ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年02月

今日は、一応、詩のようなもの修正アップ。
 
 
  渇き
 
 
カラコロチリンと
グラスの中の氷が奏でるように
乾ききった手に涙を運んで
顔も見ないままに
私たちは狭い風穴を共にした
 
噛み合わないシナプスで
血液の味を免疫に高めるのに
静止画の乾いた表面で
動画のピクセルを節約する拙筆が
支離を閉じようと短絡し
取り残された玩具の
ヒョレアの座標を集めては
籠る狂気の微睡む限界を超えようと
やたら草色や肉色を集めようとした
 
命の懐に絆を確かめようと
幾つもの唖然と沈黙を
塗っては乾かしてみるけれども
ほどよく設えた春の夜に
少なくともそう呼んだ時間に
スリットを抜ける光の誤差を
罅割れそうな器に
語らうように
魂の欠片をよそっていた
 
ここだけの反乱は抵抗にもなり得ないで
青白い光子の掠め去る暗闇に
ひとつひとつの屈折を
グラスの濡れた咽喉の非対称が描くものに
私たちは息を潜めるしかない
 
 
(2016年03月21日、同日一部修正)
(2020年02月29日、さらに一部修正)
 
奏でる(かなでる)
風穴(かざあな、ふうけつ)
玩具(がんぐ、おもちゃ)
ヒョレア=舞踏病
籠る(こもる)
微睡む(まどろむ)
懐(ふところ)
絆(きずな)
設える(しつらえる)
罅割れる(ひびわれる)
欠片(かけら)
掠める(かすめる)
咽喉(のど、いんこう)
潜める(ひそめる)
 
 
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  分からないと言える勇気
 
 
B:私。
キリストの教えについて、分かることと分からないことがあります。
ずっと分からなかったが、あるとき分かったということもあります。
キリストの教えを理解することは、信仰の成長に伴います。
分からなければと、思い込もうとしたり、決めつけたりしないでください。
 
Q:「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
  (マタイ5:27より、口語訳)
  「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
  (同、新共同訳)
  
A:情欲をいだいてはいけない。
 
B:情欲をいだかなければ人類は滅亡する。
 
A:子供を造るためにだけ許される。
 
B:さあ子作りを始るぞ・・だけでセックスする男女はいない。
   いたとすれば、偽善者の嘘か、気色悪い。
 
A:他人の妻なら、できるだろう。
 
B:情欲は、湧いてくるものであって、湧かないようにすることは出来ない。
 
A:だから、できるだけ心掛けようということ。
 
B:そんな教えなら、ありきたりの道徳と同じ安っぽさだ。
 
A:無意味だというのか。キリストの教えを。
 
B:守れという教えではないということだ。
 
A:教えは守るためにあるんじゃないのか。
  
B:この教えは、守れない私たちのためにあると思う。そして、できるだけ・・みたいな甘いものではない。信仰の根幹にかかわることだ。
 
B:恐らく、神のように完全になるには?と問う者が多かったゆえに、キリストは、守れないことを承知の上で、完全になるため?の教えを説いた。これは、到底守れないことの例示である。つまり、完全になることが信仰ではないという教えだ。
 
A2:ゆえに、信仰は、守れない不完全な人間である罪人が救われるための信仰である。したがって、この教えは、結局、罪なき人は一人もいない、ゆえに、祈って、赦しを乞いなさい、という教えである。他に解釈のしようがない。
 
 
偽善者は、守れと言って、守っていない自分を隠して偽ります。
 
こまごまと、ああせよ、こうせよ、こうするな、などを考えるのは、行為義認に走りやすく、また、傲慢な偽善者の自慢話のネタになるだけでしょう。
 
神の前に、不完全で、罪深い自分を、正直に告白することが、信仰です。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
 
聖書には、分かりにくいところが、いっぱいあります。そのような場合に、気安く分かったと言わないでください。聖書は、人間存在のあり方について、奥が深いのです。
 
信仰は、誰でも理解できるように、上の解釈が可能なように、すぐれて、シンプルでもありますが、たとえ、分かったつもりでも、もっと深い話~解釈によって、信仰を新しくすることが必要な場合があります。自分の理解を固定しないことが大切です。
 
なんとなく言葉の辻褄が合った気がして、そうですね・・と言うのと、分かる、すなわち、理解する、ということは別です。分かったと思ったときに、解放感を伴うのが、理解です。伴わないのが辻褄合わせです。
 
全能の神と、不完全な人の、決定的な違いを弁えることが信仰です。キリストは、それを伝えて、人々を救う使命をもって来られました。
 
信仰が、守れという教えならば、教条主義となり、欺瞞によって、守っていると言って、守っていない自分を隠して、パリサイ人のようになるでしょう。
 
人が守れないことを承知の上で、人が完全でないことを承知の上で、そのような人々を救いに与(あずか)らせる福音を宣べ伝えるために、キリストは来られたのです。
 
中途半端に納得して頷いて、分かったことにしないでください。知識の優れた人も、いちばん大事なことを分かっていないかもしれません。信仰は、知識自慢ではありません。
 
私たちは、神の、計画も、意志も、教えも、行ないも、心も、分かるから信じるのではありません。分からないほど不完全であるゆえに、神の憐れみによってのみ救われるのです。
 
ですから、肯定でもなく、否定でもなく、分からないことは、分からない箱に入れて、保留にしてください。分からないことを分かったことにしないでください。また、分かっても、それに従って行動するときに、神の意志として絶対化しないでください。
 
分かっても、分からなくても、よりよい理解を求めるために、再考と反省の余地を残すこと、これは、人間そして信仰者が、学習し成長するための務めとして、とても大事なことです。
 
信仰において、いちばん大事なことは、分かることではなく、分からないことを分からないと言える勇気なのです。それゆえに、キリストの荷は軽い、つまり、キリストは、人の荷を軽くする、人を解放する、ということになるのでしょう。
 
 
(2020年02月28日、同日一部修正)
 
 
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  アドラー教について(21)
 
  2019-02-15
 【永久保存版】陰口、悪口、嫌がらせへの最強の対処策
 アドラー心理学サロンです。
https://www.adlersalon.com/entry/2019/02/15/%E3%80%90%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88%E3%80%91%E9%99%B0%E5%8F%A3%E3%80%81%E6%82%AA%E5%8F%A3%E3%80%81%E5%AB%8C%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%87%A6
 
 
単方向の豪語が目立っています。よほど人物に恵まれなかったのだろうかと思いますが、ときに恨みを込めているような書き方は、解説ではなく、煽りたいという気持ちでしょうか。
 
人を傷つけたら、自分に返ってくるわけですが、返ってきたものを気にしないために、課題の分離が悪用されるのではないかと懸念しています。
 
あなたの陰口や悪口を言ったり、あなたに嫌がらせをする人たちはどこにでも、どんな場所でも多かれ少なかれ必ず存在します。
あなたのことをあら探ししては、一方的に嫌い、見下そうとしてくる人たちのことなんて気にかける価値すらありません。
とにかく無視して、相手にしないことです。
 
よほど、ひどい人物を想定しているようですが、このように言うことが、気に入らないことを無視する単方向の習性につながる可能性を考えていないことが不思議です。つまりは、強く言い、豪語して、支持者を増やすことしか考えていないからではないかと思われます。
 
感情的になり、「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」を目的として、あなたを傷付けることばかり考えているような人たちと分かり合おうとしたり、見返してやろうと何て決して思う必要はありません。
 
傷つけることばかり考えているような人たちに対して、関わり続けて、見返してやろうなどと思う人がいるんでしょうか。
 
そんな人たちとは、そもそも理性的な会話が成立しませんし、あなたが気分を害して自分の時間を無駄にするだけです。
 
理性的な会話が成立しない相手に対しては、その旨を、根拠とともに伝えるべきです。そして、相手が納得することはないので、こちらがダメージを受けることのないように、相手を何とかしようなどとは思わないで、避難することを考えるべきです。
 
アドラー心理学では、他者との相互理解を勧めている一面はありますが、アドラー心理学の目的論から考えれば、「あなたを傷付ける」ことを目的とした人間と関わること自体が無駄な時間と労力となります。
 
課題の分離によって、自分の課題以外を無視するのであれば、相互理解は成り立たないでしょう。言葉だけ、深めるということも空しさが表れています。傷つけてくるだけの相手と関わることは、無駄などということではなく、危険であります。
 
自分を嫌い、陰口や悪口を言ったり、嫌がらせをしてくるような人たちの自分を見る目を変えさせて、理解し合って仲良くなりたい人は少数派だと思います。
むしろ、距離を取って関わらないようにするくらいでいいんですよ!
 
当たり前のことです。誰でも、自分を守る権利があります。
 
そんな自分を嫌い、自分のあら探しをしては、陰口と悪口ばかり言って、自分を傷付けようとばかりしてくるなら、そんな人たち嫌い返しましょう。
 
嫌い返すのは、復讐に近いことですから、相手をまだ意識することになります。相手と関わらないこととは矛盾するでしょう。
 
ただ、嫌うことにも労力が入りますので、ひたすら無視をして相手にすることすら止めた方が賢明でしょう。
 
ひたすら無視をして、ひたすら嫌われ、ひたすら機械返すことを繰り返していると、危ないことになる可能性があると考えないのでしょうか。感情が既に影響を受けているからです。
 
嫌い返すのではなく、相手が近くにいても、相手に影響を受けないようにすることです。傷つけてくるばかりの人に対しては、そうするしか身を守る方法はないと考えるべきなのです。
 
傷つけるだけの人に対しては、影響を受けない、そして、こちらの言ったことを、相手が聞くことを、もはや期待しないという距離を置くべきなのです。
 
見返そうとして、努力して自分の価値を知らしめようとしたり、そうした自分を嫌う人たちが思わず尊敬してしまうような人間になろうとするは必要だってありません。
 
ブログ主は、ちょっと、しつこく言っています。どんなときでも、身の安全を図ることと、心が傷つくのを防ぐことは、当然の権利なのです。だから、ことさら言うまでもないことなのです。
 
最初からそんな人たち、相手にしたりする価値なんてありませんので、自分を高めてそうした人たちの視界にも入らず、視界にも入らない、同じ空気すら吸う必要の無いところまで自分の価値を高めて別次元の世界に行けるようにしてしまうことをおすすめします。
 
いつどこが、傷つけるだけの人と判断する最初なのか、不明瞭です。
 
空気さえ共にしない、という、誇張した言い方ですが、別次元とかではなく、ただシンプルに、脅威から身を守るということです。
 
アドラー心理学には「承認欲求の否定」という考え方があり、強い承認欲求を持つと自分の本来やりたいこともできず、誰かに認めてもらうことを目的として他人の人生を送ることになってしまうという考え方があります。
 
承認欲求を完全に捨ててしまうことは、他者のために、どうしたらよいか、という思いやりの生き方を捨てることにつながるでしょう。上のような、ひどい人の場合に身を守ることが大切であり、一般的に一律に成り立つことではありません。
 
あなたは、自分を嫌い、陰口や悪口を言ってきては、嫌がらせしてきて、自分を傷付けようとしてくるような人たちに認められるように生きて、自分の人生を浪費したいのですか?
そんな人は恐らくいないと思います。
 
嫌がらせだけをしてくる人は、確かにいるのですが、こちらが本気にならないことが大切です。相手は、こちらが本気になって慌て出すのを待っているからです。
 
もちろん、見返してやる!と思って努力して成長できることは素晴らしいことです。
ただ、それでは折角のあなたの人生が、あなたを嫌う人たちによって変えられてしまう可能性があります。
アドラー心理学の課題の分離の考え方で説明しますと、あなたのことをどう思い、嫌うか嫌わないかは他人の課題であり、あなたの課題では無いのです。
 
相手の課題は、自分の課題の結果としても起こりうるわけです。人と人は、生きている限り、相互作用があり、相手の、相手の、と言うばかりで、関係を無視すると、自己中の無反省になります。関係の中で、緊急非難も含めて、いかに、自立するかという方向で考えるべきでしょう。
 
売り言葉に買い言葉、になると、苦々しい感情が残ります。
https://biz.trans-suite.jp/19858
 
つまり、売り言葉は、買い言葉に影響を及ぼすということです。いかなる時も、感情が勝ってしまうと、まともな結果は得られません。課題の分離は、分離したものを自覚することであって、分離させることではありません。だから、豪語は、必要ないのです。
 
自分の課題かどうかは、相手にもよります。良心的な人には思いやりを感じますから、自分の課題として、嫌われるようなことはしないでしょう。その場合、自分の課題に、相手のことが含まれることもあります。自分の課題と相手の課題、そんなにいつも明確に分けられるとは思えません。冷たく切り離す人にならないように注意してください。
 
一種類の言葉で、単方向の言葉で、総てを言い得るということはないのです。
 
ひどい人に対しては、見返してやる、などという思いも、捨てたほうがよいのですが、あえて相手に言うのなら、不快であること、問題にしていないことを、何か言ってくるたびに、返すだけでよいでしょう。
 
ひどいのになると、いつも自分に注目しているような言い方をしますし、いつも上から見下ろしてきますし、さらには、自分が言われそうなことをこちらに向けてきます。
 
例えば、依存、投影、自他未文化、など熟語を分かりもせずに当てはめたり、平気で、事実のでっち上げ、平気で嘘を、こちらに向けてくることもあります。ここに至ると、こちらに向けた悪い言葉を広めて、悪い風評を期待しているだけになります。
 
人を傷つけたら、自分に返ってくるわけですが、返ってきたものを気にしないために、課題の分離が悪用されるのではないかと懸念しています。
 
他人の課題に介入して、相手を自分のこと嫌わないようにしようとすること自体が本質的には不可能であり、あなたが余計な悩みを抱える結果となってしまうかもしれません。
 
前にも書いていた同じような課題の分離と介入という言い方ですが、だいたい、常識として、弁える上においては、特別の言葉は必要ないと思います。相手にもよるということを言い分けていないのは、不備と言うべきでしょう。感情的というか、・・言葉上、やさしくなったり、喧嘩腰になったりしている・・
 
それならば、このアドラー心理学の課題の分離の考え方をもとに、アドラーは他人の課題にも介入すべきではなく、自分の課題に他人を介入すべきではないとしておりますので、あなたのことを嫌い、陰口や悪口、嫌がらせを受けても、そんな人たちに自分の課題への介入は許さない!と考える方が良いと思われます。
 
自分の課題には、しばしば相手への思いやりが含まれるのであって、その場合、介入するというのとは違うし、また、介入させないぞと身構える必要もないのです。
 
依存傾向のある人には、自他未分化の人が多いわけですが、介入させないぞとばかり自立を過剰に意識して、課題の分離という言葉にしがみついていると、分離が防衛機制となって、人を無視して斬る方向に向きやすくなって、冷たい、または、怒りっぽい人になる可能性があります。
 
言葉に、こだわり、しがみつくことを、教条主義と言いますが、言葉から、乾燥した言葉の理屈をひねり出しては、豪語する、そして、同じことを何度も言う、という、例えばカルトなどに共通した特徴になりやすいでしょう。
 
基本的に、他人のあら探しをしては、陰口や悪口を言いふらしたり、嫌がらせをするような人たちは劣等感に満ち溢れており、他人を見下して惨めな自分たちの傷を舐め合い、劣等感を穴埋めしようとしているような人たちです。
つまり、永遠に成長することのない人たちであり、あなたにとってその存在を認識すること次第が無駄どころか害にしかならないのです。
 
また、恨みを晴らすかのような、恨み返しの言葉のようです。他者を、そのように見なすことが、既に、相手の影響を受け、相手に対して身構えていることになるでしょう。
 
何でもかんでも他人のせいにしては、自分は悪くないと吠え、他人に対して「こうあって欲しい」という自分の希望ばかり押し付ける甘えん坊でもあります。
そんな人たちに、あなたは認めてもらう意義や価値があると思いますか?
 
ここは、少しニュアンスが変わっているような気がします。甘えん坊と言えるくらいであれば、敵対意識も、それほど必要ないのではないかと思います。甘えん坊に認めてもらう意義や価値を考えるのでしょうか。甘えん坊という言葉で表されるのは、わがままな迷惑であり、攻撃性ではないと思う。
 
万難を排して逃げて遠ざかって避けるべき害毒は、自己中の人です。どんなに丁寧語で近づいてきても、反省しないし、罪悪感を感じないし、訂正しないし、言うには言うが聞かない、という、サイコパスにつながりそうな人格です。
 
むしろ、こうした人たちは、どんな形であれあなたが反応してしまうと、自分たちには反応されるだけの価値があるんだ!と実感してしまい、問題行動を繰り返させてしまい、ますます惨めな状態に陥って出てこれなくなってしまいます。
この人たちの為にも、相手にせず一切反べきではないのです。
 
甘えん坊には、冷たく、無関心で、無視をもって処することを言っているのでしょうか。甘えん坊の程度にもよるでしょう。対象の様態が不明確な書き方が多いようです。
 
ほとんどの人たちは、そんな人たちに認めてもらいたくもなければ、そんな人たちの「こうあって欲しい」という希望を叶えてあげたくもないことでしょう。
 
それでいいのではないでしょうか。どうしても、アドラー教の言葉を使う必要があるでしょうか。考えてみると、既に、アドラー教以外の言葉で、対応のノウハウは、考えられ、語られているのではないかと思います。アドラー教は、単純化したゆえに、多様性を見失っていると思います。
 
自分を嫌い、見下してくる人たちに対しては、「見返してやる」と思ってその人たちがすごいと思う存在になろうとしてあげる必要性すらなく、とにかくそうした人たちから距離を取れるように、関わる必要が無くなる方向で自分のやりたいことに打ち込み、自分をより高みに導いていくことで、そんな人たちと同じ空気を吸う必要も、そんな人たちを視界にも入れなくて済み、やりたいこともできる満たされた自分の人生を、より幸せに生きれるようになります。
 
自分を嫌い、見下してくる人たちに対して、見返してやる、などと思うことは少ないと思います。自然体を思うなら、付き合う必要がないなら付き合わず、自分のテーマに深く関わっているなら、もうしばらく付き合ってみる、などという対処ができるのではないでしょうか。話を、高尚な言葉らしく見えるもので、こみいった、めんどくさいものにする必要はないと思います。
 
結論としましては、自分の陰口や悪口を言っては嫌がらせするような人たちへの対処方法は、ただ、ひたすらに無視をして相手にせず、自分の課題に介入して邪魔してこようものなら、徹底的に邪魔させないように使えるもの、援助してくれる人たちに頼ってでも拒否してしまいましょう。
 
好ましくない相手を、陰口、悪口、嫌がらせ、そして、甘えん坊、などと表して、程度など多様であるのに、ひたすら無視して邪魔させないという鉄則のようなもので一律に処してよいような書き方をすれば、聞く人は、誤解や曲解で、極端になったり、甘くなったりするでしょう。
 
分け方と処し方が、柔軟になるように表すべきですが、ブログ主は、アドラー教の言葉を無理して当てはめて、境界不明瞭な教訓になっているようです。このことは、相手についての判断において、正確さを欠くことになり、受け取る側の判断の強弱が表れる余地があり、強から極端な短絡が、弱から徒労が生まれそうな気がします。
 
 
ちなみに、自己中になると、しかも、それを信条にしてしまうと、気に入らないことや不都合を無視することになります。
 
そうなると、気に入らないこと受けて止めてどう処理するかという学習をしないわけですから、心の成長がなくなってゆくのです。だから、いつまで経っても、安っぽくて浅薄な理路しか持ち得ない人格になるでしょう。
 
一つの、あるいは、一方向の、言葉、心構え、教訓、説教、などによって、心の安定が、一生担保されることは無いと思います。人間は、学習し成長する生きものだから。
 
心の安定や平安と、刺激を廃した安穏を、混同しないでください。
 
刺激の無視による安穏は、刺激がないので、つながるものがありません。
 
心の平安は、次の課題への意欲、すなわち、生きる力につながります。
 
 
(2020年02月27日)
 
 
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  アドラー教について(20)
 
  2019-11-11
 【読まなきゃ損❗️】人を傷付けたら、必ず自分に返ってきます❗️
 アドラー心理学サロンです。
 https://www.adlersalon.com/entry/2019/11/11/233008
 
 
説教というより、断定や豪語による言い張りの感が強くなっています。勢いが強く、その分、理路が乱れやすく、ときに、有頂天気分の勢い発言もあるようです。
 
人の悪口を言ったり、嫉妬したり、けなしたり、責めたりする虚しくて浅ましいことを考えること自体が、その対象となる相手よりも自分自身を強く傷付けています。
「悪口を言ったり、他人を傷付けたり、陥れるような人には必ずその報いがある」
こんな話を、あなたも一度や二度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
まさにその通りなのです。
 
人を無視したり、その時の冷たい言葉や態度にも、似たようなことが起こりえます。無視~軽視されたと感じたことがあるなら、その時のことを思い出してみるといいでしょう。
 
青臭い正義を振りかざすつもりも、非現実的な道徳的、宗教的な主張をするつもりも一切ありませんが、心理学的に実証されている事実なのです。
なぜかと言いますと、自分の思考や行動、言動は、望むと望まざるとに関わらず、自分の潜在意識に深くインプットされていくからです。
 
無視したという記憶も、潜在意識の中にインプットされてゆきます。無視したから忘れたつもりで、楽になったと一時は思っても、何かの切っ掛けで、その捻じれた様子が表れることがあります。つまり、あらゆる心の無理は、貯えられ、ときに、何らかの病的状態を招きうるということです。それは、情緒や思慮のゆがみとして表れてくることもあるでしょう。自分は気づかず、他者だけが感じるという事態ならば、かなり重症です。
 
気に入らない刺激や情報を無視して、学ぶことがなければ、学習結果が表れず、同じような無視を続けなければいけなくなり、しかも、その無理に気づいていないと、あるとき、修復されなかった傷として、あるいは、痼りとして、時を経て、新たな不都合を生むかもしれません。
 
潜在意識というのは、無意識的に自分の行動に影響を与えて自分という存在を作り上げている意識のことであり、自分が自覚している顕在意識とは区別されます。
先ずは、潜在意識と顕在意識の違いについて紹介させていただます。
潜在意識は無意識と同義語で、生命を維持する活動である呼吸や食事、睡眠などの習慣は潜在意識レベルで行われている活動となります。
 
(ネットより)
あなたの人生を大きく左右する潜在意識(無意識とも言います)。
https://1happy.jp/senzai.html
無意識(むいしき、独: das Unbewusste、英: unconscious[1])とは、意識を失っている状態(ふつうの心理学や精神医学での用法)、または精神分析学を創始したジークムント・フロイトの発見に始まる心的過程のうち自我では把握できない(意識できない)領域を言う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98
 
潜在意識(無意識)は自覚されない心的過程を意味します。
 
呼吸などの生命活動は、ただの無自覚の生理現象であり、心的作用があるわけでもないので、潜在意識とは言わないのではないでしょうか。
 
顕在意識は自分で自覚ができている意識のことを表しており、「今日は早めに寝よう!」などと意識して行う活動は顕在意識によるものです。
アドラー心理学では、無意識と意識を包括する全体としての"私"を取り扱うので、潜在意識の話をするのは少し変なのですが(笑) 大切なお話ですので潜在意識の機能面については解説をさせて頂きました。
 
潜在意識は、潜在しているのです。そう簡単に説明できるものではありません。そういうところでさえ、言葉を並べて、説明したつもりになり、解決したつもりになるのは、いっそう危険です。
 
あるとき、言いたいことを言って、あとはあなたの課題ですと、去って、放っておく人になるかもしれません。それで、お気楽に生きているつもりでも、潜在意識のゆがみは、心を、少しずつゆがめてゆく可能性があります。しかも、ゆがみは、なかなか自覚されにくい性質を持っています。そして、言われたほう、無視されたほうの心は、もっと深刻になりえます。
 
聞かなければ、楽になったような気がするでしょう。けれど、学習がなければ、成長しないために、自己中に気づかず、自己中を返されて初めて気づくことになり、それは、相当な心の病巣となる可能性があります。
 
言い放って終わり、そして、何も人の言うことを聞かないでいる自分に気づくことになるかもしれません。あるいは、そういう人だと見なされて、必要以上に、逆に無視されてゆくかもしれず、知らないうちに、信頼されなくなっているかもしれません。
 
他者に貢献するし気配りもするから大丈夫と言うのは、自分の基準ですから、貢献を受ける側とは異なる場合もあるでしょう。
 
言動は、注意や気配りを怠ると、常に、その言葉や行為のみならず、それ以上に、その心、その人に、いずれ返ってくると考えたほうがよいのです。
 
無視して、気が楽になるのは、刺激のない所に自閉して逃避しているに過ぎないかもしれないのです。
 
無意識的に当たり前のように行なっている生命活動を司る潜在意識は、前述の通り普段話している言葉や日常生活レベルでやっていること、ぼんやりと少しでも考えることに非常に敏感に感化されてしまいます。
 
敏感というより、不条理に感化されて、心全体に悪影響を与えてしまう恐れすらあります。
 
例えば、いじめをしている学生がいたとして、その人達は暴力を振るったり、人の嫌がることをしたりとネガティブなことばかりを考えては、積極的に行動に移しています。
こうした人達は、相手よりも自分自身を傷付けている可能性がかなり高いのです。
なぜなら、潜在意識は暴言を吐いた時の言葉の主語や、暴力を振るった加害者と被害者を区別できないからです。
つまり、知らず知らずのうちに、他人に八つ当たりをして憂さ晴らしをしているように見えて、自分の自尊心を痛め付けては潜在意識に「自分の愚かさ、惨めさ」を大量にインプットしているからです。
 
加害者と被害者を区別できないのではなく、加害者であることに、顕在意識が反応しない分、潜在意識が溜めこむということでしょう。知らず知らず、事態が悪化してゆくのですが、気づきにくくなり、決定的になってしまう可能性ということです。被害だけでなく、加害と加害のもたらすものも、ストレスになってゆきます。ストレスの多くは、気づきにくいものです。
 
他者を、気に入らないからと無視する習性を身につけてしまうと、いつのまにか、自己中になり、無視というのが、対象のある心的作用となり、加害者に起こるのと同じような事態の悪化を招くかもしれません。
 
刺激がなければ楽なようでも、その分、心が揺さぶられなくなり、月並みな理路を辿るほうに向かい、感動する言葉を求めなくなりそうです。
 
他人から言われたことは、自分には影響はあっても最終的にどう思われようと、何を言われようと、どんな気持ちでどんな行動を取るのかは自分で決めることができます。
 
おかしいですね。行動の決定のうち、意識されない原因に基づくことは、その段階では、自分で決めることができるとは言えません。何故なら、潜在意識は無意識の世界だからです。
 
さらに、最終的にどう思われるかということは、一生に影響を与える可能性があります。人間という存在を、ぞんざいな言葉で扱うことのリスクが、表れている文章です。
 
しかし、自分でやったことは、自分の生命活動を司る程に強烈なエネルギーである潜在意識によって、ネガティブな思考、行動、言動をひたすらに引き起こしては、同じ部類の人種を引き寄せてしまうのです。
つまり、すべては科学的に自分に返ってきてしまうのです!
断言します!
 
上に書いたように、科学的に、潜在意識の理解が、ぞんざいです。
 
今、やっていることが、そういう結果に結び付く可能性も考えるべきでしょう。引き寄せるのは、悪い仲間だけでなく、怖い敵であるかもしれないのです。・・断言するための言葉についての考察の甘さが表れている・・
 
いじめや嫌がらせをするような人達は、今後ますますネガティブさに磨きをかけて、まともな人間と関わることができないまま、落ちぶれ同士で傷を舐め合うだけの人生を送ることになります。
 
・・ことになります・・と、まるで呪いのような決めつけ表現になっています。個人的感情が丸出しです。教えるよりも、言い放って豪語したい情動と欲求の表れでしょうか。
 
どこかで反省して、「他人のせいにしていないで自分のことは自分でやろう。自分が傷付けた人達には深く陳謝し、勇気を持って自分の人生を生きよう!」とまで思えないとまともな人生は送れません。
 
一方で、気に入らないことを無視することは、反省をしなくなってしまう恐れがあると思います。
 
人の悪口を言ったり、他人に嫉妬してあることないことデマを広めては嫌がらせをしたり、他人のあら探しをしては、欠点を見つけ出してグチグチと文句を付けるような人に幸せな人は1人たりともいません!
 
そういう見せかけの幸いに酔い痴れる者は、確かにいて、自分では、平安に満たされていると言っていました。そこから、そういう者は、平気で嘘を吐くのです。さかんに世辞を言うこともありますが、そういう者の基本的な感情は、あざ笑いです。理路はなく、自己中であり、かつ、自分が上、他者が下、という訂正不能の見下ろす姿勢が基本となっています。
 
そういえ人達は調子に乗っているように見えるだけで、一時の落ちぶれ同士の馴れ合いで自分を安心させているだけ。
 
カルトには、そういう人が多いと思います。現状に不満、他者に軽蔑、社会に怨恨、というものが、鬱積している者たちでしょう。
 
言わば、他人を傷付けることは自分の心のリストカットのようなものですね。麻薬にも近い危険な行為なのです。
 
他害と自傷を混同するべきではありません。しかし、両方の場合もあり、心が棘(とげ)だらけになってゆきます。
 
それを防ぐために、世事と世辞だけを学んで、あとは気に入らないことを無視するようにしても、闇が深くなるだけなのです。
 
反省するべきなのに、反省だけはしない人として、むしろ、そういう人から逃れるために、もはや、関わらないこと以外にはなくなってゆきます。
 
悪口を言うような人、悪口仲間同士でも信頼し合えていません。「次は自分の番かな?…怖いからもっと弱そうな奴の悪口を自分から言っておこう!」といった具体で永遠に落ち着けることはありません。
 
「次は自分の番かな?…怖いからもっと弱そうな奴の悪口を自分から言っておこう!」・・ブログ主は、心理劇でも志しているのでしょうか、どういう芝居の台詞の脚本なのでしょう。
 
仲間同士でも信頼しあえていないなら、その人の行く末は、だいたい決まってきますが、権威的に従えている、または、仲間に対してだけは余裕を見せている、という段階は、有害で厄介なのです。
 
幸せに満たされた人生を生きている人に、嫌いな人に執着して暴言を吐いたり、嫉妬するような人は1人もいません!
 
そりゃ、いないでしょう。自覚的に、幸せなのですから。
 
ただ、幸せのつもりでいても、実際は、自己中の自己満足だけの人もいて、とても傍迷惑になることがあります。
 
普段から、自分を大切にして自分の思う悪いことはせず、自分が良いと思うことをしよう。
そうすればあなたは自分の潜在意識を豊かに保つことができて、どんな逆境にも挫けない勇気を得ることができ、自尊心を高く保って満たされない思いをすることはありません。
 
自分の思う良いことが本当の良いこととは限らない、という、内省が出来ない人は、自尊心だけ高くて、被害者意識が強く、言動において、とても傍迷惑になります。
 
常に自分の思考、言葉、行動はポジティブになっているところを想像するだけで、何だか幸せな気分になりませんか?
この状態になれれば、幸せで楽しく、自分の意志で前向きに人生を生きる人達の縁にも恵まれます。
自分の潜在意識を裕福にしてあげよう!
 
ポジティブは、無反省とは違うことを忘れてはいけません。潜在意識は、裕福にしようと思って裕福になるものでもないです。有頂天豪語ですね。
 
自分の意志で前向きに人生を生きる人達の縁は、他者を無視して与えられたり気づいたりできるものではないのです。むしろ、どんどん、そういう縁は遠くなるような気がします。
 
 
(2020年02月26日)
 
 
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言葉だけの辻褄合わせで、短絡して豪語、という性急で一面的な語り口が、表れています。
 
あら探しをしたり悪口を言うことは、嫌いな人の為に時間を使っているだけ。
つまり、嫌いな人の為にその人の短所を見つけてあげては、教えてあげようとしてるだけです。
そんなことに自分の大切な時間を使うなら、自分の幸せの為に時間を使おう。
嫌いな人の為に使う時間は、忙しいあなたには無い。
 
嫌いな人の悪口を言うことは、嫌いな人のために時間を使って、教えることだと言っています。悪口を言うこちらは、どうなのでしょう。相手は、嫌いな人だと言っているのでしょうか。あら探しをしたり悪口を言うことを、ブログ主は、その人の相手は、嫌な人だと言っているのでしょうか。とても、おかしなアドバイスです。
 
このツイッターの記事が、あとから見ると、消えているようだが、不都合を、あとで消して、最初から書いていなかったことにするというのは、隠蔽操作です。訂正~間違っていたから削除した、ということを書くべきです。記事を書くべきです。
 
人生で起きる出来事は、全てが後から見ると単なるネタに過ぎません。
本当に耐えられないようなことは、人生では起こらないのです。
必ず耐えられて、乗り越えられる困難以外は、あなたの身には起こりません。
明けない夜が無いのと同様、終わらない苦痛は無い。
乗り越えると、その分幸せがある。
 
人生について、単なるネタ、というのは、どういう人生観なのでしょう。
 
2行目は、どの立場で言っているのか、どういう条件で言っているのか、もしそうであれば、いかなる宗教も説教も必要ないはずです。ほぼ、説教者は、自己否定しているのと同じです。
 
3行目からは、結局、激励したいんだ、ということが分かります。でも、感情に流されているので、実質のない、きれいごとです。
 
話が通じる人と通じない人は必ずいるもの。
同じ民族で、同じ言語を使っているからって、話が通じると思うのは大間違いです。
自分の頭で考えようとしない人に、何を言っても分からないのです。
学習能力の無い人にイラだったり、悲しむのはエネルギーの無駄ですので、相手にしないで距離を取ろう。
 
学習能力のない人は、確かに、います。訂正不能の自己中で、同じことを繰り返し、批判すると、嫌がらせしか返せない人です。単なる能力の問題ではなく、人格異常だと思います。しかし、そういう人は、例外的なのです。
 
このことと、単純に、そのとき話が噛みあわないという一時的なこと、こちらが、未熟である場合、などを、いっしょにしないようにしてください。でないと、こちらが自己中になってしまいます。
 
人生を変えたいのなら、不完全ながらも行動を起こすしかない。
ただ悩んでいるだけでは、今までと同じ日々を繰り返すだけだ。
行動することで、良くも悪くも変化します。
行動を繰り返しながら、良い方向に変化させられるように努力する以外、良い人生を生きる方法はない。
考えるより行動しよう。
 
考えて、行動しましょう。ブログ主は、かなり、感情に走っています。だから、言っていることに、勢いはあっても、深みがないのです。
 
考えてばかりいないで、悩んでばかりいないで、行動に移すべきときもある、ということを、短絡した性急な言い方にしてしまいます。
 
他人の顔色をうかがう必要は無い
他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではない
自分の課題に加えて、他人の課題を背負うから辛くなるのだ
自分の課題と他人の課題を区別して、お互いの課題には介入しないようにしよう
お互いに不幸になるだけ。
 
こういう場合、顔色をうかがう、という悪い言葉と、思いやる、という良い言葉の境界が不明瞭になります。こういうことだから、課題の分離といった術語にしがみついて、断定・豪語するのは、危険なのです。当てはまることと、逆に、事態を悪くすることと、ごっちゃになった表現です。
 
誰を嫌いになるのかは、あなたの勝手ですしそれはそれでいい。
人には相性というものがあるからです。
しかし、嫌いだからといってもその人を否定しようとしてはいけません。
人間が人間を否定する道理は無い。
わざわざ喧嘩はせず、嫌いなら極力関わらないようにする。
それだけで十分なのです。
 
嫌いな人を無視するような言い回しをしてきて、ここで、嫌いな人を否定してはいけないというのは、説教者自身が、矛盾を感じても、それも言ったよと、言い訳できるように、言葉だけ辻褄を合わせようとしているのでしょう。それは、言い訳にはなりません。
 
説教自体、思想自体に、不完全が表れているということです。人間の言葉を絶対化すると、このようなことが起こり、それを教条主義と言います。
 
悪口や非難には、本人のコンプレックスが潜んでいます。
非難はその人達が自分のコンプレックスを、あなたに投影して自分を攻撃しているだけ。
あなたを攻撃している訳ではない。
人は他人のことなんて、そこまで見てはいないものです。
自分のことに興味があるのは自分だけ、自分らしく生きよう。
 
悪口と、批判を、区別してください。悪口には根拠がなく、批判には根拠があります。
 
それと、投影という心理学用語は、カルトが、批判に対して何も返せないときに、やたら使うことがあります。何か専門用語を書けば、偉く見えると思っているようです。
 
誰が何を言おうと関係無い、自分の道を突き進もう。
自分の人生の責任は、自分にしか取れません。
人は他人のことになると言いたい放題ですが、他人の人生の責任を取ることは無い。
周りに流されては不本意な人生を生きて、自分のせいではないと世の中に文句を言い続ける人生なんてつまらないだけ。
 
ですから、誰が何を言おうと関係ない、ということは、勢いも内容も、自己中の勧めになります。
 
ブログ主は、他者のことばかり言い続けている自分の責任を、どう取るつもりでしょう。
 
周りに流されないことと、自己中の他者無視とは、違います。依存しない自立した生き方と、他者を無視して自己中に生きるのとは、全然、違います。ブログ主の言い方は、両者が、混同していることがあります。思考がめんどくさくなるのか、ブログ主は、感情の勢いに走りやすいからです。
 
親切は見返りを求めないからこそ価値がある他人への貢献なのです。
親切に見返りを求めること自体が間違いであり、見返りが欲しいなら事前に話を付けるべきです。
勝手に見返りを求めて親切を働くなんて、いやらしいことこの上ない。
親切にすることを通して、自分の中で幸せという見返りを得よう。
 
親切について書いていますが、見返りを求める行為は親切とは言いません。見返りを求めない好意からの行為が親切です。当たり前です。親切を働くという言い方をして、嫌らしい親切があるかのように言っていますが、おかしいです。
 
自分の中で幸せという見返りを得よう、などと、唐突に、甘い言葉を言って、自己満足でしょうか。それとも、ブログ主には、ファンがいて、なんでもかんでも、ブログ主が言えば、それだけで深く頷いてくれるのでしょうか。
 
人に、教えるということは、人間同士なのだから、自分の弱みを隠して、完全を装っても、成り立たないということです。理屈の正しさではなく、共感性が必要なのです。ブログ主には、苦い体験がありそうです。それを話さないで、実感と説得力のある話は出来ないでしょう。
 
 
(2020年02月25日)
 
 
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