ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年05月

 
  油膜の視線
 
 「第三講 ヨブの哀哭」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24969648.html
 2020年05月30日
 
 
楽山は、信仰という重要なテーマについて、要点をメモしておくと言っているようですが、楽山の言う要点とは何なのでしょう。メモとは何なのでしょう。
 
個人的なメモならば楽山のノートにでも書いて自分だけ読めばよいのに、メモと言いながら、公開して人に見せようとする自己顕示欲と、さらに、メモと言いながら、易々と"タブー"に触れてしまうところに、今までの例のごとく、楽山の厚かましさが表れているのです。
 
内村鑑三の『ヨブ記講演』の第三講を読んだので、例のごとく、その要点をメモしておきたい。
・ヨブ記第三章の研究。
・七は完全を意味する。七つ目の艱難で、艱難はその極に達する。
・友の見舞いを受けて以後、七日七夜、言葉を発せず。
・ヨブは艱難にあっても、神も社会も他者も呪わず、「その生まれし日を詛った」。
・ヨブは死を思うも、自殺は考えなかった。
・聖書にある自殺の場面は四ヵ所。イスカリオテのユダ、サウル(サムエル前31)、アヒトベル(サムエル後17)、ジムリ(列王記略上16-18)。
・「人の苦痛は人の慰謝を以て慰めることは出来ない。ただ主キリストを知りてすべての苦難に耐え得るのである」。
・パウロはキリストを知っており、ヨブは知らなかった(コリント後4-8以降、ヨブ42)。
 
パウロは、新約聖書の人です。ヨブは、旧約聖書の登場人物です。ヨブが、イエス・キリストを知るはずはないのですが、ヨブはキリストを知らなかったと、わざわざ書いているのは、どういう意味でしょう。旧約で預言されたメシアを知らなかったという意味で言っているのでしょうか。
 
この、どこにも広がらない紛らわしいメモは、何なのでしょう。ひょっとして、デタラメなのでしょうか。口から出まかせなのでしょうか。要点にも、ヒントにも、序文にも、まるで、なっていません。
 
キリスト教において自殺はタブーになっているという話はよく聞くけれども、キリスト教とホスピスの関係を思うと、自殺はタブーとはいえ、それは何が何でも生きられるだけ生き続けなければならぬというわけではなく、延命を拒否して死を受け入れることは必ずしも否定していないようにも思える。おそらくはこの辺りについては、外部からはうかがい知れない難しい議論はあるのだろうな。
 
楽山の気安さが表れています。「キリスト教において自殺はタブーになっている」ということを平気で言ってますが、実際には、キリスト者も自殺することがあります。そのことを、恐らく、楽山は、キリスト教に従わなかった人という見なしで済ませてしまうのでしょう。
 
タブーは、禁止事項とか禁忌ということですが、自殺というのは禁止されたら、しないものなのか、なぜ、自殺は禁止となっているのか、ということが、ふつうは、考えるべき問題となるのですが、禁止か、禁止でないか、ということしか、楽山は考えることが出来ないようです。
 
自殺してしまうと、この世からは手の伸ばしようがない、ゆえに、自殺だけはしてくれるな、という切実な思いが表れていることなども、楽山は気づかないのでしょう。
 
そして、楽山は、代わりに、ホスピスの話をしています。ホスピスの「病からの死を受け入れること」と、自らを殺すという自殺の問題は、決して、同じ問題として考えることは出来ないはずですが、楽山は、"死を受け容れる"という字面だけで、同列に考えてしまうのでしょう。
 
このように、問題意識がズレてゆくのが、楽山の、学習と成長のない、字面の連想だけの思考の特徴であります。そうして「うかがい知れない難しい議論はある」などと、実にお気楽に人任せにしてゆくのです。書く必要など、見せる必要など、どこにもないのが、楽山の文章です。
 
こうして、読む側にとってはメモにも要点にもならない文章を、書いて見せてくるのが、楽山の自己顕示欲の特徴です。
 
こういう楽山の主張を、何気なく読んで、何となく頷いてしまうと、受け取った側の思考も影響を受けてルーズになってゆくのです。かといって、反発すると、今度は、楽山の執拗さに疲労させられてしまうのです。
 
こういう意味で、楽山の文章は、キリスト教とキリスト信仰について、さらに宗教一般について、無意味で無益なだけでなく、有害だと判断しています。
 
ちなみに仏典では、悟りを開いた僧が自死する場面が描かれていたりするが、釈迦はこれについてはキリスト教一般とは異なる見解を語っている。当然のことながら、一つの事柄についての判断は、宗教によって異なるということなのだろう。
 
そして、これまた、釈迦の見解がキリスト教とが異なる、そして、一つの事柄についての判断は宗教によって異なる、という、同じようなことを2回言ってるような書き方で、記事を終わるのです。これが、読者にとって、何の要点に、何のメモになるというのでしょう。
 
自らの汚水の中を見ないで、浅い油膜の表面だけを眺めているような楽山の、雑で迷惑な思考・思想・宗教観に、決して、近づかないでください。
 
 
(2020年05月31日)
 
 
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  陰から光へ (再)
 
 
愛を知りたければ
愛のない世界の有り様を知ることだ。
 
憎しみ、恨み、嘲り、罵り、
そして言葉と肉体の暴力の世界
 
すべて経験していなくても
弁えるべき知識として考えることだ。
 
真善美を知りたいときも
同様である。
 
陰性を知ることで
その対極を想起することが必要だ。
 
陽性ばかりを見て
良かったと言っても
人間にとって
陽性の見聞きが与えるものは
飾り言葉になりやすく
弱く浅く薄くなりやすい。
 
それは恐らく
気持ちの良さを優先するからだろう。
 
キリストの愛を受け取った人々は
マイナスの世界を知っていた人々。
 
 
キリストの
物や肉体の奇跡に彩(いろど)られた愛を知っても
真似ができるわけではない。
 
いい話の
夢が叶う物語が
実話でもフィクションでも
真似をして叶うとは限らない。
 
 
真善美と愛を裏切る偽善者の話を見苦しいと分かるためには
真善美と愛を少し知っているだけでなく、偽悪醜を知る必要がある。
 
反キリストのカルトと偽善者を見ることは
彼らがなぜそう呼ばれるのかを知ることで
そうならないための道を暗示するだろう。
 
カルトの偽善者は愛を知らない。
彼らは都合の良さを漁(あさ)っているだけだ。
 
彼らに頷かない姿勢を学ぶなら
それだけで良き訪れといえよう。
 
真善美を描くときには
必ず悪役が登場する。
 
現実もそうである。
それも逆説的に福音とも言えよう。
 
多く勘違いされて
美談ばかりを語ろうとするなら
 
美談を罠として利用する者を見逃してしまう。
 
愛を知りたければ
カルトに感染しないための予防注射として
愛のない世界の存在を知ることだ。
 
そうすれば
美辞麗句で飾った話など出来なくなるだろう。
 
 
罪人である人間は
真善美の信仰を知ったつもりで
真善美という言葉によって
真善美らしい外套を身につけるが
それで真善美が伝わることはない。
 
真善美の字面だけなら
真善美は私たちを裏切るからだ。
 
聖書もまた
信仰を心から讃(たた)える者だけでなく
信仰を讃えながら曲げる者が出てくることで
理解を深めることが出来る。
 
愛のないさまを見るとき
愛のある様を対極に思い描いている。
 
人は愛のないところを知って
初めて愛を求める。
 
キリストが見抜いた最も大きな罪であるところの、善の仮面をつけた偽善は、いつも"光"の芝居をするので、その陰の部分を知らない限り、あたかも光のように見えて、社交の世辞が斜光となって、人を欺き続けるだろう。
 
陰に潜む凶悪な偽善を見抜くために、陰を知ることが必要である。和(なご)みを装う笑顔の裏に、あざ笑いを見抜くだけの感性が必要である。その答えは聖書に、偽善と闘ったキリストの生き様にあります。
 
光だけを見ようとしても
陰のない光は何も見えないのと同じだろう。
 
光は
陰のあることを知らせて
光と自覚される。
 
私たちは陰影の中に生きている。
 
 
(2020年05月30日、修正再録)
 
頷く(うなずく)
彩る(いろどる)
 
 
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  人の復活(修正)
 
 
死人が蘇る話よりも
先に考えるべきことがある
 
信仰はその原初から
神との関係への人生の依拠であり
かなりの依存でもある
 
自立した信仰などありえず
信仰は紛れもなく
神に人が依存し
かなり甘えることに他ならない
 
語弊があるなら
神のみに依り頼むことと言ってもよい
 
神に依存し甘えるとは
祈りにおいて神に対して
人は既に
かなりの無礼を働いているということだ
 
私たちの信仰は
100%を目指すことは出来ない
 
100%を目指せば目指すほど
思い込みを強くして
偶像信仰になってゆくだろう
 
何故なら私たち人間は
一人の人間である他者さえ
完全には理解できないでいる
 
ならば
神の全知全能・完全絶対・永遠不変など
理解できるようなものではない
 
私たちの信仰は本質的に
決して100%を目指すものではない
 
神はそれをご存知で
福音を賜ったと思うべきである
 
すなわち不可知の神への依存は
人間としての地上の人の世での自立を促す
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはない
しかし、そこを間違えれば
おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはある
 
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは
今信じていることを固定することではない。
 
信仰を固定しようとすることは
動かなければ成長しない人間の
成長すらも拒む姿であり
それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目の信仰?であり
偽善者やカルトの信じ方である。
 
信仰は
不明を呑みこんで信じ込むことではない。
 
信仰において信じるということは神を理解することではなく
100%を目指すことではない。
 
救いの成就が目に見えなくても信仰は
一生の付き合いとなるほどの賜物を心に受けて起こることである。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば
不感不応の慢心からの信仰自慢に他ならない。
それは信仰ではない。
 
今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかないからだ。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は
賜物が必要なほど不完全な自分を知っている。
 
境地自慢のような信仰をひけらかすことはしない。
 
それでも人間の信仰は不完全である。
それは人間が不完全だからに他ならない。
 
だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ない。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは
それ以上に尊いものを他に知らないという讃美である
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に
「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくない
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはない。
 何故なら神の前で
 人は決して大袈裟にはなれないからである。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が
様々なカルトに悪用されている事実を見ても
聖書に心を揺さぶられたことがなく
心に受けたものがないまま
讃美と信じ込みが信仰だというのは間違っている。
 
人が真の神を相手にすることは出来ない。
そんな能力は人にはなく
真の神に人知はどこまでも及ぶことがない。
 
ならば信仰は否定されるだろうか。
人は神を信じてはいけないのだろうか。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から涎のように
だらだらと引きずる醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じられないときに信じたという不可避の必要があるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への思いの境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとっての復活である。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないということだ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
(2011年12月08日)
(2019年05月17日、修正)
(2019年05月18日、一部修正)
 
(2020年05月29日、一部加筆修正投稿)
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
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  批判と悪口
 
 
芸能スポーツの女の子が、ネットで酷いことを書き込まれて、自殺した可能性があるような・・という報道が話題になっています。
 
誹謗中傷コメント以前の、ベースとなるような、トラウマとか差別とかの問題の可能性はないのかな・・とも思いました。
 
攻撃的なコメントを書きこむことについて、法によって抑制するべきだ、という意見があるようです。
 
 
私は、カルト的な思想を、訂正不能に自己中に一方的に、批判を無視して、妄想的に書いてくる者たちを、以前はコメントで、最近は記事で、批判してたということがあって、それとの違いは何だろう、と考えてみる必然があります。
 
彼らは、こちらの言うことを無視して、一方的に、自慢したり、おとしめたり、してくるだけです。はっきり言って、攻撃だけを目的とするコメントは、読んでも、罵り言葉だけしかありませんし、汲み取るべき内容も根拠も全くない、という特徴があります。
 
私などは、だいたい、結論だけのコメントには、記事で、結論だけだと指摘しますし、それに対して、正当な反論が来たためしがないのが、彼らの、カルト的、自己満的、妄想的な、一方的主張であります。
 
誹謗中傷してくるだけの悪意と自己中の者の根っこには、自己愛性人格障害、などの、人格の病気の可能性があります。生まれて大人になるまでの、遺伝と成長の過程で、出来上がった人格が原因であるならば、医療によって治る可能性も、なかなか、期待できないのでしょう。
 
なお、私の批判記事一つだけを見れば、言い過ぎと思われるところがあるかもしれません。批判対象について、最初から批判だったわけではありません。
 
批判対象シャロームとの付き合いは、だまされて聖書の先生だと思っていた数年と、批判してきた約10年の経過があります。批判対象の楽山については、約1年のつきあいの後、約1年以上の批判の経過があります。その流れで批判を書いているので、一つの記事だけで云々されるのは、的外れであります。
 
いずれも、あるときから、とんでもない理不尽なことを書いていることに気づいて、批判が始まっています。元々知らない人であり、理解も、そして結局、批判も、気づきから始まります。最初から批判で始まるということはないのです。
 
今回、この記事を書く動機は、今回の事件にかこつけて、彼ら自己中の者が、特に楽山やシャロームあたりが、自分も被害者です、酷い攻撃にさらされました、とか言って、記事を書いてくる可能性を考えています。
 
 
私のスタンスとして、今では、基本的に、記事は、批判対象よりも、むしろ一般読者に向けて、彼らカルト的な宣伝サイトについて、警戒を呼びかけ、彼らの文章の、うわべの言葉や見かけ以上に、関わるだけでも、無駄に疲労し、結局は、人格を破壊される恐れがあるので、決して近づかないでください、というアピールをするのが目的になっています。
 
ただ、そういう主旨はもちろん、私の記事の理路についても、自己中で理解力のない批判対象によって無視されるでしょう。
 
批判も、罵詈雑言を使うことがあります。その理由は、相手が、全く批判を理解できず、受け取ってもいない記事の流れになっているからです。
 
私の批判記事は、大方、読者に向けて書いているわけですが、もし批判対象が見れば、批判対象は、お前だ、ということを明確にするために、批判対象でも、読んでおれば受け取るしかない罵詈雑言を、ときに書くことがあります。
 
このように、罵詈雑言は、根拠を十分に示したのち、コントロールしながら、使うことがあります。相手が、一般的な議論など、全く成り立たない者である場合です。冒頭の事件からは、この点は、全然、違うと思います。
 
 
繰り返しになりますが、私がこの記事を書く理由は、そのように、批判を受け取れず、受け取らず、無視して、好き勝手に書いてくるような者たちが、反論も弁明も出来ないのに、今回の事件をネタに、被害者面して、読者に安易に同情を誘うために、何か書いてくる可能性が危惧されるからです。もっともらしい批評家気取りの筆致には、十分、注意してください。
 
 
結論として、私が思うのは、悪口だけの言と、批判とは全く別だということです。
 
私が批判してきた対象は、記事やコメントで、結論だけを繰り返して書いてくるような、不感不応のカルト的思想の異常人格なのです。その記事自体が、既に、回りくどい雑言と言ってよいような、無益で無意味で、こちらを疲労させるだけの、とても迷惑で、反社会につながるものだから、引き続き、批判対象になっています。
 
 
一般に、罵詈雑言だけのコメントというのは、悪意の結論だけを繰り返し言い張るだけのような、価値の無いものですから、そんなことのために、めげたり、最悪の場合、死を思ったりなんて、しないでほしいということです。
 
実質のある批判の中身があれば受け取り、必要があれば反論や弁明をし、実質のない悪口だけのコメントを気にしないでいられる気持ちの強さを身につけてほしいと思います。
 
酷い記事やコメントで傷ついたと思うときには、批判し批判されることに、ある程度、慣れている人に、是非、相談してください、ということを、切に思う次第です。失礼しました。
 
 
(2020年05月28日)
 
 
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  この地上に
 
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
 
信仰者にとって
本当のふるさとは神の国
ということなら
それは信仰者として
真実でもあるのだが
 
一方で
逃避なのかもしれない
 
 
人というのは生涯
演技し続ける動物のようだ
恥ずかしくないように
少しでもきれいに見えるように
嫌われないように?
  
そういう演技は正当で
普通なのかもしれないが
過ぎれば
「世間体」大明神とか
「体裁」大権現とかの崇拝にもなりうる
 
自分というものをしっかり持って
という「しっかり」の基準は分かりにくい
自分を信じて
という「信じて」は
責任の自覚か
努力と実績に裏打ちされた自惚れ
つまり自信だろうか
 
 
世間体も体裁も
人間関係も幸福も捨てて
真理や真実を追究して
心を病んで
傍目には
自滅的な人生を歩んだ幾人かの
哲学者、数学者、文学者、詩人などの
名を思い起こすのだが
 
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
 
そういう質を持ってしまった者が
反社会的ではなくても
非社会的になって自閉して
ただ一度だけ
逃避が許される最後の時を
待っている人であるなら
 
幾人かの名と違って
自分は志よりも病が先なのか
いつまで社会人でありえたのか
と風景のように遠い人々を
 
遠い社会と世界を
ぼんやりとした意識の向こうに眺めている
 
 
思うところに
以上のように思うところに
ふるさとの不在を思うだけのところに
 
いちばん知っているつもりで
本当は、いちばん知らない自分は
むしろ、いて欲しくないのかもしれないとき
 
避け所は、神の前、
秘密も嘘も飾りもない祈りの時である
 
 
(2011年04月30日)
(2019年05月08日、修正)
 
 
※ 雑感メモ:
 
論理は、心の面倒を見ない。
だから、右も左も、イデオロギーは、悲劇をもたらしてきた。
 
キリスト教も、思想と化してしまえば、同様だろう。
 
 
※ 嘘について
 
私は、神の前で精いっぱい正直であることが大事と書いてきました。
 
また、私は、人は神の前で生きていると書いてきました。
 
合わせると、人は、いつも正直に生きなければならない、という道徳の話になってしまいます。こういう道徳が絶対の信仰なら、私は耐えられません。理路が、誤解を招いたかもしれません。すみません。
 
神の前で精いっぱい正直、というのは、神に対する祈りにおいて、故意に嘘は吐かない努力をするべきだということです。嘘を吐いたり、飾ったりしたときには、気づいたときに、改めて祈るということです。
 
神の前で生きている、というのは、神は総てを見ておられ既にご存知である、という神の全知全能のことを言っています。
 
この二つを結び付けるのは、神は、総てをご存知の上で、人が正直な祈りで告白してくるのを待っておられるということです。神の、この待っておられる姿勢は、人の一生のあいだ、変わることがなく、それが、神の寛容なる愛だと言いたいのです。
 
 
(2020年05月27日、修正加筆再録)
 
 
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