ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年11月

 
  神の国は
 
 2018年11月22日
 私の記事「神の国はいつどこに」に加筆して再録
 
 
信仰者の中には
神は、キリストは、聖霊はと
聖三位のことばかり語ろうとする人がいます。
信仰のことといったら奇跡のことばかり語り
物や肉体に起こる奇跡を信じることが信仰だ
と思っている人もいるようです。
 
神聖の仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。
 
信仰について、大真面目に、現実離れしてはいないでしょうか。
得々と、お伽噺を語ってはいないでしょうか。救いは現実のものなのですが。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
神の国について、キリストは、人々の中にある、と言っています。
 
神聖の救いの仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。
 
神が人を救うということを知らせることは福音ですが、
人間が信仰者になることは、どうして起こるのでしょうか。
神が人を救うと言うだけで救いを信じるでしょうか。
 
そうではなく
キリストと人の交わりを知るからこそ
人は救いを求めるのだと思います。
 
なぜなら、そこに人は
心が、いろいろな執着から解放され
人間に救いが与えられることに実感が持てるからです。
さらに、救われたとさえ感じられるからです。
 
そのとき
神の国は、いつどこに?という問いは
救われたと感じる人にとって無意味になります。
既に垣間見ているからです。
 
救いの仕組みのような
あるいは記録映画のような視聴覚ではなく
知識や理屈としてでもなく
 
人間として既に体験しているからです。
 
神の側の話をいくら聞かされても
それは人の側とは、かけ離れた神の業の話です。
 
それが人を救うと言われて奇跡を信じる人、
つまり、救われるという話だけで夢中になる人は、
救われるにふさわしい成長をする気になりません。
 
そういう人は、
総て、奇跡だから救われるのだと、
自動的に救われることを信じてしまいます。
 
 最悪の場合、救われる立場から
 神の恵みなのだと言うだけで、
 自分を例にして自慢して讃美するだけになり
 救いを求める心に答える話が出来なくなるかもしれません。
 そこには愛という言葉はあっても
 愛そのものは、ないからです。
 
なぜ、キリストと人が関わった話に、
人は胸を打たれるのでしょう。
 
それは、キリストが、
救いのために犠牲になったという役割でなく
その言行において、教えだけでなく、
キリストと
低さを知るしかない人間たちとの交わりが
溢れるばかりの共感を与えてくれるからです。
 
キリストと本当に交わったら
人間の心には忘れられないものが残るのです。
 
それは
聖書を読むことからも生まれ得るほどの
人生において大きな体験なので
物や肉体の魔法のような奇跡ではなく
人間の心に響く "魂の奇跡"
あるいは "心の奇跡" と呼んでもいいでしょう。
 
その大切なものが弟子たちを使徒に変えてゆきました。
 
 
恵みだけを語る者を、
つまり、恵みなのです、恵みなのです、
ということばかりを繰り返す者を警戒してください。
 
そういう者には、
信仰の芯について、
まだ知らない者と、
知ろうとしない者がいます。
 
後者は、キリスト信仰者ではありません。
憐れみも愛も知らないのです。
だから神もキリストも
救いの仕組みの皮だけの知識だけしか知らない者です。
そこには血も涙もありません。
すなわち人間らしい温もりも潤いもありません。
 
キリスト信仰者ではない偽者は
神の仲間になったかのように思い上がっており
全て知っているという慢心から
学ぼうとしないために成長がなく
やがて自他ともに破壊してゆくのです。
 
そういう者は
世辞の丁寧さによって
見かけの憐れみと敬虔を装っています。
傲慢が
言葉や振る舞いに直ぐには見えないことがあります。
しかし
突っ込んで質問すれば答えられず
しかも分からないとは言わず、
それが一回ではなく重なると
最後には質問者を無視し拒否してくることで分かります。
それが偽善者なのです。
 
キリストを殺した者たちと同じ体質を持っています。
しかもその不感不応で悔いることのない体質を
不動の信仰だと思い込んでいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:12-13、新約聖書)
 
キリストが引用した言葉は旧約聖書ホセア書のようです。
 
 (ホセア書、口語訳)6:6
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
 (ホセア6:6、旧約聖書)
 
したがって、神を知るというのは、神の憐れみを知るということなのでしょう。
決して、神の辻褄を知ることではありません。
 
神の憐れみを知るために必要なのは、
奇跡を信じることでもなく、教理を鵜呑みにすることでもなく、
人間に分かる愛に共感できることです。
 
聖書ではそれがキリストを動かし
私たちは、
キリストが施す愛に共感するゆえに
キリストを信じるに至ります。
 
上の例外的な偽善者を除いて
殆どの人は共感できる心を持っています。
 
儀式的信仰の習慣や言葉中心の教条や
たとえ奇跡体験があったとしても
解釈に詳しくなったとしても
 
人間の潤いに満ちた温かい共感を捨てて
損なうことだけはしないでください。
それが
人間の中にある信仰であり
人間が知りうる神の国に他ならないからです。
 
 
キリスト信仰は
良いことをしたから救われるという行為義認ではありません。
信仰によって救われる信仰義認ですが、
信仰、つまり、神を信じることは、いったい何を意味しているのでしょう。
神を造り主、キリストを救い主と信じる者の信仰とは何でしょう。
救われる唯一の条件とは何でしょう。
 
それは、
自分の罪を認めるがゆえに祈り
神の前に罪深い自分を正直に差し出すことです。
 
聖書の罪人たちは、それが出来たから救われました。
それが救われる唯一の条件ですし、
信仰そのものであると言ってもよいのです。
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
神の憐れみと共感を示す聖句です。
 
 
共感

共感
 
 
(2018年11月22日アップ)
(2020年11月25日、加筆して再録)
 
神の業(かみのわざ)
溢れる(あふれる)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  楽山の不細工
 
 ひさしぶりに、信者ブログを見てみたのだが…
 2020年11月23日 楽山日記(LD)
 一部引用省略。
 
 
楽山の連投です。野球と違って、楽しみにならず、何かのためにもならず、常識というルール違反のボークばかり投げてきます。とても醜い悪あがきです。
 
この性懲りの無さは、楽山の目的が、正気を失って、自尊過大にのぼせて、常識的判断力を失う段階にあるからです。
 
飢えた動物の貪欲だけがあり、恥を感じず、失敗を認めず、物事の薄皮だけを投げてくるのも、自分を見ておらず、自分の醜さを、まともだと思い込んでいるからなのです。
 
ふつう良い意味で使われる言葉を、向けられた批判をかわすための芝居に使い、その結果、良い意味を台無しにして悪用する楽山の狡猾さが表れています。
 
それは、"反省" など、今までもありましたが、恐らく体質的なもので、深みがないから、そのたびに、見抜かれて、的外れの文脈となり、その都度、前後関係から否定されてゆく楽山の悪趣味です。
 
良い言葉を、けなし言葉、および、自己正当化の手段として悪用して、けがしてゆく楽山の底意地の悪さが表れています。言葉を選んで細工しては失敗し、不細工の度合いが増してゆきます。
 
*アテツケ
 LEO氏は、相変わらず、アテツケ記事を連発してるようだ。
・自分を変えること 人間関係力の重要性
・洞察力を身に着けるには
・ジョン・レノンの霊言、文学者たちの霊言、を読む
・屁理屈を言う人間について
 」
 
キリスト教など宗教に、有名人の名をあげて、その発言の都合の良いところだけを引用して、いちばん、タチの悪い当てつけをずっとしてきたのは、楽山その人です。
 
*ブーメラン
記事をざっと眺めたところでは、自爆、ブーメランになっているところも相変わらずだ。
 
今まで、楽山が言ってきた、おとしめ言葉が、楽山その人に当てはまって、ブーメランとなってきて、楽山が書くことで、楽山の欠陥を証明してきた、という自爆が起こってきました。
 
まだ、楽山を相手にしている人がいるのでしょうか。詐欺師から、早く離れたほうがいいです。
 
たとえば、ずいぶん前からよくあるHS批判として、「大川隆法は霊とはたくさん話しているが、現実の他者との交わりは、ほぼゼロだ。教団外の他者とは全然交流できていない。教団も他の団体との交流はできてない。世界宗教者会議のようなものに参加したという話も聞かない」というものがある。
信者についても、信者同士でかたまってばかりだというのも、よく言われている。先日のHSUにおける島田裕巳氏の講演の前には、教団側の人物が、HSUの学生には教団の外のことを知る機会が乏しいことを心配する話をしていたともいう。
またHSでは、総裁は神であり、霊言は本物であるとするために、たくさんの言い訳、屁理屈を積み重ねているし、それをそのまま真に受けている人物が、洞察力について云々するというのもおかしなことだ。
 
楽山は、悪口をいっぱい書いています。楽山は、まともな自分の言葉を持っていないので、誰かが言ってたことを引用することになります。また、洞察力が皆無なのをごまかすために、言い訳と屁理屈は、楽山の生業です。そういうことしか書けないのです。
 
これだけ崩れて、これだけ言われても、また書いてくる楽山の精神には、人を寄せ付けない固陋(ころう)の時空があって、訂正不能になったまま、人との関わりなど何も考えず、そこで、偏屈に独り言をして、人をけなし、笑っている楽山の、暗くて陰気な顔があるのでしょう。
 
楽山は、誰からも本気で褒められることはないので、自分で自分を褒める以外なくなり、自分で自分の立ち位置を決めて、立派に見せかけているのです。褒めてくれる人は、皆、楽山に、だまされた人で、そういう人も、実際は、殆どいないのではないだろうか。
 
*自由
あとは…記事の更新日時から行けば、こういう流れはありそうだ。
2020年11月20日
・「HSの自由論」と「一般的な自由論」|楽山日記(LD)
 
既に批判しています。
 
私の批判記事「楽山の傲慢」の後半のほうです。
 
もう一度、私の発言だけ載せておきます。
 
 「
 
自由には、必ず、公共の福祉に反しない、ということが条件となります。
 
ゆえに、楽山の暴走に対して、批判をする事由があります。
 
楽山は「納得できる」と書いていますが、そのための公共に対する責任をいっさい負わないのですから、言論をする資格はないのです。
 
明確に言えることとして、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由はありません。
 
自由を、いちばん履き違えているのは、楽山その人であります。
 
  」
 
2020年11月21日
・ジョン・レノンの霊言、文学者たちの霊言、を読む|LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 」
これはタイトルからすると、霊言の感想記事で、楽山とは関係ないかと思ったが、記事本文は自由をテーマとしてるようだし、たぶん上の流れなんだろう。
でもそれはそれとして、世間的にはカルト呼ばわりされているHSの信者が、天国的な生き方と、地獄的な生き方を見極めて、「本当の意味での自由をつかむことが、大切」というのは、壮大なブーメラン、自虐になってるといえそうだ。
 
自身に返ってくるブーメランにだけは気づかない楽山です。楽山の書いてくる悪口は、大方、楽山に当てはまるという皮肉が成り立ってくるのです。
 
楽山は「本当の意味での自由をつかむ」どころか、我執の自己顕示欲だけで、人をあざけることしか出来ません。楽山は、詭弁と誘導によって、「自由」を、むしろ、人々から奪って逝く体質の持ち主です。相手にしないでください。
 
ここでの、「自虐」は、意味不明です。ブーメランだから自分に返ってきて自分が苦しむ、ということでしょうか。自虐というのは、自分で自分をいじめる意味で使います。
 
自虐の根拠が、ブーメランなら、ブーメランの根拠を示しておらず、根拠を根拠としている不成立の矛盾であります。ブーメランの物理的?論理?だけで、物を言ったつもりの楽山です。
 
こういう、嫌らしいだけの、いい加減な、文章が、楽山ブログなのです。真実の追求からは、ほど遠いところで、独り芝居をしている楽山です。
 
*HSにおける自由
ついでに書くと、記事で紹介されている霊言本は、ツイッター上で笑いの種にされていたので、書店に行ってチラ見したことがあるけれど、太宰治霊はある女優について、脱ぎっぷりがよい、おっぱい揉み揉み、やらせてくれそうと言ってたし、オノ・ヨーコ守護霊はHSの世界観に基づく話は雄弁に語っても、自身の作品、パフォーマンスなどについては語れていないようだった。
 
私は、HSが正しいとも間違っているとも書いたことはないと思いますが、それは、HSについては、私が、よく知らないからです。
 
私の批判の対象の楽山については、約1年半の批判の経過で、だいたい、その悪行と偽善の文章での表れを知っているので、楽山に誰かを批判する資格などない、ということを書いています。
 
HSの霊言は、概して、HSの世界観による話はたくさんしても、霊人本人の専門についてはあまり語れないものだけど、オノ・ヨーコ守護霊も例外ではなかった。
こういう霊言を本物だと信じることが、HSでいう信教の自由であり、「本当の意味での自由」であるというならば、それに同意することができるのは熱心な信者以外にはいないだろうと思う。
 
楽山の言に従って「本当の意味での」奴隷的な心になっている人たちが、一日も早く解放されることを願ってやみません。人生を破壊されたくないのなら、罪悪感も羞恥心も感じることのできない楽山という病質者に近づいてはいけません。楽山というHNを覚えてください。
 
*ズレ
さらについでに、よくあるズレについても書いておこう。信者とアンチの間では、こういう認識のズレがよくある。
アンチ「このHS批判は正当な批判であり、正当な批判は言論の自由である」
信者「それは正当な批判ではなく、誹謗中傷である。アンチは誹謗中傷を言論の自由としている。それは自由のはき違えだ」
アンチ「大川隆法のここはおかしい。大川隆法は神ではない。こんな神がいるわけない」
信者「大川隆法総裁は地球神エル・カンターレである。これを信じないアンチは神を冒涜し、信仰を否定している」
アンチ「霊言のここはおかしい。この霊言は本物ではないだろう」
信者「霊言は宗教的な秘儀である。アンチは宗教を冒涜している。霊を信じない唯物論者だ」
アンチ「大川隆法の話は、ここもあそこも辻褄があわない。論理的におかしい」
信者「些末なことをあげつらって屁理屈をいうものではない」
アンチ「ORは神ではないし、間違ってると納得したので退会した」
信者「ORのせいにしてるが、ようは神を信じ、正しい道を歩むことができず、自己変革を放棄して、退転したということだろう」
アンチ「マインド・コントロールから抜け出し、自分を取り戻し、自由に生きたい」
信者「正しい真理に従わず、エゴのままに、わがまま勝手に生きようとするのか」
アンチ「HSはカルトだ。カルト被害者を少しでも減らしたいので、HSの危険性について警鐘を鳴らしたい」
信者「確信犯的に、地球神エル・カンターレとその団体を攻撃し、救世活動を邪魔するのは悪魔の所業だ」
 」
 
水掛け論のようですね。これをあげて、楽山は、何を言いたいのでしょう。それとも、楽山が、また恣意的に、けなしやすいものを選んで、引用しているのでしょうか。ひょっとして、楽山が、改めて、編集しているのではないかとさえ思えるほど、噛み合っていません。
 
こんな風に、信者とアンチには認識のズレがたくさんあるが、それにも関わらず一部の信者は、アンチの意見を省略して、自分の意見だけを書き連ねることがある。たとえばこんな風に。
「アンチは自由の何たるかを知らず、誹謗中傷を言論の自由だと言い張り、神、宗教、信仰を冒涜し、屁理屈屋で、エゴイストで、わがまま勝手で、真理を解せず、それに従うことを放棄した退転者で、確信犯的に悪を為す邪悪な存在だ」うんぬん。
信者とアンチの議論を知らない一般人が、これを読んだらアンチに対してどういう印象を持つかは容易に想像がつくし、そのことからいえばこれは悪質な印象操作といえるだろう。
 
こういうところです。楽山は、印象操作と思われることを指摘しているつもりでしょうが、もっと、さらに、無反省に、無責任に、印象操作を刷り込んできたのは、楽山その人です。盗人猛々しい。自らを省みない楽山の厚顔無恥が、また、楽山自身によって加速されて明らかになっています。
 
そして自分の見るところでは、LEO氏の他者批判は、こういうやり方になっていることが多いし、どうやらこれを改めるつもりはないらしい。
 
盗人猛々しい厚顔無恥は、楽山の、いつもの、印象操作、詭弁、事実の選択、刷り込み、そして、無反省と無責任、という、体質からは、手が込んできたようでも、言葉の皮相だけを集めて、並べるだけというやり方は、いつも単調で、「本当」と「自由」を書かない、書けない、という、致命的な欠陥については、改まったことがないのです。
 
善意の第三者が騙されることのないように、この点、注意喚起しておきたいと思う。
 
楽山は、"注意喚起" という言葉さえ、だますために使うのですね。今まで、どれだけの人が、だまされてきたかについて、私は知りませんが、すべての善意の言葉を、偽善への誘導の、だまし言葉に変えて準備しているのだろうか。荒みきった人格・・恐ろしい気がします。
 
◇◆ 追記 2020.11.23 ◆◇
*参考
丁度、今ツイッター上にて、上で示したパターンの議論があるので、参考として貼っておきたい。
信者(KENTO氏)はアンチは悪口をいったとし、アンチ(月影氏)は私は悪口はいっていない、あなたは私のどの言葉を悪口と判断したのかと問いかけるも、信者はそれには答えず、悪口をいった、悪口をいったと繰り返し、すべてアンチが悪いと言わんばかり…という流れ。
 
楽山は、いかなる批判も、聞く耳を持たないように、読む目と心を持たず、悪口や、荒らしと見なして、当てつけてきます。いったい、どの口で悪口のことを言っているのでしょう。
 
批判も支援もする資格のない者が、記事の量で勝負するかのように、減らず口の記事を書き続けています。こういうどうしようもない男は、いかなる真実にも、かかわる資格はないと思います。
 
私見ながら、この陥穽に落ち込む信者は、物事を客観的、多角的に考察することが不得手で、自分の主観を即、真実だと思い込みがちな人が多いように思う。
 
楽山こそ、「この陥穽に落ち込む」自己愛自己中なのです。まさに、楽山こそ、「物事を客観的、多角的に考察することが不得手で、自分の主観を即、真実だと思い込みがちな人」なのです。
 
だから、弁明も反論も、全く成り立たず、にもかかわらず、同じ悪口を書き続けています。特に、最近は、人のことを言うと、必ずといっていいくらい、楽山が、自身の崩れ方を書く始末になっています。自分を見ることのできない人格が辿る宿命なのでしょう。
 
だから、反論されればされるほど、「私が悪口と判断したらそれは悪口だ、私が屁理屈と判断したら屁理屈だ、あなたがそうでないとするのは言い訳だ、ごまかしだ、自己正当化だ」と意固地になってゆく。恐らくは、大川隆法は神だとか、霊言は真実だとか信じ込み、どんな批判、忠告も受け付けないのも、こういう性質が影響しているのだろう。気の毒なことである。
 
楽山の場合は、批判されればされるほど、当てつけ、悪口、読者への印象操作、詭弁、そして嘘を吐くことで、反論したかのような体裁を捏造しています。何も成り立たなくなると、虚偽に走るしかなくなる、恐らく、人生そのものも、同様になる、という見本でしょう。
 
まさに、楽山は、言われたことを理解できないので、無視して、こうして、他者に言っているように見せかけて、間接的に「言い訳だ、ごまかしだ、自己正当化だ」と言われていることを、むしろ、楽山が、愚にもつかぬ言い訳、言い逃れにして、虚しい保身をしてくるのです。
 
つまり、性懲りもなく言い張っているだけなのは、楽山であります。これだけ、他者の意見に不感不応の無視で、嘘ツッパリしていると、高等感情の鈍麻のために、顔貌も、それに合わせて、表情の乏しい、うっすら冷たいボンヤリ顔になってゆくでしょう。
 
楽山は、気の毒以上に、邪悪です。さらに、荒(すさ)んでゆくでしょう。
 
"楽山" というHNをメモして、覚えて、近づかないように、注意・警戒してください。
 
 
すさむ

すさむ
 
 
(2020年11月24日)
 
固陋(ころう)=古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  楽山の悪意
 
 最近、よく見ているブログ
 2020年11月22日 楽山日記(LD)
 (一部省略)
 
 
殺伐とした記事が続いて申し訳ないです。
 
我執だけが持ち味の楽山です。今回は、キリスト教を、新しい批判ではなく、またしても、同じ勘違いで書いてくるのです。人の言うことを、まるで受け取っていないことを、楽山自ら表しています。
 
ずっと前に楽山が書いて、そういう言い分はキリスト教批判にはならないと言ったのに、また同じことを、昔の、針のとんだレコードプレーヤーみたいに、繰り返しています。
 
こういうことをやって満悦する楽山は、病質者だから、誰も相手にしてはいけないと思います。
 
この記事に潜ませた悪意が、楽山の本性です。そして、またしても、他者のブログを悪用して、反キリストを表し、神否定を表しているつもりです。既に読んで、問題外だったのに、まともなことを言えない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
だまされて数か月、そのあと、批判を始めて約一年半、何も良きものの欠片さえ返すことのない、そこだけ、徹底している、いちゃもん屋の、議論不能の、自己愛性パーソナリティ障害で、無反省無責任の楽山です。
 
今回も、ずっと前に書いてきて、批判したことを蒸し返すというより、前のまま、何の進歩もなく同じことを、キリスト教批判の他者の言い分に、迎合する形で書いているだけなのです。
 
*神義論(弁神論)
 最近、よく見ているブログで、神義論に関連した記事が公開されていた。。
・神と災害 - キリスト教の問題点について考える
 」
自分がこの矛盾に気がついたのは、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』を読んだことが切っ掛けだった。この物語の主人公は、友達が交通事故に遭い、意識不明の重体になったことから、神は友達を守ることができたのに、そうしなかった、神は友達が事故に遭うことをゆるした、なぜ?と悩んでいたのだった。
 
楽山は、神が、人の都合に合わせず、人を守らないことをもって、キリスト教を否定していますが、神は、神秘であり、いつも、人が神の行為に納得できるわけではない、ということが、楽山には、理解できない、というより、理解など、する気がないのだと思います。
 
楽山が、神を否定するのは、楽山が、神をも、上から辻褄を追うように眺めているからであり、その楽山の辻褄は、ずっと、楽山の恣意に表れてきたところの、自己中による学習不能を経て、楽山の合理性?という小学校レベルの低次元で、神も、超常も、霊も、宗教も眺める、という、身勝手で幼稚な話なのです。
 
神の合理が、人の合理によって、説明されることはありません。ゆえに、人は、この地上に不可避的に起こる不運と悲劇に耐え忍ばねばなりません。信仰は、むしろ、そのためにあります。
 
神の合理を、物知り顔に讃美して満悦する信仰は偽物です。
 
神の非合理が、人の合理または非合理によって成り立つことはありません。ゆえに、人は、神を恐れるしかありません。
 
神の非合理を豪語して、神を否定したつもりの思想は、稚児の譫言であります。
 
楽山は、稚児の譫言をもって、しかも、他者の勢いを借りる卑怯さで、実際には、実に、惨めったらしく、神を否定して、楽なお山の大将を気取っている知ったかぶりの偽善者であります。
 
キリスト教の総ての救いは、人が、神の前に跪き、キリストの同伴を得て、耐え忍んで生きて、それゆえに、神の前に正直な祈りを捧げることによって、人ではなく、人の合理でもなく、神の御心の成就によってもたらされます。信仰は理屈ではなく、現実を生きるための希望であります。
 
神は善であるが、全能ではないとすると、悲劇があったとしても、神はそれを止めたくても止められなかったのだろうということで神の善性を疑うことにはならないが、神は善であり、かつ全能であるとすると、悲劇が起きたときには、「神は全能で悲劇を止めることができなのに止めなかった。なぜ? どうして?」という疑問を持たないではいられなくなる。
これは本当にやっかいな問題だと思う。
 
厄介なのは、楽山のような、いちゃもん宣伝者であります。楽山の言は、神の意志と行為を、人が説明を受けて納得いかないと信じないということですが、そのような説明好きな?神のあり方など、屁のようなもので、そういう神ならば、私は、信じることはなかったでしょう。
 
安っぽい楽山は、宗教を考えても、安っぽく、幼稚で、なんでもかんでも、うまくいかないと、信じないぞ、という、駄々っ子の言い分に過ぎないのです。呆れたへっぴりの卑しさです。「やっかいな問題」と思うなら、書かなければいいのに、自己顕示だけのために書いてくるのです。
 
まさに、楽山のような反キリストが、いかなる愛にも、いかなる救いにも、感じるところがなく、逆に、自身の堕落を、神のせいに、宗教のせいにして、悦に入るような、この世の真善美にも、神の義にも、永久に恵まれないであろうルサンチマン、不細工な負け犬であります。
 
ここまで行ったら、もはや、救いようがなく、この地上にさえ、良きものを何一つ見いだせずに、世の中を、人を、神を、キリストを、恨み続けているのでしょう。楽山は、書くたびに、潤いも温もりもない、雑味だけの、殺伐とした景色だけを見せてきます。
 
そして、その実質のない、みすぼらしい知性と感性を、反省することもなく、学ぶこともなく、自慢げに、丁寧芝居で、人をだます行為を、もはや、やめることが出来ないでいるのです。こちらの言ったことを、何一つ受け取らないで、自分の言い分だけを繰り返しています。
 
しかも、ずっと、自分の言葉を持たず、まとまらず、他者の言葉を悪用することしか出来ません。何かを追求する意志もなく、楽山は、最初考えたときから何も進んでいないのではないかと思います。
 
楽山の言は、例外なく、下劣です。正直言って、何というクズだろうと思います。やっていることは、小蝿の所業です。真面目そうに書いても、本気、真剣、真摯、誠意、という言葉から、最も遠い人です。自分を見ないで思い上がる者は、こうなるという見本です。
 
楽山が満足するような、宗教も、思想も、この地上にはありません。楽山は、現実を認識しないために、現実の地上に、現実離れした空想だけを当てているのです。だから、最初のQ&Aから、いつまでも卒業できないのでしょう。
 
楽山には、人間的な潤いと温もりがありません。それを自覚も出来ません。それに類する言葉を使ったとしても、前後関係と文脈から否定されています。だまされないでください。
 
楽山にあるのは、悲しみでもなく思いやりでもなく、冷笑と憎悪だけです。楽山が何か言ってきたときには、私のように批判する人以外は、返さないでください。決して楽山に近づかないでください。
 
 
殺伐

さつばつ
 
 
(2020年11月23日、同日一部修正)
 
稚児(ちご)
譫言(うわごと)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  楽山の剥き出し
 
 
楽山は、また、3つの記事を書いてきました。むき出しの悪意を、もはや、隠せなくなったようです。つまり、楽山は、評論しているのでもなく、議論しているのでもなく、意見を発表しているのでもなく、ただ、保身の欲望に、けしかけられて持ち前の詭弁で暴れているだけなのです。
 
今回は、小野不由美、という"悪霊シリーズ"などの怪奇小説の作家の言を悪用して自己正当化をしたいようです。他者を平気で悪用して、何も罪悪感を感じないのも、楽山の一貫した特徴です。
 
 
 祈りについて(『図南の翼』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 
 
とても、短い記事です。丁寧語にだまされないように。
楽山の書いた記事が、楽山を斬るのです。
 
*真実な祈り
 最近は、「十二国記」にハマっていて、そればかり読んでいるのだが、祈りについて、いいことが書いてあったのでメモしておきたい。
祈りというものは、真実の声でなければ届かない
(『図南の翼』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.383)
 」
この後は、祈りは「本音でなければならない」という言葉が続いているのだが、これは自分にもよく分かる。以前、あることを本気で祈ったときに、即、かなえられて、なるほど本心から祈ればこうなるのかと実感したことがあったので。
 
楽山は、本音を言ったことなどありません。本音ならば、責任を負うはずです。楽山の言行が、全くの不一致です。無反省無責任の楽山は、狂気の欺瞞を剥き出しにしてきました。
 
祈りについては、宗教によって、または人によって、さまざまな教義、経験があるのだろうけれども、祈るときは正直であれというのはどの宗教でも、個人の経験でも共通しているのではないかと思う。
 
その神を欺いて、嘘の祈り芝居をしたのは、楽山その人であります。それは、また、クリスチャン芝居でもありました。つまり、楽山は、読者を芝居で欺き、宗教を侮辱したのです。
 
 
 責難は成事にあらず(『華胥の幽夢』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 
 
冷静に書いて俎上に載せるということが出来ず、議論できない楽山が、責めるのはいけない、などと書いています。根拠を示す批判と、楽山の嘘で固めた悪口の区別が、まるで、つかないようです。
 
しかも、ずっとですが、自分の責任ある言葉を持ち合わせていないために、今回も、他者の意見を自己正当化に悪用しています。もはや、小中学生の節操もないのでしょうか。楽山は、丁寧を装った悪口であり、決して議論好きではありません。
 
*耳に痛いこと
十二国記を読んでいたら、議論好きの自分としては耳に痛いことが書いてあったのでメモしておきたい。
 
言ったことの責任を負わない者に、どうして議論が出来るでしょう。楽山は、正常な議論をしたことなどありません。楽山は、議論好きではなく、議論の体裁を悪用している悪党です。
 
まず、この物語の主人公たちは、悪政によって苦しめられている民を救うために、道を見失った暗愚な王を批判、排除し、自分たちが実権を握り、種々の政策を実行したものの、どうしたわけか、かえって国土は荒廃し、民を困窮させることになってしまったという状況下において、次の話をしていた。
責めるのは容易い。非難することは誰にでもできることです。でも、ただ責めるだけで正しい道を教えてあげられないのなら、それは何も生まない。正すことは、何かを成すことだけど、非難することは何かを成すことじゃない
(『華胥の幽夢』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.287)
 」
また、こうも言う。
私たちみたいに、高い理想を掲げて人を責めることは、本当に簡単なことです。でも私たちは、その理想が本当に実現可能なのか、真にあるべき姿なのかをゆっくり腰を据えて考えてみたことがなかった気がするんです。
(同上、p.291)
 」
自分としては、他人と議論する際には、理想は人それぞれ異なること、相手に無理なことを求めないことを心掛けているつもりではあるが、
 
楽山が、「理想は人それぞれ異なること、相手に無理なことを求めないこと」と書いています。誰が、言論において理解を無理に求め得るでしょう。
 
楽山は批判者に当てつけているだけです。しかし、議論は対話ですし、無反省で無責任の楽山とは不可能なので、楽山が書いてきたことを批判しています。
 
それを、無理を求めるなと言って、我を通したいようですが、楽山の我は、どこにも出せない無反省と無責任の産物であることが、既に、明らかになっています。
 
楽山の言は、いちゃもんを言って、悪いイメージを吹き込もうとする詭弁家の荒らしの所業です。いかなる真実追求にも、無責任でよいなどということは成立しません。
 
楽山は、おのれの無責任を責めることと、一般論であるところの、相手に無理に求めることを、恣意的に混同して、批判を否定したいのですが、逆効果であり、またしても、楽山の無節操が明らかになります。
 
「自分にはとても実現できない理想を描き、その理想の妥当性についてさほど吟味することなく、それに合致しないことをもって他者を批判してはいないか?」と問われれば、そんなことは絶対にないとは言い切れないのはつらいところだ。反省。
 
楽山は、正当な批判をしたことはありません。いちゃもん、当てつけ、当てこすりの、とても卑怯な刷り込みだけしか書けないのです。この記事もそうです。
 
そして、自分を、いつも、中立で、偏らない立場に置きたがるのですが、否定も肯定も言って、なお無責任では、何も成立しません。
 
批判されても平気でいるのは、人を人とも思わないほど傲慢だからです。ゆえに「反省」は、いつもの、トホホ言語であり、その反省の経過も結果も、書くものに表れたことがないので、いつものように、真っ赤な嘘です。
 
だから、楽山は、気取りだけで慢心する自己中なのです。楽山は、言うことが、どんどん、あざとく、剥き出しになり、ますます汚くなってゆくようです。
 
*余談
ちなみに、この手の話で思い出すのは、この議論だ。
・青木理『批判はするが対案は示さない』小松靖アナに論破され苦し紛れの言い訳。それじゃただのガヤ|政治知新
・小松靖アナが青木理に浴びせたネトウヨ常套句|LITERA/リテラ
 」
これを読むと、当然のことながら、「耳に痛いこと」で書いたことは、いつでもどこでも誰にでも当てはまることではなく、時と場合によってはそうとも言えないことがあるようなので、なかなかにややこしい。
 
自分の言葉で、自分の意見を、責任をもって、書くことが出来ない楽山の「なかなかにややこしい」という曖昧な言葉しか書けず、理路を組み立てられない有り様が剥き出しとなり、それゆえに、陰険で、傲慢で、闇に企む体質が、表れています。
 
 
 自分の確信を疑わない人(『華胥の幽夢』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 
 
反省しているように見せて、みすぼらしい自己正当化の詭弁で結ぶ、という、卑しい詭弁屋の楽山の筆致が、地獄のゴミために堕ちてゆきます。
 
*過信
前の記事に続いて、十二国記を読んでいたら、また耳に痛いことが書いてあったのでメモしておきたい。
貴方に恥ずべきこと――後悔すべきことがあるとすればただ一つ、それは確信を疑わなかった、ということです
(『華胥の幽夢』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.296)
 」
恥ずかしながら、自分は若い頃に、カルトにハマってしまったことがあるのだが、そのような失敗をした原因は、まさにここに書いてある通り…「確信を疑わなかった」ことにあったのだった。
 
反省は、今、必要なのに、言葉だけ書いて、今は楽山が批判しているHSを批判するために、過去の確信を疑わなかったことを反省めいた書き方をしてきます。実は、これが、とんでもない詭弁だと言うことを知る必要があります。
 
もし、後悔するなら、今も、指摘された無反省と無責任を反省できるはずです。しかし、そういう反省は一度も見られたことはないのです。
 
楽山にしてみれば、過去のことだから、今は必要ないから、信じたのは失敗だったと、安心して書けるわけです。これを、真摯な反省などと思わないでください。楽山の根底にあるのは、反省ではなく、訂正不能の慢心と他者への怨念です。
 
当時の自分は、「この教えは真実だ!」「教祖はまさしく神だ!」「自分はこの宗教と出会うために生まれてきたのだ!」と強く確信して、それを少しも疑わないままに駆け出してしまった。
 
楽山が「当時の自分」を、いくら反省して、反省できる人だというアピールを印象付けようとしても、今反省するべきことから、即ち、無反省と無責任から、目を背けている事実は、どうしようもありません。むしろ、汚さが剥き出しになるだけです。
 
本当なら、その確信は正しいかどうか時間をかけてよく考えてみるべきだったし、頭を冷やすためにいったん対象と距離をおいたり、他者の忠告にはもっと真剣に耳を傾けるべきだったのに、確信という幸福感に溺れてそれができなかった。これが自分の失敗の原因。いやはや、自分はあきれてしまうほどの愚か者だなと思う。反省。
 
楽山が、既に、記事を書くたびにバレてきた数々の嘘の反省の履歴があり、無反省と無責任の履歴があり、今までの嘘、今までの詭弁、今までに明らかになった病的体質が明らかになったのだから、楽山の信頼度がゼロになった今では、何の意味もありません。
 
その証拠のように、また、不感不応の批判無視で、ネチネチと言い訳めいたことを、3つも書いています。どこまでも、自己正当化、もはや、手遅れであり、真実追求のテーマから、退く以外にはないのです。
 
司馬遼太郎の講演で、思想的な酩酊体質について語ったものがあるが、思想・宗教について強く確信することは、思想・宗教に酔うことでもあって気持ちの良いことだが、酔えば判断力は鈍るものだし、思わぬ失策をすることもあるので、ここはよくよく注意すべきなのだと思う。
 
そして、楽山のあくどいところですが、過去の楽山の失敗を、確信の否定として、思想・宗教について広げる企みが露骨に続いていることに注目してください。
 
個人の過去否定を、全体の重要なテーマについて、広げて、同じように扱って「よくよく注意すべき」などと言っています。楽山の失敗と、広く深く重いテーマである思想・宗教の真実追求は、何の関係もありません。
 
つまり、何ごとも確信してはいけないという楽山は、総てが、どっちつかずで、いい加減が一番良いと思っている従来の無責任の正当化に結び付ける、という、実に、卑怯で、醜くて、酷い詭弁です。
 
楽山は、みな、バレているのに、まだ書き続けられると思っているのでしょうか。手遅れなのでしょうか。楽山の欲望と我執と罪と偽善の、執拗で恐ろしい業(ごう)の深さが続いています。
 
 
私は、キリスト信仰から、むしろ、人は、神とは違う、という謙虚を学んでいます。
 
楽山は、宗教と反宗教という矛盾した自家撞着から、なぜか、自己中の傲慢を身につけただけです。この悪性は、無反省と無責任という、大きな我執をもって、人格を破壊してゆく病原です。
 
 
むき出しのワナ

むき出しのワナ
 
 
(2020年11月22日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  楽山の傲慢
 
 
数を書けばいいと思っている楽山の悪あがきです。一日で3つも記事を書いてきました。数を書けば批判しにくいということもないのです。何故なら、楽山の、無反省と無責任だけの文章は、いつどこで見ても、有害性が明らかだからです。
 
 
 高橋昌一郎氏と幸福の科学
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 一部省略
 
HSの教義には関心はありません。楽山の非道だけを追及しています。
 
*驚いた!
ツイッターを眺めていたら、高橋昌一郎氏の文章が流れて来たので読んでみた。
・「高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ」事件の真相!|高橋昌一郎|note
 」
・やや日刊カルト新聞: 哲学者・高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ!=ストーキングや訴訟予告で報復中
 」
いやはや、これが本当なら酷い話である。
 
HSが、恫喝したという話のようですが、楽山は、恫喝ではなく、ひたすら、反省と責任という義務を無視して、見物人として、面白がっている傍迷惑な悪趣味です。上の2者は、互いに批判し合っているようですが、楽山は、丁寧語で無責任をごまかしている偽善者です。
 
楽山の無責任な記事に対しては、当たり前のことですが、批判目的の場合を除いて、他者を無視する楽山の言を、無責任だから無視するということが正しい対処法です。"いやはや" という言葉で、酷い話をしているのは、楽山その人です。私は、そのことだけを言い続けています。
 
*同情の余地
でもよく考えてみれば、彼らが批判者に対して高圧的な態度に出るのも仕方がないかもしれぬ。
たとえば、HSでは人事異動は頻繁にあり、職員の地位は極めて不安定だ。大川家の一員であっても、総裁の意向次第で追放もありえる。とすれば、HSの職員は、総裁のご機嫌を損ねることは何としても避けたかろ。
 
楽山は、高圧的に、また、あけすけに、相手を批判したり、相手の悪口を言うことよりも、悪性度が高いのです。怒る人は見苦しいですが、楽山のように平気で済ましているのは、通らないことをしている無法と非道の者が、善人のふりをすることで、そこでまた重ねて嘘を吐いているのだから、悪よりもさらに悪である極悪の偽善ということになります。大方の凶悪な犯罪者は、しらばっくれて善のふりをするという現実があります。楽山を決して許してはいけません。
 
また総裁は、新聞や雑誌をよく見ているという。それなら総裁から週刊誌対策を命じられた職員は、尻に火がついた状態にならざるをえないだろう。適当な報告で誤魔化しようがないし、総裁が次号を見たときに、そこに批判記事があるかないかによって自分の将来も決定しかねないのだ。わが身を守るために、なりふり構わぬ行動に出てしまうのも仕方ない。
 
凶悪な偽善者である楽山も、いずれ、尻か股間か頭に火が付くでしょう。なりふり構わぬ行動に出るかもしれません。だから、関わっている人は、今すぐ、離れて、難を避けてください。
 
生まれ育って大人になった時には、既に、偽善者であり、反キリストであり、今、既に、無反省と無責任であり自己顕示欲だけの厚顔無恥の言いたがり屋である楽山は、いずれ、制御不能になってゆくでしょう。
 
以上のことはいろいろと見聞きしたことからの想像に過ぎないのではあるが、なにはともあれ一部の職員が批判者に対して高圧的な態度に出がちなのは、それ相応の理由はあるにちがいない。
一般論としては暴君に仕えるならば、その者もまた暴君のようにならざるを得ないものであろうし、<
 
自己愛性パーソナリティ障害で学習ができないために、ああでもないこうでもないボンヤリ言論で、責任を負わない詐欺師体質の楽山を受け入れる人は、同じように、だますことしかできない、人間的良心の感受性を持たない、ごまかしだけの偽善者になってしまうでしょう。
 
高圧的な態度を示す職員は、理想を持って出家したにもかかわらず、心の平安を得られず苦しんでいるのかもしれぬなどと考えてみると、そういう人をあまり厳しく責めるのは可哀想と思う次第ではある。
 
楽山の偽善の騙し文句に侵された者は、理想を持っていたにもかかわらず、心の平安と不感不応を勘違いして、打てど響かない鈍感な者となり、楽山と同じように、嘘と出まかせで誰かをだましていないと心の平安を得られない者となってゆくでしょう。だから、楽山には、罵詈雑言を吐かないからといって、批判を緩めることは決してできないのであります。
 
 
 信者の傲慢さとマインド・コントロール
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の傲慢さとマインドコントロールについて書いてゆきます。
 
*三つの原因
前記事で、一部の職員が高圧的な態度を示す理由についてあれこれ考えて見たのだが、本記事では信者の傲慢さについて書いてみたい。
思うに、これはマインド・コントロールの影響が強いのではなかろうか。具体的には、次の三つだ。
 
楽山が施すマインドコントロールは、中庸に見せかけ、挨拶や社交の世辞などで油断させ、否定を書いて、のちに、肯定を書き、これで、責任を免れようとする嘘っぱち、即ち、詭弁や印象操作であります。体のいいことを書いているように見えても、底を流れているのは、いじって自己満悦する悪ふざけでしかありません。
 
見かけだけの柔和さの裏にあるのは、今まで無反省と無責任を指摘されるなど、何を言われても、平然と無視する厚顔無恥による不感不応であり、これに従う者は、知らず知らずのうちに、感情、特に、高等感情が習慣的に鈍麻してゆくでしょう。楽山に似てくるのです。
 
つまり、罪悪感、後悔の念、などの感受性が働かなくなり、人間の成長に不可欠の学習を不可能にする無視によって、人格破壊に至るのです。表情乏しく、いつも、うすぼんやりとしてニヤニヤ笑っているようになり、人間について実のあることを、感じることも考えることも出来なくなるでしょう。
 
まず一つは、信者は自分は神の側にあると思い込まされているということである。だから、「われわれは、神(大川隆法)の下に集い、その教えを広め、人々を救おうとしている、しかし、悪魔(アンチ)は、この救世活動を邪魔しようとしている。そんな邪悪なアンチには絶対に負けない。正義の鉄槌をくだすべし」という傲慢さが生まれるのだろう。
 
先ず、楽山は自分がまともなことを言っていると思い込んでいます。中立の立場を装って、実は、上から見下ろして、良いとか悪いとか言っているのが気持ちよい、ということだけが、楽山の快楽と生き甲斐なのでしょう。
 
結局は、断定していないからと言い逃れたつもりで責任を負わない楽山なので、中身は何も言わないのと同じ意見の不在になるのですが、結果として、巻き込まれた者に、名状しがたい異常な精神疲労を残します。言論に本気であればあるほど、楽山は凶悪な病原なのです。
 
正常な言論を混乱させ、無責任な善人芝居をし続ける楽山は、公共の精神衛生のために、その言を徹底して排除することが必要です。そのために、強制力が使えないので、楽山の執拗な無駄口に対して、忍耐強い批判の継続が必要なのです。
 
二つ目は、仏陀誹謗、和合僧破壊は大罪だという戒めだ。HSでは、大川隆法を悪く言ったり、信者の信仰心をぐらつかせるようなことを言ったりするのは大罪であり、死後は地獄に堕ちるとしている。だから信者は、自分がその戒めを守ろうとするだけでなく、批判者に対しても、仏陀誹謗、和合僧破壊の罪を犯すよりは、つべこべ言わずに黙ってろと言うことになる。
 
楽山は、知ったかぶりで、HSの理屈に合わせています。楽山は、時々、愚にもつかない幼稚な嫌がらせを書いてくることはありますが、「つべこべ言わずに黙ってろ」ではなく、理解も出来ないために、大方は、無視であります。この無視を、平然と出来て、さらに言い続けるということが、正常な議論や批判から見ると、極めて特異な異常なのです。
 
三つ目は、信者はエリート意識を持たされるということがある。HSでは、HSを信じたということは、本物を見抜く眼力がある霊的エリートだという考え方がある。大川隆法の信者になれたということは、過去世において相応の修行を積んできたおかげだともいう。だから信者とは反対の立場の人たち…非信者・アンチ・退会者などに対しては、本物を見抜けない未熟者、神(大川隆法)に逆らう傲慢な者、信仰を貫けなかった退転者だと見下すことになるわけである。
 
楽山は、肯定と否定を書いてどっちつかずで、それをもって責任をいっさい負わないでいいと思っていて、楽山を信じても不満と不全感が残るだけでしょう。楽山は、自己の利益以外何も考えていないからです。
 
楽山が、はっきりしたことを言わないのは、言えないからであり、楽山の知性と感性が鈍麻して整わないからです。だから、他者のことを、こう言っている、こう言うことになる、といった書き方しかできないわけです。
 
他には「かなあ」「ていうか」「否定できない」「と言えなくもない」という書き方をしますが、これらは、表現を曖昧にしただけで、中身は、ある時点では、肯定か否定かのどちらかなのに、あとで、責任は負わないのです。こういう人と付き合うことだけは、自分のためにも、他者のためにも、やめてほしいです。
 
大概の信者は、自分がマインド・コントロールされていることは認めないけれども、実際のところは上の通り、HSにおだてられ、操られ、自我を肥大化させ、他者を見下し、傲慢発言を繰り返している信者は決して少なくないのが現実だ。
 
楽山のことを、思慮深い、やさしい、バランスが取れている、などと思うのが、一番恐ろしいところの、だまされた経過になります。楽山の心の底にあるのは、我欲と、それが満たされないための深い怨念だけだと思います。
 
当然ながら、大勢いる信者の中には上の指摘には当てはまらない立派な人はいるだろうが、そうでない人は、この点について、ちょっとだけでも自らをよく振り返ってみてはどうかと思う。
 
こういう優しさ芝居が、楽山の得意技のようです。これを、気遣いと受け取ってしまうと、楽山の狡猾な細工の罠にはまることになります。必ず裏切る人、というより、根本的に、最初から、他者のことなど、何も気遣わない自己中の病的ナルシスト、それが、楽山です。近づいてはいけません。
 
 
 「HSの自由論」と「一般的な自由論」
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 一部省略。
 
権利には義務が、自由には責任が、必ず伴います。
 
自分は、何の責任も果たさないまま、他者のことばかり書いている楽山です。
 
*自由とは?
自由について、高橋昌一郎氏は、次のように書いている。
いずれにしても、現代の日本では、仮に誰かが「イワシの頭」を祭り上げて拝んだとしても自由であり、そのために御殿を建てても、信者を拡張するために勧誘活動を行っても構わない。それが「信仰の自由」である。
だが、仮に「イワシの頭」教団が、公序良俗に反する「非論理」的な見解を宣伝し、「反科学」的な思想を信者に植え付け、その社会的影響に対して「無責任」であれば、その理由を問い掛け、分析し、批判することも自由である。これこそが「信念の自由」であり「学問の自由」なのである! 
・「高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ」事件の真相!|高橋昌一郎|note
 」
これは自分にもよく分かるし、納得できる考え方である。
 
自由には、必ず、公共の福祉に反しない、ということが条件となります。
 
ゆえに、楽山の暴走に対して、批判をする事由があります。
 
楽山は「納得できる」と書いていますが、そのための公共に対する責任をいっさい負わないのですから、言論をする資格はないのです。
 
*過去の議論
 ちなみに、自由については、信者とはこんなやり取りをしたことがあった。
・★ 言論の自由について (言論の場の自由など) - 楽山日記(LD)
・発言の場の自由について ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~ - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
・「発言の場の自由について ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~」を読んでみた。- 楽山日記(LD)
 」
HS(幸福の科学)では、神である大川隆法を批判するのは、傲慢であり、言論の自由のはきちがえであるということになっているようだが、こういう理屈は教団内では通用しても、一般には受け入れられることはあるまいと思う。
 
明確に言えることとして、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由はありません。
 
自由を、いちばん履き違えているのは、楽山その人であります。
 
 
傲慢の闇2

傲慢の闇
 
 
(2020年11月21日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

このページのトップヘ