ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年08月

 
  楽山の霊格?と人格
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971633.html
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労だけを与えられることになります。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
https://twitter.com/CaIrx4KSwAxAIYO/status/1295284416194007040
 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、当然ながら、神を信じないで、霊格どころか、人格も最低という人もいるわけです。
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。それで、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別の分野です。字面だけで、意味を理解していないから、いっしょに見えるのでしょう。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる者の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように、並んでいるという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき悪意の人です。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、字面の技だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための丁寧語と、根拠のない婉曲のボンヤリ言語、そして、ときに、実のない反省や努力などの、書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、はっきり断定することが出来ないことから、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っていて、それが、ああでもないこうでもない、という、婉曲的な言い方の、ボンヤリ言語となっているのでしょう。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。
 
推測ですが、例えば、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、結局、何も語っていないのと同じであり、また、何も受け容れていないということでもあります。
 
楽山の視野には、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間らしいし、人間の必然だという視野が欠けているのです。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、成り立たないことを主張したり、それを知っている?自分が、自分で、中庸かつ冷静な言論者気取りのような自覚になって言い続けることは、それを公表して他者が読んだ時点で、その先に刷り込まれる影響が、同じような鈍化のプロセスを通して、人格破壊の病因となってゆく危険があります。
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971873.html
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
早く、書くのをやめることが、世の中のためです。
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
いちばん、自分を客観視できない人が言っています。
 
カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているつもりの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。( )内が、楽山の補足のつもりでしょう。
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・楽山の持ち物です。
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。そういう人に、証明を・・、と説得される人は、気の毒、不運としか言いようがありません。
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
楽山が、解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。対話のズレ、と言っている楽山は、誰よりも対話のズレがあり、殆ど通じないレベルであり、偏見と先入観で出来ているような人であります。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
https://meaning.jp/posts/1670
 
一例をあげると、↓
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。
 
今まで、自分勝手な、それこそ勝手な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解できないのだと思います。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。
 
対話になっていないような気もします。どっちが批判者なのでしょう。ひょっとして、独り芝居だろうか、全部、独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、独り芝居をして代償しているのではないだろうか、などということも考えています。
 
誰からも相手にされないのが当然とは前から思っていました。こちらが批判しているからか、楽山ブログ、最近ずっと・・いいね(0)、拍手(0)、コメント(0)のようです。
 
シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同も頷(うなず)ける。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また、否定もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の詐欺師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して近寄らないでください。待っているのは疲労と破壊だけです。
 
 
(2020年08月26日)
 
 
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  楽山の無感情
 
 怒れない人(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971554.html
 
 
楽山は、前にもまして、とても気色の悪い記事を書いてきました。
怒らないこと、怒れないこと、というのは幸いでしょうか。
 
ブックマークしておいたツイートを見返していたら、次のツイートがあった。
2020-08-20 (7)怒れない人
https://twitter.com/badassceo/status/1294464140715540480
 
怒らない人=他人に期待も興味もない人、と書いてあります。まさに、楽山であります。
 
自分で言うのも何だけども、自分にはここで指摘されているようなところは確かにあるように思う。ただ自分の場合は、怒らないというより、怒れないという色合いが濃い。
 
嘘です。怒らない人であってもなくても、まともな人であれば、楽山のような、ねちねち当てつけめいた、いやらしい記事を書くことはしないでしょう。
 
楽山は、怒れないのではなく、怒りが、怨念として溜まり、それを、ボンヤリ言語の婉曲表現で放出して、腹いせとしているような、陰険な人だということです。それ以上ではありません。
 
それと、自分のことを、色合いが濃い、などという表現しますかね・・。ふつう、色や、物事など、外から見たものについての表現のようですが。
 
特に、楽山は、自分を客観視など、全くできない人なので、不適切な印象が強くなります。このように、語彙の使い方が、自己中の無反省になると、ピント外れ~誤用になってくるのです。
 
たとえば、「義人無し、一人だに無し」という言葉が常に頭にあるせいか、正しくないことをする人がいたとしても、「まあ人なんてそんなもんだよな」と納得してしまうし、
 
聖書の言葉を「そんなもんだよ」で済ませてしまう楽山です。納得ではなく、浅はかな短絡的皮相の安易さが表れています。
 
人は生まれつきの性質と環境によって支配されていると思えば、「この人はそういう風にしか生きられないのだろうから文句を言ったところで仕方ない。出来ないことを求めたって無理だし、かわいそうだ」とこれまた納得してしまう。
 
全部、そのように理解しているなら、何も書かなくていいはずです。というより、書くことに恥ずかしさを覚えるはずです。
 
楽山に、恥の感情が見られたことはなく、今までの記事の流れの中で、字面の反省と謙虚は芝居だということが明らかになってきました。批判されても無視して、厚かましく自己を出して正当化してゆく姿勢は、納得ではなく、我執と、高等感情の鈍麻による、これも安易な短絡です。
 
ドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んで以降、人が利己的であることに驚かなくなったというのもある。
 
これは、楽山が、本の中から、自分に都合の良い言葉を漁って拾ってきて、自己正当化に悪用しているだけなのです。利己を図るのは人間ですから、利己的な遺伝子の、"利己的" は、比喩的表現だと思いますが、それを、利己的な人と同じ扱いで語るのは、楽山の理路の破綻を示しています。ひどくなっています。
 
ひどく利己的な人がいたとしても、それはその人の心掛けの問題というより、そういう生存戦略によって生き延びてきたし、生き延びようとしてる遺伝子の故なんだろうし、このことはその人にはどうにも変えようがないんだろうと同情しておしまいとなる。
 
楽山は、しんみりした情緒や深い感情がないので他者に同情も共感も出来ないと思います。言い訳がましいことしか言えなくなっているようです。「同情しておしまい」というこのお気楽が、楽山の字面作文の短絡のエネルギーなのでしょう。
 
利己的な人に対して、"遺伝子の故"?だろうと同情するなんてのは、嘘だけでなく、短絡も甚だしく、異常です。楽山は、おしまいに近づいているのでしょうか。
 
そういえば釈尊も人は利己的なものだと喝破していたのだった。
どの方向に心を心で捜し求めてみても、自分よりさらに愛(いと)しいものはどこにも見いだされない。そのように、他人にとってもそれぞれの自己は愛しい。だから、(自分を愛するために)他人を傷つけてはならない。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-464.htm
 」
 
自己愛と、利己は、直感的に区別しなければならないと思います。どう使われているか、という常識が、楽山には無いということが分かるでしょう。自己愛は、多かれ少なかれ、誰にでもあります。利己は、利己主義と結びついて、いい意味に使われることは少ないだろうと思います。
 
楽山は、前にもありましたが、似て非なるものを、並べて同一のように扱い、それをもって、自己正当化を図っています。
 
自分を愛するために他人を傷つけてはならないという教えのようですが、楽山は、それで、自己中の利己主義を正当化できると思っているようです。人格破壊が進行してます。
 
楽山は、平気で人を無視して、平気で嘘をついて、平気で仲間ぼめをしている人で、釈尊の喝破とは、対極にあることに、平気で気づかないでいられて、さらに、自己正当化のために釈尊を悪用しています。どの宗教にとっても、有害であることは明らかです。
 
ただし釈尊は人は利己的な生物だと認めつつ、それを自分だけがよければ他はどうでもいいという方向ではなく、利他の方向に導いているのはすごい。いわば利他的利己のすすめになっている。この辺りは進化心理学関連の本に書いてあったりすることと同じであろうし、2500年前にその域に到達していた釈尊はすごい。
 
楽山が「すごい」という感想で言っているのは、利他的利己?と呼んでいるようですが、要するに、正当には、主体的に自発的に他者を思いやる心ではないかと思います。楽山は、そこに感受性がないので、変な言葉遣いをして、どこまでも的外れ応答になってゆきます。
 
そして「進化心理学関連の本に書いてあったりする」などと、わざわざ、本と読書で、分かってるんだアピールをして見栄を張る始末です。読む前より酷くなる例でしょう。自省・内省・反省できない者の、増悪した醜態です。
 
自分は上に書いた理由などから、人の利己心に腹を立てることはあまりなくなり、それを現実として受け入れることはできるようになってきてはいるものの、釈迦が説いたようにそれを利他につなげることは残念ながらまだまだできていない。
 
自己中によって不都合を無視したために学習と成長がなく、それによって感情が鈍麻して、腹を立てることがなくなったのを、人格が出来ているかのように吹聴しています。それは、正常ではなく、病気なのです。それは、利他にはつながらないのです。
 
しかし、楽山は、メチャクチャな理路をもって、ゆくゆくは最近は利他も出来るようになった、などと書いてくるのではないかと思うと、背筋が寒くなります。
 
この辺りのことをもうちょっとできるようになって、怒れない人を脱却し、真に優しい人になりたいものである。
 
字面だけだと分かる言い方で「もうちょっとできるようになって」程度の自覚なのです。いや、それも嘘かもしれない。楽山が真に優しい人になる・・そこからは、どんどん外れてゆく方向です。
 
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971633.html
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、責任を負わないまま自己正当化してくるので、中身を見ようとするだけで、疲労を与えてきます。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
https://twitter.com/CaIrx4KSwAxAIYO/status/1295284416194007040
 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、当然ながら、一方では、神を信じないで、霊格どころか、人格さえ最低の人もいるわけです。
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。
 
楽山の、しっかりしていない立ち位置は、何も信じないわけだから、結局、自己の判断を絶対とする自己中カルトに他なりません。
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
楽山は、いかなる思想も、中身を理解することも組み立てることも出来ない人なので、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別のテーマです。
 
上の4つに先天的本能的な部分があるのではなく、これらの中身が定まってくる過程で、個人の体質も影響するのでしょうし、環境も影響するのでしょう。楽山は、字面だけで、言葉の意味を理解していないから、勝手にまとめて乱暴に扱っています。
 
楽山は、訂正不能の偏った固定観念の世界を堂々巡りして、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくるのです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、手垢で丸めた紙くずのように、並んでゆくという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、曖昧にして、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。言論からは程遠いところに楽山の大好きな砂場があるということです。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、字面の細工だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための丁寧語と、根拠のない婉曲のボンヤリ言語、そして、ときに、実のない反省や努力などの、書いておけばいいという自覚しかないところの芝居、即ち、トホホ言語なのです。
 
楽山は、私が言うところの人間の不完全性について、はっきり断定できることがない、ということを、あっちもこっちも一理あるという書き方をするのが正しいと言って、あたかも、それで真理を語ったかのような言い方をすることがあります。
 
しかし、不完全、断定できない、これは、真理ではなく、真理が分からないことに他なりません。それを、人間のできる範囲で求め続ける努力が必要なのは言うまでもありません。空疎な世辞のような受け容れ方で、仲良くするのは、薄っぺらな社交であり、真実の欠片にも近づくことはないのです。
 
つまり、楽山のように、ボンヤリ言語を結論として、正しいことを言ったつもりになるなら、それは、ただ、楽山が、真実の欠片にも近づく努力をしていないことを表しているのです。
 
つまり、楽山は、極めて未熟な理路の段階で、言えたつもりになる満悦への短絡傾向を体質として持っています。それは、他でもない、怠慢に過ぎないのです。
 
 
(2020年08月25日)
 
 
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  アドラー心理学(再録)
 
楽山は、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていました。
去年の今ごろ書いた、私のこの記事は、楽山をモデルとしています。
実に、よく当てはまるからです。
 
 アドラー心理学(2)2019-08-24 00:01:46
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12510892257.html
 
 
ネットでの読み書きで判断したことを書いておきます。
 
表に出ているのは、アドラー心理学
という19世紀から20世紀に生きていた心理学者の名をとった心理学のことらしいです。
 
ネットで言われているアドラー心理学を、私は、アドラー教と呼んで、カルトとして批判しています。人格破壊につながるからです。
 
気に入らないことは無視しましょう、という教えがあります。
教えている段階で既に学問ではなく宗教です。
 
気に入らないことを無視するとどうなるか。
 
議論、さらには、真面目な話し合いが、成り立たなくなります。何故なら、こちらが言ったことの中で
気に入ったことだけ覚えていて、気に入らないことを無視しているから覚えていません。少なくとも話題が公平ではなく、好みによって取捨選択されて、偏ります。
 
ゆえに自分の都合だけに合わせて反論するが、全体の流れを考えていないので、力不足以上に、偏った言い分を通して、ちゃんと反論したつもりになる自己満足を愛する一種のナルシシズムとも言えるでしょう。
 
自己肯定感の勧めが流行っているので、アドラー教が受け入れられて広まる可能性を危惧しています。
 
こちらが言ったことの中で、都合の良いところだけしか話題にせずに、あとは、なかったことにしてしまうという乱暴な考え方です。
 
議論は、また、真面目な話し合いは、社交のお付き合いとは違うので、気に入らないことも、つまり不都合なことも、流れの中で話題となる必然があります。それらをすり合わせて、暫定的な結論や合意を見出すために進めてゆくのが議論や話し合いの進行ですが、それが出来なくなるわけですから、先ず、そのとき、議論も話し合いも成り立たなくなります。
 
残っているのは、社交のお付き合いだけになり、世辞、つまり、褒めたり、いたわりの言葉だけになるわけです。ということは、話が進まないし、結論も出ないのです。テーマについて深めることも掘り下げることも出来なくなります。
 
やさしいお人柄ですね、感謝、とかの、世辞の褒め合いにしかならないでしょう。
 
それがアドラー教徒の本心かというと、同意しているわけではなく、既に否定された異なる意見を、別の機会には、また執拗に書いてきます。否定されたことを無視して忘れているからです。そして、こちらの意見は聞かないで無視するわけです。言うには言うが、聞かない態度なのです。話はしても、真面目な話し合いは成り立ちません。疲労物質と喩えました。
 
話し合いが成り立たない、話が進まない、結論が期待できない、ということは、話し合いの相手にとっては、どこまでも実りのない疲労物質です。本人はどうなるでしょう。
 
自分の言いたいことを言い、他者の言うことが不快ならば聞かないで無視する、ということは、自分の言いたいことだけが蓄積されてゆきます。考える筋道が自分の都合と言う単方向に限られてゆき、視野が狭くなり、単純な短絡や詭弁が増えてきて、ワンパターンの思考が思路を占めてゆき、同じことを繰り返すだけの思慮の浅い人間になり、少しでも複雑な問題については、もはや、合意を共有することが出来なくなります。
 
つまり、結論が単純な、お決まりの話題に、短絡してゆく思路なのです。話し合い、人間同士の交流、特に、議論を、放棄することなのです。
 
アドラー教に従うと、不快な思いをしないで済むという主張ですが、その分、周りを、実に、不愉快にしてしまうわけです。不快を感じなくなる、ということは、不快な問題に対して乗り越えるすべを学習しませんから、不快に対する処し方や凌ぎ方を得ることもありません。不快は、総て無視、という無理を通す信念は、自他に対する圧力として蓄積されます。
 
原始的な逃避である無視を専らとすれば、複雑な感情の機微を経験せず、単純な快感だけになり、思いやり、気遣い、相手の身になる、共感、などが出来なくなり、結局は、感情、特に高等感情が鈍麻してゆくのです。表情が乏しく、ぼんやりして、躍動感のない人間になるでしょう。
 
思路の停滞と欠陥、感情の鈍麻と平坦化が現れ、進行します。
不活発なのに、物わかりが悪く、柔軟性がなく、自己主張だけが執拗な人間になるでしょう。
それを隠して自己正当化をするために、曖昧な表現が目立つことになり、その書き方が、バランスのとれた柔和さや中立なのだという勘違いが固定して常態化してゆきます。
 
自分勝手で、議論が苦手で、自分の言いたいことだけ言って、人の言うことは聞かない、という自己中心で、話が分からない人というのは、昔からいます。話の理路が分からず、整わない人です。そういう人が、話し合いの中で、不愉快にならないための、心理学風味の合理化をしているという便法かもしれません。しかし、間違っていると思います。しかも、それを万能のように信じ込むことから、とても迷惑なカルト信仰になってしまいます。
 
よくアドラーサイトを見てみると、結局は、
どうにでもなれ、自分が気にしなければ自分は楽なんだから、それでいいんだ、
という言い分になっているようです。自己中心絶対教と言ってよいでしょう。
 
それは、社会で生きる上で、他者の迷惑になるわけですが、
そういうことも、お構いなしだということです。
悪の勧めと言ってよいのです。勧めている人の気が知れない。
この国と社会に乱れと不和と争いを起こしたいのでしょうか。
 
 
誰でも、心を病みそうなほど、また、思い煩うほどには、考えても仕方のないことです。そういうときには、話し合いを保留し、思考を保留すればよいのです。
 
つまり、そのとき、結論に至らなくても、保留することで、捨てていない分だけ、何らかの記憶として残り、別の機会には対応できる可能性が残るようにすれば、視野を失わずに済むでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 
 (マタイ6:34、新約聖書)
 
思いわずらうことなんて一生なくなる、とは書いてありません。
 
生きていることには、一日一日があり、明日があるのです。
今日のうちに、明日や先のことまで苦しまなくてよい、という教えです。
 
未知の明日が与えられるのに、一生を決めつけてはいけない、という教えでもあります。
信仰は、いつも安穏でいられる境地ではなく、未知は未知として、
人間らしい意志と思慮と情感をもって、耐え忍びながら、学習と成長を期する賜物です。
 
それが面倒臭くてしないか、できずに、短絡して無視してしまうことを生き方の万能薬としてしまうのが、アドラー心理学というよりアドラー教カルトなのです。
気に入らないことを無視して、自己中心の安穏を得て生きることは何の意味を持つでしょう。自己中心は、身勝手ですから、いつか必ず衝突します。まるで、今、せっせと、火薬を、ため込んでいるようなものなのです。
 
 
楽山は、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていました。
去年の今ごろ書いた、私のこの記事は、楽山をモデルとしています。
実に、よく当てはまるからです。
 
忘れないうちに再録しておきます。
これからも繰り返し載せることになりそうです。
 
 
(2019年08月24日)
(2020年08月24日、再録)
 
 
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  楽山のごますり
 
 『古事記 完全講義』竹田恒泰著
 2020年08月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25983646.html
 
 
著者は、旧皇族で、テレビ討論会にも出ている有名人で、保守の右寄りと言われている人です。そういう人を立てて、何を言うかといえば、大いに賛同して、自分を高めたいだけなのです。
 
近頃は、古事記とその解説書をいろいろ読んでみているのだが、本書は特に分かりやすくて面白い。通読すると、古事記の全体像がおぼろげながらでも見えてきたようで愉快だ。実際のところは、まだまだニワカではあろうが、それでも自分なりに古事記をぐっと身近に感じることが出来てきたような心持ちがして楽しい。
 
「面白い」「愉快だ」「身近に感じる」「楽しい」と絶賛してます。この記事を書くこと、本人か関連に、了承を得ているのでしょうか。楽山が了承を得て書いているとすれば、今までのことから、逆に、著者の信頼性が落ちるのですが。
 
本書の中で最も印象に残ったところは、古事記は古事記だけで読み解くべしという考え方だった。「『古事記』を読むときにわからないことがあったら、『古事記』の中からだけ答えを見つけ出してください。これ大鉄則です」(p.170)というのだ。
 
楽山は、聖書を聖書だけでも、聖書をこうあるとも、全く成り立たなかった人です。何を印象深いと言っているのか、分かりません。まあ、楽山の気まぐれなど、分かることはないでしょう。
 
もし古事記にはこうある、日本書紀にはこうある、発掘調査ではこうなっているとしたうえで総合的な見地から答えを出すとしたら、それは日本史研究ではあっても、古事記そのものを読み、理解したことにはならないということ。そう言われてみれば確かにその通りではある。
 
楽山は、どちらが真実だと思っているのでしょう。楽山の、真実を軽視する姿勢がうかがえます。それは、そのまま、右翼信仰に通じるのかもしれません。歴史的真実を明らかにするには、多角的調査は必ず必要なのです。それを、楽山は否定しています。
 
全く、楽山は、自身の好みや贔屓によって、ころころと視点を変えてゆく人だなと思いました。まことに、楽山は、右寄りの風見鶏であり、無名の偽牧師シャロームに対すると同じように、今度は、有名人に対して無条件賛同を表しています。
 
賛同すれば、ゴマを擂れば、引用元の迷惑どころか、ひょっとしたら、お声がかかるのでは?とでも思っているのでしょうか。あざとい。
 
自分は視野は広い方がよく、本を読むときはいろいろな本を横断的に読んだ方がよいと考えてきたが、一冊の書物を真に理解しようと思えば、その書物はその書物だけで読むという方法論にも一理あるし、これはこれで正論といえそうだ。
 
その時の自分の都合で、悪説にも賛同してきました。シャロームへの賛同がその例です。それで、視野が広いほうがよい、などと、よくも言えたものです。
 
楽山は、そもそも視野というものを持っていないと思います。楽山が持っているのは、欲望、我執、自己愛、霊が分かるっぽい妄想、自己中による訂正不能、など、偏向して、視野を狭くして、人間の真実を曲げる要素ばかりなのです。
 
本書は講義録ということもあってか、古事記の話だけでなく、他の話も挿入されており、それがまた実に面白い。「なるほど、そういうことだったのか」と納得できる話ばかりだ。その話のテーマと場所をメモすればこうなる。
 
楽山は、中身を・・・書きません、説明しません。楽山らしい。めんどくさいのです。分からないから。それで、「面白い」「なるほど、そういうことだったのか」と納得、ということだけなのです。
 
対馬の記述はすでに古事記にある(二 伊邪那岐神と伊邪那美神)
埋葬した妻が戻って来る話(〃)
大日本帝国憲法と古事記(五 出雲の国譲り)
神と人(六 天孫降臨と日向三代)
天皇は神だった?(〃)
君が代(〃)
大東亜戦争、南進か北進か?(初代 神武天皇)
石原莞爾(〃) 
纒向遺跡の前方後円墳(第十一代 垂仁天皇) 
邪馬台国(〃)
皇后陛下と和服(第十二代 景行天皇)
呪殺(第十五代 応神天皇)
昭和天皇とマッカーサー(第十六代 仁徳天皇)
御奈良天皇と内職(〃)
仁徳天皇とリンカーン(〃)
占い、誓約、タロット(第十九代 允恭天皇)
 
楽山が、何も理解していないことを、楽山が表しています。中身の説明~概説の代わりに、目次を書いてきました。哀れです。
 
以前からの私の思いつきに過ぎないこととして:
邪馬台国は、ヤマト国と読めないのだろうかと、ある歴史サイトに聞いたことがあります。否定はされなかったようです。
当時の中国の人、魏の人は、訓読みとか、ないから、大和をヤマトとは読めない。それでも、日本人(倭人)は、ヤマト、ヤマト、と言うてくる。しょうがないので、ヤマトに当て字、邪馬台を当てた、とか考えても不思議はないだろう。また、日本人が、自国領土に、邪馬台国、よこしまな馬の台地の国、などという名前を付けるだろうか。
邪馬台国はなかった、大和国すなわち日本のことだった、という思いが、未だ否定できません。
 
これらは自分が興味をひかれた話題だけど、本書にはこれ以外にも沢山の余談があるので興味のある方は本書を直接ご覧になることをすすめたい。
 
興味を引かれたとだけ書いて、勧めています。それ以上の責任を負う気はないということです。賛同の「なるほど、そういうことだったのか」に比べて、この素っ気なさは、何なのでしょう。
 
分からないのです。読解できないのです。学ぶことが出来ないのです。まとめることも出来ないのです。それでも、有名人の味方であると、見栄を張りたいのでしょう。醜すぎるでしょうって話です。
 
もはや、素っ裸になった楽山、批判の動機と題材だけは、惜しみなく与えてくれるようです。
 
 
(2020年08月24日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の偽り方
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25974312.html
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が、正当だと認められるなら、宗教は何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。
 
私は、反キリスト楽山の資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
霊言、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、明らかであります。丁寧語で書いて、且つ、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。
 
断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、刷り込もうとしてきたのです。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方をして、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
こう言っている、こう書いている、と書けば、また、・・と思える、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れ、責任逃れ、これが、楽山の記事になってきています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山のねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労を与える元凶なのです。
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる知恵であるかのように、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、中身がないだけに、煩わしいものになります。
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところであります。キリストの絶望の言葉が、復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、中学生~高校生の時に、私もいだきました。
 
信仰は神が分かるから生まれるのではなく、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈にも、直感・直観にも、向かないと思います。そういうものを見せたことがないからです。直感は、伝えた対象の心を解放するものだけが是とされるでしょう。楽山には無かった。
 
理屈は欲しく思って、ある程度付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、何を軽薄なことを言っているのでしょう。
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
 藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
楽山は、トンデモを退けるなら、自らの思考と情緒を退けるべきです。この楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないのトンデモです。既にバレているのです。
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
理路は、ほどほどで満足するものではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していないと思います。思いつきと思い込みが大半の酷いものでした。それで満足すること自体が、楽山の言論不向きな根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
だからトンデモを退けるなら、楽山自身を退けてください。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の姿勢って、メチャクチャです。
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、季節、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。どうして屁理屈が必要なのでしょう。屁理屈を言うつもりだからでしょうか。
 
信仰について語る、ということは、神の前の正直に背かないということだけが必要です。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。楽山には分からないところでしょう。
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。常識的で穏当なものは、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないことが多いのです。妄想でもなく、超常でもないところで、信仰は、世俗によって、裏切られているからです。楽山には、分からないところです。
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の持ち物です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に賛同するなど、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だから、とても異常なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、今も、学習途上であります。
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の慢心は、「(笑)」を楽山にもたらします。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症候群をもたらしているのです。
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊します。標準的な感性、良心を見失っているのは、楽山であります。
 
私が楽山に対して批判として書いた感性と良心のことを、楽山が、今、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば、悲劇となる狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っていないと判断しています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書かないでください。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用ないない妄想的単方向を、うす笑いで進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
(2020年08月23日)
 
 
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