ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年01月

 
  楽山の欺瞞(ぎまん)
 
 「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年01月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、性懲りもなく書いてくるのは、批判を無視してのことです。だから、だいたい、同じようなことを書いてきます。無反省で無責任な楽山は学習し成長するということがないからです。
 
それにしても、この楽山の不感不応の執拗な書き方は、本能しかない実験動物のようです。かつ、何の貢献にも糧にもなりえない、ただの迷惑であります。
 
そして、楽山は、自己正当化という自堕落に満悦するのでしょう。自堕落に満悦するところと、嘘と詭弁を平気で書いてくるところが、信仰者ヨブとの決定的な違いです。
 
「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十六章の研究
「「汝らは皆人を慰めんとてかえって人を煩わすものなり」は原語を直訳すれば「汝らは人を苦しむる慰者なり」となる。慰者とは名のみで実は人を苦め煩わす者であるとの意、強き嘲りの語である」
 
友人たちは、慰めようとして、教条を振りかざし、ヨブの心に触れることができませんでした。ゆえに、ヨブの心を煩わせるだけになります。
 
批判でもなく、嘘と詭弁で、人をだまし、キリスト教についての、幼稚な固定観念を植え付けて、反キリストらしい文章を書いているのが楽山です。
 
慰めようとして、結果が逆で、煩わすのではありません。楽山は、最初から、悪意をもって図り、キリスト教についての悪い印象を吹き込んでゆく反キリストですから、容認されることはありません。
 
楽山のことを柔和な人と思えば、その時点で、罠にかかっているということです。私も、数か月、だまされていました。
 
そういう履歴だけを、ブログを書くことで残してきたのが楽山です。楽山は、教条ではなく、もっともらしい言葉を選んで来ては、悪い印象だけを吹き込んでくる精神の詐欺師であります。
 
「この怨語を聴きたる三友は、ヨブを以て神を謗る不信の徒となしたのである」「しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。かく神を怨みてやまざるは、神を忘れ得ずまた神に背き得ざる魂の呻きであって、やがて光明境に到るべき産みの苦みである。神を離れし者または神に背ける者は神を忘れ去る者であって、神を怨み得ないのである」
 
ヨブは、自己正当化をしましたが、神が表れることで、衝撃をもって、悔い改め、その信仰を回復しました。恨んでも、神に背き得ないのは、神を恐れる故であり、信仰の回復の兆しではあります。
 
そして、信仰と呼べるのは、悔い改めたからです。それは、ヨブが、楽山と違って、神を恐れる人であり、終始、真剣だったからでしょう。
 
そのようなヨブと違って、逆恨みで、いつまでも、いつまでも、神を、呪い続けているのが楽山です。信仰がないなら、とやかく言う資格もないのに、根っこに怨念だけを持って、信仰の兆しもないために、同類を増やしたくて、だますことしか思いつかないのが楽山です。
 
楽山は、ヨブとは全く逆であり、無反省・無責任・無理解・訂正不能の反キリストだと思います。どうか近づかないでください。楽山には、信仰もなく、信仰についての興味もなく、信仰につながる可能性も感じられません。
 
根拠は、今までの記事であり、信仰の「し」の字も理解していないのに、知ったかぶりで、低劣な理屈を捏ねて、神を否定し、かつ、その責任を負わず、かつ、反省もせずに、書き続けていることです。
 
この記事も、恨むのは忘れ得えないから、という逆説を利用して、楽山が自己正当化することが狙いなのでしょう。それによって、自己顕示欲を満たし、自分が高められることだけを求めるのです。
 
「神に対する怨言は、懊悩絶望の極にある心霊の乱奏曲である。かくの如き悲痛を経過して、魂は熱火に鍛われて、次第に神とその真理とに近づくのである。これ心霊実験上の事実である。この実験なき浅薄者流はこれを解し得ずして、エリパズらの過誤を繰返すのである」
 
楽山は、悲痛を経験していません。経験していたら、嘘と詭弁を弄したりしないからです。楽山は、少しも神と真理に近づいていません。繰り言のような、いちゃもんを書いて自己満悦を繰り返しています。この記事もそうです。心の底まで、狡猾な、反キリストです。
 
心霊実験とは何でしょう。心霊って実験できるものなのでしょうか。少なくとも、信仰において、心霊を振り回す人は、信用できないと思います。大事なのは、人間らしい心であって、霊でも、心霊でも、ないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の、信仰についても、何事についても、超常のことばかりで片づけようとするような、おふざけ評論家気取りの楽山が、自分と似たような文言を探しては引用して、文言だけで賛同芝居をして、あとは、神と人を揶揄して、遊んでいるだけです。
 
「人は神にも友にも棄てられしと感ぜし時は、大地に向って訴え、わが血に向って我の証人たれと願うほどに至るのである」
 
神に捨てられたと思うなら、何に向かっても、証人など求めたりしないはずです。ヨブは、神に捨てらたような気持ちになって、自己正当化によって失いそうになった信仰を、神によって取り戻します。
 
楽山は、元々、信仰の欠片も持っていないので、証人も、証拠も、根拠も必要なく、また、神など、どうでもよく、自己を飾りたいだけです。総ては、楽山の自己正当化のためでしょう。それ以外は、どうでもよいから、平気で、オモチャにして、平気で、嘘を吐くのです。
 
「二十節に言う「わが友は我を嘲る、されどもわが目は神に向いて涙を注ぐ」と」
 
 (ヨブ記、口語訳)16:20
わたしの友はわたしをあざける、
しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
 (ヨブ16:20、旧約聖書)
 
友人たちは、信仰の理屈を語っているだけだったので、ヨブへは、あざけりになります。ヨブは、自己正当化を図って、神と議論をしようと言いました。その本心に涙があったとしても、神と議論できる人間などいないのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、新約聖書)
 
楽山は、そういう信仰のこと、神と人の関係が、聖書からも、全く理解できないので、涙をもって悲しむこともなく、そのポーズだけを真似て、「反省、トホホ」などと書いて、逆に、得意になっても、決して、神に向いて、涙を流すことなどないことが明らかになっています。
 
楽山の言は、乾燥大麻のようなものです。吸い込んで気持ちよくなると、癖になり、やがて、人格を破壊されるでしょう。心が無く、高等感情が鈍麻して、共感も持ち得ないために、芝居と嘘と詭弁で、だまして、つないでゆく蟻地獄にいて、人に対しても、蟻地獄となっています。
 
「友に棄てられて全く己一人となりし時、茫々たる宇宙ただ神と我のみあるの実感に入りて、初て神と真の関係に入り得るのである。しかして後また友誼を恢復して、これを潔め得るのである」
 
このような大仰な書き方をする必要はありません。このような書き方を好むのは、ホラーや超常現象や心霊現象が大好きな楽山の趣味であり、あくまで趣味であり、そこに中身は、まるでないのです。
 
信仰は、宇宙的境地の神の実感を与えられることではありません。人間に可能な共感を与えるものです。これら大仰な超常のことは、楽山やシャロームのようなカルト的反キリストが求めるものです。
 
キリスト者は、ただ、敬虔という身の低さをもって、神の憐れみを待ち望みます。楽山は、好みも、志向も、全く逆です。つまり、カルトが好んでやまない、自己優越感だけを求めているのです。特別の存在になって、注目を浴びたい、これだけが、楽山の無謀な野心であります。
 
「人は己の無力を覚るとき、強くして力ある我の代弁者を求めざるを得ないのである」
羽仁もと子がヨブは神を信じているからこそ恨み言を述べているとしていて、はっとさせられたのだが、この点についてはこの講を読んでさらに納得できた。
 
楽山は、己の無力を認めないからこそ、嘘を吐き続け、詭弁を弄し続けています。健常人には考えられないことで、病質的異常者であろうと思っています。
 
楽山は、己の無力を知ることも、神のほうを向くことも、祈ることも、芝居以上にならず、それでも自己顕示欲を抑制できないために、なお、恥ずかしげもなく書き続けて、結果として、己についての見苦しさの資料を増やしているだけなのです。決して、相手にしてはいけません。
 
そういえば以前、キリスト教批判の是非について、とあるクリスチャンに問うたら、批判するということは関心があるということだから無関心よりずっとよいとしていたのだった。
 
楽山は、悪口を刷り込んできます。ゆえに、楽山に対しては、全否定のためだけに批判しています。楽山のあり方は、信仰において、容認できる要素が、皆無であります。
 
楽山には、キリスト教に関心があるのではなく、嘘と詭弁によってキリスト教と信仰をおとしめる意図が、約2年にわたって、表れています。
 
熱心な信仰者のなかには、宗教批判したら、即、不信仰者だと決めつける人もいるが、事実はそれほど単純ではないということだろう。 
 
私も、キリスト教批判をすることはあります。キリスト教内外に、カビのように蔓延る教条主義や悪しき慣習や自己満足や固定観念に対してであります。しかし、楽山は、全く違います。約2年にわたる楽山の嘘と詭弁が証拠です。
 
楽山は、キリスト教を批判しているのではなく、侮辱しているだけです。楽山は、信仰者でもなく、不信仰者でもなく、恨みと嫌悪と自己満足のための反キリストです。
 
信仰は、命がテーマですから、楽山が、勧善懲悪のホラー映画につける感想のレベルの、みすぼらしい屁理屈で語るような、善と悪とか辻褄が合うとか合わないとかいった単純なものではないのです。分かったふうな、楽山の評論家気取りに、だまされないでください。
 
楽山は、厚顔無恥で薄っぺらな印象を吹き込む煽動者です。いずれ、大好きなホラーの世界に沈んでゆくでしょう。沈黙する神は、また、いつまでも黙っている神ではないのです。
 
 
欺瞞

ぎまん
 
 
(2021年01月31日、同日一部修正)
 
 
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  想うところに2
 
 
人について
想い描く人物像は
人格も含めて
想い描いた像であるから
その人ではない
常にその人の偶像を相手にしている
想うところに人はいない
 
ここで人は
神と違って
想い描かれた人の偶像の間違いを
完全ではないが
ある程度
態度や言動で知り
また示すことが出来る
 
人間関係は誤解で成り立っているが
お互いの偶像を修正しながら
不安定ながら
未知に立ち向かって
良かれ悪しかれ活性化してゆく
正面衝突が可能だからである
 
人の像と違って
想い描く神の像の間違いを
導きによって啓示するのが
神だという証拠を人は持ち得ない
 
聖典と祈りを通して学んで
深く知ったと思えば思うほど
神と人との関係は
人にとって
人の誤解の中にしか存在しない
 
想うところに神はいない
想うところに人はいない
さて想うところに
自分はいるであろうか
 
この問いを尋ねる相手だけを
見上げたつもりでいるが
この地上に
確定的な答えはないと知っている
 
 
想うところに

想うところに
 
祈り「神様は、いつまでも黙ってはいない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます」
 
 
(2011年04月29日)
(2021年01月30日、一部加筆)
 
 
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象がある。それは神である。
神を信じているから、神に祈る。神はいると信じている。
 
しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、
イメージであり、極端な言い方をすれば偶像である。
 
偶像は存在しない、人が想い描くイメージの神も存在しない。
神は偶像でもイメージでもない。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉がある。
「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、
 神は存在しない、と思いつつ祈る。」
どう受け取ったらよいのか。
 
つまり、このヴェイユのように祈るときにも、
祈る相手として想い描いた神のイメージがある。
 
つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、
それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」
・・・を繰り返すしかない、繰り返すしかない・・・!
現実に祈っている相手の神がいない。
存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。
 
しかし、キリスト者は祈る。
キリスト者にとって、そこにしか希望はないからである。
 
人は神を想い描けない。
神は人が想い描けるような御方ではない。
想い描くところに神はいない。
 
しかし、想い描いている神ではなくても、想いの始末を任せる神は希望である。
 
その神が存在しないとか、
人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できない。
 
祈りは確信に支えられてはいない。
 
祈りは、唯一の希望のみに支えられている。
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  召命2
 
  を再録+加筆
 
 
(ネットより)
召命:
1.「呼ぶ」「名をもって呼ぶ」こと。
2.聖書の中に多用されている、神の恵みによって神に呼び出されること。
召命と使命は常に対(つい)になっています。神に召された命は、人々のために使われる命なのです。そして、一人ひとりの顔だちが違うように、一人ひとりの召命と使命は違うのでしょう。
 
キリスト教には信条というものがあります。
教理のうち柱となるものを記したものです。
 
しかし、その教理を、思い込み信じ込むことが信仰ではありません。
キリスト者に誰でもなれるというわけではないということです。
 
かといって、キリスト者にならないと地獄に落ちるのかといえば、そういう軽々しい見なしをする人は、自省と自制が成っていない証拠になります。
 
また、歴史上、非信仰者や異教徒に偉人と呼べる人が輩出しているのだから、神が、信仰以外で召命し使命を与える可能性を否定できないということです。神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
キリスト信仰には、秘跡とも、魂の奇跡とも呼びたいことがあり、
それは、キリスト信仰者になる上で、必須であります。
 
しかし、奇跡や秘蹟は、楽山やシャロームの大好きな超常とは限りません。最も大切な奇跡は、人間としての生き方を目覚めさせるものです。
 
超常の奇跡は、神にお任せするしかありません。しかし、魂の奇跡、すなわち、心に起こる奇跡は、実感として体験し、人間らしい良心を育ててくれるものです。
 
したがって、私たちに必要なことは、口をアパ~ンと開けて奇跡を待つのではなく、人間としての知性と感性の成長を期して、学び、考える姿勢であります。特別の知能ではなく、一人一人に、人間らしい生き方を、神は、用意しておられると思います。
 
特別な才能など必要なく、特別な超常の神秘体験がなくても、努める人は、恵みを受ける人であります。努めない人は恵みを受けることを拒む人であります。決して戒律ではなく、不完全を自覚するゆえに、折に触れて、聖書と体験から、学習し、成長するのが、信仰の道であります。
 
そこから、聖書を通じて、信仰の神髄であるところの、キリストの同伴を信じるに至ります。
 
キリスト者は神に選ばれる、ということは、優劣を意味してはいません。
これが、キリスト者が、異教や無宗教を下に見てはいけない理由であります。
 
さらに言えば、神は、キリスト信仰者だけを救い、他は滅ぼす、あるいは、滅びるに任せるのか、という問題があります。そうではないと思います。
 
既に述べたように、神が、キリスト信仰以外の人を召命して、何らかの使命を与える可能性を否定できません。何故なら、キリスト者でなくても、優れた洞察をもって、人間と世界に貢献した人の存在を、少なからず、学んできたからです。
 
したがって、信仰者が、異教徒や非信仰者を、低く見て憐れむのは、異教や無宗教への、そして何より、個々の他者という人間への、いわれなき侮辱といってよいでしょう。
 
信仰者は、ひとのことばかりいうとるが、んなら、おのれは、なんぼのもんじゃ、というくらいの自虐を持っていていいでしょう。
 
批判されると、批判者を軽視してあざ笑い、皮肉を言い、当てつけや嫌がらせだけを当ててくる習性を持つ者がいます。
 
また、異教に対抗心をもって、キリスト教の優位性を書く者もいました。熱心な信仰を表したつもりのようだが、身の程を弁えていないために、知りもしない異教を侮ったのでは、依怙贔屓の優越自慢に過ぎないし、キリスト信仰者の恥です。自分が信仰に至ったことを振り返ってみるべきです。
 
信仰は、一種の縁であって、神の力で他の人々よりも偉くなることではありません。
 
弱い人が、弱さを認めて、弱さゆえに、神に寄る辺を求めるのが、信仰です。ある意味、以前より、強くなるという言い方も出来ますが、自慢したのでは台無しです。
 
信仰者には、多くの、思いこみや勘違いや誤解があります。私個人として実感があることです。したがって必要なのは、学習し成長することです。そのために、祈るのであります。
 
カルトには、多くの、思いこみや曲解や妄想があります。その誤りは、訂正する学習意識がなくて、ゆえに、放置すると、自己中に凝り固まり、反社会的になる可能性をはらんでいます。
 
 
さて、主を誇れという聖句があり、やたら、神を讃美する者がいます。讃美することは、無条件によいことでしょうか。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:26
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
 (1コリント1:26-31、新約聖書)
 
その出典は旧約の次の聖句のようです。
 
 (エレミヤ書、口語訳)
9:23
主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
9:24
誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
 (エレミヤ9:23-24、旧約聖書)
 
2つの聖句より、いつくしみと公平と正義を行っている主を知ることを讃えるのが讃美です。では、私たちは、主なる神を意志と行為を確定的に知っているでしょうか、否です。よくは知らないのですが、知りたいと思って信仰の道を歩んでいるのが、私たち信仰者なのです。
 
その存在を知ることは、それだけでも人間にとっては救いとなりますが、それは、主なる神そのものを知っていることにはなりません。知っていると言うには、恐れ多い御方であります。
 
そして、人の知恵や、人の世界の強さを、神の前に誇ることのないように、聖句は語っているのです。全く聖書の言葉を理解せずに、自分を高めるために、神を讃美する者は、神と信仰を嘲笑って、自らを高めているに過ぎないのです。
 
神が、愚かな私たちを選んだのは、私たちが賢くなったからではなく、偉くなったわけでもなく、どんな人間でも、神の前に誇ることがないためなのです。それは、自分は神を知っているとばかり、やたら讃美して、自らの信仰を誇ることのないためであります。
 
自ら、神の前に誇ることのない者は、人の前に誇るでしょうか、否です。神の前に誇らない者は、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知っているので、人の前でも誇ることはありません。そして、神を誇って信仰自慢をすることもありません。それが敬虔です。
 
つまり、聖句は、やたら神を讃美することを是としてはいません。讃美すれば、厚い信仰などと思ってはいけません。それは、暑苦しい信仰自慢に過ぎません。
 
もし、讃美だから、いくらしてもいいだろうと思って、讃美しまくっている者がいたら、戒められるべきであります。
 
聖句の中の「誇る者は主を誇れ」とは、自分を誇ってはいけないという意味であり、地上での自らの高さ、強さ、賢さを誇るのではなく、信仰を自慢するという意味でもなく、ただ、総てのことについて、誇りを主に帰せよ、という意味に他ならないということです。
 
 
召命

召命
 
祈り「主よ、いつのまにか、崖っぷちにおるのですが、・・どうすればよろしいでしょう・・」とか
 
ときには「命の沙汰など、もう、いいです。早く終わらせてください」と祈ったこともあります。それが、その時は、本音でした。祈りを飾ることだけは、しません。
 
 
 
批判記事を追加します。
 
 アンチのHS批判は、ただの悪口に過ぎないのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ2021年01月28日
 抜粋して批判。
 
 
2年分の偽善者の資料となっている楽山が、既にバレているのに、また記事を書いてきました。まさに、不治の病質による盲目の執着というべきでしょう。もう、だまさない限り褒められることもないでしょうに、弁明できないのに書き続ける、正常人では考えられないことです。こちらは、資料に、引用と批判を追加するだけです。
 
*正当な批判
この動画ではどうも、アンチは悪口しか言わないような扱いになっている。これはいただけない。
実際には、アンチのHS批判には、次のように正当な批判もある。
 
「正当な批判もある」という言い方になっています。うっかり、楽山のように不当な批判者もいるという自白でしょうか。無反省・無責任の、ボンヤリ言語で、人をおとしめる楽山には、いかなる他者も集団も批判する資格はないと思います。
 
言論と批判の節操を守らない楽山の不当な批判に対しては、正当な扱いを受ける権利はなく、私のように批判を貼りつけるか、無視するしかないでしょう。批判という名目で、自己顕示欲を満たそうとするだけの楽山です。
 
道徳的な見地からの批判。きょう子夫人に対する悪口は酷すぎるなど。
知性、理性による批判。教義の矛盾、整合性の問題。
現実に基づく批判。卒論盗用、HSU不認可、国政選挙全敗など。
 
嘘と詭弁で、自己保身を図ってきた楽山には、同様な問題点が、自分に跳ね返ってくるだけです。作為的な刷り込みによる婉曲的な貶(おとし)めと悪口、節操という理性がない、教義の深みを全く知らないし理解していない、共感もなく自分の都合だけであり、整合性がない、現実に基づいていない、有名人の言葉を悪用、など、我執によって好きなように勝手に言ってきたのが楽山です。
 
これらはアンチばかりではなく、信者であっても心に浮かぶ疑問であろうし、正しき心の探究を本気で実践しようとする信者には、これらの疑問からは決して逃げることなく、正面から立ち向かい、乗り越え、信仰を磨いてほしいものだと思う。
 
アンチや信者と言う前に、誰よりも楽山に当てはまります。「正しき心の探求を本気で実践」することも考えることも、楽山はしていません。この疑問から逃げまくって、嘘と詭弁で見下して、「正面から立ち向か」うことだけはせず、あらゆる克服を妨げる偽善的発言を繰り返しています。
 
「信仰を磨いてほしい」・・楽山に言う資格はありません。楽山は何も信じてなどいません。かつ、あらゆる学習を怠けている人です。何より、自らを省みることがありません。磨くどころではなく、疲労させ、変質させ、破壊してゆくだけの楽山の本性です。誰を激励する資格もありません。
 
無反省・無責任・そして無理解、という、体質的欠損人格の言うことが、まだ通用すると思っている。愚かすぎるのです。人間として必要なこと、何も感じることができないのでしょう。
 
楽山の文章に、一度触れただけでは、人格破壊は起こらないでしょう。ただし、それを考え込んだり、何度も読まされているうちに、楽山と同じような知性と感性の鈍麻が起こってくると思われます。つまり、自己中・無反省が起こってくるでしょう。・・それは、一時的には、楽だからです。長期的には、病識さえもなくしてしまうような魔物の蛇口が、楽山であります。
 
楽山のように、低劣な理屈に、のめりこんでしまうと、もはや、後戻りすることが出来なくなるでしょう。楽山を見れば、よく分かります。楽山は、自らの災いを考えることができなくなり、たらたら、ゆるゆると、知らないうちに、廃油を漏らすように、人をけがしてゆく公害です。
 
楽山が、偽の人間味を武器にしているだけに、粘性の廃液のように、じわじわ染み込んで、時が経てば経つほど離脱が難しくなる、という、カルトと同じような人格の変質が起こってくるでしょう。
 
言ってることは正しそうだから・・ということなら、考えてください。殺すなかれと言っているのが、人殺しだったら、その発言、信じますか。盗むなと言っているのが、盗人だったら、その発言を信じますか。だますなと言っているのが詐欺師だったら、その発言を信じますか。楽山の場合、総てが、嘘なのです。まともな人格ではないのです。
 
私も最初は好意的に書いていて、どうもおかしいと思って問うと、はぐらかす繰り返しで、結局、このまま続けると壊れそう・・というところまで経験したから、批判に転じています。
 
手遅れにならないために、どうか、無反省・無責任の楽山を、相手にしないでください。けっして関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
(2020年01月28日)
(2021年01月29日、加筆して再録)
 
 
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  非絶対性(相対性)2
 
 
神は絶対だから、神の言葉も絶対で、信仰は絶対だ、という主張は成り立ちません。
人が聖書の言葉を絶対とするのは、人に過ぎない自分の解釈を絶対とすることです。
人と人の産物は、絶対になることはありません。
 
神は絶対だが、人の信仰が絶対になることはありません。同じ理由で、人の信仰が、完全になることもありません。
 
神は、人を、ご自身とは違って、不完全に造られたからです。ゆえに、地上にいるあいだ、人には罪の性質があります。
 
罪をなくすのが信仰ではなく、罪を知ることで、神を信じて祈るのが信仰です。
 
神が人を完全なものとして造ることは、とりもなおさず、ご自身をコピーすることになり、四位一体以上の神になり、神が、それを好まず、望まなかったということなのでしょう。
 
私たちは、自由意志を持つところの、神の似姿であり、完全コピーではありません。
 
 
したがって、神が、造られたものを、すべてよかった、と言ったからという理由で、"所在不明の名無しの猫かぶり"というHNで、悪意だけのカルト教祖シャロームが、おのれを正当化することは、笑止であり、背教であり、決して成り立たないことです。
 
気をつけてください。シャロームは、羞恥心がなく、罪悪感もないので、どんなに否定されても、否定そのものを無視してきます。そして、いつも、まともな説教が出来るつもりで、横柄な態度と、それをごまかす世辞と丁寧語で、コメントを入れてきます。丁寧語で、荒らしてくるのです。
 
偽善者のシャロームと、好意的に、また、肯定的に付き合うと、気づかぬうちに、彼らと同じように、言葉についても、自分の思い込みにしがみつくようになり、ごまかしの世辞や嘘ばかり言うようになり、自らの知性と感性による理路や直感・直観が働かなくなり、人格が破壊されてゆくと思います。
 
実際、シャロームの仲間は、例えば楽山などは、似たような自己愛、自己中心、訂正不能という特徴を持っています。・・独りによる成りすましも疑ってはいますが。
 
信仰の相対性は、人間の罪性、つまり不完全性から、理解できることなのです。しかし、今の幸福から離れてしまいそうな気がするのか、信仰者同士のつきあいを優先してしまうのか、考えることを避けて、理解の殻を閉ざしてしまう人が多いような気がします。
 
その極限が、悪意を加えて、楽山やシャロームなどの易坊類なのです。
 
現状維持というのは、新しいものを考えることさえ拒否してしまうならば、成長不能になることです。そこには、役に立たず傍迷惑な捏造境地の自己満足があるだけで、成長するための道はなくなります。
 
そうして、自分納得・自己満足だけの不変のエゴの境地を信仰?と呼ぶようになってしまいます。超常自認のシャロームが、その典型です。
 
絶対でないということは、あるところはダメであり、あるところは優れている、ということでもあります。そして、不変というものに固着していないからこそ、良き訪れと導きがあれば、成長するということでもあります。
 
 
悪しか考えないような者も現にいますが、多くの人間には良心があります。罪の性質だけでなく、良心という賜物も与えられて人は生まれてくるのです。
 
良心は、言葉で内容を条文のように説明するものではなく、潤いと温もりに満ちた心で、柔和、共感、思いやり、など、人間の、悲しみの共感と、愛と慈しみを育てるものです。
 
よいこころは、
とんがることより、まるくなること、
やわらかくつつむことを、このみます。
ゆえに、うたれても、また、たちなおるつよさをもちます。
 
このことは、一般に、悪しきことを考えるときには、良心からの良い感情がなくなることから分かります。まるくないから、とがっており、乾燥して、傷つきやすく、傷つけやすく、癒しにくくなっており、冷たくなっていることを、自省できる人は、自分でも分かるでしょう。
 
絶対性というものを、人間が身につけようとすると、多く、カルトに見られるように、冷たく前進する軍隊のような同じ顔を持つようになり、いかなる忠告も批判も聞かなくなり、結局、精神の活性が著しく損なわれて、単方向に突出し、良心があればブレーキがかかるようなことを、行動に移してしまう衝動に走らされてしまいます。
 
絶対性を身につけることが、人間には、いかに無理であるかを表しています。
 
人は、神という絶対の存在を覚え、神と人の決定的な違いを弁え、恐れることによって、絶対性への欲望を捨てて、むしろ、人間味に溢れた相対的存在となることができます。それが、信仰者の敬虔であり、上の良心の性質を、より豊かに身につける準備となり出発点となるのです。
 
 
そういう相対的な人間のあり方をバカにしているのが、今は"名無しの猫かぶり"と名乗っているシャロームであり、その結果、絶対性に成り上がったシャロームは、この世で、いちばん醜い破壊人格のモデルとなってきました。
 
ごまかしに、バカ丁寧語を並べて、聖書語を並べて、いい気になっているようですが、シャローム自身だけが進行性の破壊に気づかないでいるのです。
 
こうなってしまうと、いつも、相手を下に見て、笑っており、何か言っても、殆ど理解できないがゆえに、屁とも思わないでいられるのです。ゆえに、自分は疲労せず、他者を疲労させるだけの存在となります。彼を、疲労物質と呼んだ所以であります。この点、楽山も同様の特徴を持っています。
 
さらに、関節の付き方が逆であるような、前後がおかしくなっているような、ガラクタの人形のような、屁理屈や詭弁をこしらえて、整えたと感じるようになり、豪語して、さらに、現実との乖離が進んで、病識や自覚が、ますます、なくなるという悪循環の暗黒の地獄谷を、この地上で、ヘラヘラ笑いながら、フラフラ歩むことになるのです。
 
これが、絶対性を身につけようとする者が、また、身につけたと思い込む者が、知らないあいだに、自らを破壊して、非人間となってゆくプロセスです。
 
自らの不完全性、つまり非絶対性=相対性を自覚しない者は、総てのことに適切に対処しているつもりの訂正不能な固着・執着だけになり、あらゆる選択において失敗が重なり、転げ落ちてゆき、しかも、それを、ことごとく、人のせいにしてゆきます。
 
そして、言うのです、神の平安のうちにあると。それは、無為と無視の停滞と沈殿に過ぎません。
 
宗教には反宗教が、信仰には反信仰が、キリストには反キリストが、悪魔性に、現れます。
 
総ての人が、不都合を、望ましい形で乗り越えるわけではなく、罪の性質が勝ってしまう場合があることを、聖書は語っています。そこを分けるのは、反省・修正機能の有無であります。
 
 
人間は、不完全で、不安定です。
 
しかし、その自覚があるからこそ、伸びしろがあり、成長可能なのです。
 
そして、神は、何よりも、不完全の自覚がある人からの正直な祈りの告白をお聞きになり、神は、その人に、あわれみと赦しと癒しと救いをお与えになると思います。
 
そうして生まれた信仰のみが、人間らしい温もりと潤いの良心からの信仰に成長するでしょう。
 
 
いのり

いのり
 
 
(2020年01月25日)
(2021年01月28日、加筆して再録)推敲済み
 
 
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  二つの聖句2
 
 二つの聖句 2020-01-19 00:05:05、再録+
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認です。そして、信仰とは、神の前に、すなわち、祈りにおいて、精いっぱい、正直であることです。それが、神の存在を人が認めることであり、神の前に、それ以上のことを人は為しえません。すなわち、救われる必要十分条件であります。
 
キリスト信仰を、安い道徳に貶めないために、おさらいになりますが、大切な2つの聖句について。
 
聖書の犯罪人の話です。磔刑という死刑ですから、殺人犯なのでしょうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:39
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40-42
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:39-43、新約聖書)
 
聖書の中にも、行いを重視する聖句はあります。しかし、行いは、信仰の中心ではありません。十字架上の犯罪人は、何か善行を施したから救われたのでしょうか、否です。これから肉体が死ぬという時、恐らく地上では最後の、そして、唯一の、正直な告白のみによって救われたのです。
 
次は、教えを守ってきたという自信のある金持ちの青年についての聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18-19
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
「よいかたはただひとりだけ」なのです。いかなる人の善行も、神に比べれば、遠く及ばないのです。善の完全なるは、ただ御一方、神のみであります。言うまでもないことです。なぜ、人は、神の善までを欲望し、敬虔を忘れて自慢したがり、完全などという大それたものを欲しがるのでしょう。
 
キリストは、青年に尋ねられて、まず、戒めを守ることを告げるのですが、そのあとの、マタイ19:20の青年の言葉「みな守ってきました」という言葉に対しては、ただ単に、謙遜せよ、という意味で戒めているのではありません。
 
人は、神の前で、決して、分かっている、守っている、見える、と言うことは出来ないのです。これらは、完全なる神聖だけに通用する言葉だからです。青年は、やや自慢げに、永遠と完全を欲しがりました。それは、神のみの持ち物です。
 
その証拠に、21節では、キリストは、青年の不備を見抜いているかのように、「完全になりたいと思うなら」と言って、青年が守れない教えを告げました。恐らく、キリストは、青年のうちに、完全欲と慢心があることを見抜いたのだろうと思います。
 
青年は、悲しみながら立ち去りました。ここは大事なところです。青年のその後は書かれていないと思いますが、パリサイ人のように否定されたわけではありません。
 
パリサイ人のように、批判されるとキリストを殺そうと企む者たちは、悲しむことがなく、怒りと憎しみを返すしかなかったということです。
 
青年は、パリサイ人とは違います。なんとなくですが、キリストの、悲しみながら去る青年の、信仰の成長を期待しているような温かい眼差しを感じます。ここで、短い引用ですが、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
この聖句を、完全になりたいと思うなら、これを守れるか、と考えてみると、この心の中の姦淫の罪を犯さない者は、すなわち、完全な者は、罪なき者は、一人もいない、ということが分かってくるでしょう。
 
そういう教えとして受け取らないと、この聖句は、できるだけ守ればいい、という安い道徳に堕してしまいます。そう解釈している者もいるようです。
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、受け取る私たちは人間の言葉しか知らないのです。受け取るたびに誤解しているのかもしれません。ゆえに、成長可能な解釈そして解説と、成長可能な信仰の心が必要です。
 
人間の真実として、あるいは、むしろ救いとして、文字通りではなく、妄想でもなく、真実として響くものを追求する歩みに、そして、人間の成長に、少なくとも終末まで、終わりはないのです。
 
神と違って、人間である信仰者は、不完全で罪深いという自覚ゆえに、信仰に救いを求めて、神に祈ります。それは、過ちを犯しても、絶望することなく、立ち直って生き続けることを可能にします。
 
 
悲しみと希望

悲しみと希望
 
 
(2020年01月19日、同日一部修正)
(2021年01月27日、再録+)
 
 
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