ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年06月

 
  楽山の因果応報(1)
 
 因果応報についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25245536.html
 
 
楽山は、飢えた犬のように、まとめて記事をアップしてきました。凄い気力ですが、その分、理路も情感も鈍っているなら、また、疲労を与えに来ただけということになります。
 
楽山は、対話形式にすれば、リアルさが増すと思ったのでしょうか。より衒奇(げんき)性が増すとは思わないのでしょうか。芝居がかった?三文芝居が続きます。
 
今までも、柔和芝居や、謙虚芝居や、クリスチャン芝居をして、だまそうとしてきた楽山ですが、このシリーズは、2つのキャラに、褒めたり、けなしたりをさせています。
 
正しいと思うことをストレートに言えるなら、また、反省し修正する心を持っているなら、対話形式にする必要は全くないのです。しっかりした根拠を持っていないから、さらに、演技性に向かうということでしょう。
 
カルト的思想は、そのベースが偽りなので、だまして誘うことが目的となり、詭弁と刷り込みの種類だけが凝ったものになってゆくのでしょう。目的が不純なために、わざとらしさだけが目立つ欠陥品になるのです。
 
*信者の訪問
信者 「こんにちは。あなたのブログを読んで、いろいろ考えさせられました」
老人 「こんにちは。それはよかった。拙ブログが考えを深めるきっかけになったのであれば、こんなうれしいことはない」
 
楽山の、哀れな、独り芝居の、独り褒め合いと、独り納得の、独り感謝です。こういうことが、みじめだとか、見苦しいとか、恥ずかしいとか、思わないようです。まさに、悪の染みついて首が回らなくなった詐欺師と言わざるを得ません。
 
信者 「なに言ってんですか。あなたのブログを読んで、よいことも、うれしいことも一つもないですよ」
老人 「は? それはどういうことかな」
信者 「どうもこうもないです。言葉通りの意味ですよ。あなたのブログのでたらめさには、まったく呆れてしまいましたね」
老人 「ほう…。たとえばどんな?」
信者 「そうですね。まずあなたは因果応報を否定してるでしょう。これはもう噴飯ものであって、明らかな間違いです」
*三つの問題点
老人 「うーん。それは早とちりだね。私の考えは、因果応報が現実かどうかは、人には確かめようはなく分からないことだというものだ。それがあるとも、ないとも断言はしない」
信者 「でも因果応報を否定しているでしょう」
老人 「因果応報という考え方には、人道的、倫理的、宗教的な面から問題があるとは考えている。また自分の感覚として、因果応報にはあまりリアリティを感じなくなってきているというのもある。ただ因果応報という法則があるかないかについては人には分からないと思う」
信者 「なに屁理屈ばかり言ってるんですか。そんな詭弁には騙されませんよ。私のことをなめるのは、いい加減にやめなさい」
老人 「別になめているつもりはない。その証にきちんとあなたと向き合い、私の考えを説明したいと思うがどうだろう」
信者 「話したいなら勝手に話をしたらいいでしょう。でも騙そうったってそうはいきませんからね。末端信者とはいえ、それなりの教学はしてますから、あなたなんかに騙されませんよ」
老人 「そうかい。では因果応報について私の考えを話してみよう」
 
今回は、信者が老人をけなす設定になっているようです。楽山は、どっちなのでしょう。どっちも楽山であり、楽山としては、私をけなしたいのでしょう。分かりにくくなっているだけです。
 
これまで、反キリストでありながら、クリスチャン芝居もしてきたわけですから、出来ないことはないと思っているのでしょうが、白々しいとは思わないのでしょうか、楽山自身が答えられる疑問と回答しか書けない芝居です。
 
楽山の特徴は、決して、批判に向き合わないことです。だから、ここで、期待通りの疑問をしてくれる信者を設定しているのでしょう。白々しいのです、三文芝居。
 
*因果応報と人情
老人 「いきなり私事から話をはじめて恐縮ではあるが、この問題について語るには、それがどうしても必要だと思うので、ここは我慢して聞いてもらいたい」
信者 「能書きはいいから、早く話をはじめなさいよ」
老人 「うむ。私が生まれ育った家は、特定の宗教の信者ではない、日本ではごく一般的であろう無宗教の家だった。だからは私は、特別な宗教教育は受けたことはなかった。それで、気の毒な状況にある人をみれば、『気の毒だ』と思ったものだった。『なんとかできないものか』とか、『自分に何かできないか』『でもお節介がられるんじゃないか』とか、いろいろ考えたりもした」
信者 「……」
老人 「その後、私は青年期になって、とある宗教に凝ったんだ。その宗教は、因果応報やカルマは真実であり、事実であると説いており、私はそれを本気で信じた。その結果、気の毒な状況にある人たちをみたときには、まずはじめに『前世のカルマだ』『罪の報いだ』と考えるようになり、同情心はあまりわかなくなったんだ。悪いことをしている人をみたときは、『罪の報いで地獄に堕ちる』『来世は反作用で苦しむだろう』などと考えてしまった」
 
楽山が、因果応報という言葉で考えていることが、空恐ろしく思えます。楽山は、即、罪の報い、ということに結び付けているのです。しかも、罪の報いだと考えるようになり、同情心は、あまり分からなかったと言っています。
 
罪と罪の報いに苦しんでいる人は、たくさんいるでしょう。同情してはいけないのでしょうか。ここに、楽山の、人間にとって、とても大事なものの欠如が見て取れると思います。
 
ここに表れているのは、楽山の "共感性の欠如" です。罪を犯す人を、特別悪い人と思っているようです。罪は、総ての人が犯しているのです。そこへの洞察が、まるで無い楽山です。
 
洞察は、共感性から、生まれてきます。前にも書きましたが、楽山の、有害なだけの陰気なダークネスから、その対極に、人間にとって必要な光のブライトネスがどういうものか、暗示されてくるわけです。
 
このことから、楽山が、自分のことは棚に上げて、人に対しても、神についても、高い位置から見下ろすようなことしか書けない、ということが分かります。次々と、楽山自らの言説によって、楽山の正体が明らかになってくるのです。そして、その対極にあるものが、暗示されるという皮肉な結果になるのです。
 
対極にあるもの、人間にとって大切な共感性、これが養われておれば、人の気持ちが、少なくとも、ある程度、分かります。自分が似たような罪の意識をいだいたことを体験から知っているからこそ、同情が出来るのです。
 
楽山には、そういう心が無いのでしょう。だから邪教も『本気で信じ』てしまうし、人に対しても『罪の報いだ』としか考えないのでしょう。それが、今も続いているということです。だから、字面だけの理屈でしか考えられないのでしょう。
 
信者 「それで? それがどうだったいうんです?」
老人 「この結果、私は、因果応報という考え方は、人の自然な情緒を棄損し、冷酷にする面があり、ここは非常によくないと考えるようになったんだ」
信者 「因果応報を信じるようになってから、人に対して冷酷になったとして、それは因果応報の問題ではなくて、あなた自身の問題でしょう。自分の問題を、因果応報になすりつけてはいけません」
老人 「そうだろうか。私がいた宗教では、因果応報だとか、カルマが説かれており、私以外の信者たちも、不幸な状況にある人について、『カルマですね』とし、意見が合わない人には『死後は地獄ですね』といい、不慮の死を遂げた人については『肉体生命は断たれても霊としては永遠です。どんな経験も霊性を向上させるための肥やしになるんです』といって簡単に割り切って終わりにする人が多かったものだ。彼らのこういう冷淡さと、因果応報、カルマといった思想とは無関係ではないように思う」
信者 「それじゃあ、勝手にそう思ってたらいいでしょう」
 
このあたりから、楽山は、冷淡などの、心の問題を取り上げたいようです。私が、楽山は心が無いと言ったからでしょうか。しかし、そのように言われて取り上げるのは、反省になっていないところから、言い訳としか見られないことを、楽山は知るべきです。
 
楽山は、シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という信条に賛成し、熱心な信仰と誉めてさえいました。
 
こういう、何も考えなくて勝手にしていいとでも言うようなシャロームの信条に賛成してしまうことが、罪の自覚、罪に苦しみ悲しむことへの共感が、人間を、反省させ、成長させてゆくことが、楽山には分かっていない、という根拠になるのです。
 
このシャロームの信条は、ただ、お気楽なだけです。そこには人間の温もりも潤いもありません。つまり、とても冷淡で、非情で、自己中で、人間についての洞察の欠片もない、という、シャロームの人格の有り様が表れています。
 
ゆえに、楽山の書いた文章ですから、シャロームに賛同する楽山の、冷淡さを指摘する言は、嘘だと思います。
 
楽山は、神を机上の字面の概念として、否定してきました。そして、心の無い冷たい欠陥性の理路で、神を、おとしめてきました。字面の理路というのは、人間性を欠いた冷淡な理屈です。こだわりだけで進める無機質のゲームです。
 
楽山が、今になって、反省としてではなく、最初から分かっていたかのように、心のことを書いてくるのは、言い逃れに過ぎないと思います。何故なら、言われたことを真似して書く、という反応そのものが、心からの反省が欠けている分、都合だけを考えた心無い結果だからです。
 
「霊性を向上させるための肥やし」というのは、心を無視して、字面の概念を、霊、という言葉で表して、心とは違う特別のものに見せかけるカルトの詭弁です。
 
ごちゃごちゃ言い逃れの詭弁を弄するのではなく、本当に、前のことを翻したのなら、自らを斬る以外にはないのですから、自分大事に、心があるかのように、今さら、言うことは、むしろ、楽山の企みを明らかにするだけになるわけです。
 
冷淡さについて、楽山が、自らを斬ることなしに、辻褄合わせに語ることなど、認めてよいことではありません。
 
こういう芝居を平気でしてしまうところに、楽山の悪意が、さらに悪性を増していることが、表れています。奇を衒(てら)った三文芝居など、楽山の今までの経過が、否定しています。
 
だまして、良く思われようとする、あがきに対して、微塵も説得力の無いことも、明らかになっています。保身のためには、他者を利用し、自説を最初から無かったかのように無視して、今の自尊を守ろうとする姿勢は、もはや、正常の言論者ではありえないことをもって、楽山が、詐欺師であることを確定してゆく経過と結果になるでしょう。
 
悔いることもせず、改めることもせず、自らの非を認めることもしないで書いてくるような、楽山の辻褄合わせの芝居に、どうか、だまされないでください。
 
 
※ 
 
批判というものを考えるとき、批判者は、正しいと思って批判していても、批判の正しさを信じるのではなく、できることをしているに過ぎない、ということを自覚するべきです。つまり、批判してもしなくても、人間にとって、それは、そのときの判断に過ぎず、人間の正しさの結論は、神に任せられるということです。
 
人間は不完全だから、批判することも、批判しないことも、罪になりうるからです。
 
 
(2020年06月25日、同日一部修正)
 
排泄(はいせつ)
 
 
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  楽山の独り芝居(3)
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25240253.html
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の言です。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神からの働きかけかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。それが、信仰者の生き方であり、神と違って不完全な人間の生き方であります。
 
実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。どれかを知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか聖書も理解していないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる時です。
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、おもちゃに過ぎないということでしょう。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
楽山本人は、ブログのタイトルに、LDと書いている。学習障害 learning disability のことであろうか、言及がない。障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
(2020年06月24日)
 
 
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  楽山の独り芝居(2)
 
 神についての対話 2 
 楽山日記(LD) 2020年06月21日
 http://mn266z.blog.jp/archives/25240161.html
 
 
楽山が悪意の人であることが表れています。信仰が分からないから、信仰について、文句が言いたいのでしょう。そして、終わりに、小説から、ふざけたことを言って、神を笑う気持ち悪さなのです。
 
努力している信仰者も非信仰者も、たくさんいるでしょうに、楽山は、反キリストとして、霊が分かるっぽい特別の地位を欲して主張しているのだろうと思います。
 
神を崩れた理屈に納めたつもりの楽山が、決めつけはよくないと書いても、何の説得力もないのです。楽山の、自己愛こそ、自己中こそ、無反省こそ、楽山が決めつけた自分信仰です。
 
楽山は、対話形式にして、工夫をしたつもりで、ますます、演技的になってる、芝居がかってる、わざとらしい、などと思われることを予想しなかったのでしょうか。
 
自分に酔う者は、芝居の度合いを増すことで、ますます、いい気になり、観客つまり読者がどう思うかが分からなくなるようです。まさに、自己顕示欲が、自らを滅ぼしてゆく舞台です。
 
*神のイメージの幅
若者 「えぇっと、ちょっと待ってください。いま、お話を聞きながら、妙なことを考えてしまったのですが…」
老人 「妙なこと? どんなことだい?」
若者 「い、いえ、やっぱりいいです。すごくバカバカしいことなんです」
老人 「ひらめきや思い付きには、あまり自己検閲をかけすぎない方がいいと思うよ」
若者 「そうですか。では言いますけど、あなたの意見は、人には神のことは分からないのだから、『神は~である』とは断言できないし、『神が××であるなら~だろう』と仮定として話すか、『私には神は~と思える』と感想を話すくらいしかできず、誰かが抱く神のイメージについて確信をもって正しいとも、間違っているとも言えないということですよね」
老人 「そうだ。他人が抱いている神のイメージについては、共感したりしなかったりはできるが、どういうイメージが正解であるかは分からないのだから、正しいとか、間違っているとかは言えない」
若者 「そこで僕は思ったのです。それでは、もし『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人がいても、それを否定できないのではありませんか? これはおかしくありませんか?」
老人 「神は残酷だということについては、私の記憶では、たしか、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』にそういう表現があったね。主人公の少年は、親友が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、牧師の下に通い、信仰に目覚め、その後は多大な犠牲を払いながらも、邪悪な存在と闘い、その活動を阻止するという物語なんだ。少年は自分には邪悪な存在の活動を防ぐ使命があり、その使命を果たすために自分が霊的なことに目覚める必要があり、そのきっかけとして友人が事故に遭うことが計画されていたことに気づき、神は残酷だと呟いていた。運命論的な考え方、すべては神の摂理によって支配されているという考え方からゆけば、悲劇は神によって予定されていたことになるわけだし、そういう感想を持つのは致し方ない面はあるだろうし、そこに真理は少しも含まれていないということはないだろうな」
 
「真理は少しも含まれていないということはないだろうな」・・楽山の、二重否定は、大事なところで、確証がないのか、ごまかしたいのか、表れます。とても気色の悪い婉曲表現、ボンヤリ言語です。
 
こういう人と遣り取りすると、絶望的な疲労を受け取ることになると知ったので、私は、批判記事だけにして、コメントの遣り取りをやめました。
 
楽山の書く思い付きの文章の邪悪さは、神を否定しながら、他に救いにつながるヒントを何も書けないことにあります。自己愛が強いからでしょう。文句だけ言って、責任を負わない楽山は、他者も、自分の言ったことさえも、気にしない体質なのです。
 
信仰者は、いかなる悲劇があっても、キリストの愛を忘れることの出来ない人間です。臆病や疑いのために、キリストのもとを離れる人もいるでしょう。また戻ってくる人もいるでしょう。信仰は、一度で決定することではなく、正直でありうるなら、神の愛の寛容によって、いつでも、やり直せるのです。
 
信仰は洗礼を受ければ後は心配ないという信仰ではなく、様々な疑惑という経緯があって離れても、主のもとに帰る道があります。ゆえに、少なくとも、楽山のような者の意見を真に受けるよりは、はるかにマシだと言えます。
 
キリスト信仰は、境地の固定ではなく、成長するための道です。楽山は、同じような非生産的なことを繰り返して、言い得たと思うわけですから、成長できない、そして、成長しないでいいと思っているようです。
 
そういう腐敗に腐敗を重ねるような人生は、楽山やシャロームなどの限られた厚顔無恥の異常者にとどめるために、私は書いています。彼らに、誰も、近づかないでください。
 
若者 「神は邪悪であるというイメージについてはどうですか」
老人 「『神は善であろう』と仮定すれば、神のイメージは善から外れるものは認められないことになるけれども、『神はすべてであろう』としたらそのイメージは必ずしも善に限定さなければならないというわけではなくなるだろうね。『神は善悪を超越しているだろう』としても、そのイメージは善に限定されるものではなくなる」
 
楽山の言い分は、自分が正しい、自分は視野が広い、という方向で説明が付きます。限定されない神のイメージを、楽山の、字面の善と悪と善悪、という言葉で書いては何も言いえたことにはなりません。"善悪を超越" という言葉を安易に使う楽山は、何も分からないまま、反キリストの策略を弄しています。
 
人は、神の正しさが分かるから信仰者になるのではありません。それも、私のブログに書いてきました。
 
楽山は、都合の悪いことは無視して、自己顕示欲を小細工で論理的に見せかけて、自身をインテリっぽく見せかけるために、中庸みたいなことを、前から書いていますが、実際は、通念的字面に終始して、何も言えなくなる虚無へ誘っているだけの悪魔性です。
 
楽山は、信仰の救いについて、体験がないために、何も理解していません。さらに、分からないのだからという謙虚さもないために、書くことを控えることもせず、反キリストらしく、無秩序に、いちゃもんをつけてきます。
 
楽山は、自らの混乱を伝染しようとしているだけです。恐らく、よほど、お仲間以外の、誰からも相手にされなかったのだろうと思います。
 
若者 「神は善であると言い切れないのだとすると、なんだか辛いですね。僕はやっぱり神は善だと信じたいです」
老人 「宗教のなかには、神のことを善神と悪神に分けているものもある。住民に虐殺命令を下したり、さほどの落ち度もない人物を不幸のどん底に突き落としてその反応を見てみようという悪魔の提案を受け入れる神もいる。また世界の神話には、現代的視点から見たら、とても善なる存在とは思えぬ神々が描かれている。神は善であるとは限らないという考え方は、そう珍しいものではないよ」
若者 「うーん、確かにそうですね」
 
楽山は、まるで、聖書の話を、これをやったから神はおかしい、という、けなし方ですが、神を机上の対象にしている時点で、分からない楽山の不感が明らかになりますから、そこで既にアウトなのです。神を仰ぐのではなく、神を頭の中に作って云々しているのが楽山です。
 
楽山が言ったことに、「うーん、確かにそうですね」と、楽山が答える。笑止の自己顕示であります。時と場合を弁えない楽山、自分が何をしているか分からずにいるのです、という、聖句を思い出します。
 
私は、ただ、楽山のボンヤリ言語で、楽山のようなボンヤリ人間が増えるのを、できる範囲で防ぎたいと、切に思っています。
 
楽山は、人間らしい活性がないために、同じことを言ってくるのです。問答形式にしたところで無駄なのです。中身は、知らない世界にまで、知ったことにしないと気の済まない病的ナルシストの常習的な醜い生業です。
 
老人 「善悪の基準は、時代、地域などによって変化するものだ。だから古代人が善なる神をイメージしたとしても、それは現代人からみればとても善とは思えず、理解不能なものになることもありえる。今きみが精一杯に善なる神をイメージしたとしても、それは未来の人々と共有できる善なる神とは限らないし、どちらかといえば理解されない可能性の方が高いのではないだろうか」
若者 「そうかもしれません」
 
人は、精いっぱい善なる神をイメージして信じるのではありません。上のほうにも書いたように、神の正しさは、不可知の神の、不可知の善として、祈りにおいて、反省し、黙想し、絶対孤独にはなかった信仰の道を歩むのです。
 
楽山の、信仰についての勘違いは、殆ど妄想化しているので、批判をせざるを得ないのです。この妄想的確信ゆえに、楽山は、気づきをもって信仰を理解することがないのです。
 
また、それゆえに、自身が信仰を理解できないものだから、手段を選ばず自分を高めたい楽山は、手段を選ばず敵意を表してきます。対話形式だから、分かりやすくなるような要素は、楽山の主張にはありません。姑息な楽山の苦し紛れです。
 
老人 「そうであれば、きみが神は善であると考え、イメージしたとしても、それはあくまで個人的なイメージにすぎず、それに賛同しない人が現れて、『この若者は、到底、善とは思えぬ邪悪な存在を神だとしている。これは神に対する冒涜だ!』と噛みついてくることもあるかもしれない」
若者 「世の中には、いろいろな人がいますからね。まさかとは思いますが、ひょっとすると、そんなことも起こり得るかもしれません。少なくとも絶対ないとは言い切れないですね」
老人 「人には、絶対なんてことは言えないからね」
 
また、楽山は、善を持ち出してきます。神の善は、地上では、人のものとはならないことを、よって人は判断しているに過ぎないことを弁えるべきことも、私は書いてきたのに、楽山は、おとしめるために、キリスト教を信じるとこうなりますよ的なことを、「まさか」と言う言葉で、ごまかしながら、書いてくる裏の闇の印象操作です。
 
「絶対ないとは言い切れない」、これは、だから注意するべきだ、という意味ですが、楽山は、自身の文章と思想に溢れている偽りに、全く、意を注ぐことが出来ない人なのです。そういう人が、言っている、ということを忘れないでください。楽山は、生まれて今まで、全部、嘘、・・絶対ないとは言い切れない、という感じになります。
 
*宗教批判について 
若者 「これまでお話をうかがって、前よりずっと、あなたの考えを理解できてきたように思います」
老人 「それはよかった」
若者 「でも、あの……」
老人 「どうしたんだい?」
若者 「すいません。また疑問がわいてきてしまったんです」
老人 「どんな疑問かな?」
若者 「ええっと、ですね…あなたの考え方は、神は不可知であって、人には分からないものだということでしたね」
老人 「そうだ」
若者 「だから、人には『神は~である』と断定的には言えないと」
老人 「そうだ」
若者 「神について語るときは、『神は××とすると、~であろう』と限定的に言うか、『私には神は~と感じられる』というように感想を言うくらいしかできないと」
老人 「そうだ」
若者 「神については確かなことは知り得ないのだから、他の人が語る神について、それがどういうものであっても、それについて正しいとも、間違っているとも断言できないとも」
老人 「そうだ」
 
否定されるものは、このまま、多くの人が信じたら、社会悪に結ぶ付くものです。
 
楽山の、自己中、無反省、無視、訂正不能、虚言、無理解、などの体質は、明らかに当てはまります。宗教を、自己愛や自己中で語れないことは明らかであり、反省しなければ、いつか、犯罪に結びつく恐れが大であるからです。楽山は、明らかに間違っているのです。しかも、故意なのです。ゆえに、反キリストなのです。「そうだ」・・とんでもないことです。
 
違法行為がないと逮捕は出来ないが、批判は、言論の自由だから、いつでもできるのです。
 
若者 「そこで一つ疑問があるのです。あなたの考え方からゆくと、間違った宗教を批判することはできなくなるのではありませんか。世界には、反社会的なカルト宗教というものがあります。神を自称する教祖もいます。人には神のことは分からなず、他の人が語る神について断固否定することはできないのだとすると、そのようなカルト宗教や教祖を批判することはできなくなってしまうのではありませんか。これはおかしいです」
老人 「たしかに、きみの言う通りだ。でもそれは宗教的な見地からは有効な批判はできないというだけのことで、他の面からはいくらでも批判はできるんだよ」
若者 「はあ…、それはどういうことですか」
老人 「人には神について確かなことは分からないのだから、カルト教団が語る神について、それは正しいとも、間違っているとも断言できないし、その教祖が神であるかどうかも確実なことは言えないけれども、その教団および教祖が、違法行為や人権侵害行為をしているならばそれを指摘することは可能だ。教祖の言行不一致や奇行についても指摘できる。教義に論理的矛盾があればそれも指摘できる」
 
楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無だと言いました。今も言っています。既に、私は、それに対して、カルトは、犯罪に及ぶ前日はカルトではないのか、と書きました。
 
上のことは、カルトの定義ではなく、逮捕できるかどうかの基準に過ぎません。特にネットの時代においては、カルトを早期に発見して、何よりも批判をすることが必要だとも書きました。
 
まさに、訂正不能と無反省と無視を貫いて自己中と不整な自説を広めようとしている楽山は、カルトと同質の批判対象なのです。矛盾がどうこう以前に、何も整っていないのです。しかも、故意なのです。
 
若者 「つまり宗教的な見地からは確実なことは言えないとしても、人権、法律、道徳、倫理、論理などの見地からは意見が言えるということですか」
老人 「そうだ。しかしその宗教において、神は、人権、法律、道徳、倫理、論理などは超越し、何らの束縛もうけないとしており、信者たちがそれを信じているならば、それらに基づく批判はさほど有効なものではなくなるだろう」
若者 「うーん。そういう宗教や教祖が間違っていることを証明するのは無理なんでしょうか。それができないなんて納得できないし、すごく悔しいです」
老人 「それをするためには、神とは何かという問題を解決しなければならないし、それができない以上は、どうにも仕方ないことだね」
若者 「そうですか…」
 
神とは何かという問題を解決しなければと言っています。神とは何か、分かるなら、それは、人知を超えた神ではなく、信仰にもなりえないと思います。
 
楽山の扱い方で、神とは何か、分かると言うなら、それは、楽山の、真っ赤な嘘です。いちばん信仰に大切なことが、自己愛・自己中ゆえに、楽山は分からないまま、いちゃもんだけを言っています。あたかも、議論しているかのような小細工を弄して。
 
独り芝居の楽山は、問うたつもりで、主張しており、不可知と言いながら、ならば、解決しなければと言い、かつ、"どうにも仕方ない" と言う始末です。
 
*到底、神とは思えない神
老人 「タイトルは失念したが、ずいぶん前に、酒場に入りびたる天使が出てくる小説を読んだことがあるよ」
若者 「天使が酒場に入りびたってるんですか?」
老人 「そうだよ。小説の主人公のところに、ある人物が訪ねてきて、自分は天使だというんだ。でもその人物は酒場に出入りしていて、とても天使には見えない。だから主人公は、『酒場に入りびたる天使なんかいるわけがない。あいつが天使であるはずがない。でももし本当に天使であったとしたら、それを信じなかった自分はいったいどうなるんだ? 不信仰の罪を犯すことになるのか?』と悩むんだ」
若者 「結末はどうなるんですか」
老人 「主人公は、信じることを選択するんだよ。そして実際、その者は本当に天使だったんだ」
若者 「酒場の天使ですか…どうにもイメージできません」
老人 「私もきみと同じだよ。でも神は全能であり、なんにでもなることができるとしたら、酒場で泥酔している姿で現れないとも限らないだろう。それだったら神が何らかの目的をもって、カルト教祖として現れないとも限らないだろう。場合によっては、空飛ぶスパゲッティモンスターとして現れることもあるかもしれない」
若者 「ははは。それは冗談でしょう。もし冗談でなければ、いくら何でも極論過ぎてついていけません(苦笑)」
老人 「まあ、なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいいだろうね。せいぜい自分には神はこうであると思われるという程度にしておいた方がいい」
 
フィクションである小説に出てきた神?を、真顔で、神の前提として話を進めている楽山の詭弁に気づいてほしいと思います。「(苦笑)」は、その軽さを表しているのです。
 
酒場で泥酔、カルト教祖、空飛ぶスパゲッティモンスター、という神、・・これは、明らかに、楽山の悪意による侮辱です。
 
そして、「なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいい」と言っています。
 
聖書についても信仰についても短絡した意見しか持ちえない楽山は、その一方的な思想から、神を、雲か霞のような、薄ぼんやりとした存在感のないものという印象を吹き込みたいようです。
 
楽山にとって、神という存在は、ボンヤリした存在に過ぎないのでしょう。そこが、字面だけで考える楽山の宗教観の限界であり、即ち、神について語る心の資質を、楽山は持っていないということことが、楽山によって、示されているのです。
 
にもかかわらず、神を、机上で決めつけて、神がいるならなぜ悪があるのか、などと、けなしてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、神を、楽山の字面だけの理屈の中に決めつけてきたのです。
 
私は、何度も、神とその意志と行為を決めつけてはいけない、と書いてきました。それが、私の書く信仰観の中心の一つだからです。
 
そういうこちらの言い分を、無視するのが、楽山という卑怯者です。それは、読書にも表れてきました。学者や評論家と肩を並べるかのように、都合の良いところだけ引用して、自身の軽率で拙劣な理路の中に置いて利用し満悦するのが楽山です。
 
今回も、ふざけて、満悦し、神を、高みから見下ろして、冗談じゃからええじゃろ、とばかり、神を冗談のネタにして笑う楽山です。まさに、楽山が、今、野放しになっていることが、神様どうしてですか、という祈りにつながると言えるでしょう。
 
楽山の独り芝居に対しては、私が書けるあいだ、批判を当ててゆくしかありません。
 
 
(2020年06月23日)
 
 
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  楽山の独り芝居(1)
 
 神についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記
 http://mn266z.blog.jp/archives/25239962.html
 
 
楽山が、もろに攻撃を仕掛けています。それも、仮想のコメントの遣り取りを捏造しての話です。ここで、楽山は、コメント者として、自分に好意的で、尊敬してくれるような人物を想定していますが、楽山自身でしょう。つまり楽山の独り芝居が、また、今回は対話形式で始まったということです。
 
異常者は、懲りるということがなく、どこまでも、真実から目を背けて、だましてくるのです。罪悪感も羞恥心もなく、ただ、攻撃意欲だけが働いています。人間にも悪魔性に囚われる者がいるという宿命でしょうか。批判に答えられない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
もし、これが、どこかで交わされたコメントの遣り取りであれば、組織がある、同調して無条件に褒めてくれる仲間がいる、ということの証拠になるでしょう。既に、だまされた人たちが、そばにいるのでしょうか。
 
*まえおき
 最近は、本の感想を書くことが多かったが、たまには趣向を変えて対話篇というかたちで書いてみたい。
*はじまり(若者と老人の対話)
若者 「こんにちは」
老人 「こんにちは。ひさしぶりだね」
若者 「はい。先日はブログを読ませていただきました。おもしろかったです」
老人 「ありがとう」
若者 「でも申し訳ありませんが、正直な感想をいうと、どうしても同意しかねるというか、疑問に思えるところがありました。もっともこれは、僕の誤読のせいかもしれませんが…」 
老人 「なるほど(微笑)」
若者 「あれ? お怒りにならないんですか?」
老人 「そうだね。人はそれぞれ違った意見を持っているのが当たり前なのだから、私の意見に同意しないからといって別に腹を立てることはないさ」
若者 「そういうものですか」
老人 「そうだよ。それに巷には、相手の意見を誤解したまま、正確に理解しようともせず、ああだこうだ言う人は少なくないし、ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。それからしたら、きみのように、あれこれ言う前に、自分の誤読の可能性を考えたりして慎重な態度をみせてくれるのは、とてもありがたいことだ」
 
最後の老人に、楽山の言い分が書いてあります。楽山は「ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。」というのは、私に当てつけています。
 
極めて初歩的な、人間なら分かるはずの誤解も、自己愛絶対のために曲解して、中身云々よりも的外れの自説を言い続けてきたのは、楽山その人であります。
 
それと、当たり前のことですが、私は、前もって決め込んだりはしません。この記事もそうですが、私は、楽山の記事に反応して、そのたびに病的な作為だと感じて、批判記事を書いています。
 
自分の誤読の可能性を、全く考えず、にもかかわらず、批判に、反論も弁明も出来ないのは、楽山です。このような、意地の悪い当てつけだけを向けてきます。
 
お仲間以外、誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒める訪問者の芝居をしているのでしょう。殆ど児戯に等しい楽山の学芸会なのです。
 
ここまで崩れるほどに、高慢を守ろうとするカルト的思想の思い込みは、人間を、そして自身をも、破壊してゆきます。
 
*神のことは分からない
若者 「そう言って頂けると、とても話がしやすくなります。ありがとうございます」
老人 「どういたしまして。それで疑問に思ったところというのは、どの部分についてなんだい」
若者 「神についてです。あなたは神についていろいろ書かれていますが、僕にはどうもあなたの真意がどの辺りにあるのかが分からないのです。あなたは一体、神とは何だと考えているのですか」
老人 「……」
若者 「どうしました?」
老人 「どうって質問にこたえたんだよ」
若者 「こたえた? 口を閉じたまま、何も話さなかったじゃないですか」
老人 「私は、神とは不可知であると思っているんだ。人には神のことは分からないとね。だから私には、神とは何かと問われれば、沈黙でこたえる以外にはこたえようがないんだ」
 
神は、不可知であり、基本的に、沈黙の神であることは、人間が、神に対して思い上がらないために必要であり、そういう神でなければ、人を救うことは出来ないだろうくらいは、推測するわけです。全知全能・絶対完全・永遠不変を、人は、知っているとは言えない、ということです。
 
しかしながら、楽山は、私が言ったことさえ利用して、ここで、正しく見せようとしています。今まで、キリスト信仰を、好きなようにおとしめてきて、こういうことを書くのは、楽山の底意地の悪い狡猾さを表すだけで、真に受けることなど出来ません。
 
実際、反省も、修正も、したことはなく、正しいだろ、と見せびらかしている自己顕示欲の臭さだけが漂ってくるのです。楽山は、謙虚な姿勢などありません。
 
謙虚な人であれば、もうとっくに、それまで書いてきたことを否定して反省の言を表しているはずだからです。楽山は、物事の必然というものが全く分かっていないために、そらとぼけて書いて、これで良し、と思ってしまうのでしょう。
 
独り芝居の独り納得、楽山が何か書くたびに、それだけが明らかになってきたのです。これからも同じだろうと思います。決して近づいてはいけない人です。
 
*神について語ろうとするとき
若者 「なるほど。神とは人知では知り得ないと考えているんですね。でもそのわりには、神についてたくさん書いているようですが…」
老人 「よく読んでもらえれば分かってもらえるだろうけれど、私が神について意見を言おうとするときは、大概は、一つの仮定として書いているつもりだ。『もし神が超越的な存在であるなら××だろう』とか、『もし神が全知全能であれば〇〇であろう』という風にね。または『◇◇教では神は△△としているが、これから考えるなら~だろう』とかね」
 
楽山の自己正当化は成り立ちません。条件をあげ、それに合わないからと神を否定してきたのが、楽山です。そして、その条件は、実に、楽山の欲望を満たす幼稚なものでしかなかったのです。
 
キリスト者は、いかなる字面の矛盾も疑問も、キリストに与えられた癒やしを否定できないことを知っています。楽山は、恐らく、愛も共感も経験していないと思います。だから楽山は "霊" そして字面に執着し続けているのです。
 
つまり、とても、低次元で、神を対象として、神と取引をしている態度なのです。このことは、前にも書きましたが、楽山は、不都合を、ことごとく無視して、疲労だけを与えてきます。
 
ゆえに、悪だくみの知恵だけで、話を進めてくる楽山には、誰も近づいてはいけないと言ってきました。今回も、そのような、詭弁だらけの、反キリストが、醜さを全開にして、あがいているに過ぎません。
 
若者 「そう言われてみればそうですね。他にはありますか」
老人 「『自分には神とは××と感じられる』という言い方をすることはあるね。いわば先の語り方は神について理性的に語ろうという試みだが、こちらは感覚的に語ろうという試みと言える。後者については人はそれぞれ感性は異なるものだから、私とは異なる感性の持ち主であれば、当然に私とは異なる感想を持つだろうな」
 
楽山は、一見、論理的なことを書いているように見せかけます。しかし、実際は、論理というものにも心が関わっていることを知りません。恐らく、こういう人は、人殺しが悪いという証明は誰にもできない・・みたいなことを言う人と同様なのでしょう。
 
字面の理屈だけで物を言う、物が言える、と思っている勘違いの、恐ろしい表れを、楽山に見ることが出来ます。楽山の理屈は、いたるところで、壊れています。一方、楽山の書くことには、感動を与える要素が何もありません。共感がないからです。それゆえ、今、共感し賛同する相手を仮想し捏造している、という悲惨な自慰の末路を辿っているのです。
 
若者 「ということは、あなたが神について語っている時は、『神は~である』というのではなくて、『神は××であるとすれば~である』『自分には神は~と感じられる」というように、仮定の話だったり、実感についての話だったりするということですね」
老人 「その通り。神は多義的であり、多面的でもあろうし、そう簡単には定義できないものだ。強いてそれをしようとするなら、神とは人には分からないものだとするくらいしかできないのではないかな」
 
神が分からないなら多義的かどうかも分からないはずです。楽山の視野は、楽山が語れば語るほど、狭くなってゆくようです。言い逃れできないところを、字面の理屈で埋めようとするからです。
 
信仰者でない楽山が、神について、信仰について、実感についての話など出来ないはずです。つまり、そのような当然の謙虚さすらも弁え得ないところに、楽山の病巣があるのです。
 
若者 「はい」
老人 「だから神については、『神とは~である』と断定的には語れず、『神が××なら、~であろう』『自分には神は~と思われる』という程度のことをしか言えない。そしてこの場合、誰かが『いや、自分には神は~ではなく、××と思える』と主張するなら、『それは違う』とは言えず、『ああそうですか。あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ないんだ。神とは何であるか確かなことは分からないのだから、そうならざるを得ない」
 
語尾にこだわることが正確だと思っているようです。はっきり言って、総ての発言には、語尾に「と思う」が付いていますが、いちいち書くと文章が見づらくなるだけなので、省略されているのです。それで終わる話なのですが、字面にこだわる楽山の、神経症的な強迫観念が表れています。
 
厳密さを語っているつもりの楽山が、これまで無遠慮に語ってきたことには、偏見と妄想だけが表れ、整った理路が見られたことは一度もないのです。
 
さらに、楽山の文章の語尾には、曖昧な言い回しでごまかすところの、ボンヤリ言語の災いがしばしば見られるという事実を、楽山は、また、棚に上げて、無視しています。
 
だから、楽山は、反論も弁明も出来ずに、駄々を捏ねるように独り芝居を演じているのです。楽山を、理論家などと、決して思わないでください。楽山は、大事な理路から、最も遠いところをふらふら歩いている偏向したカルト思想の持ち主です。
 
若者 「ああ、今回、お話を聞けてよかったです。お陰様で、ようやく納得できました。実はあなたの語る神について、少々、違和感を覚える部分があったのですが、それはどれが正しく、どれが間違っているということではないんですね」
 
「どれが正しく、どれが間違っているということではない」・・その判断なしに、生きてゆけるつもりでしょうか。何でもあり、に帰着する楽山は、有害なカルト思想伝道者です。そして、これこそが、ボンヤリ言語の特徴なのです。楽山は、混乱してゆくようです。
 
善悪・正邪の判断は、誰でも、生きる上で避けられないことです。そこを間違っている楽山は、物の言い方が分からない人であることを露呈しています。
 
その善悪の判断を絶対化しないことのほうが大事であり、キリスト信仰者には、祈りという時と所があり、反省を促されることになり、ゆえに、成長が可能になります。つまり、楽山には、成長がないということになります。
 
老人 「その通りだ。きみが神についてどのようなイメージを持っているのかは分からないが、人には『神とは~である』と断言することはできないのだから、誰かが描く神のイメージは正しく、他の誰かが描く神のイメージは間違いだということは言えないだろうね」
 
私は、宗教と信仰を考えるときの一つの視点として、多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えます。楽山は、神をイメージでとらえたつもりになり、間違いだとは言えないと言っています。
 
楽山の記事に表れてきたところの、自己愛、自己中、無反省、訂正不能、これらから生まれてくるような、いかなる思想も信条も意見も、結局、社会悪につながる要素だけを持っていると判断しています。あってはならないあり方を、楽山は、毎回、示してきたのです。
 
自分だけを愛して、自己中心に言動して、反省せず、自分のために平気で嘘を吐くような人が、神の名をもって、一人前のように社会参加してくるのは、恐ろしいことなので、否定するしかありません。しかも、それを、キリスト信仰に絡めて来られたのでは、たまったものではなのです。
 
それをしなくなったら、楽山のような人を肯定したら、ゆくゆく、広まれば、この世は、偽善者だらけとなり、地獄と化することが推測できるからです。
 
そのために、私は批判をしているのです。だから、反論・弁明する権利があります。それが出来る人とは、分かち合いも議論も可能でしょう。
 
しかし、楽山は、できないのです。まともに組み立てられないのです。だから、近づけば近づくだけ、だまされるか、疲労するか、になってしまいます。真実の追求において、楽山は邪魔になるだけの疲労物質でしかありません。このようなことも前に書いているのです。
 
にもかかわらず、楽山は、あの手この手で、まだ、自己正当化を主張しています。病識の無い異常者だからでしょう。私は、楽山の書いてくることに、批判を当ててゆくだけです。
 
批判は、誰も楽山に関わることのないように警鐘を鳴らすためであります。楽山は、どこにでもいるような、ふつうの知ったかぶりではないのです。災いの発信元になる病原なのです。
 
楽山の放ってくる、いちゃもんについては、前から似たようなことが続いており、私は、批判してきました。今回も、楽山は、似たようなことを書いているだけです。恐らく、それこそ、こちらを疲労させるのが目的でしょう。
 
そのたびに、楽山の人間離れが明らかになるのですが、憑りつかれたように、楽山は書いてくるのです。常識的判断が出来ず、流れも文脈も読めないのは、亡者と言ってよいと思います。霊能者気取りの霊が分かるっぽい楽山は、ホラーの世界に住んで、そこで摩滅してゆくのでしょう。
 
 
(2020年06月22日)
 
 
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  読書
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分でした。母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな・・理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。
 
その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットのナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのかという問題がありますが、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。
 
楽山の言葉を拾ってみると
 
「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」
 
八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。
 
「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」
 
どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。悪い意味で、すごいのは、唯物論、という途方もなくデカい言葉を使っていることです。
 
(ネットより)
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。
 
間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などで表せるはずはないのです。楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。
 
機械論と創造論のことについても、同様でしょう。どちらにしても推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになります。否です。
 
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
学生の頃、経済学の講義で参照されていた資本論についての岩波文庫を読んだ記憶があります。黄金のトイレが出てきたところで、眉唾の印象を受けたのを覚えています。それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが
「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」
「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
というのは、要するに、世の中、金や、金や、という意味でしょうか。
 
それが革命で実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は動かないと思っているので、あまり興味はありません。ただ、物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで、信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もありません。楽山の理屈は、これまで、結局、視野狭窄と短絡で出来ていました。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいない、と言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている、"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけなのです。
 
楽山が、ずっと、心霊について書いてきたことが、楽山の唯物論を、全否定しているのです。
 
聖書は、常識的な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけを受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、近づかないでください。
 
 
(2020年06月21日)
 
 
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