ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年07月

 
  楽山の子供だまし
 
 宗教とアニメは同じもの?
 2020年07月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25655890.html
 
 
楽山の本音がむき出しになっています。宗教も、ゆえに信仰も、アニメとしてしか考えられない楽山です。これでは、楽山が、救われないのは当然ですし、この無知と無恥によって、楽山は、反宗教、反キリストとなっている証拠となります。これが楽山の正体なのです。
 
前記事の後半においては、つい宗教とアニメを並べて書いてしまったのではあるが、改めて考えてみれば両者はすごく似たところがある。
とりあえず両者の共通点を挙げてみると、こうなる。
世界観…宗教も、アニメ(漫画)も、それぞれ独特の世界観を持っている。その世界観では、現実にはあり得ないことが実現可能とされることも多い。
 
世界観は、実際の世界を表すとは限らない、ということが、楽山には分からないのです。理想であったり、その反対であったり、希望であったり、というような世界を、真に受けるのが宗教と信仰だと思っている、そうでないと気の済まない楽山の、驚くような幼稚さです。
 
物語…どちらも独特の世界観を持つように、独特の物語も持っている。
 
独特の物語と独特の世界観を想像するのです。当たり前のことが、楽山には分からず、楽山には、宗教は嘘、と言うことと同値なのです。常識も何も分かっていない。
 
物語のテーマとかいったものを考える正常な知性と感性がないために起こる未熟~退行であり、楽山が、いい年した大人だなんて、到底、思えません。その楽山が、背伸びして、本を読んだとばかり、嘘と詭弁を、ずっと噴出してきたのです。
 
楽山こそ、想像の世界の物語と、現実の世界とを、分離できてないところの、"自他未分化" の特徴的なパーソナリティです。人に何かを教えるよりも、小学校に入ったら?・・という次元の話です。
 
人物…主人公(教祖)、援助者(神や天使)、脇役(弟子)、悪役(悪霊、悪魔)などが設定されている。
 
この登場人物の類似によって、やすやすと、アニメや童話を、宗教や信仰と同じように扱えると思い込む、という、楽山の救いがたい妄想的曲解であります。
 
こういう子供だましにもならないような思考に至ってしまうのは、無反省、訂正不能、そして、自信の超過剰、という病的ナルシストの特徴なのでしょう。これからも、増悪して、最後には、混乱して日常生活も困難な支離滅裂になるだろうと思われます。
 
こういう楽山の通過点として、シャロームのような妄想信条と自己絶対の偽善者の、滅裂な豪語の世界があるのです。まるで、病気の進行のステージを見ているようです。
 
目的…世界を救うだとか、正義を実現するというような目的がある。大雑把に言えば、願望充足ということ。
 
世界を救うアニメの物語と、人間を救う宗教と信仰を、同一視してしまう未熟性は、楽山本人が、霊が分かるっぽい自分を信じ込んだ時点にさかのぼるのでしょう。
 
つまり、子供の時、既に、空想の世界があり、それを空想と認識できないために、何の根拠もなく、何の力もなく、おとぎ話を、宗教と、信仰と、思想と、大人になるまで、信じ込んで、のぼせ上がっている楽山の病の根の深さが表れています。
 
決して、楽山を、まともだと思わないように、決して、楽山に、関わらないように、決して、楽山に、近づかないようにしてください。思考も情緒も狂っています。
 
修復…設定(教義)のほころびを修復しようとするファン(神学者や信者)が存在する。
その他
 
アニメでは修復されることが多いですが、現実では修復されない場合があります。まさに、その実例が、これを書いている楽山その人だと、楽山自らが証明しているのです。設定した対応が滅茶苦茶です。これで、よく公表できるものだと思います。
 
思うに、人は無目的、無意味には耐えられない生物だ。「一切は無意味である」というような考え方を受け入れることが出来るのは、ごく一部に限られる。
 
無常というものを考え、ある程度、認めて、真実を追求している人々は、いっぱいいるでしょう。そういう人々は、例えば聖書の、風を追うようなものだ、ということを理解します。楽山は、それを認めずに、我こそは意味があると見せかけながら、リアルに虚しいだけの風を追い、悪臭を送風する者となっています。
 
「無意味には耐えられない生物だ」と断定しながら、「ごく一部に限られる」と存在を認める発言を加える、という、この卑怯者の詭弁に惑わされないためには、楽山を、いっさい、信用も信頼もしないことが必要になってきます。
 
だから人は自分はどういう流れの中で、どういう目的を持ち、どういう世界で生き、その後どこに行くのかということに興味を持たないではいられず、それがために神話が生れ、宗教が生まれたのだろう。
 
知性と感性が、一方は、アニメとして結実し、一方で、現実を見る者は、宗教と信仰に思想を進めるのです。どちらも、真面目だが、求めるものが違えば、創造力や思考力を向ける方向が別になるということです。それで、どうして、宗教とアニメは同じもの?、というタイトルになるのでしょう。
 
つまり、楽山だけが、想像力も思考力もなくて、にもかかわらず、どちらも知っていると言いたい欲望から、方向性の違いをわきまえず、ただ、おのれが宗教も信仰も理解できない欠格者だから、
・・アニメといっしょや・・とばかり、宗教と信仰をおとしめたいだけだと思います。
 
宗教を、アニメと同じ方向性で見ている時点で、楽山は、アウトなのです。
 
視野が狭くて狭くて、同じ世界に見てしまっているのです。空想と現実が未文化なのでしょう。子供のまま、成長がないのは、反省せず、学習せず、成長して来なかったからなのです。
 
そして今なお、新しい物語(神話、宗教、主義、思想、歴史観、アニメ、漫画、映画、小説…など)が作り続けられている。この点において、宗教やアニメはもちろん、すべての物語は同根なのだろう。
 
同根かどうかは、私は、すべてを検証していませんから、すべての物語は同根・・みたいな豪語は出来ません。しかし、宗教は、ましてや、信仰は、物語では済まされません。楽山が、いかに、宗教を軽く見ているかが分かります。
 
アニメで、人は死にません。宗教では、多くの人が死んだ歴史があります。宗教は、人を救うが、間違えば人が死ぬ、という、その重さを楽山は、考えてもみないようです。
 
ゆえに、楽山は、軽々しく、持ち前であるところの、のぼせ浮かれ頭で、アニメと同じ次元で考え、宗教の真実を、趣味のアニメと同等に、貶めようとしているのです。反宗教全開ですが、そういうことを言っている楽山は、自分の霊を信じ込んでいる無根拠の自分教の信者~教祖なのです。
 
こういう考え方は、熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが、そういう人であっても自分が信じている宗教以外については、アニメなどの物語とそう変わらないという見解には強いて反対はしないだろうし、そうだとすれば自分の信じている宗教も、異教徒から見たらアニメなどの物語と変わらないとみなされるだろうことは推測できるはずだ。
 
自分が信じている宗教以外については、分からないと答えてよいのです。楽山は、何ごとにつけ、分からないという保留が全然できない人であります。だから、大方、嘘と妄想と詭弁の世界から、書物を漁っては、低劣な悪口だけを、宗教、特にキリスト教に向けてきたのです。
 
この記事で、楽山は、宗教をアニメの趣味に貶めていますが、それだけではなく、そのアニメ趣味では済まされないところの、自家製の霊能者妄想を信じ込んで訂正不能になっているが楽山なのです。
 
楽山の言は、何の説得力もない、ヤジか荒らしのレベルではありますが、楽山の丁寧語には、だましの作為が入っているので、十分、警戒してほしいと思います。
 
ようは、どのような宗教であれ、ある程度の距離をおいて観察し、判断すれば、一つの物語にすぎないということである。宗教という物語の中にどっぷりつかっている場合は分かり難いかもしれないが、これが現実である。
 
どのような宗教であれ、距離を置いて見ている限りは、知らない世界という謙虚な態度を持つべきであり、それが常識なのです。
 
楽山には、常識~良識~良心が欠けているので、愚かな詭弁を、のぼせ上がって続けています。恥を知らず、反省をしないと、こうなる、という典型です。
 
ちなみに宗教とアニメは物語という点では同じだと考えれば、近年の宗教離れの原因については、人の物語に対する欲求は、アニメなどによって満たされているので、わざわざ宗教を信じる必要性はなくなったためだと考えることができるかもしれない。
 
アニメを見れば、満たされて、宗教不要と言っています。趣味で生きることは出来ません。楽山は、どこまで退行するのでしょう。
 
このような者は、いかなる宗教においても失格ですが、常識においても失格と言わざるを得ません。だんだん、本性の暴力的断定が増えています。はっきり言って、ネトウヨよりも、分かりにくいぶん、悪質です。
 
また新興宗教のなかには、ずいぶん漫画的なものもあるが、これにはアニメを超える良質な物語を提供できない宗教が、アニメに近付くことで生き残ろうとしているという解釈もできるだろう。
 
ここでの詭弁は、カルトと、宗教を、一緒にしている点です。こういう、隙間に仕込むのが、楽山の詭弁のやり方です。シャロームに劣らず、楽山の凶暴なところが、どんどん、明らかになってきます。
 
宗教とアニメを同列に考えることは素っ頓狂のようではあるが、これによって宗教がより理解しやすくなるということはあるのだ。
 
素っ頓狂というより、邪悪で卑怯この上ないのです。やり口が卑しく、理路がでたらめで、情緒がないために共感が成り立たず、説得力は皆無なので、嘘や刷り込みや印象操作などの詭弁を使うしかないのでしょう。
 
吠えてる分だけ、真実追求の邪魔をしている自分に気づかないのは、自己愛性人格障害も、やはり進行するのだろうと思います。どこまでも、有益、誠実、正直、というところから、はてしなく遠ざかる楽山であります。
 
良心というものが、少しでもある人は、こういう記事は書かないだろうと思います。
 
 
 ここで
 「心の理論」という発達心理学の話の記事を引用しておきます。
 楽山が著しく曲解しているのが分かります。
 
  親戚に笑われた話 (仏様の気持ちは分からない?)
  楽山日記(LD) 2019年03月30日
  http://mn266z.blog.jp/archives/17513119.html
  私の批判記事「心の理論」
  https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
  
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
 
楽山は、自閉症だったのでしょうか。
ブログタイトルには(LD)と書いていますが、
学習障害 Learning Disability なのでしょうか。
 
引用元から、まず、マクシ課題というのが書かれています。
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 」
 
「誤信念を理解すること」というのは、誤信念を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
霊感とは何の関係もありません。しかし、ここが、楽山の、霊が分かるっぽい出発点なのです。
 
楽山は、「心の理論」を、勝手に延長?して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な無理解であり妄想です。
 
楽山は、最初に述べた「心の理論」を、全く理解しないまま妄想に結びつけています。
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
"らしい" ではなく、スピリチュアルとは何の関係もありません。専門家でなくても分かります。発達心理学の話です。
 
楽山は、こういう、ひどい曲解をする人です。しかも、いつまでも、わがままが通用すると思っているようです。
 
楽山は、霊能者どころではなく、ふつうの心がないために、理路の理解も、共感も出来ない人なのです。こういう人が、傲慢だけ持ってしまうと、とても危険です。楽山は、その実例です。
 
 
(2020年07月26日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の三文芝居
 
 気持ち
 2019年07月24日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
 
 
去年の今ごろの、楽山の記事です。アメブロの管理ページから辿って引用しました。
楽山のタイトルは、「気持ち」・・だそうです。私には、気持ち悪いだけです。
リブログの私の批判記事のタイトルは、「くさい」・・です。
 
こういうところの、恥ずかしさが、楽山には無いんだ、ということを表しています。
既に批判していますが、改めて、元の私の記事に、いくらか付け加えておきます。
 
楽山の最近の記事は、読書家気取り、評論家気取り、というところが多いですが、手を変え品を変え、楽山は書いてきました。この記事では、どうでしょう。詩人?気取りでしょうか。実に、くさい・・のは、何の臭いでしょう。
 
悪意からの甘い言葉は、詩心?でしょうか、とんでもない。だます目的の誘導のために、言葉の醜悪さと、偽善の悪臭に満ち溢れています。
 
 
我ながら
単純だなあ
と思うのだけど、
 
元気で明るい文章
を読んでたら、
何となく、
こっちまで
元気が出てきた。
 
人の気持ちは、
他に伝染するというけど、
たしかに
その通りと思う。
 
笑顔の人の傍にいると、
こちらも気持ちは軽くなり、
不機嫌な人の傍にいると、
こちらもどんよりしてくるとか…。
 
最近は、
心を整えることには
前ほどは関心が無くなってきてたけど、
自分の為だけでなく、
他の人のためにも、
やっぱりこれは大切なんだろうな。
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 
 
「単純だなあ」と思うなら、書くのをやめてください。楽山は、ふつうの単純さではありません。恐らく、作為で書いて、推敲も、修正も、自己愛のために、必要を感じない、という病理なのです。
 
小学生の作文ではないのです。大人の書く文章として、どうでしょうか。楽山は、元々幼稚なのに、さらに幼稚に書けばよいと思っているのでしょうか。共感できるでしょうか。今までの経過もあり、私は、今、読んでも、わざとらしさに、吐き気がします。
 
「元気で明るい文章」「笑顔の人の傍にいると」「笑顔の人の傍にいると」・・この表面的なだけの文言だけを、楽山が表現した記事で、「元気が出て」くるでしょうか。「こちらも気持ちは軽く」なるでしょうか。楽山の言うような、単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。
 
深みのない表現、中身のない説き方、ある程度、体質であり、ある程度、だます作為であります。良識のある大人は、まず、書かないと思います。
 
楽山は、これと同じ調子で、クリスチャン芝居もしてきました。何とでも演技できると慢心しているようだが、実際は、三文芝居のヘドロ臭だけが鼻を突いてくるのです。
 
「不機嫌な人の傍にいると、」「こちらもどんよりしてくる」・・楽山の機嫌を良くするためには、読者は、機嫌よくしていなければならないでしょうか。冗談じゃない。
 
楽山は、読む人が、だまされるのでなければ、読む人を、不機嫌どころか、どんよりどころか、うんざりさせていることに、全く気づかないようです。さらには、だまされた人は、人格を、知らぬ間に、鈍化され、破壊される恐れさえあるのです。
 
そして、
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 
これ、何かの、説明に、忠告に、役に立つ言葉に、なるでしょうか、否です。こういう、全体に、白々しい、背筋のゾォッとするような作為の単純な短絡を、楽山は、ポエムを書いたつもりで載せたのでしょうか。さして文学の才能など持ち合わせていない私が、再び見ても、気持ち悪いです。
 
「揺れを戻し、整えることも大事」・・どういう揺れなのでしょう、どう整えるのでしょう、何も書いてありません。それに、余計なお世話なのです。いや、それ以前に、幼稚な、鼻の曲がりそうな、ポエム?説教?、止めてください。
 
全く自分を省みることなく、人に教えようとする楽山の、因業の産物であります。
 
楽山の悦楽は、吐き気、余計なお世話、言わなくていいこと、自分で恥を知るべきこと、などを、結果として、逆に、表しているだけなのです。
 
楽山の記事は、この記事を含めて、人生に参考になる要素が皆無です。悪戯のように書いた楽山が読者に与えようとしているのは、徒な労苦の疲労だけなのです。
 
これで、宗教論者~指導者を目指しているのでしょうか。笑止であるのみならず、おのれの未熟さを知らないで満悦しているのは、病識のない笑い者志願ということになるでしょう。
 
真実追求のブログでもなく、日常生活のブログでもなく、楽しく面白い趣味のブログでもなく、一般の読者にとって、これほど時間の無駄になるブログはないと思います。人格が壊れるほどの疲労が待っているだけなので、どうか、決して相手にせず、近づかないでください。
 
 
楽山が、また、新規記事を書いてきたので、批判記事を書きます。読者の迷惑を考えず、性懲りがなく、自尊の妄想に凝り固まっている楽山です。楽山の信頼度は、ずっとゼロです。
 
  楽山の意地と超常気取り
 
 三魂説について(「妙貞問答」)
 2020年07月24日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25640616.html
 
 
今度は、また、他者の書いたことから、いっそう難解な超常言葉を弄してきました。批判の弁明の代わりに、意地を張ってくる、しかし、説明になっていない、それが楽山です。
 
*三魂説とアニミズム
前記事で、三魂説について一寸触れたので、「妙貞問答」を確認してみた。
DSCN0509 人と動物の魂の違い。三魂説。
DSCN0510
(『南蛮寺荒廃記・妙貞問答 東洋文庫14』海老沢有道訳、平凡社、昭和39年より)
 」
 
本の画像のようですが、画像は出しません。
 
知らない熟語について調べる気にもならないほど、超常言葉の分類みたいなことが書いてあるようです。いつもの、他の人には分からないだろうけど自分には分かる、と言いたい楽山の自己愛と自己顕示欲だと見なして、いちいち調べたりしないことです。
 
意地やプライドで、調べようとすれば、前から言っているように、楽山の企みによる人格破壊が待っているのです。それが、楽山の目指す勝ちであり満悦なのです。
 
説明責任は、どこまでも、それを書いた人にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
これはこれで一理あるとは思うけれども、自分はやはり人間以外の動物はもちろん、山川草木や岩石にも魂は宿り、人と同じ感情を持っているという感覚は捨てきれないものがある。「一寸の虫にも五分の魂」というけれども、魂の尊さは五分どころか、一寸の虫でもなんでも人と同じだと感じないではいられない。
 
私にとっては、魂の実体があってもなくても、こうだと断定など出来ず、動物と、人間同士のように話せるわけでもなく、かといって、遊びのように動物を虐待するわけでもないでしょうから、分からないとして保留するのです。
 
おとぎ話のようなことまで、自分の霊能力の一つとして、分かっているかのように書いてくるのが、妄想家の楽山です。そういう楽山の話は、難しい言葉で、謎を深めたように気取りますが、具体的に何かが進展することなど、まるでないのです。
 
*「ブラック・ジャック」と「夏目友人帳」
そういえば、ブラックジャックはたしか、人間の政治家、一般人の赤ん坊、イリオモテヤマネコが怪我した時には、重症のイリオモテヤマネコ、赤ん坊、政治家の順番で手当てをしていたが、これは情緒的にも論理的にも間違っているとは思えなかったのだった。
 
神社と妖怪が出てきます。神社について語らず、妖怪で何かを言おうとするところが、霊能者気取り?の楽山らしいのです。
 
アニメに出てくる、霊が分かる孤独な少年に、自分を重ねているのでしょうが、そのことは、人間が知るべき宗教と信仰には何の関係もありません。そういうことを考えても、信仰の欠片も見えてはこないのです。
 
先日から見てる「夏目友人帳」もそういう世界観になっている。
・夏目友人帳 | アニメ | 無料動画GYAO!
第一話では物語の大まかな設定が明示されて、第二話以降から少しずつ物語の幅を広げて、第四話以降になると傑作が続いている。あやかし、つばめ、ほたる、子ぎつねの健気な心が愛おしく感じられる話だ。
 
妖怪物語です。これを、宗教に関わる問題に、正面から使ってくるところが、霊が分かるっぽい?楽山らしい、ということです。人間について、何も分かりませんと言っているようなものです。
 
これはファンタジーであり、フィクションだということは分かってはいるのだが、ついついアニメ以外の現実世界においても、人以外の妖怪、動物、虫たちも、人と同じ心を持っていると思わないではいられないのだから我ながらおかしい。
 
楽山の話自体が、ファンタジーでありフィクションなのです。楽山だけが、宗教や思想の話と同列のように扱って溺れているので気づかないだけなのです。だから、楽山は、現実世界での、反省も学習も怠ってきたのでしょう。
 
これからも、楽山によって表されたことによって、楽山の異常性を、精神病理学とまでは行かないが、ある程度は、ヒントとして、考えることは可能でしょう。
 
こうしてみると自分の宗教感覚は、原始的なアニミズムから脱しきっていないし、これは子供時代からまったく進歩していないようだ。この調子だと今後もずっとこのまんまなんだろうな、たぶん。
 
だったら、わけのわからないことを書いて、納得のいく説明をしないまま、人を惑わせたり、自慢したりをやめるべきです。本当にがっかりしたのなら、読者の迷惑を考えて、書かなくなるでしょう。
 
しかし、楽山は、また書いてきました。つまり本音ではなく、これが、トホホ言語、という、同情をひくための詭弁です。
 
もう一度、書いておきますが、説明責任は、どこまでも、それを書いた人すなわち楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
楽山には、説明責任放棄の不正の履歴が、記事を書くごとに積み重なってゆきます。
 
 
(2020年07月25日)
 
 
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  楽山の短絡宗教
 
 『宗教座談』内村鑑三著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25628678.html
 
 
またしても、楽山は、弁明も反論もしないまま、書いています。弁明も反論も出来ないからです。言論に耐えるだけの知性も感性も説得力もないからです。だから、嘘を吐くしかなくなっています。
 
この間の事情を知っている人からは、執拗で、妄想者で、訂正不能で、病識のない、恐ろしく愚かな、意地だけが突っ張っている醜い人としか見なされないでしょうに、なおも、書けば、誰か、だまされてくれるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、病膏肓に入って、都合の良い文言を漁っては、なにやら、わめいているだけです。やさしそうな見かけの筆致に、どうか、だまされないでください。
 
恥というものを知らないと、こうなります。
 
タイトルから宗教全般についての話だろうと見当をつけたのだが、中身を確かめてみるとそれは全然違っていて、冒頭から最終ページまでキリスト教にほぼ限定した話になっている。テーマは、教会、真理、聖書、祈祷、奇跡、霊魂、復活、永生、天国である。語り口は、時に厳しくなるときもあるが、それは著者の信仰心の強さと真面目な人柄のためなのだろう。
 
楽山に、「信仰心の強さと真面目な人柄」など分からないと思います。信仰について、的を外してばかりだったことが証拠です。
 
今回も、また、的外れだけ表れています。つまり、キリストが伝えた、敬虔も、罪も、赦しも、癒しも、分からないまま、物知り顔に言っているのが、楽山です。
 
本書の中で自分にとってもっとも興味をひかれた箇所を三つ挙げるとしたら、まず一つ目は復活についての話だった。キリスト教における復活とは、肉体をともなうものなのか、そうでないのか、前々から疑問だったのだが、著者は「永生とは肉体の死後に霊魂がその新たに授かりし霊体を以て生命を継続する事」(p.102)としている。どうやら復活するときは霊魂は肉体から新しくつくった霊体に移ると考えているらしい。
 
新たに授かる霊体、ということを、地上で理解できる人はいません。つまり、このことは、死後のことは神に任せよ、という、神を恐れる敬虔に結び付いているのです。
 
にもかかわらず、楽山は、この記事で分かったような気になるのでしょうか。このことこそ、楽山が、字面の概念を組み合わせて辻褄が合うとは "言えなくもない" と前に言ったような、ボンヤリ言語的短絡で慢心している証拠なのです。
  
聖書の言葉も、他者の言葉も、有名人の言葉も、まるで、理解できず、おのれの皮相ワールドを讃える捏造言語表現に変えてしまう楽山であります。
 
二つ目は動物には霊魂はないとしているところだ。著者は「霊魂は勿論肉体の生命ではありません。もしそうならば、犬にも馬にも鶏にも烏にも霊魂があるはずでございます」(p.77)としている。また「我々が犬や馬や猫や牛などの責任を問わないのは彼らに肉体あるも霊魂のある事を認めないからでございます」(p.80)ともいう。これからすると、著者は動物には肉体生命はあっても霊魂はないと考えているらしく、いわゆる三魂説のような立場に立っているようだ。
 
三魂説というのはネットには見つけられませんでした。魂の三分説というのがありました。
 
(ネットより)
魂の三分説とは
魂の三分説(さんぶんせつ)とは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンが提唱した、人間の魂を3つの性質に分ける考え方のことです。
プラトンは『国家』の中で、魂を以下の3つの区分に分けました。
①理知(ロゴス)
②欲望(エピテュメーテース)
③気概(テュモス)
https://tk252525.work/tripartite-theory-of-soul/
 
私は、例えば知情意は、はっきり3つに分かれてなどおらず、この分け方は多分に便宜的なものであり、複雑に連動するものだと思っています。
 
楽山は、難しそうに見える言葉を、わざわざ使って、説明せず、おのれの知性を誇る、という、無能で無反省な、身の程を知らない自己愛者の特徴を持っています。何の参考にもなりません。
 
三つ目は人は神と同化可能としているところだ。著者は永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」(p.109)としている。自分はキリスト教は神と人とを創造主と被造物とに分けていて両者は別個のものとしているというイメージを持っていたので、上のように両者を同化可能とするかのような考え方には良い意味で驚かされた。
本書にはこの他にも興味深いことが沢山語られているので、また折をみて再読したい本である。
 
「永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」」という言葉を、神と人の同化可能、という幼稚で乱暴な意味に短絡して受け取っています。
 
もう一度言いますが、無能で無反省な自己愛者は、こういうことを平気で言える輩です。
 
キリスト信仰において、永遠の命とは、地上において、神の永遠性を持つことではなく、神との合一や一体化でもなく、また、地上で永遠に生きることでもありません。
 
内村鑑三は、何らかの結論のようなものを書く必要か使命感があったのだろうと思われますが、その意図は、今、楽山という偽善者によって、無遠慮に不細工に悪用され、けがされているのです。
 
この楽山のような曲解は、一気にスーパーな者になりたいという欲望を持つ者に見られます。楽山は、その典型です。その執拗さは、もはや人間のものとは思えません。
 
興味深いなどと、楽山がいくら書いても、楽山は、言葉一つも理解などしていないのです。
 
 
 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25628588.html
 
 
キリスト教も仏教も、楽山にとっては、世辞が通用すれば取り入って、いい気分になり、批判されれば、疲労しか与えない小学生レベルの詭弁を、難しい言葉を執拗に使って、結局、おのれの学者気取りを自慢したがるネタに過ぎません。
 
楽山は、A級戦犯の大川周明を讃える記事を書いていますから、神道には、右翼的アプローチをしてくるかもしれません。注意警戒してほしいと思います。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12612562801.html
 
神道のことを知りたいと思って本書を読んでみたが、なんだかますます神道が分からなくなってしまった(笑)。
 まず著者は、神道は「開祖も、宗祖も、教義も、救済もなく、「ない宗教」というところにその本質がある」(p.69)と規定している。また元来、神道は「神殿はもうけられず、祭祀は屋外の岩のところでおこなわれていた」のであり、「社殿がないのが神道のもとの姿」(p.33)ともいう。さらには神道には「教えについて述べた聖典というものが存在しない」(p.151)、「はっきりとした規制がない」(p.158)という。
 
私は、神道のことは、ろくに知らないので、よく分かりません。しかし、楽山が、人に勝りたい自己愛からの自己顕示欲によって自慢する材料にしているだけだということを知ってほしいと思います。その結果、この一年余りで、楽山の低劣な詭弁と嘘が明らかになってきました。
 
楽山は、人間らしい思慮がないために、足りないものに気づけず、ふつうに、知っている、あるいは、それ以上の、読書家気取りで、反省・学習・成長を全く抜きにして書いてきます。
 
これはもう無いない尽くしである。こういう説明を聞くと、神道の特殊性が際立って見えるようで面白いのではあるが、神道がますますつかみどころのないものに思えてきて混乱してしまう。これにはまいった。
 
混乱して、まいったなら、評価や考察めいた記事も、書かなければよいのです。しかし、楽山は、書いて自慢したい欲望と、軟派カルトの因業のみによって、次には、面白い考察だと、説得力がある、などと書いています。
 
バラバラで、軸がないのです。そういう人です、決して、コメントの遣り取りをしたり、近づいたりしてはいけません。関われば、吐き気のするような曖昧ボンヤリ言語で、執拗な嘘と短絡と詭弁で、心だけでなく、体も壊しそうなくらいの疲労を与えてくるのが楽山です。
 
とはいえ、著者が述べている神道と仏教とが共存できた理由は興味深いものがあった。神道は開祖も教義もない宗教である一方で、仏教は開祖も教義もある宗教だったので、正面衝突はまぬがれ、住み分けが可能だったのであり、また明治維新後に両者を分離できたのは双方ともに性質が異なり、混じり合うことなく並存してきたからだろうというのだ。これは面白い考察だと思う。
 
キリスト教については、禁教と迫害の長い歴史があり、明治時代になって、ようやく認められ、また、さらに、戦争の時代の言論統制によって、迫害を受けた歴史もあるわけです。
 
遠藤周作は、警察に、神と天皇とどちらが偉いかと聞かれ、どちらも尊敬いたしております、と答えて難を逃れたという話があります。氏の選択を、誰も責められないと思います。
 
楽山は、戦争当時の憲兵隊みたいなカルトに入って、おのれの権威を振りかざしたいのでしょうか、敬語で呼ばれ、先生として、もてなされたいのでしょうか。身の毛がよだちます。
 
両者が共存できた理由について、神道の寛容性のゆえだとか、神道は他宗教を神道に合う形に変容させるからだという意見もあるが、著者の考察も説得力がある。
 
このような、考察も説得力もない記事を、気取りと自己顕示欲だけで書いてくる人は、珍しいと思います。楽山には、自分信仰の訂正不能の自己愛を宗教化したいのではないかという軟派カルトの疑いがあります。
 
結局、記事タイトルの『神道はなぜ教えがないのか』についての、結論も考察も書けない楽山です。感想も、「混乱」「まいった」「面白い」「説得力がある」などと、これは、作文の苦手な小学生が、何か感想を聞かれて、よかった、とだけ言って先生に叱られるのに似ています。
 
こういう傍迷惑なことを、平気で、著名人の名を引用して、自己正当化してくるのです。何を書いても、理路は拙劣で情緒は乏しく快楽原則だけで褒められるのを待っているだけの自己愛性人格障害の楽山の言です。有害無益、カルト臭満載の、疲労だけを与えてくる一年余りでした。楽山は、それを楽しんでいるサディストだと思います。
 
 
近況:
 
市役所に行って、母の健康保険証の再発行の手続きをしました。その日にその場で手渡しできるらしいですが、本人ではなく写真付きの身分証明もないため、家のほうに郵送してもらうことになりました。負担の減額や限度額証明については、現状では当てはまらないようです。
市役所には久しぶりに行きました。昔の役所は、とても不愛想でしたが、今回は、病院や施設のケースワーカーより、中身や資格について、説明が分かりやすく、率直な話もしやすくて、丁寧でした。公共サービスという言葉はありますが、若い公務員も良く教育されている感じで、隔世の感と言うべきか・・。
 
 
(2020年07月24日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の危険思想
 
 『安楽の門』大川周明著
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25578706.html
 
 
大川周明は、A級戦犯で、梅毒による精神障害のために、死刑を免れた人です。またしても、戦前戦中の過激な右翼思想の人物を讃えています。
私の記事「楽山の右翼思想」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12608244357.html
 
他者に何を言われても無視すれば、一時的には安楽に過ごせるでしょう。しかし、無視は、重ねられることにより、鈍感を増幅させます。無視による安楽は、他者との交流を無意味にし、学習と成長を不可能にして、楽山のような、感じることも考えることも出来ない化け物を作るのです。
 
*概要
著者は本書の中で、獄中でも、精神病院でも、どのような環境においても安楽に過ごしてきたとし、なぜそれができたかといえば元々楽天的な性格であることはもちろん、恩師、友人知人のおかげとともに、安楽の門(宗教)によるとして、自らの宗教について語っている。
 
楽山は、またしても、自分に都合の良い文言を漁ってきたようです。
 
以下に、その要点と思われる箇所を引用し、自分なりの感想を書いてみたい。
*宗教の目的
 まず著者は宗教の目的について、こう書いている。
 宗教とは無限の生命に連なることである。
(『安楽の門』大川周明著、出雲書房、昭和26年、p.237)
*註 旧字は新字にした
 」
これは梵我一如だとか、神人合一ということであろうか。無限の生命と人とは、別個の存在だというのではなく、連続しているという考え方をしているようだ。
 
無限の命につながる、ということは、解釈が幅広いので、カルトに利用されやすいと思います。どうやって、無限の命とつながったと分かるのでしょう。
 
理解可能なのは、瞑想などによって、心身の安定を得ることがある、ということでしょうが、それ以上に、楽山は、この曖昧な引用をもって何が言いたいのでしょう。怪しさ満点の楽山です。
 
(ネットより)
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82
 
そのような同一は地上にはないと思います。一部の人がそのようだったとして、その人は、人間世界において、乖離した者でしかないでしょう。ゆえに、そういう人になることを教えることは、カルトでしかないと思います。
 
キリスト教周辺では、神が人を自らに似せて造った、という聖句を悪用するような者が、そういうことを言うことがあります。
 
*既成宗教
著者は既成宗教については次のような感想をもらしている。
併し八代大将と同じく私にも仏教や基督教には何分『馬鹿らしき事』が多く思はれた。そして其の『馬鹿らしき事』が信仰の礎だと教へられては尚更納得出来なかった。
(同上、pp.204-205)
 」
これについては、某有名作家が仏陀を信じないかのような発言をしていたのを思い出す、人が解脱して仏陀になるなどということが実際にありえようかと。
確かにそう言われてみれば、人が修養して人格を磨くことは可能としても、煩悩から離れ、仏陀になるというのは若干真実味に欠ける。さらには仏陀になれば、千里眼やら何やらの神通力を発揮するとか、過去現在未来の三世を見通せるとか、眉間から光を出して遠い世界を照らし出せるというなら、それはもうファンタジーの世界だろう。仏典にしろ、聖書にしろ、その記述をそのまま事実として信じなければならぬとしたら、大方の現代人にとっては到底無理な話だ。
 
こうやって、楽山は、宗教を引用しながら、宗教と信仰をけがしてきました。持ち上げて落とす、その先には何が待っているのでしょう。アドラー教かもしれません。楽山教かもしれません。いずれにせよ、恐ろしい自己中の妄想カルトの世界です。
 
私には八代大将に対する小笠原中将のやうな導師はなかつたが、書物を読んで勉強し、心から尊敬する先輩に親炙して直接その宗教的一面に触れ、且つ自分自身の経験を深く反省して行くうちに、いつとはなく既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた。
(同上、p.205)
 」
 これは自分にも分かる。ただ自分の場合、「既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた」というより、既成宗教の信者になることができないことがわかったといった方がよさそうだ。既成宗教の教えはどんなに立派でも、どんなに体系化されていても、一定の枠があるし、自分にはどうもその枠内に留まり続けることはできないのだ。
 
楽山は、キリスト教について言えば、その枠も、皮も、肉も、骨も、髄も、知ってなどいません。分からないのに、おのれの自己中に都合の良いところを取って来ては、悪用し、おとしめ、さらに、自分教が一番中立だという主張に持っていこうとしてきた盗人に過ぎません。
 
そういう態度は、他の書籍の引用においても、同様であろうと思われます。つまり信頼度ゼロであり、書物を読んでも、理解が偏って自分寄りの偏向となり、つまり、楽山は、理解できておらず、感じ取ることもないために、自分で軽薄な理屈遊びをしているだけなのです。
 
先日、内村鑑三の『宗教座談』を読んでいたら、神は聖書より大きいということが書いてあったが、おそらくこれは他の宗教についても言えることだ。神はどの宗教よりも大きく、その宗教の枠を超えている。だから特定の宗教の枠からはみ出したからといって、必ずしも神の御心に反するとは限らない。神はすべてを超越しているとすればそうなる。
 
つまり、こういうことなのです。神を讃えているような文言で、結局、宗教は何でもいい、いい加減でいい、何を言っても自分は正しい、という方向に持ってゆく詭弁です。とても悪質です。
 
でも宗教ではこういう考え方はあまり歓迎されないし、その宗教の枠から出たら、神の御心に反する異端とみなされてしまう。これでは枠をあまり気にしない自分のような者は、どこの宗教にも入れてもらえるわけもない。
 
楽山は、宗教の枠を決めつけ、枠を気にしない自分を、超越しているからこそ、異端と見なされ、入れてもらえない、悲劇のヒーローみたいに言っています。
 
楽山は、自尊過大の自己愛のために、考えること、感じることが、どちらも、できないだけです。その証拠は、楽山の書く文章の、どこにも説得力の欠片もないことであります。ゆえに、好きなように書物をもてあそび、徒に、悪用するだけになります。
 
虚心に考へて見れば、人は基督教徒や仏教徒にならずとも、能く人性の宗教的一面を長養することが出来る。その実例を私は八代大将、頭山翁に於て見たのであるが、同様の例は日本及び中国の偉人に於て枚挙に遑ない。
(同上、p.151)
 」
ここは山本七平の語る日本教的な雰囲気が濃厚だ。自身の心を磨く修養が第一であって、そのために役立つなら仏教でも、基督教でも、儒教でも何でも用いるのであって、「絶対に〇〇教でなければならない」と固執するようなことはしないという行き方だ。だから仮に仏教→基督教→儒教と宗旨が変わっても、自己研鑽が第一という根本は変わっていないので本人的には自分の行動に矛盾はなく、平気だということになる。
 
楽山は、キリスト教を、自身の心を磨く修養、自己研磨、と言っています。では、自分を磨けない人は救われないのでしょうか。楽山が何も分かっていない証拠です。共感という要素を、楽山自身が持っていないために、こういうことを平気で言うようになります。
 
それに、楽山こそは、自分を磨いたことが、一度もない人だと思います。楽山の文章に、磨いた跡が、何も見られないからです。楽山は、いつも、安易に、学者気取りで、評論家気取りで、上から見下ろす視線しか持っていないことが表れてきました。
 
このような楽山の、平板で、浅い、固定概念的で、通念的な決めつけが、楽山の文章全体に行き渡っているのです。ここからは、個別の独創性など、生まれようがないのです。
 
実を言えば、自分もこういうタイプだ。だからいろいろな宗教、思想を学ぶことにさして矛盾は感じない。こういう行き方は、特定の宗教や思想を信じ、その枠内に留まることにこだわり、そのために命を懸け、殉教も厭わないタイプからは嫌われるだろうが、自分は宗教や思想の奴隷になるつもりはないのだからこういう立ち位置になるしかない。
 
楽山は、ただ、いい加減で、自己中で、怠慢で、無反省で、非を認めない人で、にもかかわらず、何でも理解できるつもりで、我こそは客観的とばかり、無理解を自己正当化して、偏見を当てはめ、宗教と信仰一般を、おとしめ、けがす者であります。
 
*奴隷
著者はここにおいて、宗教に対しても自由を放棄しないとしている。
私は書物に対する過度の尊敬から解放された。書物は心の案内者たるべきもので、決して私の心の専制者であつてはならない。私はいかなる学者の奴隷にもならず、自分の自由なる心で宗教を学び且求めねばならぬと思ひ定めた。この道理だけは早くから知つているつもりで居たが、身に沁みて左様でなければならぬと感じたのは遥かに後年のことである。
(同上、p.143)
 」
著者によると、横井小楠は朱子を学ぶといっても朱子の奴隷になってはならぬとしていたらしい。でも著者はこれを知りつつも、カントやヘーゲルの書を読むうちに自らの思考の自由を失いつつあることに気づき、上のように考え直したのだそうだ。
 
楽山は、自分も、この有名人たちと同じだ、という、楽山の、自己愛による、自己の高め方が表れています。そのようなことのために、楽山は、本や名前を利用するのです。楽山の読書は、楽山の高慢に利用されるだけであって、よこしまな動機によって進められてきたのでしょう。だから、楽山の恣意的引用は、全く信用できないのです。
 
この話は、江戸時代の儒者が、孔子や孟子が総大将になってシナの軍隊が日本を攻めてきたらどうするかと問われて、日本防衛のために武器をとって戦うと答えたというエピソードを思い出させるものがある。
恥ずかしながら、自分はとある新興宗教の教祖の奴隷になってしまっていたことがあるので、この言葉は身に沁みる。
 
楽山は、自己中、自分信仰の奴隷です。他者のせいにするのが、その証拠となっている有り様です。
 
*信仰
信仰については、何を信じるかではなく、どのように信じるかが大切であり、赤子のごとくあるのが理想であるという。
宗教の主眼は何を信心するかではなく、如何に信心するかである。宗教の価値を定めるのは信心の純不純でつり、信心の対象が宗教の高下を測る物尺とはならない。
(同上、p.231)
 」
総ての流れが、末は遂に大海に注ぐやうに、何を信心の対象とするにせよ、若し其の信心が無垢純一でありさへすれば、人は之によつて無限の生命に連なることが出来る。
(同上、p.232)
 」
これは「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」という道歌に通じるものがある。
どんな宗教であれ、まともな人もいれば、おかしな人もいるものだ。
 
おかしな人の代表が、楽山その人であります。自己中に信仰は語れません。
 
カルト信者だからといって必ずしも皆がおかしいとは限らない。同様に社会的に認められている伝統宗教の信者だからといって必ずしも皆がまともとも限らない。思想でも同じようなものであって、右でも左でも、まともな人もいれば、そうでない人もいる。結局のところ、何を信じるかではなく、各人の心の状態こそが大切だということなのだろう。
 
つまり、楽山は、信じるかではなく、何でもいい、いい加減でいい、それが正しい、自分は正しい、と言っているのですが、本人だけは気づかないのです。おかしいかどうか、許容可能かどうか、信じるに足るか、これは、心に受けたことから、個人が判断することです。"心の状態が大切" というだけでは語れるものではない、ということさえ、何も受けていない楽山には、分からないのです。
 
何を信じるかにこだわる人は、ようするに自分の宗教を宣伝したい、押し付けたいからなのだろうと思う。
 
何でもいい、という、いい加減さに、こだわる楽山は、要するに自分が一番!バランスが取れているから!正しいんだ!と、宣伝したいだけなのだろうと思います。
 
*母
著者自身はどのような宗教を信じているのかといえば、母が本尊であるという。
私は、吾母を念ずることによつて一生を安楽に暮らして来たのである。それ故に『汝は何うして安楽に暮らして来たか。』と問はれるなら、私は即座に『母を念じて暮らしたからだ。』と答える。
(同上、p.62)
数年以前に天満天神・阿弥陀如来・八幡大菩薩を本尊とする母の信仰を簡単平明なものと考へた私が、一層単刀直入に母を本尊とすることによつて安心を与えられることになつたのである。
(同上、p.210)
 」
母が本尊だと言われると、正直「なんじゃそりゃ?」と思わないではいられないが、どうやらこの話にはもっと奥行きがあるらしい。少し長いが、話の筋道が分かるように引用することにする。
さて一家の先祖が其家の神として崇められるやうに、多くの家族が相結んで部族を形成するやうになれば、諸家族の共同の先祖として信仰される部族神が、各家族の先祖よりも一層高位の神として崇拝される。そして其頃には先祖以外にも色々崇拝の対象が現れ、人間生活の宗教的一面が次第に複雑になつて来たので、茲に専ら祭祀を事とする一個の階級がうまれるやうになつた。次で多くの部族が一つの国家に統一されるやうになれば、部族全体の祖先が国祖として国民崇拝の対象となる。多くの国家では、内外幾多の原因から、建国当初の精神が中断又は断絶したために、国民の国祖に対する宗教的関係も自ら消滅せざるを得なかつた。其等の国々では、国民の生命の本源たる国祖を認めず、直ちに宇宙全体の本原たる神を父と仰いで居る。唯だ日本の場合は、建国当初より今日に至るまで、国祖の直系連綿として国民に君臨し、民族の歴史的進化が一貫相続して中絶しなかつたので、国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれるのは其のためである。それ故に日本人の場合は、子女としては親に考なること、国民として天皇に忠なること、そして一個の人間としては天を敬することが、三者一貫せる『敬』の具体的発言であり、従つて日本人の宗教である。
(同上、pp.200-201)
 」
 
以前、シャローム shalom が、似たようなことを、引用だったか、言っていました。"日本教" の話です。こういうところを見ると、やはり、楽山とシャロームは、つながっていると感じます。尊敬と信仰は、同じでしょうか、否です。
 
日本では忠孝一致になるという話は聞いたことはあるが、敬天も一致するとはおもしろい。今風にいえば、忠孝信が一致するということだろうか。母を敬し、信じることから、先祖崇拝に発展することは分かるが、それが忠孝信の一致にまで行くとは驚かされる。こういう理屈は愉快な心持ちがする。
 
楽山は、愉快な心持ちだそうです。楽山は、右翼の宣伝マンなのでしょうか。国家や慣習で、宗教や信仰を決める傾向は、大いに悪用されてきた歴史があります。
 
信仰は、個人と神の関係であり、何でもいいのではなく、聖書によって、示されています。その、愛と共感が、楽山には皆無なのです。だから、宗教と信仰について、楽山には、黙っていろと言いたいわけです。
 
*神のイメージ
著者による神としての母は、次のようなイメージであるらしい。
私は『下獄の際には仕方がないと諦めた。』と言つたが、その諦めは、私が心の中で『母上、私は監獄に往つて参ります。』と挨拶しただけで、いとたやすくついた。それは三度とも其通りである。わたしのこの挨拶と共に、慈母の悲心、一瞬に山川百里を越えて、まつしぐらに私の身辺に飛到する。わたしが何事をも頼まないのは、母は私の求める一切を知り尽くして居るからである。赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める。いや、吾母は私が求めようともせぬものまで与へてくれる。その証拠には、慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。
(同上、p.46)
 」
意外なことに、これは自分の神のイメージと似てる。というより同じだといってもいいくらいだ。
 
楽山は、何でも赦して、何でも与えて、受け入れる母性に、神のイメージをいだいているようです。是非、楽山の母上に、書くのをやめるように言っていただきたいものです。
 
引用の中の注目点を挙げておきます。
「慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。」
 
この部分は、言葉上、キリスト教の、神信仰と似ています。しかし、人間の母は、神とは違います。したがって、過ちを犯すことがあります。愛する息子が、自分カルトとなって、理路もなく、情緒もなく、名のある人の言葉を恣意的に悪用して、他者の意見を無視して、それを、神?になぞらえるとき、息子に対して、何でも正しいと支えてくれる母の愛は、依怙贔屓の偏愛の域を出ないのです。
 
自分と神のイメージを共有する人はどこにもいなそうだと思っていたが、先行者がいたというのは嬉しい。やはり自分が思いつくようなことは、とっくに誰かが考えているということなのだろう。いつも思うことではあるが、この世に新しいものはないというのは本当のことなのだろう。
 
楽山が、"この世に新しいものはないというのは本当" だと思うなら、どこにも響かない自説を振り回すことはしないでほしいものです。
 
恐らく、楽山は、上のほうの引用のような母の愛には、恵まれていないのかもしれません。ゆえに、楽山は、引用したイメージだけを讃え、自分が母に、どういう愛を向けたかを語っていません。それに、神のように絶対に正しい愛の母、というのはいないと思います。
 
自分が抱いている神のイメージは、母性的な存在だという自覚はあったが、本書を読んでさらにその自覚は強まった。「赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める」という部分は、まさに「祈らずとても神や守らん」ということでもあろうし、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。
 
軽々しく神に母性を当てはめる楽山です。祈らなくても守ってくれる神?を欲しているようです。神を恐れない身勝手な者は、何でも自分で作り出してきます。そして、涙こぼれる心持ちなどと、心にもないことを言ってきます。今までの経過から、嘘だと思います。むしろ、そこに、楽山の詐欺性と反宗教が、証拠として表れてくるのです。
 
それにしても、このくらい貪りから離れたら、さぞ心穏やかであり、神への感謝によって心は満ち、強いてどこかの宗教にしがみつく必要もなくなるのは当然だろう。自分はこういう心境とはほど遠いが、いつかは辿り着きたいものである。
 
神が人に与えた節操を知らずに、勝手に、"神への感謝によって心は満ち"、しかし、宗教は不要と言っている自己矛盾です。楽山が辿り着くのは、多くの被害者によって裁かれる詐欺的偽善者の末路の心境でしかないでしょう。
 
*全体の感想
大川周明については、前にも書いたように東京裁判での奇行から、あまりよい印象は無かったので、その著書を読んだり、人となりを知りたいという気にはなれなかった。でも本書を読んでみると、その宗教観にはさして異論もなく、よく了解できた。もしかしたら自分は、大川周明に対して、いわゆる食わず嫌い状態になってしまっていたかもしれぬ。
 
過激な右欲の思想家である大川周明は、知能の高いナルシストだったのかもしれません。楽山は、知能の高くない病的ナルシストだと思います。こういう人が、高い知能にあこがれると、ろくなことはないのです。
 
本書の中で、自分がもっとも強い印象を受けたのは、上の母に重なる神のイメージと、親孝行が絶対的な神への信仰につながるという理屈だった。親に感謝すれば、親を育んだ先祖への感謝となり、次にはその先祖を育んだ民族神、さらには国の神への信仰となり、最後には絶対の神への信仰に行き着くと…。なにやら修身斉家治国平天下のような雰囲気もないではないが、自分にはこの考え方は分かり易くていい。
 
もろに、個人の自由を無視した右翼思想になっています。300万人の日本人の犠牲を出した戦争の歴史を学んでいない証拠でしょう。残酷な心性だと思います。
 
人は神によって万物の霊長としてつくられたのであるから、自然を管理、支配する権利義務があるというよりは、自分が今あるのは両親、祖先のおかげであり、両親、祖先があるのは民族や国のおかげ、民族や国があるのは自然のおかげ、自然のあるのは神様のおかげ…という具合に、両親、ご先祖様、自分の生まれ育った土地の神、民族神、国の神、自然の神、絶対神…天地一切のものに感謝をささげるという方が、自分には合っている。
 
上の続きで、楽山の思想が表れています。つまり、正体がバレています。楽山という右翼は、国の神信仰であるならば、何でも感謝し、国のために命を失ってもいいと言うのでしょうか。歴史の史実としては、空襲で母を失った人が大勢いるはずですが。
 
楽山という万物の霊長は、他の万物の霊長の生活も人生も命も、どうでもいいのでしょうか。右翼の楽山の暴言であります。
 
本書を読むことで、こういう自分の宗教感覚を再確認できたのはよかった。本を読んでいて、これは反対だ、これも反対だと批判ばかりが心にうかんでくると、何でも反対屋になったようで気が滅入るが、共感できる箇所がたくさんある本を読むと、何やら自分が素直な人間になったようでなかなかいい気分だ。
 
再確認したのだそうです。怖いことです。共感という言葉を使っていますが、上の思想、共感の対象になるのでしょうか、素直と言えるのでしょうか。テロリストにでもなるつもりでしょうか。戦争を望んでいるのでしょうか。それで、何か、偉い地位にでも就きたいのでしょうか。
 
空想家・妄想家・偽善者・詭弁家・自己愛性人格障害者に用意される椅子は、ギャング以外、電気椅子以外、どこにもありません。決して、楽山に近づかないでください。
 
 
※ 近況:
認知症で、車椅子の母は、介護施設→肺炎で入院→7月16日老健施設へ移りました。健康保険証、介護保険証、それぞれ減額・限度額証明?、衣類その他日用のもの、契約書類、手続き関係などなど、私も呆れるほど忘れっぽくなってきて、認知症の道途上のようです。何をやるべき、何をやったか、混乱→気落ち→意欲低下→停滞しがちです。
 
 
(2020年07月22日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の捨ててゆく時
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25582330.html
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。どうか巻き込まれないでください。
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
2秒で決断できるとは思えません。私は、この楽山に、数か月、振り回されました。楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかし、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同するか世辞を言え、ということですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから、明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
つまり、だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。アドラー教ゆずりの自己中によって、都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害なので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。
 
しかしながら、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習することが出来ないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、この記事がそうです。
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔物です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など、世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための、自分の言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めして、結局、自画自賛しているのです。
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
以上のようですから、楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。この方向は、ずっと続くだろうと思います。真に受けて付き合えば、同じように鈍感になり、かつ、言いようもない疲労に陥れられるでしょう。それで、楽山は、満足するのです。
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、単純に、誰でも知っているような「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。
 
 
(2020年07月20日、同日一部修正)
 
 
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