ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年11月

 
  被害的・他罰的2の3
 
   st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
楽山は、引用元記事を、大幅に追加していました。ここでは、追加分を批判します。ここから、私は、新規記事です。ここでも、既に言ったことを、受け取らず、無視して、また、蒸し返して、同じ言い逃れをしています。
 
恐ろしく長い記事です。このように、読者への配慮をしないところが、今までも、しばしば見られたところの、楽山の特徴です。楽山が自己中で慢心する人だという状況証拠でしょう。
 
・stさんは、shalomさんをカルト呼ばわりするけれども、霊感商法をしたとか、献金詐欺をしたとか、自分を信じないと地獄に堕ちると脅したとか、そういう事実の指摘はない。
 
詐欺・恐喝などの被害の出るような犯罪行為が起こってからは、警察の仕事です。批判レベルの追及は、それ以前の段階にあるという判断があるからです。カルトの定義が、楽山とは違います。前にも書いたことですが、楽山は都合の悪いことを無視するのです。
 
もっぱら偽善だとか、悔い改めがどうとか、自分の価値観、判断を振り回して、shalomさんにカルトのレッテルを貼るばかりで、客観的なカルトの基準と比較して、それに合致するからカルトだということはない。
 
批判するべき段階は、この段階です。つまり、シャロームの偽キリスト者だと分かれば、批判対象になります。楽山の言うカルトの基準に合致することは、客観的というより最悪の場合であって、批判の代わりに警察の捜索と取り調べがあるということです。楽山は、人の記事を読まないし、受け取らないので、何度言っても分からない厄介な人です。
 
そこで私は、藤倉善郎の「カルトの定義をめぐるあれこれ」を提示しつつ、カルト呼ばわりするなら、違法行為や人権侵害の事実を指摘するべきであって、それができないならカルト呼ばわりすべきでないことを指摘した。
 
違います。カルトの犯罪性は、教義の反社会性の段階で分かる場合があります。シャロームの偽キリスト教は自己中に神を結び付けたものであり、意図的であろうとなかろうと、キリスト教を名乗っている以上、偽物であり、十分に批判対象となるのです。
 
これに対して、stさんの反論は、何かあってからでは遅いとのことだった。彼は何か悪いことをするに違いないから攻撃するというのは、明確な人権侵害だろうが、そんなことは気にしないらしい。
 
私が見ていないあいだに、楽山は、好きなように書いていますが、皆外れています。何か悪いことをするから攻撃するという理由ではなく、言っていることがキリスト教ではないからです。ゆえに、言論レベルで厳しく批判するべきです。何か悪いことをしたら、警察です。楽山は、そんなことも分からないのでしょうか。
 
このように、楽山は、悪質な詭弁で正当化してきます。ゆえに、今後も、決して、手を緩めることなく、批判し続ける必要があることを、再認識しています。
 
ちなみにstさんのいう「何か」とは、その後、shalomさんや楽山によって自分は消されるかもしれないという発言していることからすると、殺人事件を念頭に置いているらしい。
傍から見て、shalomさんに殺されるかもしれないというのは極端な被害妄想だし、そんな妄想を根拠にカルト呼ばわりするのはおかしな話だ。
 
凄い出まかせを書いています。楽山の攻撃とはこういうものなのか、だとしたら、楽山という人間に嫌われると、殺人事件にまで話を広げて、おとしめられるということです。生来の嘘吐き、そして、詐欺師なのかもしれない。人格障害は、既に、詐欺など犯罪一歩手前か、一歩入っているのか、平気で嘘を吐く楽山は、極めて凶悪です。
 
・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。
それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。
 
私の批判を、私怨レベルに、おとしめる楽山の詭弁と印象操作の誘導です。こういう、おとしめ、けなしの類しか書けない楽山です。ということは、宗教を語る資格など微塵もないワルだと、楽山は、自分で証明しているわけです。
 
stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。
 
ここは、既に批判したと思う。上に書いたように、えげつない悪口を書いてくる楽山、人間とは思えないです。サイコパスそして虚言癖の詐欺師人格と言ってよいでしょう。何か言えば、自分の都合で嘘を吐くのでしょうか。既に素人ではなく、前科でもある人なのでしょうか。
 
・stさんは、楽山はクリスチャンになりすました、クリスチャン芝居をしたと非難した。
私は前々から自分はノンクリであること、無宗教であることを書いているので、なぜそういう話になるのか分からない。
 
私は、祈りのようなスタイルのクリスチャン芝居をしたと書いています。「無宗教であることを書い」たうえで、そうしているなら、それこそ、平気で事実を捏造してくる確信犯です。言論どころではない、ネットからも完全に追放するべき男なのです。倫理も道徳もあったものじゃない。
 
・stさんは、今でもshalomさんが悔い改めは必要ないといったと非難し続けている。私はこの件について、shalomさんに確認したところ、悔い改めは必要だという回答を得た。でもstさんをその後も、shalomさんが悔い改めは必要ないと言ったといいつづけている。
shalomさんが過去にそういう発言したのか、そう誤解される発言したのか、それともstさんがそう思い込んでいるだけなのかは、私は判断する材料は持たない。ただshalomさんが悔い改めは必要だと明言しても、stさんの見解は修正されなかったとはいえる。
 
ここも、でっちあげです。シャロームが、悔い改めは必要だといったのは、悔い改めは神が与える、という、とんでもない妄想からの発言であります。
 
悔い改めは、超常現象ではなく、人が、自らの自由意志によって、正直に、罪を悔いて、神に告白をすることです。悔い改めは神が与えるなどと、では、いったい誰が悔いて、改めるのでしょうか。言ってることがメチャクチャなのです。二人は、あらゆる良心の敵です。
 
・stさんは、たびたび、「私の批判対象はshalomだ」という言い方をする。
ここから、stさんの目的は、真実の究明ではなく、相手の人格を否定することにあると察せられる。
 
真実追求の邪魔となり妨害となるような、自らの妄想をキリスト教というシャロームと、手段を択ばず、それを詭弁で応援する楽山を、決して許してはならないと再確認します。
 
それだから、shalomさんが間違った場合はもちろん、正しいことを言っていても、それを素直に認めることはなく、表面的にはいいことを言っても本音では悪いことを考えているにちがいないと邪推して、shalomさんの言う事、する事すべてを否定するのだろう。
 
基本が妄想なのだから、シャロームが、信仰について正しいことを言ったなどと言うことは、一度もありません。つまり、楽山とシャロームについて、それが、信頼度ゼロと言うことです。既に、何度も書いています。だから、全否定であり、誰も近づくべきではないのです。
 
ちなみに今は、楽山に対しても同じ扱いになっている。「私の批判対象は楽山だ」として、楽山の人格すべてを否定することにやっきになっている。
 
今回も、その決意を新たにすることになるでしょう。人格が腐っていると判断しています。言ってみれば、自己愛性パーソナリティ障害→サイコパス精神病質だと思う。そういうことしか、書く者に表れていないからです。今回も、というより、今回、まさに、そうなのです。
 
これに対して、私の立場をいうと、真実究明のための議論、対話なら参加する意義はあるだろうが、楽山のすべてにケチをつけて否定したいという悪感情に染まっている相手には、私から何を言っても無駄であろうし、そういう偏った主張は、良識を持つ読者には何らの影響も与えないだろうから、いちいち反論する必要もなく、stさんが正常な判断力を早く取り戻すことを祈りつつ、スルーするということになる。
 
偏っているのは、楽山が悪意全開になっていることです。もはや、楽山に正常な判断力はなく、悪意による事実の捏造と、悪意による詭弁と、悪意による策略と、極めて異常な人格が楽山の本質だとしか言えなくなってきました。誰も近づかないでください、誰も関わらないでください、一日も早く、楽山がネットから消えることを目的とします。
 
・stさんは、shalomさん、易坊さん、楽山らが、自分の知らないことを書くと、インテリ気取り、知ったかぶりだと言ってケチをつけることが多い。こういうところは、自己の屈折したプライド、知的劣等感をさらけ出すことに躊躇ないように見える。
 
インテリ気取りでしかなく、正体は悪意だと、今回、まさに、楽山が、証明しています。屈折というより、既に、曲がって折れてしまっているのが、楽山という病質者の本性です。ここまで行ってしまうワルだったか、という感想を、今回、読みながら、書きながら、実感しています。。
 
>でも私は、自分がまだまだものを知らないという自覚はあるし、
 
こういう謙虚芝居のトホホ言語を、楽山が武器にしているという情報を敷衍(ふえん)したいです。
 
自分に新知識を与えてくれる人は好きである。私にもプライドや知的劣等感はあるけれども、
 
無反省で無責任であるなら、学習することはなく、新知識が身につくはずはないのです。また、楽山のこの記事を見ても、平気で嘘を吐く者に、何的劣等感もないと思います。楽山は、本性を表して、だまし方も、詐欺師のそれになっています。それを生業としてきたのでしょうか。
 
だとしたら、既に、被害者もいるかもしれません。批判より、手錠が必要かもしれませんが、私は、批判しかすることは出来ません。
 
>それより知識欲、知への憧れの方が強い。
 
楽山は、知への憧れなどのような真っ当なものは、何も持っていないと、今回、証明されたと言ってよいでしょう。欲望だけで、嘘を平気で吐くような者には、いかなる同情も禁物です。ネットでもリアルでも、楽山という変質者を、恐怖し、逃げてください。
 
shalomさんのように、その時々の話題に関連した聖書のことばを、さらっと言えるのはすごいと思う。これには向上心を刺激され、自分も勉強しよう、聖書のことを知りたいという気持ちになる。
 
そのような気持ちになる人が、上のような口から出まかせを書くことはないでしょう。嘘です。楽山は、反吐(へど)が出そうなお世辞を言っています。こういう人だったのですね、尻尾を出しまくっています。
 
一方、stさんの文章は自分の事は棚に上げて、人の悪口ばかりで読むのに苦労する。先日みたコメ欄では、shalomさんのポスター貼りのボランティア活動にさえケチつけているのには驚き、あきれた。現実に、世の中をよくしようと活動している人に対して、ネットであれこれ書くだけの人がケチつけているようだったので。
 
楽山の場合は、自分の欠陥も失敗も間違いも嘘も隠蔽して、さらに嘘を吐いて飾って、トホホ言語で謙虚芝居をして、とでも書けばいいでしょうか。信頼度は、ゼロでしたが、今はマイナスです。楽山の言うことは、何も信用できないばかりか、捏造に満ちています。楽山は捏造の世界で生きているのです。凄まじい勢いで、白(しら)を切っています。
 
批判は必ずしも悪ではないと思う。自己研鑽に努めている人が意見するのは意義があるだろう。世のため人のための活動をしている人が、意見するのも意義があるだろう。仮にそれらができなくても、自分なりに努力している人の意見であれば、説得力があり、傾聴に値するだろう。
 
楽山に、それを言う資格はありません。ここに書いている、悪を行い、自己研鑽の欠片もなく、存在意義もなく、世のためにも人のためにもならず、自分のために悪を積むのが、楽山の本性です。そういう実績だけを積んできたのでしょうか。
 
でもキリスト者を自称しつつも、教会には行かない、聖書は通読してない、ボランティアも奉仕活動もしていない、そのつもりもないらしい人が、他人を批判したり、信仰について説教するというのはおかしい。そういう人にも言論の自由はあるだろうけれども、その意見は説得力は持たなかろうと思う。
この辺りの感覚、考え方は、stさんと私とでは全然合わないらしい。
 
私は、怠慢でダメな人間ですと、正直に言うことが、信仰者の除外事項にならないばかりか、そのまま、悔い改めの祈りに通じることを、楽山は全く知らないということです。反キリストだからです。
 
そして、偽善者で偽牧師のシャロームを、褒めたたえる楽山は、結局、シャローム信者でなければ、反キリスト、反信仰者と呼ぶしかないでしょう。何も分からずに、あるいは、開き直って、楽山は、おめき続けています。
 
・以上、経緯を述べるといったわりには、事実の提示だけでなく、個人的な意見、感想もたくさん挿入してしまったが、この件についての顛末は大体このようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。
・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。
 
ここは、前の記事に批判を書いたと思います。サイコパス、人格障害、病的ナルシスト、精神病質、それが、楽山とシャローム、ひょっとしたら同一人物か、あるいは親族か、あるいは仲間か、そういう恐ろしい無分別のワルが、ここにいて、減らず口を叩いているのです。
 
・さらについでに、注意事項を一つ。
楽山がshalomさんと話してたら、stさんはshalomと話すならその仲間として批判するというようなことを言ってきた。今はその通り、楽山も批判対象となったらしい。
そんなら、楽山と話すなら楽山の仲間として攻撃するという発想もするんだろう。
この点、ご注意願います。
 
既に、楽山が、批判対象となって、1年半以上たっていると思うので、そういうことを書いても、既に、意味がないわけです。やっぱり、最後は、警察が出てくる事態になるのでしょうか。人間とは思えない、怖い男です。ひと言、ひと言が、悪意であり、腐っています。
 
*心配無用(追記 2019.11.22)
こんな心配をしてたとは思わなかった。本気でこんなことを考えてるなら気の毒だ。
シャロームと楽山のような易坊類は、今後、非合法な手段を考えるかもしれません。そうなると、カルト組織であるなら、私は無力なので、姿を消してしまうのかな・・とか考えています。今回の記事は長かったけど、一応、ここまでとします。
 」(私)
これについては、私はカルト組織など持たないし、誰かを消そうという考えもありませんと明確に否定しておく。stさんが身近にいる全然関係ない人のことを、こいつが楽山に違いないと思い込んで、やられる前にやれとばかりに先制攻撃を仕掛けるようなことがあってはならないと思うので…。
 
こういう弁明が、全く信用されない文脈に、今、既に、楽山はいます。
 
*テーマ(追記 2019.11.22)
これは、shalomさんのコメントだけど、読書感想文を批判するなら、当該書籍を読んでからにすべきだろうというのは正論と思う。
16. st5402さん おはようございます2019年11月18日 11:42
[省略]
あなたは楽山さんが読まれた本の読書感想文なのに、
あなたはその本を読まずに楽山さんの読書感想文の内容について
批判し、人格まで中傷しているのではありませんか。
[省略]
 
読む以前に、楽山の書いていることに理路の破綻と感性のゆがみがあることが明らかなので、読む必要はない、また、読まないで書ける範囲で書いているということです。
 
楽山が、勧める本や好む本など、読む気もしませんし、超常の話か、右翼の話か、キリスト教否定の話が多かったと思います。楽山の、怪しい、そして、胡散臭い趣味です。まともな本を読んでも、そこから、楽山の悪に沿う言葉面を引用して、悪用するのが、楽山の身の程知らずなのです。
 
また、楽山もシャロームも企む詐欺師だから、誘いに乗って、うっかり読んで、話が複雑になって、疲労するような真似はしないと言うことです。つまり、楽山とシャロームに勧められて本を読む気はないのです。
 
あと、楽山日記の主要テーマには、幸福の科学(HS)教義の相対化及び無効化によるマイコン解除もあるので、その手の記事は、HS教義の知識があった方が分かりやすいとは言える。
HSは自分らは自由な団体だと誇るけど、実際にはタブーがすごく多い。あの映画は地獄的だから見たらダメ、あの著者の本は波動が悪いから読んだらダメ、あの思想は間違いだから信じたらダメ…云々。このタブーは、退会と同時にすっぱり忘れられればいいけど、なかなかそうはいかないところがつらいところだ。だから私は、そこのところを狙って書いている。 
 
楽山は、良書をも、地獄の産物に変えると言ってよいでしょう。楽山の体質と今までのことを考えると、読むことで、良きものを与えられることなど、一度もないでしょう。資格のない楽山の書くものは、一見、まともに見えても、結局、楽山の自己正当化~自慢に過ぎないと判断しています。
 
楽山日記は、一見HSとは無関係な映画、小説、ドラマなどを多く取り上げるお気楽ブログに見えることもあるかもしれなけれども、ここで取り上げるエンタメ作品の多くは、自分が見て、味わって、HSのタブーを乗り越えるのに役立ったもの、または役立つと見込まれるものだ。
 
そうして、楽山は、自分だけ大事の、超常と心霊好きの、減らず口を叩くだけの、いい加減で、無反省と無責任の、人間世界に有害なだけの、外道となっています。ここにきて、自慢を言ってくるとは、驚いた。どういう精神と体質を持つと、こうなるのだろう。
 
思想、宗教がらみの話題であれば、その傾向はさらに強まる。だから楽山日記で取り上げた作品をなぞっていけば、自然とHS教義を相対化、無効化して、マイコン解除に至るようになってる。誰もがそうなるかは断言できぬが、少なくとも私はそうだったし、私と似た個性、状況にある人もたぶんそうなるだろう。
 
楽山の言うことは、総て無視してください。百害あって一利なしとはこのことです。楽山は、誰の言うことも無視して、勝手なことばかり書く人だからです。今回、本性全開です。ごまかせなくなっているからでしょう。
 
楽山に従えば、言い知れぬ疲労を与えられ、楽山と同じような鈍麻した人格になり、さらには、楽山のような詐欺師人格に堕ちる可能性が大です。言い知れぬ疲労までは、私が、継続的に、味わっています。
 
次に、もう少し具体的な話をすると、HSの根幹には、大川隆法に対する信仰がある。大川隆法は人にはできないことができるから、人を超えた存在であり、仏陀であり、大救世主である、したがって、一般信者には、人を超えた大川隆法の心を理解できるわけもなく、ただひたすらに信じてついてゆかねばならぬということになっている。ざっくり言えば、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムという信仰スタイルだ。それだから遠藤周作のイエスは無力でみじめな存在だったという考え方は、HSの信仰観とは相容れぬものであり、否定される。
 
HSがどうなのか、私は、情報不十分です。それよりも、楽山が、驚くべき悪質であるため、全精力を費やすことになっています。
 
楽山には、カルト信者のような、だまされやすい素直ささえも持っておらず、持っているのは、あざ笑い怒るだけの感情しか持っていない下種な詐欺師の根性だけなのです。実に、楽山から出てくるのは、悪臭だけです。
 
でも遠藤周作の「イエスの生涯」などを読めば、氏は奇跡を信じない現代人でも、イエスを神と信じることができる道を示しているのが分かる。イエスは奇跡は起こせず、無力だった、病者と交われば病気をうつされ死ぬかもしれなかった、被差別者と交われば自身も差別されるかもしれなかった、しかしそれでも彼らに寄り添わないではいられなかった、そうまでして寄り添った彼らに裏切られても、恨み言一つ言わなかった、これこそが愛ではなかろうか、神は愛であるとすれば、そこに神がおられたということではないかと。
 
真に受けないでください、楽山は、遠藤周作を悪用して、キリストが「奇跡は起こせず、無力」な人に過ぎなかったと、おとしめてるのが目的です。
 
遠藤周作氏については、晩年、教会の信仰に近づいていったという話もあるようです。それに、キリストが人であっても神であっても、ふつうの人では決してできない心の癒しを、見捨てられていたような心貧しい人々に与えました。
 
楽山は、そういうことを全く感じることが出来ないのです。恐らく、聖書など、ろくに読んでいないと思いますし、何度も書いたけど、楽山が読書しても、字面だけ都合の良い文言を漁(あさ)っているだけなのです。だから、楽山が、"読んだ" という言葉を信用しないでください。
 
こんなふうに遠藤周作の考え方は、イエスは奇跡をおこない、権威ある者として説法できたから神だというのでなく、より弱く、みじめで、非力で、無力であればあるほどに、身を捨てて隣人を愛し続けた精神性の尊さは増し、それゆえにイエスは神としか考えられないという信仰になっていて、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどを克服しており、大川隆法崇拝という偶像崇拝から脱却するきっかけになりえる思想になっている。
 
分かるでしょう。キリストを、みじめだと言っています。上のほうで、「イエスを神と信じることができる道を示している」などというのは、全くの嘘で、騙し文句なのです。キリスト者である遠藤周作氏を、反キリストの餌に貶めているのです。ゆるせない、赦せない、許せない、と思います。
 
キリストについて、私の思いは、キリストは人の肉体を持っていたことは確かだが、奇跡を起こしたかどうかの問題は、物や肉体の奇跡については保留してよいと思います。それよりも、心(あるいは魂)の奇跡によって、人々を救っていたことを重視しています。
 
保留する心は、今は分からないと正直に告白する勇気であり、また、解放であります。楽山やシャロームなどが、嘘はついても、決して真実には持ち得ない信仰者の誠実であります。
 
人の悲しみに共感し、自ら悲しみ苦しみながら、十字架についたイエス・キリストを、みじめと言い、無力と決めつける楽山は、紛れもなく、悪意だけの反キリストなのです。相手にすると、人格を破壊され、滅ぼされるでしょう。今回、楽山の嘘と暴言によって、決定的に、その思いを強くしました。
 
楽山、シャロームなど、自己愛性の個人カルトであっても、つかまったら、人生が終わります。今回の記事と批判において、本当に、真面目に、そう周知されるべきだと実感しました。
 
(2の4につづく)
 
 
おとしめ

おとしめ
 
 
(2020年11月30日)
 
 
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  被害的・他罰的2の2
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
(以下、「〇」印が、今回新たに書き加えたか修正したところです。)
 
〇 実際は、 「st、shalom 問題」ではなく、 「st、楽山、shalom 問題」であり、最も大きな問題は、楽山の、無反省・無責任・訂正不能・自己愛性病質であります。
 
・shalomさんが、stさんのことを自他未分化と批判してた。
初めて聞く言葉なので、その意味ははっきりとはわからないものの、字面からゆくと、一理あるかもしれぬとは思う。
 
〇 ここで、はっきり、私が自他未分化、ということに、「一理ある」と賛同しています。おとしめる発言の重大性を考えれば、「かもしれぬ」は、付けても付けなくても一緒です。婉曲表現を重ねながら、だんだん、シャローム寄りに導いてゆこうとする作為です。
 
〇 シャロームこそ、人間としてあるべき分化をしていないと思います。何故なら、神と自分の区別もつけていないからです。いつも神の啓示と聖霊の導きだと訂正不能に確信して、どこにも届かない妄想教を捏造し、教えようとします。これは、常に、徹底的に拒否し、根こそぎ否定しなければいけません。
 
〇 人間としての身の程を弁えないと、シャロームのように、神の立場から人を裁いて、ふんぞり返るようになります。そういう神と人の区別が、信仰も宗教も知らない楽山には分からないのです。
 
stさんは、楽山に対して、shalomさんと口を利くなとか、あれこれ命令してきて、楽山が独立した人格であることに、てんで気づいていないようだったので。
 
〇 そう言ったかどうかは覚えていませんが、少なくとも、今は、口をきくなとは言いません。シャロームも楽山も、独立した人格ではなく、受け入れれば、社会悪につながるような狂った判断を決めつけてくる同じ穴のムジナとして同調していると判断しているからです。
 
・もう一つ、shalomさんがstさんのことを、自戒と他戒の区別がついてないとか批判してたことがあった。
そう言われて見れば、stさんが訂正不能はダメとかいうのは、訂正不能にならないようにしようという自戒というより、shalomは訂正不能だからけしからんと裁くことに使われてた。偽善とか、その他のことについても同様だ。
 
訂正不能を批判するのが、どうして、裁くことになるのでしょう。被害的とは、このこと。
けしからん、などと、感情的な言い方はしていないと思いますが。
 
〇 私は学習を意識し努めています。ゆえに訂正可能です。楽山もシャロームも、訂正するような、よりよい意見を言ったことが、一度もないだけです。このことも、何度か書いてきたのに、受け取っていないようです。
 
誰よりも、自戒が出来ず、他戒にもならない嫌らしい当てつけや、嫌がらせをしてくるのが、楽山とシャロームであります。今回もそうです。不治の病のようです。
 
〇 シャロームは、訂正不能の妄想を豪語し、楽山は訂正不能に理路にならない決めつけを、曖昧ボンヤリ言語で、一方的に言うだけなのです。決して近づかないでください。彼らは、一時的ではなく、常に明らかに病的な異常です。
 
〇 読み返してみると、なおさら、楽山の卑怯さと狡さが、身にしみて感じられます。実に嫌らしい。
 
・shalomさんはお話し好きなようで、他のブログのコメント欄を訪問することがよくあった。でもそうすると、そこにstさんが突撃して、shalom批判を連投していた。
そういう場合、そこのブログ主さんは、shalomさんとは対話しても、stさんはスルーしてるようであった。
 
〇 私は警鐘を鳴らしているだけです。シャロームは、他のブログの言い分を理解していないのに、他者の言葉にシャロームのゴタクを混ぜて、褒めあげるという卑しいやり方をして、悦に入るという常習の性癖があります。だまされないでください。
 
〇 楽山とシャロームは、病的な自己愛からの、だまし好きであって、お話好きではありません。二人は、深い意味では、誰とも話が通じない者たちです。だから口数は多いでしょう。シャロームは、妄想からのベタ褒め讃美、楽山は、曖昧ボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語が特徴です。
 
・易坊さんはいつどや、stさんと楽山はさびしいんだと思うとか、友達を欲しがってるとかそんなふうなことを言ってて、私はいまいちピンとこなかったのであるが、今はstさんはそういうところはあるように思う。
 
実に、余計なお世話であり、同情とは全く別の、楽山の軽蔑のやり方でしょう。シャロームもそのような同情めいたことを言うことがありますが、結局、自分を高みにおいて、相手を哀れで未熟な者として下に見ることが目的です。
 
つまり、さびしいんだ、友達を欲しがっているんだ、という決めつけは、それだけ、相手にされない哀れなやつ、という、おとしめに他なりません。楽山は、今回も、婉曲的に、持ち前の嫌らしさを出してきました。
 
〇 加えて、相手を、低く見なすための、一種の常套手段なのです。同情の言葉など通用しない状況でも言ってくることで、バレる嘘なのです。
 
二人とも、相手を低く見て、シャロームは教師として教えようとし、楽山は注意・忠告のような書き方をしてきますが、そういう上からの話は無礼だから控えるべきなのに、自分を見ることが出来ないために、分からないのです。親切ごかし、そして、偽善です。
 
話し合いをする上で大事なことが何も分からない二人なのです。決して二人と話し合おうなどと思ってはいけません。付き合い続ければ、異常・病気が体質として刷り込まれる可能性が高いです。自分を見ないゆえに反省不能で、ゆえに他者の気持ちが全く分かっていない自己中心なのです。
 
shalomさんと私が話をしてると、強引に割り込んできたし、人は人、自分は自分という風に、他に過干渉することもされることも回避する考え方に、猛烈に反発するのはそのせいかなと。
人恋しい人が、スルー推奨という考え方に賛同するわけもなかろと。
 
コメント欄では、そういうことはあるわけだから、それを異常と思うことが、むしろ異常です。答えられないものだから、今、いちゃもんを付けているだけです。
 
〇 スルーということで言えば、二人は、都合の悪いことを、スルーというやり方で無視します。しかし、自分の都合の良いことだけを発言し、注意してもスルーするなら、交流も議論も成り立ちようがありません。
 
〇 こういうことさえ、理解しないのが、楽山とシャロームなのです。都合の良いことだけ言って、都合の良い世辞しか受け入れないような相手と、いったい誰が交流し議論するというのでしょう。
 
人は人、自分は自分、というのは、独り立ちしていて、それぞれに、するべきことをしている人間同士に成り立ちます。楽山とシャロームは、人の気持ちも、人の迷惑も、何も考えていないと思います。だから、今回も、一方的主張で、私をおとしめています。そうしないと気が済まないのは、それこそ、病気でしょう。
 
・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。
 
〇 楽山の宣伝と詭弁に合うような「そんな」も「こんな」もありません。人それぞれを、自己中正当化に使うのは、シャロームも楽山も、同じのようです。楽山やシャロームなどの易坊類は、一人による成りすましではないかという疑いもあります。
 
自己中心、無反省、訂正不能、罪悪感と羞恥心の欠如、いつも人のせいにする、人の言うことは聞かない、だけど言いたいことは言う、という点において、楽山とシャロームの二人はお仲間であり、体質的にも似ていて、同軸であります。ゆえに、許容してはならず、また、成りすましも疑っています。
 
それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。
 
〇 全否定に相当することをしてきたのは楽山であります。批判に対して、反論も弁明も成り立ったことがありません。まるで根拠がなく反省が見られません。楽山の災いは、ずっと書いてきました。それでも、ここでも、そして今も、記事を書き、正常人のように振る舞う楽山は、腐っています。
 
楽山の記事について、私の批判が曲解・歪曲であるという根拠と例示などを上げての説明を、楽山は、一切していません。何を、勝手にまとめて、根拠もなく、言っているのでしょう。
 
〇 楽山の文章は、ストレートな批判より、はるかに質(たち)の悪い、当てつけと嫌がらせという雑言で出来ています。そこが分からない楽山だから、丁寧に書いておけばよいという気安さで、人を侮辱しているのです。
 
ボロクソ節の豪語は、シャロームの得意技です。私怨ではなく、社会悪につながる危険があるから、批判し、二人のことを広く知らせる必要があるのです。極めて偏った人格の二人です。丁寧語に騙されないでください。
 
stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。
 
〇 酷さを認識できるなら、根拠を説明できるはずですが、楽山は、まともな理路を組み立てることが出来ないので、このように、決めつけて文句を言うだけです。
 
〇 そして、「酷さをはっきり認識できるもののようだ」と書いていることに注目してください。「はっきり」と言いながら、「もののようだ」と、やわらげて、あとで、断定していないから責任問題は発生しない、などと言うのが楽山です。
 
〇 これが、恐らく体質的な人格の異常からの作為と悪意の誘導であり、結論であり、以後訂正不能であり、ときに悪口の機関銃みたいに書いてくる楽山の正体なのです。一切、根拠が示されていません。
 
〇 楽山から見て、酷くない文章というのは、楽山の文章なのでしょう。しかし、私から見れば、楽山の文章は、自らの人格破壊を表し、他者に人格破壊をもたらすだけなのです。そういう文章を書くようにだけはなりたくないのです。
 
批判というものは、自分に向けられたとき、不当に思われ、被害的、他罰的になりやすいものです。そこを自覚し反省し克服できる人が、真実の追求に向いています。楽山の言っていることは、真逆であります。
 
〇 楽山の言っている議論は、まるで、怒りながら、否定しながら、世辞を入れるようなものです。
 
〇 楽山は、自分が批判対象になって、ますます、その反応に理解力のなさが目立ってきています。今回の記事も、最近の記事も、それを表しています。省みる姿勢が何も感じられません。丁寧語によるボロクソ節を言うことに躍起になっている楽山です。
 
・以上、この件についての顛末はこのようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。
 
まるで、正当な顛末になっていません。楽山の理路は、相手のせいにし、相手を責める一方向に固定して、駄々を捏ねているだけの子どもだましです。
 
〇 私は、粘着するような魅力を、楽山には全く感じていません。楽山には、真実追求のテーマを扱うブログの世界から、一日も早く、いなくなってほしいと思っています。
 
〇 楽山という面倒は、全く自覚のない粘着性の訂正不能の自己愛性の病質者ですから、誰も関わらないように、近づかないように、心から願っています。
 
・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。
 
〇 このように、気に入らない相手には、ネットストーカー、攻撃だけする人、サイコパス、人格障害、などと、あっさり決めつけてきます。
 
〇 自分が言われそうなことを、何の根拠も示さないで、相手に当てはめて、まともに返したつもりなのです。思慮がないというか、結論だけというか、話にならない人です。こういうことが、ずっと続いてきたのです。
 
〇 楽山とシャロームに対して、善人芝居と詭弁と嘘という偽善の予備知識は「ほんと、大事」です。しかし、この二人は、慣れているようですから、だまされないためには、相手にせず、関わらず、近づかないのが、いちばんでしょう。
 
〇 楽山は、本当に大事なことを全く知らないと思います。自分の決めつけや思い込みが災いだということを認識できないのです。恐らく情緒面にも欠陥があり、冷静な理路の判断も出来ないのだろうと思います。
 
〇 このことは、哀れではありますが、もともとの体質が、そうなのかもしれませんし、少なくとも、私が関わってから、私がトホホ言語と呼んでいる反省芝居を時にするようになりましたが、一度も、真実味のある内省的なところを見せたことがないのです。
 
〇 やさしげで砕けた言い方に惑わされないでください。楽山は、自分が上の異常に当てはまることを認めたくないから、逆に、そういう丁寧語で書いて、ごまかすしかないのです。
 
〇 よくも知識が必要などと言えたものです。楽山は、子供じみており、一方的で、話の分からない駄々っ子なのです。かといって、やさしく接すれば、それだけ、思い込みを強くするだけでしょう。
 
楽山は、言葉を覚えるだけで、その意味も、使い方も、理路も、感性的理解も、分かっていない人です。本を読むけど、煙に巻くような、ああでもないこうでもないというボンヤリ言語しか表せません。
 
今までは、それで、だまされて受け容れてくれる人が多かったのでしょう。しかし、重大なテーマ、宗教、思想、人生などについて、楽山が語ることは、一切、信頼できるものではないのです。決して、関わってはならないと思います。
 
今回、楽山は、何を、だらだらと書いているのでしょう。あることないこと、ぶちまけて、私のせいにして、何が、よくなると思っているのでしょう。憂さ晴らしと嫌がらせ以外の何ものでもない、いちゃもんと、ひねくれた一人前気取りの独り相撲に過ぎません。
 
〇 私の批判対象として、今は、楽山とシャロームです。易坊はどうしているか知りません。ただ3者の成りすましを疑っています。
 
〇 楽山は、今回、まとめて批判したつもりなのかもしれません。しかし、読んでみると、楽山が、いちゃもん、クレーム、文句、不平不満、という悪口と、正当な批判を、全然、区別できていないことが分かります。理路がなく、決めつけているだけです。
 
シャロームのような楽山のお仲間や、楽山やシャロームと仲良しで、既に、楽山のボンヤリ言語やシャロームの丁寧語に染まって、すっかり、二人を無条件で贔屓しているような人については、何を言っても無駄でしょう。恐らく、似たような、破壊された人間の様相を示すようになるでしょう。
 
しかし、楽山やシャロームとの関係を断つなら早いうちがいいです。致命的な影響を受けないうちに、染まることのないように、冷静に、楽山から、離れてください。そして、二度と関わらないようにしてください。二人は、自分が何者か、まるで分かっていないのです。
 
私は、誰でも批判しているわけではない、という事実が、楽山がだらだら書いた長文を、全部否定しているわけですが、この二人だけは、それが分からないのでしょう。
 
シャロームの丁寧語や楽山のボンヤリ言語を聞くと、吐き気を催すようになっています。もう殆ど、生理的に、感知している臭いなのです。
 
今回の楽山の記事で、楽山は、何か弁明か、批判返しをしたつもりなのでしょうか。全く、理路がなくて、じめじめした、しつこくて陰湿な悪口だけになっています。文章の歯切れが悪く、掘り下げることが出来ず、判断することも出来ず、わざとらしい砕けた言い方で、柔和に見せかけて、ごまかしていますが、受けを狙っているのでしょうか。
 
〇 今回の楽山の文章に賛同する人は、かなり、自我の弱い人で、それこそ、楽山に騙されている御ひいき筋ということになるでしょう。楽山に影響されて、楽山と同じように、言葉の組み立ては出来ないのに執拗にねちねちと文句だけを言うような人にはならないでほしいです。
 
〇 そして、今後は、楽山の文章こそが、ブーメランのように、被害的で他罰的な精神が固定されて訂正不能になっている楽山を否定してゆくのです。そこには、楽山の異常が、前にもまして、積まれてゆくでしょう。自己中心が招く人格破壊は進行性だからです。シャロームにおいては、既に、如実に表れてきました。
 
〇 楽山が、正直であろうとするなら、間違っていたことを認めることから始める以外ないのです。正直とは、そういうことです。いくら、言葉面を、よさそうに、まとめても、無駄なのです。
 
 
 
(※ ここは、新規投稿部分です。)
 
問題は、楽山とシャロームなどの小さい二つの異常な個人カルト思想屋も、ひょっとしたら、大きなカルトと関係があるかもしれないということです。その辺は、なかなかネットでは分からないところです。
 
そして、気味の悪いのは、楽山とシャロームが、示し合わせたかのように、同調していることです。一人による成りすましも疑われますが、今のところ、主張内容の異常さは明らかでも、どういう関係で繋がっているのかまでは分かりません。
 
楽山とシャロームが、個人カルトに留まるのか、ゆくゆく社会問題となるのか、既に大きな組織のメンバーなのか、そういったところも見てゆかねばなりません。この辺が、個人が批判してゆく限界なのかもしれません。
 
 
闇から闇へ

闇から闇へ
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
(2020年11月29日、加筆して再録)
何度でも再録することになるかもしれません。
 
 
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  被害的・他罰的2 その1
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
楽山の詭弁と嘘がどんどん悪質になっているので、今回は、1年前の記事を加筆して再録です。2部構成で載せます。今回は、その1ですが、これも、かなり、ひどいものです。
 
反省を全くしない人というのは、同じ人間なのに、自分を完全に問題の外に置きます。そして、今回のように、当事者であるにもかかわらず、「 st、shalom 問題 」と、平気で書いてしまうのです。
 
実際は、「st、楽山、 shalom 問題 」ということです。シャロームもですが、もちろん、今、いちばん問題なのは、楽山であります。私の問題は、批判を書いても書いても、まだ、足りないという経過が続いていることでしょう。
 
(以下、「〇」印が、今回新たに書き加えたか修正したところです。)
 
*経緯説明
先日、shalomさんからコメントがあったので、何気にその方面について検索してみた。いろいろと見てみたが、どうもこれまでの経緯をまとめておいた方がよさそうに思うので、ざっと書いてみる。
なるだけ時系列に沿って書こうと思うが、はなはだ頼りないことながら、早くも記憶は薄れてきてるので、勘違いがあったり、事柄が前後したりすることもあるかもしれない。ご了承願いたい。
というわけで、まずはこの辺りから書いてみる。
 
頼りないという自覚があるなら、書かないことです。やっていることと、言っていることの、釣り合いが取れていません。そのあとの、前もっての言い訳は、白々しい作為であり、見苦しい限りです。
 
〇 要するに、楽山は、自分の書くことはめちゃくちゃだが、承知で読んで受け容れよ、と書いているようなものです。それは、結局、楽山の謙遜は見苦しい言い訳だと、自分で言っているのです。
 
・楽山ブログにstさんからコメントが入る。
stさんのブログを見ると、訂正不能はダメとか、教条主義でなく情緒が大切とか、共感できる考え方だった。
 
「・・とか」という言い方で、語れるほど、楽山の意識の低さが表れています。楽山から共感を得たということは、無いと思います。楽山は、嘘ばっかり言ってます。
 
〇 楽山は「共感できる」といっていますが、この後も、信仰の心を無視して、奇跡や超常の救いにこだわり、それが無いからと、神を否定しているのです。しかも、それを、繰り返し、書いてきます。ということは、つまり、「共感できる」は、楽山の大嘘だと言うことです。
 
・stさんがすごく落ち込み、傷付いている様子の記事が出る。
気の毒に思って、事情を調べてみると、ヨシュアという人からボロクソ言われたせいらしい。
 
やはり、嘘は全開のようです。ヨシュアは、個人情報をブログから引っ張り出してはダメ人間とか精神病とか言ったり、罵詈雑言ばかりを言いますがから、付き合えない人ですが、楽山と違って、ヨシュアは本性丸出しなので、こちらが傷つくことはないのです。
 
〇 ここは、楽山の、白々しい同情芝居です。こうやって、人に気遣いを見せているようで、実は、自分の謙虚さをアピールしてきたのでしょう。全部、嘘と言うことになります。
 
〇 直接、ボロクソに言うのと、他者の言うことを無視して、ネチネチ、しつこく同じことを書くのと、どちらが、悪性度が高いでしょう。悪口は書いていない、というつもりでいるほうが、善のふりをする偽善であり、より悪性度が高いのです。いつも、楽山は、偽善という最悪なのです。
 
stさん側に同情、擁護。
ヨシュアさんは、st自由同一人物説を主張してきた。
・stブログで、shalomさんを偽善者などと糾弾する記事を出る。
偽善はダメとか、訂正不能はダメとか、それはそうだろうと思う。
 
シャローム批判の「記事を出る」(が出る、を出す)ではなく、シャローム批判なら、楽山と出会うずっと前から約8年間書いています。
 
・stブログで、shalom批判記事がつづく。
shalomブログをちらと確認するも、そこまで強く批判する理由はいまいちわからず。
でも偽善はダメ、訂正不能はダメとかは、それはそうだろうと思う。
 
楽山は、シャロームのお仲間だから、(〇私の批判について)分からないと言うわけです。シャロームの味方ですし、こちらを否定してきたのだから、楽山もシャロームの仲間としてカルト批判の対象になります。
 
「偽善はダメ」「訂正不能はダメ」という言葉に「それはそうだろう」と、実感もなく肯定しています。この軽さは、楽山も、嘘とボンヤリ言語の偽善者だからでしょう。
 
〇 自分は分かっている人アピールです。丁寧語で、中立を装う偽善です。だんだんと本性を表します。この辺の楽山の筆致も、読み返すだけで、うんざりします。
 
・shalomさんが楽山ブログに来る。
stさんの批判記事を見ていたので、悪い人かと思っていたら、話してみると、わりと普通。
ときどき、stさんに向けて皮肉めいたことをチクリというので、これが問題視されているのだろうなあと思い、注意すると素直に応じる。
いつぞやは、皮肉か何かを言ったことで、stさんに謝罪し、そのあと、負けるが勝ちといって舌を出すようなことをした。案の定、stさんは激怒。
言わんこっちゃない。
 
「謝罪」、のち、「負けるが勝ち(笑)」とは、シャロームの白々しい嘘の一例にすぎません。シャロームの恐ろしさは、反省しない、自己中心、訂正不能の神がかり人間離れの妄想信仰などです。だから、これは、付き合い上、無礼だったという話ではなく、シャロームの体質を表している重大なことです。
 
最近、シャロームは、何度か、私のライブドアブログに、説得力のないコメントを書いてきました。私は、(〇 批判を)返しましたが、シャロームは、それを受け取って返すことの出来ない人です。妄想信条に染まったものは、こうなるということです。
 
楽山に、妄想があるかどうかは、まだ、はっきりしませんが、人間的な感情の鈍化と、理路を読み書きの拙劣さが、今まで目立っています。子供の作文のような記事をもって、宗教と信仰と真実を扱うので、いつも、的を外しています。この楽山の記事も、タイトルからして、真面目に話す自覚などないことが表れています。
 
〇 霊が分かるっぽい → 超常も分かる、自分は特別な存在、神に文句をつけて否定することも出来る、これら総て、書くものを読めば、大嘘だとバレています。
 
たしか、この頃、shalomさんは皮肉を言うことについて、あんまり酷い言われようなので、皮肉の一つも言いたくなるというような説明をしていた。
当時はそれでも止めといた方がよかろと思ったけど、今はそりゃそうだろうなと思う。
 
シャロームshalomは、あんまり酷い言いようで、はぐらかし、言い逃れ、言い訳、詭弁と妄想教理、という間違ったことばかり言って、こちらの指摘に全く答えません。8年間、ずっとそうです。
 
>・stさんの執拗なshalom批判はつづく。<
 
8年間、今まで、そして、これからも、シャロームが書いてきたら批判を続けて、広く知らせるほかにないのです。シャロームは、反省も学習もしないからです。
 
批判が「つづく」ことを、いちいち書いているようだが、これは、しつこい、という印象を与える刷り込み、すなわち、印象操作に当たります。
 
はじめのうちは、記事を公開したら、それに批判があったとしても、ある意味当然だろうとか、shalomさんの記事に対して、stさんなりの感想を書いてるんだろうと考えていたものの、shalomさんの発表する全記事に噛みついてるようなのは、ちょっとどうかとも思う。
 
感想ではありません。批判ですから、本人が変わらない場合、読者に警鐘を鳴らすために続くことになります。シャロームは、記事を書くたびに、惜しみなく偽善を表してきました。
 
stさんに対して、批判のやりすぎをそれとなく注意してみたり、北風と太陽の話を振ってみるが、反応はいまいちなので撤退する。
以後、折を見て、批判のやりすぎはよくないという話をするも、効果なし。それどころか逆ギレの気配あり。おそろし。
 
いつのまにか、批判のやり過ぎということになっている。
 
〇 そして、本性を表し、おそろし、という、とても幼稚な、無根拠の決めつけが表れています。
 
子供レベルで、真実追求や批判の話をすると、こうなるという例でしょう。
 
〇 このように、丁寧に、作為的に、話の筋を、変えてゆきます。楽山の、詭弁や、そしてカルト思想の宣伝のやり方なのでしょう。卑怯な裏の細工しかできない者の特徴です。詭弁恐ろし。
 
・易坊さんとstさんの議論のとき、stさんの応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていない、ありえない勘違いというか、そんな感じ。
易坊さんは、ほらこれだという風に示してたので、こういうことは過去にもちょくちょくあったっぽい。
 
いつの話が分からない、遣り取りの例示も出来ないことを上げて、易坊を正当化し、ありえない、ちょくちょくあったっぽい、という刷り込んできます。吐き気のするような誘導です。
 
〇 「応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていない、ありえない勘違いというか、そんな感じ」・・楽山は、根拠を示すことが出来ません。例示すれば私が反論することが分かっているからでしょう。決めつけ、印象操作、刷り込みにあたります。
 
・shalomさんがサイクリングして楽しかったことをコメントしてきたことがあった。これに対して、stさんは、あなたにはそんなお気楽なことを書いてくる資格はないとか激怒してた。
 
文脈から、全く場と文脈にそぐわないことをシャロームが言ったのだろうと思います。
また、シャロームは、確かに、気楽な日常話をする状況ではありません。今も。
 
私が批判していることを承知の上で、楽山は、私が異常だという印象を刷り込んできます。
 
とても気色の悪い筆致と文脈ですが、私を怒らせようとしているのか、それとも、とにかく悪いのだ、という決めつけを貼りつけてきたのか、楽山が理路を追わない人であり、とても議論など出来ないような、当てつけ臭い煽動者であることを自ら表しています。
 
ケチな煽動家は、ふつうに、こういうやり方ですから警戒してください。言い方を選ばないので、近づかないのが一番です。これで、楽山は、恥ずかしくないのです。恥も罪悪感もないからでしょう。おそろし。
 
またshalomさんは、ご親族が骨折した話をコメントしてきたことがあった。これに対するstさんの反応は、shalomは同情を引こうとしているという糾弾だった。
私は、いくら意見対立がある相手だとしても、それとは関係なしに、日常の楽しかったこと、不幸などについては、「楽しそうで何よりだ」「気の毒に、大事にしてください」みたいに普通に応答するもんだと思ってるので、stさんの態度は理解不能ではあった。
 
〇 普通の人は、お互いに意見を受け取って反応している場合は、意見が対立しているときでも、普通にやり取りできるでしょう。
 
〇 楽山の、心にもない世辞の言い方が例示されています。楽山は、恐らく、怒り心頭に発している相手にも、「気の毒に、大事にしてください」ということが、やさしさだと思っているようです。
 
〇 しかし、対立しているときに、議論中断を申し出る以外で、一方が個人的な不幸の話を言い出すのは、同情をひいて、矛先を鈍らせる意図の可能性もあります。
 
〇 楽山は、そういう状況など、まるで考えることの出来ない人で、状況を弁えず、ふつうのいたわりが通用すると思っているのでしょう。こういう白々しい人だから、前に、そのうち、殴られるだろうと書いたことがあります。
 
〇 楽山も、シャロームも、こちらの意見を受け取らずに、自分の言いたいことだけを言います。そういうときに、普通の応答をするのが正常だと思うこと、そして実際にそうすることのほうが異常です。この記事の、楽山の文章がそうです。
 
〇 シャロームは、世辞と、けなしを、同じコメントの中に書いてくることがあります。そこからも、シャロームが、人間感情を、まるで理解していないことが分かります。
 
実際には、しばしば、楽山とシャロームは、全く状況に合わない世辞を入れてきます。これが異常だと理解できない楽山は、まことに異常です。
 
私も、けっこうな批判屋ではあるけど、さすがに議論テーマと関係ないことまで激怒したり、批判する気にはなれないので。
これがいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというものかと思ったりもした。
 
〇 楽山は、批判者ではなく、詭弁屋、そして、煽動者です。今までの文章から、楽山に理路を整えた批判は出来ません。整っているかのように見せかけ、被害者に見せかけることだけですが、それらは、ことごとく失敗しています。
 
〇 つまり、私が、憎しみだけから批判している、という印象操作です。「思ったりもした」・・作為が分かれば、この砕けた婉曲表現は、とても汚い曖昧な筆致です。
 
このように、全くの自己中心の身勝手で、楽山もシャロームも決めつけてきます。だから、直接の遣り取りより、彼らの言い分には、批判記事を当ててゆくことが必要なのです。
 
 
〇 ※ ここからは、新規投稿部分です。
 
総ての言論には、「と思う」がついてきます。人間の主張ですから当たり前です。それを、ちゃんと書くべきだと言って、わざとらしく、語尾を曖昧にしたり、砕けた言い方にしただけで、責任から逃れられると思っている楽山は、とても醜いです。
 
オウム真理教、HS、統一教会、アドラー教などは、既に大きな組織であり、個人が批判しても抗うことは難しいでしょう。さらに、抑制~潰すこととなると、個人による批判では困難でしょう。しかし、これらは、名も知られているし、トラブルも起こっていて、公から目も付けられ警戒されているでしょう。
 
ですから、楽山の自己愛的超常気取りとか、シャロームの妄想的偽キリスト教などのように、個人ブログで、おかしなことを言っているカルト的偏向思想屋は、個人~小集団レベルの間に、変だと思った別の個人が批判することが可能であり、必要であり、批判する意義もあると思っています。
 
(つづく)
 
 
闇の細工

闇の細工
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
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  楽山の怖さ
 
 信仰と固定観念(HS信者を見ていて思うこと)
 2020年11月26日 楽山日記(LD)
 (画像省略)
 
 
楽山のような病質者というのは、罪悪感がないために、弁明しないまま、攻撃的記事を際限なく書いてくるのです。その執拗さと激しい怨念には、火山の火砕流のような勢いがあります。
 
しかも、批判されにくいように文章を画像で示したりもします。しかし、引用されている画像は、大方、HS関連のものなので、楽山批判というテーマにおいては省略してよいと思います。
 
*ノルマ強制?
ツイッター上で、HSにおけるノルマの有無が議論になっている。
その中身については、パスタファリアン氏のまとめによると次のような流れだ(ツイッターの方に行けば、この続きも見ることができる)。
(画像省略)
傍から見ての感想だけども、信者の田中氏は、そのツイートからすると、次のように信じていて、それに反する情報は一切受け入れるつもりはないようだ。
HSにノルマ強制はない
信者は不妄語戒があるから嘘はつかない
アンチはHSを逆恨みして、嘘をついたり、捏造したりする
普通の人であれば、ノルマ強制なんかないと思っていたとしても、これだけ沢山の人たちがノルマ強制と思しき体験談を語るならば、「ノルマ強制は、自分の周囲ではなくとも、他の支部ではあったかもしれない」ということくらいは考えるものだと思うのだが、田中氏は上の信仰があるせいか、そのようなことはなく、HSにノルマ強制はない、アンチは嘘をついていると断言し続けるばかりだ。
どうやら田中氏の信仰の壁は、厚く、高く、堅固であるらしい。
 
楽山は、平気で詭弁を弄したり「嘘をついたり、捏造したり」します。提言者としても批判者としても失格です。この一点において問題外なのに、楽山は、言い続けているのです。
 
しかも、人の言うことに対しては、楽山のほうの「壁は、厚く、高く、堅固であるらしい」ので、これもまた、平気で無視が出来るのです。楽山は、カルトより怖いのかもしれません。
 
*やれやれ
ちなみに上の構造は、LEO氏でも同じだ。エル・カンターレ信仰に基づいて考え、語るばかりで、それに反するものは受け付けない。
もうちょい具体的に書くと、HSで、不信仰者やアンチは、これこれこういう考え方の人たちだ、イエス、トルストイ、ジョン・レノンの関係はこのようなものだ、エル・カンターレ、イエス、HS、キリスト教の関係はこのようなものだという風に説けば、その枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶するということだ。
 
完全な自己中心に凝り固まっている楽山は、自我に固まり、不感不応の壁によって、世辞以外、何も受け付けません。自分に都合の良いこと以外は、拒絶し、なかったかのように、同じことを繰り返し書いてきます。人間には出来ないことのように思われます。
 
「私はアンチですけど、そんな風な考え方はしないよ」「HSとキリスト教の関係はそうじゃないよ」といったところで、「屁理屈だ」「言い訳だ」「自分勝手な解釈だ」と決めつけておしまい。自分の信仰に反する情報は受け付けない。
今日もたくさん記事を書いているようだが、ざっと軽く眺めたところでは、こういう構造には変化なし。やれやれ。
 
楽山は、アンチ?、つまり、批判者ではありません。我執に凝り固まった病質者であり、罪悪感も羞恥心もないサイコパス的人格であり、楽山は、批判しているくせに、自身に向けられた批判に対しては、全く無視して、嫌がらせを書いてはきても、弁明できず反論できないことが証拠です。
 
・神が自由意志を与えられたことが、どんなに深い意味を持つか、はかり知れない気がする
・(どこかちがう!)と思われる人間にならねばならない
・神が「せよ」と命ぜられたことには、わたしたちは、謙虚に従ってみようではないか
・「何を以って愛とするか ―ジョン・レノンの霊言」を読もう
・高級霊の思いと言葉は美しい、地獄霊は屁理屈を言う ~「文豪たちの明暗」~
・大川隆法先生への感謝と、自分の未熟と
 」(リンク省略)
でもいつかこのことが分かる日が来るかもしれないし、このことが分かる現役HS信者がここを見ているかもしれないので、一応書くべきことは書いておくことにする。
 
楽山の、いつか分かる日をイメージできません。また、嘘だと思うでしょう。楽山には、カルト信者のような素直ささえも見られないのです。
 
*信仰と自由意思
HSでは、基本的には、信仰を持つかどうかは、その人の意思次第ということになっていたかと思う。
でも聖書には、こう書いてある。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
(ロマ8.30)
 」
以前、この件について、キリスト教質問箱で問うたことがあったけど、信仰を持てるかどうかは神の召命のあるなしによる、ただし人の側から神を求めることも大切ということだった。
この辺りの考え方について、HSとキリスト教とを両立させるのは難しいと思う。
 
神は、人を召命するのでしょう。しかし、神が、ある特定の人を召命したかどうかは、人間には分かりません。つまり、地上では、人にとっては、あくまで、自由意志で信仰を志してゆくのです。
 
そこが分からない楽山は、実に、悪意によって、キリスト教の神を利用して、神を、人の立場から、扱っている時点でアウトなのです。人には分からない超常を、分かっているふうに、騙(かた)ってゆく楽山の怖さが、ここで、明らかになっています。
 
*従順、服従について
このテーマについて、聖書の考え方を知ろうとするなら、ヨシュア記を読めばいいと思う。そこでは、神から住民皆殺しを命じられ、その通りにする話が繰り返し語られている。また創世記には、アブラハムは、神の命令によって息子をいけにえにささげようとする話もある。
 
楽山の聖書の話は、全く無意味です。相手にしないでください。生贄に捧げるように命じた後で、神は、アブラハムが息子を殺すのを、天使を通して、止めています。何らかの試練を与えた可能性がありますが、はっきりした解釈について、私は保留しています。
 
楽山は、凝り固まっているので、保留と言うことが分かりません。人間には分からないことがあると言うことが分かりません。だから、神の辻褄を空しく追っているのです。まさに、風を追うようなものであります。
 
HSではこういう話をそのまま受け入れることはできず、殺害命令は悪魔の声を、神の声と間違ったのだろうという解釈をすることになるのではあるまいか。
キリスト教系の掲示板で、「神が殺せと命じるとき!?」というようなスレッドを見掛けた記憶があるけど、HSではこういうことを考えることはできなかろうと思う。
 
いちばん凝り固まって、言論が出来ず、何も成り立たないくせに、悪口だけ言ってくるのが、楽山という病質者なのです。
 
*カトリック
孫引きで申し訳ないのだけれども、服従について、カトリックの方ではこんな考え方があるそうだ。
諸君が命令どおりに服従して行った瞬間に、神は諸君の責任を解除して、その責任を修院長に負わせ給うのである。 
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.89)
 」
これは神の代理人とされる修院長に服従している限りは、責任は生じないという理屈らしいが、自己責任を基本とするHSでは、これを受け入れるのは難しいだろう。
 
修道院のことでしょうか、カトリックの教えを引用しているようだが、ちょっと読んだだけで、神髄を知ったかのように、気楽に記事に載せて味方とするような振る舞いが、楽山という病質者には、前から見られます。神聖に対する恐れを知らないことが、もっとも、恐ろしいことです。
 
*夫に仕える
三浦綾子が夫に従順だったという話は、自分が行った講演会でも話されていた。口答えすることなく、なんでもハイと返事をしていたと。
おそらくは、聖書に従っていたのだろう。
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
(エフェソ5.22)
 」
三浦綾子が夫に従順だったというのは、HS的には、謙虚、謙遜、無私などを理由にするかもしれないが、三浦綾子は聖書の言葉は自分勝手に緩く解釈してはならないという考え方の人のようであるし、
 
聖書の教えは、人間関係にも、及ぶことはあるでしょう。完全に守ることは出来ないのが人間です。楽山が、「自分勝手に」小説家のことを「解釈」云々するのは、人間として、傲慢であります。何を知ってるつもりなのでしょう。
 
楽山は、聖書を利用したつもりで、聖書と信仰と信仰者と人間をけがしています。
 
HS的に心の教えを実践していたというよりも、そういう原理主義的な信仰による行動だったのだろう。
 
信仰は、○○主義や、○○イズムには、なりません。三浦綾子氏の信仰生活を、原理主義的な信仰と、婉曲的に揶揄していることを、忘れないでください。これが、楽山です。
 
また噂によると、最近のHSでは、夫より、エル・カンターレを選びなさいと説いているという話があるが、これが本当なら上の聖書の言葉とは大分違うように思う。
 
楽山が、聖書の言葉と違うことをもって、批判していることは、実に滑稽です。聖書に、いちばん、反しているのは、どこから見ても、婉曲的な悪意がバレている楽山であります。
 
*最後に
HSには、生長の家の影響もあってか、万教帰一的な考え方があって、HS、仏教、キリスト教などはその根本を同じくするものだというけれども、実際には上のように、同じ言葉を使っていても、その意味、背景、論理などは異なっており、安易にいっしょくたにしてはいけないものだ。
こういうことは、HS信者にとっては受け入れ難いものだろうけれども、そういう考え方があるということくらいは、頭の隅にでも置いといて欲しいものである。
 
同じ言葉も、違う言葉も、どんな言葉も、誰の言葉も、言えば、悪意が働くのが、楽山だと思っていたほうがよいと思います。
 
私は、ずっと、真実追求のテーマである宗教と信仰と思想について、楽山には何も書く資格がないと書き続けています。
 
◇◆ 追記 2020.11.26 ◆◇
*美しさ
LEO氏の記事タイトルに「高級霊の思いと言葉は美しい」とあるので思い出したが、HSでは「高級霊はみな詩人である」とされていたのだった。
でも、ツイッターで拾ったものだけど、大川隆法はこんな詩を書いているらしい。
デザート1
デザート2
 」(省略)
この詩集には、この他に「神の乳房にむしゃぶりついて…」とか、処女がどうしたこうしたという詩もあって仰天させられるのだが、率直な感想としては、「高級霊はみな詩人である」という教義と、現実の大川隆法の詩とでは隔たりがありすぎて、この二つを矛盾なく結合させるのは大変だろう。
余計なお世話だろうけれど、一退会者として、教義と現実との差異に気づいて悩んでいる信者には、あまり無理しない方がいいよと言ってあげたいと思う。
 
楽山の、美意識のみならず、人格そのものを全く信頼できないので、何か揶揄しているようだが、その揶揄を信頼できません。
 
楽山が、詩の形式で書いていたクリスチャン芝居は、わざとらしくて、白々しくて、とても、読むに耐えるものではありませんでした。
 
 
三文芝居

三文芝居の怖さ
 
 
(2020年11月27日、同日一部修正)
 
 
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  楽山のブーメラン症候群
 
 ひさしぶりに、信者ブログを見てみたのだが…(2)
 2020年11月25日 楽山日記(LD)
 (リンク、画像など、省略)
 
 
楽山は、自らの罪と偽善と思い込みと的外れをキリスト教に向けたことを、何も反省することなく、無責任に、今回も、HS批判を書いてくるのですが、もはや、ヒステリックに転換して、怒りをHSに向けています。ブーメラン症候群は、造語です。失礼。
 
言うまでもなくキリスト教とHSは違いますが、前にも書いたように、私は、信仰の最悪の敵である楽山を批判しています。したがって、この記事では、HSの言い分ではなく、楽山の解釈を批判しています。何故なら、楽山には、他者を批判する資格など、全くない偽善者だからです。
 
*いつも通り
LEO氏は、またもやアテツケ記事みたいのを書いてる。そして今回もブーメランになってる。
・そこにふくまれている宝石のような真理を見つけなければ、意味がない
・わたしたちは 謙遜に、創造者なる神の前に、頭を下げねばならない
・責任を他の誰かのせいにしようとか、神のせいにしようとかいう気持ち
・光を選び取れ(1) 月刊「幸福の科学」より
*ブーメラン
まず、ここは特大ブーメランになってる。
キリスト教系を称する邪教というのは、十中八九、聖書のことばを自分流に勝手に解釈して、本来の教えとはかけはなれた、正反対のことを主張していることが多いのではないか。
 
ブーメランは、楽山が投げ、楽山に返ってゆくことを、前から言っていますが、お構いなしのようです。以下の多くの批判の主張は、楽山に返ってゆくのです。
 
そのキリスト教を、神が存在するなら悲劇は起こらないじゃろと、小学校レベルの幼稚な理屈で決めつけ、文句を言ってきたのは、楽山その人であります。
 
そのことから、楽山には、深い思慮もなく、深い共感性もなく、神を安い机上の屁理屈で、おとぎ話かオモチャのように扱い、不在と決めつけてくる、という、寒気のするような壊れた解釈と、楽山の人格障害が明らかになっています。
 
聖書を勝手解釈しているという点については、HSがまさにそれだろう。たとえばHSの聖書理解はこういうものだったかと。
聖書の神…エロヒムとは大川隆法のことである。大川隆法は天上界から地上のイエスを指導し、イエスからは「我が父」と呼ばれた。
聖書には神以外の言葉も混じっている。預言者は啓示を送ってくる霊存在の正体をはっきりわからなかった。よって地下の者の言葉も一部に混じっている。
聖書の欠点として、霊界の様相や転生輪廻の仕組みについて詳しくないことがある。
 
聖書を勝手に幼稚に、解釈というより、決めつけているのは、楽山です。聖書についても、深いところは何も分かっていません。神を、人か物のように扱う者に、聖書を語る資格はありません。
 
そして、そのような欠陥を持つ楽山には、他者を批判する資格もありません。楽山は、誰の意見も聞かず、今後も続くであろうところの、自己顕示欲と、まとも芝居~妄想によって、宗教と思想を侮辱し、おとしめるだけの、元々破れた安物のホースから辺り構わぬ迷惑を噴射しているに至っているに過ぎません。ヒステリックに書きなぐるパニックのようです。
 
イエスの再臨とは、イエスが大川隆法を通じて霊言をすることだった。大川隆法の霊言によって、イエスは再臨した。
パウロは親鸞として生まれ変わった。十二弟子は浄土宗系の僧侶として多く生まれ変わった。矢内原忠雄は十二弟子の生まれ変わりで、内村鑑三、カントなどは旧約の預言者の生まれ変わりである。
イエスの過去世はアトランティス大陸のアガシャー、エジプトのクラリオなどであり、いずれも悲惨な最期であったが、それはイエス自身がそのようなことにひかれる自虐的精神を持っていたためである。一方、大川隆法の過去世は、仏陀、ヘルメス、リエントアールクラウド、ムーなどであり、いずれも悲劇に見舞われることなく、成功をおさめている。
若干、聖書以外にも話は広がってしまったが、こんなことを主張するHSの信者が、邪教は聖書を勝手解釈する云々といってもブーメランになるだけだ。
 
今回は、HS批判をすることで、楽山自身への批判にブレーキがかかるとでも思っているのでしょうか。実際は、楽山批判を加速しているわけですから、楽山の言が、楽山を責めることになっています。これも、批判の、ブーメランです。
 
楽山に、聖書解釈を語る資格も知性も感性もありません。もっとらしく、批判しているつもりのようだが、決して、受け取らないでください。楽山は、自分を低みに下ろすことのできない人です。今まで隠していた高慢が表れつつあるようです。
 
批判するための節操を、まるで持たない楽山が、唾を飛ばして、「邪教は聖書を勝手解釈する云々といってもブーメランになるだけ」なのだと言っても、ブーメランになって、楽山自身を表すだけなのです。
 
*HS的な解釈
ここは、いかにもHS的な勝手解釈になってる。
幸福の科学では、キリスト教系の作家の霊言というのが、すでに何冊か出ていますが、三浦綾子さんの霊言はまだ出ていません。
なので、いったいどういう立ち位置に立たれている方なのかは、定かではないのですが、
とある作家は、三浦綾子さんと同じようなところにいますか? といった問いに対して、
 … みたいな返事をしていたので、同じくクリスチャン作家といっても、その信仰心の深さと、あの世で住まう境涯はやはり違うんだな、と感じた次第です。
わたしはきっと、光の天使の世界にこの方は帰っていると信じている者ですが、
 」
HS信者が、三浦綾子のことをHSの世界観に当てはめて、七次元以上だとか何とかいうのは、三浦綾子本人やキリスト教からみたら勝手解釈以外のなにものでもないだろう。
ちなみに、ずいぶん前にHS職員が、「三浦綾子氏はいろいろ言っているようだが、きちんと説明すれば分かってもらえるはず…」と言っていたのを聞いた記憶がある。全集か何かで調べようと思いつつも放置したまんまだけど、もしHSに批判的なことを言っていたのだとしたら、光の天使認定には、霊界に還ってから改心したとか理屈が必要かもね。
 
霊が分かるっぽい自覚から、霊言など、超常のことを語り、キリスト教を侮辱して、のちに、クリスチャン芝居をして、それで中和したかのように、責任問題は発生しないと言ったのは、楽山その人であります。
 
そういう、常識的思考から外れて、すっ飛んだ自己愛の屁理屈で、楽山は、書きまくっているのです。楽山が、自分の言うことによって、自分が斬られるのも、当然であります。
 
*読解力
これは誰のことを言ってるのか分からないが、もし楽山のことを言っているのであれば、勝手解釈ということになる。
神とはこれこれ、こういうものではないか。神は何々であるか、どうのこうの、といって、神を理屈でもって論じて、わかった気になって勘違いする人間もあらわれてきかねませんし、現にいるでしょう、そういう人。
これは、認識の対象、あるいは、知識的な、知的なる分析や論理でもって、神を解明し得るという、知に偏った見方ですね。それに陥っていることに、当人がおそらくは気づいていないのでしょう。
知だけでは、神はわかりませんよ。認識の対象としてのみ、理解できると思ったら大間違いだと、わたしは思います。
 」
自分は、基本的には、人には神のことは分からないという不可知論的な立場だ。
 
楽山の大嘘です。今さら、何を言っているのでしょう。明らかに神の存在を否定したくせに、分からない?・・というのとは、全然違うのです。
 
こういう発言は、楽山の詐欺師的な体質が明らかになります。吐き放題の嘘です。だますために、詭弁を企んで言う、困ったら、嘘でごまかす、この楽山においては、発言が、好きなように変わり、好きなように言って、責任を取らないのです。
 
だから、神はこうだとすれば、こういうことになるだろうという仮定の話をしたり、自分の宗教感覚からいえばこう感じるということをいうくらいで、最終的な結論は、やっぱり神のことは分からないということになる。
 
ここにきて、神否定を、仮定の話と言いだしました。神は分からないと言いだしました。嘘吐き楽山です。こうなれば、こうなるだろう、などと言うことが、神について、判断できると思っているのは、理路を学習していない未熟と、思考の、自己愛による破壊であります。
 
楽山は、あらゆる信仰と宗教と思想の敵です。あからさまに嘘を吐いています。
 
だから、ぽん吉氏から「君は理屈をこねるだけで結論はないのか。はっきりしろ」とツッコミを入れられたりする。
もし楽山の文章を読んで、理屈で神が分かると考えてる人だと解釈するなら、その人の読解力は、ぽん吉氏に劣るということだ。
 
理屈で、神が分かっているかのように、神の辻褄をけなして、否定したのは、楽山その人であります。また、今さらのように、白々しい嘘を吐いています。こういうことを何とも思っていない、平気で言ってくる、どうしようもないワルだから、できることです。
 
*すり替え
ここは、すり替えになってる。  
「君よ、涙の河を渡れ」(幸福の科学の会内経典)でも、上にあげたような心のありようの大切さを、項目別に教わることが出来ますが、従順、という気持ちがとても重要なんですよね。
これに反発するようであっては、神仏の教えに素直にしたがう気持ちがあるとは言えないな、とわたしは思うんですけどね。
自分の自我を優先して、反発する心があると、従順にはなれないし、従順かどうか、というチェックポイントで赤点になることでしょう。
だからこの、従順さ、というのは、とても大事なポイントかと思います。
 」
「君よ、涙の河を渡れ」の現物は確認していないので断定はしないが、これは噂に聞くところによれば、何も考えず、判断せず、大川隆法を信じてついて行くべきことを説いているものだという。
「君よ、涙の谷を渡れ」(画像なので省略)
 」
HS的には、「神=大川隆法」だろうから、「大川隆法に従順であれ」といっても、「神に従順であれ」といっても、どちらもさして違わないかもしれない。
でもキリスト教的には、大川隆法は神ではないから、「神に従順であれ」とはいっても、「大川隆法に従順であれ」とは言わないだろう。それどころか、大川隆法は神でも救世主でもなく、従ってはならないと説くだろう。
にもかかわらず、LEO氏の書きぶりだと、HSも、三浦綾子も、キリスト教も同じことを説いているかのような口ぶりだ。
これはすり替え、捏造、誤魔化しであり、よくないことだ。
 
今まで書いてきたように、「すり替え、捏造、誤魔化し」だけでなく、詭弁、刷り込み、印象操作など、邪悪の限りを尽くしてきたのが、無反省無責任の楽山その人であります。
 
もはや、楽山には、肯定してはいけないだけでなく、あわれみも掛けてはいけないと思います。
 
*偽装
ついでに書くと、今度の記事タイトルは上のようなすり替えが酷い。
まずHSの定義は、およそ次のようなものだろう。
真理→仏法真理
神→大川隆法総裁(主エル・カンターレ)
これに基づいてタイトルを決めれば、こうなる。
そこにふくまれている宝石のような「仏法真理」を見つけなければ、意味がない
わたしたちは 謙遜に、創造者なる「主エル・カンターレ」の前に、頭を下げねばならない
責任を他の誰かのせいにしようとか、「主エル・カンターレ」のせいにしようとかいう気持ち
でも実際のタイトルでは、HS用語ではなく、より一般的な言葉にしてある。
そこにふくまれている宝石のような真理を見つけなければ、意味がない
わたしたちは 謙遜に、創造者なる神の前に、頭を下げねばならない
責任を他の誰かのせいにしようとか、神のせいにしようとかいう気持ち
という風に。
ようするに、意図的かどうかは分からないが、タイトルでは、HS色が薄めてあるということ。厳しい言い方をすると、HS用語を使わないことで、一般的な宗教について語っているかのように偽装してあるということ。
対機説法として、そのような言い換えをしていいるのかもしれないが、見方によっては、正体を隠して近付いてくるカルトのやり口と同じであるし、これはよくない。
 
楽山は、詭弁色を薄めて、嘘をまことに見せかけてきました。今もそうです。そんな細工が、言論においては成り立たないことを、楽山には、どこまでも、突きつけなければいけません。まさに、「正体を隠して近付いてくるカルトのやり口と同じ」だった楽山が、ぐちゃぐちゃに、ボロを出しまくっています。
 
*傲慢
これは宗教信者にありがちな傲慢さだ。
悔い改めなくば、許されることはない。神の許しも得られない。
これはあの世における、天国と地獄の世界分けを見ても、確かにそうなっていることですね。
悔い改めがなくとも、どんな人でも神は許してくださる、救ってくださる、というのは間違いですね。霊的世界の実相を知ってみれば――地獄の存在と、地獄で苦しむ不成仏霊たちの姿を見れば――そんな安易な許しと救いの世界になどはなっていないことがわかります。
神さまが人間に与えた自由と責任の法則のもとに、許しの前には、反省と悔い改めが要るのです。 
 」
神は絶対で、超越した存在であるとするならば、ゆるすかどうかは神が決めることであって、その御心は人には分からないことだ。それにもかかわらず、「神はこのような基準によって、このような判断をする」と断言するのは傲慢でしかない。
 
この記事で、楽山は、神のことは何にも分からないという主張のようです。神をおもちゃのように扱い、いじって、否定してきた以前とは、ずいぶん、変わってきています。しかし、楽山ならではのことでもあります。
 
つまり、自他の発言というものを、悪用はしても、無反省・無責任に表れているように、人の意見にも、自分の発言にも、何も重みなど感じていない軽薄者であることが、ここで、楽山によって証明されていることになります。ならば、ブログの言論の場に出てくるな、としか言いようがないのです。
 
こうなると、楽山は、ネットの、ワーム、バグ、ウイルス、修復不能なエラー相当の、根性が悪いというより、人間の根性を持っていない有害物でしかないということです。
 
人にできるのは、「〇〇教の教義では、神はこれこれこのような判断をすることになっている」とか、「誰それがいうには、神はこのような考えを持っているそうだ」とか、「自分にはどうも、この話が本当らしく思われる」という程度のことだ。
 
論理的思考に見せかける楽山の詭弁で、「ことになっている」「考えを持っているそうだ」「らしく思われる」よって、他人事のように、責任を負わないという理屈なのです。
 
実に、楽山自身が、楽山の詭弁の主軸であるボンヤリ言語の曖昧表現によって、いかに、無責任に、放言してきたかを、説明しています。
 
しかし、「という程度のことだ」という認識に、楽山の無責任の本質が表れています。楽山は、元々、言論に、何の重きも置いていないのです。そういう無責任男は、結果として、何もヒントになることすら示せず、他者を疲れさせる "という程度のこと" しか言えませんから、言論をする資格はありません。
 
でも特定の宗教を信じすぎると、「神はこのような基準によって、このような判断をする」という風に、平気で神のことを決めつけがちだ。これは宗教を信じることで、神から遠退くということであり、ここに宗教の弊害がある。
 
これが、楽山の従来の決めつけに近いものです。決めつけがちだと決めつけています。つまり、決めつけるな、さらに、所詮、宗教は、決めつけに過ぎないと言いたいのでしょうが、こういう、軽々しい結論になるのは、楽山には、宗教と信仰がもたらす恩恵が、まるで、理解できないからです。
 
人が信仰から受け取ることさえ分からないなら、黙っておれということです。
 
これは霊界認識についても同様だ。霊界は心の世界のことだとすれば、心というものは「~という傾向がある」「~という場合が多い」とはいえても、「こうすればこうなる」と断言できるものではなかろうし、それなら霊界も「こうすればこうなる」とは言い切れぬものだろう。
にもかかわらず、特定宗教の教義を信じてしまえば、「霊界にはこういう法則がある。だから、こうすればこうなる」と安易な考え方に陥りがちだ。ここは注意すべき。 
 
また、愚にもつかぬボンヤリ言語を、曖昧表現の語尾を、ネチネチ印象を、宣伝をしています。神が全能なら悲劇は起こらないはずだと神を否定したのは、楽山その人であります。
 
信仰は、個人の体験と共感性から生まれてきます。その体験がなく、その共感がない楽山には、もはや、何も言ってほしくないのです。どうか近づかないでください。
 
*無慈悲
月刊誌の記事を読んだが、どうやら神義論に関連した話のようだ。
スケールの大きな視点からの、この世界の現状、日本と世界、それから、この世の不幸、不合理に見える様々なことも、仏教的立場から見たら、よくあること、というお話は、目から鱗です。 
 」
悲しみや、苦しみに意味を見出せば、それを乗り換えやすくなるというのはいえる。「これは~のためだったのだ」みたいな考え方は、心の癒しになりえる。
 
癒されているなら、このような記事は書かないでしょう。「悲しみや、苦しみに意味を見出せば、それを乗り換え(乗り越え?)やすくなる」などと、よく言えたものです。楽山は、悲しみの感情はなく、自分が気持ちよくなることしか考えていないと思います。
 
しかし、楽山は、『「これは~のためだったのだ」みたいな考え方は、心の癒しになりえる』と言っています。自分で、因果を、「だったのだ」で、決めつけることを肯定しています。何を言っているのでしょう。ここにきて、ひどく単純すぎる理路しか組み立てられない楽山であります。
 
歴史は繰り返すというのもその通り。でも一人一人の人間にとっては、自分が体験することはすべて一回きりだし、「よくあること」では済まないものだ。
だから悲劇に見舞われた人に対して、第三者が「それはよくあることです」というのは、無慈悲なことだ。「それには深い意味があるんです」というのも出過ぎたことだ。
 
「それはよくあることです」みたいな、的外れの慰めは、高等感情の鈍麻している楽山が言ってしまいそうだと感じます。「それには深い意味があるんです」と言って、その意味を語れないで、ボンヤリ言語で逃げ出す楽山を、かなり明瞭にイメージできそうです。
 
どうやら大川隆法は、原爆投下は神の計画だったというようなことをいって、田原総一朗からそんなのは被害者一人一人からしたらたまったもんじゃないと呆れられたときから少しも変わっていないらしいし、愛弟子を亡くしたときに、「天は私をほろぼした。天は私をほろぼした」と慟哭した孔子とは全然違うようだ。大川隆法は愛に欠けるという指摘があるけど、どうもこれは必ずしも見当違いというわけではなさそうだ。
 
楽山は、愛に欠けているので、共感性がなく、洞察力がなく、温もりも潤いもなく、悲しむことも思いやることも出来ず、ゆえに、良さそうな言葉だけを、滑らせています。
 
そのように、楽山の書く文章には、乾燥した言葉の、すり切れそうな羅列であり、それゆえに、説明が出来ず、納得させることが出来ず、代わりに、無反省と無責任と無視で、楽を確保しているだけなのです。
 
実際には、楽山の文章は、自己顕示欲と自己中心から出た有害な排出物なのです。どうか、決して、楽山に関わらないでください。
 
 
はいせつ

泥状の排泄
 
 
 
  「もしも天があるなら、」(『黄昏の岸 暁の天』小野不由美著)
  2020年11月25日 楽山日記(LD)
 
 
悪口を惜しまない楽山です。狂ったように書いています。もはや、亡者から鬼になっています。
 
*神の完全性と神義論
「十二国記」を読んでいたら、神義論(弁神論)に関連してる台詞があったので、メモしておきたい。不条理に悩み、天帝を疑う李斎に、慶王が語った言葉。
もしも天があるなら、それは無謬ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」
〈省略〉
「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば、必ず過ちを犯す」
〈省略〉
「人は自らを救うしかない、ということなんだ――李斎」 
(『黄昏の岸 暁の天』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.390)
 」
こうしてみると、神は不完全だとすると、この世の悲惨を理解し、受け入れやすくなるが、神は完全だとすると、途端に、なぜこんなにも悲惨があるのだと疑問を持たざるを得なくなることがよく分かる。
 
楽山の、天狗鼻は、天井知らずのようです。神が不完全なら、受け入れやすいと言っています。神を思いやるような高いところに、彼の自覚がのぼせ上がり、もはや、信仰は、信仰でなく、楽山の友情に支えられるとでも言いたいのでしょうか。楽山の思い上がりの天井?は、地獄のようです。
 
宗教も信仰も知らぬまま天井知らずに思い上がり、自棄(やけ)になり、ついに、狂ったようです。言葉のブレーキをかける節操がないのです。これも、裁きの成り行きかもしれません。楽山が、楽山の正体を現し始めました。
 
神が、不完全なら、人を救うことが出来ないでしょう。楽山のような偽善者を見分けて、裁いて、除くには、人間よりも、はるかに優れた洞察力が必要です。
 
神を知るための情緒も持ち合わせていないのに、神を知ったつもりで思い込み、そして、決めつけ、そして、暴言の数々を放ち、それは、何よりも、人間としての弁えを失ってゆくプロセスなのです。
 
しかも上に提示されている疑問は、既に、こちらが批判して、楽山が返せなかったことです。何度も、何度も、同じことを書いてきます。何も言えなくなるとワーワー大声を繰り返すのと同じです。
 
例えば、疑問がない、全部分かる、思い込む、辻褄が合う、・・こういう基準で、神の合格不合格を決めているような楽山には、神も信仰も、何のかかわりもないのです。宗教とは、はっきり無縁の楽山です。
 
悲劇があるから、めげずに生き続けるために、信仰が必要なのです。キリスト信仰の救いは、そういう救いであり、何もかも楽しいだけの天国ではないのです。楽山のような嘘吐きの気取りだけの半端者が、遊び半分で云々できるような話ではないのです。
 
キリスト教の神学があれほど巨大なのも、こういうことも影響しているのだろうか…。
それにしても、「十二国記」は面白いな。噂には聞いてたけど、今回読んでみて、大人気の理由がよく分かった。慶王は格好良い。
 
神学が巨大だと言っていますが、楽山の嘘と詭弁と暴言は、人の心の隙間に入って、人を腐らせる疫病のようなものです。
 
「十二国記」は、異世界、つまり、おとぎ話、怪奇物語、妖怪物語、ファンタジー小説であり、エンタであり、神について真剣に考える所ではありません。つまり、楽山は、エンタで、趣味で、神と信仰を考えているのです。話が通るわけがありません。
 
「格好良い」「面白いな」に、楽山の幼児性が表れています。前から言ってきたことが、間違いではなかったと思います。楽山は、遊び半分で、まるで真剣味がないことを、今、表しました。楽山に、決して、関わってはいけません。近づいてはいけません。
 
 
(2020年11月26日、同日一部修正、さらに記事追加)
 
 
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