教はおかしい。信じるべきでない〟と思うのに棄教できなかったりするのは珍しいことではない。
もし信仰は意思の外にあるならば、信仰を持っているか、持っていないかについて責任を問うのはおかしなことではある。

 
信じていないのに、知ったかぶりで、いい加減な考えで、信仰を語ることについては、責任が問われる。信仰者と求道者を惑わす迷惑言語と迷惑思想だからである。
 

*信仰と自己責任 2
もしも、神様が地上に降りて、救世主として清らかに生きたとき、それを信じなかった者が責任を問われて、地獄に堕とされたとしても自業自得であり、仕方のない話ではある。
けれども、神様が地上に降りて、救世主として清らかとはいえない生き方をしたとき、これを信じなかった者が責任を問われて地獄に堕とされるとしたら、なんだか、やりきれない心持ちがする。

 
どこから清らかでない救世主という妄想着想になるのか。キリスト信仰において、元々、救世主は清らかという性質でしか語られない。楽山は、おとぎ話レベルの話をして迷路を作っている。言葉遊びも甚だしい。異常だから、早く止めてほしい。
 

*信仰と知識
世の人々を見ると、知識が豊富な人よりも、あまり教養があるとは言えないような人の方が神とつながっていると感じることは少なくない。
神とつながるためには、知識は必ずしも必要ではないらしい。

 
最低限の節操となる知識が必要です。それを持っていないのが、楽山やシャロームなどの易坊類です。知識だけでなく、人間らしい心の器が必要です。それをもっていないのが、楽山やシャロームなどの易坊類です。さらに、良心が必要です。それをもっていないのが、楽山やシャロームなどの易坊類です。
 

*神を信じることは出来るのか
以前の自分は、本気で神を信じているつもりだった。
でも実際には、自分は神を信じていたのではなくて、〝これこそ本物の神だ!〟という自分の判断を信じていただけだったらしい。
神を信じるのは難しい。

 
楽山が、本気で信じるのは、霊が分かるっぽい自尊においてですから、思い込みに過ぎません。今までの経過からの判断です。
 
よって、楽山が、今の楽山のまま、神を信じるのは、きわめて難しい~不可能でしょう。
 

*神と向き合う信仰
信仰についての意見を聞いていると、神の前に頭を垂れる信仰が多いようだ。
でも自分は我が強いせいか、神の前であっても、きちんと顔を上げて、自分の意見を言いたくもある。

 
聖書には、思いをはっきり言って、食い下がった人もいました。それが本音であるなら、キリストは、義としました。
 
本気でない楽山の自己中の遊び半分に付き合う救世主はいないのです。
 

神の前で、「自分は自分の為しうる限りのことをしました。何ら恥じるところはありません」と胸を張ることができる人生を送れたら、どんなに幸福だろうと思う。
でもこれは絶対無理だろうなあ。とほほ。

 
神の前で、出来ることをしましたとは言えても、何ら恥じるところはないと、言える人はいません。似たようなことを言ったのは、聖書のパリサイ人です。また、シャロームも同類です。
 
楽山は、また、虚言がバレています。
 
そして、シャロームと楽山は似たようなものです。そこが分からないあいだ、無理なトホホは、恥を知らない者になってゆくのです。
 
 
(2019年12月24日)
 
 
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  しらばくれる
 
    2019年12月22日
   「st、楽山 問題を振り返る」抜粋
   http://mn266z.blog.jp/archives/22718002.html
 
 
楽山が長い記事を書いてきました。あるいは、再録かもしれません。私は、批判記事を書いていますから、楽山のどこがおかしいかを指摘してきましたが、そのとき返せないものだから、私の記憶が薄らいでくるのを狙うかのように、全部を批判することができないような、恐ろしく長い記事を書いてきます。そして、細かいリンクをつけて、話を戻そうとしたり理路を混乱させようとしてきます。
 
これが、詐欺師の手段なのだな・・と思うしかありません。
 
楽山が書いた2,3記事、全部リンクまで読むことを拒否するような、長い、長い、記事に溢れている虚偽の、ほんの一部であります。楽山に都合の良いコメントだけを集めたと言ってもいいでしょう。平凡や普通を装っても、悪意は見抜かれたのだから、無駄です。
 
今に始まったことではないけど、ストレートでないこういう人は、嫌な奴、と思います。
 
楽山に対して、どちらが完璧かを競うことは無意味です。それに、信仰の話は、完璧を目指すことではありません。
 
楽山の記事の中身をちょっと見てみると、同じことを言っていたり、論点整理と言いながら都合の良いことだけを出して、つまり事実の選択という詭弁によって、経過の記録をゆがめているからです。コメントが書かれていた当時、ストレートに返せなかったことを示しているだけでしょう。
 
まともそうな筆致の見せかけで、あざ笑うかのように、好きなように恣意的に操作してくるのです。記事の長さを考えても、易坊類に共通していますが、楽山に良心がない、という思いを強くするのも、そういうときです。まともな交流をする気のない者の、相当な作為と悪意です。そういうやり方しかできないのだろうと思っています。
 
ですから、私としては、長い記事や、既に批判した再録について、いちいち反応して批判することはせずに、特に偽善的な部分に絞って批判記事を書くなど、私の出来ることをしていくという方針です。
 
楽山は、問題を振り返ってなどいません。振り返れば、まともにストレートに返せない楽山が、悪だくみをしているだけです。
 

*実際のところ
ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。

 
とんでもない。楽山やシャロームなどの易坊類の書く文章は、カルトらしい、執拗で、かつ、作為に満ちた虚偽であります。何か言われると、しばらくして、一度に返せないような、ほじくり返す記事を書いてくることに、それが表れています。
 
発信して、ストレートに、批判されると不都合なのでしょう。何故なら、それを受けて、また、ストレートに返すだけの説得力を見せたことがないからです。
 
楽山と彼らは、悪意だけで生きている意図があると思います。「平凡人が平凡なことを」に騙されないようにしてください。非凡で非情で非常な悪意に満ちた者たちです。恐らく、成りすましもするような、お仲間の群れなのでしょう。言葉と信仰を軽く見て、かつ、決して反省しない類人たちです。
 

yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。

 
楽山は、閲覧者数のことを書いていますが、私は、キリスト者の務めとしての私の役割という自覚で書いています。閲覧者が増えるかどうかは、批判するかどうかには、全く関係ありません。
 
務めでありますから、成否に関わらず、書ける間は続けることになります。できることを、決して、効率悪いからという理由で、放棄することはないのが、信仰上の務めです。
 

知名度の高い人気ブログであれば、批判、炎上によってアクセス殺到ということもあるかもしれないが、楽山日記のような閑散ブログの場合は、もとから興味を持っている人は稀であるし、そういう楽山の批判が書かれたり、コメ欄炎上したところで、誰も読まないということなのだろう。

 
誰も読まなくても、上に書いたように、このように、すましていながら、悪意ある者に対しては、私は、その悪意を知った者として、書くべきこと、書けることを書いて、一つ一つ、指摘し、警鐘を鳴らしてゆかねばなりません。
 

また仮にわずかながらも楽山日記を愛読してくれる人がいたとしても、そういう人はstさんとは考えは合わないだろうから、stさんの楽山批判を読んでもそれに影響される人はいないだろう。

 
楽山は、お仲間のことを言っているようです。また、丁寧語や、ボンヤリ言語に騙される人もいるでしょう。だから、なおさら、影響や成果にかかわらず、信仰上の務めは生じるということです。
 
偽者は、偽者として、偽者の扱いを向けるしかないのです。それが、神聖と信仰を舐めた者たちへの報いの一つとなってほしいという願いに基づいて書いています。
 

ようはstさんが、楽山がああだこうだといくら書いても、現実は変わらないということ。おそらくこれは、shalomさん、マリアさんについても同じだ。stさんがマリア批判をしたところで、それ以降もマリアさんとこは人気ブログであり続けてるし、shalom批判をしたところでshalomさんが皆から糾弾されるということもないし、shalomとの会話を拒否する人もいないだろう。

 
現実が変わるかどうかという現象や見込み、ではなく、信仰者として、できることをしているか、という自問自答によって、批判し続ける動機を得ているということです。
 

私から見た現実はこのようなものではある。stさんは、マリアさんのブログでは下のような決意表明を書いていたし、命がけでカルトと戦っているつもりかもしれないけど、そろそろ現実に気づいてもいい頃ではないかと思う。

 
その現実が、この楽山の記事、また、今までの記事やコメントとして、執拗な作為と悪意と欺瞞を表しているということです。
 
それに、私は、そろそろ、死んでもおかしくない年齢に到達しているので、暴力ではなく、法的制裁でもなく、批判を続けることに、結果によらず、迷いはないのです。一生、出会いたくないような者たちに、私は出会ってしまったのですから。
 
批判の動機は、結果の見込みにあるのではなく、悪魔性を見たという批判開始の動機にあります。道半ばで私がくたばることは承知の上です。
 
楽山やシャロームなどの易坊類の、ネット上ですが、文章と事実と記憶をたどれば、いつも、
ここまで、真実と、キリストと、信仰を舐めてかかる者はそうはいない、と実感します。
 
真実を軽くみた者は、私と私の批判が自然消滅しても、彼らの思い通りにはいかないことを、いずれ、知ることになるでしょう。それぞれ、善いことに使うにしても、悪事に使うにしても、フルに活動できる心身の期間は約70~80年くらいしかないのですから。
 
 
(2019年12月23日)
 
 
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  長い引用で欺く
 
  st、楽山 問題を振り返る 2019-12-20NEW !
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
  楽山日記(a)
 
 
今回は、楽山の記事の中に引用されたシャロームのコメントです。
 

「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。

 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」というのが、シャロームの信条です。
シャロームの詭弁に、仮に沿ってみても、シャロームが悔い改めないということは、神によって与えられていないということです。つまりシャロームは、自分の妄想教理?によっても、キリスト者ではないのです。
 
恐ろしいことに、シャロームは、信仰に目覚めた人の悔い改めを、自我から生じた肉のわざとして、退けています。これこそ、シャロームが、キリスト信仰の敵だという証拠でしょう。どこまでも、我欲にキリスト信仰を従わせようとしているシャロームです。
 
では、どうやって悔い改めるのか、悔い改めないシャロームには、必要ないから書かないのでしょう。恐らく、自動的に罪を赦されて、自動的に悔い改めを儀式のようにロボットのように舞のように操られて踊って、自動的に聖化されるような、神の魔法的処置?を信じているとしか思えないのです。これは、人間の信仰ではありません。
 
それに、楽山は、賛同しているのです。信仰を知っていたなら、決して賛同できないはずです。また、教養として知っている程度でも、キリスト教に罪と悔い改めは欠かせないことくらいは知っているはずですから、おかしいとは感じるはずです。楽山には、それが、知識そして教養としても、全くないということです。
 
つまり、楽山は、教養人ではなく、かつ、修正不能の自己中&自己愛だということを、この記事の引用は、経過から表しているのです。書けば書くほど、ボロが出るのは、楽山やシャロームなどの易坊類の特徴です。
 

「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
2018/12/12(水) 午後 6:29[ shalom ]

 
シャロームは、自分は悔い改めないくせに、いけしゃあしゃあと「必要ですね」と言っています。この大嘘という大罪を犯しながら、では、なぜ、悔い改めず、上のような狂信条になっているのか。
 

しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。

 
また、「神の恵みの御業の中にある」などと、美辞麗句の讃美を言えばよいという気安いシャロームの騙しのわざが全開です。殆ど実質のないごますりに過ぎません。楽山は、理路も心も理解できないから、シャロームの嘘を見抜けないのです。
 
だから、悔い改めないのは、導きがないということです。悔い改めることなく、真にキリスト者になることが、先ずないことなのです。つまり、シャロームが、キリスト者ではないということです。
 
同様に、悔いあらめることなく、真に神を讃えることも、真に神に祈ることも、ありません。悔い改めは、信仰者になるときに、最初に、起こることです。それが起っていないのは、キリスト者ではありません。シャロームの、口から出まかせに騙されてはいけません。シャロームは詐欺師です。
 
このコメントこそが、シャロームが、大嘘を吐いて、キリスト者に成りすましていることの証拠であります。そして、ネットでも、福音伝道と称して、読者を騙してきたのです。この貧相な詭弁に引っかかったのだとしたら、楽山は、子どもだましに騙されて、シャロームに、賛同しているのです。
 

そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
 罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
 口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
2018/12/12(水) 午後 6:30[ shalom ]

 
やたら聖句を引用するのはシャロームの騙しのテクニックで、やたら大仰な聖書語で神を讃えるのもシャロームの常套手段です。しかし、いくら聖句を引用しても無駄なのです。既に、中心となる信条が、真逆だからです。「悔い改めに導かれ」などと、よく平気で言えるものです。
 
まさに、シャロームが、隠れて行なっていること、隠していること、いずれも、口にするだけでも恥ずかしいことなのです。
 
シャロームの発言は、そのたびごとに、シャロームがキリスト者ではないことを示し続けてきたし、これからもそうでしょう。キリスト教の優しさにつけ込んで、幅を利かせようとした宗教詐欺師シャロームですが、キリスト教もキリスト信仰も、知識ではなく、深い心の理解が必要なので、シャロームごときが操ろうなんて、とんでもないことです。
 
キリスト信仰は、難しくはないですが、甘くはないのです。苦行は要らないが、安易ではないのです。
 
シャロームの思惑も、楽山の思惑も、いずれ、神の前に晒されるときに、明らかになり、かつ、神によって裁かれるでしょう。
 
神の裁きが、いつどこでか分からないことにつけ込んで、楽山やシャロームなどの易坊類は、舐めてかかって、言葉を、いじくり、組み合わせ、あることないこと、好きなように、辻褄だけを合わせればよいと思っているようだが、人間のレベルでも、その腐敗臭を嗅ぎ分けられることがあるわけです。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、その訂正不能の決めつけをもって、妄想一家となりましたから、なりすましであろうとなかろうと、その訂正不能と不感不応のために、人間レベルで、自他の人格破壊という墓穴を掘ることになっているのです。
 
聖句の「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる」なら、楽山やシャロームなどの易坊類は、裁かれ、燃え尽きて跡形もなくなるでしょうか、それとも、無限の回数を死ぬ苦しみで永遠に丁寧に丁寧に味わう地獄に堕ちるでしょうか。
 
安っぽい妄想をでっちあげてキリスト教?と言ったときから、裁きは始まっているということです。そして、「罪の増すところ恵みもいや増せり」の聖句ですが、
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
5:20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
5:21
それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。
 (ローマ5:20-21、新約聖書)
 
シャロームは、恵みが増すように、キリスト者そして元牧師に成りすまして、嘘を吐き、罪を増し加え続けたのでしょうか。
 
聖句は、罪に対して、恵みもまた義によって支配して人間が動くから満ちてゆくということです。シャロームは、とんだ誤解釈です。恐らく意図的な真逆の曲解です。
 
聖書の理解力のないシャロームは、自分の都合に聖書を合わせるというカルトの大罪を重ねて、文字通りの恐ろしい解釈の曲解によって動いたので、キリスト教とキリスト信仰の敵となりました。
 
私のコメントも載せているようだが、あれのどこが、引用目的として、楽山の有利になるのでしょう。実に、楽山の宗教は、興味本位で、軽薄で、笑いにもならないトンデモないお気楽宗教のようです。
 
楽山が、このシャロームのコメントを載せているのは、私に嫌がらせをするためと、もう一つは、シャロームの、何でもいいような信仰が気に入っているのでしょう。
 
そして、楽山の、超常や霊の世界へのショートカット癖は、あとの私の記事でも明らかにしますが、うまくいかないことを、努力せずに、イージーに出来るんだと思い込みたいだけだろうと思います。だから、イージーなお祭りくらいに思っているクリスマスには、一般の人の受けもあり、文句を言わないのでしょう。
 
 
(2019年12月22日、同日一部修正)
 
 
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