ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年09月

 
  どんでん返し?
 
 
信仰について救いについて
「どんでん返し」という言い方をする者がいたが
その意味は恐らく
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:12
だれでも自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう。
 (マタイ23:12、新約聖書)
 
といったような聖句から
この世での価値と神の定める価値は逆だ、
神の裁きにおいてはこの世の価値はひっくりかえる
という意味なのだろう。
どんでん返しが起こって救われる
という言い方をしていたようだが・・
 
しかし
今は低いが
神によって高くされる
と信じて疑わない者の心は
低いのか。
むしろ高ぶっているのではないか
 
今は低いという不遇の復讐を
神に約束されている気分ではないか。
 
ならばそれは
怨念に基づく信仰ではないか。
 
はたしてキリスト者は
すべて救われるのだろうか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:30
多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。
 ・・・
20:16
あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
 ・・・
21:31
イエスは言われた、
「よく聞きなさい。
取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
 (マタイ19-21章より抜粋、新約聖書)
 
神を信じていると言う人が救われる
というわけではないようです。
 
取税人や娼婦は戒律から
神に背く者たちとして
いつも低く見られて責められ軽蔑されて
高いとするための材料が何もなく
思い上がりようがなかったのだろう
ということを考えます。
 
彼らに整った信仰があっただろうか。
 
彼らは
罪を意識せざるを得ない立場しかないことによって
主の前に謙虚であり得たのだろう。
 
彼らが先に救われると
キリストは優先順位みたいに語っている。
 
神を信じるキリスト者が救われるのではないのだろうか。
この逆転した優先順位みたいなのは
いったい何なのだろう。
 
思い上がらないことだ
と言うのは簡単だが
態度と言葉だけ柔和に見せている人を見てきて
うんざりしている私から言えば
 
謙虚でありなさいと
思い上がってはいけませんと
高ぶる者は低くされるからです
などと、平然と、
思い上がった人が語ることもある。
 
私たちは、そういう偽善のリスクからも
自分自身を除外してはならないと思います。
 
どんでん返しを信じていたら
どんでん返しのどんでん返しが
起こったりするのではないだろうか・・
 
そもそも
整った信仰を保持すること自体が
人間には無理ではないのか。
 
整って保たれている信仰は
人の世界には存在しないのではないか
とさえ思います。
 
私たちは、私は、あとになるのか、先になるのか、
それよりもだいたい、神の国に行けるのか・・
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:42
無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。
 (ルカ10:42抜粋、新約聖書)
 
それは分かっている、
こうだよと言う者を警戒してください。
 
私たちは、私は、分かってはいないのです・・
自分が何をしているのかさえ分からずにいるのです
・・何も整ってはいない・・
 
整っていないし保たれてもいない信仰には
何の救いがあるだろうと考えると
 
不安定であるがゆえに
折に触れて省みて
修正可能と更新を求めざるを得ない立場であり続けられるなら
その動態のエネルギーとでも言うべき何かは、
自分の信仰を得て守るのではなく、
いつも新鮮な信仰を求め続ける祈りと願いとして
人の年齢や状況にかかわらず成長を願う上で大切だろうと・・
 
そのためには、正しくあろうとする態度よりも、
一途に、神の前に、精いっぱい
正直であろうとすることだけではないか
とさえ思われる。
 
だからこそ、知能の高いものや知識の豊かな者といえど、
それゆえによく理解して救われるのではなく、
 
キリストは、
現実に置いて立ち直ることもできず、自らを救うこともできず、
ゆえに救いと癒しを求めて一途でしかありえなかった娼婦や取税人を
教理を理解したかではなく、砕かれた心の持ち主として、
救われるモデルのように高く評価したのではないかと思われます。
 
信仰に一途ということは、
熱心に教理を唱えることとは限らず、
一途でしかありえない人間であるかどうかであり、
そこには、能力とか善行とかを超えるような
いちばん大事なものがあるということでしょう。
 
どんでん返しとは
決して敬虔を装う世辞や根性で起こることではなく、
さらに、善行において起こる本質でもなく、
 
むしろ、どんでん返しが起こるのは、
救われそうにないかのように
何の資格も能力もなく
どうしようもない自覚において、
世間一般の常識を覆して救いがあり、
誰よりも
そういう自覚に至りやすいゆえに
娼婦や取税人が、無くてはならぬものに最も近く
一途であるという信仰の義になるのでしょう。
 
信仰が、知識や能力によるものではない
ということのモデルなのでしょう。
 
 
あえて、どんでん返しを信仰に当てはめるならば、それは、熱心に信じるから、何があっても最後には救われる、という意味ではありません。
 
強くなく正しくなく高くなく罪深くて低くても
祈りの正直さのみをもって救われるという意味です。
 
 
どんでん
どんでん返し(画像)
 
 
(2015年10月30日)
(2020年09月25日、一部修正)
 
信仰を言葉にしようとするときに
いつも感じる不全感は、ある意味、それこそ
信仰を考える上でのヒントのような気もするのです。
 
 
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  正しさ(改)
 
 
信仰者は信仰について
正しいと思ったことを語るが
 
神の義、神の正しさ
という立場で語るのではない。
 
とても小さい人間が受け取り
人間を、誰よりも自分を、
生かす力となることだけを
信仰と呼び
正しいと判断しているに過ぎない。
 
何かを実行する必要のために
時々に必要だから
これしかないだろうと
判断しているに過ぎないのである。
 
その経過を報告し、
悔いを告白して、赦しを乞い、
反省し学習し成長するために、
そして結果とその後の導きを委ねるために、
神に祈っている。
 
 
信仰を道徳のように見なしてしまうと
判断が結論になってしまう。
信仰を人の辻褄に合わせてしまうと
結論は神のものだ
ということを忘れてしまうことがある。
 
情欲の聖句の
「女」を「他人の妻」に置き換えて
これなら守れるでしょう、
出来ましたと、いい気になり、
 
教えの神髄を緩めてしまう。
 
「神をおそれる」の「おそれる」を
「恐れる」から「畏れる」に変えて
神は恐ろしい御方ではありません。
いつも愛に溢れた優しいお父様ですよ
というような
自分の気安い信仰?のイメージを当てはめて
 
教えの神髄を緩めてしまう。
 
まるで、悪しき政治のプロパガンダみたいだ。
 
まるで、
ですよ、ね、ですね、ですよね、じゃないですか、
当たり前じゃないですか、と言っているみたいだ。
 
緩んだ優しさを愛と勘違いして
まるで客寄せみたいに
こういうことを考える者たちの目指すところは、
自己満悦と自己顕示だけだろう。
 
これに頷(うなず)くのは、
カルト的な教条主義者か、
人に従っていないと生きてゆけない人か、
気安く罪を赦されたい偽善者だろう。
 
信仰を気安く守りやすい道徳に貶めて
神をどこかの優しい偉い人レベルに貶めて
訂正する意志のない者は悲惨である。
 
悲惨を自覚しない者はさらに悲惨である。
さらに他者を巻き添えにして悲惨となるだろう。
 
 
信仰は
しばしば俗の社会に対して不適応であった。
 
預言者たちと使徒たちが証人である。
何よりもキリストが、その道を歩まれた。
 
そのときは暴力に対して
実に無意味にさえ思われた非暴力によって
のちに救いの意味が明らかになるまで
信仰という不適応は
世俗という適応の偽善を指摘し続けた。
 
 
一部の偽善者たちによって
魂の故郷が引き裂かれ
侵す者たちの切り取り放題となり
 
私たちが故郷を失っても
安住の地を御国に求める人々は
それゆえに
なおも信仰によって偽善と闘うだろう
 
偽善者には企みがあり
陰謀を巡らし
反対者をあざ笑うだろう。
 
それが偽善の証しとも知らずに。
 
旧き時代と
キリストの時代と
私たちの時代に
なぜ、そのような邪悪な偽善者が生まれて
しばらくの間、栄えるのか、
という問いに返される答えは、
御国が来るまでは
私たちが御国に至るまでは
ただ
神の秘密
神秘の計画だということだけである。
 
信仰者は
保険のない世界で
奇跡の起こらないような世界でも
使命を果たすことを求められる。
 
苦難は訪れてくるが、
苦難の中で聖人であることではなく、
ただ一つ
神の前に正直であることだけを
人間に可能な使命の指針として。
 
キリストの愛が信仰を支え
キリストへの愛が信仰を進める。
 
きびしいのでも生ぬるいのでもなく、
生きる力となる信仰、
それだけが地上で分かる神の国である。
 
 
※ 批判してきた偽善カルト
 
「その名は不思議」by shalom 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita
現在所在不明ですが、偽キリスト者、偽牧師です。
同サイトの、以前のタイトル
「讃美の家」、実は、酸味の家。
「聖書の聴き語り」、実は、聖書の引き倒し。
ヤフーブログ終了後、現在、所在不明。
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい
などという信条?こそは、反キリストである証拠です。
実際には、その名は不義。
 
楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/
今のHNは、楽山、以前のHNは、自由。
自己愛、自己中、無反省、無理解、無責任、訂正不能、
理路と情感と学習がなく、病識のない者のブログです。
批判をを無視して書くことが初心を貫くことだと思っているようですが、
批判に答えられず書くたびに的を外れる初心は元々腐れ物だということです。
 
上二人とも、大嘘吐きです。
どうか邪悪な偽善サイトの嘘に巻き込まれないように
祈っています。拝。
 
 
希望の国へ
希望
 
 
(2018年11月21日アップ、同日一部修正)
(2020年09月24日、一部修正)
 
侵す(おかす)
 
 
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  罪と偽善(改)
 
 
私たち人間は、自分がどう役に立てるのか、ある程度は明確になる場合もあるけど、道具や生産物など目に見える物のようには明確にならない場合が多いと思います。
 
つまり、生きることが先で、役に立つことは、継続する一生の問題になり、達成よりも、努力目標としての道ということになります。自分は役に立たない、と自分で思うことも、私も含めて、稀ではありません。
 
しかし、稀にあるかもしれないという希望を持つことと、稀にしかないんだと失望に変えてしまうこととは、キリストは社会が絶望の烙印を押してしまった人々を訪ねて救った、ということを考えれば、違ってきます。そして、そこから、聖書を読むということが、どういう人が神の御心に適うのかということも明らかになってくるのです。
  
かといって、やはり、はっきり自分の役割が見つからないときや、一生続くかもしれないマイナス面を持っていると思うときには、さらに、心無い人にマイナスの評価をぶつけられたときは、失望や絶望が親しく近寄ってくるかもしれません。そのとき、どうするべきでしょう。
 
思い煩いが長引いて、来る日も来る日も思い煩いにに明け暮れたりなどはしたくないけれど、一切無視したつもりで、無理に笑えば、いずれ、笑えないときに笑った無理が返ってくるでしょう。
 
私の経験ですが、自分はダメな人間ですという位置から、ときには、自分は塵や埃やウンコみたいなものですという位置から、できることを考える生き方を、慈しみの眼差しで見ておられ、目いっぱいの正直さ、という、それだけで善しとしてくださる御方がおられることに気づくのです。
 
こういう人生に対する心の向き方を変えるような経験を、霊的体験と呼んでいるのでしょう。つまり、霊的と言っても、キリスト信仰は、決して、超常現象の話ではないのです。
  
劣等感や妬みで生きることのないように、いじけることのないように、また、敵意や恨みで生きることのないように、生きる日常が他者へのボロクソ節にならないように、一人一人をすべて見て、功績や才能ではなく、その正直さだけを評価される御方がおられます。
 
言い換えれば、正直さ以外は、通用しない御方とも言えるでしょう。あらゆる高慢と意地を張ることの代わりに、正直であろうとする努力と、祈りが中心になるのが、キリスト信仰です。
 
 
偽善は、罪を隠し、世辞を言ったり、嘘を吐いたりして、偽りによって、善人ぶる分、罪よりもさらに重い最悪の罪であり、二千年前に、キリストが見抜き、キリストの敵となったものです。
 
偽善も罪だから赦されると言って、平気で嘘を吐き続ける偽善者もいますが、思考も情緒も破壊されて、正常な思路による発言も情緒的な共感も出来なくなっています。それでも、笑い続け、何を言われても、嘲り続けるのが偽善者です。
 
神の前に正直さを失うと、人の前にするのと同じような体裁を繕うようになり、神に対して嘘を吐くようになります。
 
それを、神が見逃すことはないのに、見抜かれることを恐れないので、神を恐れなくなり、結果として、罰ではなく、裁きでもなく、ますます、救われるために大切な人格を、自らの嘘と偽りの保身が壊してゆくのです。
 
楽山が批判される理由は、キリスト教など全く理解できていないということしか表れていないのに、反省もせず、分からないくせに、分かったふうを装って、幼稚な言いがかりをもって、キリスト教を侮辱してくるからです。
 
さらに、ときには理解があるかのようなことを言うのは、明らかに、だます意図があるからとしか思えません。これは重大なことで、信仰者や求道者に与える影響を考えれば、決して看過できるものではありません。
 
そこに、楽山のように、正当な言論者と見なすべき要素がまるでなくて、むしろ、今に至るまで、嘘や詭弁による害毒性しか見られない無責任な者には、一言も、キリスト教とキリスト信仰について語る資格はないと判断しています。
 
前から繰り返してきたことですが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。
 
 
 罪は地獄への片道切符ではありません。
 罪を隠し善を装う偽善こそが地獄への片道切符になるのです。
 
 罪は正直な告白の祈りによって赦されるでしょう。
 それが悔い改めです。
 
 罪を告白する正直さは
 祈りによって宝となります。
 
 
yamitokibou
闇と希望
 
 
(2019年09月19日、過去記事に修正加筆)
(2020年09月23日、一部修正)
 
 
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  楽山の嘘吐き自己中
 
 『真っ赤なウソ』養老孟司著
 2020年09月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26337629.html
 
 
はっきり分かることは、楽山は、人の嘘を面白がっているようですが、自分の嘘には全く無頓着だということです。つまり、楽山は、人のふり見て我がふり直さず悦に入る、という軽薄者です。
 
本書はタイトルにひかれて読んでみた。宗教コーナーで見つけたので、宗教は「真っ赤なウソ」だとする本なのだろうと思ったのだが、
 
楽山のいちばん言いたいことは、宗教は「真っ赤なウソ」、ということでしょう。しかし、その根拠は、全く示されていないのです。それで、嘘の話を並べるというのは、宗教は価値がないと思い込んで、揶揄しているのでしょう。実際、宗教は、楽山には理解不能で価値はないのかもしれません。
 
楽山のように、宗教を軽口で嘘扱いして揶揄することこそ、物の価値というものを追求する態度を全く持たない楽山のスタンスを表しているわけです。楽山の言論は、おふざけです。それを、真面目くさって語るものだから、楽山としては、責任は負わない、と言いたいのでしょうか。
 
楽山の場合、嘘をまじめに語り過ぎたので、責任は負うべきというより、負わされることになります。その責任は、楽山が今まで言ってきたことを、自ら全否定して反省しない限り、追及され続けることになります。
 
狼と少年の話に近い、ということを、前にも言ったと思います。もはや、逃げることは出来ません。言っていることの、そして、これから言うことも含めて、信用がなくなっているのです。
 
この記事のような、おふざけも、また、悪質な嘘ということになります。真面目な態度を成りすますということが、いかに重大な結果をもたらすかということです。
 
また、人が言ったことだから自分に責任はない、ということも成り立ちません。人の言うことに賛同し、興味を持って引用したら、それは、人から借りてきた自分の意見になり、決して小さくない責任問題として発生するのです。いかなる言い逃れも、もはや、成り立たないのです。真面目芝居の嘘八百の報いは、逃れようがないのです。
 
ましてや、プラスを言い、マイナスを言い、どちらもはっきり断定していないから、責任はないなどということは、全然、成り立ちません。人間の発言は、みな、その時の判断であり、次の時には、別のことを言って平気でいることは出来ません。それは、意見を変えたのだから、変えたことについて、反省し説明しなくてはなりません。
 
総じて、楽山は、子供の駄々のような態度を正当としているようだが、それは発育不全であり、あるいは、退行であり、幼稚であり、全く成り立たないということです。
 
実際はそれに限ったものではなく、さまざまな問題について触れたものだった。その中で興味をひかれた話を挙げるとこんな感じだ。
大正10年。水道の塩素消毒がはじまって以降、それまでは男性より短かった女性の平均寿命が急に伸び始めた。
アフリカで人口爆発がおきているのは、スポーツ飲料による。子供の死因は下痢と脱水が多かったが、これによって子供の生存率が高くなった。
 
「実際はそれに限ったものではなく」の「それ」は、「真っ赤なウソ」ということでしょう。何の思考もなく、もはや、決めつけの自己満の世界に生きて、暴言だけ吐いている楽山です。
 
興味をひかれた・・これが、楽山の態度です。興味を持ち、引用しておいて、責任を負わない、と言うなら、真面目に聞いた人には迷惑だから、何も言うな、引用するな、ということです。
 
近代前の人は自分は永続しない、無常だと考えていたが、現代人は変わらない自分が永続し、死なないと考えがちである。これは昔は折に触れて名を変えたが、現代人は生まれて以降ずっと名を変えないこととつながっている。
 
個人によって違うことについて、近代前と、現代を、実に安易に分けています。そこに、楽山の好みの、荒い対象化で、またしても、要らぬレッテル貼りをしています。人を決めつけて、上から眺めたつもりで、自分だけは悟っているかのように見せかけるのが、楽山は、楽しい生業なのでしょう。
 
「近代前の人は自分は永続しない、無常だと考えていた」・・本当に、そうでしょうか。生きるのだけに必死だった人々もいたでしょう。このような、人に対しての、まるで共感のない、笑って首を切り落とすような分け方が、楽山の短絡的な思い込みのもとになっています。
 
「死なないと考えがち」・・短絡であり、誇張です。誰も死について答えなど持ち合わせてはいません。その共感が、宗教を生むのですが、楽山に限っては、実感というものがすっぽり抜けていて、多くの呆れるような短絡思考と決めつけを生んでいるようです。
 
これらを合わせて、楽山の非人間的な冷酷さと言ってよいでしょう。熟慮に必要なものが、同じ宿命に生きている人間であることの自覚と共感が、楽山には欠けていることの証拠になるでしょう。
 
独創的なことは他人と共有されない。自分の話を他人が分かるということは、個人心理は存在しないということ。
 
独創的なことというのは、まだ気づいていなかったことを気づかされたから言うのでしょう。楽山が言うようなことは、病理以外は誰にも気づかれることのない、妄想的なことですから、他人が分かる必要もないのです。独創的というのは評価ですから、個人心理とは関係ないと思います。
 
ぞんざいに言葉と言葉を結び付けて意味ありげに語るのが楽山の、だまし癖であり、自己を高めるために、楽山が捏造しては、どこにも響くことのない、命なき固まり、すなわち、墓石のようなものでしょう。
 
無宗教の葬式では「参列者は手持ちぶさた」になる。
 
ここから、宗教は、「手持ちぶさた」から生まれた無用のもの、と言いたいのでしょうか。楽山は、また、自分の子供じみた無理解を表しています。宗教の本質は儀式ではありません。
 
倫理は個人的なものであり、マニュアルは他者と共通のルールであるから、「倫理マニュアル」とはおかしな言葉であり、考え方だ。
 
共有される倫理もあるでしょう。マニュアル形式のルールは、書き方としてはあり得るというだけのことですが、倫理の本質はマニュアル化できなくても、行為の是非をマニュアル化することはあり得ます。
 
楽山の言によると、楽山が人を傷つけても、それは個人的なものだから、いけないとまでは言えない、とでも言うつもりでしょうか。ペコパのお笑いでしょうか、バカなのでしょうか、楽山。
 
宗教は「ウソから出たマコト」である。ハリー・ポッター、千と千尋の神隠しが流行るということは、宗教が弱っているということ。
 
フィクションである童話と、宗教を、同一に語る詭弁です。楽山は、宗教への幼稚な曲解と偏見を、またしても、訂正不能に表してきました。宗教が弱っているのではなく、楽山が狂っているだけです。
 
西洋で出会った無神論者からは、宗教や教会に対する反感は認められたが、神に対する反感は感じられなかった。
 
これは、ある意味、真実を表している、と私は思うのですが、楽山は、どういう気持ちで書いているのでしょう。
 
宗教を理屈で語る、また、決めつけて語る、有頂天気分で語る、宗教から組織大事になって人に圧力を及ぼす、などは、人の罪のわざとして、楽山などもですが、宗教の誤解が、人間を傲慢にする例であります。そうなるくらいならと、無神論者を気取りたくなるのは、ある程度、理解可能です。
 
共感のない楽山は、またしても、プラスもマイナスも断定しないから自分は正しいというのでしょうか、自分の意見を書いていません。責任を問われるのが嫌だからでしょうか。それで何も説明しないなら、この記事も書かないほうがいいのです。
 
楽山は、いかなることにも責任を取りたくないような、臆病者なのでしょうか。ならば、正しくはないのです。加えて、楽山の小理屈倒れは、宗教に必要な人間性を損なってゆくのです。楽山に人間性を感じることは殆どありません。
 
以上。本書の話題は多岐にわたっているので、何についての本かと問われれば、一言ではこたえにくいのではあるが、小ネタの宝庫で面白い本であるとは言えると思う。
 
このように、有名人の話さえも、上から見下ろして、都合の良いところだけを拾って、小ネタ扱いしている楽山です。楽山と遣り取りしていると、だんだん、腹が立ってくる、ということが分かると思います。
 
宗教という人生と命に関わるテーマについて、興味本位のネタとして扱ってヘラヘラ笑っていられるのが楽山なのです。そういう、ふざけ半分で、宗教を一人前に語ったつもりになる楽山は、神に対して冒涜であり、信仰を真剣に考えている人に対して侮辱もいいとこです。
 
人をバカにしながら、宗教をバカにしながら、自らは、どんな大きなテーマも真面目に考えて生きようとする意志がなく、軽くて浅はかな見方しか出来ない楽山です。だから、いつか殴られるだろうと前に書いたわけです。
 
はっきり分かることは、楽山は、人の嘘を面白がっているようですが、自分の嘘には全く無頓着だということです。つまり、楽山は、人のふり見て我がふり直さず悦に入る、という軽薄者です。
 
(ネットより)
人の振り見て我が振り直せ
【読み】 ひとのふりみてわがふりなおせ
【意味】 人の振り見て我が振り直せとは、他人の行動を見て、良いところは見習い悪いところは改めよということ。
http://kotowaza-allguide.com/hi/hitonofurimite.html
 
批判記事が増えてゆきます。恥も積もれば山となる楽山です。
 
 

嘘吐き自己中
嘘吐き自己中
 
 
(2020年09月22日)
 
前は、URLは、記事をアップしたとき、自動的にリンクになっていたのに、今は、文字列扱いになっています。URLをドラッグして範囲指定しマウス右ボタンのプルダウンメニューからジャンプするしかないようです。操作関係は便利になることが多いのに、不便になっています。私が、何か、知らないだけでしょうか。
 
 
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  楽山の知ったかぶり
 
 『14歳からの哲学入門』飲茶著
 2020年09月20日 楽山日記()
 http://mn266z.blog.jp/archives/26327130.html
 
 
楽山からだけは、読書指導を受けてはいけません。何も書けていないことが、何も理解していないことの証明でしょう。あとのほうの、何が「有りだと思う」のでしょう。
 
これはしばらく前に通読したことがある本だが、すごく面白かったので、また読んでみた。やっぱり面白い。おかげでぐんぐん読める。哲学史についての本を読むと、古い話は理解できても、現代に近づくにつれて難しくなり、最後まで読むのは大変だが、本書はそんなことはなく、最後まで楽しく読めるのがうれしい。というか、先に進むほど面白くなっているとさえいえる。
 
楽山の読後感想文は、小学生にも劣るものだと思います。「すごく面白かった」「やっぱり面白い」「ぐんぐん読める」「楽しく読めるのがうれしい」「進むほど面白くなっている」・・どこが?、どのように?、何を受け取ったのか、楽山は何も書いていない。
 
ずっとそうです。書けないのです。楽山は、読書できないのでしょう。そのくせ、分かっている先輩であるかのように、今までのことを少しも反省せずに、偉そうに書いてくるのです。
 
書中では、「たいていの構造主義の入門書は難しい。読んでもわかった気分になれないような本が多かったりする」(p.230)としているが、本書はそのような入門書ではなく、十分に「わかった気分」にさせてくれる本だ。
 
「わかった気分」だけで書かれてはたまりません。楽山は、それで満足するのでしょうけど。構造主義の説明がないので、いつものことですが、また、検索しないといけなくなります。これも、楽山を疲労物質と呼ぶ一要素であります。
 
それだけではなく、面白さを説明も出来ず、ヒントとなるような言葉一つ書けないか、書いても、ああでもないこうでもない、どちらも否定も肯定もしない、かつ、責任を負わない、そして、あげくに「面白かった」と書いてくるだけで、実に煩わしい無駄に満たされている楽山なのです。
 
(ネットより抜粋)
広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である[1]。
構造主義という名称から、イデオロギーの一種と誤解されがちであるが、今日では方法論として普及・定着している。
研究対象の構造を抽出する作業を行うためには、その構造を構成する要素を探り出さなければならない。構造とはその要素間の関係性を示すものである。それは構造を理解するために必要十分な要素であり、構造の変化を探るためには構造の変化に伴って変化してしまうような要素であってはならない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 
こういう検索を経ても、分かったとは言えません。大方の事柄において、構造を考えるということは、意味を考えるのと同じように、私たちは、多かれ少なかれ、やっていて、楽山以外は、その不十分を自覚していることなのです。
 
楽山は何を無責任に「わかった気分」などと言っているのでしょう。理解と気分は違います。気分が理解?になってしまうのは、楽山のようなカルト思想においてでしょう。
 
楽山が、いつも書き捨てで満悦できるのは、早い話が、何も読み取っていないということです。今まで、重要なテーマについても、いつも明らかになるのは楽山の無理解だけでした。楽山がわざわざ書くということの害だけが、クローズアップされる結果です。
 
当然ながら、これはあくまで気分でしかなく、本書を読んだだけですべてを理解したと勘違いしてはいけないのではあろうが、入口でつまずいで退散させられるより、一時的にでも「わかった気分」にさせてくれて、もっと深く知りたいと思わせてくれるのは有り難いことである。
 
もっと知りたい、というところから、もっと知った話を、楽山は、一度も書いたことがないのです。楽山は、いつも、最初の、知りたい、というだけで、次は、読んだ気分だけを、インテリ風味で語ってくるだけなのです。言い訳めいたことを書いても一緒です。楽山の無反省の害です。
 
批判以外の目的で楽山の記事を読むことは、楽山の傍迷惑な「わかった気分」に振り回されるだけで、成果ゼロ~マイナスのトラウマになるでしょう。愚かな自分信仰の教祖である楽山の誘い文句に乗らないでください。
 
ちなみに本書で取り上げているのは、ニーチェ、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル、キルケゴール、サルトル、レヴィ・ストロース、ウィトゲンシュタイン、デルタ、ボードリヤールらであり、最後には、今後の哲学の可能性についても触れている。忙しくて全部を読む時間がなかったり、過去のことより、まずは著者の考えを手っ取り早く知りたいという人は、この最終章だけを読むのも有りだと思う。
 
やたら、感想にもならない記事をたくさん書いてきて、世界の学者の名前をあげるのは、自分の文章の貧相なるを、有名羅列でごまかして、オレは偉いんだぞ、という自己顕示欲の醜さになると分からないのでしょうか。
 
最終章だけ読むのは、やむをえず有るかもしれませんが、読んだことにはならないという自覚が必要です。なのに、読者に勧めて、著者の考えを早く知りたいと言う楽山は、結局、何も受け取っていないということが表れてきただけなのです。お仲間欲しさの、悪と怠慢への誘惑に過ぎません。
 
つまり、これは、楽山の読書のごまかし方です。その弊害だけが、どこにも伝わらない文章として、たくさん蓄積されており、これからも積み重ねられるでしょう。知ったかぶりだけの楽山のお仲間への誘いに、決して乗らないでください。
 
無反省で無責任の楽山のような、見せかけだけ飾るような人間にならないでください。読書量が少なくても、日常から掘り下げるのが、考える人です。
 
 
陰気の闇
傲慢の闇

 
 
(2020年09月21日)
 
 
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