ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年03月

 
 
  理解?
 
 
文系・理系を問わず
理解というのは
心の解放感です
新しい方向へ広がることです
つまり始まることであって
決して完了することではありません
 
芸術でも学問でも
私の下手な数学でも
人間関係でも風景でも
ポエムでも同じです
 
論理でも情緒でも
理屈が合うのでも
無条件の感受でもよいのですが
 
解放感のないところには
何かが合ったのだと
完成したのだと
思い込もうとしている圧力を
自分に強いている自分がいるだけです
 
ただ厄介なことに
そういうとき
合ったのだから
合うのだからと
同じ圧力を
人にもかけてしまうことがあって
 
人は人間にがっかりして
ポエムも理路も腐ってしまうのですが
 
まさにそこから
反省できるかどうかが
いかなる理解も
先入観として貼りつくものになるか
さらに深い理解へ進めるかが
分かれてゆくでしょう。
 
理解はゴールではなく
完全ではなく保証ではなく
理解は通過点であり
欠くことのできない道しるべなのです
 
砕けるほどの失敗からでも
ポエムは泣きながら身をよじり
理路はときに転倒し仰天して
さらなる理解が
産声をあげてくることもあるのです
 
 
(2011年04月28日)
(2020年03月29日、修正再録)
 
 
  理解は成長する
 
 
先日、三平方の定理を再録しました。
高校の時か習った定理ですが
証明方法は30~100あるとも言われています。
 
直角三角形に
3つの正方形を加えた図から証明しようと
昔、考えてはみたのですが
数学が得意ではなく下手の横好きで考えても
証明できなくて諦めていました。
 
別の方法で証明しても解放感はそれなりで
 
合同、相似、平行、面積の公式などを用いて
3つの正方形を加えた図から証明して
理解を新たにしたのは
ずっと後のことです。
 
もちろん数学だけでなく
人文科学においても
人間関係においても
人物や思想の評価においても
信仰においても
理解は成長する
という性質を持っていると思います。
 
理解を固定して
分かった以上揺るがないものにしようと
固定する方向へ向かってしまうと
成長はなくなります。
理解も成長しなくなります。
 
何故なら
固定されたものは
理解そのものではなく
言葉の辻褄の暗記に過ぎないからです。
言葉と感動は、いずれ乖離してゆきます。
 
自然科学と人文科学があるように
理解は、理路だけではなく
直観や直感を多く含みます。
さらに
本当に理解したときには
いかなる分野であろうと
解放感という情緒的反応を伴います。
理解と辻褄合わせとの決定的な違いです。
 
理解は成長します。
それを阻むのは自分で固定してしまうことです。
人間は完全には分かっていない
という自覚の大切さを思います。
あらゆることにおいて
分からない自覚こそが成長を促します。
 
 
 神聖を分かった自覚で
 神の名のもとに
 自分で理解を言葉で固定して
 成長しなくなって
 何を言っても
 上から見下ろす態度で
 同じことしか言えなくなった者がいて
 間違いを認めず
 不都合をみな人のせいにします。
 
 
(2020年03月31日)
 
 
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  偽者の末路
 
 私の記事「矛盾の暮らし」コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5754610.html#comments
 
 
私が記事に「うちのめされている」と書いたからでしょうか。
うれしそうにコメントを書いてきました。
白々しい挨拶と筆致からシャロームであることは明らかですが
体質的卑怯者の荒らしは、また、名無し、と名乗っています。
ここまで、醜くはなりたくないものです。
 
1. いまも名無しの猫です2020年03月29日 16:25
st5402さん お久しぶりですね!
最早4月をまじかにしていますが、お変わりないようですね!
近くの公園の桜も咲き始めています。
桜を見る会で散々汚された桜の花ではありますが、
あたたかい春の陽ざしとコロナ感染のニュースにも負けず、
冷たい風のなかに凛と咲いている姿にほっとしています。
 
コメント者名シャローム shalom と書きなさい。
 
私のライブドアブログを散々荒らしたにもかかわらず
都合の悪いことを一切なかったかのように
時候の挨拶を書いています。
シャロームくらいの根腐れになると
不感不応が徹底して
罪悪感を全く感じないで丁寧芝居をやってのけるのです。
 
(私の記事引用)
「うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても
「神への恐れ」を知る人は極めて少なく
大方は孤立しており
さらに倒れており這っており狂っており
ときに悲鳴のように呼ばわるが
その声を聞く者が殆どいないという現実に返され
うちのめされている」
 」
 
(シャローム)
とのことですが、ご自分のことですか?
お母さんはお元気になられたと思いますが、いかがですか?
 
私が「うちのめされている」と書いたものだから
他者を打ちのめすことにのみ意義と快感を覚える
サイコパスでモンスターのシャロームは
その性分に従って「うちのめされている」を
自分に当てはめて人間らしく共感することなど何も考えない読み方で
嬉しくてたまらない様子です。下品な笑いが聞こえてきそうです。
 
シャロームの、おとしめの問いに、
答える義務は全くないのです。
 
既に、人間ではないという言動を、
嫌と言うほど重ねてきたわけですから、
こういう者には、落ちてくる、または、投げられたところの
人工物に意味がないのと同様に、自分の発言が、
もはや、何の意味も持ち得ないことさえ自覚がない
という人格破壊の悍(おぞ)ましい有り様以外
何も表れていないわけです。
春になって、のぼせたか、病状が進行したか、
恥を知らないために書いてくるのです。
 
無節操の楽山と、荒らしの易坊の
友人であり、仲間であり、成りすましの疑いもあるところの
ネットに巣食う反キリストの元凶シャロームの
よく生きていられるというほどの醜悪さが約9年分
私の4つのブログに積み重ねられています。
 
丁寧語の挨拶と、おとしめの台詞を
同時に、同一のコメントに書く不自然さに
全く気づかない崩壊した人格は
自業自得の日本語文章の破滅的退行に気づかず
これからも、こんなに壊れましたという様相を
あちこちで表して曝してゆくのでしょう。
 
ご健闘を祈ります!
今も名無しの猫より
 
名無しの猫、という、自分は荒らしです
という匿名なら、いいじゃろ、バレないからと
安心している様子も見苦しく
「ご健闘を祈り」という
心にもない嘘を重ねて狂ってゆく消息を
わざわざ伝えてくるのは
自己顕示欲以外の何物でもない
恐らく、匿名での非存在を利用しているつもりでしょうが
匿名のゼロの重さ、すなわち、無意味の軽さを、
思い知ってゆくシャロームの人間性放棄の開き直りです。
 
シャロームは、もはや、嫌がらせしか言えなくなって久しいのです。
 
 
《シャロームの背教》
これからも繰り返し載せます。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
 
さらに、シャロームの言には自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになります。
 
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神のほうを向いて、正直に罪を告白し祈ることです。
 
ここにおいて、シャロームの信仰が偽物であることは既に証明されています。
 
決して、シャロームを、キリスト者(クリスチャン)だなどと思わないでください。
シャロームは、キリスト教とキリスト信仰をネタにした詐欺師です。
 
シャローム自身は、信仰の福音伝道者として始まったことはなく、
カルトの伝染者としても失敗して終わっていること
これらに、シャロームは、気づくことさえできないでいるのです。
恐らく、何の価値もない、存在意義のない、つまらないものとして、
あしらわれるだろうと思います。
 
 
楽山が、また、反キリストの記事を書いています。
 
 2020年03月29日
 『生命の實相 愛蔵版 第16巻 宗教戲曲篇』谷口雅春著
 生命の實相 愛蔵版 第16巻
 http://mn266z.blog.jp/archives/24146020.html
 
キリスト教に牙を剥く楽山の本性です。耶蘇とは、イエスのことです。
 
本書には、「耶蘇傳」「釈迦と維摩詰」「月愛三昧」の三篇が収録されている。
「耶蘇傳」は福音書を下敷きにしているようだが、全体の話の流れも、登場人物の個性、行動も大胆に変更されている。イエスの説法では著者の思想が語られ、「本来××なし、実相あるのみ」という風な著者の好む表現が多用されている。十字架については、十字架に架けられたのはイエスではなく、弟のイスキリであるという東北の戸来にある伝説よりも、もっと大きな改変がされている。これには驚いた。
 
十字架にかけられたのが、弟のイスキリ?と言っています。イスキリ?については、私は、聞いたこともなく、知りません。楽山は、否定せず、控えもせず、驚いた(、そうなんですか!が続きそうな言い方)と書いています。まったくの、いちゃもんでしょう。楽山は、汚らしい男です。
 
「釈迦と維摩詰」は題名からも容易に想像できるように、維摩経と関連しているが、これも「耶蘇傳」がそうであったように、著者流に大きく変えられ、作中の維摩は著者の思想を語っている。
「月愛三昧」は前半は釈迦伝で、後半は阿闍世太子の物語になっているが、これも一般的なそれとは異なり、著者流の設定、思想によって再構築されているところは上の二作と同じだ。
 
釈迦を語りたいならば、イエス・キリストについて控えるべきなのに、知りもしない、知る由もない史実を、上のように曲げて、快感を得ようとしているのです。実に、汚らしい男です。
 
自分はどちらかといえば保守的な方なので、伝統的な事は出来るだけそのままの形で保存し、むやみに改変はしない方がいいという考え方なので、古典聖典に記されたことや、昔からの言い伝えなどは変えるべきではないとは思うのではあるが、それはそれとして戯曲の中で語られている台詞には、よく納得できたり、感動したものも多かったのは事実ではあるし、この点は読んで良かった。もし古典聖典を下敷きにしたものでなく、著者自身のオリジナルの戯曲もあるならば、いつかそちらも読んでみたいと思う。
 
楽山は、どちらかと言わなくても、反キリストです。というより、キリストも、キリストの教えも、キリスト信仰も、分かっていない人です。口だけ大きいのですが、それを、丁寧語とボンヤリ言語でごまかしています。
 
「どちらかといえば保守的な方なので、伝統的な事は出来るだけそのままの形で保存し、むやみに改変はしない方がいい」と言いながら、「戯曲の中で語られている台詞には、よく納得できたり、感動したものも多かったのは事実」というボンヤリ言語の婉曲的な言い回しで、キリストを否定してゆきます。つまり、執念深い陰謀屋だと思います。
 
楽山は、理解できないものだから、他者の言葉で文句を言って否定してくる反キリストです。知らないこと、理解できないことについて、知らないのだからという抑制が利かず、婉曲的に否定して知っているふうを装う男です。何の理路も感性も常識も良心もありません。
 
シャロームと楽山は、いちゃもんが大好きです。汚らしさに吐き気がします。
 
 
(2020年03月30日、同日一部修正)
(2020年04月01日、一部修正)
 
 
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  凶暴な反復
 
 
 2020年03月28日
 『若い読者のための『種の起源』』ダーウィン著、ステフォフ編著
 http://mn266z.blog.jp/archives/24129552.html
 楽山日記(LD)
 
 
ダーウィンを持ち出してきました。そして、読んで大正解、納得できる、と言っています。科学の部外者の立場だと思えない傲慢は、進化論でキリスト教とキリスト信仰をおとしめる狙いが以前からあるという理由によります。
 
楽山の凶暴性は、自己愛、自己中、訂正不能、そして、執拗な自尊の繰り返しで、評論家を気取る体質にあります。それは、何を言われても気に入らなければ平気で無視して同じことを繰り返す執拗な性癖に表れてきましたし、今回も同様です。
 
若い読者のための『種の起源』
「種の起源」は随分前にはじめの数ページを読んだだけですぐに放り出してしまい、そのことがずっと気にかかっていたのだが、本書はこれを簡潔、平易にしたものだとのことで興味を持ち、読んでみた。
 
ナルシストで楽山の興味は、いかにして、キリスト教をおとしめるかということで貫かれています。そのために、楽山は、聖書の通りに天地と動物と人間を創造したと信じて進化論を否定するのがキリスト教だと決めつけています。
 
私は、最初に通った教会で、創世記は神話として読むことを勧められています。そのほうが、より多くの真実を受け取ることが出来ると、私も思っています。その読み方によって、生き生きとした人間の有り様と深い罪性が分かってくるのです。
 
しかしながら、凶暴な訂正不能の楽山は、わざわざ、創造論と言って聖書を進化論と並べる理屈としてしまって決めつけ、進化論という仮説のほうが正しいと言いたいようです。丁寧な書き方は、楽山の策略であることを強調しておきます。
 
楽山は聖書の読み方を知りません。また、事実と真理を決めつけないと気が済まないようです。そういう読み方では、神と人間の関係など、微塵も理解できないことをも強調しておきます。そのことを何度言っても、理解力がないのか、感受性がないのか、反省力も成長もないのか、楽山は書いてくるのです。
 
結果は大正解。本書は、生物学に無知な自分でも面白く読めた。序盤は頭の中で音読するようにゆっくり、徐々にペースを上げて行く読み方をして、ただ最近はどうも何事にも飽きっぽくなっているので、最後のところはやや流し読みに近くなってしまったのではあるが、それでもやっぱり面白かった。折を見て再読したい。
 
学習途上の人々を惑わすようなことを書いて、何が大正解なのでしょう。罪悪感と羞恥心がまるで育っていない楽山の、批判されると、反論どころか弁明どころか、無視しか出来ず、今回のような当てつけしか返せないでいて、なお、気取っていられる心性は、とても異常です。
 
シャロームと同様、全く話し合いの成り立たない人なので、成りすましの疑いもあります。他にも、息子など親族、仲間、組織の可能性も考えています。シャロームは、仲間が多いことを誇っていたからです。
 
内容については、他の本で読んで既に知っていることも多かったが、高地に点在する動植物についての話ははじめて読んだ。寒冷地の生物は氷河期のように地球全体が冷え込んでいた頃に南下し、生息域を広めるも、やがて地球の温暖化がはじまると、北に戻るものもいれば、高地へと移動するものもあったのだろう…云々と。同種の生物が離れた場所に生息しているのは不思議だと思っていたが、こういう理由があったなら納得できる。
でもこれと似た疑問として、淡水魚の場合はどうなのだろうと思う。たとえば、フナは日本全国の河川、湖沼に分布しているけれども、他とはつながっていない孤立した湖沼それぞれに生息しているのはなぜだろう。これにはどういう説明があるのだろう。
 
人の意見を聞かず、自分を支持するような情報、学者の言うことも対等の立場のように分かる評論家気取り、実は勘違いと思い込みばかり、・・そういうものを漁(あさ)って、分かっていることにしているとこうなる、という例になります。
 
進化論については専門家でも議論のあって不思議のないところですが、私は学者ではないので進化論の正誤については遠慮するわけです。しかし、楽山は、学者の言うことが分かる、納得できる、と言いたくてたまらないのでしょう。
 
淡水魚の場合は、なぜだろう、どういう説明があるのだろう、と分からないことがある自覚?みたいなことを書いていますが、楽山のように、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、本当のことを言うことが少ない、こうなってくると、分からないという自覚を書いても、本気ではなく、何らかの作為があるとしか受け取られないということです。まさに、"狼と少年"の話になります。
 
楽山が、分かったつもりのことは、楽山の、キリスト教に対するおとしめの筋書きに合っているからであり、分かっていると言いたい楽山は、それゆえ、進化論を讃美するわけでしょう。
 
実際には、こういう進化論のことを、いくら賛同して、書いても、キリスト教の本質には、何の関係もないのです。
 
楽山が謙譲芝居をするとこうなるという例でもあります。分かっていない自分を出すときに、分かっている自分を暗示してしまうボンヤリ言語は、楽山の筆致なのです。
 
学者の言うことを評論家のごとく語って、さんざん的を外してきたのだから、なにせ恐れも知らず霊が分かるっぽい、と思っている楽山ですから、もはや、ダーウィンという大きな名前を出しても、信頼度はゼロであり、いっさい、無駄なのです。
 
この記事を、分からないこともあるかのように中学生の感想文みたいに思わせるのですが、このわざとらしい書き方をしながら、一方で、キリスト教をおとしめてくるのだから、とても成長発達途上の人の感想文として読むことなど出来ない悪意の作為があるわけです。楽山の攻撃性は深く、性根は凶暴です。
 
また本書では創造論への批判がさりげなく挿入されているが、そのうちで最も印象深かったのはこの箇所だった。
自然を観察することで「このように美しく、精巧で、秩序ある自然が偶然に生まれるわけがない、設計者が存在するはずだ」と思わないではいられなくなることもあるけれども、それとは反対に「このような無残なことを創造主がよしとされたとは考えにくいし、もしこれをよしとされたのであれば創造主は人の情緒とは相当に異なった感性、価値観を持った存在だろう」と推定せざるを得ず、神は愛であるなどとロマンチックなことは言ってはいられなくなることもあるが、一体どちらが本当なのだろうと思う。
 
上に書いたように、楽山の言う創造論というのは、聖書の創世記をそのまま歴史の事実の主張として受け取って、神が創造したのならなぜ・・という疑問を書いてくるものです。
 
そうやって、楽山は、学ぶべき創世記を始めとする聖書を、興味本位の非人間的な超常話にすり替えて、固定観念として、自分はインテリだから進化論を支持するみたいな文脈にしてゆくわけですが、聖書も本も、まるで受け取る節操も弁えも理路の整合性も感性の貯えも持っていない自分を図らずも出してしまうわけです。
 
キリスト教の本質は、歴史の事実として創造を受け取るよりも、実存的に今も在ることとして、人間のあり方と罪性につながることとして学ぶべきであります。
 
キリスト教を、神が事実として聖書通りに創造したという信条を掲げている教派もあるようですが、私は、そういう受け取り方では、信仰の大事なことを、受け取ることにならない、あるいは、超常の話によって、むしろ受け取るべき真実が阻害される恐れがあると思っています。
 
楽山は、キリスト教内部での違いなど何の関心もなく、いつ書いても、みな同じように、創造と進化という対立の誇大的なテーマだけで扱い、おとしめようとしてきます。
 
楽山の机上にあるのは、複雑な問題を凶暴に単純化して、それこそ、楽山の狭い視野の中に、紙くずのようにぶち込んで丸めてしまった上での空論であることを知ってほしいと思います。
 
この辺りは人によって判断は異なるだろうけれども、これまでの時代の流れからすると、創造論と進化論とではどちらが優勢であるかははっきりしているし、
 
このように、楽山は、進化論が優勢だと暗示して、創造論の理屈におとしめて狭い引き出しに閉じ込めたキリスト教?をおとしめて、いい気になるのです。
 
批判に対して、いかなる弁明もできないで詭弁で文句だけを言ってくる楽山に対して、同じように狭い引き出しに思想を閉じ込めるような人間にならないためにも、楽山の詭弁を正当な感じなどと思わないでください。
 
楽山という疲労物質は、人間として聖書も思想も受け取るということが出来ないようです。人間として発揮できる良心の働きがないから、人の迷惑を省みることがないのでしょう。
 
今後は宗教的感性が発達し、かつ一定の知性を持つ人にとってはそうではない人よりもいっそう生き難い世の中になって行きそうではある。
 
楽山は、自分が感性がないと言われたものだから、人に向けて、宗教的感性が発達、などと、人ごとにして、どこまでも評論家?的立場というより気取りを守りたいようです。その実、やっていることは、言論において、邪魔にしかならず、相手にもならないようなものばかりでした。人を惑わしてまで、自分を高めたい者の体質なのでしょう。
 
将来的にはそういう人のために何らかの新しい道の必要性はますます高まってゆくに違いない。
 
新しい道に、遠回しに、賢者の一人として自分は大事な役を担う、という自尊が表れています。汚い欲望の、しかも、暗示的な高慢です。だから、書き続けるのでしょう。いつか、尊敬され、崇(あが)められることを信じて。
 
 
だいたい、信仰は、人間が生きるためにあります。そのために、大昔が、創造であったとか、事実であったとかは、決して大きな問題ではありません。楽山の言は、低次元であるだけでなく、冷淡で平板な情性(じょうせい)と惰性(だせい)で、宗教を舐めただけの的外れです。意図的だからインチキだと言いました。
 
史実にこだわることよりも、人間は、元々、どういう存在であり、どういう性質を持っているか、ということに焦点を当てることが、宗教と信仰を考えるときには、よっぽど重要なのです。
 
そのことを考えれば、私は今まで、貧弱な頭と心で、努めて、書いてきましたが、聖書は、とても大切なことを伝えています。それが、楽山には、全く分からないのです。
 
何故かと言えば、楽山やシャロームなどの易坊類は、その教えに真っ向から背き続けているからです。嘘を吐き、詭弁を弄し、偽りを好み、自分を高みに置く、そして悔いない、・・全てが、背信行為だから、分かろうとしない前提があることが、続ければ続けるほど、明らかになるわけです。
 
そのことを、いくら言っても、楽山のような者は、性懲りもなく保身のために、嫌がらせのような、学術めいた上辺(うわべ)を装って、偏(かたよ)って一面的な、そして、悪意に満ちた方向に誘導された文章によって、詭弁でしかない言説を、こともあろうに先人の名を悪用して、広めようとするのです。
 
シャロームなどのお仲間を喜ばせたいということがあるのでしょうが、それ以上に自分を満足させたいだけなのです。
 
そういう者同士というのは、つまり、楽山やシャロームなどの易坊類は、その幼稚さ、執拗さ、嘘と詭弁、悔いない厚かましさ、悪だくみ、などの点で、実に、よく似てくるのです。カルト性が、悪魔性を呼び、みんな似たような、話にならない人間になっていると思います。それで、成りすましの疑惑も、ずっとあるわけです。
 
そして、楽山との交流をあきらめた頃からずっとですが、批判の目的は、楽山を変えることではなく、楽山の悪性の執拗さを書くことで、近づいてはいけない人という警戒情報を広めるためだけになってきました。そのこと以外に、もはや、目的はないと言ってよいのです。
 
だから、シャロームに対するのと同様に、楽山に対しても、批判は、とてもシンプルになってきました。
 
ネットには、ときに、ためになる話や、ほお・・っと思うような面白い話もあるのですが、一貫して、月並みであり詭弁まじりの楽山の言から学ぶべきことは皆無です。かつ、楽山の執拗さと凶暴な反復の企てを見ると、楽山は、とても無神経で意地の悪い人だと思います。
 
 
(2020年03月29日、同日一部修正)
 
 
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  アドラー教について(25)
 
  2019-03-12
 これを読めば嫌われることを幸運だと思えるようになれます
 名著「嫌われる勇気」で有名になったアドラー心理学ですが、多くの人達はこのタイトルであ る「嫌われる勇気」のイメージの通りにアドラーは嫌われることを推奨する人物なのだろうと 思われていると思います。
https://www.adlersalon.com/entry/2019/03/12/%E5%AB%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E4%B8%8D%E5%B9%B8%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E5%B9%B8%E9%81%8B
 
 
焼きが回ってきたのか、乱暴な理路で、煽動に近くなっています。
 
このタイトルは少し誤解を招いてしまっており、嫌われる勇気というよりは本質的には嫌われることを怖れない勇気を持つことをアドラーは推奨しております。
本記事では、多くの人達が洋の東西、時代を問わずに悩まれている人から「嫌われる」ことについて、アドラーの観点から気にならなくなる考え方をご紹介させて頂きたいと思います。
 
他者を気にしなくなることが、他者との付き合いにおいて、自分の不利益という自分の課題になることを考えないのでしょうか。
 
あなたは今まで「こんなこと言ったり、やったりしたら嫌がられて嫌われてしまうかも…」なんて心配しては自分を押さえ付けてしまったご経験を何度もしてきたと思います。
 
嫌われることを嫌って自分を抑えるのではなく、自分に不利益として返ってくるから、ときに自分を抑制することがあるということでしょう。
 
もちろん、人は1人では生きていけませんし、組織などの複数の人間が集まるような場所では、マナーを守り時には自分の言いたいことや、やりたいことを我慢して周囲の人達に合わせなくてはならない時もあります。
 
気にするな、の後に、気にするべき時もある、という、こういう言い回しを逃げ口上というのではないか。
 
ただ、何も考えずに嫌だけど仕方ないからと他人に合わせたり、周りに無定見に流されてたりしてはいけません。
 
ここで、合わせない、気にしないのは、何も考えずに盲従するときだという但し書き、いい加減なしるしだと思います。自分の時間を割いて人に従うときに何も考えない人がいるでしょうか。
 
アドラー教の教えは、突き詰めて純化して徹底することが出来ないという、教えとしての決定的な弱点があることをブログ主が示しているのです。
 
誰かに嫌われないようにすることは、誰かに認めてもらおうとすることと同じですし、認めて欲しいという承認欲求に強く持ち過ぎてしまうと他人の人生生きることになってしまうとアドラーは警鐘を鳴らしました。
あなたでないと満たせない、あなた自身の気持ちを満たすことは難しくなります。
嫌われることを怖れると、こんなデメリットまであるのです…
 
承認欲求を否定してきた手前、このように、限られた場合を、承認欲求に結び付けて、一生懸命一般的に見せかけようとしています。
 
アドラー教はアドラー教の教えを絶対の一般法則のように見せかけていますが、嫌われる勇気も、承認欲求の否定も、こちらのほうが限られた場合でしかないということです。
 
ケースバイケースの上に共有されるのが一般法則と言うのでしょう。嫌われる勇気は一般法則ではなく、嫌われることを恐れてはいけない場合もあるということです。
 
つまり、嫌われる勇気という言葉を一般法則化することは間違っています。言葉は、そんなに甘くはなく、無責任に言い切ってしまうと、自己中の勧めになったりとかの、誤解や曲解による弊害が出てくるのです。
 
また、アドラーは課題の分離を提唱しており、これは他人と自分の課題を分離して、他人が自分をどう思うのか、他人がどう生きるのかは他人の課題であり、それに対してこうするべきだ、ああするべきだと指図をしたり、悩んだりすることは自分の課題では無いので本質的に無意味である。
よって、自分の課題に専念して他人に自分の課題への介入を許さず、自分からも相手の課題には介入しないようにしましょうという考え方です。
 
はっきり言って、課題の分離は不可能です。これもケースバイケースになるでしょう。何故なら、自分の課題に他者が含まれることが多いからです。
 
このように教えの言葉だけを紋切り型に、全部に当てはめようとすると、教条主義の罠に嵌ることになります。課題の分離が自己中ではないという説明は一度も成り立っていません。言葉が同じなら自分の考えや区別もそのまま伝わる、という安易な思い込みの弊害なのです。
 
このアドラーの課題の分離に則れば、他人が何を言ってきても、どう勘違いしてきても、嫌ってきても、それは相手の課題なので自分ではどうにもならないので割り切りましょうという考え方ができます。
 
則(のっと)りたいようですが、他者が何かを言ってきたとき、勘違いしてきたとき、嫌ってきたとき、分別として、弁明をしなくてはいけない場合があります。でないと、話にならないと見なされ、他者のほうが、無視して、こちらをさらに不利な立場に追い込むでしょう。何を教えているのでしょう、どう責任を取るつもりなのでしょう。
 
ただ、どうにも無視されたり、嫌そうな態度を取られるのは気持ちの良いことではありませんし、これに悩まされることを完全に無くすのは難しい…と思われる人は多くいらっしゃいます。
そこで、こんな考え方はいかがでしょうか?
マナーを守った上で、あなたが自分らしく振舞っていて、それであなたを嫌うような人達は、そもそもあなたとは合わない人達と捉えることもできます。
 
他者を気にせず、他者を無視する段階で、既に、マナーに反していると言われても仕方ない場合があり、そのマナーの基準は、相手の基準として、相手が決めている場合があるということです。
 
自己中心にばかり考えていると、じゃあ、マナーを守ったうえで、などと、曖昧な前提で、解決したような気になるのでしょう。その場で取り繕った感、満載ですね。
 
どう誤解されても、嫌われても、それで相手から離れていってくれるのなら、むしろこれはあなたの幸運でしかありません。
あなたが苦手な人、これからあなたを苦手になろうとしていた人の方から離れてくれているのですから。
 
嫌われる勇気らしいことを言って、幸運だと言っています。言い切るほどの一般性などない発言です。相手が離れてゆくことは、仕事がなくなることと結びつくことを考えないのでしょうか。無責任だと思います。
 
結局は、対人関係の分析力が問われることばかりです。様々な人間関係の場合の数の多さを考えると、逆説的格言的な言葉の歯切れの良さだけでは解決しないと思います。
 
あなたが自分らしくしていて、そんな自分を嫌ってくる人となんて、そもそも仲良くなりたいですか?
あなたを嫌う人に嫌われても、あなたは何も困る事はありません。
 
自分らしく?・・って、それが分かれば解決と言っていいほどの、ずっと、答えを求めているテーマではないでしょうか。突き詰めれば、人間関係での自分らしさ、ということになるでしょう。それに、全体のテーマは、仲良くなるという話でしたでしょうか。友達作りの話だったでしょうか。
 
生きるという大きなテーマではなかったでしょうか。手を変え品を変え、言い方を変えて、自己の言い分を正当化しようとしていることを見逃さないでください。
 
>無視されたら、無視し返せば良いのです。<
 
ヤケクソみたいに、目には目を、みたいな返し文句を勧めています。無視されることを、できるだけ、避けることを考えないのは、机上でブログ上で言い放って終わりという無責任だからではないでしょうか。
 
アドラーは他者との相互理解が幸福への道だとしていますが、世の中にはあなたを傷つけることを目的としてあなたに近寄る人間が少なからず存在します。
 
ここで、付き合い方一般から、極端に悪い他者の例をぶち込んできました。まるで理路に一貫性がないというべきでしょう。
 
どんなにあなたが頑張っても、相手にその気が無いのなら分かり合うことなんて不可能です。
分かり合えない相手と分かり合おうとして、振り回されてはいけません。
 
ブログ主は、どう頑張れと言ったでしょう。上のほうの"自分らしく"という曖昧な言い方は、頑張ったことになるでしょうか。教えを強引に、一般則に持ってゆくための詭弁の誘導のようです。
 
要するに、自分らしくして嫌ってくるような人とは上辺だけでお付き合いしておき、自分らしくしていて嫌ってくるような人と仲良くなる意味は無いので、気にかける必要は無いという考え方をすれば「嫌われることを怖れない勇気」が手に入るのではないでしょうか?
 
ここで、うわべだけお付き合い、という、とてもいい加減な付き合い方を教え始めました。そして、気にかけるな、というのですが、はたして「嫌われることを怖れない勇気」を、何かの極意のように、手に入れたいと思うでしょうか。
 
一貫性もなく、一般則にもならないで、最後は乱暴な煽(あお)りになっていると思います。
 
 
学んだこと:
 
入力なしの出力で養われるのは強情だけだ。
 
 
(2020年03月28日、同日一部修正)
 
 
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  矛盾の信仰
 
 
神は人知を超えた御方だから
神は人知を超えた奇跡を起こされるのだと
なぜか神の奇跡とその意味を得々として語る人がいる
 
神は人知を超えているのに
なぜ神の奇跡を人知が説明できるというのか
そのような説明は不可であり
それが確信ならば
その確信は信仰ではない
 
人は考える動物であるから
素人でも分かるはずなのに
しばしば人は自らの確信を信仰として神として語る
 
聖書は人の解釈を通さずに読まれることはなく
人は聖書の言葉を人の言葉として生かす思慮が必要なのに
しばしば聖書を解釈した自分の言葉を
神の言葉として語ることで満足してしまう
 
神を信じようとすればするほど
ますます神は理想化された偶像として人に作られてゆく
このように
自らの信仰は原初において既に矛盾しているのに
矛盾を省みず
神について聖書について
誤解や間違いや思い込みの可能性を考えず
確信として押し通せば
もはや信仰ではない
 
矛盾の原罪は避けることが出来ない
それが
「思い描く神はどこにもいない」
「思い込む信仰はない」
また「聖書は人の言葉」の理由であり
人の罪性は執拗にかかわってくる。
 
矛盾は信ずるに値しないなら
「信仰は捨てたほうがよい」の理由でもある
しかし同時に
キリストに繋がってしまった者において
「祈るしかない」の理由でもある
 
動物よりもマシに生まれて
寸足らずの思慮を持って
私が矛盾があることを認めても
祈ることをやめられないならば
それが理屈抜きの信仰であり
尾ひれの付かない信仰であり
原初からの信仰の経過である
 
神が人知を超えた御方というのは
人知を超えている神を確信することではなく
神を思えば思うほど
神について確信を持って語ることは出来なくなるということだ
 
神の立場はもちろん人にはなく
人の立場においても
達し得たと思うとき既に足元は崩れつつあるという常態
ゆえに信仰の言動において
柔和でバランスの取れた「敬虔なクリスチャン」は
社会通念のイメージに過ぎず
神を正しく信じるのが正当なら
クリスチャンは私を含めて一人もいない
正しくないことを認めたところから信仰は始まって
信仰によって赦されることはあっても
信仰によって正しさが担保されることはない。
 
神を恐れる人は
矛盾の信仰に身を置いている自らを知る人であり
それでも離れられない信仰について謙虚でしかありえない。
 
しかし
うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても
「神への恐れ」を知る人は極めて少なく
大方は孤立しており
さらに倒れており這っており狂っており
ときに悲鳴のように呼ばわるが
その声を聞く者が殆どいないという現実に返され
うちのめされている
 
 
(2012年03月)
(2020年03月26日、一部修正)
 
 
  人からの白眼の視野に生きて雪
 
 
九州では雪の季節は過ぎたのですが
身を切るような寒い風に吹かれて凍り付いている心地で、
私が生きてゆく日々は短く
私が逝く時は近いのかもしれません。
 
入院中の母のために何も出来ないでいる自分が嫌になります。
造られた意味を神に問うても答えはなく
それでも生きている間は祈ることをやめられずにいますが、
それが唯一の安らぎに近いひとときでもあるのですが、
 
先日「わかったね!」を繰り返されて
母と口喧嘩みたいになって「切るよ!」で
電話を切ってしまって、それから電話もないから
母は悲しんでいるかもしれないのに
独りの家でピザのデリバリーばかり頼んで食って、
昨夜眠れず、なぜか今朝になって唐突に思い立って
ブログの記事を書いている。
 
反りが合わず、耳も遠くて
コミュニケーションも取れないとはいえ
母がいることだし、自殺する勇気も今のところないのだから
目処の立たない暮らしの中で、
つくづく、常に私の生活には自己中心が付きまとい、
私の信仰にはどうしても神義(神の正しさ)の問題と
ルサンチマン(負け犬根性)が付きまとうものだと痛感しています。
死ねないものだから、せめて
自分の内部と来し方を斬って見たいと言う衝動だろうか。
長々と愚痴です。失礼いたしました。
 
 
(2012年03月27日、一部修正)
 
 
それまで自分で出来るつもりで手押し車で買い物など行っていた母が、2012年、転倒し、腰を痛めて整形外科に入院。何だか冷たい雰囲気の病院でしたが、そこで、私は、医師から痛みと所見が一致しないとのことで、また、母に聞くと病院への不満が強く、死にたいなどと言いだすため、心因性の痛みと抑うつ反応の可能性があるということで、生活重視の介護施設のほうが気が紛れるだろうと話が進んでいきます。そして、その後、介護施設にて、妄想、記憶障害などが明らかとなり、認知症の診断となって現在に至っています。
 
 
(2020年03月27日、再録+加筆)
 
 
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