ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年12月

一息つきます。再録です。今日と明日。
 
  他人・水・氷(再録)
 
 
  他人と自分
 
いろいろな能力それぞれに
とても優れた人がいる
うらやましい
その能力を持ちたいか
持ちたい
その人になりたいか
なりたくはない
 
疑うことを知らないような
信仰厚き人がいる
その信仰を持ちたいか
その人になりたいか
どちらも即座に
おぞましいことのように
気持ち悪いことのように
なりたくない
 
能力は人が生かすもの
人格は生きる人そのもの
信仰は人を生かすもの
 
他人がどうであれ
自分がどうであれ
他人になりたいか
 
なりたくなどないのである
 
(2010年12月30日)
 
 
  水の生き物
 
ガラスの内側でも
川の流れでも
お前は水
流れても淀んでも
腐っても
お前は水
コップに注いで
これから飲もうとする
イオンに洗われるか
細菌に吐かれるか
渇きを癒すか
下痢を来たすか
何も告げずに
今宵かすかな光に
揺らめいて屈折する
お前の前に
何も知らずに
受けるしかない
屈折した水の生き物
 
(1998年1月4日)
 
 
  氷たち
 
氷は自らを溶かしながら滑る
滑らせる
切れ味を試すように
溶けて役に立つ氷
溶けずに邪魔になる氷
人を悩ませる氷
人を殺す氷
美しい雪景の下に凍った人が眠る
人を殺さない氷
誰も悩ませない氷
邪魔にもならない氷
溶けても溶けなくても役に立たない氷
味のない氷
切れるものが何処にあろうか
自らを削ること以外に術(すべ)を持たない
氷は自らを溶かしながら滑る
滑った果てに消えてなくなるまで
注がれる眼差しもない僅(わず)かの
水を残しながら
水を干しながら
 
(1999年12月25日)
 
 
  冬の悲鳴
 
ひええっ
と細い木が立っていた
寒風に吹かれて
幹は揺れ
枝は震えながら
花も実も葉も落ちて痩せ細った裸のように
でも萎えてはいなかった
裸でもなかった
枝は天空のあらゆる方向を指していたし
幹は樹皮に覆われ揺れながらも
真っ直ぐ上に向かって立っていた
すでに春の訪れを知っているかのように
強(したた)かに芽吹きの準備をしているのだろう
とても冷たい風の強い日だった
気が立っているのか萎えているのか結局
ひええっ
だけが私のものだった
 
(2000年02月07日)
 
 
正義

正義?
 
 
(2020年12月31日、再録)
 
 
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  楽山の無神経
 
 『内村鑑三を語る(内村鑑三選集 別巻)』岩波書店
 2020年12月29日 楽山日記(LD)
 
 
今日の記事の投稿が遅れていたのですが、楽山が、また反キリストの記事を、あざ笑うように書いてきたので、批判のほうを優先させることにしました。
 
反キリストの記事をストレートに書けば、私が批判し、その批判に楽山は応えたことがありません。だから、けなしているのか、褒めているのか、分からない書き方をするのです。
 
エピソードや人となりを書いていますが、内村鑑三の宗教観には、さわれもしない楽山であります。内村鑑三について、何度か書いてきて、いつも焦点を外している楽山です。それでいて、いつも、あまり、よろしくない話に仕立て上げるのです。この性根、最悪の策士であり卑怯者です。
 
*人物評いろいろ
年末年始は内村鑑三選集を読もうと思い立ち、まずは別巻を開いてみたのだが、内村鑑三の人物評(同時代を生きた者によるもの)を集めたというだけあって、さまざまな意見を知ることができて愉快である。
 
楽山は、趣味でしか、ゲームのようにしか、、ホラー映画と同列にしか、書くことができないのです。内村鑑三はダメな奴だ、という代わりに、「愉快」という言葉を使っています。内村鑑三を、ピエロにしたいのでしょうか。
 
本書に収録されている文章の著者らの立場は、大雑把に言えば批判者、弟子、友人に分類できるようだが、批判者には、信仰について真面目な問いを発する松村介石のような者もいれば、現代のネット上の誹謗中傷のように悪口三昧の正岡芸陽や評論子のような者もいるし、弟子のなかには、内村鑑三を崇拝、心酔しきっている者もいれば、尊敬はしつつも独立した自己を保っている福田英子、志賀直哉のような者もいるし、世の中には本当にいろいろな人がいて、いろいろな考えを持っているのだなと感心させられる。
 
楽山は、婉曲的なボンヤリ言語で、内村鑑三のみならず、宗教そのものさえも、真剣な態度や姿勢を全く持てずに、揶揄してくるだけなのです。今までの楽山の記事から、宗教も信仰も、何も分かっていないことだけが、いつも、感想になります。
 
本質的でも何でもないことや、言ってどうなるものでもない揶揄のようなことを書いて、暗示し、悪い印象を吹き込むだけの、そこから先の何もなく、何も見えておらず、ほこりのように迷惑に舞い上がり、発泡スチロールのように質量のない男です。
 
これだけ、無反省・無責任で、愉快犯的にあざけって楽しむ悪意の根性だけで出来ている者は、小学生でも珍しいでしょう。真剣に気にすることが、何もないのです。
 
「いろいろな人がいて、いろいろな考えを持っているのだな」という当たり前のことを書いて、そこに「感心させられる」と書いている浅さが、楽山の悪ふざけの特徴です。楽山の「感心」のレベルの低さが、異常な筆致とともに、明らかになっています。
 
他者の参考になる意見も感想も思想も、何も持ち得ず、作り出せないでいる、学習しなかった人であります。そのくせ、人のことばかり、批判めいたことを、記事とツイッターに書いています。
 
しかも、その時によって、言ってることが違ってきて、その反省をせず、その責任を負わないのだから、それこそ、話にならない人なのです。恐らく「・・ならば、・・」という初歩の理屈しか持っていないように思われます。さらに、しばしば詭弁となるような自己中発言でしかないのです。
 
また友人の場合はどの人物も立派ではあるが、キリスト者かそうでないかによって話の内容の深浅濃淡には大分ちがいが出ている。やはりここでも、ものの見方、考え方は、人それぞれということのようだ。
 
「どの人物も立派」・・何を根拠に書いているのでしょう。「深浅濃淡」・・何も説明していません。そして、私が何度も書いてきたところの、楽山が言えば自己中でしかない「人それぞれ」で、ごまかしてくるのです。慢性の疲労物質でしかありません。決して相手にしないでください。だまし引き込み刷り込む技だけで出来ているような男です。
 
内村鑑三という一人物について、これほど異なる意見があるとすれば、人を超えた神について人々の意見はさまざまで決して統一されたことがないというのも致し方ないことなのかもしれぬ。
 
そうして、ここで、楽山は、どういう同一視か知らないが、内村鑑三から、勝手に、神に話を広げて、「統一されたことがない」という、揶揄の本音が、表れています。
 
神を、人が統一することは出来ません。
 
意見の不一致のことならば、少なくとも、楽山には、統一見解を見出すことも、参考になる意見を発することも、良心がなく、無反省・無責任で、情性も鈍麻している冷酷さゆえに、全く、できはしないのです。
 
今までの約2年間の批判で明らかになったのは、楽山が、読めば読むほど、書けば書くほど、厄介なゴミが溜まるだけだということです。迷惑者が、早く退散して、ゴミの無いネットになってほしいと切に思います。
 
誰のためにもならないボヤキの独り言を散らしに来る自己顕示欲だけの楽山の、信頼度は、ゼロであり、有効度は、一途に、マイナスであります。
 
*滑稽さの自覚
私見ながら、本書のなかでもっとも個性的かつ面白いと思えた文章は、「ある日の出来事」(藤沢音吉)だった。おしるこのエピソードは微笑ましく思わないではいられないし、内村鑑三の情の深さを語った後で「お顔に似合はぬやさしい方でありました」という定番のオチがついている話も笑わないではいられなかった。
 
楽山の私見は、お笑いだけのようです。いかなる命題も結論も成り立たない人がいる、ということを、楽山によってはじめて知りました。
 
また、内村鑑三は自身をドン・キホーテに見立てて話したことがあったらしいが、これはその人となりについて考えさせるものがあって興味深い。
「音吉、お前と俺のことを詳しく書いたらドン・キホーテ以上の面白いものが出来るなあ」と仰いました。ドン・キホーテとはどんな物語だか知らなかつたので、さっそく本を買つて読んでみました。
(『内村鑑三を語る(内村鑑三選集 別巻)』鈴木範久編、岩波書店、1990年、p.243)
 」
この言からすると内村鑑三は音吉のもっているユーモアはもちろん、自身の生真面目さの中にある滑稽に自覚的だったのだろうし、この滑稽を承知の上で生真面目であり続けたというのはすごいことであると思う。
 
今度は、内村鑑三を、ドン・キホーテに喩えたいようです。そして、言い訳に、「ユーモア」「滑稽」「滑稽」「生真面目」だと書いています。
 
内村鑑三は、楽山が、宗教の中身を外して、褒めたり、けなしたりするために、生きて発言していたわけではありません。キリスト教の思想家である歴史上の人物を、さんざん、オモチャにしている楽山を決して許してはいけません。
 
結局、内村鑑三のキリスト教については、前に書いてきた的外れだけで、何も書けていません。ただ、バカにしたいだけだと、今までの経過も含めて、既に結論が出ています。
 
ここまで、平気で、悪口と、詭弁の誘導に徹しているのは、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害、精神病質(サイコパス)、学習障害、そして、さらに、サディスト、という思いを深くするだけです。
 
*社会主義者
あとは、上とは正反対に、もっとも悲劇的に思えた文章は、「内村鑑三先生に上る書」(福田英子)だった。著者は社会主義者であったために破門されたそうで、文章全体に悲しみが満ちていて読むと泣けてくる。
ちなみに、著者について検索してみると、Wikipediaにはこうあった。 
内村鑑三の角筈の自宅で行われていた角筈聖書研究会に出席し聖書を学んだ。しかし、1907年に、社会主義に批判的であった内村から突然聖書研究会への出席を拒否された。直後、福田は1907年3月15日の『世界婦人』(『新紀元』の後継誌として石川三四郎と福田英子で始めた雑誌)6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書き、社会主義とキリスト教の神の摂理は一致しているのではないか、心霊上の及第にまさって物界の救助をはかることが神の真意にかなうものではないかなどと述べて、内村に対し教示を求めた。[3] 
・福田英子 - Wikipedia
 」
「来歴」を読むと凄まじすぎて思わずたじろいでしまうが、それだけ真剣に生きたということなのだろうと思う。
 
そうして、楽山の刷り込みと悪口は、内村鑑三が、社会主義者だったために人を冷遇したという話のようです。そして、こともあろうに、「社会主義とキリスト教の神の摂理は一致している」、「心霊上の及第にまさって物界の救助をはかることが神の真意にかなう」などという話を、聖書の "霊" なものを全く理解できていないのに、恐れもせず、乱暴に印象して、書いて、悪用しています。
 
楽山の "霊" の理解は、 "霊が分かるっぽい" という、とても幼稚で尊大な自覚によって、超常ホラー~マンガ・アニメの理解にとどまっていて、人間離れしたい楽山の常習の悪癖であります。
 
ごまかしに気づいてほしいのは、楽山が、内村鑑三が「真剣に生きた」と言っていることです。真剣味が、全く見られないで、揶揄、からかい、けなし、悪口を書いておきながら、最後に、世辞を入れて、嘘の理解を示してくる楽山の常套手段であります。
 
不十分でも、普通に考え、感じて、感想を書く人と、楽山は違います。全く真剣に生きていない楽山には、批判も、賛同も、表す資格も能力もないと思います。
 
楽山が、そういうレベルの、しかも、身勝手な自己中・自己愛の、妄想的理解で、真実に関わる宗教や信仰を語ってくるのは、関わる総てを腐らせるつもりでしょうか。腐肉を見て悪臭を嗅ぐような思いであります。決して楽山に関わらないでください。楽山に近づかないでください。
 
 
腐敗

腐敗
 
 
(2020年12月30日、再録)
 
 
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  人からの自由2
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においても、人からの自由という大きな恵みがあります。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、一種のカルトであります。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰になりやすいと思います。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、
 
他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。
 
この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。
 
この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その者は、
罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていいと言い、
 それを、キリスト信仰ではないと批判すると、
今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与えるからだと言い、
 そのようなキリスト信仰はどこにも存在しない、
 まず最初に自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりで、
 悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと、
生まれながらの自由意志ではなく
御言葉と御霊による自由意思などと言い出し
 思いつきで中身のない理解不能の造語的組み合わせを平気でしてきます。
 その場で繕っただけの言葉遊びを
 自動的に聖霊によって正当化したつもりなのです。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、
人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり
自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ
人間らしい自由意志を嫌い
人間を嫌って否定しているいる証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど
理解力が欠け落ちている者がいるということです。
 
人間が、人間離れしたら、人格の破壊と喪失によるところの、カルト的狂気しかありません。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、御託を並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られていますと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っておらず、まともに人の話も理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を真逆の方向に振り回して、悦に入っている人格破壊の姿であります。
 
それが、その者の中だけで終わってしまえばよいものを、そういう者ほど、その妄想を、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、もちろん、超人になることではなく、また、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、それゆえ他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うするために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対して正直となるためであります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神の絶対を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることであり、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味です。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを、信仰生活とすることです。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、それゆえに、主の慈しみを知るために、神への信仰があるとも言えるのです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることなく、あらゆる形式に時に従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともならず、打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とならず、悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、誤りのない生き方の境地ではなく、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
むしろ、人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
ゆえに、キリスト信仰の、人からの自由は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。
 
 
人からの自由

人からの自由
 
 
(2019年12月10日)
(2020年12月29日、加筆して再録)
 
 
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  楽山の無理解
 
 
HSとアンチの争いには、私は関わりませんが、楽山がツイートしました。
心機一転★こも楽山
@komo266
4時間
最近は、信者はもちろん、多くのアンチ氏らも、?氏はスルーしてた
したら、誰からも何の反応も得られなかった?氏は、昨日になってアンチ氏に咬みつき、その影響でアンチ氏から沢山反論されるようになり、今度は高所から相手を軽くあしらうポーズをとる
これが?氏のいつものパターン
 
たくさん批判されるようになった楽山は、批判をスルーしています。そして、高所から相手を軽くあしらうような記事を書き、批判には全然答えにならない悪口を書き、無視し続けている。これが楽山のいつものパターン。
 
 
※ 楽山の、ツイートについての記事
 
楽山は、ツイートについて、ブログの記事に、書いてきました。
 
楽山日記(LD) 2020年12月27日
「st氏による歪曲捏造の例」
しかし、そこに妥当な表現も理路もありません。
 
*通知
ツイッターで通知があり確認してみたら、またもや、st氏が歪曲捏造してた。
*比較
まず、楽山の元々の発言と、st氏による歪曲捏造後を並べるとこうなる。
2020-12-27 (1)楽山の元ツイート
2020-12-27 (0)st氏による歪曲捏造の例
両者を比較すると、楽山は、「~ならば、××である」という風に、ある前提を示したうえで結論を出している。
にもかかわらず、st氏はこれを前提条件なしの断言に変えてしまっている。こんな風に。
楽山発言「KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だ」
st要約「(省略)アンチから継続的に反論があるのは当然だ」
 」
これはつまり、「批判したら、反論されるのは当然だ」という意見を、「批判したかどうかに関係なく、反論されるのは当然だ」という風に、無条件に反論、批判してもよいという意見に変えたということ。
省略、要約は一切認められないとは言わないが、このようにまったく異なる意味に変えてしまうのは話にならん。
 
わざわざ、楽山は、自身の見苦しいツイートを引用・リンクしています。ところが、私のツイートについては、表現の意味を理解していません。
 
賢明な読者から分かると思いますが、楽山がK氏について書いたことは、楽山がしてきたことだと言っているのです。楽山が、人を悪く言っていることが、楽山に当てはまるということです。
 
楽山は、何を逆上しているのでしょう。それこそ、因果応報であり、楽山が受けている因業の結果なのです。つまり、K氏は関係なく、私は、楽山より出たことが、楽山に返っていると言っています。
 
つまり、楽山は、人のことを、とやかく言う資格がないということを前から言っているのですが、楽山は、理解できないのです。その理由と根拠は、ずっとブログの記事に書いてきたことですが、楽山が無反応なのは、無反省で無責任な病質者だからです。
 
楽山は、無反省・無責任の人生であるために、文脈の表現の意図と理路を読み取ることができないのです。
 
何でしょう。「~ならば、××である」とか、論理的に見せかけていますが、そういうことを無視してきたのが楽山です。楽山は、自己中のために、妥当な理路の反省が出来ず、ゆえに妥当な文章が書けないのです。
 
つまり、楽山は、無視と悪口しか言わないで、無反省・無責任ならば、批判されるのは当然、という、至極、常識的な理路が分からないのです。約2年近くの私の批判記事が根拠です。
 
楽山は、自分の理路だけを主張し続けて、他者の理路を理解しない人です。
 
楽山に関わらないようにしてください。
 
*もう一つ
あと、もう一つ。ここでもおかしなことになってる。
2020-12-27 (7)KENTO氏はスルーしてた
2020-12-27 (6)st氏による歪曲
楽山のツイートでは、多くの人がKENTO氏をスルーしてたとしている。
でも、st氏はおかしな省略をして、KENTO氏が他をスルーしてたと変えてしまっている。これは話にならん。
「KENTO氏」を勝手に「K氏」に変えたり、変えなかったり、不揃いにしてるのもダメ。
 
これも、楽山が、してきたことを書いています。楽山は、人のことばかり、どうしたこうしたと書いていますが、私は、楽山こそ、まさに、そういうことをしてきたのだと指摘しています。そういう、こちらの意図が分からないのでしょう。
 
つまり、人のことを、とやかく言っているようだが、それ全部、あんたがやってきたことだろう、という意味の皮肉であります。
 
HNを出さずK氏と書いたのは、K氏の主張は、私の批判には関わりの無いことだからです。楽山に「ダメ」と言われる筋合いはありません。また「話にならん」などと書いても、楽山の狼狽を示すだけで、意味はありません。
 
今回、楽山の心底にある悪意と乱暴な高慢が、「話にならん」「ダメ」という言い方で、表れています。楽山においては、今までの流れという長い文脈と、そこで培われるべき視野が、記憶されないのかもしれません。つまり、記憶と視野が、目の前の餌にしか及ばないのかもしれません。
 
楽山には病識がありません。楽山に関わらないようにしてください。
 
*基本方針
今回、通知が入ったのは、この二つだけだが、あとは推して知るべし。
やはりst氏とはまともな対話は成立しそうもないし、これまで通り、スルーを基本にしておく。
 
それこそ、楽山は、好きなように書くだけであり、書いたことに責任を負いません。書いたことを説明も出来ません。「ダメ」「話にならん」としか書けないのが、楽山の因業が、楽山にもたらしている報酬つまり結果であります。まさに「ダメ」が、ダメなのです。
 
楽山の文章は、楽山の自己満足でしかないので、説明不能、無反省、理路も成り立たず、責任も負わないならば、学習も成長もないということです。楽山が、人について、とやかく言う文章に、読む価値はありません。
 
楽山は、こう書いておけば、読者は自分のほうをまともだと思うだろう、という計算で書いてくるのでしょう。
 
こういう悪意の作為と誘導に対しては、楽山を批判するのでないならば、楽山が、人の意見を無視してきたように、楽山のツイートは無視してください。遣り取りはしないでください。病質者の与える病的な疲労の犠牲になるだけです。
 
 
無理解2

無理解
 
 
(2020年12月28日、同日一部修正)
 
 
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  カルト発言
 
 加筆して再録
 おもに偽善者シャローム shalom などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア型)
  (嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。)
  (キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない)
  (キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない)
  (キリスト信仰は呪術ではない)
 
 
  《キリスト者も注意するべき発言》
 
神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛。
 
どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。
戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。
神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
  
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、神が愛してくれるは妄想です。
それは、罪の自覚を失って、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
ほめたたえよ、という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、問題というよりカルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえの神の愛と寛容であり、それゆえのキリストの共感と愛なのです。
 
不完全で罪深い自分を憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への捧げものが、祈りであることを忘れないでください。
 
多くの恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~情熱として、与えられているのです。
 
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。
それが、神の寛容さであり、永遠に変わることのない愛なのです。
 
その都度、正直に祈ることが悔い改めであります。
 
悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。
それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、
いつでも、いつうまでも、人には隠しているようなことでも、
正直な告白を聞いてくださる御方がいることです。
 
 
この記事は、必要なら修正加筆しながら、何度も載せていくことになると思います。
 
 
カルト発言

カルト発言
 
 
(2019年12月11日)
(2020年12月27日、加筆して再録)
 
 
※ 楽山批判
 
楽山がツイートしていました。
 
心機一転★こも楽山
3時間
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見ての感想しか書けない楽山です。
楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、ストーキングというより、因果応報だと思います。
 
 
※ おまけ的に
 
生まれた西暦に、年齢を足すと、2020になる
って話でしたが、ふーん、と思ったけど、
 
生まれた年(西暦)+今年の年齢(今まで生きた年数、満年齢)= 今年(西暦)
 
 これ、当たり前の、恒等式。誰かの何かのジョーク?
 そうか、年末だから、たいていの人は、誕生日過ぎて満年齢になってる。
 つまり、年末ジョークということか。
 
 
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