ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年10月

 
  楽山を信じないで
 
 映画『夜明けを信じて。』を見てきた。
 2020年10月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の駄文です。いつも駄文です。思い付きだけです。感性も知性も原始的で、オリジナルではない既製品の教養を振り回しますが、実質的根拠を示せたことがありません。
 
批判しても、罪悪感と羞恥心のない病質の楽山に対しては無駄ですが、読者が楽山の災いに巻き込まれることのないように関わらないようにしてほしいと思って批判を書いています。
 
価値なき者は、無視されてきた腹いせに、忠告と批判の一切を無視して、他者の価値を損なうことを悦びとするのでしょう。本当の生きる喜びではなくて、楽山が一途に求めているのは、そういうサディスティックな悦楽なのでしょう。
 
他者を無視して、自分だけの悦楽を求めて、何もかもを自分だけのために扱おうとするような、楽山の世界に、幻はあっても、夜明けはありません。果てしなく闇に向かって、トンネルを掘っているだけだからです。
 
*メモの整理(ネタバレあり)
映画を見ながら、心に浮かんだことをメモしておいたので、ここで簡単に整理してみる。
 
読んでみた感じとしては、何も整理されていないと思います。整理されていないおもちゃ箱を、そのままひっくり返して、バラまいた感じです。楽山の心に浮かんでくるものは、まるで整理不能で、思い付きのようにランダムなものなのでしょうか。
 
楽山が書いているものに、ストーリーの全体と関わりがあることの説明がなされていません。登場人物についても、要領を得ません。つまり、楽山は、読者のことを考えずに、好きなように書いて、書いたと、満悦するようです。
 
恐らく、楽山は、万事が、そういう、いい加減である、ということを表しているだけでしょう。楽山の人格を見る上では参考になります。傍らに人無きが如き恣意の勝手と、惜しみなく不躾(ぶしつけ)の、楽山の性格が表れているということです。
 
・映画がはじまる前の予告集はおもしろい。どの作品も、見てみたいと思える。でも難病ものは苦手だ。その手のものは敬遠したい。
 
なぜ難病ものが苦手なのでしょう。恐らく、楽山には、こういうことになったら大変だろう、という共感性がないからだと思います。楽山は、超常とか霊とか、何か派手で、でっかいことが好きで、弱さや、悲しみに共感できないのです。
 
・本作は、『さらば青春、されど青春。』のリメイク作品らしい。千眼美子(清水富美加)は、本作でも前作と同じ役どころのようだが、これは随分珍しいことではなかろうか。前の作品でもリメイクでも同じ役を同じ女優が担当するというのは聞いたことない。
 
この映画は、HSの製作した映画、つまり、宣伝用の映画のようです。千限美子はHS信者のようです。楽山は、HS批判をしていたつもりだったと思いますが、何が言いたいのでしょう。
 
HS映画の批判でなければ、嘘を吐いていたことになります。プラス・マイナス、つまり、賛同・批判、どちらにも、ふらふらしていることになります。同一性障害でしょうか。
 
・主人公の一条悟は、品行方正で、努力家で、才能もあり、周囲からも高く評価されている人物として描かれている。女性にもモテる。これが大川隆法にとって、理想の自分なんだろう。
 
カルトの一般的特徴として、当たり前に、教祖は、頭も、人格も、飛びぬけている天才か予言者か聖人かスーパー霊能者ということが多いです。楽山は、スーパーな人物を好むようです。しかし、楽山は、HS批判をしていたはずですが・・。
 
・一条悟が兄を責めたり、友人に向かって傲慢発言をするところもあるが、これは反省シーンのための伏線で、わざと間違いを犯させているようだ。
・マスコミは、宗教家としての一条悟を高く評価し、好意的に報道している。一条悟は誰からも好かれ、尊敬される人。
 
この辺も、教祖を思わせたいのでしょうか。恐らく、「わざと間違いを犯させ」たということにして、あとで反省するというのでしょうか。楽山は反省の実質を表したことがありません。
 
「宗教家」として高く評価されたいのは、楽山でしょうから、感情移入しているのでしょうか、それとも、本能的に保身しているのでしょうか。
 
・風の声を聞かないかというのは、村上春樹の『風の歌を聴け』みたいだ。
・千眼美子の演じる立花美穂が、一条悟の乗った車を追いかけている。この役どころは、そんな風にバタバタしない人のような感じがするけど…。なんというか、立花美穂も、それ以外も、女性キャラはみな、昭和のおじさんが理想とする清純派として造形されている。フェミ、ジェンフリ、ポリコレ…などは苦手だが、こういう女性像ばかり見せられると、それらも必要ではないかと思えてくる。千眼さんらは、こういう女性の描き方に違和感はないのかな。
 
カルトに出てくる女性は、大方、淑女であり、稀に、女傑や、女予言者みたいなキャラになるのではないかと思われます。楽山は、ここで、自身の女性の好みについて語っています。HS批判ではないのでしょうか。
 
・母の回想、子供時代のエピソードはいい感じだ。『平凡からの出発』で紹介されていた話らしい。でも寒い寒いと言いながら重ね着してるのに、半ズボンを履いているのはどういうわけか。あのお母さんなら、ズボン下を履かせそうだけど。
 
楽山は、HSに対して批判をしていたはずですが、半ズボンにこだわるのでしょうか。
 
>・映画としては『さらされ』よりも、よい出来だ。
 
「よい出来」?・・なにが、どこが、・・楽山は、HS批判をしていたはずですが。
 
・いま、二位を50点引き離したと言ったかな? それはいくらなんでも…。
・成績一番の生徒が、他のクラスメイトから反発される例が多いというのは、自分にはリアリティがない。自分の周囲では、一番とか先頭グループにいる者は、勉強だけでなく、道徳的にもきちんとしていて、他から嫌われたり、攻撃されるタイプはいなかった。
 
リアリティがないでしょうか。様々だと思います。楽山は、優等生が好きだったのでしょうか。優等生にゴマを擂っていたのでしょうか。
 
・「だいじょうぶ、だいじょうぶ、ぜったい、だいじょうぶよぉ」って、すごい大根役者。大川隆法の本で、文化祭で舞台に立ったら、演劇部からスカウトされたという話を読んだ記憶があるけど、それはなさそう。
 
人をけなせば、返ってくるものです。ブーメランですね・・。楽山の記事の、クリスチャン芝居は、あざとくて、白々しくて、むずがゆくて、読めたものではなかった。つまり、大根役者の楽山が、身の程も弁えずに、別の三文芝居をけなしています。
 
・図書室での出会い。男女が同じ本を取ろうとして手が重なるなんて…。HS映画は、本作に限らず、人との出会いのエピソードは、なんかおかしい。
 
「なんかおかしい」の「なんか」を説明できない楽山。書く必要のなかった記事。評論家気取りの、評論家としての資質の無さだけが、惜しみなく表れています。小学生の感想文でも、もう少し、まとまっているものがあるでしょう。つまり、これも、感想文としての実質はなく、結局、いつものように、楽山が、体質的に、唯一書けるところの、いちゃもんなのです。
 
・女が眼を大きくして、男を正面から見つめている。こういうタイプの女性が無遠慮に男を見るなんて、いまいちリアリティがない。ロマン・ロランの『ピエールとリュース』では、ヒロインは男の方を振り向きもせず、目をそらしているようでいながら、実際にはじっくり観察していたが、こちらの方が本当らしい。
 
全くの自分の好みだけで、楽山は、映画の演技指導まで始まました。教える立場に、立ちたい、あるいは、既に、立っているつもりの楽山の自己顕示欲が表れています。「リアリティがない」という断定表現でもあります。「いまいち」は、楽山の、いつもの、ボンヤリ言語の類でしょう。
 
つまり、楽山は、何も確信のないところから、確定してくるのです。言い換えれば、根拠のないところから、決めつけてくるわけです。その萌芽というか、片鱗というか、そういったものが、日常的な作文にも表れてくると言いたいのです。それで、責任を負わないのだから、話にならない。
 
>・図書館の一条悟。筆圧はものすごく強そう。これでは長い文章は書けなかろう。
 
これは、揶揄でしょうか。なんだこれ(笑)、という感じの書き方です。意味はないと思います。
 
・これはいくらなんでも、あまりに一方的な恋だ。旧太陽の法では、ほとんど話をしたこともない相手に、小包にしてラブレターを送ったが、うすい手紙一枚の返事でふられたとしていたし、宏洋氏の証言だと、大川隆法は大学時代に駅で女性を待ち伏せした話を自慢げに話していたということだが、どれも自己中心な恋であることは共通している。
 
他者の言うことを無視して、"一方的" に決めつけて、けなしてくる楽山に言う資格はないと思います。楽山は、無条件に、自分を正常人のインテリという立場に置いているようだが、実際には、それとは逆の証拠しか表れてこなかったのです。
 
自己中は、無反省無責任と並んで、楽山の大きな特徴です。
 
このように、一方的な人格というのは、自分のことをまるで自覚できないことが、今までの文章にも、ここにも表れているのです。楽山は、恐らく、双方向の、話し合いも、議論も、恋愛も、経験がないのだろうと思います。
 
・挿入歌の歌詞は相変わらず説明調だ。カタカナ英語もすごい。
・女の手紙の内容は、高橋信次の霊言にあったジイドの『狭き門』解釈と同じだ。男が女を理想化しすぎると、女は現実の自分を男に知られ幻滅されることを恐れ、自ら身を引こうとする云々という話。
 
楽山のゴシップ好きが表れています。真面目な題材よりも、おふざけで語ろうとする傾向が、文章全体に、ブログ全体に、表れてくるのです。そして、揶揄して、面白がるのです。
 
・自分が受け取ったラブレターを、ずっと持ってる女性がいることは知っている。そういう人と会ったことはある。ドストエフスキーの『地下室の手記』の後半にも、その手のエピソードはある。でもこの映画の女性なら、一条悟に断りの手紙を書いたときに、それまでに受け取った手紙は全部返送しそうではある。なぜそうしないのだろう。
 
「それまでに受け取った手紙は全部返送」するのですか?・・私、殆ど経験がないけれど、返送するより、踏ん切りをつけるなら、捨てるんじゃないですか、それが出来なければ思い出として取っておくでしょう。「なぜそうしないのだろう」・・楽山の偏執的な恋愛模様が、想像されます。
 
・思想的に間違っていると思うことは、それを指摘しないではいられないというのは分からなくもない。でも事実関係についての議論ならまだしも、思想、信仰に関する議論では、ああ言えばこう言うにしかならぬし、時間の無駄でしかないとは思う。
 
ようやく本題に触れてきました。しかも、ついでの、当てつけの、嫌がらせです。さらに、楽山が前にも言ったことを繰り返しているだけです。もう通用しないことが分からないから、平気で書いて、それゆえに、無反省・無責任という判断になっています。
 
信仰に関する議論において、「ああ言えばこう言うにしかならぬし、時間の無駄でしかない」と同じようなことを言って、こちらの批判も解説も読まないで、反論も弁明も出来ない楽山は、信仰と神についての大いなる誤謬と偏見を訂正することもなく、幼稚な言いっぱなしのまま、無視することを是としたのです。
 
ネット・ブログという公共の場における文責というものを、全く弁えていないのが楽山です。それゆえに、楽山だけは相手にしないほうがいいと、機会あるごとに、批判記事を書くたびに、私は書いています。楽山は、成人としての節操が育たなかった人なのです。
 
・バケツの中に入っているのは小鮒のようだが、岩や石がごろごろしている浅い川では、小鮒は釣れなかろうと思う。
・えっ!? 芳本美代子? 母親役かあ。これは本作では自分にとっては一番の驚き。
・『愛のあとさき』を会社で配っとる。しかも「聖少女」が注目されてる。ちなみに、「聖少女」は、こちらでよめる→「『愛のあとさき』大川隆法詩集より」。改めて読むと、「デザート」もすごいが、「聖少女」もすごい。この他の詩でも、処女へのこだわりは露骨なのだった。また、ここでも自分の美化された部分だけ好かれて、汚い部分はそうでないという薀蓄がでてる。
 
全般に、楽山ブログを通して、自分の都合の良いところだけ積極的に書いて美化して、汚い大部分について、事実も批判も無視している楽山であり、今回も、別のテーマであっても、その体質をもろに表してしまう楽山です。
 
さらに、今回も、性懲りもなく、しでかした愚事と、おのれの愚かさについて、無視したまま、何事もなかったかのように、一人前のインテリ評論家気取りで、いちゃもんだけを書いてくるのは、社会にも正義にも怨念だけを持っていて、ゴミ屋敷から汚物をまき散らすどこかのオジサンのようです。
 
・下戸なら、オレンジジュースより、ウーロン茶の方がいいのではなかろうか。見た目的には。
・夢に向かって努力する立花さんの方が、僕は好きだなというのは、いかにも若者らしい発言だ。「わたしのために、あなたの夢をあきらめないで」とか、「僕のために、きみの夢をあきらめないでほしい」とか、そういうやりとりは、上昇思考の強い若者の間では実際あることと思う。そういえば、これはC7にも通じるものがあるかな。「あたしには あなたより 大事なものがある あなたには あたしより 大事なものがある~♪(【中日歌詞】GO!GO!7188 - C7)」
 
楽山は、関わる人の、夢も意見も節操も踏みにじる男です。完全自己中というのは、そういうものであり、神も人も公共も恐れない厚かましさを持っています。
 
"善" という漢字が入っていて最も醜いのが偽善というのに似ています。讃えるふりして、見下すのが、楽山です。楽山の言うことを信頼してはいけません。
 
・「本当のあなたは、一体、何者なの?」って、立花さんほどの人物であっても、その本質を見抜けないほど、一条悟は大きな存在だといいたいのだろうか。
・HS映画の悪魔は、いつも分かり易い存在だ。最後の山場は、いつものように降魔シーンになっている。
・二人は別れたかと思ったら、また会っている。デートでカレー。二人共、スパイシーな息を吐くということか。二人はすごく親密だったり、他人行儀だったりと、分かり難い関係だ。
 
ふつう、分かったと感じたところを書くのが感想なのですが、「本質を見抜けない」「大きな存在」「分かり難い関係」なら、何も書かないことです。
 
楽山の書く文章には、文章から、感動とか感慨とか、大事なものを取り去った鶏ガラのような印象があります。味が無くて、腹も頭も心も壊してしまいそうなので、飲みこむことが出来ません。
 
>・一条悟の退社時に、同僚たちが頭を下げて詫びている。
 
この一行では詫びる情景もあらすじも浮かんでこないこと、お構いもなく、思いついたら書いてゆく、という楽山の、いい加減人生の話になります。
 
>・万年筆を立てて書いている。カリカリ音が聞こえてきそうだ。
 
だから、何なんでしょうか。
 
・ラストシーンでは、一条悟はひとりで山の方へ歩いている。「ひとり」が強調されているようだが、神道では、山というのはあちら側の世界ということになっているのではなかったか。また山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」というものがある。青山とは墓場のことだという。このラストシーンには、何か意味がありそう。
 
さて、もう一度言いますが、楽山は、HSを批判していたのではなかったでしょうか。何が言いたかったのでしょう。受け入れたのか批判したのか、肯定か否定か、この記事を書いた目的が不明です。いったい何を読者に伝えたかったのでしょう。
 
注意し警戒してください。人生至るところに青山あり、というのもありますが、人生、どこに、落とし穴を設けて、自己中カルトが待ち構えているかも分からないのです。
 
特にネットには、どんでもない人物が、責任を問われても無視すればよいと、ネットの気軽さに乗じて、だまし文句の詭弁を、そして、見かけだけの優しさを、共感もなく独り笑いながら用意して待っているのです。
 
楽山は、青山には独りで行くように。
 
・一番最後に「この映画は事実に基づいたフィクションです」と断り書きがでてる。そりゃそうだろう。
以上、映画を見ていて、こんなことを思った次第である。
メモはもうちょっとあるけど、全部書き写すのは大変なので、とりあえずここまで。
 
私としては、楽山が、いかに不真面目な文章を、考察もなく自己満足だけで書いてくるか、ということを表すことが、ずっと、務めになっています。
 
楽山の、思ったこと、というより、思いつきを、そのまま人に見せる、という、読んでもらうための手続きを全く考えない自分勝手な趣味の放言であり、無駄が多く、ゆえに、やたら長くなっていて、全体にも、部分にも、自己中な性格が、にじみ出ている記事でした。
 
そして、楽山には、誰も近づかないでください。楽山は、登るのに楽な山に落ちている空き缶のような人です。片づける必要があるのに誰もやらないくらい面倒なのです。楽山に関わることは、人生の時間の無駄というばかりでなく、取り返しのつかない人格破壊という墓場に続く道です。
 
 
無駄
むだ
 
 
(2020年10月31日)
 
 
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  楽山の悪魔志向
 
 映画『プルーフ 神の存在』を見た
 2020年10月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、超常ホラー信仰は、超常悪魔信仰なのでしょうか。楽山の、偏狭な視野と、偏向した思考と、偏執的な想像が、乱暴な筆致によって明らかになっています。
 
神の不在はもちろん、神の存在も、人間に証明は出来ません。神という信仰対象は、人間に証明できる対象ではありません。全能の神へは、信仰のみが成り立つのです。
 
不完全な人に、完全なる神を証明することは出来ないのですが、神について、超常のほうに話を持って行く者たちがいて、宗教と信仰を、心の無い超常の辻褄合わせにして、否定しようとします。
 
楽山は、そういう典型で、動かない安物の鋳物のようです。いずれ、ほこりまみれになって放置されるでしょう。
 
神の証明に執拗にこだわる者は、おとぎ話の超常にこだわる者です。そういう話に、いくら付き合っても、埒(らち)が明かないので、左右されてはいけないと思います。
 
特に、楽山は、反キリストなので、神についての話を、超常の作り話で片付けたいだけです。批判して解説しても、心の無い楽山には、宗教にも信仰にも、何の理解もありません。
 
*ネタバレ
gyaoで、映画『プルーフ 神の存在』を見た。あらすじは、次のようなものだ(以下、ネタバレ有り)。
天才学者であるジニーンは、宗教はまったく信じない無神論者であり、ある筋からの情報を得て、神は存在しないことを証明する論文を発表する。
 
いかにも、宗教は敵で、宗教を信じると人格がおかしくなるとでも思っているところの、極めて、おかしいところの、絶対偉いのは自分ではないかなあ・・と思っている楽山が好みそうな映画です。
 
これによって宗教の権威は失墜し、多くの人々が信仰を失い、悩み苦しむ結果となる。ジニーンは、この段階になって良心の呵責を感じはじめ、ついには自分は悪魔に操られていたことに気づくのだが、時すでに遅し…。
映画の構成は、過去と現在を行ったり来たり、現実と夢(妄想?)が入り組んでいて、話が分かり難いところもあるのだが、根幹のストーリーは、大体こういう流れだろう。
 
宗教の権威が失墜したら、多くの人々が信仰を失ったら、悩み苦しむでしょうか。だいたい、人間の宗教組織に、それほど権威があるでしょうか。宗教を敵とする楽山の、宗教についての極端に偏向したホラー的な見なしがうかがえるところです。
 
楽山は、あっさり「悪魔に操られていた」と書いていますが、映画では、どういうふうに描かれているのでしょう。楽山の趣味的宗教観からは、恐ろしく超常の呪いの魔術のホラーだけが描かれる化け物映画だろうだろうと思いますが。
 
人間は、しばしば、悪意をいだき、悪意によって行動しています。日常的に、それは起こっています。反省力があるから、人間でいられるのです。
 
悪魔を、ホラーで考えることしかできないのは、既に、殆ど、だます悪意のみによって動いている楽山のような人間でしょう。さて、悪魔とは、どういう存在でしょう。楽山を動かしているのは何なのでしょう。
 
*見どころ
作中では、序盤において、「神は存在するか?」というテーマで、熱い議論がかわされる場面があるのだが、ここでの主人公の主張にはなかなかの説得力がある。
宗教には、とても神が存在するとは思えないような汚辱にまみれた歴史があるので、主人公がしているように、聖職者らの不品行の例をつぎつぎに挙げられると、「ああ、神はいないんだなあ」という感慨を抱かないではいられなくなるのだ。
 
宗教を敵とし、自身が宗教の敵でもある楽山が、この映画を取り上げる明確な理由が「ああ、神はいないんだなあ」であることに暗示されています。
 
確かに、楽山には、神の恵みは分からないかもしれません。無反省で、はぐらかすように、ああでもないこうでもないと、好きなように、宗教などを、愚痴のようにしつこくけなして、責任を負わない楽山に、神の恵みが伝わるとは思えません。
 
無責任という不品行の源泉が、不品行について語っています。
 
理屈としては、聖職者がどんな罪を犯そうとも、それは人は不完全だということの証明にはなっても、神は存在しないことを直接に証明することにはならないのだけれども、それはそれとして神の陰に隠れて悪行を続ける聖職者の存在は、自分の信仰心に何らの影響も与えないというわけにはいかないのだから仕方がない。
 
宗教を揶揄して、嘘を吐き、だまして、後悔せず、反省せず、おのれに慢心して、なおも、宗教にケチを付けながら、言いたい放題で、責任を負わないことが、楽山の精神内界に、原因となり、結果となっているのは、火を見るより明らかです。
 
今回も、大好きなホラー映画で、ケチの語源である怪事(けじ)を付けてくる楽山です。楽山には、宗教は、フィクションでしかないからでしょう。分からないなら、何も言わなければいいのに。
 
*なぜ?
とはいえ、このテーマの議論では、神の存在を信じる側も、信じない側も、確たる証拠もなしに、自分の意見を相手に押し付けようとするのは、どうしてなのだろうと思う。
現実には、神は存在するという証拠も、神は存在しないという証拠もないのだ。それだったら、「私は神は存在すると信じる」とか、「私は神は存在しないと信じる」などと言うことはできても、「神は存在する」と断言して、それを相手に押し付けることも、「神は存在しない」と断言して、それを相手に押し付けることもできないはずだ。
 
このように、言論の自由と勝手を混同して、責任を負わない楽山のような愚か者は、平気で、神はいないとブログで主張しておきながら、批判されると、何も反論・弁明できず、断定できないことをもって、自己正当化をしてくるのです。
 
常識が欠如すると、こういう、おかしな屁理屈の理路になります。いったい誰が、神の存在を、他者に押し付けられるというのでしょう。読者にはすみませんが、・・バカか・・。
 
はっきり強く主張することより怖いのは、いつのまにか肯定するように、暗示的に、刷り込もうとすることです。楽山は、殆ど、記事を書くたびにやっていることです。丁寧語の恐怖なのです。
 
初歩的なことさえ何も理解していない楽山が、そういう刷り込みを常習的にやって、キリスト教をおとしめてくるから、読者が誤解してはいけないので、批判して、楽山を否定しているわけです。これからも続きます。
 
したがって、楽山は、あらゆる思想の交流は、丁寧語と、冗談と、楽山特有の曖昧なボンヤリ言語以外では不可能、と言っているようなものであります。
 
ゆえに、こちらは、賛否の議論・考察・弁明・批判があることを認めず、明確な責任ある意見に、反論するでも弁明するでもなく、無責任ないちゃもんをつけて、ただただ、おのれの慢心だけを膨らませてゆく楽山の性癖を、継続的に全否定してゆきます。
 
ですから、楽山の発言は、全部、曖昧であるか冗談かのどちらかということになります。つまり、まともに相手にしてはいけない人なのです。真に受けると酷い目に遭うとは、このことです。だから、精神の詐欺師なのです。
 
でもどちらの側も、平気で自分の意見を相手に押し付けようとすることが多い。こういうことは実にばかばかしいことだと思う。
 
はっきり意見を述べるのと、楽山のように詭弁や暗示で刷り込むのと、どちらが卑怯でしょう、どちらがバカバカしいでしょう。本当に、楽山は、交流とか、人間関係とかが、まるで、出来ない人だということが表れています。
 
また、宇宙や人類の起源について、神を持ち出すことなく、説明することができたとしても、それはあくまで「宇宙や人類の起源は、神を持ち出すことなく説明できる」ということではあっても、神は存在しないことを証明したわけではないだろう。
 
このように、人間同士の主張に、いちいち、ボンヤリ言語としての「説明できる」という字面の語尾を付けることなどに、異常に、こだわるのが、楽山の特徴です。しかし、楽山自身は、今まで、実に臭い詭弁を弄し、嘘を吐き、破たんした理路をばらまいてきた張本人です。しらばっくれるとは、このことなのです。
 
これについて創世記の記述に反するというならまだ理解できるけれども、神は存在しないという主張だと解して反発するのはおかしなことだ。
 
まだ、創世記の記述を、キリスト者はそのまま史実として受け取っているという固定観念で話をしています。つまり、楽山の理解は、創世記に達していないのだろうと思います。何度も書いてきたのに、読まないで、あるいは、読んでも、同じことを書いてくるわけですから、楽山は、まだ、人間になっていないのでしょうか。だから、同じことを書いて満悦するのでしょうか。
 
創世記の史実性は不明です。神話かもしれないという解釈は、神が万物と人を造ったという実存性のほうが、史実と考えるよりも、よほど、意義があるからです。実存というのは、今の人間も、神に造られた被造物だという考え方です。創世神話と呼ばれることもあるわけです。
 
このように、解釈の分かれているところを、キリスト教では文字通りに受け取っている、という決めつけでしか語れないところに、楽山の恣意的な策略の、貧弱さが表れているということです。まったく、笑止であり、批判を経ても成長がない、という特徴が表れているのです。
 
ちなみに、カルト的精神というのは、そういう訂正不能に固着したところから始まります。だから、楽山は、安易にキリスト教を決めつけているカルトなのです。しかも、自己愛からの自我崇拝のカルトなのです。さらに、無反省と無責任に、悪魔的に結実してしまっています。
 
シャロームは約十年の批判を無視しています。楽山は、約1年半の批判を無視しています。いかなる刺激に対しても、決して学習せず成長しないで、同じことを言って、けなしてくるだけ、という、救い難い堂々巡りに陥っているシャロームと、その仲間である楽山なのです。病質的カルトという以外にないでしょう。
 
巷には、宗教絡みの議論だと、すぐに極論にはしる輩がいるし、本作でもそういう登場人物ばかりだけど、なんでそんなふうになってしまうのか、自分には謎である。
 
言論の自由をもてあそんで、根拠もなく神を否定し、一方で祈り芝居をしておきながら、極論に走るのはよくないとばかり、言論の責任を感じないでいられる楽山は、これからも、言論において、多大な迷惑をかけ続けるであろう変質者なのです。
 
*本音
本作は、表向きは「無神論の背後には悪魔がいる」というメッセージ色が強いが、人物描写に限って言えば、無神論者以上に、聖職者や信仰者の方が醜悪に描かれているようでもある。はっきりいえば、本作の聖職者や信仰者は、傲慢で強権的だったり、妄信に陥っているようだったりで、カルトっぽく表現されている。
この点からすると、本作の目的は、無神論を批判するためという単純なものではなさそうであるし、製作者はなかなかの策士かも…。
 
人物描写にかこつけて、聖職者と信仰者を醜悪だという印象を吹き込もうとしています。「聖職者や信仰者は、傲慢で強権的だったり、妄信に陥っている」も同様です。これが、楽山のやり方です。
 
語尾にこだわるとか断定とかを問題にしながら、やわらか刷り込みのつもりで、ガラスの破片ような否定で、血のりを付けてくるのが高慢な楽山のやり方です。「…」は、その一種でしょう。
 
楽山は、根っからの詭弁屋そして陰謀屋なのです。そして、いつも、自らの安物を売りに来ます。悪魔はどういう人間の振りをするか、考えてください。そして、気を付けてください。
 
悪魔は、必ずしも、超常の生きものではありません。しばしば人間に巣食っています。悪性度の高い悪は、必ずと言ってよいほど、善の仮面を身に着けています。そして、人間の心を支配して、否定も肯定もしにくいような、そう言えばそうかなあ、と思わせるような言い方で、すり寄ってきます。
 
そういう、人間の悪意というものを見てきた人が、悪魔、という存在を想定したのだろうと思います。悪魔は、人間の悪意がモデルなのです。時に、恒常的に、悪意をいだく病質者がいます。
 
そして、罪悪感も反省力も責任感も持たない楽山のような者が、人間集団の中にいて、オモチャのように、神も人間も自由自在に扱うことを欲して、詭弁や誘導や印象操作によって、遊んでいるのです。
 
これは、思った以上に、大いなる災いであります。楽山には、良いところが、どこにも、見い出せないからです。どうか、楽山に近寄らないでください。楽山の餌食にならないでください。
 
 
えじき
えじき
 
 
(2020年10月30日)
 
 
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 原初から2
 
  2012年02月24日の記事
  「原初から」を修正再録
 
 
原初の信仰が生まれるとき
それは復活の類似体験である
と言えば、かなり語弊があるかもしれません。
復活=死人が蘇る
という先入観があるからです。
 
キリストの復活と違って
ここで信仰における復活というのは
それまでとは違った生の体験として
人を解放するということです。
 
原初体験は
自由意思による神のみへの服従の決意へと導きます。
つまり
神への服従が
人の世の様々な執着からの解放だということです。
 
勘違いしてほしくないのは
人の世を無視するということではないということです
無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても
それに耐えて生きるための信仰であります。
 
つまり神への服従というのは
襲い来る不幸に
いつまでも泣いて過ごすか
信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと
そうとも言えない神秘の部分があります。
不思議な御縁ということです。
 
原初体験は出会いであり
縁付くことであり
絆されることであり
これらは
ある種の受身の直感~直観であり
芸術の享受にも似るが
恋愛や結婚にも似ている。
 
具体的に言うと
イエス・キリストを好きになることです。
 
むしろ享受しながら
そこから何を目指すことになるか
という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか
自分の確信で自分を縛り付けてゆくか
自己陶酔に陥るか
これらは目に美しく耳に心地よい偶像に
人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであり
人間の作為は
原初の面影すらないところへ向かうでしょう。
 
信仰は
自由と服従のバランスではなく
思いわずらいからの自由と
人間らしさへの一途な希求であります。
 
ゆえに信仰においては
自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく
 
よって常に信仰はその原初から
自他による思いこみや固定観念を
吹き込まれたり糊塗されたりすることを
拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は
個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために
こうせよという一つの言葉で確定できるものではないと思います。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰であるために
祈りだけは必須ということになるでしょう。
そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは
嘘と飾りは通用せず
ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
完全な信仰などあり得ません。
 
信仰とは
人間の不完全を
神によって赦されて義とされることです。
 
 
     原初2
             原初
 
 
(2012年02月)
(2020年10月29日、修正再録)
 
 
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  アドラー教について2
 
   アドラー心理学サロン
 
 
以前の記事を加筆してアップします。
 
短い言葉で人生を断言することの無理が表れています。
言葉で表すということに、恐れをいだかない者の所業でしょう。
自己中心、結果に対する無責任、逃避、鈍麻、の勧めと言ってよいでしょう。
 
人間関係を考える上での安易さが作り出した心無い短絡的豪語。
カルトであって、心理学という学問ではないと思う。
 
人間関係の中では、他人には素直になってはいけない時もある
自分に素直になれないと、自分を押さえ付けてしまうだけ
本当の自分を押さえ付けてしまうと、自分の気持ちを満たすことができない
一度きりの人生、この世界にたった一人しかいない自分を幸せにできるのは自分だけだ
 
自己中の臭いがプンプン
 
他人の意見を無視して、自分をコントロールしないことが、自分を幸せにするのか、
それとも、怒りを買って、殴られ、逆に、無視されることになるのか・・
 
>好きの反対は無関心、嫌いの反対は好き
 
言葉の細工をして何になるでしょう。
 
>本気であなたを嫌い、見下しているのなら人は無関心になるのです
 
殴ってくる輩もいるでしょう
 
嫌いだからって文句をつけてきたり、嫌がることをしてくる人は本心ではあなたに構ってもらいたいだけ
 
そういう気色の悪いことを言って、シャロームという自己中の訂正不能の妄想を広めている愚か者もいます。相手を怒らせて退かせようというナルシシストの憎まれ口の一つ。怒気が籠っている。
 
要は自分の不幸をあなたのせいにしようとしているのです
そんな人達は完全に無視をしよう
 
無視して解決したことにしても、相手は無視されて、批判者となっているわけです。
無視するという態度は、関係がなくなることではなく、人間と見なさない、という、とても冷たい態度として受け取られることを分かっていない。心が無い人の思いきり方。
 
>みんなが自己中になれば、世界は平和になるのかも。
 
という意見がありました。
人間が何も求めないということはなく、自己中に求めるなら、
世界は、大小の諍いや闘いや戦争に入り乱れるでしょう。
 
この世界は全てが移り変わり、過去を正確に覚えている人間は一人もいない。
あなたがどんな失敗をしようと、どんな恥を晒しても、誰もあなたのことなんて覚えていない。
根本的に、人は他人に興味は無い。
どう思われるのかを気にしたところで、あなたのことをそこまで思ってるのはあなただけです。
 
ごくまれな、思いやってくれる人さえも、失ってしまいそうな乱暴な言い方です。
 
冷静に考えてください。次から次に、言葉の暴走です。
そもそも、幸せになる方法を、言葉ですっきり表せる、という考え方が間違っていると思います。
 
「暗い」のではなく「優しい」のです。
「のろま」ではなく「ていねい」なのです。
「失敗ばかり」ではなく、「たくさんのチャレンジをしている」のです。
捉え方を変えるだけで、短所も長所になります。
ポジティブに捉えるか、ネガティヴに捉えるのかで、見える世界は大きく変わります。
 
暗くて冷たい人もいるでしょう、のろまで雑な人もいるでしょう、失敗ばかりで、たくさんの機会を駄目にすることもあるでしょう、・・ここまで来ると、言葉を捻じ曲げる暴力。独りでポジティヴに曲げていると、曲げていない人から攻撃されるかもしれません。全部、自画自賛ではないか。
 
捉え方を変えているのではなく、言い方を細工しているだけではないだろうか。
口八丁手八丁で、言葉は変えられるが、関係は変えられない。
人は、勝手に扱われることを決して好んだりはしない。
また、ネガティヴを忘れて、ポジティヴになろうとすれば、お祭り騒ぎになるだけでしょう。
豪語ばかりで、しんみりと納得できる要素が感じられません。つまり、深みがないのです。
 
勘違いしている人に、物事を分からせようとしてはいけません。
勘違いしている人は、その勘違いの世界で生きています。
軽く諭しても変わらないのなら、そのままにしておきましょう。
あなたが消耗するだけです。
あなたの考え、相手の勘違い、どちらが正しいのかにこだわっても消耗するだけです。
 
「あなた」については、考えと、「相手」については、勘違いと、当てるのは恣意的です。
 
勘違いは、一時の間違いから訂正不能の妄想まであります。そこを明らかにしないまま、無視して、放置して置くと、言葉で割り切るほどには、割り切れない関係が、返されてくるでしょう。
 
どちらが正しいのかにこだわらない、という割り切り方は、
消耗が明らかなときに限られるのです。最初から割り切るのはカルトです。
 
精神衛生の問題は、自己中では解決しません。
 
いじめられたら、すぐに逃げ出してしまいましょう
そんな人達と関わる必要も、我慢する必要もありません
あまり我慢して、我慢している自分に酔ってしまう方がよほど問題です
 
つまり、こういう教えの先には、しばしば、逃げる、ということが付いてきそうです。
逃げられない場合を考えないのは、教える側が、言葉だけの気安さだから。
 
我慢して、我慢している自分に酔うかどうかは、自分の問題です。
忍耐せずに、結果を見ずに、言葉だけ、逃げを勧めるのは、
それこそ、教える側の、逃げなのです。
この無責任な説教者を、逃がさないようにしてください。
 
いじめ、嫌がらせには、大した理由はありません。
「自分が悪いのかな?…」なんて考えてはいけません。
 
自分が悪いんだと思い込む必要はありませんが、だからと言って、自分が悪いのかな?という思考を忘れることは、無反省の自己中心を勧めることに他なりません。
 
本気であなたが嫌いなら、そもそも関わってきません。
自分の虚しい思いを、いじめや嫌がらせで発散しているような人間と関わる価値はない。
そんな人間や場所からは、離れてしまいましょう。
 
本気で嫌いになったら、逆に、無視、疎外、物扱い、嘘、暴力、など、ヤバい人から、いろいろな方法で、返される可能性~危険を考えないのでしょうか。
 
>悪口を言ったり、いじめをするような人達は永遠に不幸のどん底に生きる
 
永遠とは、どん底とは・・呪いか、預言者か・・。
 
>幸せな人や努力出来る人は、悪口を言ったりいじめなんてやる暇は無い
 
幸せと自己中は違います。自己中は、悪口や、いじめを、返してくるでしょう。まるで、誰かを呪っているような言い方をしています。また、脳天気な見方でもあります。
 
絶望して、自分を惨めだと思っているから他人を傷付けて憂さ晴らしをする
他人のあら探しをして優越感に浸ったり、自分を大きく見せることがその人達の人生
 
自分に都合の悪い人を、憂さ晴らし、優越感、大きく見せる、と罵って無視しておれば、
悪口、冷たい、という評価が返ってくるだけでは済まない場合があります。
 
要は、人間関係において起こっている精神衛生上の問題を、人間関係そのものを自己中に変えて、都合の悪いことを気にしなければいい、無視すればいい、という方向に短絡しているのがアドラー教、つまり、このアドラー心理学です。
 
人間関係の問題は、自己中からの短絡思考による無視では解決しません。叩かれることに対しては、感性と知性による反省力と、強い忍耐力と防衛力によって、耐性を身に着けるしかないのです。
 
心理学の名を悪用したカルトだと思います。どうか、近づかないでください。
 
 
 
約10年間、自己中妄想教理?が訂正不能な偽者の自称クリスチャンと、
約1年半、アドラー教を宣伝している自己中に関わって、批判しています。
二人とも、ここで宣伝しているようなことを、日常的に実践しているかのような者たちです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12537802783.html
人の都合を全く考えない、とてつもなく迷惑な存在として、
自己中に固定して、こちらの理路を全く把握できない、
返せるところだけ返して理路がバラバラになっている、
仲間の言うことには無条件で賛成する、
感情が鈍化している、
無反省で学習機能が無い、
昔の疑問がずっと今も疑問のまま建設的な思考が出来ない、
ああでもないこうでもない・・結論が出ない、
相手を疲労させるだけの言い逃れの山、
さらには、どんどん口が悪くなり、中身がなくなる、
それで、真っ当な議論をしたつもりになっている、
裸の王様、独りよがり、インテリ気取り、
誰も認めていないのに、自尊が過大で、してやった根性、
上から見下ろす態度、見せかけだけの丁寧語、
掘り下げることも深めることも出来ない、
同じことを何度も言ってくる、
そういう人、まるで、議論にもなりません、話になりません。
 
言葉は気安く使われますが、言葉を過信しないでください。現実の事態は、もっと複雑です。人間関係は、複雑です。それを表す言葉も複雑になります。歯切れの良さや、思い切りの良さに、だまされないでください。そういう説教には、説教者の経験からの主観的な過激な勢いまかせが入っているものです。
 
自分にとって気に入らないというだけで、不可避であることの根拠が不明確のまま、ばっさばっさと無視してゆくならば、反省が疎かになり、人間性の鈍化を招き、他者の言動に鈍感なボンヤリ人間をつくるでしょう。
 
かつ、そのために、知らないところで、いつのまにか自分に人格破壊が起こっていることに気づかなくなってしまう恐れがあります。上の二人が、まさに、そうです。
 
 
                         自己中
            自己中
 
 
(2019年10月24日、同日一部修正)
(2020年10月28日、加筆して再録)
 
諍い(いさかい)
罵る(ののしる)
 
 
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踏む、堕落、信じる (旧作+信仰)
 
 
(批判の速報)
楽山は、「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(2)(3)を書いてきました。「馬型宇宙人」とか出てきたり、死んだ後の地獄霊救済とか書いていて呆れますが、楽山自身の意見は、ずいぶん少なくなって、荒唐無稽の超常に遊んでいる感じです。どんどん少なくなって、無反省で無責任で無神経な楽山が、何も言わなくなることを心から願っています。
 
 
   踏む
 
踏まれた虫は
踏まれて無視されるが
 
踏まれたという怒気の記憶が
踏んだ足の裏に跡を残す
 
無形の返し技
 
取るに足らぬ者が
街を行けば
 
一歩一歩に別の世界を踏み
 
故郷から
 
足取りも覚束ない異土の住人になってゆく
 
見知らぬ街に
いつもの顔は
いつもの顔か
 
足下は
なじみの故郷でしょうか
 
そうして
目覚めればいつも仰天している
 
日常はいつも前人未踏である
 
 
(2016年08月16日)
(2019年10月20日、一部修正)
(2020年10月24日、一部修正)
 
故郷(ふるさと、こきょう)
異土(いど)
仰天(ぎょうてん)
足下(あしもと)
前人未踏(ぜんじんみとう)
 
 
  堕落
 
苦し紛れの眼力に
辻褄合わせの関数になるくらいなら
言葉など壊してしまいたい
 
 最初に捨てた季節
 
身に受けた水分が
潤いにならないのなら
排泄だけが気象を変えるのか
 
 最初に泣いた砂
 
動いていることさえ否定して
歪んだ凹凸を笑みと言うのなら
剥がしても潰しても顔ではない
 
 最初に折れた距離
 
堕落は草花の痛覚に息をする野原で。
 
 
(2016年07月??日、同日一部修正)
 
覚束ない(おぼつかない)
眼力(がんりき)
歪む(ゆがむ、(ひずむ))
凹凸(おうとつ)凸凹(でこぼこ)
剥がす(はがす)
潰す(つぶす)
 
 
  信じること
 
宗教は一対一の説明をしたがるが、
信仰は辛うじて多義と不全を磨こうと思う
 
信仰は信じることではない
好きになること
生きる縁になってほしいこと
 
自分を見捨てないで見ていてくださること
祈りの正直さだけが通用すること
 
宗教はいつも説明したがるが
信仰は辛うじて不完全に受け取り
不完全に悲しみ
不完全に喜び
不完全に導きを知る
 
不完全は完全の真似をしたがるが
完全はそれでも不完全を愛するという
 
 
  神学とは
 
神学というのは神を知る学問ではありません。
神という不可知の絶対者の存在から人間を知る学問です。
 
私たちに必要なのは人間を知ることであり
超常は神に任せよということです。
 
神学の名のもとに神と超常ばかり語るのは
学問ではなく
ついでに言ってみた趣味の想像でしかありません。
 
聖書は神の存在を語りますが
神の意志と行為がわかる本ではありません。
 
勘違いしないでほしいのです。
聖書が語るのは
一途に
いかなる人が神から義を得たか
いかなる人がキリストに癒され救われたか
という
あくまで
善悪併せ持っている人間についての
人間に必要な
人間の
大きなそして深いテーマなのです。
 
 
ちなみに私は神学を勉強したことはありません。というのも、ネットに出ている神学の記事を見て、人間に関係のある話には興味を覚えますが、神がどうこう聖霊がどうこう・・というだけのような話には、私は、まるで感受性がなく、共感を感じることが無かったからです。私は、あくまで人間と人間の持ちうる信仰について知りたいし語りたいのです。
 
宗教と信仰を語り伝える相手は学者ではなく、あくまで一般の人々ですから、信仰の糧にならない神学は無意味です。
 
 
ふむかおちるか

踏むか堕ちるか
 
 
(2019年10月23日、過去作、修正、再録)
 
(2020年10月27日、旧作一部修正加筆して再投稿)
 
辻褄(つじつま)
縁(よすが)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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