ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年01月

 
  楽山とは何だろう?
 
 成人式のスピーチ問題について、信者の反応は…?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年01月19日
 さまざまな情報を集めつつ、幸福の科学とは何であるのか考えてます。
 抜粋して批判します。
 
 
楽山は、批判され続けていながら、それには全く答えず、反論も弁明も成り立たないまま、別の他者を批判しています。まるで、批判など無視していいよ・・ということを前提に書いているようなものです。まとも芝居をして、自己顕示欲を満たしているだけですから、説得力は皆無だと思います。
 
新たにブログを作って、ネズミのように逃げ隠れして逃げ回るようなものを許していいはずがありません。楽山批判は、約2年間に及びますが、悪口・嘘・詭弁・嫌がらせ・当てつけ、などが返ってきただけで、まともな返しなど、したことのない楽山です。悪意の病質者と判断しています。
 
*論点
前の記事において、この問題の論点はおよそ三つあるのではないかと書いたが、もう一度書くと、それはこのようなものだ。
信仰告白は是か非かという信教の自由の問題
 
一見、自由だと答えそうですが、反社会的思想であったり、嘘と詭弁だらけであったり、言いっぱなしで無反省・無責任であったりすれば、批判されて当然であります。楽山がその典型です。
 
成人式において特定宗教の宣伝は容認されるかという政教分離の問題
 
上に書いた反社会的な迷惑や反人道的なものでなく、強制的でないならば、儀式と宣伝は、可なのでしょうが、楽山は、人の迷惑を省みず、嘘と詭弁を使いまくるので、決して容認してはいけない存在です。ですから、楽山が誰かを批判する資格などないと思います。
 
信仰告白のために人を騙していいのかという道義上の問題
 
まさに、丁寧であいまいなボンヤリ言語と、同情をひくための芝居であるトホホ言語によって、人をだましているのが、楽山その人であります。
 
反対を書いて、その後、賛成と受け取れる祈り芝居などをしてきて、そして、断定していないから責任問題は発生しないなどと、成り立たない言い訳をするような楽山こそ、道義上も、宗教上も、害悪と偽善にまみれている偽善者であります。
 
そして、一切、反省も訂正もしないのだから、いかなる寛容の精神をもってしても、その因業を続けることなど、容認してはいけません。
 
つまり、楽山は、一人前の正常な成人ではないということです。かといって、薬などの治療が効くわけでもない病質者なので、何からの和解も期待できず、治療によって改善可能な精神障害についての考え方も成り立ちません。自己愛と自己顕示欲に支配された精神病質だという判断です。
 
楽山は、いかなる悪と偽善を行っても、罪悪感を感じていないだろうと思います。優しさに見せかけた丁寧語にだまされないでください。決して信用しないでください、相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください、という意見で批判記事を書いてきました。
 
私見ながら、HSとその信者は、信教の自由の問題についてうんぬんするが、あとの二つについてはまったくといっていいほど語らず、そもそも関心がないようだ。
 
楽山は、信教の自由の問題についても、また、上に述べたように、政教分離の問題や、詐欺的行為についても、批判の対象になることはあっても、批判者になってはいけない人です。最低限の道理も道徳も弁えていないで、どうして、他者を批判できるでしょう。
 
一方、アンチ側は、あとの二つについて議論することが多く、信教の自由の問題についてはそれほど語ることはないようだ。信教の自由を認めないというのではなく、それは当然と認めた上で、あとの二つについて問題ありとしているのだ。
 
楽山は、言うだけで、返せない人なので、議論も、コメントの遣り取りも、成り立ったことはありません。ただ、だまされた人が、だまされている間、まともだと思っているだけです。柔和で中立を装うペテン師に、もう、だまされないでください。私も数か月だまされてから、批判に転じています。
 
「信仰告白は自由ではあるが、成人式においてそのような行為を容認するのは政教分離に反するのではないか?」「信仰告白は自由ではあるが、そのために人を騙してもいいものであろうか?」など。
あとはアンチ側には、いわゆるゲリラスピーチをした青年の将来を案ずる声が散見されるのが印象的である。
 
(ネットより)
政教分離原則(せいきょうぶぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう[1][2]。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう[3]。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す[4]。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている[5]。
 
要は、政治は、宗教に対して、中立・不介入ということでしょう。また、そういう不当な介入を戒めてもいると考えるならば、自分の罪や偽善を省みず、平気で、柔和・中立芝居をして、宗教やカルト批判をしている楽山は、言論を歪曲する煽動者であり、むしろ、言論の自由を乱すものと考えるべきでしょう。ですから、楽山は、批判の対象となるのであって、批判の主体となる資格はないということです。
 
*提案
信者氏らは、信仰告白こそが最優先であって、そのために嘘をついたとしても、政教分離に違反したとしても大した問題ではないと考えていそうだが、世の中は大半が信者ではないのだし、信仰告白のためなら嘘があっても政教分離に反しても構わないという考え方が通るわけもない。信者氏にはこの辺りのことについてよく考えてみてほしいと思う。
 
世の中の大半は、楽山の「賛同者ではないのだし」、信仰告白の嘘のみならず、反信仰の実体と実態についても、楽山の嘘と詭弁は、当然、批判されてゆくわけです。楽山という最も悪質な個人カルトは、自らに対する批判には答えず、他者を批判し、かつ、他者に教えようとする体質的変質者です。
 
楽山は、批判されると、長々と自慢げに返してきたときも、嘘と詭弁の、いちゃもんしか書けない人です。楽山は、分からないことでも、平気で嘘を吐き、平気で詭弁を弄します。総ては、作為なのです。人の助けになろうとする気はなく、実態は、人を操りたいだけなのです。それが快感だからです。
 
楽山の、自らの偽善と悪を無視した宗教批判など「通るわけもない」のです。楽山は、他者を批判することで、結果として、自らの害悪を証明してゆくことになるでしょう。楽山は、何も考えていない自己中なのだから「よく考えてみてほしい」などと、人に言う資格もないのです。
 
以前から "反省" とか "トホホ" とか書いて、反省している柔和な人柄が伝わると思っていることも、笑止であり、記事の流れの時系列や前後の文脈に反省が表れたことがなければ芝居だと分かるのです。わざとらしい卑下をしても中身がなく、前後の高慢が総てを否定しているのです。
 
言葉の内実の代わりに連想されるのは、反省とは裏腹なニヤニヤした自己満悦の笑いだけなのです。「共感」なども言葉だけです。実際には、したこともなく、共感できない体質と性格が指摘された流れの中では、狙いだけが際立って、白々しくて見苦しく、滑稽でさえあります。皮肉として、楽山が使った謙虚芝居の台詞「かなあ」とか「ていうか」とかを付けたいところです。
 
楽山が、自らを改めることがないのに、人に改めるように言っているのは、精神機能の良心という大事なところが欠損した体質が、生まれ育ったときには固定してしまって改まらないところの、著しい非道なのであります。楽山は、言論者ではありません。芝居にだまされないでください。決して楽山の言うことを受け取らないでください。
 
 
偽善の末路

偽善の末路
 
 
(2021年01月26日)
 
 
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  楽山の害毒
 
 
楽山の頭の中には、恐らく、反省と成長のための思考と感受のフリーエリアがないのだと思います。あるのは、ROMのように訂正不能の妄想的確信だけなのでしょう。その楽山の確信は、自分がバランスが取れていて、いつも正常で中立なことを言えている、というようなものなのでしょう。実際は、感性と思考の糧(かて)になるようなことを、楽山は、一言も言ったことなどないのです。
 
楽山は、たくさん読書をしていますというアピールとして様々な著者の名前を出して引用してきますが、読書というのも、楽山の場合、意味合いが正常とは違ってきて、自分のROMと同じような、少なくとも自分のROMで扱える都合のよい言葉を探すだけになっているのでしょう。
 
楽山の読書は、一種の、単純な一致で拾う検索のようなものです。本を通した深い意味の流れを受け取っておらず、特に、聖書において、顕著であります。楽山の主張には、自分と似たような文言を引用できるという自己満足と、自分の固定観念と反するゆえの反感しか表れていません。
 
楽山の文章には、短絡はあっても、正常な理路はありません。理屈めいたつながりを書きますが、その際、最も大切なところについて恐ろしく鈍感であり、無視されているのです。
 
 
無反省、無責任、無理解、無学習、無成長で生きてきたわけですから、楽山は、恐らく、何の気遣いも出来ない人でしょう。時と場合に、ふさわしくない発言ばかりする人でしょう。いつも、ピントも的も外れていながら、孤立しても、一人前の言動をしているつもりになるのでしょう。
 
そして、人間関係に気を使うことがなく、他者の反応云々によらず、何かをリードしているつもりになるのでしょう。だったら、ネットに載せたりせずに、何も言わずに、人を相手にせずに、誰もいない部屋の中で、独り言を言いながら、自己満しておればよいのです。実際、自意識とは裏腹に、独りであり、誰かに良い影響を与えることはないのです。
 
楽山の言論には、結論がありません。しかも、暫定的な結論も書かないことで、責任を回避できると思っているようです。このことは、誰かが、楽山の言を糧にしようと思うことを拒否する態度です。最初から、何の自信も責任感もなく、欲望だけで書いているということになります。
 
反省することがない楽山には、何かを理解するということがなく、何かを学ぶということがなく、成長するということがなく、感動を受け取ることも与えることも出来ないと思います。それでも続けるのは、自身の誤りと、与えている迷惑を認めず、恥を感知できないところの、病質が、駆り立てるように、働いているとしか言いようがありません。
 
実際、楽山の書く文章は、通念的なところを舐めているだけなので、世辞にはなるが、洞察と共感が皆無です。否定しにくい書き方をしますが、読んでも人間の心に響く何ものも生まれてくることはないと思います。つまり、無駄を与え続けて、読む人を疲労させるだけなのです。
 
 
楽山は、神と宗教と言えば、超常のお伽噺や奇跡物語としてしか受け取らず、ゆえに、そういう話としてしか表せず、人間の生き方に触れる中身が一切なく、ゆえに、多くの嘘の作り話によって、神を云々して、宗教を云々して、揶揄以上にはならないので、何の役にも立たない話になります。
 
つまり、それが宗教だと勘違いされては困りもの、ということを、学者気取りで書いているだけなのです。反省しないから、続けます。責任負わないから、いつも機嫌がよく、他者の迷惑を考えないから、平気でいられ、元気がよく、どんな迷惑も感知せず、まともだという自覚に無根拠に慢心します。
 
そして、結局、はっきりした主張がないから、その曖昧な理路の断片だけが、読者に残ります。それが、一見、楽そうに思えた人の間で、第2、第3の楽山的人格が伝染してゆく、という大きな弊害をもたらす恐れがあるのです。ゆえに、人格破壊の凶悪な疲労物質でしかありません。
 
私は、楽山によって、そういう悪質な疲労を味わったから、批判しているわけです。その結果、さらに明らかになったこととして、自己中で、自己満悦だけの、訂正不能で、罪悪感のないサイコパス的人格としか判断できないということです。
 
 
楽山とは、不完全で罪深い存在、という地上の人間の共感が成り立ちません。ゆえに、楽山の言う信仰も宗教も、何の意味もありません。決して関わってはいけない人です。
 
信仰は、完全なる神と、不完全な人との、決定的な違いを自覚したところからしか始まりません。
 
聖書は、いつも、その違いを伝えています。それを弁えなければ、たとえ、聖書を暗記しても、神学書を暗記しても、総ての本を読んでも、ひとかけらの信仰も生まれることはないのです。
 
楽山の言説は、信仰と宗教と思想の害毒です。
 
 
害毒

害毒
 
 
(2021年01月25日)
 
 
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  楽山の虚言
 
 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著
 2021年01月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の虚言は、そっと懐に滑り込ませるような狡猾さがあります。実際は、総て、反キリストの、作為と悪意の産物です。
 
楽山は、HS批判を、こそこそと、別のブログを立ち上げてするつもりのようですが、自らが、批判されていて、それにまったく答えないままで、無反省・無責任に、別のところを批判をする、などということは、正常なら出来ないことです。
 
自身の不都合を無視して、平気で、他者の不都合を批判するところに、訂正不能の異常性が表れています。楽山は、批判している側にいるつもりの自分をよく見せるために、自らが批判の対象であることから読者の目を逸らしたいわけでしょう。
 
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、中公の「日本の名著」で一度通読したことがあったが、キリスト教徒となる前の著者は、神社の前を通る度に礼をしていたという話以外は何も覚えていないので、今回は岩波文庫で読み返してみることにした。感想は、以下の通り。
 
新しく信仰者になる前は、違うことを考え、違うことをしているのは、当たり前のことでしょう。しかも、日本という国のあり方も影響していたでしょう。それを、ことさら、「神社の前を通る度に礼をしていた」などと書いてくるのは、揶揄したいからにほかなりません。
 
今日もまた、楽山は、キリスト教の伝道者を侮辱するのだということが、書いたものによって表れています。楽山には、何を言っても無駄だから、引用と批判記事を資料としてゆくことにしています。
 
まず一つは自分の教養不足を痛感したということ。本文と訳注を行ったり来たりして読みつつ、自分は聖書、古典、歴史などについて何も知らないことを思い知らされた。反省。
 
そもそも、楽山は、宗教と信仰を知りません。単なる知識不足ではないのです。ゆえに、このような「反省」も、柔和を装うための嘘ということになります。
 
本当に反省するのならば、恥じて書くのをやめているはずです。そのブレーキが、病質のために欠損しているのです。今までもあったことです。同じごまかし方が、今も通用すると思っていること自体が、厚顔無恥というべきことであります。
 
二つ目は本書の前半はやや平板だが、中盤以降、米国に渡ってからの文章は勢いがあって迫力があるということ。これは前半よりも中盤以降の方が、葛藤、対立、主張が激しいからだろうが、本書を読んで退屈に感じた人は、いっそ第六章から読む方がいいと思う。
 
このように、反省と書いた後で、読み方を教えられると思っていることが、反省は嘘だということを示しているのです。
 
自己愛が、楽山を、暴走させ、堕落させ、周りを見えなくさせて、既に、久しいのです。どんなに失敗しても、立ち直るのではなく、何も反省せずに同じことを続けることに、自己愛性パーソナリティの暗闇を感じないではいられません。
 
三つ目は著者は信仰対象を日本の神々からキリスト教の神に変えてはいても、熱心な信仰者であることは少しも変わっていないということ。著者は常に全身全霊で何かを信じないではいられない根っからの宗教者なのだろう。
 
信仰が変わって、信仰者が変わらないということはありません。楽山が言う熱心さは、実に、胡散臭い超常趣味の臭気に満ちたものであることは、今までの楽山の記事から、明らかであります。
 
特徴的に、熱心な信仰者という褒め言葉こそ楽山の皮肉に満ちた揶揄への通り道となっています。今までの経過から、誰とも交流も議論も出来ず無反省・無責任のままの楽山の褒め言葉は、全身全霊で悪意と敵意と呪いを隠している姿なのです。
 
つまり、楽山は、無反省と書かれ続けているから、反省と書けばよいじゃろ、という根性で返してくるのです。煽動者・詭弁屋以外の何者でもなく、言葉の大きさに比して、実感の乏しさが、目立つだけなのです。
 
以前からの、楽山の、マイナスの言葉のあとに、プラスを書けば、プラマイゼロじゃろ、という気安さであり、いい加減さであり、責任回避の言い逃れであり、悪意の軟派カルトなのです。
 
四つ目は著者は自分の行動を改める際に、理屈を必要としているということ。他人に援助は求めぬとしていたのを援助を求めることにしたり、牧師にはならないと公言していたにもかかわらず神学校で学ぶことにしたことについて、かくかくしかじかの理由で考えを改めたと説明しているところは、なかなかの理屈屋だ。ちなみに自分もこれと同じで自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質ではある。
 
理屈を必要としていたのではなく、理由と動機と根拠を説明しているという当たり前のことでしょう。それを「なかなかの理屈屋」と言ってしまうのが、楽山の揶揄であり悪意なのです。
 
しかも、楽山も同じなどということはありません。説明する者と無視する者との違いであり、楽山は、一度も、当たり前のことをしていません。楽山は、筋の通った説明など、したことはありません。
 
傍若無人の、寒気のするような、ふてぶてしく白々しい虚言であります。
 
以上、本書にはこれ以外にもいろいろなことを考えさせられたが、そのすべてを書くのはすぐには無理なので、とりあえず本稿ではここまでとしたい。
 
総ても、一部も、楽山は書けない人です。書けば、病質が表れ、くずれた文脈の詐欺行為が見られるのみであります。
 
腐敗の病巣が染み込んでいる楽山が放った矢は、故意か体質かの、悪意として、いつも、独特の悪臭を放つことになります。放置すれば、そこに、新たな病巣を作るでしょう。
 
真面目なふりをして、分かったような顔と丁寧語で、得々と語る偽善者に注意してください。
 
 
まっくろ2

世の中には真っ黒な人たちもいます。
 
(ここは、とても易しく優しいオセロゲームのサイト。
  ゲーム苦手の年寄りには軽い癒しです。)
 
 
(2021年01月24日、同日一部修正)
 
 
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  繰り返す厚顔無恥2
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という、過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。
 
"名無し"からの荒らしコメントです。私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。
 
宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白して、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。
 
あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
血潮に罪贖われ、などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。
 
どんな罪でも自己受容して気にしないシャロームですが、信仰者が求めるのは、神に受け入れられることであります。シャロームの、汚い詭弁は、永遠に、神に受容されることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていないという、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" のを、自分で台無しにして、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。
 
これも、前に、あなたシャロームが、言ったこと。ここにしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの醜さ全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。
 
しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。
 
さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らないシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
ふざけたHNと態度で、聖書とキリストを語るな。
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。
 
あなたは、あなた自身の惨状にさえ、気づかなくなっています。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、一切は無駄なのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
(ネットより)
御言葉を通して主と人格的な交わりを持つ事はもっと重要です。
http://shinjuku-shalom.com/archives/4227
新宿シャローム教会・・同じシャロームでも、えらい違い。
 
私たち人間は、人格的な交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のものです。
 
したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。
 
あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけを表してきたのです。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。
 
あなたシャロームは、福音に聞き従わない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているから、パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。
 
あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。
 
恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。
 
このように、ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁など、いい加減なことを、好きなように言って、傍若無人を通していると、履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善に対する批判記事の集積という莫大な負の財産を残すことになります。シャロームは10年分です。
 
 
恥知らず

恥知らず
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
 
 
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  無常の価値2
 
 
人間が死にたくなるのは、
周りに人間がいなくなるか、
周りにいる人が人間と思えなくなるとき。
 
人間が生きるのは、
周りに人間らしい人や話があって、
いつも人間味を味わっていられるから。
 
人間味の中に
尊い愛があり心があり
共感があり思いやりがあり、
それゆえにこそ泣いたり笑ったりが
生まれるというのに、
 
処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、
超常の不明を、批判不可として信じ込めば、
いろいろな不明を次から次に信じ込んで、
心は超常に迷い込んで、
神明も不明も分からなくなり、
人間の最も大事なることを
無常の無価値として
捨て去ってゆくことになるだろう。
 
人間にとって大事なことは
無常の世界にたくさんあるではないか。
 
無常こそ大事であり、
無常であるからこそ大切にするのであり、
いずれ過ぎ去ってゆく身としては、
常世に至る前に、この地上で
大切にするべきことがあるだろう。
 
神は恒常であり永遠不変である。
神だから常世に住めるのだろう。
 
神は
人が恒常不変になったから憐れむのではない。
憐れんだら恒常不変になるから憐れむのでもない。
人は地上で恒常不変にはなれない。
信仰は地上で生きるためにある。
神は
人の不完全を既にご存知であり
人がご自身と違って
無常で儚く弱いからこそ憐れんで
成長を願っておられるのだろう。
 
何ゆえに神を真似て
永遠不変を地上で真似ようとするのか。
 
何ゆえ無常を疎かにして
恒常が手に負えると思うのか。
 
何ゆえ成長を疎かにして
不変を欲しがるのか。
 
何ゆえ人の愛を疎かにして
神の愛を説こうとするのか。
 
 
むじょう

むじょう
 
 
(2018年01月)
(2021年01月22日、加筆して再録)
 
懐妊(かいにん)
常世(とこよ)
恒常(こうじょう)
儚い(はかない)
疎か(おろそか)
 
 
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