ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年12月

 
私の批判記事は、既に、
「無力を憐れむ?」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12545986466.html
2019-11-17 00:04:04
リブログ、または、リンク
 
 
  原始反応
 
  2019年12月19日
  『侍』遠藤周作
  http://mn266z.blog.jp/archives/22665352.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
 
今回のキリスト教の話についても、前回のカルトの定義についても、楽山は、さんざん批判されて、疑問や批判に答えられないにもかかわらず、総てを私のせいにして、実際そう思い込んで、言いたいことだけを、同じ記事をアップして言ってくるわけです。それは、子供じみた意地の張り方で、好きなことを言って生きるんじゃ、と宣言しているに等しいわけです。
 
楽山は、カルトについて、犯罪を犯さないうちはカルトではないと言っていました。しかし、それは、逮捕して、法的制裁を加えることができるかどうかという問題であって、カルトという信じたら人生と生活と人間を破壊されてゆく問題とは別であります。
 
いちゃもん屋でねちねとと執念深く書いてくる楽山は、今回のキリスト教の見方も、一部の有名人の話を引用して、その人が一生そう思っていたかどうかを考えて遠慮することもなく決めつけて、キリストとキリスト教とキリスト信仰を、憐れで、みじめで、無力なものに貶(おとし)めています。
 
しかも批判されて返せないのに、また、出してくるのです。何としても偏った意見の印象操作と刷り込みをもって、だまさなければ、本人は、いい気分になれないのでしょう。言論を、そういう目的で使うこと自体が、言論を甘く見ている幼児体質なのです。
 
喩えるならば、何を言うか、何を言うか、何を言うか、と憎しみだけを募らせ、それでも反論できずに、同じことを言い続けるわけだから、何も学習しません、何も修正しません、我は神なり、と言ってるようなものです。ここまで、判断するのは、記事、コメント、反応を、一定の期間、見てきたからです。
 
どんなに丁寧な言葉を使っても、その醜い意図が、そこに表れてくるわけですから、もはや、言論者ではなく、宗教について何かを言える人でもなく、人間ではなく、原始反応に過ぎなくなっている自己愛の人であることを、まさに本人が表していることになります。
 
もはや、改めて批判する必要もない、というか、新しく書いたものではないので、既に、批判は済んでいるのだから、ここでのテーマは、そういう学習拒否の体質、他者を無視して平気でいられる体質、自己中心の醜さと悪意と病的資質、ということになります。
 
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という狂った信条を持ち、ライブドアの私のブログに、嫌がらせとしか思えないコメントをだらだらと入れてくる悪意だけの偽善者シャロームにベッタリひっついて、その信条に味方して、熱心な信仰とまで言って、シャロームと同様の、理路と直観と直感の成り立たない無残な有り様を表してきた楽山です。
 
つまり、楽山は、執拗に、執拗に、宗教評論でもなく、信仰批判でもなく、自己満悦と自己主張だけを繰り返していることになります。
 
批判への対応の仕方も、受け取らずに語るという、シャロームと同質でありながら、楽山は神の母性を主張して信仰を無力化しようと企み、シャロームは神の父性を教条的に固定して自分に投影して他者をおとしめる、という、賛同し合ったにもかかわらず、統一のない、ばらばらな、勝手なことを言いたいだけだから、その原動力は、ただ、それぞれの自己顕示欲だけなのでしょう。ですから、その仲間意識に、好ましい人間関係も人間性もありません。それが、カルト同士の関係なのです。
 
勝手なことを言って、褒めてくれる意見にだけ、礼を言って、反対意見を無視するところには、学習不能、成長不能、という結果だけしか返っては来ないことが、体質として、分からない人ですから、これからも、嫌がらせとして、書いてくるでしょうし、再録もするのでしょう。
 
こういう人に対しては、こちらも、忍耐強く、全否定をもって叩き続けるしかありません。ある段階からは、説得は無理だと分かりますから、批判は、相手に修正と成長を促すなどというものではなくなって、一般読者が巻き込まれることのないように、このような者に近づいて関わると、徒労と疲労だけが蓄積し、人格を破壊されるという災いでしかない、ということを広く知らせる目的しかなくなります。
 
体質的に、自己愛性人格障害を疑いますが、シャロームは権威主義であり、楽山は詭弁家であり、易坊は策略家であり、そういうキャラとHNを使い分ける成りすましではないかということも前から考え疑っています。
 
こういう者たちは、行き詰まると、パニック的に、あるいは、意図的にも、犯罪に走る可能性があるでしょう。既にそうなっているかどうかは、分かりません。しかし、自己中で訂正と学習が不能で、情緒的に短絡しやすい傾向は、それだけで、犯罪の切っ掛けになりうると思います。
 
そういう人を、人間だから・・などと思ってはいけません。人間性が育たなかったか、人間性を捨ていている者たちです。
 
シャロームは妄想信条によって、楽山は霊が分かるっぽい自負心によって、易坊は天才気取りによって、実は、快楽原則しか持っていない自らの不備を、ごまかして、高等に見せかける丁寧語を使って、だまして世渡りを考えるような者たちだろうと思います。そうではないという証拠や根拠が、一度も表れたことがありません。
 
いつも、あざ笑って人を見ているだけですから、批判されても、同じことが平気で出来る不感不応の乾燥粉末のような存在になっているのです。
 
だますことで、演技することで、嘘を吐くことで、世渡りが出来ると思う浅はかな心は、いずれ、反社会的衝動と行動に行き着く可能性が大であり、既にそうなっているかどうかは分からないけれど、彼らに、最も施してはならないのは、思いやりです。
 
彼らに対しては、彼らをどうにかするのではなく、彼らがいる世界で、彼らに一切かかわらないことだけが身を守る手段となるでしょう。
 
彼らが共通して使う誘導の手段は、それぞれニュアンスは違っても、丁寧語による誘導です。彼らに丁寧に言われて、気を良くするとき、既に、宗教詐欺に騙されて、一歩カルト寄りに進んでいるということです。
 
彼らは、不感不応によって、状況を、無視することができます。だから、丁寧語を不滅の手段として使えるわけです。ふつうの人、正常な人は、丁寧語が通用しない場面、つまり、冷や汗の出るような状況を、遅かれ早かれ、経験から弁えますが、彼らには、そのセンスが、ないのです。
 
彼らは、思いやりを貪り、一方で、薄笑いを浮かべることができます。そういう根性ゆえに、何も気にせず、何も改めず、全く平気で、同じ記事を投稿して、同じことを言うことが有効だと思っているのでしょうし、相も変わらず、罠にかかった人が近づいてくるのを待っているのです。
 
そういう日常のようだから、神?も、人も、なめて、食って、呑んでかかって、どうしても、どう言ってもいい、自由だろ、ということになるのでしょう。
 
言論は自由ですが、疑問や批判に対して、できるだけ答える努力をするべきです。それが、言論の責任です。ふつう、そうしています。
 
説明できないところは、保留にするとか、問題を共有するとか、ふつうに、方法はあるのですが、そうした、責任の取り方が、全く学習されていないのです。だから、疑問は、いだくほうが悪い、批判は、悪口と同じに見なしてしまう、ということが起こるのでしょう。
 
言論の自由を貪って、言論の責任を負わない者たちです。大人の責任感というものが育っていないのかもしれません。
 
"ふつう"が、成り立っていないのです。ある意味、それが、カルトの怖さかもしれません。
 
楽山は、テヘヘ、シャロームは、ほぅほぅ、易坊は、ニヤニヤ、彼らは、いつも、笑っている。
 
私は、笑っては、いない。
 
 
  2019年12月20日 『日本会議の研究』菅野完(抜粋)
  http://mn266z.blog.jp/archives/22681624.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
書いてもしかたのない記事を書いてくるのが、気取りだけの楽山だということが表れています。
 

現実的には、A団体より、B団体の方が自分の考え方に近いからこっちを支持するとか、C団体の考え方は有り得ないから支持しないとか、大雑把に判断するしかないのだろうけど、考え方がピタリと一致するところが見当たらないというのは正直なところちょっと寂しくはある。でもまあこれも致し方ないか……人には個性があり、人それぞれ考え方が違って当たり前なのだから、それがピタリと一致する人、団体を期待するのはどだい無理な話ではある。

 
これが、楽山らしさです。ぐだぐだと一般的説明風味の理屈をこねたあげく、反対でも賛成でもなく、結局、結論を出さずに、判断回避で善しとするわけです。
 
「寂しくはある。でもまあこれも致し方ない」そして、大問題であるところの、"人それぞれ"、言い換えると、どれかが間違っているというのが、間違っているという思想です。
 
何の方向も示していません。読書をして、いったい何を考えているのか、甚だ疑問です。読書しました、しています、読書家なんです、みたいなアピールをしたいだけではないかと思います。
 
何も考えないことが、致し方ない人それぞれで、正しいのでしょうか。国民の過半数がそうなら、この国は滅びます。楽山は出世しました。キリスト教の敵から、反キリストから、今は、無思考をもって、日本国の敵です。
 
宗教についても、政治についても、思想についても、深く考えないことを勧める記事になっています。
 
「ピタリと一致する人、団体を期待するのはどだい無理な話」ということを書きたいのか。これが感想文になる記事を書く意味は何だろう。何も期待できないから、物事は、はっきり言えない、これが真理だ、とでも言いたいのだろうか。それは、ボンヤリ言語の楽山の場合だろう。
 
薬にならない粉、それが、思考しない読書家、楽山の宗教・政治・思考の記事です。大きなテーマを、世間話に貶めて、何も責任を負わない粉末を撒き散らしているだけなのです。
 
 
  st、楽山 問題を振り返る 2019-12-20NEW !
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
  楽山日記(a)
 
書いても仕方のない長い長い記事を書いて、それで、いちゃもんをつけて、反論した気になるのが、楽山だということが、分かります。読者のことを、まるで考えていない読みにくさと長たらしさです。読みやすさより、読みにくくすることで、批判しにくくしているようです。
 
まるで、ずいぶん前に床についたシミを、わざわざ集めて、人をおとしめるために、塗りたくり、向こうは汚い、こちらはきれいと、見せかけて、子どもの喧嘩のように言い張る執拗さが、うんざりするような長い記事にしかならなかったということでしょう。シミは、ことごとく、楽山とシャロームが、落とした嘘の汚れです。
 
楽山は、自分に都合の良いところだけ、載せたつもりなのでしょうが・・
 
>stさんは当初は楽山に友好的だった
 
そうです。それは、楽山がシャロームの味方をする前です。騙されていたことに気づく前のことです。気づけば、当然、だます者への怒りがあり、批判対象とするわけです。楽山は、それが異常だと、ずっと、そのまま、悪の味方をしろと言いたいのでしょうか。
 
さらに明らかになったのは、楽山が、教条主義とおまじない?のキリスト教?を名乗るカルトだと私が思っている自称ヨシュア・自称マグダラマリアラインの味方をしていることです。楽山には、あちこちに、なりすましか、お仲間関係があるようです。お芝居だったのか。思っていた以上に凶悪だな・・。
 
自称ヨシュアも自称マグダラマリヤも、私に、呪いのようなものを書き、かつ、あと何日などと言ってきました。こういうキリスト信仰?のあり方は決してありえないのです。
 
シャロームのコメントも書いているようだが、それは稿を改めたいと思います。シャロームは、聖句に従って、恵みを増すために、罪を重ねたのだそうです。
 
楽山は、都合の良いところだけ、選んで載せるという、情報の選択というやり方を取っています。それは、紛れもなく詭弁ですが、楽山が、直接、私を批判することが、できない、できなかった、成り立たなかった、何故なら、楽山は真実の欠片も知らないから、ということを表しています。
 
 
(2019年12月21日、同日一部修正)
 
 
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「カルトの偽装」
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  執拗な再録
 
   2019年12月13日
   『ウチの母が宗教にハマりまして。』藤野美奈子
   http://mn266z.blog.jp/archives/22560806.html
   楽山日記(仮、倉庫)
 
 
楽山は、前に批判したのに、私がシャロームを批判している間に、また、同じ記事を出してきました。この根性こそが、異常人格の特徴です。反省をしない、弁明できなかったことを学習しない、という無反省・無頓着だからこそ、できることなのです。
 

*まえおき
 巷では宗教離れが進んでいるそうだけど、どうやらその流れは自分にも影響しているらしい。最近はどうもその手のことへの関心が薄れてきている。でも今回はひさびさに宗教関連の本を通読できたので感想を書いてみたい。

 
書くべきではないのです。もう既に、批判されて、楽山は、返せなかったのです。自分を出す、という一方向だけの心しか持っていないために、楽山は、また書いてしまいます。
 

*本の中身
 本書は、タイトルからカルト批判の本だと思って手に取ったのだけれども、いざ中身を見てみると、カルト絡みのエピソードもないではないが、全体的な立ち位置は、カルト批判というより、宗教への理解を深めようというものであって、宗教信者に同情的でさえあるようだ。
もうちょっと具体的なことを書くと、本書では、ヤバい宗教にハマってる人を退会させようとしたがダメだった話、新興宗教の二世信者の彼と結婚した女性が、熱心信者の義母と衝突して難渋する話、ミュージシャンがカルトにハマって人が変わってしまった話などが紹介されている。

 
こういう口当たりの良いところから、話を始めるのも、カルトの、そして、ナルシシストの、だまし文句なのです。目的は、既存の宗教、特に、キリスト教を、どうでもいいような、いい加減な宗教に、おとしめることです。
 

著者の体験談では、母親が宗教にハマり、お墓や仏壇などに百万単位のお金を使ってしまい、父親ともめた話、母親の信仰は傍から見たら奇異なものではあるけれども、数十年に渡って、自分のことはわきに置いて、ひたすら家族の健康と幸福を祈り続けていることから、やがては父も、娘の自分も、その信仰を頭ごなしに否定することはできず、尊重するようになっていった話などである。

 
このように、楽山は、カルトというのは、とんでもない損害を与えるからカルトなのであって、そうでないならば、カルトと言ってはいけない、ということを言いたいだけなのです。自分がカルトの宣伝者・煽動者だからです。
 

*カルト、マインド・コントロール
 本書では、カルト、マインド・コントロールについても、分かりやすく説明してくれている。
 まずカルトの定義については、人権侵害や違法行為の有無が基準だとしている。カルト教団とは、非常識、アブノーマルな団体というのではなく、「憲法に定められた基本的人権を守らない団体」であり、また「あなたの入りたい宗教団体が現代の法律に触れるようなことをしていないか 入信前も入信した後もそこんとこ見極めて下さいね」とのことである。この辺りは、藤倉善郎さんの書いていた基準と同じだ。

 
このように、楽山は、違法行為の有無によって、カルトかどうかを判断する基準が正しいと言っています。そうでしょうか。
 
違法行為を犯したカルトは、違法行為を犯す前日までカルトでなかったと言えるでしょうか。ちがいます。カルトの芽は、既に、たくさん出ているのです。
 
どう判断したらいいでしょう。彼らの信条を、多くの人が信じて、排他的となったら、社会悪になるだろう、と推測されるときから、カルトとして、邪教として、批判はしなければならない、ということです。
 
法制度上の基準は、逮捕できるかどうかという基準であり、カルトであるかどうかという基準ではありません。それを、鵜呑みにしてはいけません。楽山が、自分(たち)は、犯罪行為に及んでいないからカルトではないと言いたいがために、この法制度上の基準を用いているのです。
 
言っていることが不正なのは、既に、発言や信条に表れているのだから、先ず、法制度ではなく、批判をしなければなりません。でないと、大きな被害が明らかになってからでは、手遅れになります。先ず、法制度の強制力ではなく、言論の力を使って抑制するべきなのです。
 

マインド・コントロールについては、「「昔からのその人らしさ」を封印したあと新しい考えを信じ込ませ まるで教祖のロボットのようにしてしまう作業のことです」「本人はあたかも「目覚めた」ように感じ普通に生活できるので操られていると気付きませんし「自ら選んだ道だ」と信じてしまいます」としている。
本来の自分を失い、教団に操られているのに、そのことには気付かず、自分のことは自分で決めたと思い込まされるというのは、なんとも怖ろしいことである。これはあまりに怖すぎる。

 
怖すぎると言っている楽山が、まさに、カルト的なことを言って、しかも、ボンヤリ言語という婉曲的な言い方で、やんわり、他の宗教を無力化して、暗示や印象操作で、自説を刷り込んでゆく人です。
 

*反省
カルトとは人権侵害や違法行為をする団体であって、傍から見ていくら奇妙、不気味であるからといって、カルトとはいわないというのは、頭ではわかっていても、感覚的にはなかなか受け入れにくいところはある。

 
頭でも、心でも、この、カルトに都合の良い基準を是としてはいけません。カルト宣伝者である楽山の、言い逃れです。既に、ボンヤリ言語全開です。なんとなく、言えてるような・・という印象を与えようとしているのです。このような手法をとるのは、相当に凶悪な精神です。
 

いくら人権侵害も違法行為もないといっても、新興宗教によくある奇妙、不気味、それから悪趣味さを目の当りにしたら、どうしたって「こりゃ、カルトじゃん」という感想を抱かないではいられない。
でも信者本人からしたら真面目に信じているのだろうし、それを即、カルト呼ばわりするというのは、ちと不人情ではあるかもしれない。だいち自分の視点から相手の信仰が奇妙、不気味、悪趣味に見えたなら、相手からもこちらの信仰は奇妙、不気味、悪趣味に見えているのだろうし、それならお互い様ではある。

 
どう見ても、自己中心に、または、自己の属する集団中心に固まって、排他的となる恐れがあるときは、そのように指摘することが、第一歩です。
 
それはリブログにあるように、また、他の機会にも、指摘してきたのです。しかし、その結果は、この通り、何の反省も、修正もなく、人の言うことを受け取ってさえいないので、また、記事を載せてくるわけですから、もはや、説得は無意味です。この人、楽山を、カルト宣伝者として、情報を敷衍(ふえん)するしかないのです。
 

とすれば、やはりカルトか否かの判断は、個人的な宗教観ではなくて、人権や法律を規準とするのが公平ではあるだろう。自分はどうも個人的な宗教観で、カルトかどうかを決めてしまうところがあるので、ここは注意することにしよう。

 
法律と言えば、一見、正論に聞こえますが、逮捕できるかどうかという基準に過ぎません。
 
前にも書いたことですが、カルトが違法行為に及ぶ前日は、カルトではないでしょうか、否です。
 
楽山は、実に、もっともらしい詭弁を弄して、刷り込もうとしているのです。
 
カルトが邪悪であるのは、法律違反を犯す前に、既に、その教えが、異常であり、社会悪に通じるものだからです。そこで、批判を始めることが必要です。
 
楽山は、こともあろうに、法律を盾として、真実を曲げようとしています。正義とか真実など、楽山にとっては、どうでもいいのでしょう。前にも、同じように批判したのですが、また、批判を返せないのに、同じことを言っていることから明らかなのは、執拗に、積極的に、カルトを、犯罪行為に及ぶまで、放置しろと言っている、ということです。
 
つまり、楽山は、自らがカルトの味方であることを、執拗に積極的に自白しているのです。
 
真実を求める目から見た正邪は、人間の法律以前に、かなり良心によって判断し得るし、さらに、むしろ、カルトについて、法律以前に、邪悪だと判断しないから、犯罪を生むことになるのです。
 
法律以前には、逮捕は出来ないから、批判を早期に始めるべきなのです。カルト思想が、どういう結果を招くかを推測し伝えることで、警鐘を鳴らすべきであります。
 
人それぞれの個人的な宗教観ではなく、社会悪に通じる自己中心であり、さらに、訂正不能であることも、今回までに、既に明らかになっていることから、一定の判断として、無反省と自己中心が蔓延することになってはいけないという理由で、この楽山が関わったカルトが、HSであろうと、アドラー心理学であろうと、この人が語れば、自己中心にしかならないという判断をしています。
 
したがって、個別には、楽山の発言と思想に、誰も、真に受けたり、頷いたりしてはいけません。楽山とシャロームの存在を周知とすることと、その狡猾な主張を、言論において、全否定し続けることが必要です。
 
楽山、シャローム、易坊は、仲間です。一緒になって、批判者である私を、おとしめてきました。楽山は約一年、シャロームは約9年、易坊はシャロームとともに数年、そういうことをしてきて、今もしているのです。この三人を、私は、楽山やシャロームなどの易坊類、と呼んでいます。成りすましの疑いもあります。
 
他にも怪しいHNはありますが、表に出ているところから、批判し、否定してゆかねばなりません。もう一度も言いますが、説得は、無意味です。また、楽山やシャロームなどの易坊類が、改めますと言っても、それを、真に受けてはいけません。彼らは異常者だと思います。訂正不能に、それが表れています。彼らが危険だという情報を、できる限り、敷衍(ふえん)するしかありません。
 
 
(2019年12月20日)
 
 
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  疲労性病原
 
   2019年12月17日
   自己肯定、自己受容、自己変革…
   http://mn266z.blog.jp/archives/22632914.html
   楽山日記(仮、倉庫)
 
 
自分は何の責任も負わず、他者には疲労を与えるだけの病原とも言える文章の体質。
 

*自己肯定
 木地雅映子さんのツイートを見てたら、自己肯定感にとらわれることに注意喚起する記事が紹介されていた。

木地雅映子
@KijiKaeko
むむ、今どきの『自己肯定感』の高い低いは、あの古臭い『ネアカ』『ネクラ』の子孫みたいな文脈で語られて、ネクラはだめだネアカになれ!っていう圧力になってるってことなのかな。そりゃ害にしかならないな。
ネクラはいいぞ。
https://t.co/k0uc4jXGsx
2019/11/04 10:42:39
・「自己肯定感」にこだわる母親たち、わが子を息苦しくさせるワケ
 」
たしか、『嫌われる勇気』では、自己肯定は、自分にできないことについて、「自分はできる、必ずできる」と自己暗示をかけることで、これはある意味、自分に嘘をつくことだとして批判してた。それに対して、自己受容については、できない自分をありのままに受け入れた後で、どうしたらできるかを考え、行動することだから、よいことだとしてた。

 
引用した部分だけでも、圧力になってはいけない、ということは読み取れるでしょう。
 

この記事でいう「自己肯定感」というのは、このうち前者について語っているようでもあるが、後者について語っているようでもあり、どうも判然としないのではあるが、そのどちらにしても、必ずこうでなければならぬと一つことに固執している状態は窮屈だろうし、苦しいだろうな。
こうなるとまさに、「「閉じた世界」から脱出する」ことが必要になってくるわけだ。

 
書かれた術語に限って言えば、反対命題を強引に自他に押し付けることが圧力になります。したがって、自己肯定感が圧力でないなら、自己肯定とは区別するべきです。自己肯定は、機械的で乾いた術語のニュアンスになり、「感」が付く付かないで、誤解の幅が違うことを、楽山は分からないようです。
 
つまり、自己肯定感は、自己受容に近く、自己肯定と違って、無理やり反対方向に持ってゆくことではなく、出来不出来を問わず自分を、ありもまま認めることに他ならないでしょう。何を肯定するかと言えば、生きることに他なりません。
 
楽山の、閉じた世界から脱出する、というのは、それだけだと、大袈裟で、まるで自分で新しく生まれ直すみたいで、とても、一般的に通用するとは思えません。
 

*自己変革
 上記の記事中、この辺りは、自己変革について疑問を提示しているようだ。
どのようなキャッチフレーズが登場したかを振り返ってみると、「自分を愛せなければ他人を愛せない」「あなたが自分を好きでなければ他人に愛されるわけがない」「自分を愛せるように」「自己肯定感を高めるための法則」「自己肯定感の低いあなたに足りないもの」などなどです。

 
自己愛の強い楽山にとっては、好ましく、垂涎の的になったのでしょう。しかし、自己の欠点に気づかなくなる可能性という致命的な欠陥があります。まさに、楽山において、そうなっているのです。
 

共通点は、多様な説明や切り口があるにもかかわらず、最終的には自分で自分をどうにかできる、しなければならないという考えに帰着することです。

 
楽山は、わざわざ、圧力を強いる言葉の引用に換えてしまっています。ひどいです。
 

一見、自分は自分次第という希望を与えるように思えますが、最後は自分しかいないというどん詰まりの考え方ではないでしょうか。まさにこれこそが、自己選択・自己責任の罠なのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=4

 
このように、どん詰まりということは、圧力に負けそう、ということです。
 

自己変革にしろ、自己責任にしろ、一面の真理を有しているのはまちがいないのだろうけれども、上にも書いた通り、こうでなければならぬと強く思い込んでしまっている場合は面倒なことになりがちだ。

 
圧力になることが望ましくない、ということだと思いますが、楽山の理路が、上のほうの「共通点は・・」において、おかしいです。主旨を理解できていないのかもしれません。
 
楽山は自己愛が強いので、圧力は必要ないのかもしれません。そして、その通り、自分の欠点に気づかなくなっています。
 

人にはそれぞれ個性があり、抱えてる事情もちがうし、さらにはたとえ同一人物でもタイミングということもあるものだ。その時々によって、その人にとって自己変革や自己責任が必要なときもあろうが、それとは反対にそんなものは要らないときがあるのは当然だ。自分を変えるべきときもあれば守るべきときもあり、自分でやるべきときもあれば他人を頼っていいときもあるみたいに。

 
楽山は、ゴチャゴチャと書いていますが、当たり前の場合分けに過ぎません。しかも、自己変革や自己責任という、さらに圧力をかけて、網羅したい願望で、楽山自身の発言の安全弁を強迫的に実行している感があります。
 
そんなことよりも、唱えて圧力を生む言葉は、助けにならないということです。心を求めず、言葉だけを求める人は、言葉が圧力になっていることが既にある場合が多いでしょう。
 
それにして、楽山は、圧力をかけたいのでしょうか、抜きたいのでしょうか、「・・必要なときもあろう、・・要らないときがある・・もあり・・もある」という書き方では、何も語ったことにはなりません。このようなボンヤリ言語の書き方だから、責任逃れでしかなく、中立を装うだけになるのでしょう。
 

でも、あまりに強く一つことに執着して、こうでなければならぬと思い込んでしまうと、この辺りの臨機応変さがなくなるから苦労することになる。
その意味で、この言葉はよく納得できる。

 
当たり前のことを繰り返すだけの楽山の言は、恐らく、何の納得も与えない。細部まで書かねば、という脅迫性があり、そのせいで、芯を外してゆくのが、楽山の筆致なのでしょうか。
 

そもそも万人にあてはまる子育ての「正解」はない。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128

 
で、結局、これだけでは身も蓋もないことを引用しています。ならば、楽山は、書かなければよいのです。引用元にも失礼です。実質のないナルシシズムのなせるわざなのでしょう。
 
どっちつかずに言えば謙虚だと思っているようだが、どっちつかず・・は、展開も進展もなく、何の一石も投じていない、すなわち、書かなくていいことを、かっこつけて書きました、テヘヘ、ということにしかなりません。
 

結局のところ、人生、教育、価値観、人生観など、人に関するものは、こうでなければならぬと一律に決めつけることはできず、人それぞれとしか言えないことがほとんどではなかろうか。ここは自分もうっかり忘れてしまうことがあるのではあるが、よくよく自戒したいと思う。

 
一律に決めつけることができないのは当たり前のことです。しかし、今回、今までもずっとそうですが、人それぞれを結論にすれば、何らかの部分的なインパクトを与える文章にもなっておらず、結論も、おざなり、というより、なおざり、であるから、書く必要など、どこにもないのです。読者をバカにしているとしか思えない。
 
さらに、その責任逃れのように、「よくよく自戒したいと思う」と書いていますが、この、反省や謙虚さを装う筆致が随所に見られるけれども、その結果が、どこにも表れたことがありません。これが、楽山の、いい加減な、そして、極めて偽善的な、ボンヤリ言語という理路の放棄なのです。
 
自戒や反省という言葉を書いたからいいじゃろ、という安易さは、決して謙虚ではなく、自己中の勝手な予防線に過ぎません。自戒より、自壊していると思います。楽山の、このような記事は、自己愛性自己破壊、そして、他者にとっては、真に受けると、どうしようもない堂々巡りを与える疲労の病原だと思います。言論の恥と害毒です。
 
 
  こうであって欲しくない
 
   「こうであって欲しい」という押しつけ:2019年12月17日
   http://mn266z.blog.jp/archives/22633050.html
   楽山日記(仮、倉庫)
 
 
少なくとも、楽山の言うようにだけは、分かってもいないことを得々と語るようにだけは、なってほしくない、という記事になっています。むしろ、何かを批評するときには、こうであって欲しくない、という記事になっています。
 

宏洋氏のツイートをみてると、ちょいちょい共感できるものがあるけど、これもそう。

宏洋@映画『グレー・ゾーン』クラウドファンディング実施中!!
@hiroshi19890224
「大川隆法総裁先生の息子なのだから、こうあって欲しい」
幸福の科学の信者さんはそれしか言いませんでした。大川隆法本人含めて。彼らにとって『宏洋』という個人の人格には何の意味も価値も無かった。
だからそんなものはクソ食らえと思っ… https://t.co/aNQlYVceYg
2019/11/05 02:00:03
 」
ちなみに、のんさんの歌(歌詞ノマアキコ)にも、これに通ずるものはある。

ちょっと待って寄ってたかって
あたしのあれこれ決めつけないで
あなどるなかれ ベビーフェイス
ホントのあたしを知らないくせに
・のん やまないガール 歌詞
 」
こういう押しつけ、決めつけ、過干渉などは、有名人に対してのみならず、程度の差はあれども、一般人の間でもある。ふつうの親子関係、友人関係、恋愛関係などでもざらにある。

 
押し付け、決めつけ、過干渉のことを言っているようですが、あの人も、この人も、と有名人を上げることが、楽山の身勝手さを浮き彫りにしています。
 
押し付け、決めつけ、過干渉は、楽山が、知識も理解も感じるところもないのに、宗教、特にキリスト教について、やってきたことです。当然、的外れとなり、批判対象になるのです。
 

もちろん宏洋氏が述べているように宗教でもある。むしろ宗教では一般の場合よりも、その程度は激しいだろう。宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだから。

 
宗教が・・ではなく、楽山が、分かりもしないのに、宗教について語るな、ということです。自分の欠点を考える、他人の身になって考える、ということが全然できない楽山の他罰的な性癖なのです。
 
「宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだ」、というのは、未熟で理解力が足りないくせに、文句だけ言ってくる楽山の自己中の、それこそ、偏見に満ちた決めつけです。本当に、楽山という人は、書けば、必ず、思慮の浅さが浮き彫りになってきます。
 

ほんと、価値観の押しつけという点では、宗教はやっかいだ。まともな宗教であれば、ある程度は、個人の個性を尊重してくれるだろうからよいとしても、カルト宗教はそうじゃないから困る。

 
価値観の押し付け、宗教は厄介だ、というのは、楽山が真の宗教を全く知らないから、起こってくる偏見からの悪口であります。楽山は、いつも、そうです。
 
押し付け、決めつけ、厄介は、評論家気取りでありながら、知恵の足りない楽山のほうです。共感力がなく、ピント外れで、意地だけ執拗に強い自己中なので、霊が分かるっぽいと言って、オカルトやカルトについて書きながら、まるで、宗教に、特に、キリスト教について理解のない自分を弁えません。
 
楽山は、いつも分かってるふうに、宗教についても、常識人のつもりで図々しく書いてきますが、感性も知性も洞察力も不十分であることを自覚しないため、正面を向いて理路を説明することができず、被害的・他罰的に苦情を言うか、この記事のように婉曲的に当てつけることしかできない、しかも、それが、的外れであって理、認識不足であったり、まるで、言えてない、という結果に終わります。
 
訂正不能に自己の能力を過大評価して、反省もしないで得々と語ると、こうなる、言い換えると、反省力があれば、こうはならなかっただろう、という典型になっています。
 
楽山は、「まともな宗教」のことを、全然、理解していない、ということが今までの記事で明らかになっています。勝手に、カルトと宗教を分けて、自分はカルトじゃないと言い張っているだけです。こういう自覚も反省もしない人が、宗教に関わると、いちばんカルト傾向が強く、厄介なのです。
 
自己中心、訂正不能、という性格は、いちばん、身勝手な人格と妄想的に偏った自己信条を無自覚に作ってしまいます。何故なら、反省をする代わりに、意地を張り、いちゃもんをつけ、なじり、けなし、当てつけをする、ということを繰り返すしかなくなるからです。
 
 
(2019年12月19日)
 
 
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  仮想読書
 
   『仮想儀礼(上)』篠田節子
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12553934345.html
   楽山日記(a)
 
 
カルトは、常識を装って、その懐にあるところの、宣伝、暗示、印象操作、刷り込みと言った卑怯な手段で、人々を引き込み、陥れようとしてきます。楽山やシャロームなどの易坊類は、ナルシシストのカルト集団、あるいは、成りすましです。
 
訂正不能の自己中心の思い込みがあり、このブログのように、批判されても批判されても、同じようなことを、他者の書籍などを利用して、書いてきます。
 
また、逆に、カルトを題材として、自分は大丈夫と言うことを、刷り込もうとしてくるのが特徴です。理解力がなく、無反省であり、理屈っぽいことを言いながら、他者の言うことなど、不感不応で気にしない横暴で執拗な体質を持っています。
 

『仮想儀礼』は前に読んでおもしろかったので、また読んでみた。今は上巻を読み終わり、下巻にはいったところだけども、やっぱりおもしろい。
大まかなあらすじは、詐欺に遭って仕事も家庭も失った男が、起死回生の一策として、顧客(信者)に心の癒しを与えて、相応の対価を得るという形のビジネスとして宗教をはじめるものの、集まってきた信者などに引き摺られる形で道を踏み外してゆくというもの。
教祖となった男が何てことのない常識論を語っただけで、それに大感激して信者になり、多額のお布施をしようとする者が出たり、有り合わせの材料でつくり、魂入れもしてないような仏像とは知らずに、その前で精神統一していた信者が、思わぬ超常現象を引き起こしたり、教祖の男にとっては想定外の出来事が次々に起きて驚き慌てる姿はリアルで読みごたえがある。

 
常識論的なことを、ボンヤリ言語で、ああでもないこうでもないという曖昧さで語り、おやさしいお人柄と言われて、悦んでいるのが、楽山です。
 
有り合わせのベタな言葉を後生大事にして、「かなぁ」「とも言える」「否定はできない」というボンヤリ言語の特徴的な語尾で語り、印象操作で刷り込んでゆくのが、楽山のやり方であることが、明らかになっています。
 
気をつけてください。常識的な話の中に、知らず知らず、恣意の方向を吹き込んでゆく狡猾さが、楽山やシャロームなどの易坊類の常套手段なのです。
 

ちなみに本作と同工異曲的なものとして、萩原浩の「砂の王国」がある。こちらも、失業してどうにもならなくなった男が、生活のために宗教を始め、ある程度の成功を収めるも最後は…という大筋は大体同じだけど、やっぱりおもしろい。
本作はあくまでフィクションだろうけれども、エンターテイメント作品として楽しむ以外にも、新興宗教の内実、教祖の思いなどを想像するにはよい材料になるし、それらに興味がある人にとっては、一読の価値がある。上下巻でページ数は多いけど、ストーリーも文章もよいから、小説は読みなれてなくても、さくさく読めると思う。

 
読むのは、人それぞれの自由です。しかし、そのことを、自己中で作為的な楽山が言えば、罠になります。楽山は、ときに中立に見せかけ、ときにキリスト教寄りに見せかけ、ときにクリスチャン芝居をしたり、キリストは人だとか、神は母性だとか、キリスト教は簡単だがアクセサリであるかのような軽さの方向に誘導して、分かりもしないことを塗り付けて、キリスト教よりも優位に立とうとしてくるでしょう。それが、軟派カルトのやり方であることを、私は批判的に学んできたつもりです。
 

*追記 2019.12.7
この手のノンフィクションとしては、M.ラマー キーンの告白本がある。
タイトルは、『サイキック・マフィア―われわれ霊能者はいかにしてイカサマを行ない、大金を稼ぎ、客をレイプしていたか』というもの。
こういう本を読むと、やはり宗教やオカルトには近づいてはいかんと思うし、触らぬ神に祟りなしというのは本当だなと思うね。

 
以前「心の理論」という記事で、霊が分かるっぽいという自覚を語った楽山が、オカルトに近づいてはいかんと思う、などと言っていますが、いちばん、オカルトにもカルトにも親和しそうなのが、楽山その人であります。
 
 
  『仮想儀礼(下)』篠田節子
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  楽山日記(a)
 
 
カルトの不気味さと社会悪の危険を、読みごたえがあるという感想で表している楽山です。
 
実際には、楽山は、シャロームという妄想カルトの味方をしてきました。また、アドラー心理学という自己中になりやすい言を含むためにアドラー教と私が呼んでいるカルト臭い宗教の宣伝者です。懐疑的なことを言いながら、今も、アドラー教が抜け切れていないか、元々、アドラー教に似た思想を自己中として持っていると思います。
 

今朝で、『仮想儀礼』の再読終了。
上巻では、顧客に心の癒しを与え、それ相応の対価を得るという教祖の描く宗教ビジネスが成功して行くさまが描かれ、上巻の後半から下巻にかけては教祖が思わぬしっぺ返しを受けるさまが描かれている。
教団が急成長することで、海千山千のものが寄って来てその誘いに乗らないととんでもない嫌がらせをしてくるだとか、そういうものと関わったせいで警察や税務署からにらまれるとか、マスコミにあらぬことを書かれて、信者も、世間的な信用も失い、社会的に孤立するとか、熱心信者のなかに暴走するものがでてくるとか、常識的な路線を進もうとしている教祖にとってはやっかいなことばかりが連続しておきている。特に信者の暴走についての描写は、念入りに描かれていて読みごたえがある。

 
どういう読みごたえがあると言うのでしょう。人間が暴走する悲劇を、読みごたえがあると言い、面白がっています。悲劇を興味本位にしか見ない楽山のようです。
 

教祖はビジネスとして宗教をはじめたつもりだったのに、その宗教は教祖とは独立した生き物となって成長してゆき、信者だけでなく、教祖自身をも飲み込み、法律も、道徳も、教義も、そんなことはたやすく乗り越えて肥大化して行き、教祖も信者も教団内の者たちは誰もそれを止められなくなるという流れは本当に恐ろしい。

 
このように、常識から乖離してゆく教義と信条を持つカルトですから、暴走して、犯罪行為や破壊的になってからでは遅いと言えるわけです。つまり、違法行為をするようになる前から異常なのだから、早期発見して、言論において、その異常性を訴えることが必要であり、早めの批判が不可欠であることは明白なのです。
 
しかし、楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無で判断して、違法行為がなければカルトではないと言っています。カルト寄りの楽山だから、違法行為がなければいいだろ、カルトじゃないだろ、と言ってきているわけです。これは、明らかに間違っています。
 
カルトが違法行為に至る前日は、カルトではないのでしょうか。犠牲者が出るまで待たなければならないでしょうか。そうではない。違法行為がないから、カルト的思想が自由だというなら、違法行為がなくても、カルトを批判する思想も自由なのです。
 

こういう話を読むと、宗教はそれ自体は意思も、命も持たないものではあろうけれども、一度発生すると、人の心から心へと感染し、状況によって変異しつつも、その支配領域を増やしてゆき、場合によっては宿主を殺してしまうことさえある寄生生物のようでもある。

 
このように言いながら、カルトを、違法行為に至るまで放置するようなことを言ってきた楽山です。いかに、楽山が、カルト寄りであるかが表れています。手遅れにならないように、おかしなことを、おかしいと言う批判をすることが、できる限り、早期に必要なのは言うまでもありません。
 

ここは不気味だし、触らぬ神に祟りなしとは本当だなと思わされる。こういう考え方は極端すぎるかもしれないけれども、宗教を信じるということは、ある意味、自分を死に至らしめることもある寄生生物を心に入れるということでもあろうし、よほどの覚悟を必要とすることなのだろうと思う。

 
宗教を信じることを寄生生物に喩えて、死に至らしめると言っています。宗教とカルトの区別もできず、また実際、区別せずに、カルト寄りの自分をカムフラージュするために、警告するふりをしている楽山の悪意を見逃さないでください。
 
不気味だから、触らぬほうがよいと言っています。こういうことを言うのは、言い換えれば、死に至らせる寄生生物がいたら、何もせずに、触らないほうがいい、ということでしょうか。バカなのでしょうか。社会正義を考えない人なのでしょうか。良心の敵なのでしょうか。
 
不気味ならば、誰かが、正体を見極める必要があります。異常であれば、異常だから近づかないようにと、警鐘を鳴らす必要があります。何が、「よほどの覚悟」なのでしょう。だまされる覚悟でしょうか。脅しているのでしょうか。楽山は、良心がないのでしょうか。良心の敵なのでしょうか。
 
恐ろしいカルトになる可能性のあるような、曲がった教義「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言って訂正していないシャロームの味方をして、その異常性を正当化してきたのが楽山です。楽山やシャロームなどの易坊類は、信じる者が多くなれば社会悪になりうる思想の持ち主です。
 
この楽山の記事は、自己とお仲間の異常な思想を正当化するために書いたのではないかと思われます。カルトは、こんなに酷い、自分たちは違う、と言いたいのでしょう。いつも、共感を装う楽山の狡猾な言い逃れの詭弁なのです。
 
 
楽山の読書と読書の勧めというのは、楽山が学んでいるのではなく、楽山の自己中の思想に都合の良い本を読んで、その都合の良さを書いてくるだけなのだろうと思います。楽山、という、偏向し、狭量でありながら、自己完結しか持ち合わせない者の読書を信頼してはいけません。
 
自分は中立?であるかのようなふりをして、書いていますが、楽山は、自己中で訂正不能であることが、今までの経過に表れてきました。実際、自己中に結び付きやすいアドラー教の宣伝をしてきたのです。そこを忘れてはいけませんし、実際に中立というのは、一般的にも難しいのですから、楽山は、企みとして、中立に見えるような書き方をしてくる詭弁家そして宣伝者と言ったほうがよい人です。
 
 
(2019年12月18日、同日一部修正)
 
 
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   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、まるで、私を全否定して、さらに、まともな批判ではなく、誹謗、中傷、人格否定のみで読むに値しない、などと言ってきました。
 
誹謗中傷と人格否定のみで、根拠をまるで示せないのは、シャロームのほうなのです。批判ではなく、なんとか傷つけようと、サディスティックな、おとしめる目的だけで、コメントを書き続けています。
 
こちらにとって大事なことは、丁寧語で返すことではなく、やさしく返すことでもなく、シャロームを納得させることでもなく、理解力の全くないシャロームに対して、きっぱりと否定を示し、その根拠を示すこと、そして、警戒するべきという情報を公開することであります。
 

1. shalomです。おはようございます
 2019年12月14日 08:20
「嫌がられても投稿する、しかも、嫌がらせだけ。」
あなたもご自分の嫌がることはわかるのですね。
他者の身にはなれないようですね。
あなたのコメントがただ長いだけ、まともな批判ではなく、
ただの嫌がらせ、誹謗、中傷、人格否定のみで読むにに値しないから、コメント欄を要承認にされたり、削除されたり、閉鎖されたりしていたのですよ。
 来たる衆院選で貴重な一票を無駄にしないように
今日もれいわポスターのボランティァに出かけます。
yahooブログも明日で閉鎖。
 貴重な一日。
よろしくお願いします。
shalom!

 
シャローム、まだ、分からないのですか。私は、あなたが、どう返してくる、こういうことを言ってくるだろう、ということを予想しながら書いています。
 
あなたは、自分に都合の悪い批判コメントを、総て、嫌がります。
 
私は、根拠のない悪口を、嫌がらせと呼んで、嫌悪しています。
 
あなたは、私を、疲れさせようとしているだけです、汚いシャローム。
 
あなたは、当たり前の道徳、「他者の身に」なったことが一度もないのに、なる気もないのに、私を責めてきます。偽善者カルトの身になることは、自分の人格を捨てることですから、できないというより、しません。
 

あなたのコメントがただ長いだけ、まともな批判ではなく、
ただの嫌がらせ、誹謗、中傷、人格否定のみで読むにに値しないから、コメント欄を要承認にされたり、削除されたり、閉鎖されたりしていたのですよ。

 
未承認にし、削除したのは、あなたシャロームです。
 
しかも、あなたシャロームは、今までの経過から、まともな批判かそうでないか、あなたには、全く分かっていないと思います。それよりも、あなたは、私のコメントも記事も、最初も数行しか読んでいないと、バカにしていたではないですか。
 
「被害的・他罰的(3)」コメント欄、コメント1

いつものことですが、あなたの不毛な多弁を全部読むことはありません。いまあなたの記事の初めの数行を読んだだけです。

 
読むに値しないのは、あなたのコメントです。何度も書いてきました。
 
あなたのコメントと違うのは、私には、約8~9年間の、根拠があるということです。前に、その一部を記事にしました。あなたは、根拠を理解しないか、無視しているかなのです。
 
そして、あなたシャロームのコメントは、超常を根拠としているか、嫌がらせか、嘘の世辞か、そういうものだから、全く根拠が無いのです。
 
だから、あなたシャロームは、根拠があるかどうかわからないから、快楽原則だけで、不快だから削除してきたのです。それが、8~9年間続いてきたのです。
 
自分が言われそうなことを、相手に向けるという、あなたシャロームのやり方、根拠が無い分、滑りっぱなしです。
 
私は、根拠のある、そして、理路のある批判を、無視することはありません。
 
あなたシャロームは、根拠のある、そして、理路のある批判を、削除しまくってきました。
 
どんなに汚い断定表現を強くしても、あなたシャロームの卑怯は、あなたシャロームの意志とは無関係に現れてきます。それが、言葉というものです。懐に偽りを持つものは、そのようにして、真実に攻撃されているのです。
 
汚いシャローム、汚いシャローム、あなたの立場は、もう、どこにも、ありません。
 
あなたは、私のコメントを削除しました。
 
詐欺師、嘘吐き、妄想カルトのシャロームだけが、空しく、言い逃れを書いては、返されて、いっそう、ますます、醜くなってゆくだけです。
 
私は、あなたのコメントを削除せずに、批判を返しています。それが、ずっと、続いています。疲れさせたいのでしょうね、手段を選ばない、自己の優越だけを求める嘘っぱちの元牧師、いい加減にしなさい。あなたは、もはや、人間の言葉を使っていません。原始反応で書いていると思います。
 
楽山の応援のためか、狂っているのか、いつもながら、あなたシャロームの理路は、メチャクチャです。あなたには自分が見えていないからでしょう。
 
出しては、返され、それを無かったかのように、また、出して、また、返される繰り返しが、長々と続いています。あなたには、常識も良心もないから、続けているのでしょう。
 
精神病には差別語として使ってはいけないキチガイという言葉、あなたシャロームには、当てはまるようです。気が違っている、気違い、性根が正常と全然違っている、また、気狂いとも書くようです。人間の、恥を嫌う心、罪を悪と思う心、今までの経過とこれからの予測をする心、あなたには、全くありません。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものです。
 
あなたシャローム、サイコパスと判断しましたが、良心と罪悪感が欠けている、不治の病のようですね、どれだけ、善良な人々に迷惑をかけたのでしょう、また、これからも、かけるのでしょう。身の毛が弥立ちます。あなたの原始反応系において、幸いは、命の終わるときだけなのでしょうか。
 
どうしたら、それだけ、無知と無恥になれるのでしょう。どうしたら、そんなに、平気で、嘘が吐けるのでしょう。にもかかわらず、どうしたら、一方で、白々しい世辞の言葉が出せるのでしょう。そして、どうしたら、それらの言葉の、場違いでアンバランスであることに全く気づかない、そして、何の罪悪感も感じない、などということが起きてしまうのでしょう。
 

30. shalomです。 おはようございます
2019年12月15日 14:29
「ここに、あなたシャロームを招いた覚えはありません。あなたは、今、野良犬なのでしょう。」
私もあなたを招いたことはありませんよ。
ですからコメント欄を要承認にしたり、閉鎖したのですよ。
あなたはまるでストーカーの狂犬のように8年間もうろうろとつきまとわずにはいられなかったのですね。
他の人に八つ当たりをしたりしたり・・・、
本当にお疲れ様でした!
shalom!

 
今、書いているところは、私のブログです。根拠を示しての批判なら、考えてもみますが、あなたシャロームは、一つも根拠を示せていないのです。つまり、悪口だけを書いています。
 
そして、我欲の自己顕示のために、体裁を繕うために、以前、あなたのブログでは、私の批判コメントを削除し、コメント欄を閉鎖したのです。
 
つきまとうのではなく、あなたシャロームが、いつまでも、的外ればかり書いてきたから、批判が続いてきたのです。
 
私は、あなたには、いっさい興味も関心もないと言ったでしょう。すべては、あなたが、キリスト信仰に対して、邪魔だけしかしない反キリストだからです。
 
あなたシャロームが、何か書けば、それは、信仰とは逆になります。あなたシャロームについては、信頼できることは、皆無です。書くのを、やめればいいのです。
 
こういうことも、ずっと前から、言っているのに、いつまで、どこまで、バカなんですか。
 
あなたがコメント入れてくるので、現時点で、あなたシャロームに対する批判記事の下書きが、どんどん増えて、5つ以上あります。全部、近日中にアップします。
 
書くのをやめたら批判しないようなことを書きましたが、訂正します。あなたシャロームは、偽善者シャロームとして、偽善者そして反キリストのモデルとなっています。よって、あなたが書かなくなっても、私が、思い出したり、考えるうえで、また、反キリストへの警鐘を鳴らす目的で、キリスト信仰に対して邪悪な反キリスト信仰?の実例として、批判記事を書く必然があります。
 
 
(2019年12月17日)
 
 
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(更新、コメント不可、12月消える)
 
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