ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年10月

 
  楽山の企みごと
 
 「鬼滅の刃」と「幸福の科学」
 2020年10月25日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、思考と学習の障害のために言葉が拙劣で、かつ、落ち着いた平常心がないので、いつも、何か、企(たくら)んでいます。楽山は、本心から、どうしても言いたいことなど持っていないので、企まないと書けないのかもしれません。
 
つまり、楽山の書く文章には、必然的に、だます意図がある、人を操(あやつ)る意図がある、つまり、作為的にしか、動けない、書けない、話せない、ということなのでしょう。
 
*霊的な危険性
ツイッターを見てたら、幸福の科学(HS)の会員が、「鬼滅の刃」の危険性を訴えていた。
(省略)
プロフィールには「発信する内容は私見であり責任は古山」とあることからすると、この発言は教団の公式見解ではなく、個人的な意見ということなのだろう。
*鬼の霊言
でも最近、HSでは鬼の霊言が公開されたらしく、アンチ諸氏の間で、次の記事が話題になっていた。
記事中から、「鬼滅の刃」に関連する箇所を貼るとこうなる。
「鬼滅の刃」に関係する黒鬼より、「鬼滅の刃」鑑賞者を“鬼化”して操ろうとする狙いや、日本古来の裏側系の宗教を復活させようとする意図が語られました。
・新たなリーディングと霊言の開示「UFOリーディング―馬型宇宙人の予言編―(ウマリー星)」+「『鬼滅の刃』が流行る理由(わけ)―黒鬼/草津赤鬼の霊言―」 - 危機に立つ日本
 」
こうしてみると、古山氏のツイートは、私見としつつも、実際にはHSの意向にそったものであるといえそうだ。
それはそうと、HSに出てくる霊は、いつも、みんな口が軽いね。たくらみ事でも何でもぺらぺらしゃべっちゃう(笑)。
 
軽くても正直ならば嘘を吐くよりはマシということです。楽山は、軽口で、しかも、嘘を吐きます。そして、あとで、責任を、いっさい負いません。
 
さらに、企みごとを、一切、しゃべりません。楽山の本性がバレないようにしているつもりなのでしょう。つまり、楽山の思想は、考えた計画などではなく、企みごとであり、その本音を、一切、しゃべらないのです。
 
しかし、結果としては、その文脈と理路と筆致と言葉づかいから、楽山の企みごとは、バレてしまっているということです。
 
*はてな?
ところで、一応、自分は元信者なので、古山氏の意見の大枠は理解できなくもない。「鬼滅の刃」には、愛、友情、努力、反省などが描かれてはいるが、それ以上に、残酷な場面は多く、怖ろしい姿の鬼も多数出てくる。前者ならまだしも、後者の要素は非常に危険であるから、この影響は受けないように注意が必要である。云々と。
 
楽山は、鬼が恐ろしいから影響は受けないように注意、などと書いています。常識ある楽山を出したいようだが、丁寧語で言いながら、罪悪感を持てないサイコパスに近い楽山は、自らの悪鬼と悪魔を隠しているのです。楽山は、フィクションの鬼などよりも、よほど、リアルに恐ろしいのです。注意というより、楽山に、近づかないでください。
 
また霊的な影響を持ち出すまでもなく、残酷描写、異形の怪物など、ホラー的なものが苦手の人は、「鬼滅の刃」は避けた方が無難ではあろうとも思う。
 
フィクションだと分かっておれば、楽山のような、恐ろしく冷たい人格よりはマシだと思います。楽山は、自らの残酷さと、醜さに、全く気づいていないことが表れています。自覚がまるでないのです。楽山は、人にアドバイスできるような人ではありません。
 
でもさすがに、「「鬼滅の刃」鑑賞者を“鬼化”して操ろうとする狙い」という話は、いささか馬鹿げているように思える。「鬼滅の刃」を見て、炭治郎に感化され、愛に目覚める人はいても、鬼に感化され、鬼になろうとする人っているのだろうか。
映画が大ヒットすれば、観客数は増えるわけだから、その中からおかしな人が出てくる可能性も増えるのだろうけれども、観客が次々に鬼化して行くというのは、ひどい妄想だと思う。
 
既に、嘘と詭弁の、だまし屋の楽山として、霊が分かるっぽい酷い妄想で、人をたぶらかしては、無反省と無責任で、善人ぶるだけの楽山は、鬼より怖い存在です。今日も、自己正当化に唾を飛ばして、無駄に終わる人生を続けて、真実から遁走しています。
 
*愛の前に敵なし
ちなみに自分は、「鬼滅の刃」を見て感動したクチである。映画はまだ見てなくて、gyaoで無料配信されていたアニメを見たくらいだけども、主人公である炭治郎の生き様は、まさに愛の前に敵なしというものであり、感動させられた。
 
楽山は、感動したクチなのだそうです。なぜ、カタカナで書くのでしょう。嘘だからでしょうか。もちろん漢字で書いても、楽山の偽りの口など、決して信じてはいけないということです。
 
「愛の前に敵なし」・・こういう大袈裟で単純で見え透いた言い方しかできない楽山です。「感動させられた」・・感動したと書かずに、させられたと書くのは、いかなる責任も負わないできた楽山の履歴が影響しているのでしょうか。いずれにしても、安っぽい感想文になっています。これが、楽山の文才ですから、嘘も結局バレるのです。総ての人に、一刻も早く、バレてほしいと念願しています。
 
少し具体的なことを書くと、こんな感じだ。いちいち場面、状況について詳細な説明はしないけど、アニメを見た人なら、どの場面について書いているのか、およその見当はつくと思う。
炭治郎は、妹が鬼になっても決して見捨てない。妹を救うために全力を尽くす。
妹を守るためなら、土下座もするし、命がけで柱とも戦う。
炭治郎の愛は、人が持っている鬼に対する偏見も消し去る。
炭治郎を知った者は、みな協力者になってゆく。
鬼を差別せず、人としての尊厳を認める。
鬼の苦しみ、悲しみを理解し、寄り添おうとする。同悲同苦の徹底。
人の心を失ったかに見えた鬼でも、そういう炭治郎の前では反省をはじめる。
炭治郎の相手を信頼する心、率直さ、ほがらかさは、柱や鬼だけでなく、頑なな少年の心も、閉ざされた少女の心も、解きほぐして行く。
自分としては、「鬼滅の刃」が大ヒットしているということは、こういったことを理解、共感する人が、それだけ多いということなのだろうと思う。
 
楽山は、誰も救いません。謝ることもしません。自分の命と満悦だけが大事です。楽山についての批判は、お伽噺ではなくリアルの問題なので、偏見ではなく、実際の脅威のことです。
 
楽山には悪い仲間はいますが、楽山には共感性がないので協力者はいません。楽山は、人の、いちばん大切な尊厳をおとしめてゆきます。
 
楽山は、理解力も共感力もないので、それを、言葉だけ書いて、ごまかそうとしています。楽山は、反省という言葉を書いても、前後の文脈に反省が表れることがないため、嘘だと分かります。
 
楽山は、実際には、決して反省をしません。決して楽山に心を開かないでください。このアニメに賛同し共感する人に、楽山は含まれません。
 
楽山は、リアルに丁寧語でだます分、フィクションの鬼より怖い存在です。必要なのは、楽山が批評するのを聞くことではなく、楽山に忍耐強く抵抗して、楽山が隠すものを批判によってさらす刃なのです。
 
現代の鬼は、目に見えるうわべだけを、よさそうに整えています。
 
*水と油
ついでに、HSについても感想を述べると、HSは「鬼滅の刃」とは正反対であるように思う。
 
楽山の、丁寧語のだまし、詭弁と嘘、正面から言論しようとしない卑怯さ、無反省と無責任、これでは批判する資格はありません。楽山こそ、まさに「鬼滅の刃」の正義とは正反対であります。
 
まずHSは、権威主義的な団体であって、教祖である大川隆法の前では、何人でも頭をたれなければならないところだ。でも炭治郎は、たとえ柱という権威ある存在であっても、妹を傷つけたならば頭突きをお見舞いする。お館様の前でも、言うべきことは言おうとする。
 
楽山は、訂正不能な権威を自己に与えて修正不要とした立場から、楽山の記事において、他者について、いろいろ批評や批判を言ってきます。いつも、そうです。楽山は、評論家気取りだけで、実質は、真逆のことをしているわけです。
 
炭治郎のような正々堂々としたところが、リアルで詐欺師キャラを持っている楽山には、皆無です。楽山の言うことには、信じるに足ることなど、一言もありません。何故なら、何度も言っているように、無反省で無責任の思いつきだからです。
 
ずっと批判されて、何も返せないのに、まだ、まとも芝居をして満悦する楽山は、凄まじく氷結した厚顔を持っており、怖い鬼よりも、はるかに厄介なヒト型害毒なのです。
 
またHSでは、敵認定した相手に対しては、徹底的に貶めることをする。たとえ教祖の妻、子であっても容赦しない。でも炭治郎は、鬼に対しても人としての尊厳を認め、それを侵す者は、たとえ柱であっても注意する。柱が、死んだ鬼の着物を踏みつけているときは、足をどけるように求める。
 
楽山は、敵だろうが味方だろうが、他者のことなど、あわれみの言葉を発するが憐れむことなく、丁寧語で言うが騙(だま)し言葉の暴力であり、まるで、人の中にいて説明口調でありながら、周りに人亡きがごとく振る舞い、悪しき方向へ誘導する、という慢心した男です。
 
HSは悪霊悪魔を非常に恐れる。上のツイートのように、たとえエンタメ映画であっても、地獄と波長同通する可能性があれば、それを見ることを恐れる。でも炭治郎は、鬼と徹底的に向き合う。意見の合わない柱にも立ち向かってゆく。鬼からも、意見が合わない相手からも、決して逃げない。
 
楽山が悪霊悪魔を恐れないのは、霊が分かるっぽい自覚だからでしょう。楽山が聖霊とは到底思えないので、楽山は、悪霊悪魔に親和性があるのかもしれません。そして、嘘と詭弁で言い逃れしまくっています。
 
HSでは、一般の信者だけでなく、幹部、功労者、教祖の家族でさえも、次々に離反し、批判者になっているのが現状だ。でも炭治郎の場合は、出会う人たちはみな協力者になってゆく。
HSと「鬼滅の刃」の相違点は、この他にもいろいろあるだろうし、まさに水と油である。
 
楽山と「鬼滅の刃」は、水と油ではなく、楽山は、登場する鬼よりも、リアルであり、かつ、丁寧語を使うために見分けにくい分、楽山のほうが鬼より怖いということです。
 
HSが広まらない、映画が流行らない一因は、この辺りにもあるのだろうし、関係者はこの点について研究してみてはいかがだろうか。こんなことを書いても、余計なお節介にしかならないのだろうけれども、成功している映画を貶すより、そのよいところを学び、自らを反省する機会にした方が、自らのためにも、他人のためにもなるのではないかと思う次第である。
 
楽山は「思う次第である」などと丁寧語で言っていますが、実際は、楽山の思い次第で好きなように、芝居をしているだけなのです。「よいところを学び、自らを反省する」と、小学校の道徳のようなことを言っていますが、その道徳を一番踏みにじっているのが、楽山その人であります。
 
私のブログには、楽山批判記事が、恐らく百を超えて蓄積されていますし、今後も積まれてゆくでしょう。にもかかわらず、楽山は、悪口機関銃になった以外には、一向に気にする様子がありません。何故でしょう。根っからのワルだからです。今度は、私が、カタカナを使いました。
 
毎度毎度、ほんとに気持ち悪い楽山です。楽山の言は、誰のためにもなりません。全部、企みの嘘と言ってもいいでしょう。楽山は、一見、やさしい性格に見えるような文章を書きますが、実際は、自分のために、他者がどうなっても、何とも思わない、何も感じないような、自己中なのです。
 
楽山の記事から、口だけみたいな、悪い政治家の詭弁みたいな、何らかの胡散臭さを感じる人は、感性が機能している人だと思います。楽山が言ってきたことを整理してゆくと、その矛盾と偽善性は、より明らかになるでしょう。
 
しかし、楽山のような人を放置すると、弟子みたいに真似する人が出てきて、無反省と無責任の師弟関係みたいになり系譜のように続く可能性が否定できません。弟子は、もはや、楽山を否定することが出来ず、洗脳されて奴隷みたいになって、どうしようもありません。こうなるのが、カルト的な人格破壊ということになるでしょう。
 
ですから、まだ、半信半疑の人は、どうか、楽山から離れてください。そして、今後、楽山にだけは関わらないでください。そのためにも、楽山には、近づかないようにしてください。
 
 
たくらみ

企む者
 
 
(2020年10月26日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  続・楽山の批判者気取り
 
 信者とアンチの対立(ツイッター上における愛色騒動)
 2020年10月24日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、いかに、かっこつけて、HS批判をしているかということです。楽山の発言と、あとは、抜粋して、記事の対象とします。楽山と、HS批判者と、HS信者が登場しています。
 
評論家気取りが特徴の楽山は、一皮むけば、無反省、無責任の自己中なのです。楽山の、正義の味方気取り、中立中庸気取りにだまされないでください。
 
いかなる思想集団や、討論・議論に参加しても、信頼したら、結局、いちばん大事なときに、はぐらかし、「とも言えない」口調などのボンヤリ口調で、はぐらかし、平気で裏切る、それが楽山です。
 
だから、そのうち、殴られるだろうと、私は、書きました。進めば、殴られるだけでは済まないような事態もありうると思います。楽山だけは、決して、味方だと思わないように願います。
 
「 」は、信者かアンチの発言の引用です。この両者の是非について、私は、関わりません。ただ、楽山は、肯定的、または、否定的な、何らかの意図をもって引用しています。私は、自己愛性パーソナリティの楽山を批判するために、引用しているだけです。ですから発言者のHNは隠しています。
 
なぜ引用したかと言えば、楽山は、賛同したから引用している、あるいは反対だから引用している、という点において、楽山を探る要素となり、かつ、楽山は、引用する立場には立てないこと、逆に、批判されるべき立場である、ということを明示するためです。
 
無反省無責任の楽山に他者を批判する資格はありません。
 
A氏は、〇氏を誹謗中傷しておきながら、それについて注意されても、謝らず、発言も取消さず、スルーしてるという流れ。
 
キリスト教をけなしておきながら、取り消さず、自らへの批判をスルーする楽山に酷似しています。
 
>「証拠もないのに決めつける○○の科学の信者が多いのに驚きます。」
 
証拠もないのに決めつけるのは、楽山の特徴です。筋を通した弁明も反論も全くできない人だからです。楽山はインテリではありません。楽山はインチキです。いかなる言論にも参加してはいけない、参加させてはいけない人だと判断しています。
 
証拠の提示を求める声が相次ぐ。
でもA氏は、これに答えず、ブロックで応じた。
 
証拠の提示、というのには注意が必要です。証拠がないじゃろ!出してみろ!と言って、批判者側に負担を掛け、疲れさせる手段として悪用される場合があります。
 
証拠の提示を根拠とするのは、裁判など、また思想集団などのように、時間と人員に、十分な余裕がある場合に限られるかもしれません。
 
理路において、人間として考えて、根拠があればよいのです。
 
>「都合が悪くなった途端に喧嘩口調がどうのと言い訳して見苦しい」
>「悪印象を持たせるデマを吹聴するだけして逃げてゆく卑怯者」
 
楽山は、幼稚な言い逃れを、数知れず、してきました。また、楽山は、先入観を吹き込む刷り込みが、印象操作としての常套手段の一つであります。
 
>批判に対し、スルー、ブロックで応ずるという愛色氏の対応に、失望の声が出る。
 
スルー・ブロックという無視も、楽山の常套手段です。好きなところを、いい加減に、かじって、気に入らないところは、スコ~ンと無視するのが大好きで、もはや日常となっている楽山です。
 
>「信者の間では「教団を批判する人間には何をしてもよい」という認識」
 
楽山は、正当な、いかなる宗教の信者でもありません。個人カルト、という、自己愛と自己中から成り、無反省、無責任で、まとも芝居をするのが生業となっている偽善者です。つまり、楽山は、我執の奴隷であり、近づく者を悪用して、耐えがたい疲労を与える害毒です。
 
スルー、ブロックについて
ちなみに自分は、スルー、ブロックを全否定するつもりはない。
 
他者の意見の、スルー、ブロック、即ち、無視は、楽山の日常です。楽山が、平気で、やってきたことです。つまり、楽山の逃げ足は早くて速いので、注意が必要です。
 
たとえば、信仰はいかにあるべきかとか、教義解釈はどうあるべきかというような神学論争的な議論については、
 
楽山は、「信仰はいかにあるべきかとか、教義解釈はどうあるべきかというような神学論争的な議論」も、他の議論も、討論も、議論も、できるような器を持っていません。何を語っても、反省せず、責任取らず、では、言論など、できるわけがありません。
 
なのに、気取りだけで、一人前の顔をする詐欺師的インチキなのです。楽山の言うことを、柔和で、冷静で、やさしい人、などと思って受け入れるような、犠牲者には、決してならないでください。
 
信者とアンチというように正反対の価値観を持っている者同士であれば、双方が合意できる結論を見出すことは困難であるし、ある程度のところで議論を切り上げるという選択は必ずしも否定されるものではないと思う。
 
一方的に切り上げるのは、一方的に無視することです。意見の訂正をしないのなら、弁明か説明が出来るはずです。楽山は、それが全くできないために、無視を正当化し、ここで、自己中の、宣伝にとどまらず、伝染させようとさえしています。
 
でも今回のように、誰が何をしたという事実に関する議論であれば、証拠の提示を求められるのは当然であるし、これを拒否することはできなかろう。自身の発言の正当性を担保するに十分な確かな証拠を提示してもなお、しつこく因縁をつけてくる相手に対してはスルーもやむをえないだろうが、その証拠の提示をせずに反論をスルー、ブロックするというのはいただけない。
 
証拠にこだわるのは、上のほうにあるように、相手を疲労させるためで、一方、楽山の言には、決定的に、根拠が示されない、という特徴があります。楽山が返してくるのは、いつも、決めつけか、因縁付けか、嫌がらせの類であり、反論にも弁明にもなったことがありません。
 
どういう考えでスルー、ブロックしているのかは分からないが、自分はこのように考えるので今はスルー、ブロックするときではないと思う。愛色氏には誠意ある対応を求めたい。
 
誠意が、一貫して、全く、一度も、見られたことのないのが、楽山です。「誠意ある対応を求めたい」などと、正論ぶった言い方をしていますが、彼は、まともな議論のできない病質者です。
 
相手の内面を悪く想像したら、即、ダメというわけではないのだが、さして根拠の提示もなしに、勝手な思い込みで決めつけるようなやり方でそれをするのはいただけない。ここは注意すべき点だと思う。
 
こういう決めつけを、それだけを、ずっとしてきたのが、楽山であります。楽山には、言うべきであります。お前は、決定的に、ダメです、異常者なのですと。
 
HS信者をみていると、真偽の確認を怠り、思い込みだけで決めつける人が少なくない。
 
これこそ、時々に、楽山が、常習として、やってきたことです。誠意がなく、思い付きであり、無反省、無責任に、小中学生レベルの幼稚な言に、インテリ風味を塗りたくって、送ってくる異常者、それが楽山であります。
 
何度も指摘したのに、何も気にしない、何も気にならない、そして、平気で気取った書き方を、またしてくる、というところが、楽山の狂気と病気の、病巣であり、有毒な体液でもあります。
 
また、アンチをブロックして反論を封じた上で悪口を言う人たちもいる。全部の信者がそうではなかろうが、そういう信者をちょいちょい見かけるし、けっこう多い。
 
楽山がやってきたことです。病質者で罪悪感というものを全くいだくことがないので、できることなのです。自分を、神のごとく崇める自己愛から、即ち、我執から見下ろして、総て他者を劣った者として、好きなように、いじって、捨てて逃げているのが、楽山です。
 
今回もそのパターンのようだったので、記事にまとめてみた次第である。幸福の科学と、その信者に興味がある人にとって、なんらかの参考になれば幸いである。
 
「まとめてみた次第である」「参考になれば幸いである」といった丁寧語、これが、評論家気取り、中庸気取りの、楽山の武器なのです。だまされないでください。本性は、ケダモノといってよいと思います。
 
ちなみに、幸福の科学(HS)では、大川隆法は、イエス・キリストが、我が父と呼んだ存在であり、主であるとされている。したがって、HS的には、主が水木しげるの霊を招き、オバケのポーズをとったということになる。
なんといったらいいか、大川隆法も、その信者も、怖いものなしだなと思う。
 
仏様の心が分からない親族に驚いた記事を載せて、霊が分かるっぽい自覚で、超常の霊のことを、思い付きで語り、人を引き寄せ、だまして、バレたら、逃げること、逃げること、腰の抜けた幽霊のように、人格としての、しっかりした骨組みもなく、ぼうっと出没してくる楽山です。
 
楽山は、HS批判をしているつもりのようだが、楽山には、批判者の資格がない、ということだけを、ここでは言いたいわけです。
 
どんなに醜いさまを露呈しても、平気で、HS批判者を気取るような、理路破壊者の楽山に対して、こちらは、HSにもアンチにもつかないで、楽山を批判するための理路の骨組みを、想定しつつあると思っています。そういうことは、楽山には決して出来ないことですが、努力というものは、してみるものです。
 
楽山には理路も論理もありません。楽山には共感力もありません。楽山は、思想の皮だけで出来ている存在です。その場その場で、その時その時で、主張がころころ変わるような無責任かつ無反省の者は、言論の場から、永久追放されるべきです。
 
楽山が、誰からも、無視され、スルーされ、ブロックされることを願ってやみません。人間が、相手が異常者という条件の下で、難を避けるために、唯一、無視してよい対象、それが、楽山のような自己愛性の病質者であります。どうか、関わることのないように、近づかないように、願います。
 
無反省と無責任、これを、何度、指摘しても、なお、インテリ気取りの、正義の味方気取りの、ヒーロー気取りの、批判者気取りで、ねちねちと書いてくるのが、楽山です。
 
柔和な?うわべの見せかけとは全く異なるところの、何ものをも恐れない自己絶対の怨念と怒気を持っているからでしょう。それ以外の、例えば、良心などの、本当の柔和さを、毛ほども持っていないということです。楽山に見習えば、同じようなものになり、人間ではなくなります。
 
 
 正直に疑う人(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年10月24日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の自己正当化の嘘と詭弁が、オーバーで、芝居がかっていて、思いっきり、きれいごとだけ並べていて、ものすごいことになっています。
 
*疑心があるとき
かつて、とある宗教を信じて信者になったものの、さまざまな理由からその宗教が信じられなくなって悩んだことがあった。
 
楽山は、病質者なので、本気で悩むことなどありません。平気で嘘を吐きますが、同じように、最初から、信じる気などないのです。つまり、この発言こそ、楽山の大嘘なのです。真面目に悩む心など、良心など、まともな性格など、楽山は、持っていません。
 
信じなくてはならないと思うのに、どうしても信じることができない、でも棄教すれば地獄に堕ちるというし、それなら信じきれてないけれども信者は続けようか、いやいや信じきれていないのに信者を続けるのは嘘であろうし、それは神を騙すことになるのではないか、それよりは正直に信じられないものは信じられないとするべきではないか、
 
楽山は、その体質が異常なので、信じなくてはならない、などとは、全然、思っていなかったし、また、今も思っていない、ということです。総ての、真面目な人間の敵であり、だますことに生涯を費やして悔いない人です。そういう体質なのです。
 
嘘の信仰より、正直な棄教の方が正しいのではないか、自分に正直になった結果、裁かれ、地獄に堕ちるなら、それも本望ではないか…などなど。
 
楽山は、こういう丁寧な、実は詭弁の合理化によって自己正当化をしてきました。一見、まともそうな文章に、だまされてはいけません。
 
楽山は、宗教嫌いで、宗教的センスも持たずに、ゆえに、その必要性も全く認めておらず、天国を認めないのだから、地獄も信じてはいないのです。また、大嘘を吐いています。息を吐くように嘘を吐くのです。
 
最終的には、自分は自分に正直になる道を選んだのだけれども、これはどうやらシルバー・バーチ的には正解だったようだ。
 
楽山は、他者に対しても、自分に対しても、正直な性質など、少しも持っていません。他者には平気で嘘を吐き、自分には何事につけ、無理だと気づかず、次から次に、無意識に、合理化・正当化で納得し満悦して、その結果、誰に対しても、無反省と無責任の、大嘘吐きの大根役者となって、信頼度ゼロになってゆくだけです。自己愛の自己中の病質とは、このようであるという見本のような人です。
 
かつ、よく知らないけど、楽山は、何も理解できていないのに、「シルバー・バーチ的には正解」などと言って、意見が一致しているかのように、シルバー・バーチという霊と霊言に、責任と罪を押し付けようとする卑怯さです。
 
私は決して正直に疑う人を非難しているのではありません。もともと神は人間に理性的判断を賦与しております。それは日常生活において行使すべく意図された神からの授かりものです。理性を抑圧して理不尽なものを信じさせようとする者は光明へ逆らって生きていることになります。理性に従う人間はその過程がいかに苦痛でいかに困難であろうと、そして又その結果、神聖にして侵すべからざるものと教え込まれた聖典に記されているものを放棄せざるを得なくなったとしても、少なくとも自分には正直であると言えます。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.181)
「正直に疑う人」というのは、面白い表現だ。これは一度聞いたら忘れられないだろう。
自分は、自分に嘘をついて信仰するよりは、正直に疑う人でありたいと思う。
 
楽山は、正直に疑ったことは、一度もありません。楽山は、宗教について、無理解のくせに、いちゃもんを、そして嘘を、ふざけ半分で、吐いてきたのです。
 
楽山は、信仰を知らないまま、文句だけを言うので、神からの授かりものなど知らないまま、つまり、正直を知らないまま、嘘吐きの大人になっています。
 
楽山は、理性を抑制するのではなく、理性を育て損なって、理性とは全く異なるところの、ねじ曲がった自我の先入観によって、人を丁寧語でだまし続けています。しかも、責任を負いません。
 
楽山は、無反省で無責任なので、いつも、遊び半分で、何よりも苦痛を味わわないように、都合が悪くなると、断定してないと言い張り、逃げ回ってきました。
 
放棄する対象を、「神聖にして侵すべからざるものと教え込まれた聖典に記されているもの」と言っていることに、白々しさを感じます。楽山は、都合の良い言葉を、本から漁ったりはしますが、聖典を読んだことはないと思います。もし読んでいたなら、読解力がないことを証明したことになります。何より、楽山にとって、神聖なのは自分だけです。
 
つまり、楽山は、言葉の調子合わせだけの、白々しい嘘吐きであることを、ここで自ら証明しています。楽山は、信仰から不信と疑惑に変わったのではなく、最初から、何も信じてなどいない人です。
 
つまり、楽山は、ここで「正直」という言葉を宣言していますが、楽山に、正直さなど、微塵もありません。放棄せざるを得なくなったなどと言うことはありません。元々、何も信じる気などない人です。宗教を、バカの持ち物として扱って、揶揄したいだけの自己愛の病質者なのです。
 
その分、この1年半の間に、楽山が、決めつけと先入観だけであり、信仰について、何も分かっていないことが、明らかになっています。楽山には、良心がなく、良心によって思いを一つにすることもなく、互いに共有したり共感したりすることもないのです。
 
楽山は、自分に嘘を吐くことと、他者に嘘を吐くこととが、区別できていないと思います。だから、どちらも反省せず、責任を感じないのです。
 
自分に嘘を吐くならば、それは信仰とは呼びません。ゆえに、楽山は、嘘でも、正直でも、信仰したことはないと思います。
 
また、正直に疑うことも、一度もありません。言い換えれば、楽山の総てが嘘と芝居と詭弁で出来ているのです。正直など、どこにもありません。ゆえに、真面目を装って何か言ったとしても、それも信頼してはいけません。正直さがない分、楽山は、本気で信じているカルトよりも悪質だと言えるでしょう。
 
 
楽山は、都合が悪くなったら、無反省に、平気で責任放棄して、逃げますから、そうなる前に、最初から、または、できるだけ早く、楽山が来たら、相手したりなどせずに、一目散に、逃げてください。決して、楽山の犠牲にならないように、関わらないでください。また、近づかないでください。
 
罪悪感のない酷いインチキとは、この楽山のような人のことを言います。人間だと思わないでください。虚言製造の脳と虚言発信の口の付いた人体に過ぎません。約一年半、変わりありません。
 
私は、楽山を柔和な人だと勘違いして、だまされていた約半年と、何も分かっていないと知って、とんでもないと批判してきた約1年半の体験から、楽山については信頼度ゼロと判断しています。私は、言うべきと判断したことを言っているだけです。
 
楽山が何を丁寧に語りかけてきたとしても、楽山は、徹底して根こそぎ否定されるべき人であり、決して、まともに応答してはいけない相手です。
 
既に、数えきれない文章の破綻によって、結論が出ているのに、良心が欠如しているのか、高等感情が麻痺しているのか育っていないのか、あるいは、自尊のために退くことが出来ないのか、性懲りもなく書いてきて、かえって、虚言と精神詐欺と自己執着の証拠を積み重ねてしまう楽山です。
 
楽山から、良きものを、そのヒントですら、受け取ることは決してないと思います。
 
 
cf.今までの楽山批判記事は、
「楽山日記(LD)」で、私のブログ内検索。グーグル検索では「楽山批判」で検索。
 
 
インチキ
インチキ
 
 
(2020年10月25日、同日一部修正)
 
 
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  カルト予備群2
  
   去年の記事を現時点に合わせて加筆修正しています。
 
 
シャロームshalomは、現在、所在不明ですが、
キリスト者そして元牧師と称しながら
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい
と言っていた人です。
これはキリスト信仰とは真逆の信条であります。
つまり反キリストであり、個人カルト教祖です。
受け入れられて広まれば
権威という実行力を持つ社会悪となる危険があるということです。
 
楽山は、元HS信者と言い
HSを批判しているらしいが
キリスト教を否定する記事を書いています。
しかし一方で
あたかもキリスト者であるかのような
芝居がかった記事を書いたりもします。
 
つまり楽山は
一定の一貫した主張の方向を持たず
その時その時の思いつきだけで茶化しているだけであり
持ち前の何の糧にもならないような
ああでもないこうでもないと言うだけの
私が名付けた "ボンヤリ言語" とともに
また言葉面だけで
文脈もブログ記事の流れも何も変わっていないところの
見せかけだけの嘘の反省言葉や謙虚芝居などの
私が "トホホ言語" と名付けている白々しい言い方を合わせて、
訪れる人を油断させてを望ましくない方向に誘導する
という自らの悪意の自己顕示欲を満たそうとします。
 
楽山は恐らく
宗教など何も信じてはいないと思います。
 
楽山は
上にあげたシャロームの信条を無条件に味方するのだから
キリスト教について何も知らないばかりか
恐らく信条など持っていない。
楽山は
神がいるならなぜ悲劇が起こるのかなどと
神が自分の都合に合っていないことをもって
キリスト教の神を否定しています。
楽山は
恐らく若い時に抱いた疑問が今も疑問であり続けて
進歩も学習する姿勢もないのでしょう。
 
神がいるならなぜ悲劇が起こるのか
私は知りませんし、そのような問題の解決が
宗教や信仰にあるとも思いません。
しかし実際に
悲劇が起こる地上であるからこそ
折々の癒しと生きる力が必要であり
キリスト者は信仰を求めるのです。
楽山の理路は逆であり
信仰の理路も共感も持っていないということです。
 
つまり
何ごとも克服できないまま
名のある言論者の記事を恣意的に引用して
キリスト教に文句だけを言い
何の解決にも勇気にも結び付かない否定を書いて
ただ自らを言論者として高めようとするだけです。
それは名のある看板を悪用する醜い因業でしかないのです。
 
楽山の言うことを
キリスト教とキリスト信仰だと思われてはたまらない
という動機で、批判を書き続けています。
 
楽山やシャロームのような者は
自尊はあるが謙遜のない者として
誰とも共感できず共有も成立しないために
うわべの言葉だけ丁寧で謙遜を装い柔和な評論家に見せかけているが、
その狭小で偏向した思想の中身は一方的で訂正不能である分だけ
真剣な言論者に対しても真面目な求道者に対しても
糧を与える代わりに精神の疲労を与え
無駄な時間を費やさせる悪意の病原と言えるでしょう。
 
シャロームは
その信条の固着から
うわべの丁寧語と聖書語とは裏腹に
恐ろしい敵意と怨念とを表してきました。例えば
「stさんの信頼を失っても、わたしに失うものは全くありません」と自尊と優位を誇り、
「邪推と妄想はstさんの専売特許」と、根拠のない決めつけを語り、
「stさんに同調し、支持し、私に対して注意された方のHNを教えてくださいませんか」と、嫌らしい丁寧語の当てつけで、お仲間という数を頼んでの皮肉を言うなど、正常な理路を失って、むしろ、相手に打撃を与えようという悪意の意図だけがあからさまになります。
しかし、カルト信条のシャロームの仲間の数が多いなら、それは、そのまま、社会の脅威なのです。
 
そういうことで、シャロームの本音を読み解いてきて、
シャロームは、人間にとって大切な多くを失いながら気づかず、
理路も共感も皆無であると判断するに至っています。
 
楽山は
つい先日2つの
だらだらと長いだけの記事によって
悪口の機関銃となることを自ら証明しました。
それは批判などとは程遠い嘘と決めつけと我執が見え見えの
とても醜い記事でした。
 
楽山は
そのアドラー教と呼んでいる信条
すなわち
気に入らないことは総て無視して
自分の軸だけで散発的に反応して満悦している自己中であり
自己愛性パーソナリティ障害と考えれば
理路の幼稚さや共感の欠如や罪悪感のないことが説明できるでしょう。
 
この二人のそれぞれの
反キリストとアドラー教において
その主張の方向性は酷似していて
実際に仲間として動いていることから
同一成りすましの疑惑も続いています。
そうでなくても濃密な仲間であろうと思われます。
 
二人に共通しているのは、自尊過大、無反省、無根拠、無責任、理路の欠落、詭弁による誘導、嘘吐き、共感性の欠如、訂正不能、学習障害、自己中心、根拠のない確信、うわべだけ優しさを装う世辞と丁寧語による偽善、ときに漏らす本音の憎まれ口、他罰的、認識の未熟、異常の自覚がない、罪悪感の欠如、思想家気取り、高等感情の鈍化、等々があります。
 
総じて、謙遜の言葉は使うが、わざとらしく、白々しく、実際には、謙遜・謙虚・敬虔の欠片もないことが文章と文脈を検討することによって明らかであります。
 
 
信仰は、思いこみではないと書いたように、根拠のない確信を打ち砕く方向に力を持っています。全知全能の存在を恐れるゆえに、思い込みの先入観への我執や誤った確信を戒める心と姿勢を、敬虔と呼びます。言い換えると、神の前で、自分は高いとか、大きいとか、分かってるとか、知っているとかは、言えなくなるということです。
 
もちろん、逆方向の誤りに行ってしまう場合もあり、日々の祈りにおいて、告白し、反省しなくてはいけません。信仰は、そのために与えられ、そのことが、信仰者としての成長を可能にします。
 
神様からの恵みだからと、人間として為すべきことのうち自分で出来ることも怠って、神に任せます、と言うなら、それは、シャロームと楽山の怠慢の迷路に似てくることを肝に銘じたいと思います。
 
 
私たちは、自由意志を持っています。神が、人間に、それを望まれたからです。
 
私たちは、自由意志で、信仰告白をしてキリスト信仰の世界に入り、キリスト者になるのです。
 
ゆえに、人間が、神からの賜物である自由意志を軽視しては、信仰は成り立たないのです。
 
折に触れて、神が、自分に何を期待しておられるのだろうと考えながら生きることになります。でも、答えが、いつもはっきり分かるとは限らないので、決めつけてはいけません。分からないときには、祈り、赦しと癒しと導きを祈り願います。そこから始まったのだから、そこで終わるのが、キリスト者の生き方です。
 
祈るしかない、という時が、折々にあります。
 
 
忘れてはいけないこと
忘れてはいけないこと
 
 
(2019年10月21日)
(2020年10月24日、加筆修正して再録)
 
 
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  楽山のゴシップ趣味
 
 『釈迦とイエス』ひろさちや著
 2020年10月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、宗教について、いかに、いい加減な気持ちで、本を読んでいるかが分かります。そして、前に、好き勝手に嘘と詭弁の2つの記事で嫌がらせをしておいて、こちらの返した批判に対しては、いっさい無視していることも、明らかになっています。
 
著者は本書の冒頭において、信仰上の仏陀とキリストではなく、人としての釈迦とイエスについて書くとしており、どんな話が読めるのかと期待したのではあるが、釈迦の出家の動機は、さとりのためというより、天女を抱くためであったしている箇所には意表を突かれた。
 
今度は、仏教を揶揄しています。人間らしいところには、楽山は、自らの欠陥のために目がいかず、代わりに、揶揄の材料になることだけを面白がるのです。楽山は真実追求の妨害者そして敵です。
 
著者によれば、当時のインドでは、この世において功徳を積めば、天界に生まれ変わり、美しい天女と戯れ、種々の快楽を味わうことができると信じられており、ヤショーダラーはそれがために釈迦は出家したと推測したという話が伝わっているのだそうな。
 
このような、ゴシップのようなネタを面白がっています。万事、これだけなのです。
 
また釈迦は、美しい婚約者のことが忘れられず、修行に身が入らぬナンダに対して、真面目に修行すれば天界に生まれることができ、そこでは美しい婚約者よりも、もっとずっと美しい天女を妻にできるのだぞと教え諭したという話もあるという。
 
「話もある」というレベルのことを吹聴して、仏教の神髄には一歩も近づけないでいる楽山の趣味と遊びの言が、明らかになっています。
 
それだけを書いて、満悦し、結びには「感動できる」などと、平気で書いてくる怠け者です。楽山に近づくことの災いの予兆が、かなり、はっきり表れています。
 
こうしてみると、著者の話には全く根拠がないわけではないらしい。でもそれでもやっぱり自分は、この手の話にはどうにも抵抗を感じないではいられない。信仰上の仏陀でなく、史実に基づいて人としての釈迦の実像を探るということには意義はあるだろうけれども、釈迦は俗人とさほど変わらぬ下心ありの男であったという見方にはどうにも承服し難いものがある。
 
だったら、書かなければよいのです。楽山が言論者として不適だという根拠は、約1年半にわたって批判記事に書いてきました。人を無視する楽山の特徴が表れています。
 
読者が勝手に面白がっているだろうと思うゆえの、作為の「承服しがたい」だと思います。ここでは、自分だけ、かっこつけようとしているのでしょう。自分だけ、冷静な良い子アピールの楽山です。
 
とはいえ、本書ではキリスト教については、興味深いことが書いてあった。著者によれば、「キリスト教においては、信ずることによって救われるのではない。その逆であって、救われた者のみが信ずることができるのだ」(pp160-161)とのことである。
 
楽山の刷り込みです。"救われた者のみが信ずることができる" という言い方で、救われたという限定で信じればよくて、救われた体験のない人は信じなくていいと言いたいのでしょう。救われていない楽山が、救われない自分を正当化するためのこじつけです。
 
前にも言ったように、救いと信じることとは、因果関係で考えることは出来ません。この2つは、分離できません。信仰は、神と人の心の関係です。信じなければ知らないわけですから、救いとは無縁でしょうし、かつ、揶揄までする者が、嘘の信仰で救われることはありません。
 
前に批判しているのに、反論も弁明も出来ないまま、批判を無視して、自分の言い分だけを繰り返す楽山の自己中の特徴が表れています。
 
この考え方については、キリスト教の神学的な是非判断はともかくとして、この前に書いた記事のテーマと同じものなので、おぉっと驚き、感動できる言葉であった。本を読んでいると、こんな風に自分の考えている事柄に対する答え、ヒントと出会えることがあるので楽しい。
 
本を読んでも、都合の良い言葉だけを漁って、楽山の、不都合を総て他者のせいにして、無視してゆく、病質者の特徴が表れています。
 
楽山は、感動したことはないと思います。これまでの楽山の文章では、真摯な態度が見られず、ことごとく興味本位で、まるで娯楽のように、真実についてのテーマが扱われてきました。だから、「感動できる」などと言葉だけ書いて、感動そのものを表現できないのです。
 
楽山は、本を読んでも、自己中心に、ゲームやホラー映画のように興味本位でしか感想を書けないのです。何ごとにつけ、真剣味が皆無なのが特徴です。
 
一つの辻褄に、自分と同じと思えば、感動という言葉を気安く書いて、好人物を印象付けようとするので、注意が必要です。涙、反省、トホホ、なども書いてきますが、その前後に、実感のある内容が何も見えてこないのが、楽山の特徴です。
 
どうか、楽山には、文章のうわべだけで、決して、やさしい人などと思わないでください。中身は、そのように思われることだけを求めているところの、隠し事だらけの自己愛性パーソナリティ障害の病質者だと思います。どうか、関わらないでください。どうか、近づかないでください。
 
 
遊び半分
遊び半分
 
 
(2020年10月23日、同日一部修正)
 
 
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書いたのは90年代かな・・ブログでは10年前に乗せたもの。
はっきりしない、恐ろしく昔、書いた詩のようなもの。
ブログも十年になると、過去の記事の練り直し再録が増えてきました。
 
「現代詩入門」とかいった本を読んで感動していたのは、
それこそ、全然ぱっとしない青春の70~80年代。
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 ※ 街で、何か恥ずかしいことになったのでしょうね。
  何だったかは、全く覚えてないですけど。
  石ころにでもなったような気持ち。
 
 
  きっと不眠
 
換えたばかりの蛍光灯
これでパッカパッカと
黒ずんだ口を開けたり閉じたりを
当分は見なくてすむのだが
昼間より明るいわけはなく
後ずさりの気配の後
スイッチ切って
ドアを閉めた途端
闇という闇は押し寄せて
大きな大きな目を開けて
この夜は一体だれのもの
きっと朝までにらめっこ
 
 ※ 不眠症は、何十年も続いています。
  といっても本当にそんなに眠らなかったらとうに死んでるから
  眠ってはいるのでしょう。
  眠っていたのだから覚えてはいない、当たり前。
 
 
  挨拶したので
 
「やあ」
「おう」と
手を上げたまではよかったが
そのときパリッと欠けてしまったので
とりあえず型だけ取って帰った
大きくも小さくもない
部屋のすみで
ほこりをかぶって
ひびわれたそいつの
名前をまだ思い出せないでいる
 
 ※ 名前を思い出せないことが
  今、テレビなど見ていても、深刻な問題です。
  母と同じ認知症の始まりかもしれません。
  形だけとっておいた・・というのは、
  まあ、当時、しばらくは顔を覚えていたのでしょう。
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
今も落ちつづけてる奴がいる
 
 ※ 流れ星を見て、星の温度や表面など想像すると、
  こういう残酷な擬人法になった。
 
 
  まずい味噌汁のんで
 
足元をすくわれたと思って
ポンと辞表を置いて
「くそくらえ」とでも言ってから
帰ってきた腐った脳みその
脳だけ置き忘れてきたので
俺の椅子に誰かがすわり
俺の机に知らない本が積まれ
ガヤガヤと会話が音になり始める
今朝を日常だと思ってしまう
 
 ※ 実際には、くそくらえ、とまでは言っていません・・あのときは・・
  当然ながら、自分などいなくても、他人の日常は続いてゆきます。
  去った者は、それを知る由もなく、さりとて、戻る気もなく、
  よく今日まで生きているもんだと思います。
  今日、食べる物はある、でも
  もう、いいんですけど・・と、神様に祈ることがあります。
  分かった、好きにせよ、と返していただけるわけもなく、
  ゆえに、生きているのかもしれません。
 
 
オセロ
オセロ(PC,ネット上、一人用)
私が黒で勝ち。それまで殆ど勝てなかったから、
この段階で白がなくなる・・これはバグだと思います。
 
 
(2020年10月22日、旧作。若干修正して再投稿)
(2020年10月24日、一部修正)
 
 
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