ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年01月

 
  聖書の悪用
 
 
聖書は悪用されやすい。曲解されそうなところが結構あるからです。心があれば、避けられるのですが、心が無く、悪意しかない者によって、悪用されます。
 
悪用する者は、言葉面だけを利用します。一部を全部に当てはめて言い張ったり、文脈を無視して恣意的に解釈してきます。
 
 
まず、「さばく」という言葉について、ここは悪用しようがないと思いますが、同じ言葉で違う意味、肯定と否定表現、ということで、あげておきます。
 
ヨハネ書の
「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。」
「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、」
「終りの日にその人をさばくであろう」
というのがあります。
 
ここは、前後を引用すれば、意味の違いが分かるでしょう。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:39
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
9:40
そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:39-41、新約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:47
たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
12:48
わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。
 (ヨハネ書12:47-48、新約聖書)
 
9章のほうは、さばくとは、正邪の正しい判断を明らかにすること、と解釈することができます。その正しい判断によって、見えない人が見えるようになった・・と、逆説的な恵みの話になります。
 
12章のほうは、さばくためではなく赦し救うため、ということを言っているのでしょう。守らない人があっても、さばかず、つまり、邪と決めて滅ぼしたりせず、赦し救うということのようです。
 
また、今ではなく、終末のさばきというものがあるとキリストは言っています。
 
私は原語を知らないし、終末も今は知らないわけですから、詳しいことは分かりませんが、おおよそ、上のような違いがあり、文脈によって理解が可能です。
 
 
次に、実際に、悪用された例です。
 
 (創世記、口語訳)1:31
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
 (創世1:31、旧約聖書)
 
はなはだ良かった、という言葉を、こう書いてあるから自分は正しいという自己正当化に使う者がいます。
 
創世記では、その後、人間の罪について、アダムとエバの話が載っているし、聖書全体に、人間の罪の歴史がいっぱい載っているわけですから、いつも被造物が良いわけではないことは明らかです。
 
ゆえに、神が造って、そのとき神が被造物は良かったと言ったと書いてあるから、自分も正しいという解釈が、的外れも甚だしい自己正当化であり、成り立たないのも明らかです。とても幼稚な悪用です。この詭弁は、むしろ、その被造物の最も悪質なあり方を、逆に、表しているのです。
 
このように、自己正当化をするような偽善は、むしろ、その偽善の悪性を表してしまう、という逆説が成り立つことが多いです。
 
 
つづいて、情欲の聖句
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 
 (マタイによる福音書/ 05章 28節、新共同訳)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
カルトは、これを守るべき教えと言い張ります。「女」→「他人の妻」と訳が変わったから守れるというのです。さらに、守って完全になれるとまで言い張っていました。
 
地上において、人は、教えを守って完全になることは出来ません。完全は神の義であり、人に与えられるのは悔い改めと赦しによる信仰の義であります。この2つの区別がカルトには出来ていませんでした。
 
情欲は湧いてくるものです。湧かないようにしようと思って、湧かないようにすることは、できません。行為とは違うのです。女一般でも、他人の妻でも、いっしょです。
 
守れるものがいるかと問い、いないだろう、だから、総ての人に、悔い改めと赦しが必要であると、キリストは説いているのだろうと思います。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:17だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
 (マタイ9:17、新約聖書)
 
そしてカルトは、訳が変わったことを、この聖句の古い皮袋の喩えを持ち出して、こちらに向けてきたのです。カルトは、節操がないので、都合の良いものには、すぐ飛びつきます。
 
新しい皮袋とは、キリストが来て新しい契約の時代になったことを表すのでしょう。一方、訳が変わっても、神もキリストも、聖書の伝えるところも、何も変わってはいません。新しくなったかのように、訳の問題を、皮袋に喩えるのは間違っています。
 
反省し、修正して、変わってゆき、成長するべきなのは、私たちです。
 
 
カルトは、こちらが異を唱えると、あざ笑うか、でなければ、怒ることしかできないようです。大そう興奮して、私が私のブログにひっそり書いていた個人情報を持ち出し、また、私の書いた詩のようなものを持ち出して、ダメ人間とか親不孝とか精神病とか、やたら侮辱してきました。この時点で本性は荒らしだと判断できます。カルトは、理と心をもって説くことができないのです。
 
そうして、カルトは、見える、分かっている、知っている、守っている、完全になれる、などと言って、最初は、丁寧に、教えようとしてきますが、異を唱える者には、居丈高に、高飛車に、おとしめることばかり言ってきます。
 
カルトのように、聖書を勝手に決めつけることが、どれだけ神に背いて自分を高めることになってしまうかということです。神は、私たちが、完璧には分からないことを既にご存じなのです。書いてあるからと言葉面にだけ、こだわって、いじくって、分かったふりをしたり、意地を張ったりすることは、御心を思わないで、信仰を空しくするだけなのです。
 
 
(2020年01月26日)
 
 
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  非絶対性(相対性)
 
 
神は絶対だから、神の言葉も絶対で、信仰は絶対だ、という主張は成り立ちません。
人が聖書の言葉を絶対とするのは、人に過ぎない自分の解釈を絶対とすることです。
人と人の産物は、絶対になることはありません。
 
神は絶対だが、人の信仰が絶対になることはありません。同じ理由で、人の信仰が、完全になることもありません。
 
神は、人を、ご自身とは違って、不完全に造られたからです。
 
神が人を完全なものとして造ることは、とりもなおさず、ご自身をコピーすることになり、四位以上の神になり、神が、それを好まず、望まなかったということなのでしょう。
 
私たちは、自由意志を持つところの、神の似姿であり、完全コピーではありません。
 
 
したがって、神が、造られたものを、すべてよかった、と言ったからという理由で、"所在不明の名無しの猫かぶり"というHNで、悪意だけのカルト教祖シャロームが、おのれを正当化することは、笑止であり、背教であり、決して成り立たないことです。
 
気をつけてください。シャロームは、羞恥心がなく、罪悪感もないので、どんなに否定されても、否定そのものを無視してきます。そして、いつも、まともな説教が出来るつもりで、横柄な態度と、それをごまかす丁寧語で、コメントを入れて、丁寧語で、荒らしてくるかもしれません。
 
好意的に、また、肯定的に付き合うと、気づかぬうちに、シャロームと同じように、言葉についても、自分の理解にしがみつくようになり、ごまかしの世辞や嘘ばかり言うようになり、自らの知性と感性による理路や直感・直観が出来なくなり、人格が破壊されてゆくと思います。実際、シャロームの仲間は、似たような自己愛、自己中心、訂正不能という特徴を持っています。
 
信仰の相対性は、人間の罪性、つまり不完全性から、理解できることなのです。しかし、今の幸福を離れてしまいそうな気がするのか、信仰者同士のつきあいを優先してしまうのか、多くを考えることを避けて、理解の殻を閉ざしてしまう人が多いような気がします。
 
その極限が、楽山やシャロームなどの易坊類なのです。
 
現状維持というのは、新しいものを考えることさえ拒否してしまうならば、成長不能になることです。そこには、役に立たず傍迷惑な捏造境地の自己満足があるだけで、成長するための道はなくなります。自分納得の不変のエゴの境地を信仰?と呼ぶようになってしまいます。超常自認のシャロームが、その典型です。
 
絶対でないということは、あるところはダメであり、あるところは優れている、ということでもあります。そして、不変というものに固着していないからこそ、良き訪れと導きがあれば、成長するということでもあります。
 
 
悪しか考えないような者も現にいますが、多くの人間には良心があります。罪の性質だけでなく、良心という賜物も与えられて人は生まれてくるのです。
 
良心は、言葉で内容を条文のように説明するよりは、まるく、潤いと、温もりに満ちた心で、柔和、共感、思いやり、など、人間の、悲しみの共感と、愛と慈しみを育てます。
 
このことは、悪しきことを考えるときには、良心からの良い感情がなくなることから分かります。まるくないから、とがっており、乾燥して、傷つきやすく、傷つけやすく、癒しにくくなっており、冷たくなっていることを、自省できる人は、自分でも分かるでしょう。
 
絶対性というものを、人間が身につけようとすると、多く、カルトに見られるように、冷たく前進する軍隊のような同じ顔を向けるようになり、いかなる忠告も批判も聞かなくなり、結局、精神の活性が著しく損なわれて、単方向に突出し、良心があればブレーキがかかるようなことを、行動に移してしまう衝動に走らされてしまいます。
 
絶対性を身につけることが、人間には、いかに無理であるかを表しています。
 
人は、神という絶対の存在を覚え、恐れることによって、絶対性への欲望を捨てて、むしろ、人間味に溢れた相対的存在となることができます。それが、信仰者の敬虔であり、上の良心の性質を、より豊かに身につける準備となり出発点となるのです。
 
 
そういう相対的な人間のあり方をバカにしているのが、今は"名無しの猫かぶり"と名乗っているシャロームであり、その結果、絶対性に成り上がったシャロームは、この世で、いちばん醜い破壊人格のモデルとなってきました。
 
ごまかしに、バカ丁寧語を並べて、聖書語を並べて、いい気になっているようですが、シャローム自身だけが進行性の破壊に気づかないでいるのです。
 
こうなってしまうと、いつも、相手を下に見て、笑っており、何か言っても、殆ど理解できないがゆえに、屁とも思わないでいられるのです。ゆえに、自分は疲労せず、他者を疲労させるだけの存在となります。彼を、疲労物質と呼んだ所以であります。
 
さらに、関節の付き方が逆であるような、前後がおかしくなっているような、ガラクタの人形のような、屁理屈や詭弁をこしらえて、整えたと感じるようになり、豪語して、さらに、現実との乖離が進んで、病識や自覚が、ますます、なくなるという悪循環の暗黒の地獄谷を、この地上で、ヘラヘラ笑いながら、フラフラ歩むことになるのです。
 
これが、絶対性を身につけようとする者が、また、身につけたと思い込む者が、知らないあいだに、自らを破壊して、非人間となってゆくプロセスです。
 
自らの不完全性、つまり非絶対性・相対性を自覚しない者は、総てのことに適切に対処しているつもりの訂正不能な固着・執着だけになり、あらゆる選択において失敗が重なり、転げ落ちてゆき、しかも、それを、ことごとく、人のせいにしてゆきます。
 
そして、言うのです、神の平安のうちにあると。それは、無為と無視の停滞と沈殿に過ぎません。
 
宗教には反宗教が、信仰には反信仰が、キリストには反キリストが、悪魔性に、現れます。
 
総ての人が、不都合を、望ましい形で乗り越えるわけではなく、罪の性質が勝ってしまう場合があることを、聖書は語っています。そこを分けるのは、反省・修正機能の有無であります。
 
 
人間は、不完全で、不安定です。
 
しかし、その自覚があるからこそ、伸びしろがあり、成長可能なのです。
 
 
(2020年01月25日)
 
 
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  繰り返す厚顔無恥(2)
 
  「Rose Garden」コメのトラン。続き。
  http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5266733.html?1579698555#comment-12
  批判対象:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
卑怯な詭弁家シャロームは、性懲りもなく、また、手段を選ばず、私が音楽と英語のことを書いたら、それを、けなして、信仰も同じと言って、思い込み信仰のレッテルを、逆に、こちらに貼りつけてきました。
 

11. st5402さん こんにちは 名無しの猫かぶりです
 2020年01月22日 18:47

「歌は切っ掛けに過ぎなかったことになり、
とまどいながらですが、キリスト信仰の話をします。」
とのことですが、
 」
stさんの聖書理解は英詩の翻訳のように自分の思い込みによる読み込み理解のようですね。自分の目や心にかけているフィルターの色によって見るものすべてが色づいて見えるのと同じように、st5402さんのキリスト信仰の話も同じようですね。
 名無しの猫かぶり

 
(私のコメント)
12. st5402jp
 2020年01月22日 22:09
妄想解釈しか持たないあなたシャロームは、何を言っても嘘ということです。既にバレているのです。だから、こちらに向けてくるのです。どんどん、嫌がらせが、幼稚になってくるようです。
(私のコメント)
恐らく、シャロームは、普通の感性がなくて、歌を味わうことも出来ないのでしょう。彼が、普通の理路がなくて、聖書を読めないのと同じだと思います。
邪悪なフィルターを、逆に、自慢することになってしまうシャロームの醜態です。すっかり壊れています。
名前を書け。卑怯者の名無し。
 
 
私が英語の歌を題材にして記事を書けば、それを、シャロームは、思い込み、フィルター、と決めつけて、信仰の話も同じだと短絡しています。幼稚すぎて何の説得力もないのに、言い得たつもりになるのでしょう。全く根拠になっていないことを書いてくるのは、今に始まったことではありませんが、ひどい有り様です。
 
私は、確かに、音痴で調子っぱずれなので、歌は下手くそで、好きな歌は、いっぱいありますが、才能は無くて、無知だから、好みというフィルターもあるでしょう。しかし、そのことを、シャロームに言われる筋合いはないし、ましてや、信仰とリンクさせて、おとしめられる謂れは、何もないのです。
 
私は、このように、強がらず、音痴も、読書苦手~障害も、信仰者としても、弱みや欠点は、認めています。
 
シャロームは、いつも、見えている、分かっている、知っている、ちゃんとしている、という立場から、見下ろして、ふざけた書き方で侮辱してきます。神の目で見ないといけないみたいなことを書いたこともあります。こういうことが、逆に、シャロームの信仰が、真っ赤な偽ものであることの証拠となってきたことを、シャロームは、恐らく体質的に、自覚できないのです。
 
シャロームは、本音の敵意と侮辱の感情を秘めても、随所に、漏らしながら、世辞や丁寧語で書いてきます。それが、どんなに成り立たなくても、シャロームは、言い得たと満悦するような体質を持ってしまっているようです。
 
シャロームの思い込みは、フィルターどころではなく、人間離れと神がかり、という誇大的で、滅裂で、理路が発散してゆくような単方向しか持っていないシャロームのためだけの信条によるものです。
 
その根拠は、神の啓示と聖霊の導きを強調していましたが、それは、シャロームが、預言者かキリストか神またはその代行者という傲慢な自意識を持っていることに等しいわけで、妄想か大嘘以外の何ものでもありません。
 
 
前に書いた《シャロームの背教》を再度載せておきます。
記事「背教の繰り言」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12550447739.html
 

 《シャロームの背教》
 
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
  
さらに、シャロームの言には自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになります。
  
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神のほうを向いて、正直に罪を告白し祈ることです。
  
つまり、ここにおいて、シャロームの信仰が偽物であることは既に証明されています。
  
 (ローマ人への手紙、口語訳)2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
  (ローマ2:4、新約聖書)
  
聖句の、神が悔い改めに導く、とは、ゆえに、悔い改めよ、ということです。そうしないことは、神の慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじることだ、と言っています。
 
まさに、シャロームは、神を軽んじ、それだけでなく、真逆の信条と詭弁を豪語して、はばからなかったし、そのことを訂正してもいないのです。
 
以上は、理路が明白であり、共感も直観的に可能なのに、シャロームは、無視して、とぼけていますから、これから、シャロームの発言を"エヘヘ言語"と呼ぶことにします。
 
決して、シャロームを、キリスト者(クリスチャン)だなどと思わないでください。
シャロームは、キリスト教とキリスト信仰をネタにした詐欺師です。
 」
 
シャロームは、これだけ明らかになっても、まだ、自尊の意地だけで、弁明と反論の代わりに、嫌がらせだけを書いてくるのです。
 
シャロームの信仰?について考えるときには、キリスト教の教理に合っているかどうかよりも、彼の信条を多くの人が信じたなら、どういうことになるか、ということを考えています。
 
シャロームは、訂正不能の信条として、罪を認めず、悔い改めず、神に正直に告白することをしないのだから、それは、身勝手な自分信仰となり、彼は、偽っても悔いることなく、自分の妄想を、神の啓示と受け取っていることになります。
 
実際、シャロームは、平気で嘘を吐きますし、悪意の嫌がらせを向けますし、さらには、妄想に詭弁を付け加えて、自己正当化を言い張っているのです。
 
彼が、彼の言うところのキリスト者?そして元牧師?として受け容れられたら、良心とは正反対の社会悪が広まることは必須であります。そういうことにだけはならないように、批判を貼りつけてゆく必要があるのです。
 
批判しても、ネットでは、実名が不明で、さらに、HN変えれば、批判対象が誰か分からない、という欠点があります。まさに、シャロームは、そうやって逃げられるから、平気で書いてくるのでしょう。しかし、務めとして、私は、今できることをする、という思いで書いています。
 
 
(2020年01月24日)
 
 
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  現実と幻想
 
 
今回は、ちょいと哲学風味ですが、風味だけです・・。
 
この世界に存在する私たちは、
主観と客観に分けて物事を考えている。
そこに、直感と感情と思慮をもって、世界に対して何らかの判断をしている。
 
私たちは、感じることで、考えて、ときに、ひらめいて、その結果、さらに考えている。
そうして、個人の世界観を作っている。
 
しかし、その判断は、いずれも、五感という感覚をもとにしている。
 
時間も、空間も、総ての現象を、感覚で得られた経験から考えている。
 
ちゃんと測定して、結果が、いつも出ていると言っても、測定も結果も、結局、感覚である。
 
起こっていることは、起こっていると感覚していること。
 
感覚していることから、それを実体と見なしているのだ。その可能性までも。
 
時間は、記録と記憶により、空間は、再現性により、強化されている
と、無意識に、見なしている。
 
つまり、実体が存在する必要はないのである。
 
実体がなくても、実体を認識している。
 
必要なのは、共同幻想である。
 
共同幻想をさせている、何らかの摂理、何らかの存在があるのかもしれない。
いや、なくてはならない存在である。
 
それを、探ろうとするが、探る対象が、幻想であるなら、探りようがない、
という世界に住んでいる。
 
 
前に、1.ほぼ恒常的で、2.ほぼ秩序だっていて、3.ほぼ双方向であるような世界を感覚したら、私たちは、それを、実体のある世界だと認識する、というようなことを書いたことがある。個人における世界の成立条件である。
 
夢の世界では、気持ちよかったり、慌てたりする。しかし、夢は覚める。
病的な幻覚妄想の世界では、病者は支配されることもあるが、時間経過または薬物治療によって、変化し軽快する。
どちらも、秩序立っているとは言いがたく、再認識できるほど恒常的とまでは言えない。
 
現実の世界では、ほぼ、という曖昧さにおいて、上の3条件を満たしている。
ということは、この世界では、
 
「現実は、3条件を満たす幻想であることと、同値である」(命題Aとする)
 
が成り立つ。
 
しかし、そのために、一つ条件を加える必要がある。
それは、個々人の見る幻想が、共有されていること。
 
個人の存在だけでは、3条件の表れはバラバラになり、命題Aは共有されない。
 
では、幻想の共有を成り立たせているのは、誰か。
 
キリスト教的には、神ということになるのだろうか。
 
 
現実世界は幻想と同値であるなら、感覚している世界の実在は証明されない。感覚が担保しているだけである。感覚は不安定になりうるので、世界の実在は、不安定になりうる。
 
私たちは、ひょっとしたら無形の、感覚と思考の主体に過ぎないのかもしれない。
 
同値ということは、現実は幻想だ、ということであり、
また同時に、幻想は現実だ、ということでもある。
 
また、現実が幻想であるとしても、同値であることの性質として、見えるものは比較的はっきりしていて、かつ、痛みを感じることも、痛みが返ってくることもあるという世界である。
 
だから、幻想だから何をしてもいい、ということにはならず、また、現実だから決定的だ、ということにもならず、結局、価値基準をどこに置くかということになる。生も死も、人間は、相対的である。
 
神が、人に幻想を見せている、と決めつける必要はない。
同値だからである。幻想=現実なのだ。それを実世界として感覚し体験している。
 
キリスト信仰的には、さらに深入りして理屈を考える必要はない。同値だからである。
 
いったい、現実と同値である幻想を、幻想だからと否定する必要も根拠もない。
 
信仰者にとって、現実=幻想、つまり、同値というのは、どちらにせよ、人の言葉において呼び名が違うというだけである。
 
私たち人間は、感覚を通してのみ、世界(現実または幻想)を体験している。
 
総ては、神の懐で踊っており、神が造り、神が壊すものであり、人は、それに対して、降伏と従順の志だけで、同伴してくださり、救われるというのである。
 
人の言葉と思考の上で、現実であれ、幻想であれ、神から与えられるところの、私たちの、生きる場所も、遊ぶ時間も場所も、変わりはしない。
 
神という絶対の良心が、現実という幻想を見せているなら、むしろ、喜ぶべきかもしれない。
 
生も、そして死も、人間は、人生も、絶対の神の前に、相対的である。
 
死後の世界は知りようもないが、死と孤独の恐怖は、絶対の神の前に、相対化される。
 
信仰者は、いつも、神の前で、生きているのである。
 
 
むしろ、神の絶対には及ばなくても、神の似姿に造られた私たちは、特に信仰者は、良心の成長を信仰に委ねているのだ。そこに、欠くことの出来ない必要で大切なものはそろっていて、私たちが訪れるのを待っていると言えるだろう。
 
そのことが、キリスト信仰が知能や形式を要求しない根拠であり、信仰と知能、信仰と特殊な才能、信仰と特別の感性、信仰と目に見える美形が、相関しないことを表している。即ち、万民救済の根拠でもある。
 
このことは、神のもとで、総ての人間は平等、という根拠でもある。
 
 
大きく包みながら、ご自身を、軽々に見せることは、なさらない神であります。
 
創造と摂理を支配し、幻想か実在かを問わず、人間に、豊かな経験を与え、ときに耐えがたくて嘆いても、常に再生と敬虔へと帰る道を用意しておられる神に大きく包まれる、という、アガペー(神の愛)を信じる縁に恵まれた人々は、共に生きる地上で、孤独という崖っぷちを過ごすときにも、同伴を乞うことを、祈りのうちに、忘れないだろう。
 
 
※※
傍迷惑も省みず、軽々にしゃしゃり出てきて、神を、言葉だけ引き寄せて、おのが身の飾りとしたり、おのれの客観性や絶対性に思い上がる者たちだけが、おのれのみすぼらしい偏在に気づかず、妄想の実在を信じ込んで、一途に信仰も愛も希望も拒んで、無為の現実を平安と呼んで、捏造した中立や救済を吹聴して、あらゆる有意義な活動を、見過ごしたり、捨てたり、邪魔したりしていることは、神に敵対する反信仰の役割が、必然のうちに自己破壊に至ることを示して、戒めとなっている悲劇といえば悲劇なのです。
 
 
(2020年01月23日、同日一部修正)
 
 
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  繰り返す厚顔無恥
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5266733.html#comments
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
"名無し"からの荒らしコメントです。私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。
 
宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 

1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。

 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白して、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。
 
あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。
 

人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。

 
血潮に罪贖われ、などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。
 

 使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。

 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も悔い改めも、あなたが受け取っていないことの証明です。
 

初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。

 
これも、前に、あなたシャロームが、言ったこと。ここにしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、じぶんもよい、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの醜さ全開。
 

使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?

 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 

「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり

 
ふざけたHNと態度で、聖書とキリストを語るな。
 
あなたシャロームは、聖書に、聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。
 
あなたは、あなた自身の惨状にさえ、気づかなくなっています。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、一切は無駄なのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
(ネットより)
御言葉を通して主と人格的な交わりを持つ事はもっと重要です。
http://shinjuku-shalom.com/archives/4227
新宿シャローム教会・・同じシャロームでも、えらい違い。
 
私たち人間は、人格的な交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のものです。
 
したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。
 
あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけを表してきたのです。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。
 
あなたシャロームは、福音に聞き従わない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているから、パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。
 
あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。
 
恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。
 
 
(2020年01月22日)
 
 
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