ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年08月

 
  楽山の霊言悪用(2)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳
 2020年08月29日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26057394.html
 
 
楽山は、長く書くことで、潰しが効くとでも思っているのでしょうか。その(2)。
 
*性分
シルバー・バーチは、理性的判断のみならず、自分の性分に合わないものは拒否してよいとしている。
いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わない時、不合理あるいは不条理と思える時は、遠慮なく拒否するがよろしい。あなたには自由意志があり、自分で自分の生活を律していく責務があるのです。
(同上、p.58)
 」
これはさすがに言いすぎであって、たとえ自分の性分に合わなくとも、それが真理であるなら受け入れなければならないだろうし、もし性分に合わないことを理由にして受け入れないとしたら、それは単なる自分勝手、わがまま、エゴではなかろうかと思う。
 
霊言者は、今度は、性分に従えと言っています。理性よりも、さらに、意味するところの不明瞭の度合いの深い性分によって、不合理と不条理を判断するのだそうです。やはりカルト色が強いようです。
 
理性も、性分も、人間においては不確定であります。いったい何を信じろというのでしょう。
 
楽山は、性分に合わなくても真理であるならば受け入れるように言っています。楽山から、おびただしい詭弁と嘘が明らかになっていますが、一方、真理や、真実の、欠片も表されたことはないのです。
 
性分が、性格や体質や人格と独立しているとは思えません。楽山は、性分を自覚せず、性分から一歩も出ることのない自己愛性人格障害による自己中無反省の生き方をしています。
 
楽山は、批判に弁明一つできないまま、自己主張だけを繰り返し、しかも、他者の言を悪用するという卑劣さで、自己愛性人格障害の障害部分を、あからさまに表しています。あたかも、エサを与えられなかった犬か猫が、いつまでもどこまでも吠え続けているかのようです。
 
でも、人には個性があり、その個性は神によって与えられたものだと仮定するならば、自分の性分に合わないものは拒否するというのは、必ずしも神の御心にかなわないことではなかろうし、一理なくもない。シルバー・バーチはそういう視点から発言しているのであろうか。
この辺りは判然としないものの、個人、個性は尊重すべきものだということからすれば、自分の性分に合わないものは拒否するというのは合点が行く。
 
楽山は、ここでだけ、個性は神によって与えられたという仮定を持ち出して、性分に合わないものは拒否することを、ボンヤリ言語で、神の御心に適う?などとと言って、"合点が行く" のだそうです。どこまで、いい加減なのでしょう。どこまで、自分にだけ甘いのでしょう。
 
*意固地?
これは意固地、強情のようにも思えるが、上の個人、個性の尊重という立場からすれば、当然の判断ではある。
あなたも自由意志を持った一個の霊であり、簡単に自分の考えを譲るようなことをしてはいけません。
(同上、p.60)
 」
おそらく、これは心から納得することが大切だということなのだろう。「私は絶対に、心から納得するまでは、自分の考えは変えないぞ」という姿勢を貫こうとすると、「頑固だ」「意地っ張りだ」「屁理屈をいって自己正当化している」「素直でない」「わがままだ」「自由を履き違えている」など、さんざん悪口をいわれる結果になることが少なくないのではあるが、納得できないものには決してイエスと言わないというのは、本当に大事なことなのだ。
 
(ネットより)
いこ‐じ〔‐ヂ〕【意固地/依×怙地】 の解説
[名・形動]かたくなに意地を張ること。また、そのさま。片意地。えこじ。「―を通す」「―な人」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%84%8F%E5%9B%BA%E5%9C%B0/
 
つまり、意固地は、当然の判断ではありません。意固地は、好ましくないのです。
 
また、屁理屈、自己正当化、わがまま、自由を履き違えること、などは、不当であり、大事なこととは正反対です。まぜこぜにしている日本語、楽山は分からないのでしょうか。
 
ゆえに、また、これらのことや意固地などは、納得できないものを肯定しないこととは何の関連もありません。楽山は、やはり、日本語が分からないようです。
 
あまり表立っては言えないけれども、自分は空気を読んで周囲に合わせとくとか、議論が面倒になるといい加減なところで相手に譲っとくとか、興味がないこと、どうでもよいと思えることは、何でも相手に譲りっぱなしにしとくとか、適当なところがあるので反省したい。
 
今に至るまで、楽山に反省の跡は、全く見られません。楽山の、言葉だけのトホホ言語です。
 
楽山は、いい加減さを発信する人であり、性懲りもなく譲らない人であり、適当というより、自覚のない誤謬と作為の詭弁で出来ている人です。この反省のトホホ言語と世辞に、嘘と詭弁に、だまされないでください。
 
*信じること
以上、妄信、軽信を戒める言葉を拾ってみたが、シルバー・バーチはそればかりではなくて、信じることの大切さについても触れている。
ある程度は〝信じる〟ということがどうしても必要です。なぜなら全てを物的な言葉や尺度で表現することはできないからです。霊の世界の真相の全てを次元の異なる物質界に還元することはできないのです。
(同上、p.126)
 」
この世を超えたことについては、この世の尺度ではかることはできず、そこは信じることが必要になるというのは当然の理屈ではある。この点において、上の言葉は正論だ。
 
"信じることが必要" と、今までの理性や性分についての発言の総てを台無しにするような発言をしています。楽山においては、信じることは、思い込んで信じ込むことのようです。本当の信仰は、そこにはありません。
 
信仰については、どうしようもなく必要だから信じるのです。しかも、それは、言葉で完結するのではなく、心の問題です。そのこと以外は、総て、修正可能な、その時々の判断に過ぎません。
 
楽山には、この区別が、今もつかないようです。だから、いちいち的外れになるので、宗教と信仰について語る資格がないと私は言っているのです。
 
ただここでいっているのは、あくまで、霊の存在をまったく信じない人、信じられない人に向かって、時には信じることも必要だといっているのであって、霊のことを信じている人、信じやすい人に向かって、なんでもかんでも、どんどん信じなさいといっているのではないことは言うまでもない。
 
楽山の、だらだらと長い、いちいち弁解付きの、説得力皆無の、文章なのです。印象が悪く、学ぶところがなく、そのような言い訳がましい文章の記憶は、早く、排泄して、臭気さえも消してしまいたい、そういう気分になります。
 
信じるとは?、霊とは?、・・言葉にしても、曖昧、あやふや、それを、自己愛を否定できないために、くどくどと言い訳めいたことを書いて、ちゃんと語ったことにする強迫性でしょう。
 
楽山が、誤解されないようにと、不祥事を避けるかのようにと、くどくどと言ってくるのは、やたら複雑な取扱説明書に似ています。しかも、楽山は、日本語の言葉遣いに問題があるのだから、どこまでも不正確です。
 
ちなみに、自分語りで恐縮だけども、自分はもともとは、不思議な話は何でも信じてしまう性質である。霊、神、天使、悪魔、妖怪、妖精、小人、宇宙人、UFO、異次元、超能力などはもちろん、ドラえもん、サイヤ人、北斗神拳なども実在するかもしれない、実在したとしてもちっともおかしくないと考えてしまう性質である。おそらくは、自分がトンデモな新興宗教にハマってしまったのは、このせいもあった。
そんなわけで、自分の課題は、「信じること」ではなく、「信じすぎること」を克服することにあると思うし、いましばらくは、信じることの大切さは承知した上で、あえてトマスのようでありたいと思う。
 
楽山は、自分信仰者です。信じないことも信じ過ぎることも克服する道を示せていません。だから、他者の言説にしがみつき、読書家や評論家を気取って、理性的に見せかけます。
 
だから、今は、楽山自身が、トンデモ新興宗教、すなわち、カルトなのです。
 
決して、新約聖書のトマスのようではありません。ここで、キリストを信じてもいないのに、お気楽に使徒の名前を出し、そのようでありたいと言うことが、むしろ、楽山の反キリスト性を表しています。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 
20:25
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
20:26
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 
20:27
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 
 (ヨハネ書20:24-29、新約聖書)
 
トマスは、復活したキリストを見て信じました。今、キリストは目に見えないので、キリスト者は、皆、目では見ないで、キリストを信じています。
 
楽山は、信じることの大切さなど分かっておらず、殉教したとも言われる使徒の名前を、気軽に自らに当てはめる始末ですから、キリスト教に対する冒涜者であり、キリスト信仰の敵です。
 
*対機説法と誠実さ
ここまで書いて思ったけれども、この霊訓で理性的判断の大切さを説いているのは、質問者、読者に合わせた対機説法であるのかもしれない。
この霊訓を読むのはどういう人かといえば、おそらくは霊的なことを信じている人、または信じやすい人たちなのだろう。とすれば、そういった人たちには、「信じよ、信じよ」といって煽るより、「理性的であれ」と説き、信仰の暴走を戒めるのは当然であり、賢明なことだ。
 
楽山は、ここで、霊を信じやすい人という前提条件を書いて、弁解したつもりで正当化を図っています。信じやすい人には理性的であれと語り、信じない人には信じよと語るとすれば、これは、いったい、どういう宗教なのでしょう。言葉の信頼性と表現力が、まるでありません。
 
語る言葉を、霊言者も、楽山も、持たないから、あちこち言葉を変えて、前提条件を付けて辻褄を合わせようとするのでしょう。この記事の、最も醜い部分が表れています。
 
とある新興宗教では、信じやすい性質の人たちを集めて、「信じることは尊い、信じよ、信じよ」と繰り返し説き、信じやすい性質をますます助長させ、理性や常識に反した判断、行動をするように仕向け、操っているのであるが、この霊訓にはそういうことをするつもりはないということなのだろう。
 
つもりはなくても、信じよと言うなら、どうなってゆく必然があるかどうかを、必ず考えるべきです。超常の霊の話は、そこが整理されていないのです。特に、信じ方を全く理解していない楽山は、身の程を弁えるべきですが、楽山には、理性も常識もないことだけが表れてきたのです。
 
と、こんなことを考えてみると、このシリーズが、スピリチュアリズムのなかの古典となり、広く読まれ、支持されている理由が、なんとなくわかったような気がする。一般世間から見たならば、スピリチュアリズムも、心霊研究も、あやしい新興宗教も、どれもこれもカルトっぽく見えるだろうが、この点においてはシルバー・バーチの霊訓は、カルト対策として有効だと言えなくもなさそうだ。
 
「カルト対策として有効だと言えなくもなさそうだ」・・楽山の、汚いボンヤリ言語ですが、とんでもない。霊言の話は、根拠を示せない話です。そこに、辻褄合わせの理性とか性分とか常識とかを加えれば、今度は、信仰の話じゃなかったの?と返されるだけでしょう。話す霊言者も、受け取る楽山も、しっかりした心と言葉のベースを持っていないことが明らかです。
 
最も大事なカルト対策は、楽山のような、無反省で訂正不能の、自己愛性人格障害のカルト思想宣伝者が、実名と写真によって特定され、情報が敷衍(ふえん)され、その詭弁と嘘が、公開されて、批判されて、広く広く注意喚起されることです。
 
 
(2020年08月31日、当日一部修正)
 
 
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  楽山の霊言悪用(1)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳
 2020年08月29日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26057394.html
 
 
楽山は、長く書くことで、潰しが効くとでも思っているのでしょうか。2回に分けます。
 
*全体の感想
本書を読むと、妄信、軽信を戒める言葉が多いことが印象的である。以下に、その点について書いてみたい。
*常識、知性、理性という基準
まず、シルバー・バーチは次のように述べている。
いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.126)
 」
私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。
(同上、p.126)
 」
常識から外れたもの、筋の通らないもの、デタラメなものは信じてはいけないというのは当たり前であるが、奇跡を求め、有り難がることにも釘を刺していることは印象的だ。
新興宗教には、奇跡を宣伝し、それを信じ、有り難がることをすすめるところが目立つが、この部分を読む限りにおいては、シルバー・バーチはそれとは違う考えを持っているらしい。
 
どういう基準で、盲目的、デタラメ、と判断するのでしょう。奇跡を否定するのでしょうか。楽山のように、全く自分を見ようとしない者に、どれほど意味のある発言なのでしょう。
 
信仰は、神に向かって、人が、自分は分かりません、守っていません、正しくありませんと、能力の乏しさ、そして不完全な自分を、すなわち罪深さを、告白するところから始まります。
 
楽山は、そこが全く分かっていないのです。だから、楽山は、慢心し、意地を張り、ゆえに、何かを主張すれば、そのままカルトの発言にしかなりません。
 
理性というものを、誰でも等しく正しく持っているものという見方をしているようだが、楽山のように、理性も欠片もなく、他者の霊言までも利用して自己正当化を図る異常者もいるわけです。理性がどうのと言うこと自体が無意味なのです。
 
前から言ってることですが、楽山にカルトを批判する資格はありません。
 
楽山自身が、霊が分かるっぽい自覚であり、ゆえに、霊言をもって、カルトを批判しているのだから、言ってみれば、詐欺師が、詐欺師にだまされないようにしてください、そのためには、私の言うことを聞いてください、と宣伝しているようなものです。
 
どこまでも、自分を褒めずにはいられない楽山が、他者の霊言なるものを賞賛するのは、だます意図があるからなのです。霊について語る者の中に、カルトがいます。霊について語る者を賞賛する者の中に、楽山のような狂信媒介のカルト思想の者がいるのです。
 
見かけだけ、カルトはいけないと、常識だ、理性だ、と言っている楽山こそは、最も警戒するべき煽動者であり、今までの経過から、決して関わってはいけない者であると思います。そう判断せざるを得ないような、腐った言い逃れを、楽山は、毎回、載せてきています。実に怖い男です。
 
*理性的判断
ここでは理性的判断の重要性を強調している。
交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。
(同上、p.135)
 」
理性は神からの贈物であるから、これを一つの判断基準として大切にしなさいというのは分かるが、理性に反発を感じたら、拒絶するのが義務だというのはすごい。
原書ではどうなっているかわからないが、この翻訳からすると、「理性に反すると感じたら拒絶してもよい」という緩いものではなく、「理性に反すると感じたら拒絶しなければならない」というニュアンスであるし、これほど強く言うということは、よほど大切なことなのだろう。
 
また、理性的判断を持ち出していますが、だったら、自分の理性を信仰したらよいでしょう、という話になります。これは、明らかな矛盾なのです。
 
人間の理性は、不完全で、しばしば間違いを犯します。そして、傷ついたり、傷つけたりします。そうして、罪の性質というものが明らかになるわけです。そこから信仰は出発するべきであります。
 
しかし、楽山は、大切なことなのだろう、という無批判によって肯定しているのです。なぜでしょう。理性的に書いているつもりだけの楽山にとって都合がよいからです。ここに至って言えることは、楽山の理性は、決して信用してはいけないということです。よくよく注意するべきです。
 
楽山は、理性の人ではありません。楽山は、我欲の人です。
 
また通信霊がどういう存在であろうとも、それがたとえ高級霊だったとしても、理性的判断を優先すべきとしている点も大事だ。「神がいうことだから信じる」「仏陀の言葉だから信じる」という権威主義的な発想はカケラもない。
 
代わりに、自分の理性を、最高権威とすれば、自分信仰になります。自分信仰の極悪から解放されるために、神への信仰は存在しているといってもよいでしょう。
 
楽山は、自身の理性を信仰している自分信仰者であり、常に、自分を最高位において、正当化してきたし、また、霊が分かるっぽい自分を、褒めるために、他者に信じさせるために、思想も、宗教も、カルトも、心霊も、利用することを躊躇(ためら)わない詐欺師だということが明らかです。
 
目に見えない霊という特別な存在を尊重するとしても、恣意的に霊を悪用する楽山は、明らかな敵だと思います。詐欺師の楽山は、霊言者までも、利己のために悪用する男です。楽山は、結局、いつかどこかで、袋叩きにされるのではないかとさえ思います。
 
*理性の光
ここでも、「理性の光に従うように努めなさい」ではなく、「理性の光に従わねばならない」という強い表現になっている。
「私が ぜひとも指摘しておきたいことは、霊的知識の恩恵を受けた者はあくまでも理性の光に従わねばならないということです。他界した霊がこうして再び戻って来るそもそもの目的は、父なる神が子等に授けた全才能を発揮するように地上人類を促すことです。知識の探求、叡知と真理の追及において理性を無視したり、道義の鏡を曇らせたり、良識を踏みにじるようなことがあってはなりません。
(同上、pp.56-57)
 」
また真理の探究において、理性に従うことのみならず、道義や良識にも反してはならないとしている。これはつまり、霊的な事柄を探求するからといって、一般社会からみて奇人変人、トンデモであってはならないということなのだろう。これはもっともなことである。
 
"理性の光" と言っています。霊によって、どうしろというのではなく、理性が最高位にあるのでしょうか。そして、理性に加えて、道義、良心、などをあげています。つまり、何も言わないのといっしょなのです。よく考え、良き心で、良き分別を持って生きなさい、という人道と、どう違うのでしょう。
 
楽山は、この、当たり前のような美辞麗句が大好きです。自分が、当たり前のことしか言えないからでもありますが、何よりも、いかようにも悪用できるからです。この霊言者は、好きなように、楽山に悪用されているということです。
 
それに、楽山の題材が本ですから、霊言者も気づかないだろうとばかり、霊言が、楽山によって、食い散らかされてゆくのでしょう。
 
楽山は、このような横暴なことを言って、無事で済むと思っているのでしょうか。超常に関わろうとする者たちの世界は、チンケな楽山以上に、不気味だと思いますけどね。
 
ちなみに、とある新興宗教も初期の頃は、これと似たことを言っていたのだった。人の本質は霊であり、転生輪廻をくりかえしつつ、霊性を向上させているという霊的人生観を持ちつつも、一般社会の常識をもわきまえた「偉大なる常識人」となることを目指そう、と…。でも近年はそれとは正反対の立場をとり、「常識に負けるな」を合言葉にして、一般常識を軽視し、常識に反することを奨励するかのような方向にすすんでいるのだからあきれる。
 
カルトでは、霊性を向上させているのが "偉大なる常識人" だそうです。実に、滑稽なのが、一般常識を弁える、ということを、安全弁にしていることです。霊的を付ければ偉そうに見えるという例であるかのように、"霊的人生観" を持つと言っています。笑止です。
 
楽山は、一般常識も、道義も、良心も、弁えていないと思います。楽山は、常識的判断が出来ません。だから、弁明も出来ないのに、また、長々と書いてきます。人格破壊が進んでいるからでしょう。楽山に近寄らないでください。楽山が近づいてきたら一目散に逃げてください。
 
こういう事例からみると、つくづく新興宗教というものは、まともっぽいことを主張していたとしても全然信用ならないものだと思う。一時的にはまともっぽく見えたとしても、その時々の都合によって反対方向に方針転換が為されないとも限らないのだ。とくに、教祖の一声で教団の方針が決まる教祖崇拝型の新興宗教では、この危険性は高くなる。
 
楽山は、自分の霊能者気取りのカルト精神を棚に上げて、新興宗教は信用ならないと言っています。楽山は、主張が一定せず、キリスト教を揶揄したり、おとしめようとしたり、三文芝居をしたり、ほめたり、右翼に賛同したり、カルト批判したり、まるで節操がありません。
 
楽山は、自分を省みることなく、他者の悪口ばかり言って、別の他者の霊言を利用して、自分以外のカルトの危険性を説いているわけですから、いちばん危険なのは、楽山であるということにしかなりません。
 
最早、この楽山は、だましのテクニック以外、何も持ち合わせていないと言ってよいでしょう。楽山は、反省機能を持たない精神詐欺のカルトです。
 
最も大事なカルト対策は、楽山のような、無反省で訂正不能の、自己愛性人格障害のカルト思想宣伝者が、実名と写真によって特定され、情報が敷衍(ふえん)され、その詭弁と嘘が、公開されて、批判されて、広く広く注意喚起されることです。
 
 
(2020年08月30日、同日一部修正)
 
 
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  楽山のブーメラン
 
 信者ブログを見てみた(読書、HSの自由論など)
 2020年08月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26044279.html
 抜粋です。
 
 
楽山は、自身の言った言葉によって、自身に返されてゆきます。それをブーメランというのだそうです。また、長い文章なので、抜粋して批判します。私がよく知らないHSのことが多いようですから、引用のリンクを省略しているところもあります。
 
楽山は、HSの信者に批判されて、返しているつもりです。しかし、それは、また、ブーメランのように楽山批判となって返されてゆきます。そして、楽山は、そのブーメランを自覚せずに無視しているのですから呆れます。
 
*投影
まずここでは相手の本音、願望を悪く想像した上で、批判を加えてあるが、これはいただけない。
自由という言葉の奥に隠された本音は、自分の好きなようにさせろ、気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手にすぎず、それを自由という美名に置き換えているだけ、という人。
気ままで楽ちんな生活を望んでいるだけなのに、それでいて自由という美名を使いたがる。
 」
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う[1][2]。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる[2]。これには責任転嫁(Blame shifting)が含まれ、たとえば習慣的に失礼なふるまいをしている人は、いつも他者を失礼な人だと言って回っているケースがある。一般的には悪い面を強調することが多いが、良い投影も存在する。
投影は日常生活においてよく起こっている。例えば、なんとなく嫌いだった人物が、実は自分の否定的な、認めたくない面を体現していたなどである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1
 
「相手の本音、願望を悪く想像した」・・この投影は、異常だという自覚のない楽山が、いつも、何度も、やってきたことです。今回も。相手を悪者にするためです。楽山自らの不整合や矛盾や能力不足を投影しているのか、あるいは、総て作為で、相手を投影していると決めつけているかでしょう。
 
このような心理学用語を出せば出すほど、楽山は自分の説得力が増すと思うかもしれないが、その心理学を全く理解していない楽山が明らかになるだけなのです。何度も引用しましたが、楽山の「心の理論」において、特に明らかになっています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 
私が約10年批判してきた偽牧師シャロームも、投影ですね、という言い方を気安くしてきました。恐らく、何も分かっておらず、悪口来たら言っておく・・くらいのものでしょう。
 
「気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手、それを自由という美名に置き換えているだけ」・・楽山の、以前のHNは、"自由" でした。楽山の自由こそは、ワガママ勝手であり、自慢して気持ちよくなる楽山の習癖だったのです。
 
まさに、楽山のことです。"自由という美名" と言ってよいような丁寧語が、楽山の、だましのテクニックなのです。約一年半、慎重に、楽山の書いた文章を見ることで明らかになっています。
 
今回も、楽山は、理路も感性も拙劣でありながら、批判する資格のないまま、誰かを批判して、かえって自身の根性の劣悪さをあらわにしています。まさに、楽山がしてきたことを批判されています。
 
お節介かもしれないが、相手の本音を悪く想像して、こき下ろすというのは、自己紹介にしかならないし、止めた方がいいと思う。
 
悪口を自己紹介というのは、ブーメランということでしょうか。しかし、「相手の本音を悪く想像して、」ボンヤリ言語の丁寧さで、ごまかしながら「こき下ろす」・・これは、実に、楽山に、よく当てはまります。しかし、楽山はブーメランを自覚していないようです。
 
HSでは、守護霊霊言と称して、論敵は心の中で悪いことを考えていることにして貶めているけれども、いくら信者でもこういう手法は真似しない方がいい。
 
楽山がやっていることを、弁明もなく、論敵という相手に向けています。今までの私の批判記事から、理論家・評論家気取りの楽山は、霊が分かるっぽい霊能者気取りがベースにあるのです。楽山は、決して理論家ではありません。決めつけて刷り込む詭弁家です。
 
*意外な発言
LEO氏は本好きだと思ってたので、この発言は意外に思えた。
本をたくさん読む、とか、読書の習慣がある、ということであっても、それのみで勤勉である証拠とはならないんですよね。
 」
本を読まない人であれば、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人のことを、「自慢してるんだろう」「勤勉アピールしてるんだろう」と悪く言うこともあるかもしれない。
でも本好きの人にとっては、読書習慣があり、いろいろな本を読んでいるのは当たり前のことであるし、それを勤勉アピール、勤勉ポーズととることはないのではなかろうか。
 
またしても白々しい楽山です。たくさん、本と、著者の名前を出して、読書家ぶっていたのは、楽山です。「勤勉アピール、勤勉ポーズ」は、楽山の生業です。
 
しかし、楽山の読書は、自分の都合の良い字面を漁って、引用するだけであり、楽山自身の書く文章は、理路が成り立っていなかったし、説得力もまるでない、ということだけが、明らかになってきました。
 
文脈を読めない、理路を読めない、理路を組み立てられない、という、「楽山は、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人」ではありません。楽山は、読書したかのように、引用と誘導で、人を欺く人、すなわち、読書家の敵であります。
 
少なくとも自分はそうは思わない。本好きの人とか、読書ブログに対して、「どんな本を読んでるの? へえ、そんな本を読んでるんだ。おもしろそうだな。自分も読んでみよう」とは思っても、「読書の習慣があり、本をたくさん読んでいるようだが、それだけで勤勉とは限らないゾ」なんて考えることはない。
 
楽山の読書は、読書と呼べるものではないと思います。いつもながら、楽山の例示する会話の台詞は、楽山が書いてきた独り芝居と同じように、平板で、月並みで、わざとらしい。このような台詞は、小学生がするものでしょう。
 
*知的生活
もう一つ、自分にはこの発言も意外に思えた。
他の人にも役に立つ、生産性のあるアウトプットまで行かない場合の読書は、単なる暇つぶしや趣味と言われても仕方がないもので、自分だけの独りよがりの好みでしかないことも多いわけで、
 」
そうした読書が真に役に立っている、というためには、アウトプットしてみて、他の人にとってもそれが役に立つ考え方であるか、知識であるか、モノの見方であるかを問う必要があるのだと思います。
 」
タイトルは失念したが、渡部昇一のエッセーで、とある人は論文などは書かず、知的生産はしていないが、その蔵書はゆっくりとではあるが着実に良書が増えており、読書を楽しんでいることがわかる、これも立派な知的生活だという話を読んだ記憶がある。
自分はこの考え方を支持するので、「生産性のあるアウトプット」がないとしても、論文なり、文学なりを読んで感動したなら、それだけでも充分に価値があるのであって、これに対して、「単なる暇つぶし」「独りよがりの好みでしかない」などとは思わない。
 
読書して "知的生活"しているからと言って、その人が、知的だとは限らないという例が、楽山です。だます目的で、読書したふりをして、殆ど説明できないのに、良かった、分かった、驚いた、などと、自分は分かるんですアピールをしてきたのが楽山です。これは自慢のための嘘です。
 
褒め言葉だけがわざとらしく並んでいて、読解の結果が感想に表れていないことをもって、楽山の欺瞞が明らかになってきました。そのような文章は、感想文としての意味がないと言われるわけです。さらに、だまそうと、刷り込んでくるならば、真実を追求する言論の敵ということになります。
 
楽山は、学習することなく、自己愛の自己中に好都合な言葉を漁って引用するだけですから、本と著者を侮辱していることになるでしょう。どこまでも、言い返してくるのは、人格障害だからです。
 
人間らしい真っ当な反応とは真逆の方向にしか返してこないような、自己愛と慢心で動いている楽山は、とても見苦しくて、人間であることさえ疑いたくなります。
 
ついでに書くと、名画、名曲、名演奏によって感動したということはそれ自体が素晴らしいことであって、画が描けなくても、曲を作れなくても、演奏ができなくても、他のことにつながらなかったとしても、その素晴らしさは変わらないとも思う。
 
その素晴らしさと感動を表すのが感想ですが、それが全く見られず、いつも、陳腐な褒め言葉を並べるだけなのが、楽山です。
 
さらに、驚くべき詭弁ですが、「素晴らしさは変わらないとも思う」・・ひどいものです。素晴らしくないのは楽山であって、感想の対象となる作品ではないのです。
 
また、感動するだけでも素晴らしいというのは、少しも楽山を弁護しません。感動したと書くだけでは、その中身は伝わらないのですから、伝わらないものを、ネチネチと執拗に書き続けて、正当化ばかりしてくる楽山の神経は、自己顕示欲の作為か、でなければ精神か性格の異常なのです。
 
楽山の自己正当化の詭弁は、ことごとく、今まで成り立たなかったし、今も成り立たっていないし、今後も成り立たないでしょう。
 
*指標
LEO氏は、ブログについて次のように考えているという。
独りよがりでは意味が無い。閑散ブログでは存在する意義がない。
 」
読まれる内容を書けないのなら、まだまだ他の人に感化を与えられる内容を持っていないのであって、そのレベルであってみれば、まだまだ自己研鑽が足りていないということを、自覚しないといけないのでしょうね。
他者が読んでも、そこに参考になるような何かが発信できているかどうか。
これが、自分がブログ記事を書く際に注意している、ポイントの一つですね。
自戒の意味を込めて。 
 」
これはこれで個人的信条としてはよいのだろうとは思う。ただブログの目的は人それぞれであるから、自分の考えをブログで発表し、多くの人に読んでもらい、影響を与えることを目指す人もいれば、アクセス数は気にせず、自分と向き合うためにブログを書くという人もいるだろう。
 
いえ、個人的信条ではなく、中身のない文章を公表されることは、さらに、そこに、恣意的な意図のある場合には、言論において、はなはだ迷惑だということです。
 
つまり、気取りだけの主張ですから、正常な言論に対する妨害行為に匹敵します。前から言ってきたように、悪質な疲労物質である楽山の記事は、公表せず、誰にも見せず、楽山が独りで読んで、したければ独りで自画自賛し、独りで疲労していてくださいということです。
 
このような多様な価値観を認める立場からすれば、自分のブログ観とは異なるブログに対して、「意味が無い」「存在する意義がない」というのは、いささか行きすぎであり、乱暴である。大川隆法は著書の売れ行きや、社会的影響力の大きさを自慢げに話す人なので、信者がそんな風な考え方になるのも仕方ないことではあるが、これが唯一の判断基準であって、それ以外の判断基準は認めないとしたら、おかしなことだ。
 
楽山は、"多様な価値観"、という言葉で、また、自己正当化してきます。以前、シャロームが、"人それぞれ"、という言葉を多用していたのと同じようなものであり、曖昧で、意味の広い言葉の中に、批判の中心を紛れさせようというボンヤリ言語の詭弁です。
 
自らの与えている害に全く気づかず、無視して、言い逃ればかりを書いてくる、自己愛性人格障害であり、言論のサディスト、またサイコパス、という体質を、自ら証明してゆく方向に進んでゆく楽山なのでしょう。
 
*全体の感想
LEO氏の考え方は、自己の向上が大切であって、自分がどれだけ向上できたかどうかは、ブログの影響力によって確認でき、これに益しない読書も、書くことも意味がないというものであるようだが、自分は、読書そのもの、書くことそのものに価値を見出したく思うタイプなので、申し訳ないけれどもLEO氏は、読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさをご存じないように思えた。
 
この楽山の言い分は、その上の批判によって全否定されます。多様だから、人それぞれだから、何でも書いて公表していいということはないのです。迷惑は、迷惑と指摘され続けます。
 
言論の責任を負わない者には、しかも多様性という詭弁で言い逃れできると思うような者には、言論の自由はないのです。
 
反省もなく公表され、詭弁で言い逃れても、迷惑は、迷惑と指摘され続けますし、その結果は、楽山の自業自得となるわけです。そのとき、詭弁で何が進むのか、楽山は体現することになるでしょう。
 
「読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさ」を知っているとは、到底、思えないような、読んでも何も得られないような、空疎で、関われば、疲労だけを被(こうむ)るような記事を、何の自覚も病識もなく、自己愛によって偏向し歪曲した恣意によって書いてきたのが、楽山です。
 
もし読書および書くことそのものを目的とすることはできず、それらを自己実現の手段としてしか見れないとしたら、自分とはまったくちがった感性、価値観であるし、話が合わないのも致し方ないなと思う。
 
今度は、批判に対して「自己実現の手段としてしか見れない」という言葉を当ててきました。言葉をすり替えて本質を逸(そ)らせる詭弁です。楽山の厚顔無恥の攻撃性が出ています。
 
自己実現するかどうかなど分かりません。必要なのは、良識と良心であり、最低限の責任感です。楽山には、それが無いと言っているのです。楽山には、人間としての最低限の反省力と罪悪感がないと判断しています。
 
また、楽山には、しんみり悔いたり悲しんだりできるような共感力もないと思います。だから、いつも、本筋と外れたところで、ズレた感情と意志が働くだけなのです。
 
*経緯
最後に、これまでの経緯をご存じない方もおられるかと思うので、その点について書いておきたい。
まずこの信者氏と、楽山とのかかわりは、言論の自由についての意見が対立したことが始まりだった。
・★ 言論の自由について 2
 」
その次は、ブログ村の幸福の科学カテゴリーにおいて、信者と信者が対立した際に、自分はこの信者氏には批判的な立場をとって不興を買ったのだった。
・★「幸福の科学村」騒動のまとめ
 」
傍から見たら、こういうことはどーでもいいことだろうけれども、こういう経緯を知ってもらえれば、信者氏がかなり感情的で、極論的な発言をしている理由についての理解が容易になると思うので、一応、参考までに書いておくことにする。
 
楽山が、極めて作為的で、詭弁家で、自己愛者で、欠陥だらけの字面言葉で、刷り込みによって、間違った印象を刷り込んでくる策略家であることも、理解が容易になってゆくと思います。
 
私は、楽山の、キリスト教への曲解と決めつけによる誹謗中傷をきっかけに、楽山批判をしてきました。私は、出来ることをしてゆくだけです。
 
この先、楽山が、ネットを含めた犯罪行為に及ぶ場合には、私のできることはなくなるでしょう。
 
どうか、楽山に、だまされないように、決して近づかないようにしてください。
 
 
(2020年08月29日)
 
 
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 「排泄の口、誰の前で幼子?」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12457324506.html
 を修正して再録します。
 
 
  排泄の口(改)
 
神も聖書も謎だらけだが
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられる
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえある
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたい
 
人間はおかしいところがいっぱい
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的
いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていない
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不完全を語るほうが相応しい
それによって
聖なる御方に寄せる希望は生まれるだろう
 
自らの不完全さすなわち罪深さを抜きにして
ありがたい恵みばかり説くのはカルトの所業だ
 
慢心して
ときに強迫的に
神の言葉だからと思いこみ信じ込んで
自我の教条の奴隷になっている者がいる
 
まことに意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうる
 
 
(2011年10月10日、同日一部修正)
(2019年04月27日、修正)
(2020年08月23日、修正再録)
 
 
  誰の前で幼子?(改)
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢である
そしてそれは正直さに他ならない
 
神にキリストに
完全に従順であることは人間には出来ない
だから悔い改めの祈りがあるのだ
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
自分の罪や悔いや欠点に思いを致すことによって
正直に祈り
赦しと導きを乞い願い
信仰の成長を期待することになる
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味にはならない
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は偽善者である
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言う
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
説教者はキリストではない
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけない
 
巷にもそして特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよい
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の字面だけで飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのである
 
そのような説教者を裸にしなければならない
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけない
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけない
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいない
また、神に対する従順は人には確定できないのだから
「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれていない幼子のように
反省と修正と学習を可能とする虚心をもって
聖書の教えを受け取って考える心を意味するとしか言えない
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者や求道者に語るときも同様である
 
 
(2011年10月10日)
(2019年04月27日、修正)
 
(2020年08月28日、修正再録)
 
幼子(おさなご)
巷(ちまた)
 
 
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  楽山の弁解
 
 自己中心的な人(HS教祖と信者の抱える問題)
 2020年08月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26013897.html
 抜粋です。
 
 
また、楽山は、発作のように長いだけの記事を書いています。今回、楽山は、HS批判をしているつもりのようですから、抜粋して批判します。
 
楽山がHSを批判しているというより、自分はHSではないという弁解と、結論ばかりの悪口にしかなっていないようです。楽山を、まともな批判者だと思うのは、非常に危険です。
 
楽山は、まともで分かっているふうを出していますが、この1年半に及ぶ楽山の記事と批判によって、楽山が、HSも、アドラー教(アドラー心理学)も、抜けきってはおらず、その影響下にあることが明らかになっています。HSは超常、アドラー教は自己中、という共通点があるからでしょう。
 
いつもと違って、唾が飛んできそうなHS批判ですが、その批判の大方は、楽山に返ってゆくのであり、楽山が、前の記事に書いていた、いわゆる、ブーメランだと思います。
 
教祖の目には、世の中には、自分は得するために生まれて来たと考えている人が多く、手っ取り早く結果を欲しがる人ばかりに見えているらしい。
 
そういう人が少なくないということは言えるでしょう。楽山もそうでしょう。そういうところは誰にでもあるのに、わざわざ否定してくるところが怪しいと感じます。
 
楽山は、今回、あとの方でも、ずいぶん世の中の人を、褒めています。こういう、節操もなく、ほめたり、けなしたり、どっちつかずの話を、他者を無視して書いてくるところは、豪語する教祖よりも、楽山のほうが、狡猾で陰険なのです。
 
楽山の言論に、一貫性のないところなのです。そういう、いい加減な書き方で、結局、自己正当化をしているだけになる堂々巡りのブーメランです。
 
また、「自分をほめ上げ、他の人を批判する人」のことを、まるで他人事のように語っていることからすると、自分がそれに該当するとは、少しも思っていないらしい。
 
典型的なブーメランでしょう。いつも、言葉だけ丁寧で、婉曲表現や、刷り込みの詭弁で、「自分をほめ上げ、他の人を批判する」のは、楽山その人です。そして、今回、まさにそうです。楽山は、自身が書いてきたことによって、返されているのです。
 
こちらでは、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊などの偉人は、世の中で理解されないかのように言っている。釈尊の生き方について、「余人の想像を絶するもの」であり、「普通は、この世的に見て、より有利なことを選ぶもの」だとのことである。
 
想像を絶するもの、というのは、結局、超常的な人という意味でしょうが、少なくとも、イエス・キリストが伝えていることは、人間であれば受け取って共感できるものです。ここには、心よりも、超常の奇跡を信仰の中心だと考えている先入観があるようです。
 
霊や超常への入れ込みと、日常の心を疎かにするような、偏見と先入観の典型は、教祖はともかく、楽山に著しいということを明らかにしてきたつもりです。
 
キリスト教へのいちゃもん、やさしさ芝居、否定しないと言いながら嫌味を並べてくるボンヤリ言語、嘘と詭弁など、これらの履歴が残っているのに、楽山に何の弁解が成り立つというのでしょう。
 
*法話の背景
これらのことを念頭におきつつ、法話を読むと、その背後には次のような思いがあるらしいことがわかる。「世の中には、自己中心的な人が多い。だから、イエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さは分からないし、釈尊の生まれ変わりである私が、世のため人のために尽くしているのも理解されないのだ」「私は自分褒めはしないし、他人の悪口も言わない。人を利用するために、『あなたの過去世はすばらしい。あなたは高い霊格を持っている』等とおべんちゃらは言わない。私は自画自賛はせず、他人を妬まず、恨まず、損得勘定はせず人のために尽くし、嘘はつけない性分だ」
 
教祖のことを言っています。
 
信者はどうかといえば、この法話を読んで、次のような思いを抱く人は少なくなさそうだ。「世の中には、自己中心的な人が多い。でも自分はちがう。だからイエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さが分かる。釈尊の生まれ変わりである大川隆法総裁先生の偉さも分かる」「私も総裁先生と同じく、自分褒めはしないし、他人を誹謗中傷することもしない。嘘も言わない」「仏陀であり、地球神エルカンターレでもある総裁先生の弟子となり、その教えを聞くことができて幸福だ。自己中心的な人は、自己中心であるが故に、この幸福は少しも分からないのだろうが、自分はよく分かる」
おそらく、信者が、批判者に対して自己中心だと責めるのは、こういう考え方に理由があるのだろう。
 
信者のことを言っています。
 
余人からしたら、教祖と信者が上のような考えを持っているというのは、にわかには信じ難いかもしれない。
けれども改めて、HSの信仰と、HSをとりまく客観的な情勢とを確認すれば、このことは容易に理解できるはずだ。
HSの信仰…教祖は仏陀の生まれ変わりであり、人々を救おうとしている。
客観的情勢…教祖は仏陀であり、人々を救おうとしていると信じる人は少ない。
この二つは、誰が見ても矛盾しているだろうが、通常なら現実に合わせて考え方を変えれば済む話だ。
「教祖は神であり、仏陀の生まれ変わりで、世を救うために活動していると信じていたけけれども、30年以上も活動しているのに、それに応じた結果はでていない。選挙では落選したし、信者も、支持者も増えておらず、むしろ減っている。この現実からすると、自分の判断は間違っていたとは思いたくないが、考え直すべき点もあるようだ」と。
 
現実を、いちばん見ていないのは、楽山だということが、今までに明らかになっています。つまり、楽山は、いかなる人をも、批判する資格を持ちません。それでも、自分は、まともだと言いたくて、なりふり構わず、今までのことを無視して、書き続けるのが、楽山という男です。
 
どういう批判精神が、楽山に成り立つというのでしょう。楽山自身は、批判に対して、何も答えず、無視してきたというのに。
 
楽山は、現実を見ることもなく、たくさんの、常識はずれの記事や、心霊の記事を書いてきたわけです。「現実に合わせて考え方を変え」ることを、いっさい、してこなかったのが楽山なのです。
 
しかし硬直化した信仰を持っている場合は、このように現実によって信仰を変えるのは退転、棄教ということになるので、それは決してできないのだ。したがって、信仰も、現実も変えられないとすれば、信仰に合致する現実認識をこしらえるしかなくなり、「世の中には自己中心的な人が多く、そのため教祖が仏陀であり、救世のために活動していることが分からないのだ」と思わざるを得なくなるという寸法だ。
ようは、自分にとって不都合な現実をそのまま受け入れることはできず、「正しい自分たちを受け入れ、尊敬しない世の中は間違っている」と言い張るしかなくなるということ。
 
楽山の、妄想と詭弁の作り方でしょうか。
 
楽山こそ、書いた記事の大部分において、正しい自分を受け容れないのは、間違っているとボンヤリ言語で言ってきたわけです。ベースは似たり寄ったりであるのに、正義の味方を気取って、今回のように口酸っぱく、HS批判をして、体面を取り繕おうとしても無駄なのです。
 
*自己中心はどっち?
余談ながら、信者の中には退会者に対して、次のように言う人がいる。「自己中心だから、退会することになるのだ。自己に都合がよい時だけの信仰だから、自己都合に合わなくなった途端に、退会し、教団の悪口ばかり言うのだ。総裁先生の言葉の真意を解せず、自己都合解釈ばかりしているから、そうなるのだ」
 
楽山の、自己愛性の人格障害ゆえに、自己中、無反省、訂正不能、という特徴を明らかにしてきたつもりです。総てを無視して、平気で、他者を批判して、いい気持になれるのは、とても病的です。つまり、HSも、アドラー教も、超えても抜けてもいない楽山の、悪あがきです。
 
でも実際のところは、上で触れたように、退会者(退転、棄教者)の大半は、信仰と現実の矛盾を直視したうえで、現実を素直に受け入れ、信仰の間違いを認めることができたから退会できたのであり、いまだに信者を続けている人は、信仰と現実の矛盾に眼を背け、現実を自己都合解釈によって曲げているから、信者を続けているのだ。この点からすれば、どちらが自己中心的であるかは明らかである。
 
「信仰と現実の矛盾に眼を背け、現実を自己都合解釈によって曲げている」のは楽山であり、自分の都合の良いように、受け入れたり、否定したり、ふらふらと話を変え、今回のように強い口調だったり、暗示の刷り込みであったり、やさしさの三文芝居だったりしているような、まとまらない経過になっています。
 
楽山は、自己愛と自己中の世界から、いつも評論家気取りで物を言い、現実を認識できていません。教祖や信者のことを言う前に、自らの過去と現在を見るべきですが、それだけはしないのです。
 
ちなみに、信者は概してアンチより短気で怒りっぽいのも、このことが関係していると思われる。信者は、自分の信仰に都合の悪い現実は見たくない、不都合な現実は自分の信仰に都合のいいように改変してからでなければ受け入れたくないと思っているから、それを許さないアンチに腹を立てるのだ。
 
信者は怒りっぽい、という基準は、楽山自身は怒らないということを根拠としているようだが、怒らない楽山がいくら批判とアドバイスをしても、その実態は、ボンヤリ言語、トホホ言語で、詭弁で、他者の言葉を字面だけ借りて、刷り込んでゆくような陰険で狡猾な誘導にしかならないので、怒るより始末が悪く、いわば、しつこく、しつこく、墓穴を掘っているようなものになるでしょう。
 
*まとめ
最後に、今回の法話と、これまでのHSの主張をまとめると、およそ次のようになる。
世の中には自己中心的な人が多く、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊の偉さを理解できない。ましてや総裁のことは理解できない。
総裁は仏陀であり、神である。総裁を悪く言うのは神仏に対する冒涜である。
霊言は本物だ。これを信じないのは霊の存在を信じない唯物論者である。
 
HSの主張だそうですが、楽山について言えば、自己中、無理解、決めつけてネチネチと嫌がらせを言う、そして、霊言にこだわっている・・これは、誰よりも、さらに上から物を言っている姿であり、反省、内省、自省、というものをしてこなかった者の特徴です。自分から他者に向ける方向しか持たない単方向の特徴でもあります。
 
一方、自分はこういう現実認識をしている。
世の中の人々は、大概は、協調性をもって生きている。自己中心的な人ばかりではない。
一般的には、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊は、偉人聖人だとされている。これにケチをつけるのは、天邪鬼、中二病の人くらいだろう。
 
今になって、不自然に、世の人々を褒めても、また、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊、という、とんでもなくビッグな名前をあげても、前から指摘してきたところの、他者を借りての自己正当化にしかならないのです。それに、楽山は、キリスト教に、ケチをつけたことを、また都合よく忘れたのでしょうか。
 
(ネットより)
中二病(ちゅうにびょう)とは、「(日本の教育制度における)中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動」を自虐する語 。転じて、思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラング。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85
 
楽山は、中二病から抜けきっていないのかもしれません。だから、書けば書くほどぼろが出る。書けば書くほど、批判言葉が、ブーメランで返ってくるのです。ひどい話です。
 
HSに、よくないイメージを持っている人は多い。
『自分は仏陀で、救世主で、至高神で、地球神で、国師で、ワールドティーチャーである』と自称する教祖や、『自分は正義であり、神の側に立っている』と誇る信者が、他人のことを自己中心的だと批判するというのは、まったくバカバカしい限りだ。
 
唾を飛ばしているような強い書きぶりだが、そのまま、楽山が「他人のことを自己中心的だと批判するというのは、まったくバカバカしい限り」です。飛ばした唾の分だけ、臭くなってゆく楽山です。
 
HS側からしたら、こういう見方こそ、バカバカしく、笑止千万なものに見えるかもしれない。
でも、上から目線で言うようで恐縮だけども、HS信者は自と他を客観的に正しく見、正しい判断をくだすことができるようになるためにも、この辺りについてはもうちょっと考えてみてはいかがかと思う。余計なお世話だろうけれども、老婆心ながらそのことをおすすめしたい。
 
ここに至って、「この辺りについてはもうちょっと考えてみてはいかがか」とか、「老婆心ながらそのことをおすすめしたい」などと敬語になり、物騒なことは言いませんよ・・みたいなトーンになっているのは、乱暴ではない自分を、ここで丁寧語で書けば伝わる、と思っている楽山の浅はかさです。また、真剣味のない証拠でもあるしょう。
 
いくら、立場を変え、対象を変えても、書くこと自体の不細工は表れます。楽山は、理性も情緒も不安定なので、一貫性のない文章になってしまうのでしょう。
 
今までを踏まえれば、批判と指摘と忠告・助言をする資格は、楽山にはありません。楽山は「自と他を客観的に正しく見、正しい判断をくだすことが」できない人です。特に自分の非を、一切、見ないし、認めない、というのは、かなり最低の部類です。
 
でも自分の経験では、頭のいい人は性格もいいことが多かったように思う。よくできる人のことを妬んで、悪く言う人もいなかった…過去に出会った人の中で、そういう人がいたという記憶はない。
注意されたときに、屁理屈を言うというのも、あまり聞かないかな。この辺りの自分の認識は、総裁のそれとは全然ちがう。
 
「頭のいい人は性格もいいことが」多いとは限りません。頭の良さと、優れた人格や良心とは、必ずしも比例しない、というのは、常識でしょう。楽山は、何を、ご機嫌取りのような、一面的な誉め方をしているのでしょう。
 
楽山の言は、大方、屁理屈の部類でした。論理的を装っても理路は散乱して、しかも、主張そのものが、場当たり的に、右往左往して、とても人前に出せるものではないと思います。ここに、楽山の、わざとらしい反省言葉であるトホホ言語に堕ちてしまうところの、大きな欠陥があります。自覚というものがないのです。
 
ちなみに自分は、小さい頃から納得できないことには反論しないではいられない性質で、学校の先生に怒られたときも、納得できないことがあれば言い返したりしてた。でもどういうわけか、いつも通信簿には素直だと書かれていたのだった。これは担任が変わっても同じだった。たぶん自分はおかしいと思うことには、おかしいと言い返したけれども、筋が通っていると思えばそれは率直に認めたので、担任はここを見ていたのだろうと想像する。
そういえば今でも、楽山は屁理屈屋だという人がいる一方で、楽山の意見には一理あるとする人もいるけど、自分の担任は後者のタイプだったのだろう。
 
反論しないではいられない、言い返したり、素直、おかしいと言い返し、筋が取っていると思えば率直に認めた、・・このような楽山は、批判してきた一年半、一度も表れたことがありません。
 
どこまで幼稚なのでしょう。いつの話でしょう。担任に褒められたことを、自慢の根拠にするとは。
 
*水と油
今回、大川隆法の法話を読んで、改めて思ったのだが、やっぱり自分は大川隆法とはまるきり考え方が合わない。というか、思想がどうこういう以前に、現実認識からして全然ちがっている。
たとえば大川隆法は、世の中の人々の評価は異様に低く、救済対象としてみているようだけども、自分は世の中の人々はみんなまともであって、自分より立派な人はたくさんいると思っている。ニュースやネットを見ていると、おかしな人もいるようだけども、リアルではそこまでおかしい人とは滅多に会わないし、やっぱりみんな普通だろうと思うのだ。
 
それでも、超常と霊言にこだわるカルトから抜けきっていないことが、今までの記事に表れてきたのです。今さら、何を弁解出来たつもりになるのでしょう。異常です。
 
そして、世の中の人々はまとも、立派な人はたくさんいる、おかしい人とは滅多に合わない、・・何を、不定の人々を、ベタ褒めしまくっているのでしょう。また、ご機嫌取りの世辞使いになっています。もしそうなら、深く考えたりすることは必要ないはずです。ここで問題意識を放棄しているのは、誰よりも楽山自身が、自分はおかしいという自覚を持ち得ないからでしょう。
 
前に、大川隆法の本を読んで少しも共感できなかったときには、氏に対する悪感情があるゆえに、自分は公平に評価できないのかもしれぬと考えたりもしたものだったが、どうもそれ以前に現実認識も、思想も、考え方も水と油くらいに違ってしまっているがため、そのような判断になってしまっているようだ。
 
楽山は、ひょっとして、教祖は自分でなければと野望を思い始めたのでしょうか。しかし、HSの超常についての考えは、楽山の霊が分かるっぽい自慢話と、水と油とは、到底、思えません。さらに、自己中製造のアドラー教は、今も引きずっていて、自己愛からの自己中は、何を書いても、楽山の訂正不能の体質として表れてくるものです。
 
世の中には、大川隆法の話を素晴らしいと感じる人はいるだろうし、そういう人はその方向で自己研鑽に励めばいいのだろうけれども、自分はやっぱり別の方向に進むのが合っているし、HS退会したのは正解だったようだ。
 
また、信じる人は励めばいい、などと、今まで言ってきたことから乖離して、求められてもいないアドバイスを、心にもなく、書いています。
 
楽山が、自分は別の方向、と言っても、超常と自己中の思想に、ずっと変わりはなかったのです。楽山の浅ましいカルトの欲望は、丁寧語にだまされて、うっかり受け入れて、誘導された人にとっては、人格破壊の必然が待っています。そういう悪事と偽善を、体質的に生業(なりわい)としているのが、楽山です。どうか、近づかないでください。
 
 
(2020年08月27日)
 
 
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