ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年12月

 
  偽善者の失言集2
 
 偽善者の失言集
  に少し加筆してアップします。
 
 
少し手を加えたものもありますが、今までのコメントの遣り取りから、これが、偽善者、偽キリスト者、偽牧師である証拠と思うことを上げておきます。ヤフーブログ終了後、所在不明なシャロームですが、時々、嫌らしいコメントを書いてきました。
 
ヤフーブログのシャロームの記事と、その後の私のライブドアブログについたコメントから、まとめておいた記事を少し手直しして載せておきます。シャロームの言い分を否定してゆきます。
 
 
>「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」
 
罪を悔い改めないキリスト信仰は、どこにもありません。
 
 
全聖書によって神ご自身がその言葉と御業によって証明された出来事を人としてわからないから、わからないと片付けてしまっては神のみ言葉と御業であるイエスさまを信じる信仰は成り立たないでしょう。
 
分からないものを、分かったと偽って、それが信仰だと言っているシャロームの正体が、今、シャロームの言葉によって、明らかになりました。
 
 
また取税人のように、権力をかさに着て、人から不当な税金を搾り取り、弱い自分を守るために、人から見下されることをひたすら恐れ、弱さを隠したり、恐れて、権力に自分の心を売ってしまい、みじめな自分を恥じて苦しんでいる人の姿です。
 
取税人であった弟子マタイのように、キリストに憐れまれた取税人は、耳あるものは聞くがよい、という、キリストの話を聞く耳がありました。それは、決定的な違いなのです。
 
パリサイ人、そして、シャロームには、聞く耳がありません。自分が神の霊によるものだということだけを根拠とする神がかりから人間離れしたものだからです。
 
 
イエスさまは
ふたりの人は祈るために宮にのぼったと言っておられます。
二人の人をくらべてどちらの人が正しいか、
どちらの人が間違っているかについて話されたのではなく、
 
 (ルカによる福音書、口語訳)18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
  (ルカ18:14、新約聖書)
  
このように、神によって義とされたのは取税人だと書いてあります。明らかに、取税人のほうが信仰として正しいのです。シャロームは、自分がパリサイに似た信条であるために、神に背いて、故意に的を外してパリサイ人を弁護しているのです。
  
読解に必要な聖句を、故意に、自分の都合で、無視する、捻じ曲げる、という罪を重ねています。上の解釈から、故意であることは明らかです。シャロームは、そういう人です。シャロームが好きなのは、このような悪だくみです。
 
 
イエスさまは人の相対的な真実によって裁かれ、十字架につけられたのですが、神はイエスさまを良しとされ、義とされ、死人の中からよみがえらせてくださったのでです。
 
シャロームの安易な言葉の例です。相対的な真実、と書けば、否定できるから、都合がよい、とでも思っているのでしょうか。私たち人間は、元々、絶対ではなく、相対でしかないのです。
 
さらに、キリストを裁いた者たちには、相対的も絶対的も、真実など無かったのです。即ち、シャロームの言は、キリストには罪がないのに、十字架にかけられた、という福音書のストーリーに、真っ向から反します。
 
シャロームは、まるで、キリストに、罪があったが、神が、キリストを憐れんで、よみがえらせた、という筋書きのような書き方です。分かっていない者が、詭弁で辻褄合わせをして、合理化しようとする醜い姿です。
 
シャロームは、神はキリストの相対的な?罪を良しとした、とでも言うのでしょうか。神が罪を良しとするでしょうか。また、シャロームは、三位一体をどう考えているのでしょうか、三位同士で赦し合いが必要とでも言うのでしょうか。聖書についても信仰についても、シャロームが、何も分かっていないデタラメであることを露呈しています。
 
シャロームの信仰?は、その相対を人間として考えることなく否定して、神が、死人の中から蘇らせてくださったと奇跡だけを、絶対だ、絶対だと、喜んでいるような、幼稚な言葉と物質的な肉体的な奇跡にのみ頼る信仰?なのです。
 
だから、誰のためにもなりません。シャローム独りが、空を見上げて、口をアパ~ンと開けて、奇跡が降ってくるのを待つのでしょう。
 
 
イエスさまは十字架の上で、「私を誰も助けてはくれません」とは祈られませんでした。反対に、ご自分を十字架につけた人(私たち)のために、父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは自分のしていることが分からずにしているのですからと祈られました。
あなたの泣き言とは全く真逆の祈りをされました。
 
私が、神に対して、弱音を吐いたことを、泣き言と、信仰とは真逆だと、責めています。そして、事もあろうに、キリストの祈りを例示したのです。
 
次は、私がコメントに書いたことです。記事にも、既に書いています。
 
私たちキリスト者が、救い主イエス・キリストとは、違うからです。
キリストは救い主、私たちは、救いを受ける側です。
 
なのに、あなたシャロームは、それを、立派な祈りをしなかったことで、私を責めています。
 
そこに、悪魔性があり、そこに、あなたシャロームが、キリスト相当と自分を並べていることが明らかなのです。愚かな。それが、あなたシャロームの次元、誇る信仰?なのです。
 
こういうデタラメを言って、信仰者や求道者に、嘘の信仰を勧めていたシャロームの罪は、無反省・無責任・訂正不能の悪性とともに、最悪の偽善として、計り知れないものがあります。
 
シャロームは、現代のパリサイ人だと、私は何度も言っています。まさに、それが表れています。
 
あなたシャロームは、湖に行って、キリスト相当なら、水の上を歩けばよいのです。
 
信仰は、人間がするものですから、信仰の正しさは、立派さではありません。それはパリサイ人の、取税人を見下す自慢の祈り?とキリストの言葉において明らかです。私たち信仰者は、人間に相応しい祈りをするのです。弱さを隠さずに。
 
キリストが、いかに、人間と共感性を持っていたかが、聖書には表されていることを、キリスト者は知っています。
 
キリストは、決して、シャロームのように人を見下ろして偉そうに語ったのではありません。悲しみと苦しみを、人々と共にして、かつ、それを、乗り越えているのです。
 
 (マタイによる副遺書、口語訳)26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
 (マタイ26:39、新約聖書)
 
楽山やシャロームのような偽善者は、ここを、イエス・キリストは、何も出来ない人だったので助かりたくて弱音を吐いた、などと思っているのかもしれません。
 
キリストは、人間の肉体と心を持っておられるゆえに、人間としての悲しみと苦しみを人間と同じように受けます。それゆえにこそ、人間に共感できるのです。かつ、耐え忍ぶことで、ご自身の命を賭して、救いの使命を全うしました。
 
 
16. shalomです。おはようございます
 2019年12月05日 13:19
「全聖書は呼んでいません。私が書いたのは、新約聖書を通読したということだけです。旧約は、ソロモンあたりで、ダニエル書あたりで、止まっています。責める材料にしますか。」
 」
全聖書を読んでいない。そうでしょう。
一度は読みました・・あなたは自分の正直さを強調するために、虚言したり、嘘だと認めたりして、悔い改めを演じているだけなのです。
 
悔い改めないシャロームが、私の悔い改めの何を知っていると言うのでしょう。バカ丸出しと言います。
 
安いエサ投げたら、すぐ食いついてくるパターン。
 
私は、自らの弱みを、人の前で隠すことがあったとしても、神の前では隠しません。神は、既に、総て、見抜かれているからです。神に対して、隠すことは罪であり、かつ、無駄なのです。
 
 
シャロームは、自分のほうが正当だ、立派だ、という主張だけを繰り返してきました。
 
その時点で、つまり、いつも、シャロームは、キリスト信仰を真逆に取り違えてきました。
 
シャロームの信仰?は、真っ赤な偽物です。今回も、あからさまに、ボロだけが出てきたのです。
 
 
カルト的な偽信仰は、自分を立派に見せようとし、自分を飾り、言葉を飾ります。
 
本当の信仰は、神の前で、弱みを隠さず、飾らない正直な祈りを、神に捧げます。
 
 
   「背教発言」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
しばらく鳴りを潜めていたが、また、シャロームが、恥ずかしいコメントを書いてきました。
 
1. shalomです。おはようございます
 2019年12月11日 12:15
12月15日のyahooブログの閉鎖が迫り、
相も変わらぬ妄想と虚言の締めくくりをされているようですね。
 
いつもながら結論の嘲りだけの悪口。
 
シャロームが言っている妄想も虚言も、実際は、私がシャロームに対して批判として、シャロームの発言を例にあげて、根拠とともに、指摘した言葉です。こういう返し方しかできないのがシャローム。
 
批判に対する根拠ある反論も弁明も、一度もなしえたことのないシャローム。
 
>おつかれさまです。
 
当てつけの皮肉。
 
しばらくご無沙汰しました。
わたしはさいわい良い天気に恵まれた年末の日々、
一枚でもたくさんのれいわ新選組のポスター貼りに努めています。
 
善人アピール。今までの経過から、説得力皆無。
 
st5402さんもお元気かどうかはわかりませんが、
れいわ一年も残り少なくなりました。
くれぐれも悔いのない一年としてください。
 
余計なお世話。既に、さんざん、こちらをけなしてきたのに、こういう世辞や挨拶だけは書いてきて、善人ぶろうとしてきます。すべて、嘘、偽者、ということが、既にバレているのですが。
 
お母さんを迎えて素晴らしい時をお過ごしください。
また新たな心で主の恵みの年2010年お迎えください。
 
母を迎える?・・外出で、介護施設から一時帰宅のことは記事に書いたけど、シャロームは、親孝行のことを書けば、私が自責の念でシュンとなるとでも思ったのでしょうか。(ここは2019年末時点の話です。現在、2020年末の時点で、母は、老健施設に入所しています。認知症で、会話も辻褄が合わず、歩行も難しく、自宅への外出・一時帰宅も無理になってきました。)
 
あなたシャロームは、学習も成長もしないから、これから2010年なのでしょうか。偽りから、偽りへ、ずっとそうやって年越ししてきたのでしょう。あるいは、からかっているのか。
 
自分の善行アピール、相手への求められてもいないお節介説教、言うだけならタダと思っているんだろうか。偽善を際立たせる結果にしかならないのに。
 
シャロームの、いつも自分のほうが上だと言わないと気が済まないのは、信仰を履き違えた、とんでもない老醜でしょう。
 
Shalom!
Shalom!
Shalom!
 
「平和」という意味のヘブライ語の挨拶に見せかけたシャロームのHN、という嘘のハンコを押しまくる強迫症状になっています。これまでのことを考えると、追いつめられた野良犬の遠吠えのように感じます。
 
長いこと、シャロームを見てきましたが、分析が単純になってきました。
こちらは既に何の興味もないのに、わざわざ、自ら進んで、同じパターンで恥をさらしに来るのは、無知と無恥の厚顔によって、恥ずかしさを感じないからでしょう。
 
底が知れてしまうということは、哀れなことです。自覚がなければ、迷惑なことです。
 
シャロームは、見当外れも甚だしい自尊によって、繰り言のように、根拠もなく「相も変わらぬ妄想と虚言」と、相手に言わないと気が済まない、寄る年の波と、年の瀬を迎えているのでしょう。
 
そして、シャロームの丁寧語は、シャロームの嫌らしさを表すだけです。
 
悪と偽善以外は伝わらないのに、今も丁寧語を使って、まともだと思われようとする老いの醜さが、間違ったペダルを踏み続けているのでしょう。他者を轢(ひ)くことにだけはならないように、黙っていなさい。
 
 
失言2

失言
 
 
(2019年12月12日、同日一部修正)
(2020年12月26日、加筆して再録)
 
 
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  楽山の不感と作為
 
 『晩年の父内村鑑三』内村美代子著
 2020年12月24日 楽山日記(LD)
 
 
前にも書いたことですが、楽山は、自分の考えを整理することが出来ないので、他者の発言を引用した記事を書いています。殆ど引用で出来ている記事であるのは、楽山に、答える資質がないからです。恐らく、感想文というレベルにも達していないと思います。
 
あとは、楽山の、いつも気安い思いつきで、書いてゆく姿勢が続いていますが、気安さ、安易、不注意、などということを、まるで気にせず、気取った書き方になっています。
 
*著者
著者は内村鑑三の長男祐之の妻であり、本書では自身の立場から見聞きした鑑三の言行について綴っているのだが、記憶に頼って書くだけでなく、鑑三の日記と照合し事実関係を確認してあるところがすばらしい。
「あとがき」によると、戦後は鑑三について「虚実とりまぜた一身上のことまでが」取りざたされるようになったので、真実を書き残しておきたいと考えて筆を執ったとのことであるし、もともと書物の編集、翻訳に携わっている方なので、そのような念入りなものになったのだろう。
このことから本書の信頼性は高いと思うのだが、その中で自分にとって最も印象的だった点について、いくつかメモしておきたいと思う。
 
楽山にとって印象的だった点、というのは、要警戒です。楽山は、今まで、都合の良いところだけを引用して、自分の幼稚な宗教観に、実際は、反宗教に、結び付けてきたのです。そうやって、楽山は、有名人の著作を、自分だけの狭い視野の中で、恣意的に、自分に都合よく語ることで、おとしめるのが、楽山の上から目線として、有害性を増してきました。
 
楽山は、本を読んで、勉強し学習するのではなく、利用し悪用してきた履歴が、本の感想文さえも、詭弁の醜悪さに変えてきたことを忘れてはいけません。キリスト教、無神論など、どちらも、楽山は利用します。そして、楽山は、一貫して、いちゃもん屋の、思い上がった無反省・無責任・無理解の反キリストです。楽山の感想文を信用してはいけません。
 
*情熱家
まず一つ目は、内村鑑三は非常に情熱的な人だったということである。
対人関係では、あまり熱情が大きすぎるため、相手の態度に絶えず物足りなさを感じておられたのではなかろうか。総じて愛憎の烈しいのが内村家の性格だそうで、父もよほど、それを自制しておられたように思う。
(『晩年の父内村鑑三』内村美代子著、教文館、1985年、p.104)
いったい大きな子供のように感情の強い人でしたから、気に入ったものを頂くと、その喜びは大変なものでした。
(同上、p.114)
「実家と絶交して、いったいどうしていたのか」と、不審に思われる方もあるかもしれないが、絶交は父のよくやることなので、私は大して驚きもしなかった。
(同上、p.44)
父は直情径行、悩みごとを家族に隠しておけるような人ではありません。
(同上、p.134)
 」
著者の夫(鑑三の長男)は、「いたずらっぽい目」をして、こんなことを言っていたともいう。
「おまえはすぐプンとするが、それはおまえの将来に決してよいことではないから気をつけるんだよと、お父さんが言ったものだよ。あのお父さんがね」
(同上、p.75)
 」
こうしてみると、内村鑑三はその長所はもちろん、そうでないところも含めて家族から愛されていたようだ。
 
引用が、長所よりも、短所寄りであることに気づいてほしいと思います。「愛憎の烈しい」「感情の強い」「絶交」「直情径行」「あのお父さんがね」・・こういう引用で、感情的で短慮、という印象を吹き込みたいようです。
 
「それをそうでないところも含めて」「家族から愛されていた」・・というのは、後者で前者を受け入れやすくしているのでしょう。
 
*バランス
二つ目は、情熱家ではあっても極端にははしらなかったという話である。
自身も催眠薬などには苦心されたと見えて、薬のことにはなかなか詳しく、ある人が毎晩ジアールを服用されると聞いて、
「そんな乱暴なことをして!」
と、眉をひそめておられたこともある。
 なるたけ強い薬を避けて、自然の食事療法に近いものを採られ、米は三分づきぐらいの黒いものと決まっており、餅は栗餅であった。
 しかし何にもまして精神力を尊重しておられたことは明らかである。それかといって、クリスチャン・サイエンスなどにははしらず、どこまでも常識の則を超えぬやり方であった。
(同上、p.94)
 」
不眠症で悩んでも無謀なことはしない、信仰心は強く、感情も豊かでありつつも、理性的で常識をわきまえているというのは大人だなと思う。
 
薬、食事療法、精神力、など、ことさら、引用しなくてもいいようなことを、わざわざ引用しています。「不眠症で悩んでも無謀なことはしない」「信仰心は強く、感情も豊か」「理性的で常識をわきまえている」・・こういう理性も情性も単純に褒める言葉から、楽山の、気安さ、安易さ、めんどくさがっているところ、を感じてほしいところです。
 
キリスト教について、ほとんど触れておらず、世辞と誘導以外、書く必要のない感想文だからです。
 
読んだつもりだから、記事にして、満悦したいのでしょうか。だから、結局、「大人だな」という褒め言葉しかなくなります。確かに、評論家気取り?の小学生?みたいな楽山よりは、大人なのでしょう。
 
*天罰
三つ目は、内村鑑三は天罰を信じていたらしいことである。
ある日の食後の雑談の折りに、父は容をあらためて申しました――
「この年になって、いよいよはっきりわかってきたことは、この世には天罰があるということ。人の子をわなにおとし入れれば、自分の子が同じ穴に落ちてしまう。私はそういう実例をたくさんに見た。すべての人がこの事をよく知って、神様を畏れなければならない」
(同上、p.175)
 」
「悪には必ず報いがあるが、災いはすべて悪の報いとは限らない、義人の苦難のように」とするなら、天罰を信じることと因果応報を信じないことは両立し得るのだろうが、ヨブ記講演において因果応報を説くヨブの友人たちをあれほど強く批判していながら、悪には天罰という報いがあると強く信じているところは興味深い。
 人の脳は、目的論的、因果応報的に考えるようにできているというが、内村鑑三もその例外ではないということだろうか。
 
楽山に、天罰ということから、目的論、因果応報、という結論しか出てこないのは、今まで、そういうことしか、考えず、書いて来なかったからです。しかも、その説明をしていません。楽山は自分を、内村鑑三を分かっている評論家気取りで、偉く見せようとしているとしか思えない記事なのです。
 
内村鑑三も、楽山にとっては、楽山の視野と思考の例外ではない、と言いたいのでしょう。楽山のような自己愛性人格では決して届かない人物を、例外視したくない楽山の自己愛性の高慢な欲望からの見なしだと思います。
 
*生物学と信仰
最後に、本書によると、「一生を通じて最も感化を受けしは如何なる書なるや」との問いに、内村鑑三は次のように答えたという。
基督教の聖書、ダーウィン氏原種論、ブレース氏の人類思想発達史
(同上、p.152)
 」
また学生時代は、生物学が得意だったらしく、志賀重昴による内村鑑三の紹介文にはこうある。
特に生物学に到りては全百点を得。
(『内村鑑三選集 別巻』「〔内村鑑三氏〕」志賀重昴著、岩波書店、1990年、p.3)
 」
内村鑑三は農学校の卒業後には、水産生物学の研究で種々の業績を上げたというし、信仰を持ちながらも、それとは相反するだろう生物学の分野でも優れていたというのは驚かされる。
マクグラスもそうだが、こういう風に自己の信仰とは相容れぬだろうものさえ受け入れ可能な人物は、やはりそれだけ器が大きいということなのだろう。
 
本の名前を挙げ、生物学百点、ということから、楽山は、なぜ、信仰と相容れぬものを受け入れ可能、さらには、器が大きい、などと言えるのでしょう。理路が、全く整理されていないので、根拠になりません。いつものように、子供レベルの思い付きで書いています。だとすれば、全体的に、評論家気取りの筆致が、嘘だということになるのです。
 
自己愛の強い楽山には、内村鑑三も、神学者のマクグラスも、理解できるはずはないのです。しかし、評論家気取りで、「マクグラスもそうだが」と、器の大きさが分かる立場を、さらに気取って、同列のように、書いてしまうのです。自分も、肩を並べている・・?、とでも言いたいのでしょうか。
 
反キリストで、キリスト教もキリスト信仰も全く理解していない楽山が、正当な批判も、正当な賛同も出来ないのに、キリスト教について、的を外しながら書いてくる雑言の文章を信用してはいけません。何を書いても同じことで、信用度は、ゼロ~マイナスでしかありません。
 
今回は、キリスト教の人がテーマだから、真っ向から否定してはまずい、とでも考えたのでしょう。しかし、このような、書いた文章のあちこちに、ナルシストが顔を出してくる楽山であります。ここで明らかになってくるのは、恐らく、楽山は、誰も尊敬してはいないだろうということです。
 
 
花と見せかけ

花と見せかけ
 
 
(2019年12月12日、同日一部修正)
(2020年12月25日、加筆して再録、さらに修正)
 
 
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  偶像と玉葱の皮2
  を加筆修正。
 
 
人が神を
特にキリストを信仰するとき
祈るときも感謝するときも
キリストの理想像を
人は心に思い描いています
その根拠は聖書ですが
それも人による聖書の解釈です
 
したがって信仰は
自分にとって望ましく好ましい
また都合のよい偶像になってゆきます
つまり信仰は偶像信仰になってゆきます
 
信仰の偶像は忌むべきです
排除できるなら排除したいのですが
はたして排除できるでしょうか
 
キリストを思うとき
必ずキリストを思い描いています
姿・顔・表情など
詳細な写実のような像でなくても
思い描かないなら概念に過ぎなくなります
信仰が概念だけになるのはイデオロギー化であります
信仰はイデオロギーではありません
 
思い描いてしまうのです
大好きなイエスさまを
 
偶像の完全排除は形無き理屈になりますから
偶像排除も真の信仰も
結局は不可能になります
 
しかし偶像を排除しようという意思を持つことが
折に触れて大切になります
経験を重ねるにつれて余計な尾ひれが付いてくるのが
人が信じるということの必然ですから
 
信仰の偶像を自覚しない信仰にならないために
 
偶像の排除は
玉葱の皮を剥くようなものかもしれません
剥いても剥いても切りがなく
刻めば出てくるのは涙だけ
しかも玉葱の芯があってもなくても
真の信仰だという保証はないのです
 
だからといって
偶像排除など
しなくてよいということにはなりません
 
いかなる信仰であれ
自分に都合のよい偶像信仰に陥る危険はあり
偶像信仰だけならば
玉葱の皮をむいた後に残るものは何もありません
偶像信仰だけでないならば
皮をむき続けるのが信仰者の一生です
この場合
皮をむく作業は終わらないのです
ゆえに信仰は境地ではなく一生続く道なのです
 
したがって人は
皮をむく作業が終わりを予測できないまま
作業を続けることになります
それは空しいだけだと止めてしまうと
玉葱の皮に気づこうとしないまま偶像信仰が続く
という最悪の偶像信仰に陥るでしょう
 
信仰の偶像を自覚する信仰であるために
 
「剥いて刻んでも出てくるのは涙だけ」
と言う偽善者もいますが
 
だからこそ
玉葱の正体を知りたいなら
一生のあいだに
ありったけの涙を流すべきなのです
 
 
(2011年12月21日、同日一部修正)
 
 
上では偶像と書きましたが
ここでは
祈るとき
信仰について考えるとき
必ず不可避的に
思い描いているイメージの意味でもあります。
 
偶像=心に描いているキリスト像
=自分の理想のキリスト像
=自分が出会ったと思っているキリスト像
こういう偶像は
信仰者なら
はっきりとはしなくても
誰もが持っていると思います。
 
そこを自覚しない場合
あるいはカルトなどは最初から、
最悪となる偶像があります。
すなわち偶像崇拝といってよい邪悪な偶像です。
それは不可避的にではなく
思い込みによる偶像です。
多くは
自分に都合がよく
自分をいつも正当化してくれるような
慰め主でありながら
信仰とは別の
自分の都合だけで作られているので
刷り込まれたものであっても
先入観や固定観念や欲望のイメージとして
自分信仰の欲望の偶像であり
この偶像の神そしてキリストは
まさに
自分自身でしかないのです。
 
誰もが持っているのではなく、持ってはならず、
学習と成長を阻害し、自他を傷つけ破壊する危険があり、
自戒して自壊させなければならない偶像は、この後者であります。
 
 
※(補足)
 
偽善者は、神がいるなら悲劇や悲惨な死があるのはおかしいと言って、あっさり、だめだこりゃ・・とでも思ったのか、すっかり反キリストになります。呆れたことに、それで、物を知っているかのような気分になって満悦するのです。
 
信仰者になる人は、悲劇があるからこそ、神の救いを必要とします。何故なら、神がいないことにしても悲劇から逃れることなど出来ず、悲劇の時の慰めと癒しと救いがなくて、この世が、絶望に満たされるのは耐えられないからです。
 
 
偶像2

偶像
 
 
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  楽山の無責任引用
 
 言葉のズレ(幸福の科学と一般では、同じ言葉でも意味が違う)
 2020年12月22日 楽山日記(LD)
 
 
信仰は、自分の罪を認めることから始まりますが、楽山には、それがありません。そして、楽山は、人のことばかり書いてきます。言葉で、お世話している立場に立って、自己愛と自己中を、さらに、深めてゆくのです。
 
楽山は、堂々とは何も言えず、せいぜい、当てつけか、陰で悪口を言いふらし、あとは、コピペで記事を書いたり、冷静・柔和に思わせるための嘘の芝居で、忠告めいたことを書く、というくらいしか出来ないのでしょう。
 
楽山は、また、自分の卑怯な性質をごまかすために、記事を書いてきました。しかし、その大部分が、他者のサイトからの引用となっており、そのことが、かえって、楽山が、自分では何も書けないことを露呈しています。
 
*言葉のズレ
 信者と一般人の言葉のズレについて、Togetterにまとめられていたので、ここにも保存しておきたい。
・一般とは違う幸福の科学の言葉 - Togetter
 」
全体的にみて、皮肉、風刺が効き過ぎてはいるが、たしかにこんな風なのだからおかしい(笑)。
 
おかしい楽山が、何かを、誰かを、おかしいと言うことを、信頼しないでください。楽山は、いかなる他者に向かっても、おかしいという資格はありません。楽山は、また、ゲームのように面白がっているだけです。
 
楽山に、知性や理性があるなどと思わないでください。心の無いところに、知性も理性もありません。知性ではなく無知が、理性ではなく無理があるだけです。楽山は、お山の上にふんぞり返って楽しんでいるだけです。
 
心の無いものに、知性と理性の代わりに、ごまかすための、世辞、嘘、詭弁、妄想、自己愛、自己中があるだけです。それらは、総て、無知によるものであり、無理にこしらえるもので、かつ、無恥によって、後悔せず、反省せず、責任を負わず、ズルズルと言い続けるだけなのです。
 
*一例
特に印象に残ったものを、ここにも保存しとく。
 
楽山の記録は、楽山によって恣意的に選択・操作されて出来てゆくものですから、破棄してください。いかなる問題を解決するのにも、役には立たないと思います。
 
以下のまとめは、別サイトに書いてあるもので、楽山は、何事も、まとめることが出来ません。だから、時により、状況により、言うことが、ころころ変わります。楽山の情緒不安定と高等感情鈍麻によって、楽山の忠告めいた文章は、汚染されています。近づかないでください。
 
「悪魔」
(一般)特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在
(HS)大川隆法や教団に批判的な者、またはおかしいと思ったことをおかしいと口に出して言う者
『嘘』
【一般】
事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽?(いつわ)?り(デジタル大辞泉)
【HS】
幸福の科学に対する批判的な言説。
一説によると大川隆法無謬性信仰を元に、総裁や法を批判するとしたら嘘だからという前提に立つ。
 
いつも、人をだますために言うのは、楽山です。楽山には自己を訂正する機能が全くありません。自己愛に凝り固まっているからでしょう。
 
物知り顔に、楽山が言うのは、他者の文章から無断で持ってきたものか、自前の、嘘と詭弁に他なりません。人のことなど、真実という意味では興味もなく、遊び道具に過ぎないので、何の責任も負う気がないのが、楽山です。
 
『地獄』  
【一般】宗教的死生観において、複数の霊界(死後の世界)のうち、悪行を為した者の霊魂が死後に送られ罰を受けるとされる世界  
【HS】
長いものに巻かれず、勇気をもっておかしいものをおかしいものを言った者が死後に集う場所
 
どちらの意味でも、楽山が神を知らないのと同様に、楽山が、ホラーとしてしか考えることのできないものです。自分以外を、寄る辺とすることが出来ないからでしょう。
 
『社会的信用』
【一般人】
しばしば融資の可否を決める指標となる。収入安定や前科無しなどで測る。
【HS】
教団が大川隆法総裁の霊言に「ある」と主張するもの。
イタコ芸の回数や出版数、お金を出して新聞に広告を載せた実績などで測る。 
 」
 
ゆえに、楽山には、一般の信用もなく、HS流の信用もないということです。
 
『自由』
【一般】義務や制限に縛られないこと
【宗教者】欲望・煩悩に惑わされないこと
【HS】大川隆法総裁が許した範囲内で選択できること
『宗教弾圧』
【一般】
個人や集団がもつ信仰を理由に、その個人や集団を差別・迫害すること。
【HS】
幸福の科学に対して他者が批判的なことを述べること。
「批判される=弾圧されている=権力側が恐れている=HSが素晴らしい証拠」と脳内変換させる途中の段階。
 」
 
自由と、自分勝手を、混同しているのが、楽山です。社会道徳を知らず、責任とか反省とかについての知識も弁えもありません。楽山の言動に、この約2年間、表れてきました。だから、何度も、無反省・無責任と書きます。これからも、書くことになります。
 
こういう人は、結局は、信頼されません。そういうことを、まるで無視して、書くことをやめない病質が、楽山にはあります。楽山が、書けば書くほど、書いたことが、批判記事とともに資料として蓄積することに、楽山は何も危機感をいだかないで、固定して学習不能に陥った精神に浸っています。
 
『守護霊 霊言』
【HS】一人にひとりずついる「守護霊」の話。地上に生きている人の「潜在意識」であり、「本心」「本音」そのもの
【一般】大川隆法総裁が生きている有名人に成り済まして行う、通称「イタコ芸」
『証拠・証明』
【一般】質を重視。因果関係も重視
【HS】数量を重視。霊言は数出しているので証明済み。
因果関係は、都合の良いように設定すればそれでよい。
 」
 
楽山は、親戚は霊が分からないっぽいと記事に書き、そういう記事から、自分については、霊が分かるっぽい自覚のようです。しかし、楽山の言う霊とは、宗教的なものではなく、ホラーや超常の用語としての、何も努力しなくても備わっている霊であり、怠慢な楽山を、嘘と空想と妄想で幸福にしてくれる代物です。
 
『常識』
【一般】
健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。
【HS】
大川隆法や幸福の科学を批判せず、その言説や活動を尊く正しいものとして共感と賛同の意を以て耳を傾けること。あるいは受け入れること。
 」
 
楽山は、自分信仰、自己絶対の、思い込みが前提にあるので、他者を信じることがありません。丁寧語も、霊性・柔和を装うための手段に過ぎません。ゆえに、一般の理路の組み立てが出来ず、詭弁に走って、まともに見せかけたり、世辞を糊塗することで、ごまかしているのです。
 
ゆえに、楽山は、他者の言うことを受け入れることは、世辞以外にはなく、逆に、いつも、他者を、楽山の安い天秤に乗せて、評価・批評したがるのです。楽山の言動は、総て、気取りによるナルシストの症状だと思います。
 
『信仰の自由』
【一般】どの宗教を信じるか、または何も信じないかも含めて自由なこと
【HS】どの宗教を信じるかの自由。信じない自由は含まれない。
尚、大川隆法総裁が仏陀であることは、「前から知っていた」と「今知った」しかあり得ない。
 」
 
楽山は、自由と、自分勝手を、混同して、キリスト教を、好きなように、何度も、けなして、訂正もせず、反省もせず、責任も負わないで、書き続けている約2年の流れです。
 
信頼度は、ゼロ~マイナスであり、自由など重要なテーマについて、楽山に問うのは無駄であり、また、楽山は、問うことに答えられる何ものも持ってはいません。批判目的以外で、楽山を聞いてはいけません。
 
『脱カルト』
【一般】悪しき集団から抜け出て社会復帰すること
【HS】基本的には一般と同じだが、幸福の科学から抜けた場合のみ「転落」と言う
『発展』
【一般】
勢いや力がのび広がること。盛んになること。「都市の―」。次の、いっそう高く盛んな段階に移っていくこと。
【HS】
以前語っていたことと矛盾することを言った時の説明。「法は-する」。
 」
 
「以前語っていたことと矛盾することを言った時」に、何の、罪悪感もいだかず、反省も訂正もせずに、言い続けているのが、楽山です。真に受けると、ひどい疲労だけが残ります。こういう人は、言論や意見交換の場に、いてはならない人なのです。
 
『深い考え』
【一般】
表面的・短期的なことだけではなく、本質的・中長期的なことも含めて熟考すること。
【HS】
総裁の理解しがたい言動・行動を無理矢理納得するために使う用語。
「これは、主にーがあるに違いない」
 」
 
楽山の場合、深い考えは皆無であります。借り物、無断で盗んできたもの、理解しないまま引用しているもの、嘘、妄想、など、邪悪なものだけで、言い逃れに終始します。楽山が、記事を書いて、あるいは、ネットに何かを発表して、さらに深まってゆくのは、人格の破壊による非道だけです。
 
『目安』
【一般】当て。 目標。おおよその基準。また、おおよその見当
【HS】基本的には一般と同じ。但し「奉納目安」となった場合は、一般の「定価」とほぼ同義
『唯物論者』
【一般】
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する価値観を持つ人。
【HS】
①宗教や信仰、霊界、真理に関心を示さない人。暗に一般大衆を指す。
②幸福の科学を批判し、エルカンターレ信仰の意義を否定する人。
 」
 
楽山の唯物論は、心を考えないことです。だから、"論" とは、到底言えないものです。学者の引用で語りますが、楽山自身は、マンガ・お伽噺・ホラー映画レベルの辻褄しか持っていません。楽山が、分かってもいないのに、使ってくる学問や宗教の用語に、だまされないでください。
 
*反論
 今のところ、このまとめに対する信者側の反論は、KENTO氏によるものだけのようだ。
2020-12-22 パスタ氏とジョニー氏は
 」
 
引用サイトに書いてあるところの、知らないのに、語るな、というのは、楽山の無知と無恥に対して当てはまるでしょう。
 
知らない人が、知らないことを知らないのが、いちばんの偽善の悪につながります。楽山が、そうです。中身は理解も洞察も何もないのに、口だけ、人の口を借りながら、執拗で、煩わしいだけの楽山です。
 
ツイートを読むと、冒涜だ、悪口だ、HSのことを知らないんだという風に、大変に憤慨しているけども、まとめ内容は事実に反するという論証は一つもないことからみると、信者側から見ても、これらは事実であると認めざるを得ないということなのだろう。気の毒なことである。
 
「気の毒」と言いながら楽しんでいる楽山です。いつも軽くて、心が無い。むしろ、楽山は、他者の未熟を指して、才能がなくて悟らない人は哀れだ、というニュアンスを伴う言い方しか書けないのです。まともぶる外道の乱暴者に、だまされないでください。
 
*自己を客観的にとらえること
自分がHS信者だったころ、現代新興宗教事典のようなものでHSの項目を読むと、非常に不満に思ったものだった。ワイドショーでHSについてまとめられた動画をみても不満だった。そこに嘘はなくとも、「そんなんじゃない」という激情を抑え難かったのだ。
 
今も、批判に対して、まともな返し、つまり、弁明や反論が出来ず、返してくるのは、個人についての事実の捏造や、詭弁や、決めつけ~妄想に過ぎない楽山です。
 
でも今にして思うと、この時の感覚は、録音した自分の声を聞いたときの感覚と似ているのかもしれないと思う。実際の自分の声は、自分が思っていたのと違っていたのと同様に、実際のHSも自分が思っていたのと違っていたので、そこに戸惑いが生じていたのだと。
 
こういう反省のような発言を真に受けないでください。無反省と言われたものだから、あたかも、反省しているかのような、過ちを認めたかのような、思いやっているかのような、楽山独特の芝居です。「反省、トホホ」とか言うこともあります。何度も見られた偽善の三文芝居です。
 
楽山の芝居や詭弁を、今まで楽山の言ってきたことが、ことごとく否定しています。
 
言葉のズレではなく、体質的な欠陥ですから、治ることは期待できず、実際、約2年間、変わることなく、進歩することなく、成長することなく、続いています。自分を見ない楽山は、批判者には、決してなれません。楽山は、いわば、個人カルトであり、約2年間、少なくとも精神の、詐欺師の発言しか残していません。
 
はっきりした具体的な一つ一つの発言の訂正が、今まで、ずっと無いので、嘘の芝居だと分かるのです。他者を、いつでも、だませると、軽く見ている証拠であります。一つ一つの発言が失言となって、もはや、山のように積み重なり、それでも、無視して、不感不応の、独り芝居の楽山であります。
 
KENTO氏以外にも、上のまとめに反発を感じる信者もいるだろうけれども、この辺りのことに注意しつつ、事実は事実と率直に認め、反省すべきところは反省し、修正すべきところは修正したらいいのではないかと思う。
 
人のことを、とやかく言う楽山ですが、その資格はありません。注意、忠告、反省・修正を、促している態度を自分に向けることのできない楽山、実に、厚顔無恥の悪魔性であります。
 
楽山の発言は、総て、自己愛に慢心したベースからの出力です。これに、頷けば、結局、人間性と共感性を破壊されて、腐った麩のような、中身のない、食えない、人の気持ちの分からない、偽りの人格模様になるでしょう。楽山に、関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
無知と無恥

無知と無恥
 
 
(2020年12月23日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の遊び半分
 
 「ブロック宣言!」
 (ツイッター上のHS信者が、アンチにブロック宣言していた)
 2020年12月21日 楽山日記(LD)
  一部、引用して批判。
 
 
これから毎回書こうと思っていること:
楽山のキリスト教批判は、神が、楽山の都合の良いように奇跡を起こさないから、信じない、神はいない、というものです。言い換えると、キャバクラのホステスみたいな、しかも便利で快楽で無料の神?を要求して、そうでないから、信じない、神はいない、と言い張っている楽山です。
 
(ネットより)
あそび‐はんぶん【遊び半分】 の解説
[名・形動]いいかげんな気持ちで物事に取り組むこと。また、そのさま。「遊び半分に受験する」
 
記事タイトルは、遊び半分という慣用表現にしましたが、実際は、楽山には、遊びしかないと思います。楽山には、宗教も信仰も、生き方も命も、真実も、どうでもいいのでしょう。
 
*基本教義論争
 ちなみに、田中氏とアンチとの間では、直近では、基本教義論争があった。
 その内容は、大雑把に言えばこういうものだ。
・田中氏「アンチに問う。幸福の科学の基本教義とは何ですか」
・アンチ「正しき心の探究、四正道だろう」
・田中氏「間違いです」
・アンチ「えぇっ! 月刊誌でもそう書いてるぞ。月刊誌は間違いなのか」
・田中氏「……」(無回答)
 
無回答は、楽山の得意技、というより、他にないのです。そして、何事もなかったかのように、また、同じようなことを繰り返して言ってきます。
 
この楽山が、他者を云々していることは、自分の罪と悪と偽善を考えないためなのでしょう。だから、どんな書き方をしても、真剣味など、全くないと言えるのです。
 
*よくあるパターン
傍から見ての感想だけども、アンチ批判を試みる信者は、大概の場合、次のパターンにハマってる。
・ものすごい勢いでアンチに物申すものの、アンチから反論がよせられ論争に発展すると、逃げ出してしまう。
・逃げた後は、信者仲間の間で、「自分は少しも悪くない。すべてアンチが悪い」という風に、アンチの悪口をいってまわる。
どうやら田中氏も、このパターンに落ちてしまったようだ。残念。
 
自分は少しも悪くない、総て批判者が悪い、というパターンは、楽山には、一貫してみられることで、珍しくもありませんが、楽山は、自分のやってきたことを棚に上げて、言っています。いつものように、評論家気取り + ジャッジ気取りでしょうか。まるで、ゲームを解説しているかのようです。
 
楽山は、学習不全のために、また、高等感情の鈍麻のために、言葉のニュアンスが理解できず、表現として使えないので、言葉面を並べるか、他者の言葉を引用するかしか出来ません。
 
楽山は、書けば、それで、満悦するようだが、忠告や助言を書いたつもりでも、褒め言葉を書いたつもりでも、心を込めた適切な、気遣いの表現と、細かい配慮が出来ません。貼り付けた褒め言葉だけが浮いているような、わざとらしさが表れてきます。
 
また、今まで、そうであったように、楽山は、無反省と無責任のために、伝わったかどうかを全く気にしません。書いた後は、書いてやったという自己満の達成感に酔うみたいです。だから、反省とか、「残念」とかいう言葉なども、同じように、重みも実感もない他人事にしかなりません。
 
そういう楽山の筆致を、トホホ言語、あるいは、ボンヤリ言語と呼んでいます。そういうこともあって、楽山は、人には、アドバイスめいたことを、とやかく言っても、同じことが自分に当てはまっていることがあっても、全く気づかないのです。
 
自分を見ない人というのは、そういう意味で、とても厄介です。だから、本人を批判するのも、本人以外の人が、本人に近づかないようにするため、ということになります。
 
*分かれ道
私見ながら、上のパターンに落ちるかどうかの分かれ道は、間違いを認めるか認めないかにある。
 
一貫して、自らの間違いを認めない楽山が言っています。無根拠に、無視して、平気で、しらばっくれる。これが、100%宗教の敵である者の、物の言い方です。嘘と、詐欺と、詭弁だけで出来ています。
 
基本教義論争を例にするなら、正しき心の探究や四正道は基本教義でないといってしまったとしても、その間違いを素直に認めるなら、逃げ隠れする必要はなくなるし、そういうケジメをつけて以降も、いちゃもんをつけてくる者に対してはスルーブロック対応をしても止むを得ないことになるが、もし間違いを認めないなら、批判非難が殺到し続け、逃げ出すしかなくなるし、逃げ出すということは言いたいことも言えないということだから、後から恨み言(悪口)を言わないではいられなくなるという寸法である。
 
楽山は、キリスト教を、ゲームの筋書きのように、決めつけて、神がいるなら云々と、神がいる場合を把握できるかのような大言壮語の嘘を吐き、神さえもジャッジしてしまいます。
 
したがって、楽山のあらゆる言論は、誇大的断定~妄想で出来ていて、他者が、批判しても、あざ笑って無視するだけになるのです。
 
スルーブロック対応、やむを得ない、などと、正当めいた言葉を使っても、他者を無視して、自分の言いたいことだけを言い、反省せず、責任を負わない、楽山の卑怯は、どうしようもなく、消えようもないのです。
 
つまり、こういう、間違いから逃げる、楽山の場合は、嘘を吐いて嘲って逃げる、といった件で、最も悪質なのは、楽山であります。
 
つまり、楽山は、人間ならば、最低限、持っているべき良心の恵みを、全く持っていない非人間としか思えません。それゆえ、私は、誰も楽山に近づいて餌食となることのないように、楽山に対する批判記事を、読者のために、こういうワルがリアルにいるんです、と強調して書いています。
 
アンチ批判に熱心な信者は、アンチは悪という思い込みが強いせいか、暴言や事実誤認が多いにもかかわらず、自らの間違いを認めることができない人ばかりなので、次から次へと後者の道を選択しがちなので気の毒なことである。
上から目線になって恐縮だが、アンチ批判を決行する信者は、この点よくよく注意した方がいいと思う。
 
楽山は、自分のことが分からない人なので、他者のことにしか興味がありません。ここでいう他者とは、他人だけでなく、神であったり、ゲームやアニメや映画のキャラなども含まれます。恐らく、皆、同じ扱いだと思います。だから、楽山の発言の信頼度は、ゼロ~マイナスです。
 
楽山は、暴言や事実誤認について指摘していますが、楽山自身は、暴言よりも最悪な丁寧語や曖昧表現で書いてきます。言葉だけ丁寧にしても、内実がなければ、暴言よりも悪質で、悪よりも最悪な、偽善ということになります。
 
楽山は、事実誤認ではなく、真っ赤な嘘を吐きます。事実誤認などという専門用語を使っても、楽山の虚言癖は、ごまかせません。良心がなく、罪悪感がなく、羞恥心もなく、反省せず、責任を負わない病質が、楽山を支えて、本能のような自己顕示欲のままに言動させているのです
 
楽山は、他者には「よくよく注意した方がいい」と言っていますが、楽山自身は、他者の発言に、何の関心もなく、全くの興味本位で、上から見下ろした発言が醜悪な、さばきたがり屋であります。
 
遊びで、知らないうちに、人を傷つけ、人格を、心を破壊してゆくのが、楽山です。自覚がないのか、しらばっくれているのか、いかなる状況をも、無視することが出来る厚顔無恥であります。
 
つまり、楽山は、悔いることのない恥知らずであるために、常識がないために、非常識・非道徳な行為を、重ねているということです。本人が気づくということが期待できないために、読者が、それこそ新型コロナのように、楽山の詭弁に感染することのないように批判をしています。
 
ゲームのように宗教を語り、責任を問われると、曖昧ボンヤリ言語で、断定していないと、責任を取らず、反省もしない男です。言論の世界に、あらゆる真実追求の道に、いてはいけない男です。私が生涯で出会った人の中で、最も偽善性の高い男です。品を装う下品が楽山の持ち味です。
 
人生を大切にしたい人が嘘にまみれることのないために、楽山の、事態に全く目を向けず丁寧語でカムフラージュした非人間性に、決して、巻き込まれてはいけません、関わってはいけません、近寄ってはいけません。楽山を相手にしないでください。お願いします。
 
 
今までのこと:
 
楽山の異常性に気づいたのは、約十年のあいだ批判してきた偽牧師シャローム shalom の「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という信条に、楽山が賛同したことが、始まりでした。
 
この信条は、「悔い改めなくても赦される」「罪は気にしない」と分解しても、正当な、どこのキリスト教の教えにもなく、妄想としか言えず、それこそ、キリスト教の信条に反することです。
 
次に、言い訳として、「悔い改めは神が与える」などと言い出しました。これもすさまじい詭弁です。悔い改めは、人間が自由意志で行うことです。これは、常識であります。キリスト教も信仰も、シャロームは、知らないということが分かります。
 
シャロームは、神が、魔法のように、人を操り、気づかないうちに悔い改めさせるとでも言うのでしょうか。この段階で、シャロームは、キリスト信仰者でもなく、元牧師でもないことが明らかです。
 
そして、楽山は、無条件に、シャロームの信条に賛同しました。この段階で、楽山は、シャロームと同一人物の成りすましか、親族か、少なくともお仲間であることが明らかであります。もはや、弁明の余地はありません。
 
私は、シャロームに数年間、楽山に数か月、だまされたのち、批判に転じています。ダメージは、少なくないです。だまされたら、楽山のように、人格が壊れ、だまし屋になってしまいますから、どうか、だまされないで、できるだけ早く、関わりを断ってください。
 
楽山は、平気で嘘を吐いて、詭弁で誘導するような、インテリ批評家気取りの詐欺師的虚言癖を持つ病質者という異常者なのです。とても有害ですから、どうか近づかないでください。
 
 
有害

有害
 
 
(2020年12月22日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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