ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年04月

 
  憂さ晴らし?
 
 山口敏太郎と藤倉善郎、そして幸福の科学(HS)
 2020年04月23日 (抜粋)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24514557.html
 
 
楽山の、やたら長い記事です。殆どツイッターからの引用で、責任回避するとともに、キリスト教を、揶揄したくて、否定したくて、たまらない楽山は、HSについての記事の、おまけのように、キリスト教の歴史の一つの仮説のようなものを出して、また、反キリストぶりを、ツーンとする悪臭の鼻息で突いてきます。
 
根拠を示せず、真剣な議論が出来ないときに、揶揄だけしておく、それが楽山です。いいかげん男は、他者のツイートさえ利用します。
 
実は稲荷がキリストだった!? https://mnsatlas.com/?p=58156  @より
実は稲荷がキリストだった!?
 
こういう引用をしてキリスト教をバカにするのが楽しい楽山なのでしょうか。引用して、アハハ、と笑うのが、楽山の憂さ晴らしの八つ当たりの軽口なのでしょうか。
 
恐らく、神のもとに平等ということが、楽山の自己満足の優越意識を妨げるから気に入らないのでしょう。まともな返しが全然できないから、稲荷がキリスト、→、キリストは稲荷、→、キリストは狐、キリストは稲荷ずし、狐の好物、油揚げ、という連想で、あざ笑ってストレス解消したいのだろうと思います。子供みたいです。
 
より高くを目指す学習ではなく、既に高い自覚から自慢となり、ゆえに、いかなる対象をも自分より低く低く蔑(さげす)むことで、楽山の狭い狭いワールドを誇大化して満悦するのです。髭を不器用に剃りながら血の滲(にじ)む病気の子供?なのです。
 
全国津々浦々で祀られている稲荷神であるが、狐の姿をした神様をイメージする方が多いであろう。稲荷神と同神と言われる宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)の別名である、御饌津神(みけつかみ)に「三狐神」と当て字されたからだと言われている。関西で狐は
トメぞう@おだ団イコラブ班莉沙推し
@3tome1ro
 · 2020年4月21日
返信先: @bintarouさん
原始キリスト教若しくは初期キリスト教が古代日本に伝来していて、神道の成立に影響を与えたって説は昔からよく聞きますね
山口敏太郎
@bintarou
古代の日本に原始キリスト教が流入している事は学術的真実だと思います
 
引用元のリンク先サイトを抜粋してみます。 https://mnsatlas.com/?p=58156 
仮説にすぎないと思いますが、読みたい人は、どうぞ。
 
 
全国津々浦々で祀られている稲荷神であるが、狐の姿をした神様をイメージする方が多いであろう。稲荷神と同神と言われる宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)の別名である、御饌津神(みけつかみ)に「三狐神」と当て字されたからだと言われている。関西で狐は「けつ(ね)」と呼ばれていた。
だがあくまでも狐が仕えているのであって、稲荷神は狐ではない。荼枳尼天(だきにてん)という白狐に乗った天女の姿をした仏教神との習合ともされている。
なぜ「稲荷」という名前なのであろうか。農耕の神様として「稲を荷なう」という字があてられ、稲が成るという意味も込められている。だがこれは後付けである。
 
元々は「伊奈利」と万葉仮名で書かれていた。現代では外来語にカタカナが使われているが、奈良時代は万葉仮名をあてていた。
これは多胡羊太夫(たごひつじだゆう)(聖徳太子に仕えていた秦氏の一族とも言われている。)という有力者の石槨から発見された、銅板に書かれていた「JNRI」が語源と言われている。
 
「INRI」とも書くが、当時の万葉仮名に「ン」がなかったため「イナリ」になったそうだ。
これはキリストの十字架の罪状書に書かれていた、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という意味の頭文字である。当て字として使われた「伊」は人編と神の杖という意味の「尹」で組み合わせてあるが、聖職者や治める者を意味している。「奈」には高杯に木を乗せて示すという意味がある。この2文字は、イエスと十字架を表していたようだ。
 
多胡碑の下に十字架も発見されている。「多胡」とは胡人が多いと書くが、胡人とは渡来人のことである。東方キリスト教徒も当時から日本に渡ってきていたのである。稲荷神社を建てた秦氏も同じく東方キリスト教だったと言われている。
 
稲荷神は豊受大神(とようけのおおかみ)とも同神とされている。「ウケ」は食物を指す古語であるが、ヘブライ語でも食べ物という意味である。
豊受大神は日本最初の神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とも同神である。古来の神道は現代のような多神教ではなく、元は一神教だったのだ。
日本の有名な神々である伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)は、旧約聖書のアダムとイブがモデルではなかろうか。
 
稲荷神社には赤い鳥居があるが、これも過越の日に子羊(雄)の血を2本の門柱と鴨居に塗ったという旧約聖書の記述が元でできたと言われている。
さらに平安京は船岡山を頂点とした十字架のような配置に並ぶ各地区が中心にあった。船岡山には「元稲荷」とも言われる義照稲荷神社が建てられている。ちょうど十字架の罪状書に位置されているようだ。
しかもユダヤの聖地であるエルサレムは、「神の平安」という意味なので平安京と同じである。
 
以上のことから、三位一体神であるキリストが稲荷神のルーツであった可能性が窺える。大手創業者にはなぜか稲荷信仰が多いそうだ。現代でも御利益を求めて多くの人々が稲荷参拝している。
 
キリストが数々の奇跡を起こしてきたという逸話も未だに残されているが、果たして稲荷神社の御
利益に繋がっているのであろうか。ただし稲荷参拝する際は、しっかりマナーを学んでからにした方が良いであろう。万一狐の祟りがあるかもしれないからである!
 
 」
 
最後は、引用元の冗談でしょうか、狐の祟りなどと言っています。ご利益に祟りにと、キリスト教には縁のなさそうな話ではあります。
 
(ネットより)
山口 敏太郎(やまぐち びんたろう、1966年7月20日 - )は、日本の作家である。
またライター、実業家、タレント、漫画原作者、オカルト研究家、超常現象研究家[1]、YouTuberとしても活動している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%95%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E
 
(ネットより)
久保 有政(くぼ ありまさ、1955年[1]7月13日 - )は、日本のプロテスタント系の聖書解説家、単立・池袋キリスト教会初代牧師。レムナント出版、レムナント・ミニストリー代表。作家として、月刊誌『レムナント』の主筆を勤め、誌上で求道者、クリスチャン向けに、聖書の基本的な教えを解説している。また、キリスト教に関する著述や講演も行なっている。兵庫県伊丹市生まれ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%9C%89%E6%94%BF
 
イスラエルから中国の秦に行った人々がいて、さらに、日本にわたって秦人と呼ばれ、日本の神社建築や、儀式などに影響を与えた、という説は、何かに書いてあったのを読んだことがあります。
 
しかし、仮説であります。しかも、神社や儀式の形式が、キリスト信仰の中心ではありません。だから、私は、ほとんど、こだわりを持っていません。
 
しかし、楽山のような人は、信仰ではなく、歴史の事実や形式に、キリスト教を卑しめるためにも、異常なこだわりがあるので、上のようなサイトの文章に執着するか、または、これこそはと悪用するのでしょう。
 
神社側は、どう考えているのでしょう。その視点は、楽山にはないようです。楽山は、自分の都合だけで、学説も仮説も解釈も選んで、総合的な見方はしない、ということが表れています。
 
聖書研究家としては、学説としてあってよい話です。しかし、これに、楽山のような香具師(やし)的興味が関わると、無根拠空想家である楽山自身の霊能話に結び付けるか、キリスト教批判に悪用するか、ということしか生まれません。楽山は、けなすために利用しているだけでしょう。
 
楽山や好事家つまり物好きと違って、神がこうである、こうであったと語るのは、歴史による場合は、ひとつひとつ事実として考察され、結局、歴史の仮説になるだけでしょうが、あくまで宗教の周辺の資料に過ぎないのです。それ以上を、または、それより深いところを、楽山が語れないことから明らかでしょう。
 
そういった研究をするのも、その文章を読むのも、個人の自由です。しかし、キリスト者は、歴史の仮説に、あるいは、たとえそれが事実であったとしても、そこに、信仰の中心はないということを弁えておくべきです。
 
学問が、歴史が、直接、信仰とはなりません。
 
神について、人は、決定的なことは、何一つ語れないし、語ってよい資格と能力を持ちません。私たちは、神ではないし、神と同等の能力も視野も持ってはいません。私たちは、全知でも全能でもないのです。神は、正しく理解できる対象ではありません。ゆえに、信じ仰ぐのです。
 
邪魔だけしかできない楽山や、好事家の言を、少なくとも信仰として、真に受けるべきではないと思います。それらは、信仰ではなく宗教の、しかも周辺の、あくまで歴史の説の域を出ません。ましてや、地道な努力をする気のない楽山の言など、一瞥の価値もないのです。
 
好事家(こうずか):
(ネットより)
こう ずか かう- [0]【好事家】
変わった物事に興味を抱く人。物好きな人。また、風流を好む人。 「 -向きの品」 「 -の手になる研究」
https://www.weblio.jp/content/%E5%A5%BD%E4%BA%8B%E5%AE%B6
 
私たちには、みだりに神の名を唱えるな、という戒めもあるように、神の全能とは違う不完全の人としての弁えが信仰を支えるものです。そういう立場の人間である自分を、神の前に、キリスト御名を通して捧げるのが、祈りであります。
 
 
(2020年04月25日、同日一部修正)
 
 
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  詭弁と公共の害(1)
 
 
おもにカルトのマインドコントロールのための詭弁に対して、心得るべきことを、一応、まとめておきたいと思います。あくまで、今、考えられることを書いています。
 
ここでいうカルトとは、犯罪行為の有無にかかわらず、反社会性に結び付く可能性を否定できない思想と宗教および信条のことです。
 
私のことを、自説を主張して、他の説を否定し邪魔する者のように言っている者がいます。彼らは、丁寧な言葉遣いの中に、他者を軽蔑し侮辱して止まない病理があることを、今まで書いてきたつもりです。
 
やたら批判するのではなく、カルトの説が成り立たないからこそ批判が生まれるのです。人それぞれ、というのは、無制限に成り立つものではありません。
 
その病理は、単に性格的に、強情、自慢好き、頭が硬い、頑固、などというレベルではありません。それだけなら、深刻な事態の話には、良心を見せるでしょう。カルトや人格異常では、継続し、訂正不能な、感性と知性の欠乏~ゆがみがあります。
 
自慢好きは、普段、自分を強い人や出来る人に見せかけようとします。カルトは、普段、自分を受け入れやすく親しみやすい柔和な人に見せかけようとします。両方とも、実体は、逆であります。
 
カルトは、先天的+後天的に形成される体質が影響しており、大人になるまでに固着してしまったところの、訂正不能、無反省、罪悪感喪失、という性質があり、交流によって改正することが不可能な、他害性と破壊性を持っているのです。
 
私は、おもに、信仰者としての立場から述べてきましたが、社会的見地から、人格障害、パーソナリティ障害と呼ばれるものと、かなり一致するでしょう。
 
思いやりがなく反省しない人格です。しかも、狡猾であるゆえに、処世術として、丁寧語や世辞を使うので、一部の人々に受け容れられ、それが犠牲者そしてお仲間になります。つまり、人格破壊は伝染します。
 
与えた害を隠し、あるいは、ごまかし、他者のせいにして、難を逃れ、比較的高い社会的地位を持つ者もいるでしょう。
 
そういう人に、決して就かせてはいけない職種があります。宗教関係、教育関係、福祉関係、医療関係、警察関係、司法関係、政治関係、といったところです。いずれも、強制または半強制の権威、または、教える立場を持つ職業です。
 
私は、宗教と信仰について述べてきましたが、上にあげた職種は、宗教を除けば、いずれも、公務員として勤めている場合のありうる職業です。
 
 
(敵対カルトからの悪口・詭弁と、対処)
 
悪口は、曲がった信条から、しかし、最初から故意の嫌がらせであることも多い。
 
こちらの完全には辻褄が合わないことをもって相手の信仰を全否定する。
  
  一部の謎が残されていることによって全部を否定する。
  神がいるなら、なぜ悪が?・・謎があるのは間違いだという主張。
  
  自分が完全だから神が分かるという意識がもたらす詭弁。
  神を完全に理解することは不可能。
  
一部をもって全部を言い得たかのような言い方。
  
  聖書や歴史の、復讐や、残虐行為、戦争などを言って否定してくる。
  
  理路の破綻(はたん)を指摘。
  人間に失敗があることは、信仰を否定しない。むしろ信仰の源泉である。
  
矛盾を神のせいにする。
  
  神の全能について、人間にも分からないと気が済まない欲望。
  全能に成り上がっている傲慢。
  
  矛盾しているのは人間の不完全性による。
  
似た響きを持つ言葉にすり替えて否定する。
  
  厭世と無神論をあげて、厭世の美学をもって無神論を肯定する。
  
  厭世=無神論は成り立たない。
  
自分が言われそうなことを先に言ってくる。
  
  聖書をだらだら引用して、こちらのことを、ろくに聖書を読んでいないと言う。
  
  信仰なき引用は、総て無意味。悪意による引用を指摘。
  
丁寧な言葉と、貶(けな)し言葉を、同じ時に、両方使うことがある。
  
  それをもって、カルトは、こちらと違って、柔和だと言ってくる。
  
  貶しが本音である流れに、丁寧な挨拶など入れるのは不自然。
  
  丁寧語を加えることで貶しを中和できると思っている。
  人間としての自然な情感の流れの欠如。
  
信仰者が不十分であったり欠点を持つことを指摘して貶す。
  
  クリスチャンなら・・云々・・のはず、などと欠点を指摘した気分でいる。
  
  信仰者が完全であるという先入観を否定。
  完全でないことを知って、信仰が始まり、また継続する
  という、信仰の本質的なことを全く知らないことを指摘。
  
信仰者の、完全でないこと、不名誉なこと、などを論(あげつら)い、詰(なじ)る。
ときに人間失格みたいに言ってくる。
  
  不完全のくせに、ダメ人間のくせに、批判するな、という皮肉や当てつけ。
  
  信仰を脅かすものには抗弁は必須、加害者はそちら、という指摘。
  また、むしろ、相手に、完全・不完全など語る資格がないという指摘。
  嘘や、事実に反すること、カルトの無益と害、等の表れを具体的に指摘。
  人間失格を切り返す。
  
なぜ、なぜと、機関銃のように、問い詰めてくる。
  
  故意に情緒を乱そうとする下等な戦術。
  
  それが議論だと思っている低劣さを指摘。
  その戦術の愚かさを指摘。本来の議論から外れていることを指摘。
  
  時間的余裕のある対決を選ぶ。コメントより記事など。
  
こちらの発言を無視して自分の論理?を押してくる。
  
  こちらの言うことを聞いてられないと
  呆れた風情で言い訳してくる。
  
  その旨を指摘。同じ指摘を返す。
  むしろ、こちらの言うことを聞いていないことを指摘。
  こちらへの低劣の指摘に根拠がないことを指摘。
  
こちらの意見を何も読まないで、自説を言いまくる。
  
  自説を言うことが目的であり快感らしい。
  
  決めつけであることをを指摘。
  根拠がないことを指摘。自己顕示を指摘。
  腐った欲望であることを指摘。
  
  こちらの言い分の根拠を指摘。
  異常な言を、正常な言によって否定する。
  
カルトだけでなく、妄想的無神論者もいる。
  
  熱心に、執拗に、神を否定してくる。
  
  少なくとも、神の存在は、信じる者にとってのみ有効である。
  そして、それは、人間の元々持っている良心に矛盾しない。
  
  神の不在と存在否定を決めつける主張は、
  神の存在を恣意的に決めつけてくるカルトと同じベースを持っている。
  どちらも本当の神を考えていない。
  
  個人の必要として神を信じる人にとっては
  自分をいつも味方してくれるだけの神であるなら
  欲望と自己中を促進するだけだから
  それは自己中カルトの神信仰?と同じである。
  
  神は、いつも味方してくれる神?ではなく
  いつも父としての見方をしてくれる神である。
  どちらが人を生かすだろうか。
  
  神は、ご自身の領域に人を入れない。
  神は、人の領域に愛ゆえに妬みも入れる。
  戒める神と懲らしめる神を忘れてはいけない。
  
  人間を戒める神も信じるのでなければ、
  本当の意味で、生きるための力にはならない。
  美味しいだけの神、それは、カルトの神?である。
  
  したがって
  信仰者は、神について
  時々の御心を推測し
  判断して、かつ、決めつけず、
  反省と悔い改めの心を持ち続けることが肝要です。
 
 
(2020年04月24日、同日一部修正)
 
 
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  見当違い
 
 悟りとは何か?(『漱石全集月報』)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24499132.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、二人の小説家の言葉を、単純と言っています。単純なのは、楽山です。
 
野村傳四氏によると、夏目漱石は悟りについて次のように言っていたそうだ。
私は途中、先生に「悟り」と云ふ事を御尋ねしたら、先生は言下に「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」と敎はつた事を明らかに記憶して居る。
(『漱石全集月報』岩波書店、1976年、p.355)
 」
これは「一切は過ぎ去ってゆきます」と言うように、目の前の現実をそのままを語っているだけで、言葉としては随分単純なものではある。
 
「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」を、太宰の「人間失格」だったと思いますが「一切は過ぎ去ってゆきます」という言い換えが出来るでしょうか。
 
私は、前者を、同じ人間、後者を、過ぎ去って消えてゆく、空しい、という意味に受け取りましたが、楽山は、説明もしないのでしょうか。いつもながら、乱暴です。
 
でも自分はミジュクであるせいか、いまだにこの考え方を身につけることができていないのだから恥ずかしい。言葉の意味は分かっているつもりなのだが、どうにもこうにもこの言葉通りの思考ができないのだ。
 
楽山は、言葉の意味が分かっているつもりと言っています。違うんじゃないでしょうか。それと、これらの言葉は、思考を表しているのでしょうか。人生観だと思いますが。楽山は国語を教えないでほしいです。分からんことばかり書いてきます。
 
生まれつき、根がどこまでも理想主義者にできているせいか、
 
楽山は、理想主義者ではないと思います。何故なら、宗教の理想も意味も、分からないのに否定し、あざ笑っているだけだからです。
 
いったん相手に惚れ込んでしまうと、極端に美化して神のような存在にまつりあげてしまったり、はたまた臆病で被害妄想の癖があるせいか、相手によくない印象を持った時には、その人は悪意に満ちたモンスターかなにかのように決めつけてしまったりして、ついつい相手も自分と同じ人間だということを忘れてしまうのだ。これは本当に反省しなければならぬ。
 
同じ人間、ということを、ここで言っています。また、反省について書いています。混乱しているのでしょうか。あるいは、太宰の引用と言い、自殺でもする気なんでしょうか。さらには、自殺するぞと脅しているのでしょうか。しかも、思い通りにならなかったら死ぬぞ・・みたいに?・・見当違いも甚だしいです。
 
楽山と太宰は、違います。太宰は、嘆くべきことを嘆いていますが、楽山は、嘆いたことはない人だと思います。自分の欠点と失敗と不出来を、この世か他者のせいにするつもりでしょうか。悲劇のヒーローを気取りたいのでしょうか。太宰を持ち出してほしくないです。
 
そういえば随分前に見たジョン・レノンのドキュメンタリーでとても印象的な場面があった。ジョン・レノンは自宅の庭内に忍び込んできた熱烈ファンらしき若者に対して、自分の姿をよく見ろ、他と変わらぬ人間だろうとか何とか言っていたのだった。
 
また、同じ人間、ということを言っています。どうやら、記事の文脈には、かなりの作為があるようです。
 
どうも自分のことを英雄視したり、偶像化するなということらしかった。そしてその後は、しょんぼりしている若者に朝食は済ませたかを問いかけ、まだなら食べて行けと優しく声をかけていた。
これはヤラセ無しの事実だったのか、それとも脚本があったのかは分からないが、どちらにしても名場面であろうし、ジョン・レノンは「彼も人なり我も人なり」を悟り、身につけた人だったのだろうと思う。
 
同じ人間ということなら、ヒーロー願望からは対極にあるでしょう。また、悟りと言うほどの、珍しい発想でもないでしょう。当たり前を、掘り下げたかどうかということでしょう。
 
でも自分はこの場面を思い出すたびに、やっぱりジョン・レノンはすごいと、ますます神格化してしまっているのだからどうしようもない。自分がこれを悟るにはまだまだ時間がかかりそうだ(笑)。
 
ますます神格化、というのは、楽山の言葉の信頼度ゼロという私の立場からは、むしろ、楽山の、こんなに自分は特別なのに不当に扱われているという恨み、いわゆるルサンチマンを感じます。
 
テレビの「特捜9」を見たのですが、「あの人たちの、(喜びだったか何だったか、)・・人の痛みなんですよ」という台詞がありました。「暗渠(あんきょ)から狙っている」という台詞もありました。エピソードのタイトルは、その「暗渠」。
 
ルサンチマンは、弱者に募る怨念、負け犬根性、などとも言われます。
 
(ネットより抜粋)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
ジラールによればルサンチマンとは、乗り越えることのできない理想的モデルに対して誰もが抱く単なる嫉妬心にすぎない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3
 
(ネットより)
あん きょ [1] 【暗渠▼】
覆いをしたり地下に設けたりして、外から見えないようになっている水路。 
⇔ 明渠(めいきよ)
https://www.weblio.jp/content/%E6%9A%97%E6%B8%A0
 
ルサンチマンと暗渠は、どちらも、隠れているもの、という共通点があると思います。楽山の今回の記事にも、隠れている、あるいは、隠されている、とても暗いものがあるような気がします。
 
 
(2020年04月23日)
 
 
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  人を疑わない?
 
 人を疑わないこと(『漱石全集月報』)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24485520.html
 2020年04月21日
 
 
自分にマイナスの言葉を当て反省に見せかけている楽山ですが、一方で、批判者を反面教師と呼び、批判をまともに受け取っていない自己正当化があらわになっている楽山です。
 
実際、楽山は、反省という言葉だけで、実のある反省の文章など、一度も書いていないのです。今回、反省という言葉を使って、また、嘘を吐いているだけです。
 
楽山の自己愛からの嘘は、詐欺の嘘は、凶暴な精神の嘘は、楽山の文章に表れるのです。理路も情緒も無く垂れ流される楽山の文章は、同時に楽山自身を流してゆく汚濁となるでしょう。
 
恐ろしい自己愛の問題から背を向ける姿勢は、全く変わっていません。反省とか書いても、文章を見れば分かるのだから、無駄なのです。
 
これは森田草平が夏目漱石について語った文章である。どうやら森田草平から見た漱石は、むやみに人を疑うようなことはしなかったらしい。
實際、先生は自分で嘘を云はれないから、他人の言葉もその儘正直に受取る癖があつた。
(『漱石全集月報』岩波書店、1976年、p.308)
 」
恥ずかしながら自分の場合はどうかと考えてみると、常々、相手の言葉をそのまま素直に聞くように心掛けてはいるものの、
 
「素直に聞くように心がけてはいる」・・とんでもない、いつも、自己愛のフィルターで見て、利用できるものだけを引用し、批判に対しては執拗に嘘を吐いてでも、自己正当化しようとします。反省できる自分を気取る芝居です。
 
楽山は嘘を言わないでしょうか、とんでもない。書いていることの大方が嘘です。今回も。
 
本当に素直に聞いて、反省しているなら、記事など書けないはずなのです。
 
今まで、問いかけに答えようとしないのに、初めて書くように書いているのは、これなら、もともと素直で反省する人である楽山、というのを真に受けてくれて、批判者である私の批判がおかしいと思ってくれるだろうという魂胆でしょう。
 
実際は、素直でもなく反省だけはしない楽山を、嘘と芝居で見せてきたのです。ナルシストは、反省することが出来ません。
 
被害妄想の気もあってか、嘘をつかれているのではないか、騙されているのではないかなどと無用の心配をして人を疑ってしまうことは少なくないというのが正直なところだ。
 
この記事も、わざと、ネガティブを自分に当てはめて、元々自覚しています、という刷り込みをしています。
 
被害妄想、嘘を吐かれ騙されていることを心配して疑う、などと言って、言われて反省したのではなく、私に批判され指摘される前から、もともと楽山は正直な人ですアピールをしてくるとは、今までの経過から決して成り立ちません。どこまで浅ましいのでしょう。
 
また自己顕示欲が強いせいか、自分は物事の本質を見抜き、嘘を喝破することができるということを人に見せつけて、自己を誇りたい気持ちもあって、必要以上に相手の言葉のウラを考えてしまうことも無きにしも非ずなのだから情けない。
 
自己顕示欲、できると見せつける、自己を誇る気持ち、情けない、いずれも、私が批判して指摘したことです。それに答えるのではなく、それこそ、言葉の裏を考えて、作り上げた詭弁であります。詭弁だけしかない、それが、楽山です。
 
真摯に反省しているなら、反省の弁よりも、偉そうな投稿を控えることで今反省していることを表すはずですが、前からそうだったを出すことで、また、それを、わざとらしく、言葉だけ正直を真似て書いてくることで、かえって、治す気のないことを自分で証明しています。
 
笑いながら、不正直な芝居の文章を書くのが気持ちよいのでしょう。騙されてはいけません。
 
安い反省言葉で、帳消しになるような、自己愛性ではないのです。楽山は、実にインチキばかりの知能犯です。騙せると面白がっています。この悪意だけの、逆を狙った、遠回しの大嘘に、身の毛が弥立ちます。
 
でもこんな自分であっても、ネットを見るようになってからは、そういう欠点をよりはっきりと自覚できるようになったのはよかった。
ネット上の議論を見ていると、相手の言うこと為すことをやたらと疑う輩がいるし、信じることを尊しとする宗教信者(一部のHS信者)でさえそういう風に疑心暗鬼に陥っている場合がある。また相手の言葉を変に捻じ曲げたり、おかしなウラ読みばかりしたあげく、ちょっとした事実誤認や間違いを見つけては、さも相手の嘘を見破ったかのように誇らしげに語り、自慢する人もいる。
 
欠点をはっきり自覚した文章を書いたことのない楽山です。今さら、嘘で、芝居で、軽く軽く、分かっていたのですアピールは、何とも笑止であります。・・なんて汚らしい文章と性分・・
 
それら楽山の文章、総て、楽山のことです。人の悪を言えば、必ず、楽山に返ってゆくということが、最近ずっと表れています。
 
相手の言うことを疑うというのは、怪しければ必ずそうなる必然なのです。その根拠も書いてきました。楽山は、自分の言うことを、疑うことなく信じ込む人を餌食として求めているのでしょう。
 
十把一絡げに、ねじ曲げた、裏読み、などと言い返したつもりのようですが、楽山は、納得のゆく弁明も反論もしたことはありません。だから、曲がっているのは、楽山の見方が曲がっているからです。
 
ここで悪口全開です。ちょっとした事実誤認や間違いではありません。楽山の嘘は、人格を破壊すると、前から書いてきました。また、嘘は、嘘としか言えません。私は自慢のために書いてはいません。
 
嘘でないなら、弁明に説得力があるはずですが、そのような説得力は、どこにもないまま、今回、また、言葉を並べるだけで、嘘の反省をして、結局、読者を騙し、批判者である私を罵ってくる攻撃性しか見られない楽山です。
 
どこにも反省の実(じつ)がなく、相変わらず高慢なのが筆致に表れているのに、その調子で反省文を捏造し、批判者への呪いの言葉と、無理解と無反省と霊的妄想と自己愛だけが恐ろしい実をもって迫ってくる楽山です。
 
楽山は、ただの無知によって愚かなのではなく、無視と無恥と、今回は、正直芝居によって、つまり一貫して、だますことしか考えないところの言論詐欺師です。決して言論の場に参加してはいけない人なのです。
 
また、似たようなことを、手を変え品を変え、自慢げに書いてくるでしょう。楽山というHNを、これからも使い続けたいのでしょう。形だけ、反省、反論したかのように見せかけています。それを支持する文脈は過去になく、十中八九、未来にもないでしょう。
 
このような成り行きでは、楽山には、"狼と少年"が当てはまり、何を書いても信用されず、一人笑いが反響し続ける醜い顔面だけになってゆくのでしょう。
 
どこまでも、何を書いても自慢になり、正直な反省が出来ない楽山です。これが自己中に固まっている異常者の、慣れの果て、そして、末路になるのでしょう。
 
自分としてはそういう場面を見るたびに、我が身の至らなさを反省しないではいられないし、人の言葉はなるだけ素直に受け取ることができるようになりたいと思うのだ。人の振り見て我が振り直せというけれども、昔の人は本当にうまいこといったものだ。あまり好きな言葉ではないけれども、自己研鑽のためには、理想に学ぶだけでなく、時には反面教師に学ぶということも必要なのだろうと思う。
 
我が身の至らなさ、反省、と言いながら、批判者を反面教師と言っているところに、楽山の見苦しい本音が表れています。つまり、至らなさなど感じておらず、反省などしていない、みんな芝居だというのが、サディスティックな本音だということです。
 
楽山の、相手を悪の見本であるところの、反面教師、と呼ぶ言葉の選択に表れているのです。自分の悪を認めておらず、相手を悪と見なしていることが、反面教師という言い方に表れています。
 
そして、反面教師は、今は資料となった虚言癖の偽善者シャロームについて私が書いていた言葉でもあります。同じように反面教師となるための資料と化してゆくのは、楽山その人であります。
 
一日も早く、宗教という重たいテーマを扱うブログから、いなくなってほしい楽山です。
 
楽山の、霊的妄想家、アドラー教宣伝者、自己愛性人格障害、自己中以外からの軸を持たない偽言論、論理にも感性にも訴えることのない騙しと貶めと破壊だけの無遠慮な文章は、質朴な真実の追求に対して、実に煩わしく粘着する邪魔そして妨害になるだけです。
 
 
(2020年04月22日、同日一部修正)
 
 
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  神について語るには(再)
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが
神という御方を考えるとき
全知全能の神については
私たちの概念の箱には到底納まらない
ということを言いたいのです。
 
神と聖書について人間が持つべき箱は
修正可能な分かったつもりの箱と
分からない保留の箱だけです。
 
したがって
「神」を概念や観念として
言葉で考えることは
無理すれば
人が全能者を扱うことになり
教条主義という罠に堕ちるでありましょう。
 
全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ
全能ではない人が
神の概念を語ることは困難であり
語るにあたって
少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのか
ということになりますが、
恐れを持つということは
語るなということではなく、
語る内容を言葉で決めつけてはいけない
ということです。
 
どういう姿勢で
神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく
導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど
神が人に及ぼした作用の
人における経過と結果から理解できて
推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、
導きを受けた人のことを語ってもよいし
そういう人の様子や経緯から
推測できることを語ってもいいでしょう。
 
神そのものは
人によって捉えられるものではありませんが
神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については
人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから
人が聖三位について語るとき
最も多く語れる対象はキリストであります。
人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については
なお人間の理解の届かないところにあります。
キリストを
物や肉体の奇跡を追いかけて
魔法使いの言行みたいに語ってはいけないと思います。
そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと
キリストが救った人々との交流から
救いとは何か
 
キリストが批判した人々との遣り取りから
救われないとは何か
 
ということを学ぶことは
決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで
自分に、そして人間関係に、
さらに思考や感情に、
そして人生に
どのような変化があったのかを
語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの
信仰がどうあるべきか
信仰者がどう生きるべきか
などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として
心が揺さぶられることは
キリストからの愛に
そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて
総じて
導きは祈りに帰してゆきます。
祈りは
その日までの経過であり
その日からの出発点なのです。
 
 
(2019年04月アップ)
(2020年04月18日、一部修正)
 
 
神様のことは
ちょいと徳の高いお爺さんがいるから
話を聞いて仲良くしましょう
ではないのだから
会えば分かるでもないのだから
会って直接話を聞ける相手でもないのだから
おとぎ話に出てくる仙人みたいな人でもないのだから
少なくとも信仰者は
善の代名詞みたいに
気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように
自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして
形容だけ大袈裟にして
大真面目を装って嘘を吐く輩が
キリスト教内外にいますから
彼らのように気負って
神の意志と行為を決めつけてよいものでもありません。
 
人に起こることというのは
聖書からだとしても
よく語られる超常話が人を救うのではなく
つまり物や肉体の奇跡ではなく
 
人間であれば理解できるような
人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか
人間に理解できることが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが
聖書にはたくさんあります。
そこに触れた者は
理解できないことや疑問や矛盾は
人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は
自らの経験と思考の届きうるもの
すなわち、人間であれば
理解できること、共感できること
それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは
神様は、こんな不思議のわざを・・すごい!ではなく
 
神様は、主イエス・キリストは、このように思いを共にして下さる
という人間の根っこを震わせる孤独からの解放を
聖書から学び、また、生きるあいだ考えてゆくことなのです。
 
 
(2020年04月21日)
 
 
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