ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年09月

 
  楽山の嘘と企み
 
 『説教集 旅装を整える』渡辺正男著
 2020年09月29日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26441662.html
 
 
次の記事に書く予定だった、楽山についての文章です。
繰り返しになるでしょうが、載せておきます。
 
 自分が批判されて反論も弁明も返せない者は
 別のところを批判する資格はない
 ということは良心と常識があれば分かるはずです。
 それが分からず、批判されていることを無視して
 正義の味方気取りで別を批判して平気でいる場合
 次のようなことが考えられます。
 1.常識的思考に欠陥がある。
 2.良心が欠けているために一般的な共感がない。
 3.最初からだます目的と悪意のみである。
 いずれにしても
 受け取って反省し学習し成長する気がないわけですから
 そのような者に他者を批判する資格はありません。
 
どうしても、自分は偉いんだ、自分は偉いんだ!と、もっともらしいことを書かずにはおれない楽山の醜態を見てほしいと思います。
 
本書はタイトルにある通り、著者の説教をまとめたものである。巻末には夫人の半生伝を収録しており、この点、牧師夫妻の共著とも言えると思う。
各説教のテーマとして挙げられている聖書の言葉は以下の通り。
マタイ 9.18-22
ルカ 15.1-9
使徒 21.15
詩編 121
出エ 3.1-12
マタイ 1.18-25
マタイ 2.13-15
ルカ 1.5-20
ルカ 17.11-19
ヨハネ 21.20-23
ロマ 12.15
サムエル下 15.24-29
ルツ 全章
 
聖書の項目をあげて、楽山は、何を言いたいのでしょう。まさに、皮だけを出して、どうぞ遠慮なくお召し上がりください、と言っているようなものです。
 
読んだと言いたいだけなのでしょうか。結局、何も受け取っておらず、何も分かっていないんじゃないでしょうか。
 
自分が特に印象に残ったのは、人込みの中から救いを求めてそっと手を差し出した者のことをイエスは知っていたこと(マタイ 9.18-22)、ヨハネの父ザカリアとマリアの相違点(ルカ 1.5-20)、癒されたあとで感謝を伝えに戻った者と戻らなかった者(ルカ 17.11-19)、ライバル同士の切磋琢磨は大切であるが、人は人、自分は自分という考え方も大切なこと(ヨハネ 21.20-23)などだった。
 
印象に残ったのなら、なぜ、引用して、解釈を書かないのでしょう。中身のない記事を書く楽山は、ここでも、ボール箱に店と製品の名前だけを書いて、注文してもいないものを送ってくるのです。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:15
そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、
17:16
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。 
17:17
イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。 17:18神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。
17:19
それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
 (ルカ17:15-19、新約聖書)
 
サマリア人というのは、イスラエルの人々に異邦人と見なされ、軽蔑されていた人です。キリストの教えが、低く見なされる経験を持つ人々に、虚心であるがゆえに、感謝され、受け入れられていたことを表しています。
 
楽山は、このように、自分で労をとることとをせず、相手に調べさせ、相手をを疲れさせようと企んできます。注意してください。楽山は、だます者、誘う者、吹き込む者、疲れさせる者です。楽山に従って勉強しようなどとは決して思わないでください。
 
楽山は無視する者、そして、結局、無視される者となるでしょう。
 
他の引用個所は、肉体の奇跡の話、洗礼者ヨハネの誕生の奇跡、そして、私にとっては難解な次の聖句です。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
21:20
ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。 
21:21
ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。 
21:22
イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 
21:23
こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
 (ヨハネ書21:20-23、新約聖書)
 
(ネットより)
ペテロとイエス様の傍らには、「最愛の弟子」が一緒にいました。ペテロはこの弟子が将来どうなるかについてイエス様につい尋ねてしまいます。しかし、彼が得た返答は、「私に従いなさい」、というものでした。「最愛の弟子」の将来に何が待っているのか、ペテロには謎のままでした。
https://www.bibletoolbox.net/ja/seisho/atogaki
 
復活したキリストの話です。ペテロは、一度、裏切ったことのある使徒です。ペテロが、他の弟子のことを言うのに対して、何の係わりがあるかと、キリストは言っています。ペテロは、ペテロの全うすることするべき使命があったからでしょう。
 
それを、楽山は、
「ライバル同士の切磋琢磨は大切であるが、人は人、自分は自分という考え方も大切なこと」
という、まるで、スポーツかパフォーマンスのように、我欲の延長で語っています。キリストは、そのようなことを教えるために来られたのではありません。
 
キリストの教えには、救いという重大な使命があることを、楽山は知りもしないのに、まともな評論家気取りで、人生の競争の野心的な話にすり替えています。恐らく故意であり、揶揄や嫌がらせの類だと思います。どこまで腐ってゆくのでしょう。
 
毎度のことではあるが、こういう書籍を読む度に、いつもいつも、聖書はほんの短い一文、一句にも深い意味があることを思い知らされるし、それを読み取ることのできる人を尊敬せずにはいられない心持ちがする。こういう説教を毎週できる牧師もすごいが、それを聞ける人々も幸福だろうし、うらやましい限りだ。
 
「(聖書の)一句にも深い意味がある」「読み取ることのできる人を尊敬せずにはいられない心持ちがする」「説教を毎週できる牧師もすごいが、それを聞ける人々も幸福だろうし、うらやましい限りだ」・・全部、楽山の嘘です。今までも、けなして、ほめて、結局、深い意味も洞察も共感も書いたことがない楽山です。
 
深いと書けば、読者は深いと受け取って、楽山のことを、深く分かっていて偉いんだ、と分かってくれる?と夢想する楽山の児戯に過ぎません。楽山は、やけくそなのでしょうか。どんどん理路が、メチャクチャになってゆくようです。
 
楽山に聖書の深い意味が分かっていたなら、このような、自己愛、自己中、無反省、無責任には、決してなっていないはずなのです。
 
また本書はその内容はもちろん、優しく柔らかな雰囲気の装丁、挿画も素晴らしい。奥付に非売品とあることからすると、自費出版なのであろうか? この辺りの事情についてはよく分からないが、本書の装丁は、一般書店におかれていても違和感がないほど奇麗だと思う。
 
なんと、書くことがないのでしょうか、本の装丁を褒めています。
 
前に書いたことを、強調しておきます。
 
楽山のボンヤリ言語という丁寧語にだまされてはいけません。楽山は、発言の責任を負うたことがありません。あらゆる真実の追求において、楽山は、疲労の病原にしかならない人であり、議論不可であり、決して相手にしてはいけない病質者です。
 
そして、時が経っても進歩がなく、同じことを言ってきます。それに加えて、さらには、全然、逆のことを言って、つまり、否定も肯定もせず、ゆえに、断定していないからと、問われても責任を取らない男です。楽山は、口舌の害虫、言論の敵です。
 
正直な意見を出し合って、お互いに学習し成長してゆく言論の道を、楽山は、自らの詭弁によって、否定も肯定も出来ない迷路に誘導することで、自尊の快楽を求め続けているのです。
 
楽山には、口先だけの、吐物の汚い蓄積だけが、記事というゴミとして残っています。言ったことの責任を負わない楽山に対しては、言論の自由を認めるべきではありません。
 
 
暗がりからささやく者
暗がりから囁く者
 
 
(2020年09月30日、同日一部修正)
 
 
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  信仰とは人間とは(改、再)
 
 
信仰とは、
超常の奇跡を信じることを本質とはしない。
物や肉体に起こる奇跡を信じたとしても
それで信仰が深くなり
ますます奇跡が起こるということはない。
何故なら物や肉体に起こる奇跡は
神の御心と計画によるのであり
人間が関わってよいことではない。
 
物や肉体に起こる奇跡は、
人間の理解を超えており、
つまり神に任されることであり、
人間には手に負えないし、
人間が奇跡が起こると信じ込んではいけない。
神の業(わざ)を、人が決めつけることはできない。
 
神と神の奇跡がついているなどと思いこんではいけない。
いつどこで神が力をどう示すか、それは神が決めることだ。
 
信仰は、人間のためにあり、
人間だけが信仰を持ち得ます。
つまり信仰とは、
人間が最も求め最も必要とすることに答えるための
神様からの恵みであります。
 
つまり信仰と人間は切り離すことはできない。
信仰と人間は片時も離れてはならず、
信仰は決して人間離れしてはいけない。
信仰と人間性、
信仰と人間の人間らしい性質、
信仰と人間の良心は離れてはいけない。
 
神はご自身に似せて
自由意志を人に与えました。
神はご自身との決定的な区別として
人から自由意志のもたらす罪を犯す性質を除きませんでした。
しかし神は人に
罪の性質に支配されることのないように
良心を併せて与え
その良心は人が神のほうを向く心となり
それを信仰と呼ぶのであります。
 
信仰は心のあり方であり
贖罪とか契約とかいった人間の乾いた言葉で
表されるためにあるのではありません。
信仰は人間の言葉に尽くせない賜物です。
 
現実を見ると
信仰を謎解きのように考えて
事実と理屈ばかりを追う人もいるようです。
心のない信仰は信仰ではありません。
それはゲームかカルトのものです。
 
また救われることばかり
都合の良い恵みばかりを言っては讃美して
悦に入る熱心さもあるようですが、
節操のない信仰は信仰ではありません。
それは感傷かカルトのものです。
 
信仰には
明らかに守るべき節操があります。
神への恐れであり
言い換えると
神を決めつけないことです。
 
信仰には
受け取るべき器があります。
それは心のうちの先入観に左右されないところであって
信仰生活の経験と感受と思索によって
成長してゆく信仰を入れる成長可能な器であります。
 
器は神が与えるものですが
器、器、土の器と
習慣的に言うだけになって
人として地上の努めを怠っていると
硬くて割れやすい器になってしまいます。
 
信仰を受け取る人の心は
神の御心と違って
不完全で不安定なものです。
これが人の罪性であり
だから人は罪を犯します。
 
その罪は悔い改めによって
新しくしていただくしかありません。
悔い改めは正直でなければいけません。
神と人は双方向ですから
正直さを欠いたら、
不正直に対応した報いを
人が呼んでいることになります。
つまり背きとは
人のほうから神への正直さを忘れることです。
 
祈りにおいてだけは努めて正直であってください。
でないと、神と人の双方向が成り立たないからです。
 
嘘だと、飾りだと、分かったときには
その都度、改めて祈れば
神の寛容さとキリストの愛によって
改めて信仰の義を与えられるでしょう。
 
このように信仰は
かたくなではなく可逆的であります。
たとえ誤って罪を犯しても
正直であるなら
立ち返る道は祈りを通じて
いつも用意されているのです。
 
神のほうから救いの約束を反故にされることはありません。
それが絶えることのない希望としての信仰です。
 
 
母
母 2002年ごろ。
母は97歳、キリスト者ではありません。
認知症で、車椅子で、現在、老健施設にいます。
 
 
(2019年09月26日、同日一部修正)
(2020年09月29日、一部修正して再録)
 
 
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  楽山の不適格
 
 霊言の判断方法(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26412442.html
 
 
楽山は、まるで使命のように、カルト批判を続けているつもりです。しかし、その楽山が、霊能者気取り、学者気取り、評論家気取りで、無反省で、無責任な発言を、ずっと積み重ねていることを忘れてはいけません。最も批判されるべきは、楽山です。ゆえに、楽山は、いかなる批判も、する資格はありません。
 
*内容
 霊言は、その内容で判断されるという考え方があるが、シルバー・バーチもそのように説いている。
全ては摂理によって規制されているのです。入れ替わり立ち替わりしゃべりたがる低級霊の場合は別として、名の知れた支配霊が道徳的に首をかしげたくなるようなことを言った例は決してないはずです。非難したり中傷したり陰口を言ったり、つまり低俗な人間のするようなことを支配霊がしたためしはないはずです。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.140)
 」
これをそのまま読むならば、悪口、中傷など、低俗で、不道徳な霊言は、低級霊によるものであって、まともな霊によるものではないということだろう。またこの文章のニュアンスからすると、低級霊というものは「入れ替わり立ち替わりしゃべりたがる」ものであるらしい。
これをまとめると、やたらと多弁で、落ち着きがなく、不道徳で、悪口や中傷が多い霊言は低級霊によるものであって、軽口は慎み、冷静で、道徳的で、悪口は言わず、中傷はしないのが高級霊によるものだということであろうか。
 
「やたらと多弁で、落ち着きがなく、不道徳で、悪口や中傷が多い」のは、楽山であります。
 
楽山日記ブログタイトルのLDは、ライブドア Live Door のことだと思いますが、楽山は、自己愛性人格障害によって学習障害 Learning Disability LDを伴っており、学習することが出来ないために、いかなる意見も受け取ることなく、自己中心の軸だけから、あれこれ言うのが生業になっている人です。楽山の言論の範囲に、一定の制限をしないと、他者の疲労の病原にしかならない人です。
 
楽山の婉曲的な発言は、根拠のない発言となり、悪口、中傷、当てつけ、言いがかり、そして、何よりも、無責任からの疲労を与えるものです。人の気持ちが分からない、共感という深い感情がない、心で受け取ることが出来ない、それが、楽山の特徴です。
 
楽山のボンヤリ言語という丁寧語にだまされてはいけません。楽山は、発言の責任を負うたことがありません。あらゆる真実の追求において、楽山は、議論不可で、決して相手にしてはいけない病質者です。
 
そして、時が経っても進歩がなく、同じことを言ってきます。それに加えて、さらには、全然、逆のことを言って、つまり、否定も肯定もせず、ゆえに、問われても責任を取らない男です。楽山は、口舌の害虫、言論の敵です。
 
*結果
シルバー・バーチによれば、霊言の良し悪しは、その影響、結果によっても判断できるとのことである。
実によりて木を知るべし──これは実に良い判断方法です。もし利己主義や欲得を煽るような、あるいは世間への義務をおろそかにさせたり、汚ない考えや隣人への思いやりに欠ける言葉を吐くようなことがあったら──もしも慈悲の心を忘れさせ自己本位の生き方を勧めるようなことがあったら、それが立派な罪悪性の証拠と言えます。
(同上、p.136)
 」
「実によりて木を知るべし」というのは、よく知られている考え方であるが、佐倉哲氏が批判を書いている。
「つまり、良い結果(善なる行動や幸福)を生むからといって、そういう結果を生んだ思想や信念が真理であるとは限りません。「ウソを言う人は閻魔様に舌を抜かれる」という非真理(ウソ)がひとを正直者にしたり、「あなたはガンではない」という非真理(ウソ)が病人を幸福にしたりします。つまり、良い結果(善なる行動や幸福)は、必ずしも、その人の信念や思想が真理であることを保証しません。
 」
 
楽山という反信仰と反真実は、そこで、固定されて訂正不能の自我意識、自己愛の自己中であるために、人を思いやって正直や幸福にすることは一切ありません。結局、言い知れぬ疲労を与えてくるだけです。それが、楽山は大好きなのでしょう。生きる理由ででもあるかのように、何を言われても、悪魔のように、平然と他者を無視して執拗に書いてくるのです。
 
この意味でも、「その木が良い木かどうかは、実を見ると分かる」というイエスの教えは間違っています。行動と思想は関係していますが、行動を見てその人の思想のが真理であるかどうかは判別できません。」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n016.html
 」
 
いかなる宗教や学問によっても、真理を完璧に理解することは不可能だと思います。人には、限られた時空しかないからです。人は、ただ、把握できそうな限られた範囲の因果を思うだけなのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:15
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 
7:16
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 
7:17-19
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 
7:20
このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
 (マタイ7:15-20、新約聖書)
 
単に行動からということではなく、結果を見れば正体が分かると言うことでしょう。例えば、楽山の、主張に芯のない発言は、嘘と詭弁と無反省と無責任という正体を、結果として表してきました。
 
なお、キリストの言葉を、また、聖書の言葉を、一義的に解釈して、その意味だけで全体に当てはめるのは、楽山は気づかないようですが、とても危険です。神の言葉だからといって、解釈しているのは、人間だからです。
 
つまり、楽山に対して必要なのは、他者を批判することではなく、もし楽山が自らを批判できないのであれば、一刻も早く、火に投げ込んであげることでしょう。決して反省だけはしない男、というのが、ここに、楽山という名で、存在しているのです。
 
この意見は、筋が通っているように思う。ただ思想と行動は無関係ではないとしたならば、特定の思想を信奉する者たちの言動について、一定の傾向性が見受けられるということは皆無ではなかろうし、そうであるならば「実によりて木を知るべし」という考え方は、常に正しいとは言えぬまでも、まったく考慮する必要なしとまでは言い切れぬようでもある。
 
「皆無ではなかろう」「考慮する必要なしとまでは言い切れぬ」・・楽山お得意の部分肯定のボンヤリ言語です。このような言い方を何度も読まされるのは、腐ってゆくようで、とても気持ち悪いです。楽山には、過去には、「かなあ」「ていうか」などという、ふざけた言い方が付いてくることもありました。
 
つまり、ここは、楽山の、何とか責任を逃れようとするときの、言い回しです。楽山は、キリストの言葉を、人が一義的に解釈することの危険を、ボンヤリ言語の言い回しでないと、言えなくなっているようです。だから、臭いと感じるほど、恐ろしく、回りくどくなって、論旨が散乱しています。責任を取れない者の苦し紛れの筆致です。
 
楽山が得意になって難しい言い回しで書いているのは、言われなくても分かるようなことです。楽山は、そういう当たり前のことを、理論家気取りや、様々な気取りで、難しいことも分かるんですアピールとして書いてきます。しばしば、私が読んで、不快で、吐き気を催してきた筆致であります。
 
楽山は、このような言い方で、自分が否定されないように、ということだけを企んできたのです。その結果、かえって、楽山は実に無責任な奴だ、という経過が続いています。
 
ちと緩い考え方かもしれないが、霊言の価値を判断する際に、その影響を受けた者がどうなって行くか、はたまた、どのような者がそれに興味を持ち、信じるかというようなことを観察するのは、一定の目安、参考にはなり得るように思える。
 
その観察を向けられている対象は、まさに楽山であります。自我の弱い人々が、楽山のボンヤリ言語に頷き、トホホ言語に親しみを持ってしまいます。その結果を見て、また、その文章の、いい加減さを整理することで、楽山は、人の心を破壊する悪魔のような詐欺師だと分かるのです。
 
*とある宗教団体の霊言
それにしても、シルバー・バーチの霊訓を読んでいると、どうしても幸福の科学(HS)のことを思い浮かべてしまう。大川隆法は霊言の回数を誇るけれども、これは「入れ替わり立ち替わりしゃべりたがる低級霊」に当てはまりそうであるし、その内容の低俗さについても、いろいろ議論があるし、それを信じる信者たちの人品についても同じく議論があるし…。
ちなみに、大川隆法の霊言なるものがネット上に出回っているが、その一部がこちら。↓
霊言 ブルース・リー
霊言 小保方晴子守護霊
霊言 宏洋守護霊 SMAPが解散した理由
霊言 宏洋守護霊、映画館に賽銭箱
 」(画像および詳細は省略)
上から、ブルース・リーの霊言、小保方晴子守護霊の霊言、大川宏洋守護霊の霊言×2であるが、これらは氏の行った霊言なるもののうち、もっとも低俗な箇所なのだろうけれども、こういうものを内輪の冗談とするならまだしも、本にして一般に売り出すというのは、どういう考えによるのか謎ではある。
 
子供の頃から仏様の気持ちが分かるんだ、と言っていたのが、楽山その人であります。楽山こそ、冗談ではなく、ブログに書いては、自らの霊性を見せびらかしてきました。
 
そして、「心の理論」という、とてもシンプルな発達心理学の話を、曲解し改造して、心霊の話に、でっち上げる、という、真っ赤な嘘を吐いていたのです。
 
そういう、みすぼらしく白々しい楽山に、いったい誰を批判する資格があるというのでしょう。だますための仮面が、他者の仮面を批判している体(てい)なのです。
 
特に、宏洋守護霊の言葉と称して、自分が出てきたからSMAPはもういらなくなって解散しただとか、自作を公開する映画館の前には賽銭箱を置いて全財産を寄付させるとか、無茶苦茶なことを言っているのは理解不能である。大川隆法は一体何がしたいのだろう? またこれを本物だと信じ、讃美する信者は何を考えているのだろう?
 
自己中であり、無反省で訂正不能で、無責任な発言を続けている楽山が、カルトのことを批判しても、楽山自身が、罪悪感を持たない悪意の嘘吐きであるならば、いくら文章を書き続けても、罪悪の履歴が蓄積されるだけであります。
 
正直な意見を出し合って、お互いに学習し成長してゆく言論の道を、楽山は、自らの詭弁によって、否定も肯定も出来ない迷路に誘導することで、自尊の快楽を求め続けているのです。
 
言ったことの責任を負わない楽山には、言論ではなく、吐物の汚い蓄積だけが、記事というゴミとして残っています。
 
いかなる善悪にも正邪にも真偽にも、楽山自身は、振り分けられる身なのであって、それらについて楽山自身が口を出す資格はありません。いつまでも、口先だけの、論客気取りの詐欺師に、だまされていてはいけません。
 
いったい、楽山を本物の批評家だと信じ、賛成する人は、何を考えていたんだろうと言われるでしょう。早く目覚めてほしいところです。カルト批判がいけないのではなく、楽山には、カルト批判をする資格がないと言いたいのです。楽山に、決して関わらないでください。
 
 
  石打ち
 
都会のオフィスには石ころが無い
代わりに人が石ころのように
ビルに壁に命中したり外(はず)れたり
 
ビルは紙切れ一枚であったりもするのだが
跳ね返されたりしている
 
石ころの人として当たって
砕けて死ぬまで続くこともある
 
石ころが石打ちの刑を受けている
 
 
  逃げる月
 
息子は暖炉に引き籠もり
炭から石灰へと化してゆく
 
娘は街で乳首と皮を売り尽くし
路地裏の溝に住むことになる
 
母親は血走った眼で台所へ行き
コトコトと指を刻み始める
 
父親は揺り椅子に腰掛け
新聞を眺めながら煙草の火を吸い込む
 
逃げる月日に追い立てられて
逃げたいのか休みたいのか遊びたいのか
 
しかし何事もなく夕食が終わり
父親はベッドに横になり眠ろうとするが
玄関のドアをノックする音がする
 
起きて行ってドアを開けても誰もいない
明るすぎる暗すぎる冷え冷えとして
 
手をこすりながら一歩外へ出れば
劫火のように天に向かって
燃え上がる家を背にして突っ立っている
 
 
人間は、受け取って返すことの繰り返しです。
返すことを忘れたら、奴隷になります。
受け取ることを忘れたら、凶器になるでしょう。
 
楽山は、凶器です。
 
 
不明の領域に巣食う者
不明の領域に巣食う者
 
 
(2020年09月28日)
 
 
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  神義論?(改)
 
   『サピエンス全史(下)』の感想 つづき
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12528138068.html
   楽山日記 (a) 2019-09-21 19:23:49
   テーマ:ななめ読み
 
 
楽山の数々の詭弁と嘘と悪意は、既に、かなりの数、資料となっています。楽山の去年の記事の、キリスト教批判が、まるで批判になっておらず、議論の対象ともならないような低次元の的外れであることを、再録+加筆しておきます。
 
神義論とは、神の正しさについての議論というようなことでしょう。
神を信じていない楽山などには書いてほしくないし、全くの見当違いで、神を否定してくる楽山の幼稚な理屈に付き合う人がいないことを祈るばかりです。
 
『サピエンス全史(下)』をぱらぱら見直してたら、第12章の「善と悪の戦い」で神義論的な話題が出てた。善であり全知全能である神は、なぜこの世の悪や苦しみを無くさないのだろうというやつ。著者はこれに対してよくある回答例として「神はそうすることで人間に自由意志を持たせているのだ」というものを挙げつつ、それならば全知である神は、誰が悪を選び、地獄で永遠に罰せられることになるかを知っているだろうに、なぜわざわざそのような人を創造したのかという疑問をぶつけてる。多分この疑問にはそれなりの回答はあるのだろうけれども、この手のことが議論になるということは、少なくとも著書の言う通り「一神教信者が「悪の問題」を処理するのに苦労していることは否定できない」という点だけはまちがいなさそうではある。
 
悪の苦しみをなぜ神はなくさないのか、また、全知である神が、何故、悪を創造したのか、という疑問は、信仰の初期に、多くの人がいだく疑問ですが、信仰があるならば、完全なる神の秘密として、不完全な人が考えても分からないこととして、この地上では答えを出そうとせず、保留するのが信仰者の態度です。
 
何故なら、信仰者は、疑問をいだく以上に、神を必要とし、キリストを必要としているからこそ、信仰者であり、生きてゆく上で、神の、キリストの、癒しと救いと導きがないと、生きてゆけない経験を持っているからであります。
 
神の導きに与(あずか)ることを拒否し続ける妬みの権化となった楽山のような者だけが、信じたこともないくせに、あたかも、真理を見つけた、信仰はこうだ、神がいるのはおかしい、などと言うためだけに、克服も保留もできなかった課題に、心で信仰を必要と認めることが出来ない自分の正当化のためだけに、要らぬ差し出口を挿んでくるのでしょう。
 
全知である神は、誰が悪を選び、地獄で永遠に罰せられることになるかを知っているだろうに、なぜわざわざそのような人を創造したのかという疑問
 
こういう言いがかりというのは、神の摂理や意志を、人は理解できる、という前提で書かれています。そして、理解できたら信じてやる、という、高慢な者が、身の程知らずに言っていることです。
 
神の摂理と意志を人に理解できるわけはないので、分からないから神は作りごとだと言いたいわけです。既に、ここに、高慢からの詭弁が表れており、最初から、信じる気など全くないから、安心して憎まれ口を書けるということです。
 
神の辻褄が分からないことを、否定の根拠にしたいようですが、信仰は、神の辻褄が分かるから信じるものではないのです。全能者を理解できるのは、全能者すなわち神のみであり、人に理解できないのは当然であります。
 
理屈や辻褄は、それだけでは、人を生かすことなど出来ません。信仰に至るのは、趣味的な辻褄合わせの遊びなどではありません。
 
救い主の同伴、孤独からの解放、癒し、といったところに、高慢のために、まるで、感受性のない楽山に、信仰を理解することなど出来ないと知るべきなのです。
 
楽山が、幼稚としか言いようのないようないちゃもんを、大外れのピントで、言い得たかのような態度で書いて、それで、自分だけ、まともだと思っていられることが、良識を疑われることであり、否定されるべきは、まず、楽山の言であります。
 
救いと癒しと生き方に関わる信仰について、辻褄合わせだけにこだわり、理路を組み立てる次元が狂っていて、共感性など考えたこともないような、楽山こそ、違う畑を荒らす盗人であり、もはや、人間としての存在意義を疑われてもおかしくないのです。
 
キリストを、その同伴を、その癒しを、楽山は、聖書から分かっていないのだから、これからも、楽山が書けば、何も理解する気のない証拠となるような、議論の対象にもならない、幼稚、低次元、悪意、といったような、いちゃもんだけを並べることになるでしょう。うんざりします。
 
「一神教信者が「悪の問題」を処理するのに苦労していることは否定できない」
 
何を決めつけているのでしょう。その疑問は、既に、卒業しているのです。むしろ、例えば、楽山の惑わし言葉のような、悪の問題があるからこそ、悪に対して、取り込まれることなく生きてゆけるように、信仰者は、心に深く信仰を考えることが必要なのです。
 
ここで、悪の問題は、楽山問題、即ち、どうして、楽山のような理解の足りない悪者が、しかも、身の程を弁えない乱暴者が、生まれてくるのか、そして、無反省に、無責任に、悪意を持って、余計なことばかり言うのか、という問題です。
 
ちなみに自分がこの話に興味を持ったきっかけは、スティーヴン・キングの「デスぺレーション」を読んだことだった。これはキング作品なので当然のごとくホラーものなのだけど、大雑把なあらすじは、主人公の少年は、友人が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、宗教に興味を持ち、牧師のもとに通いはじめ、やがては多大な犠牲を払いながらも、永い眠りから目覚めて悪をなしはじめた邪悪な悪霊らを地下に封印し、世界を救うという使命を果たすというものだけども、この少年は作中で、神は僕に僕の役割を果たさせるために、友人をあんな目に遭わせた、神は友人を救うことができたのに、そうしなかった、友人があんな目に遭うのをゆるしたんだ、僕はそんな神をどうしてもゆるせないと悩んでいたのだった。
 
そうして、楽山のような、心で読み取ることのできない者は、興味本位だけで、本を読み漁りますが、心と人間性において読んでおらず、ホラーやヒーローものの超常話の心のない筋書きをつないでは、いい気になり、神聖についての知識であるかのように、ひけらかすのです。楽山の、子供だましに引っかからにようにしてください。
 
神は神聖でありますから、人が、人の劣った知恵で読み解くことなど出来ないのです。むしろ、神にとって、どういう者が、救いの導きから自ら漏れてゆくかということを、表す例示のために、楽山のような者が存在するのかもしれません。
 
それが、今言える真相の経過であり、私たちは、神を知識として知るのではなく、神を仰ぐ人は、神に逆らう者を区別するためにこそ、人間の知性と感性と信仰が与えられているとしか言えません。まことに、そのことに沿って、楽山は、反キリストらしく、勝手に、いちゃもんを言いまくるという成り行きになっているのです。
 
自分は不覚ながら、これを読んで初めて、もし神が全能であるなら、神はこの世の不幸の全てを止めることができるなずなのに、それをしない、これはつまり不幸の存在をゆるしているということになるのじゃないかと気付いたのだった。
 
楽山の気づきの、いかに、お粗末で、他罰的であることか。楽山という悪で偽善の存在が、今も野放しになっていることの方が、より大きな疑問と言うべきでしょう。しかし、それも、また、神のみぞ知ることなのです。
 
信仰が興味に過ぎない段階で、欲望まみれの知性をもって、そういう疑問に気づく者は、稀ではないのです。私もそうでした。まだ、人生の苦難を知らず、小理屈だけで、真理を語ろうとする未熟な青少年だったのです。
 
しかし、そのことに、大人になっても、中高年になっても、成熟しない者だけが、こだわり続けているという悲惨を、楽山は表しているに過ぎません。
 
心で感じることのできない者は、そうなってしまうのです。そして、楽山のような者は、信仰者を嘲笑いながら、結果としては、信仰者の信仰を、むしろ逆に、鍛える結果になり、良心を持たない者が、いかなることを企むのかということを例示するための資料となってゆくのです。
 
不幸の存在があるからこそ、信仰が必要なのですが、楽山は、不幸がなくなったら信じてやるというスタンスのようです。そのスタンスでは、どこまで行っても、信仰にたどり着くことはありません。代わりに、楽山のような者は、いつまでも、お高くとまって、自己満の台詞を吹き続けるのでしょう。人間の、もっとも、おぞましい失敗の姿です。
 
楽山は、キリスト教について批判しているのではありません。自らの無理解をごまかすために、何の解決にもならない文句をつけているだけです。
 
もう一つこれと似たことは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」にもある。有名な大審問官の前段で、イワン・カラマーゾフは大体次のような主張をしている。歴史上、罪もなくいたいけな子供たちが不当な仕打ちを受け、虐待され、殺される事件は幾度も起きている、なぜ神はそんな子供たちを救わないのか、なぜ子供たちが苦しめられるがままにしておくのか、もし仮に偉大なる神の計画なるものがあって、その計画の成就のために子供たちの犠牲が必要であり、一切が済んだ後は犠牲になった子供たちも復活してみんなが幸福になるというすじがきがあったとしても、子供を犠牲にするようなそんな計画は認められない、神は存在しないというのでなく、そのようなことをする神は認めない、認めたくない云々と。
 
もろにキリスト信仰者を攻撃しているようです。本当に嫌な奴って、いるものです。誰も楽山など当てにしていないのに、独りで鼻毛を伸ばして、文句だけ言って、分かるなら答えてみろと、自己満悦の境地から、なおも、心ない反信仰者としての役割を果たしているのです。
 
神の秘密、すなわち、神秘について、人は、決して答えを見つけることはできません。もし見つけることが出来るなら、その者は神秘を知る者となり、神の秘密ではなくなるからです。
 
楽山のような者が、いかに、神を、自らの浅薄な知恵をもって、批判しても無駄なのです。必要だから信じるのです。必要ない者は黙っていなさい、ということです。まことに、楽山は、執拗で、小蝿か蚊のように、なんて煩わしいことでしょう。
 
楽山は、世界の悲劇に対して、自分の悲劇に対して、自ら、何も努力する気がなく、ゆえに、何も解決できていないのを、ひたすら、神のせいにして、文句だけを言うことで、結果として、ますます、悲劇を伝染させようとしているだけです。
 
これも言われてみれば確かにその通りではある。善であり、何でもできる全能の神であるなら、誰をも犠牲にしない計画を立てて、それを成就することもできるだろうに、なぜに子供が犠牲になるのをゆるすのか分からん。そんな計画をする神のいる天国に入るより、そんな神にノーと言い、天国への招待券は謹んでお返しすることこそが正しいことであり、これこそが真なる神の求めていることではないかとさえ思えてくる、もし真なる神が存在するとしたならば。
 
神の全能性を、ひたすら、自らの欲望に引きつけても、神は沈黙されるだろうに、狭い視野から、文句ばかり言って、総てを、神にせいにしている楽山です。こういう人が、自己中のために、あらゆる平和活動の妨害となって悪態専門のクレーマーとなるのでしょう。
 
このように執拗に、楽山は、自分の知恵で理解できなければ、神は、おかしい、いない、と文句を言ってきます。人間の知恵で理解できて、辻褄が合うなら、それは神ではありません。
 
本当の知恵は、深い洞察や共感をもたらしますが、楽山の知恵は、せいぜいクイズの、あまり優秀でない回答者のように、誤答で恥をかいては、問題が悪いと言うような出来なのです。
 
すなわち、楽山は、今まで、一度も神について語ったことはない、ということです。邪魔するだけの存在だから、ますます、宗教にも信仰にも縁がなく、ただ自尊の自惚れだけを後生大事に、神?として崇めている自分信仰者なのです。心無い楽山が、真の神の存在に気づくことは、恐らく、ないのではないかと危惧されます。
 
ちなみにマクグラスの『キリスト教神学入門』ではイワンの無神論を「抗議する無神論」としてるし、同書によれば孫引き的になるけどユルゲン・モルトマンは「唯一の真剣な無神論」としていたそうだ。宗教信者のなかにはイワンの主張を理解せず、単なる無神論であり典型的な悪魔の論理であり間違いであると断定してバッサリ切り捨ててまったく心を動かされず関心も持たない人もあるようだけども、自分としてはそれよりかは「抗議する無神論」「唯一の真剣な無神論」と受け止める方がよほどまともなのではないかと感ずる。
 
インテリ気取りで、学者の名前をいっぱい出して、箔をつけたい楽山です。その理路も、感性も、言ってる内容も、小学生のレベルを超えていません。だから、いっそう、有名人の名前をたくさん出して、自慢のネタにするしかないのでしょう。楽山の陰険ワールドに引き込まれないように注意してください。
 
無神論は、一定の役割を果たします。何故なら、多くの信仰者は、神がいるなら云々、本当に神はいるのか、という疑問にぶつかるからです。そのとき、物を言うのは、神、私の場合はキリストですが、キリストを離れて、生きてゆくことが出来るかどうかなのです。
 
その問題を、投げかけてくるのが、無神論かもしれませんが、既に、絶対孤独からの解放という信仰の恩恵を受けている、ゆえに、キリストを離れることはできないということがあります。ましてや、説得力も文章力も、自己愛のために損なっている楽山の言など、何の意味もありません。
 
その疑問を超克し、限りない愛を示すために、御自ら、全く無力で孤独な殺され方をもって、命を捧げたゆえに、イエスは、私に共感と解放を与え、私のような怠け者にとっても、救い主であります。
 
楽山のような知恵の浅い者は、いつまでも、浅薄な自意識で、魔法使いのヒーローのような救世主を、きっとこうだ、きっとこんな神だ、そうでなければ信じない、答えよ、神、とでも、わめきながら、地団駄を踏み続けることになるのでしょう。
 
楽山が、神についての記事など書くのは、全くの身の程知らずで、人心を惑わす偽善でしかないので、早く、やめてほしいです。
 
楽山は、その引用する無神論ほどにも、何の役割も持っていません。ただ煩わしいだけの人です。楽山が、どんなに本を読み漁っても、楽山の幼稚な興味を卒業しない限り、神の恵みも導きも、楽山に訪れることはないのです。心が別の余計な自尊の執着で満たされているからです。
 
つまり、楽山の言は、ルサンチマン、ある意味、みじめな負け犬の遠吠えであり、誰も聞いてくれないものだから、それをも、神のせいにして、気取ってい見せますが、傍迷惑な、八つ当たりも甚だしいのであります。
 
…と、まあ、あれこれと書いては見たけれども、やはり一神教的な見地から、悪の存在を考えてみると、いろいろと難渋するということは言えそうではある。ついでに書くと、一神教では、悪の存在だけでなく、悪の発生についても説明するのに苦労しそうだ。善なる神が、善なるものとして創造した世界において悪が生れたというのは、どうも理屈に合わないし、矛盾してるだろうから。
 
まだ、言ってる・・。理屈って、人間の理屈だし、神のあり方など、知る者はいないのだから、知るのが当然であるかのように慢心している楽山は、なおも、信仰周辺を、蝿か蚊のように飛び回るのでしょう。信仰とは、神とは、と言いながら、信仰の世界を知ることもなく、的を外し続けるのです。
 
ここにおいて、悪の存在とは、楽山のような者が、どうして、今まで放置されてきたのか、という問題です。矛盾とは、楽山のような者が、どうして今も、気づきがないのに、図々しく、信仰について語るのかという問題です。理屈に合わないのは、楽山のような者の言うことが、どうして万人から批判されないでいるのかということです。
 
書き捨てや言いたい放題を可能にするネットのあり方、思想と言論のあり方、罪悪感のない異常者の問題、などが、精神医学、法制度、政治などと、複雑に絡んでくることになります。
 
もっともぶっちゃけていえばこの手の議論は、著者が第20章で書いているように、「過去四〇億年近くにわたって、地球上の生物は一つ残らず、自然選択の影響下で進化してきた。知的な創造者によって設計されたものは一つとしてなかった」と言い切って、神も善も悪もそんなものはすべて人が後から考えたものであって、人に先立って存在したわけではないとしてしまえばそれで終了してしまうのだけども、
 
40億年を見た者はいません。根拠のないところから、楽山は、自分の好みと怨念によって、まるで結論が出ているかのように、決めつけています。これが、楽山の根性であり、詭弁の誘導であり、狙いなのです。
 
楽山の系譜は、どうやって、自然選択の影響下で、神にも触れてもらえず、今のような情ない人格に進化してしまったのでしょう。そこには、何の救いもないのですが。
 
生まれつき優柔不断で根が信心深く、かつ迷信深くもできている自分はそこまで単純には割り切れないのだから仕方がない。そういう自分はそういう自分の性質を承知した上で科学的客観的とされる現実解釈と折り合いをつけつつ、両者のズレをうまいこと調整しながら生きて行くよりほかはないんだろうな…。
 
またまた、楽山特有の、反省や謙譲に見せかけた嘘で結ぶようです。
「生まれつき優柔不断で根が信心深く、かつ迷信深くもできている自分」
「そこまで単純には割り切れない」
今まで、とんでもなく失礼で、全く次元の違う方向に、大きなテーマについて語っておきながら、ここで、反省言葉など、通用するわけがないこと、楽山は分からないのです。文脈も状況も、まるで弁えず、まるで分からず、まるで無視して、わざとらしい謙虚芝居をしている楽山です。
 
「自分の性質を承知した上で科学的客観的とされる現実解釈と折り合いをつけつつ、両者のズレをうまいこと調整しながら生きて行く」・・楽山にだけは出来ないことだと思います。無反省、無責任、悪意、詭弁、自己中、訂正不能、というような経過しか見せていない者には、何の折り合いも調整も成り立たないと思います。
 
一生、割り切れないまま、知ったかぶりを続けるのでしょう。楽山の言こそが、既に、いかなる説諭をもってしても、割り切れないのです。自分を見ようとしない者が、自己愛や自己中や自認や自慢だけはしてくる、という矛盾が、楽山の大きな病巣です。
 
楽山は、優柔不断ではなく、いい加減なのです。信心深いのではなく、妄想深いのです。迷信深いのではなく、迷信作りなのです。割り切れないのではなく、ゼロで割ろうとしているのです。
 
謙譲も反省も見せかけであること、優柔不断はボンヤリ言語の言い訳であること、迷信深さは既に妄想の域に達していること、ゆえにシャロームと仲良くできること、などが、明らかになってきたのに、楽山は、自分は単純ではなく思索を専らとする者だと自慢したくて書いてきます。
 
人間の分際で、小蝿の力量で、嘘吐きの経歴で、的外れの執拗な継続で、蚊の羽音で、蝿の五月蠅さで、幼稚な理屈で、小学生のままの説得力の欠如で、卒業できない自分を正当化するためだけに、心をどこかに置き忘れたまま、本当の謙譲も敬虔も知らないまま、信仰にも真実にも有害でしかない言説で、粘液のように不快な執拗さで、屁理屈ををを繰り返して、解答にも納得にも共感にもつなげられない楽山を、間違っても誰も信頼することのないように、心から願っています。
 
 
丁寧な暴言
丁寧な暴言
 
 
(2019年09月25日、同日一部修正)
(2020年09月27日、一部修正して再録)
 
 
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  信仰者の立場から(改、再録)
 
 
私は、もう長いこと、教会には行っていない。
教会を否定しているわけではないが、向かないと思ったことはある。
「誤解」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12445725961.html
 
 
今まで書いてきたことを、キリスト信仰の立場から考えてみようと思ったが、
思い出話になったかもしれない。
 
教会で説教を聞いて、心がふるえるほど感動することは、恐らくないだろう。
魂の救いを求めているけれど、それこそ、短兵急に得られると思うのは間違いだろう。
 
私が洗礼を受けるに至った経緯は、牧師の説教に感動したからではない。
聖書に興味を持ち、説教にも、興味くらいは湧いたと思うが。
讃美歌も、かなり影響を受けた。孤独な魂の救いと感じることがあった。
 
牧師は、毎週、説教を考えないといけない職業である。
多くを、ましてや、総てを手短に求めるほうが無理というものだ。
 
 
聖書に忠実な説教や記事というのは、神とキリストを中心に書いてあることが多く、その中で、その時の神の意志と行為が書かれているが、神の意志と行為である。つまり、奇跡を起こしても不思議のない御方のなされようである。ときに残酷と感じるし、大方手に負えない。
 
キリストについては、教理が中心となることが多い。処女懐妊、数々の奇跡、十字架の贖い、肉体を含めた復活、超常現象としか言いようがないもので、それを否定することはできないが、超常ではない今の自分にとって、物や肉体の奇跡は、やはり、手に負えない。
 
物や肉体の奇跡が手に負えないという意味は、否定はしないが、驚きはしても、今生きていて、滅多に起こらないわけだし、生きる支えとして当てにするには、現実離れしすぎているという意味である。
 
キリストと人間の心の交流の記事に比べると、超常の奇跡は、孤独からの解放にもなりそうにないということは、今までも書いてきたことである。
 
その奇跡だけで、驚いて、ありがたくて、涙が出るようなことは、私にはない。素適な説教でしたとありがたがる人は、ありがたがらなければならないという強迫観念があるのではないかとさえ思っている。
 
私の記事においては、キリストと、救われた人々の間の遣り取り、キリストの言葉、などを中心に書いてきたつもりで、祈りにおいて神に対しては立派な祈りや讃美を・・ではなく、神の前に正直でしかありえなかった人が、犯したであろう罪によらず、救われていることを書いてきた。そして、キリスト者の善行は、信仰の結果に過ぎないとも書いた。高が知れている人の善行に救いの鍵はないと思っている。
 
聖書、特に、福音書を読む場合、どういう人が救われ、どういう人が批判されたかが、特に重要だと思っている。ここには、信仰生活の努力、すなわち、できることをする、という方向のようなものが暗示されていると思うからだ。
 
 
私は、長いものでは10年間、批判記事を書き続けている。キリスト者の立場から批判をする、という人は、あまりいないようである。悪い言葉を使ってはいけない、という教えの誤解か曲解によるところの、批判=悪口、という先入観があるような気がしてならない。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
キリスト者だと偽って、さらに、元牧師だとさえも言いながら、罪を認めず悔い改めもしない、という、とんでもない者がいるのに、さらに、キリスト教系、また、キリスト教内部から、カルトが出てきているのに、悪い言葉を使ってなならないという聖句は、批判しないことを正当化するための言い訳に過ぎないと感じる。
 
聖句を利用して正当化するならば偽善になってしまうのだから、批判をしたくないのなら、正直に率直に、そういう気にならないとか、苦手だと言えば済むことなのです。
 
偽善者は、批判をしない代わりに、批判に対しては、嫌らしい当てつけや皮肉や決めつけなどの悪口を返してくる。詭弁も常套手段で、実際は、反論も弁明もできないからだろうと思っている。
 
それに関連しているような気もするのだが、敬虔というのを、腰が低く、口数少なく、控えめで、丁寧で、優しいことと理解して、実行というか真似をしている人が多いような気がします。
 
私に言わせれば、敬虔は、神を恐れることから表れることであって、弱い自分を隠さないことであり、身振りや口数とは関係ないと思う。
 
「恐れる」を「畏れる」と書いて、神は恐怖ではなく畏敬だという考え方には反対です。言葉とイメージの辻褄合わせだと思います。雷や嵐とともに顕れ、背く者たちを滅ぼしたりする旧約の神のイメージは、恐怖以外の何ものでもない。恐怖と同じくらい、仮に、人は神に直接出会ったら、おののくしかないと思っている。神について、私には、優しい父のイメージはない。
 
神に祈れるのは、キリスト・イエスがおられるからであることは言うまでもないことです。
 
信仰者は、辻褄が合うからではなく、孤独からの解放と癒しの恵みによって、
神は全知全能の創造主と、キリストは救い主と、信じるしかありません。
 
もしおられるなら、全知全能こそは何よりも怖いのである。総て既に知っておられる、というのは近づきがたい存在である。もしおられるなら、と書きました。存在の証明も出来ず、会ったこともないという意味であります。神はいますよ!という確信を持つべきだと言う人は、心の中の偶像作りを促進するようなものだと思います。
 
 
キリスト者の、神についての認識は、非信仰者の常識を超えるものではないのです。聖書を読んだからといって、非信仰者と違って超常や神を分かっているなどと思い上がってはいけないと思います。
 
神は、人の認識の対象になるような御方ではありません。神は、人の認識の枠の中に納まるような、人の言葉で表せるような、事物と同じように対象となるような御方ではありません。
 
そこを勘違いして、分かっていると思い込んで熱心な信者気取りや、また一方で、逆に、矛盾しているから存在しないと思い込む無神論者が、いっぱいいるのは、嘆かわしいことです。
 
信仰は、絶えることのない希望であり、神はいる!と信じ込んで言い張ることではありません。
 
神がいるとは思えない世の中について、信仰者は、非信仰者との間には、反発ではなく、共感があるべきです。何故なら、信仰者は、そのような世の中だからこそ、信じること、つまり、唯一の希望として信仰することを必要としている、という道を歩んできたし、歩んでゆくからです。
 
神について、分かっている、知っている、見えている、という発言や思想に対して、私は、とても気色が悪くなります。前に、教えを守って完全になれるのです、などと言ったキリスト教系カルトを、もはや人間とさえ思えなくなっているような気がします。
 
 
幸福になるにはどうしたら、ということが、ネットでも、あちこちでブログの話題やテーマになっているようです。その一つで、私はアドラー教と呼んでいるが、アドラー心理学というのを批判しています。人間の不完全な言葉らしく、ときに極端に断定し豪語し、ときに言い訳めいたことを、また、疑問に対して否定だけで語っているようで、両極端だと思っている。
 
人間が完全を目指すとき、それが、安らぎであれ、成功であれ、人間の言葉の不完全さが、もろに表れてくるような気がします。
 
気に入らないことは無視しましょうと言いながら、試行錯誤を必然として進めたり、完全を実現できるような高ぶった調子でありながら、できないときはできないと言い、それを補うかのように、ダメなら他のことに没頭すれば結果は出る、というような安請け合いの慰めを言う、こういうのは、とりつくろうしかないカルトの詭弁的な特徴だということです。
 
聖書には、完全を目指したら、バベルの塔のことがあり、思い上がり浮かれてしまえば、ソドムとゴモラの滅亡やノアの洪水があり、キリスト信仰においては、何よりも、神の前で、パリサイ人のように自慢したり戒律の形式だけになったりすれば、キリストを殺すことになって最大の悪役となるのは、聖書を読めば、必然なのでしょう。
 
神秘を説くのではなく、神秘、特に奇跡を、そのまま信じこむのではなく、私たちは、どのような人が救われ、どのような人がキリストの敵となったかを聖書から考えるべきです。
 
 
嘘ばかり吐いて、それでも神は自分をどんでん返しの奇跡で守り救うと言い張っている者もいますが、失言と嘘だけが目立つようになり、どんどん壊れてゆくようで、いくら彼が、神は救うと豪語しても、キリストの名前に巣食っているだけの反キリストだと判断しています。神はいつも優しく微笑んでいるばかりではないことくらい聖書を読めばわかるはずなのです。
 
恐らく、彼は、聖書も、ろくに読んでいない偽善者だと思う。裁きは、最終的に、神がなさることですが、人間は、信仰の節操を弁えていないと、自ら信仰の道から遠ざかり、偽善者となり、自らを破壊してゆくということもあるようです。彼は、キリスト者と称しながら、人の話を殆ど受け取っていません。すでに通用しない自説を、また繰り返してくる始末です。
 
 
ですから、何度も書いてきたことですが、信仰の節操としては、
神の前では、つまり一人で祈るときには、努めて、故意に嘘は吐かないでください。人に対して隠したり飾ったりしても、神の前では通用しません。神は全知の御方であり、既に見抜いておられるからです。そして、正直な祈りを捧げることに精いっぱい努めることだけが、救いに与る必要十分条件だと思っています。
 
悔い改めということについては、罪を犯さなくなることだとしたら、果たして罪を犯さなくなるだろうかと考えると、無理があるような気がします。神に正直に祈ることこそが、言い換えると神に祈り正直さに立ち返ることであり、世俗のほうから神のほうへ向きを変えた、つまり、悔い改めだろうと思っています。
 
思わず、嘘を吐いたら、あるいは、言うべきことを言わなかったら、気づいたときに、また祈ればいいのです。それが、キリスト者の負うべき、キリストのくびきの負いやすさであり、キリストの荷の、言い換えると、負荷の軽さであり、また、神の限りない寛容であります。(ちなみに、殉教の死に至るまで、神が信仰者に求めておられるかどうか、私には分かりません)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-29、新約聖書)
 
ここに書いたことは、キリスト者のつもりでいる私という個人の見解に過ぎません。そして、私は、もっと心に響く信仰の考え方や感じ方があれば、見解を修正する用意があると思っています。これは、とても大事なことで、修正不能になった信仰は、新しいことが受け入れられなくなり、成長しなくなり、言葉に、行ないに、儀式に、しがみついて、人の技の細工か習慣に過ぎなくなり、キリスト信仰の真実の深みを失ってしまうからです。
 
ゆえに、自分について、違和感を感じたり、おかしいと思ったときには、正直に祈ることが大切です。精神的にも、祈ること自体が発散になり、反省になり、癒しの効果を持つかもしれません。立派な祈りをしようと、きれいごとや理想や "べき" を並べるのは、癒しと赦しを求めたい心に反しています。
 
神は、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、どこまでも寛容であり、キリストは、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、命を惜しまぬほどに共感し、限りない愛を用意して、同伴されるでしょう。信仰の節操は、負いやすく軽いのです。そして、信仰の情熱は、ときに、エロスの愛のように一途でさえあり得るのです。
 
 
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(2019年09月24日)
(2020年09月26日、一部修正して再録)
 
 
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