ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年02月

 
  善悪と判断
 
 私の前の記事「できることを」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12577093969.html
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で、似たようなことを言うでしょう。
 
 
私たちは、自分でも、社会についても、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、悪人と呼んでいます。そして、自分なりに陰性の感情をいだきます。
 
しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過や、その心の有り様を、知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。そうするしかないからです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。
 
人間が、判断して、行動するときの、判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。
 
だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断は、同じです。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、それしか考えられないから行動するのです。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、それに勝るものでも匹敵するものでもありません。
 
ゆえに、神が人に与える義は、信仰義認であって、行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳には注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルトには必発と言っていいほど見られるからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言うこともすることも、絶対の正しさでは、決してありません。
 
つまり、批判を含め、あらゆる意見は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残していなければいけません。それが、敬虔なのです。
 
そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。そして、人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。いつのまにか、無条件に、それこそ、快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れがあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰?は、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くからこそ、忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。
 
ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。そこで、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
前から言っていますが、信仰は、神と人との双方向です。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であります。
 
その信仰の姿勢こそが、立派に、完全に、なりたい、という、人間の思いこみの欲望から、人間を救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうるのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、ひょいひょい顕れて、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のようにに聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、それは分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほどいる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間も、人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを示すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。
 
 
(2020年02月24日)
 
 
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  できることを
 
 
正しいことをしたから救われる・・のではない、ということが分かる聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
26:11貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
 (マタイ26:6-11、新約聖書)
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
14:3
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 
14:4-5
すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。 
14:6
するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
14:7
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
 (マルコ14:3-7、新約聖書)
 
女性は、高価なナルドの香油をキリストの頭にかけました。周りからは、無駄なことであり、高く売れば、もっと施しができたと女性をとがめます。なんて無駄なことするの、という感じでしょう。
 
キリストは、女性をかばいます。キリストに良いことをしたからです。つまり、女性は、キリストのためにしたのだから、責めてはいけないということです。普通の効率の話の次元ではないということが分かります。
 
できることというのは、必ずしも、効率が良いとは限らず、ためになることとも限りません。さらに、つきつめて言えば、必ずしも、正しいとさえ限らないのです。それが、人間の不完全性であり罪性であります。
 
ここには、キリストの、赦しと救いの考え方が表れています。勘違いや、誤解によって、正しいとは言えなくとも、本心から、できることをしようとしてしたことなら、キリストのためにしたことを、受け入れて、責めることはなさらない、ということ。
 
さらには、女性にとって、キリストはどういう存在だったのでしょう。今を逃しては、もう二度と会えない御方、そう思うから、何かしなければ、と思ったのでしょう。捧げものの効率とか考えている余裕はなかったのかもしれません。
 
そのことを、キリストは、見逃さず、ゆえに、良いことをしたと、女性を認めたのでしょう。
 
信仰は、驚くべきことを、人にさせますが、それが、いつも、正しいとは限らず、正しいことをしましたとは言えず、人間は、つまり、神の御心に従いました、ではなく、できることしましたとしか言えないのです。キリストは、そこに至る心を察して、女性に慈愛を向けているのです。
 
キリストの、それこそ、直観的な行動分析とでも言っていいような、鋭く、慈愛に満ちた、キリストの洞察力と直感力です。ここを見逃してはいけないと思います。
 
このように、聖書には、キリストについて、人々との関わりにおいて、人間が受け取れる、瑞々しく磨き上げられた宝物のようなエピソードがあります。
 
キリストの言葉が、救われるに相応しい人に対して、さらなる負担をかけることや、さらなる悲しみや重荷を負わせることや、責めることや、人を善悪で裁くこと、などは、ないということです。
 
どうか、求道において、信仰において、物や肉体に起こる奇跡に驚くだけでは決して得られないところの、魂の奇跡を見逃さないでください。
 
 
(雑感)
いつだったか、就職率がよくなったと聞いた。喜んでいる人もいた。正規雇用が減って、それ以上に非正規雇用が増えたから、クビにしやすい労働者の雇用が増えたってことか。10年20年経ったら、少ないといっても若い人出てくるし、外国人もどんどん入ってくるなら、年齢が上のほうから、非正規の人から、どんどん首切られるんじゃないかと。
(日記)
母は、25日(火曜日)退院予定となりました。
 
 
(2020年02月23日)
 
 
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  アドラー教について(18)
 
 2019-03-07
 【読まないと損します】嫌なこと辛いことから身を守れる鈍感力を高める方法
 アドラー心理学サロンです。
 
 
鈍感力がテーマのようです。ブログ主は、言葉にこだわって、言い回しを工夫しているようですが、相変わらず心を表すことが苦手なようです。
 
今回は人間関係を円滑にする人付き合い術として、鈍感力についてご説明致します。
アドラーは、人間の悩み事は一見関係無さそうなことも含めて、全てが対人関係から生じているのだとしています。
鈍感というと、人の気持ちの分からない不躾な人の特徴のように思って敬遠される方も多くいらっしゃると思いますが、それは違います。
 
不躾と、鈍感、本来、似たような意味の2つの言葉を、どう違うのか、端的に言い得ているかどうかが問題です。
 
いつも鋭敏に、一瞬の隙も逃さない程の注意力を持って接してくる人と、あなたはリラックスしてお付き合いできますか?
そう考えるとあなたも「あ!そういえばそれだと疲れるだけだ!」なんて思ったりするのではありませんか?
 
一瞬のすきも逃さない注意力を持つ人は、恐らくいないだろうと思います。ブログ主は、今回も、思い切りよく、滑り出したようです。
 
疲れさせる人というのは、注意力に隙があり、でこぼこしていたり、欠けていたり、とんがっていたりするところがあって、そこで、人を疲れさせているのです。完璧だったら疲れさせないでしょうが、そんな人はいないと思います。
 
人は、多少なりとも隙のある人に好意を持つ生き物です。プライドが高かったり、過度に失礼が無いようにと抜け目の無い姿と振る舞いをされれば人は身構えてしまいます。
いつも鋭く、敏感に他人と接する必要はありません。
 
失礼がないことに、過度ということがあるでしょうか。あるかないかは、無ければ、無い、ということでしかないはずです。それは、相手がどう思うかによることです。実際は、噛み合わないことがあるでしょう。
 
プライドが高かったり失礼がなかったり抜け目がない人なら、疲れることはないのです。半端な付き合い方をする人だから、疲れさせるわけです。知性だけとんがっていて自己中、とかが迷惑なのです。つまり、そういう人は、細かい相手に対する配慮において鈍感なのです。配慮できないから、疲れさせるのでしょう。
 
こちらの心が敏感~過敏に、痛い方向に反応しているから、疲れるのです。こちらの反応も、相手に従って、鈍感相当であれば、疲れないという意味の鈍感力でしょう。この現れは、まちまちであり、ケースバイケースであり、話は、どんどん相対的になり、絶対ではないことが明らかになると思います。
 
ブログ主は、鈍感力、という言葉を、かっこよく使いたいがために、敏感に接する必要がない、などと、大いに誤解を生む表現になっています。こちらもあちらも敏感ではなく鈍感だということをベースにしたほうがよいと思います。
 
感じ方の不完全が、人間の本質です。むしろ、衝突をなくすことより、衝突後の修復と、原因となった誤解を解くことのほうが大事なのです。
 
生きれるように生きるしかない、ということで、特別なことではないのです。いつも、できることをする、できないことはしない、ということでいいと思います。格言めいた、もったいぶった言い方をしたいのが、ブログ主の特徴のようです。
 
特に人間関係では、相手の何らかの行為や言動の動機を見抜いていても見て見ぬ振りができる鈍感さが必要です。
つまり、相手に気を遣いながらも、気遣うような素振りを微塵もしせないことこそが本当の気遣いなのです。
 
見て見ぬふりを勧めています。しかし変です。見て見ぬふり、と、気を遣いながら素振りを見せない、ということは、意味が違うと思います。
 
前者は、その場しのぎの、ごまかすような言い方で、後者は、気遣いを見せない心遣いというニュアンスになります。素っ気ない前者の自己中と、素っ気なく見せて気遣うという隠れた心の優しさ、という二つを同列に並べるのは、変です。
 
「鈍感」に「力」をつけると、印象的な言葉になりますが、こういう歯切れの良い言葉は、歯切れの良さに込められた意味を理解しないと、本当に鈍感になるでしょう。
 
ある程度はドライになって、ねちねち気にすることをしなければよいと思います。つまり、心の中の歯切れをよくすることでしょう。その程度しか、私は言えません。
 
相手の失言や間違いに気が付いても、気付いていないフリをしたりして、相手が心地よく自分と過ごせるようにしてあげるのです。
 
違うと思います。気づいていないふりは見破られることもあり、疑われることもあり、白々しい芝居になれば、相手は心地よいどころではないのです。気遣いは、芝居上手になることではありません。日常が、総て、演技になるなら、とても、つらい人生になるでしょう。
 
また、気づいていないふりで、相手も気づかなければ、話も進まないわけです。それで、その場、その時だけ、心地よくなることが、何の意味があるのでしょう。ブログ主の断定は、雑な表現になることが多いようです。
 
鈍感になるとはこのことであり、相手の反応や気持ちに対してそのまま鈍感になるというよりは、肩の力を抜いて接することが相手への最大の礼儀にもなるのです。 
 
このこと、というほど、言い得ていません。元々、対人関係を言葉で表すのは、そんなに容易くはないでしょうし、場合分けをせずに、単方向で言い切って、言葉の綾を無視している、ということになりやすいと思います。言い切って穴だらけでは、鈍感力とは言いません。
 
言葉の通り、単に相手のことを考えず、気遣おうとすらしないのは失礼でしかありません。
気遣おうとし過ぎると、それはむしろ相手に対しての単なる監視やしつけのようにもなりかねません。
自分がしっかりとした人間であることをアピールするのにも、自分を良く見せようとするあまり隙の無い人間に思われ、何か間違いを犯してはいけないと相手を身構えさせてしまえばそれでは関係構築どころか距離も一向に縮まりません。
 
このように、気遣わない、と、気遣い過ぎる、の、中間ということだけでは、どうしたらいいのかを説明したことにはなりません。身構えさせないための言葉遣いも示されていません。ちょうどよく、では、当たり前でしかありません。
 
関係構築という言葉が出てきましたが、関係構築できる場合とできない場合があります。できる場合のみ、相手の吸気に合わせて、勧め、呼気に合わせて、受け取る、というような、間合いというものは、経験を積むしかないのでしょう。つまり、そこには失敗もあるということです。むしろ、失敗を悔やみ過ぎないようにするこちらの精神衛生のほうが、よほど大事なことに思われます。
 
何か間違いを犯してしまっても、謝れば良いだけなのです。余程の重大なことでもなければ、誰も気に留めません。
 
重大なことは、この記事の視野に入っていないのでしょうか。間違っても、謝ればよい、というのは、気安いというか、他人事というか、・・傍観者の視野で書いているのでしょう。安易に物を言うのは、あとは知らないよ、という立場だからでしょうか。
 
最低限ののマナーを守り、あなたらしさと隙を見せてあげては相手の間違いにも見て見ぬ振りをする。
こんな姿勢が良好な人間関係を築くポイントです。
 
良さそうなことを、言葉だけ、まとめて言った感じですね。
 
この記事をお読み下さったあなたには、ぜひ鈍感力を身に付けて頂き、より良い人間関係をお持ち頂きたいと思います。
 
この記事を読んでくださった人は、鈍感力は、一つの比喩的表現であり、鈍感になることではなく、いろいろ気にするあまり思いわずらう、などということのないようにする心のゆとりであります。人間が、非の打ちどころのない敏感ではありえないから必要なことです。
 
勘違いして、鈍いだけの人にならないようにしてください。不感不応の自己中カルトがいて、いつも、理路も良識も良心もないような迷惑なコメントだけを書いてきますが、その者は、アドラー教を指示していたのです。
 
また、説明不足をごまかすように、鈍感力という言葉だけを振り回す人を、あまり信用しすぎないようにしてほしいと思っています。
 
 
(日記2月21日)
 
母は、来週には退院の見込み。症状は軽快した由。
 
ブラウザを、IE11から、Edgeに替えた。表示が、目に見えて早くなった。全体の表示も、はてなの星ボタンも、アメブロの「いいね」ボタンも、前は表示しなかったり遅れたりしていたが、Edgeは速い。ストレスが減った。
 
ただ、設定など、英単語が多いので、これから慣れる必要があるのだろう。お気に入りの表示は、メニュー・サブメニューと辿ってゆくのが距離が長くて面倒くさい。お気に入り登録は別ページか。前の、お気に入りのフォルダーが分かりやすかった。メニューの行間が空き過ぎの感じ。
 
FC2の「いいね」にパスワードなど入力が必要で、今のところ、できていない。
 
(2月21日午前6時30分現在)
 
なんとか、FC2も、「いいね」できるようになりました。
 
 
(2020年02月22日)
 
 
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  赦すこと
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免のことだ、ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 
 (マタイ6:14-15、新約聖書)
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと分かっている場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは
気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。
もう一つは
偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではありません。
 
人間の立場から見ると、赦されることよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定する、ということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめてゆきます。
 
凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言っていました。悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がりが抑えられ、それゆえに、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 
(2020年02月21日)
 
 
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  弱さを誇る
 
 
信仰によって与えられる力は生きる力であり
信仰による強さは忍耐強さである。
 
信仰による超能力のような霊力を信じるのはカルトであり
弱かったが今は強くなったと豪語するのもカルトである。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (2コリ12:9-10、新約聖書)
 
「弱い時にこそ、わたしは強い」というこの教えについて、弱いから強い、弱さゆえに強い、という逆説をもって理解したことにしてはいけない。ましてや、豪語してはいけない。
 
何故なら、この逆説は、言葉上の辻褄合わせにしかなっていないので、信仰生活において、思い上がって罪を犯すことにはなっても、生きた働きを人に与えることはないからです。
 
パウロは、艱難に耐えることを語っています。つまり、強さとは、忍耐強さに他なりません。
 
弱いからこそ、主を知り、主を知ったからこそ、忍耐強くなるということです。
 
 
人間にとって
心霊に関係のあるような言葉には
聖霊、霊感、神来の興、インスピレーション、ひらめき、気づき、などがあります。
人間にありそうなこと、起こりそうなことから、なさそうなことまで、内容はバラバラでありながら、言葉は溢れています。
 
神が人に何を与えたかということは、キリスト信仰においては、神の秘密であり、人が確定することは出来ないのです。
 
神に感謝することはありますが、それは、自分の判断に過ぎないことを弁えるべきです。
 
起こったすべてのことが、神の恵みだと受け取れば、自分の気持ちに背くことになり、情緒面が、おかしくなるかもしれません。また、いいほうに、いいほうに、と解釈することは、いつか無理が来るはずです。そういうことに気づいていながら、それが信仰だと思い込んでいるなら、不幸としか言いようがありません。
 
それは、信仰の恵みではありません。考察や反省をしないなら、ただの思いこみからの多幸症です。
 
何故なら、成長が見込めないからです。前にも言ったように、心を固定してはいけないのです。心を動かないように自分ですることは、感動できなくなることです。そういう人は、しばしば、言葉の上だけで感動を捏造し芝居するようになるでしょう。
 
洞察力や、深い考察、などというものとも混同されてもいるようです。これらは、学習経過によって、人間にも起こりうることですが、つまり、人間の、ひらめきや、気づきなどは、心霊という言葉を使わなくても、持つことがあり、表れることがあります。しかし、それが、必ず起こるという保証がないことは、最初に気づいて、弁えておくべきことなのです。
 
 
上の聖句の、弱さとは、キリスト信仰においては、かなりはっきりしたものです。
つまり、人間の罪深さであり、不完全、不安定、変わりやすさ、くじけやすい脆さ、などを表していると思います。私は、神の完全に対する人の不完全という言い方をすることが多いです。
 
整ったつもりで、整っていない、しかも、それに気づかない、という性質が、人間にはあります。
いつもではないが、逆に言えば、整うのも、いつもではない、という真実なのです。
 
整えるつもりで、自分が、整ったと思うなら、その時の自分には、整わないところを指摘する判断はないわけです。何が言いたいかと言うと、総ての判断の根拠を自分の内部に置くことは間違っているということです。言い換えると、人間は絶対の基準を持ち得ず、外部に委ねるほかはない。
 
第三者ということも人知においてはあっていいと思います。しかし、自分以外の判断を受け取るためには、同じように、それって正しい?・・が付きまといます。
 
で、どうするかは、前から言っているように、絶対ではなく、相対というのが分かりにくいなら、非絶対である自覚をもって、心の可動性・可変性を失わないようにしましょうということです。
 
そういう不完全性の自覚のために、誘惑に負けたりすることで、失敗する体験から、罪とか、足らざる自分に気づくことによって、信仰は始まります。自分の相対性・非絶対性・不完全性は、人間に与えられた気づきの恵みであり、個人的に、私は、それを、神という絶対を恐れることに求めています。
 
神の偉大さ、キリストの愛、罪の贖い、それら信条に関することを唱えるだけでは、人間が信じるに相応しいキリスト信仰になることはありません。罪の自覚を、形式的にではなく、実感するのでなければ、信仰者といっても、まだ、未熟であり、発育途上であります。つまり、総ての信仰者は、発育途上です。それが、神を恐れることなのです。
 
信仰歴が長い人には、良いことばかりに目を向けていると、同じような未熟に返ってしまう、という、いわゆる退行がおこり得るわけです。
 
いかに、日々、精いっぱいの正直をもって、祈り、悔い改めることが大切かということです。
 
 
カルトは、しばしば、一気に、悟り、一気に、平安の境地になることを主張し、しばしば、語気を強めて、豪語したり、脅しをかけたりする特徴を持ちます。地道な努力をしたくなくて、短絡しているわけです。豪語も、短絡であり、強く言いたいがために使うのでしょう。
 
それは、一つの言葉で、総てを言い表すことは出来ない、という共通の真実に共感できない特徴です。信仰においては、自らの言葉にも、成長の必要があることを理解しない者たちの所業です。
 
カルトは、反省、内省力に欠けて、人のことばかり言う自己中心があります。かつ、不都合を、人のせいにする傾向もあります。
 
カルトの言動は、偽善的であることが特徴であり、嘘を平気で吐く者もいます。
 
罪悪感を感じて、信仰に目覚めるのではなく、罪悪感を感じるのが嫌で、信仰によって清められたかのようなカルト信条もあります。
 
 
用語についてですが、私にとって、真実という言葉は、長い経過を経ても、変わらなかったという根拠によって、使う言葉です。絶対的ではないが、恐らく、否定されることはないだろうと言う推測の強さから判断しています。
 
真理という言葉は、万能・不変のニュアンスが強いため、神の真理として、神聖なものとして、人が得たり、人に与えられたりするものとしては、私個人は使わないようにしています。
 
 
(2020年02月20日)
 
 
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