ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年05月

 
  神と人知
 
 
超常への憧れから信仰者になった人は現実問題に向き合うことが苦手になるかもしれません。
 
現実問題に疲れた人が、何らかの機会を得て、信仰者になる場合には、信仰は、超常ではなく、キリストの愛と共感によって、心で受け取っていると思います。
 
超常信仰は、信仰を驚くべき神のわざとしてしか受け取っていないために、元々の関心が向いていないところの人間性を磨くということを怠りやすく、あるいは、キリストと救われた人々との共感ということに思い至らず、信仰に、超常のしるしを当てはめがちになるでしょう。
 
そういう人は、キリスト教系カルトにつながりやすいので、その人の身近にいるキリスト者が、説明~説得してゆく必要があります。一時の誤解にとどまらず、継続的な曲解になり固定されてゆくのは、カルトの方向です。
 
ちなみに、最も悪質なカルトは、元々、人間性が欠落しているので、超常を決めつけるしかない者たちです。
 
例えば、キリストの奇跡や復活から信仰に入ってくる人は、キリストの人間性や共感という言葉を聞いても、神の恵みを人知で扱おうとするのは不当だ、などと、考えやすくなります。
 
しかし、私たちには、人間性と人間の能力しかないのです。物や肉体の奇跡だけから信仰に入ることは、ありえないと知るべきです。
 
つまり、人間は、人知しか持っていないわけですから、神の与えたものの中で、人知で理解可能なものだけしか、受け取れないはずなのです。
 
聖書には、これまで書いてきたように、人知で、人間性で、人間のふつうの知性と感性で、理解と共感が可能なことが、いっぱい、書いてあります。
 
また、神学や哲学など学問的知識から信仰者になった人は、共感と言った情緒や感性的な側面について、苦手だったり、表現に不自由したりするかもしれません。
 
聖書から受け取ることはいちばん大切なことですが、聖書の解釈について、知識についても、思い込んではいけないことがあります。
 
聖書の教えこそが、聖書についての、人間の思い込みを戒めているのです。
 
何故なら、私たちは、神の前で生きているということです。そして、神に向かって祈るということです。そこで、神とは違う人としての身の程を弁えないならば、信仰は成り立たないからです。
 
言葉だけ丁寧な尊敬語を使っても、頻りに讃美の言葉を弄しても、人に思い込んでいることがあれば、神は、それを、総て、見抜いておられます。
 
信仰について、神聖について、人の思い込みは、偶像と成りえます。
 
パリサイ人は、そういう決めつけの思い込みで満たされていたので、キリストの言葉を聞き入れませんでした。同じようなことは、今の、特にキリスト教系カルトで起こっています。
 
しかし、カルトではない伝統的なキリスト教の教派なら心配ないかと言えば、決して、例外ではないと申し上げます。何故なら、それは、人の性質、特に、罪の性質が、そうさせるように出来ているからです。罪の性質を警戒しないで、安心の境地にいるつもりの人は、要注意なのです。
 
人は、安心したがります。そのために受け取った良いことを固定したがります。それを、揺るがない信仰などと言いたがります。実際は、思い込みを固定するようになります。思いこみは、心の中の偶像になります。
 
むしろ、そういう偶像については、人間は、持っているもんだという自覚を持つことが、罪の性質を自覚することにつながるでしょう。心の中の偶像は、目に見える偶像のようには、排除したことを確認することが難しいものだからです。目に見えないものは、いつも、確認しにくく出来ています。
 
何かを、信仰について、判断し、実行はしても、御心を思い込んではいけません。神の御心は測りがたいものです。そして、神聖に対する思いこみを防ぐためのヒントがないわけではありません。
 
思い込みはいけないと言われても、ときには、強く思うことが必要です。しかし、強く思うことと、思い込みは違います。強く思うことには、強く思う動機があります。しかし、思い込みには、心を踊らせず快活でない圧力はあっても、大方、心を動かす動機がないのです。
 
また、「神は、こう思っているに違いない」とか「神はこうなさるに違いない」とかを思い、また、人に言いたくなるような場合、同じことを、神の前に、キリスト・イエスの御名によって、神に向かって、そのまま言えるかどうかを、まず、考えてください。そうすれば、大方、恐れ多いことに気づくでしょう。
 
正常な祈りは、私はこう思っているのですが云々、とか、私はこうしようと思っています、という言い方にしかならないのです。それを、神を恐れるところの、敬虔といいます。
 
また、神聖に関わることで、自分が思うことの正しさについて、自分が感動という心の動きを自覚しているかどうか、というを考えてみてもよいでしょう。
 
思いこみは、誇大的であったり、陶酔気分であったりはしますが、大方、本当の心の感動を伴っていません。思いこみは、大方、退屈で、ときには、強迫観念となっていることもあります。
 
揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、固定しているのではありません。
 
それに、前から言っているように、信仰は、神と人の双方向であります。そのために、祈りがあります。信仰のもたらす平安は、人の、活性のある心において起こることであって、不変の悟りの境地ではありません。
 
ゆえに、平安は、安らぎとともに、情熱を与えます。それが忍耐強さにつながります。それらは、多く、祈りに答えて与えられます。
 
神は、人知を超えたことをなさるかもしれません。しかし、神は、人間に対しては、人知、言い換えれば、人間の心に働きかけ、人間の心を導きます。ここで、人知は、知識と思考だけではありません。人知といえば、思考とか知性とかいうと論理を思うかもしれませんが、知・情・意は、人間において一体であり、独立してはいません。
 
 
キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)は、神のもとにあって、神よりも劣る不完全な存在つまり罪人であること、ゆえに、神からの、赦し、癒し、救い、導きを必要としていることを、神の前に、認めた人であります。したがって、神と人の決定的な違いを弁えているはずです。
 
そのキリスト者が、神聖について、思い込んでいたら、信仰が成り立たないのは当然のことです。思いこみは、あらゆる正しいと思われることに及びます。教理や信条という、一般に正しいと認められたことも、その言葉だけによって心を固定することも思い込みの一種であります。
 
心と言葉は、いつも一体であるとは限りません。聖書を読んだからといって、人の持つ言葉は、神の言葉と、いつも同一とは限りません。その原因は、ひとえに、人間が不完全だからです。一つの言葉が、いつも、一つの心と同一とは限らないということです。変質したり、尾ひれがつくことがあるということです。
 
一つの言葉が、心を動かしても、別の時には、動かさないか、違う作用になっていることもあります。
 
聖句は、同じ言葉だととしても、受け取り側の人の器は、安定しているわけではないのです。心は絶えず動いているものです。ゆえに、理解を新たにする、という成長もありうるわけです。
 
心は固定できません。無理して固定しようとすると壊れてゆくかもしれません。
 
心が活発に動くことで、人間は、生きているのであり、成長もするのです。成長に必要なことは、反省すること、修正可能であること、新たな感動が待っている可能性があるわけですから訂正不能にしないこと、学習と成長を、積極的に望み、かつ、努めることです。
 
これらは、大方、人間の、欲望、特に、完全欲とは対立することが多いので、自発的に積極的に意識することが必要です。キリスト信仰の学習や修養とは、ここにあるのかもしれません。
 
したがって、信仰は、不変の境地ではなく、努力と再生の、生きている間ずっと続く道です。道ゆえに成長が可能なのです。
 
 
(2020年05月26日)
 
 
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  信仰と固定 (再)
 
 
人間が信じられることは
人間が信じるようになることは
人間性で理解できて
人間性で共感できることです。
それらが心を動かすからです。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが
神とキリストを理解できるのは
人間の知性で理解できることであり
人間の感性で共感できることです。
 
したがって
物や肉体の奇跡そのものを信じることは出来ないはずです。
理解も共感も出来ないからです。
 
人間が理解できる信仰になるのは
生きている人間の心を動かす生きている言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは
ご利益信仰に過ぎません。
 
物や肉体の奇跡は
神にお任せするしかありません。
 
人知を超えている奇跡を
人知が理解することは出来ないのです。
それは人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする
このことは
限りある人間の能力を思えば当然であります。
 
物や肉体の奇跡は
最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは
奇跡で救われた人が
なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか
キリストが、なぜ、その人を憐れんだか
という
心の奇跡または魂の奇跡
それこそ軌跡、すなわち
人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては
物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。
 
物や肉体の奇跡で救われると信じるのは
まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように
石がパンになる=物への奇跡
飛び降りても死なないかどうか試す=奇跡の実現で神を試みる
この世の栄華によって悪魔を崇拝
=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて
人を騙しているのがこの世界です。
もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
知性と感性とは特別な才能のことではありません。
神が人に与えた賜物として
人間ならば誰でも持っているもので
その中に不完全ながら
思慮が含まれ
理路と分別が含まれ
良心と共感が含まれ
温もりと潤いが含まれ
かつ、生まれています。
 
その賜物によって
聖書を理解し、信仰に至ります。
 
人間の信仰理解は
完全な理解ではなく
心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。
聖書から経験から
神とキリストに気づかせ
人を動かす神聖は聖霊と呼ばれますが
 
動かし気づかせるのであって、固定するのではありません。
 
信仰者は
訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも
去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。
 
そこに不変の境地はありません。
 
成長を促す道があります。
 
 
※ 
 
神ならぬものを信じてしまうと
神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。
 
心について考えない者が受け取るのは
手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり
あるいは知っていると自慢するためであり
 
それゆえに理解も共感もなく自己中心に
やたら讃美しまくって
奇跡の必然を自己暗示して
自分か他者の心を固定してゆくのです。
 
このような信じ方が
思い込み信じ込む信仰?であり
自分で神を決めつけてしまう信仰です。
 
そうなると、まず自分の人間性を破壊し
次には関わる人に作用して
他者の人間性を破壊してゆきます。
そうして人間離れの心性を固定してゆくのです。
 
 
(2019年05月14日)
(2020年05月25日、修正再録)
 
拘泥(こうでい)=こだわること
 
 
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  とほほ?
 
 「第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月23日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24881454.html
 
 
楽山の言葉は、決して、素直に読んではいけない、というのが、今までの私の学習の経過と結果であり、今回も、その楽山の言の災いが表れています。
 
素直に受け入れでもしたら、人格は無視と怠慢と破壊の方向にしか向かず、注意していても、楽山に盲従してゆくことになり、本来の、知性と感性の学習も、その結果としての成長も、できなくなるでしょう。
 
『ヨブ記講演』の第二講を読了。その内容を自分なりの言葉で要約、メモしておきたい。
 
メモではなく、楽山の観念的で訂正不能の先入観と偏見という思想の悪い要素、および、楽山発の、キリスト教への飽くなき嫌悪が、ボンヤリ言語の裏に固定された曲解に表れています。
 
このように、重大なテーマについて、劣悪な発言をしておきながら、気軽な、メモ、などという言い方をして、責任逃れをしてきます。楽山の、"自分なりの言葉"は、総じて悪意の詭弁であります。
 
・その名がヨブであったかどうかは別として、ヨブのような人物は実在していたのであろうし、著者もまたヨブのような経験をしたのであろう。ヨブはもちろん著者にも敬意を払うべきである。
 
内村鑑三を、聖書の登場人物であるヨブと並べて、同じような経験をした、と書いているところに、楽山が、いかに、聖書を軽く見ているかが表れています。
 
・一章一節においてヨブを全き人としているのは、「人より見ての完全であって、神より見ての完全ではな」く、この場合の完全の基準は、人それぞれであり、古のユダヤでは日本より相当に高い基準で判断されていた。
(ちなみに、ヨブ1-8では、神はヨブを表して、「全くかつ直く」(『ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫)としている。新共同訳では「無垢な正しい人」となっている)
 
 (ヨブ記、口語訳)1:1
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 
 (ヨブ記1:1、旧約聖書)
 
神の完全と同等の完全を身につけた人間は一人もいません。
 
人の肉体を持っておられたイエス・キリストの完全は、神聖なる三位の御一方ということを表しています。
 
楽山は、人より見ての完全どころか、訂正不能の完全と慢心の立場から、批評家気取りで、今回も、ヨブと神を語ってゆくのでしょう。その文章が、拙劣を極めても、不感不応の楽山は気にしないほどの、哀れな無反省の心性を持っているのです。
 
・サタンは神の許可を得て災厄をおこしている。この世の出来事はすべて神の意思によらないものはなく、またすべては何らかの意味を持ち、益となる。(ロマ8-28)
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
まるで、いつも、サタンは、神の許可を得て災厄を起こしているかのような書き方です。楽山は、恣意的に、サタンも、神も、字面だけの観念で語って、おとしめられると思うゆえに、単純な文脈を捏造しています。
 
聖書の記事から、神とサタンの関係を安易に決めつけてはなりません。
 
 (ヨブ記、口語訳)2:6
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
 (ヨブ記2:6、旧約聖書)
 
ここでは、サタンが、ヨブに加える災いには、命を奪うことを禁止する条件が付いています。人の命を造り、それを奪うのは、神のみの特権であります。
 
勝手に意味付けをしたうえで、楽山は、神の許可を得ているならば、なぜ、不幸が起こるのか・・みたいな、いちゃもんに結び付けたいのでしょう。
 
こういう幼稚な発想を、前に、して、また、今も、しようとしている楽山は、神を恐れず、神?を自らの観念の中において、何とか貶めようとしてきたのです。
 
私たちは言うべきなのです。神とサタンの関係については、人知を超えた領域ゆえ、人には理解できないことだと。
 
勝手の神とサタンのストーリーを決めつけてはならないし、特に、楽山のように安っぽい理路をもって文脈を作ってはならないということを学ぶべきです。
 
楽山は、聖書と信仰について、こういうことだけはしてはいけないよ、という、反面教師としての役割を果たしてきたのです。つまり、ここで、サタンの役割を続けているのは、楽山その人であります。一日も早く、退いてほしいわけです。
 
・ヨブの妻は自ら棄教し、夫にもそれをすすめたが、夫人の中には財産の一部を失っただけでそのようなことをする者もいる。ヨブの妻は財産も子も失い、夫が不治の病にかかるまで耐えたのだから彼女を責めることはできぬ。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:7-8
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 
2:9
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 
2:10
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
 (ヨブ記2:7-10、旧約聖書)
 
「神をのろって死になさい」と言った妻を、正当化することも出来ません。しかし、神を呪っている楽山は、味方したいようです。
 
誰か、この妻を責めたのでしょうか。大仰に「責めることは出来ぬ」という楽山には、誰も、この妻を、責めることは出来ぬと言って庇(かば)うことも出来ぬ、とでも言っておきましょう。
 
楽山は、裁き主であるかのように、赦したいようですが、人の罪の裁きは、神に任せられます。こういうところに、上から物を言う楽山の恣意は、顔を出してきます。
 
・多くの人々がヨブを見捨てたが、三人の友はそうではなかった。真の友はありがたい存在である。ヨブはこの三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかったであろう。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:12
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 
2:13
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
 (ヨブ記2:12-13、旧約聖書)
 
楽山は、ヨブ記の主題を外したいのでしょうか。人の説得が、結局は、ヨブに通じなかったというのが、ヨブ記の大きな主題であります。
 
楽山は、また、読み違いで、涙をこらえきれないヨブを、勝手に書いて、ヨブ記をメロドラマにしたいようです。浅はかな同情心で、信仰は語れない、ということを、楽山が明らかにしています。
 
ヨブ記を初めて読んだときは、サタンが神の許可を得て災厄をおこすというのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎると感じたものだったが、この世に起きることは、よき事はもちろん、そうでない事もすべて神の意思によるということを表現しているのであるならば合点が行く。「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」(ヨブ2-10 関根正雄訳)という言葉もこの流れにあるのだろう。
 
本当に読んで理解したのなら、「神をのろって死になさい」と言った妻の味方をする、というような、今までの高慢な発言は無かったはずです。あるいは、今までの記事の流れと、今回の記事の文脈から、ここでの、神の意志について、合点が行く、という、楽山の言は、嘘だということです。
 
すべてに意味があるという考え方については、近頃は目的論的な思考には共感できなくなってきているので抵抗があるのだが、でも自分の身の回りに起きた事、起きるであろう事は受け入れないわけにはいかないだろうし、そのためには結局さいごにはこの思考に頼るしかなかろうとは思う。
 
総てに意味がある、ということが、頼れる思考になるでしょうか、意味が、目的が、いちいち、納得できるように、分かるでしょうか、否です。
 
信仰者においても、起こってくることに対しては、悩み、悲しみ、迷い、ときに疑い、祈りのうちに、できることをしてゆく歩みなのです。
 
楽山が、ボンヤリ言語で言いたいのは、神と聖書への肯定ではなく、自分の思考への依存と自慢なのです。嫌らしい詭弁の印象操作でもあります。だまされないでください。
 
ヨブやその妻の心情について、内村鑑三の理解、同情は心にしみるものがある。氏は人の心が分かる優しい人のようだ。こういう人を見ると、自分はいまだに他人に厳しく、裁き癖が治ってないと反省させられる。とほほ。
 
反省しているなら、修正による主張の変化と成長があるはずです。修正しないでいいと言うのなら、反論か弁明があるはずです。それら、正常な言論は、楽山から、一度も見られたことがありません。
 
今までの記事で、好きなようにキリスト教と神への呪いのような悪口を執拗に書いておきながら、今回の記事で、そのまま、裁き癖が治ってないと反省している言葉、これこそ、嘘っぱちのボンヤリ言語の詭弁以外ではありません。
 
この記事だけを見ても、神をのろって死になさいと言ったヨブの妻の味方をしたり、一方で、神の意志に合点が行くと言ったり、支離滅裂になっています。自分を高める以外に、一貫した思想など、楽山は、何も持っていないと思います。そして、最後は、"とほほ"・・?
 
「とほほ」なら、書くな、と言いたい。楽山は、人を痛めつけることに快感を感じるサディストのように、滅裂な文章を書いてもニヤニヤ笑っていると思います。寒気がします。ホラーです。場合によっては、とても危険です。決して近づかないようにしてください。
 
 
(2020年05月24日、同日一部修正)
 
 
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  学習障害(LD)
 
 
楽山日記(LD)の、LDは、学習障害 learning disability のことなのでしょうか。学習障害を前提としないで、今まで私が見て、批判してきた楽山のブログには、楽山の障害を思わせることも多々ありました。虚言、無反省、学習不能、理路と共感性の障害、深みのない情緒障害、などです。
 
楽山は、この障害の名 "LD" を出して何が言いたいのでしょう。自分は学習障害だから、同情しろ、好きなように言わせろ、とでも言いたいのでしょうか。学習障害者は何をしてもよいのでしょうか。
 
例えば、嘘を吐く、幼稚な屁理屈や、先入観的な通念的な観念から、評論家気取りで、的外れの主張をしてくる、などについては、公共において、真に受けると害となるのは当然であり、その都度、ブレーキをかけることが必要になるでしょう。
 
かといって、ネットでは、強制的な手段はないのですから、不当な理路や、情緒の偏りに対しては、批判をすることは、必然であり、かつ、必要であるということです。
 
 
(ネットより)
 
学習障害(がくしゅうしょうがい、Learning Disability, LD)は、単一の障害ではなくさまざまな状態が含まれる。医学、心理学、教育学の分野にまたがって研究が進められ、それぞれで若干概念が異なっている。バランス感覚を欠き、身体の協調運動の困難を合わせ持つ子も多いため、リハビリテーション医学の分野でも研究が行われている。
 
種類には、読解(ディスレクシア)、数学(ディスカルキュリア)、書き取り(ディスグラフィア)などがある[2]。
 
日本では旧文部省が1999年、学習障害を定義している。
 
「学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指すものである。学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない。」
また、アメリカ合衆国の連邦合同委員会が出した定義もよく知られている。
 
「学習障害とは、聞き、話し、書き、推理する能力、算数の能力を取得したりするのが著しく困難な、さまざまな問題群の呼び名である。そのような問題は、生まれつきの中枢神経の働きの障害によるものと考えられる。 学習障害は、他のハンディキャップ(たとえば、感覚の障害、精神遅滞、社会性や情緒の障害など)や不適切な環境(文化的な違い、望ましくない教育など)からも生じるが、そのようなハンディキャップや環境から直接生じるものではない。」
— (1981年 学習障害に関する連邦合同委員会報告)
 
 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E9%9A%9C%E5%AE%B3
 
 
Wikiなど、あちこちに、上のようなことが書いてあるから、楽山は、ネットの学術系のサイトを、ほとんど引用しないのでしょうか。そして、自分で本を選んで、都合の良い話を見つけようとしてきたのでしょうか。
 
単一な障害ではなく様々な状態が含まれる、ということは、同情に値するものから、楽山のように、同情してたら、どこまでも慢心して、批判したら、やはり、どこまでも慢心して、つけあがる人もいるということでしょう。
 
また、生まれつきの中枢神経の働きの障害、ということからは、薬物治療や、支持的な精神療法では、無効であったり、改善できない場合もあるということでしょう。
 
楽山が、学習障害であるならば、今までの、こちらが何を言っても、自分の主張だけを言い張り続けて、かつ、ときには、誘導的な、嘘を吐いたり、私がボンヤリ言語と呼んだところの、婉曲的表現で印象操作したり、刷り込もうとしたりの、白々しい詭弁が表れることもあり、つまり、学習障害の人には、悪意だけの迷惑な人もいるということかもしれません。
 
とてもじゃないが、ネットという公共の場で、宗教や思想などの真実追求がテーマの場合には、そういう幼稚なことばかり言い張るような人は、むしろ、こちらに障害を与えているようなものです。したがって、それなりの批判を向けることは、避けられないことだと思います。
 
学習障害の人が、学習障害を自覚しているならば、もっと謙虚になっていいはずだと思いますが、様々な状態があるということですから、そううまくはいかないのだろうと推察しますが、特に、楽山の場合は、恣意的な思い込みに誘導する言説が随所にみられるため、真実の追求においては、迷惑は迷惑と、邪魔は邪魔と、理路も情緒も、なっていないなら、なっていないと、はっきり言うこと、すなわち批判は、必然であり、必要だと判断しています。
 
 
(2020年05月23日)
 
 
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  批判の節操
 
 神を批判してはいけないのか?
 2014年12月06日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512429.html
 楽山日記(LD)
 
 
「楽山日記」で検索したところ、上の記事が見つかりました。私が楽山を批判する前の記事だと思います。恐らく、ずっと前から、キリスト教を侮辱してきたのでしょう。そうしながら、クリスチャン芝居もしてきたのです。見逃してはならないところがあるので、書いておきます。
 
*神を批判してはいけないのか?
宗教を信じている人の中には、「神を批判してはいけない!」という人がいる。本当にそうだろうか。この点について、自分の思うところを書いてみたい。
 
批判は自由です。しかし、楽山は批判をしたことはありません。楽山は、こちらの言い分を全く受け取ることなく、勝手に書いているだけなので、これは、批判ではなく、嫌がらせか悪口に過ぎません。そういうことを書く者には、言うまでもなく、批判をする資格はないのです。
 
*あるクリスチャンの言葉
このテーマについて考えるとき、いつも思い出すのは、あるクリスチャンの言葉だ。彼(クリスチャン)は、キリスト教批判に対して、次のような趣旨の話をしていた。
「批判者だった人が、熱心な信仰者に変わることは珍しくありません。批判というのは、見方を変えれば、それだけ関心があるということなのでしょう。これは無関心よりはずっといいことです」
これはなかなか含蓄ある言葉だと思う。
 
楽山が批判者であれば、信仰者に変わる可能性はあるのでしょう。しかし、楽山は、上に述べたように、きわめて卑怯な誹謗中傷の者です。2014年のこの記事に書いた"含蓄"?、楽山は、全く生かせておらず、気にもしていないということが表れているのです。
 
*批判してはいけない神とは?
「神を批判してはいけない」というときの神とは、どのような神のことだろうか? それには次の三種があるように思う。
A.宗教教義(神の教え?)
B.教祖(生き神様)
C.宗教教義で定められているわけでもなく、教祖でもない神(各人が持っている神のイメージ)
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。批判の節操を守らない者に、批判する資格はないと言っています。
 
また、批判されたときには、当然、批判された側は、批判返し、すなわち、反論または弁明の権利を有します。
 
*Aについて
宗教教義というものは、人による神解釈ではあっても、神そのものではないだろう。神の意思を、人に分かる形に翻訳、解釈したものが宗教教義なのではないか。
そうであれば、「神(宗教教義)を批判してはいけない」というのは、ようするに「自分の信じる神解釈を批判してはいけない」ということにすぎないように思える。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。何といっても、楽山は、私の批判に対して、一度も、真っ当な批判も反論も弁明もしたことがありません。
 
*Bについて
これも上と同じだろう。「神(教祖)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じる教祖を批判してはいけない」といっているだけだろう。
*Cについて
これも上と同じ。「神(自分のイメージする神)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じている神のイメージを批判してはいけない」ということだろう。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。楽山に対しては、楽山の、極めて狭小で、成長のない先入観の視野にあるものをキリスト教と呼び、神と呼んでいることが明らかになっています。つまり、そこで、字面を追っただけの悪口に過ぎないので、キリスト教もキリスト信仰も全く理解しておらず、幼稚すぎるから、批判になっていない、という判断です。
 
*信仰を傷つけないでほしい
以上をまとめると、「神を批判してはいけない」というのは、ようするに「私の信じる神(教義、教祖等)を批判してはいけない」ということのようである。もっと直截的な言い方をすれば、「自分の信仰を傷つけないでほしい」とも、「俺の信じる神に文句いうな!」とも言えるかもしれない。
 
まさしく、楽山こそ、俺の言うことに文句言うな!、という動機から、今まで、一見、丁寧に見せかけるところの「なくもない」「否定できない」前には「かなあ」「というか」といったボンヤリ言語による、誘導、印象操作、刷り込み、などと言う詭弁を弄してきたのです。
 
*他人の信仰に対する配慮
他人の信仰に配慮することは、とても大切なことではある。
ただ人はそれぞれ異なる信仰を持っているものだ。そのために自分の信仰に正直になることが、他人の信仰を批判することに通じることもありえる。
この場合は、どうすればよいか。自分の信仰を率直に表明してもいいのか。それとも他人の信仰を傷つけないために、自分の信仰を抑えるべきか。
これについては、万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ。
 
全くの勘違いです。自分の信仰を語るのに、正直でないことは、偽りを言うことです。せいぜい、感情的な表現を、できるだけ控えることが出来るかどうかでしょう。根拠があれば、それを理解しない相手に対して、厳しくもなるわけです。
 
字面だけを追っているから、正直であることを、利便性や社交と同じように扱って、上のような、抑えるべきか、難しい、などという、的外れの理路になるのです。
 
*動機
次に、「神を批判してはいけない」という言葉を発する動機を考えてみると、次の三つがありそうだ。
1.天罰をおそれて
2.神の使いをおそれて
3.反作用をおそれて
*1について
神を批判する人に天罰がくだることを心配して、「神を批判してはいけない」というのは親切なことではある。
ただこれは、「神は慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力は持たないだろう。
 
神は、愛の神であると同時に、戒め懲らしめる神でもあることが、聖書には書かれています。批判と悪口を混同している楽山は「神を批判してはいけない」という書き方をしていますが、祈りにおいては正直であることが必要であります。
 
楽山は、先ず神を決めつけるのが信仰?という見なしで決めつけて、そこにおいてのみ、文句を言ってきます。基本的に逆であります。
 
祈りは、批判ではなく、ましてや、悪口でもなく、疑っているなら、疑っていると、疑問を訴えることは、正直な気持ちの祈りとしてありうることです。キリスト者は、神と社交のお友達になるわけではないからです。
 
ただ、その時、信仰者なら、神を恐れて、ふるえることはあるでしょう。それは反省を促すかもしれません。少なくとも、信仰は信じることで完全になることではないので、知ったかぶりで上から批評を語る楽山の手に負えるものではないということです。
 
*2について
神は天罰をくださなくても、その下にいるものたちが罰をあてることを心配して、「神を批判してはいけない」というのも親切なことだ。
ただこれも、「神はもちろん、高級霊も慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力を持たないだろう。
また、このように神や高級霊はどこまでも慈悲深い存在だと信じている人からすれば、「天罰」云々と言う人たちは、「慈悲深い神や高級霊と、祟り神や地獄霊との違いが解らない人たちだ」と見えるかもしれない。
 
このような先入観と偏見での場合分けは、信仰にとって、何の意味もなく、何の役にも立ちません。何もかも一面的です。その見方で、人間の種類を気安く分けてしまうから、話になりません。
 
*3について
神や高級霊が天罰を下さなくても、神や高級霊を悪しざまにいえば心の法則によって反作用があることを心配して、「神を批判してはいけない」という人もいるかもしれない。
これは一理あるように思えるけれども、批判者の心を動かすのは難しそうである。批判者は神を批判しているつもりはなく、「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっているだけだ」という考えを持っているだろうから。
 
そういう心の法則を信仰に通用させてしまうのも幼稚だと思います。
 
私は、批判ではないものを批判ではないと言い、理解ではないものを理解ではないと言い、おかしい楽山の頭と心を、おかしいと言っているだけです。
 
楽山の語る神が神ではないと言うのは、聖書の伝えていることを楽山が何も受け取っていないからです。楽山が、自己愛によって、人間らしい心を捨ててしまったために、受け取るだけの器を持っていないということです。
 
*もう一つの動機
以上、利他的動機について書いてみたけれども、もしかすると利己的動機についても考えられるかもしれない。たとえば、「神を批判してはいけない」という言葉の裏には、神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心がある可能性も考えられる。
 
楽山の、自分は分かるんだという強迫性だと思います。邪推とも言えるでしょう。つついてもしょうのないところを、楽山は、執拗に、つついているだけです。心ない者が言葉の字面だけにこだわると、いかに本質から逸れてしまうかという例でしょう。
 
「信仰を守る」といえば聞こえはいいが、実際は「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドにしがみついているにすぎないこともあるものだ。また「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されているだけのこともある。
このようにプライドや恐怖心から、「神を批判してはいけない」と言うこともあるかもしれない。
 
それは、まさに、楽山の自我の空想=固定観念について言えることなのです。キリスト信仰においては、悔い改めと祈りが生活になります。プライドにしがみつくことが信仰だと思っているのでしょうか。それは、楽山と同じように勘違いしている者がいるという、それだけのことです。
 
楽山は、観念の奴隷だと思います。だから、字面にしがみついているのです。"「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されている"のは、信仰ではないのです。
 
つまり、楽山は、間違った信仰を論って、キリスト教とキリスト信仰を貶めたいだけなのでしょう。
 
*動機の見分け方
「神を批判してはいけない」という発言の根底に、思いやりがあるか、利己心があるかは、その発言者の態度を見ればおおよその見当はつきそうではある。
 
楽山が、記事を書く根底には、心の利己心、つまり、自己愛と自己中心しかないと思います。そこから見下ろす視線で書いている限り、神も信仰も理解することはないでしょう。
 
ただ人というものは、心中が愛だけの人も、利己心だけの人もいないだろうし、激怒の裏に深い愛情があったり、穏やかさの下に冷酷さがあったりすることもあり、ややこしいところもあるから注意が必要だけど。
 
愛、利己心、激怒、愛情、穏やかさ、冷酷さ、と書いた後で、ややこしいと書くだけで済ませられるのが、楽山の自己愛と自己中の自己満足です。
 
*神を批判することは可能なのか?
ちなみに私は、神とは超越した存在であると思っている。人には人知を超えた神を認識することはできず、したがって神を賛美することも、批判することもできないのだろうと。
 
またまた、超越という難しい言葉を、存在に付けて、言い得たつもりの楽山です。人は神を賛美することが出来ないのでしょうか、否です。
 
おそらく、人にできるのは、真実の神についてでなく、自分または他人がこしらえた神像についてああだ、こうだと論評することくらいなのだろう。
 
驚きました。まさに、楽山がしていることです。
 
人が、神についてできるのは、聖書の話と、信仰者の考え方と、人が信仰によってどう変わったか、という人の側の変化の話です。
 
どうか、楽山のような、偽者の神像の話を、それが肯定でも否定でも、真に受けることのないように、また、感情を乱されることのないように、決して、楽山に近づかないでください。
 
*信仰と自由
ところで、「神を批判してはいけない」という人たちを見ていて思ったのだが、人はどのような神を信じるかによって、自由が広がったり、狭まったりするようである。
考えてみれば、人格を持ち、感情に突き動かされながら裁きを下す神(生き神様、人格神等)を信じるよりも、人格を持たず、感情もない自然法則のようなものを神と信じた方が、神の機嫌を損ねることをおそれる必要はなくなり、自由になるのは当たり前なのだけれど……。
 
楽山は、ここで、自らの気分的で気晴らしにしかならないような、自然への信仰?を、勧めてきます。自然の機嫌を損ねることはないそうです。津波や雪崩のことをどう考えているのでしょう、偉大だと仰いでいられるのでしょうか。楽山の、いい加減な字面の工作が壊れてゆきます。
 
*信仰それぞれ
世の中には、狭いところがすきな人もいれば、広いところがすきな人もいるものだ。他人から束縛されることを喜ぶ人もいれば、喜ばない人もいる。そうであれば、人に干渉する神を信じる人もいれば、人に干渉しない神を信じる人もいるのが当然だ。
これはどちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではなく、個性のちがいということだろうし、そうであれば、人はそれぞれ自分に合った信仰を持てばそれでいいのだろうと思う。
 
狭い、広い、束縛、悦ぶ、人それぞれと同じように、人に干渉する神、干渉しない神、を並べて語るのは、いずれも通念的観念だけを追った字面の工作に過ぎません。そのことの、優劣があるとかないとか、どうして、いつも飴玉を舐めているような楽山に分かるでしょう。
 
このように、いろいろ言った後で、自分に合った信仰を持てばいいと、趣味の話の次元に貶めてくるのが、楽山の迷惑極まりないボンヤリ言語なのです。
 
*人によって、神のイメージが異なる理由
結局、人は自分の姿を神に見ているのかもしれない。もしそうだとすると、「神を批判してはいけない」というのも、「神を批判してもいい」というのも、自分の姿を神に投影しているにすぎないのだろう。
 
そして、自分の姿を神に見ているのかもしれない、自分の姿を神に投影している、などと言ってきます。色々書いた後で、これが、楽山の軽蔑と、悪意の企みなのです。
 
信仰者は、自分に、うんざりした人が、救いを求めてくることが多いのです。自己愛性人格障害者である楽山には、全く理解できないことなのでしょう。
 
*最後に
こう考えると、人に人格や個性がある限り、自他が同じ神のイメージを共有することは不可能であり、また無益であるように思えてくる。
真実の神が存在するかどうかはわからない。けれども少なくとも、人が語る神、または人が認識する神は、人から独立した客観的な存在ではなさそうではある。
こういったことを了解する人が増えれば、信仰の押し付けのようなことは減り、人々はより自由になることができるだろうなあと思う。
 
神のイメージと、神は、明らかに違います。前者は、人がいだくものですから、神への恐れによって、決めつけないことが必要です。それを、混同して、神を否定してくるのが楽山です。
 
人は、神の意志と行為を決めつけることが出来ません。しかし、通念的観念を字面に当てはめているだけの低劣な楽山には、神について、否定についても肯定についても、一言も信頼に足る言葉を語ることはないでしょう。
 
2014年の、この記事と、最近言っていることと、楽山は、全く変わりがないように思えます。
 
信仰の押し付けはカルトがやっていることです。信仰の貶めは楽山がやっていることです。信仰を持たなければ自由なのでしょうか。それで自由だったら、聖書も、宗教も、信仰も、生まれる必要はなかったのです。本末転倒の楽山です。
 
宗教について信仰について、その起源も必要性も理解していない怠慢な楽山は、今も、同じような、安物のイメージで宗教と信仰を語っています。無反省の訂正不能の、言論と頭のボンヤリ言語の弊害は、まるで、蜘蛛の巣が首に巻き付いたときのような不快感をもたらします。
 
楽山の言うような、飾りの信仰?なら、楽山の言うように、いい加減に理解して、いい加減に信じてもいいのでしょう。何も良い方向に変える力のない信仰?だからです。
 
信仰は、現象としても、人が、それを必要としたから、伝えられて、広まっているのです。
 
楽山やシャロームなどの易坊類に典型的ですが、宗教には曲解やカルト化という弊害はありますが、今も、信仰を必要とする人々がいるのです。
 
楽山は、善に見せかけて、無理解と悪意から、ひどい侮辱の言いがかりを、笑いながらしているとしか思えない平気さで、今も続けているサディストです。
 
 
(2020年05月22日、同日一部修正)
 
字面(じづら)
論う(あげつらう)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
雪崩(なだれ)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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