ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年03月


  捏造の文脈2
 
 2020年03月23日
 教と幸福の関係について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
ウィキペディアには本の著者は哲学者・心理学者と書いてあるのに、楽山は、心霊主義と言って、著者 W・ジェイムズという人の本を多く引用する記事を書いて、批判を無視して、連作のように、自己正当化に専念しているようです。
 
(ネットより)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
 
(楽山)「著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。」
 
(私)「ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。」
 」
 
少しでも自分に有利な言葉を見つけようとして、見つけたつもりの曲解の自己愛に基づいて、詭弁を重ねています。まさに、そういう欺瞞の態度こそが、楽山の本質的な魔性を証明することになります。
 
カルトに警戒を呼びかける文脈を作りながら、こういうことを書いている自分は大丈夫ですよ、という印象を与えようとしています。根腐れのわざ、と言っておきます。いちばん危ない人が、自分を除外して呼びかけている、という気色の悪い文脈です。
 
こういう捏造の文脈に対しては、もし警戒を呼びかける心の持ち主なら今までの情報操作と詭弁と嘘などは無かったはず、という根拠において全否定するべきです。今まで楽山の書いてきたことが、この記事のインチキを証明しているのです。意地で連作している感じが、悪臭を放っています。
 
たしかに、こういう考え方をしている宗教信者は多いと思う。もっとも私が知っている宗教信者というのは大方は幸福の科学の信者のことだけど。
宗教と幸福とがこのような関係にあるとすれば、人々が宗教的信仰の与える幸福をばその宗教的信仰の真理であることの証拠と見なすに至るのも、驚くにあたらないであろう。もしある信条がある人に幸福感を与えるものであれば、その人がその信条を奉ぜざるをえなくなるのは当然であるといっていい。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.122)
 」
 
ここでは、まず、"幸福感"という言葉を用いて、楽山は、騙す・騙されるということを読者の意識から除外したいようです。しかし、カルトについては、刷り込み、イメージ操作、やさしい言葉、夢物語、おとぎ話、詭弁、脅迫、によって、"騙(だま)す"ということを除外しては語れないものです。カルトの幸福感は偽りです。カルト体質の精神の詐欺師である楽山も同様です。
 
たとえば、信者からこういう話を聞かされるのは珍しいことではない。
「自分はこの宗教を信じてから幸福になった。この宗教は本物だ」
「この教えを実践したら幸福になった。この教えは本物だ」
でも本当なら、宗教の正邪と幸不幸とは別問題であり、正しい宗教を信じたら幸福になり、間違った宗教を信じたら不幸になるとはかぎらず、正しい宗教を信じていてもよくないことが起きたり、間違った宗教を信じていても幸福感に包まれることはありえるだろうし、
 
幸福感という言葉で、正しい宗教を信じていても、間違った宗教を信じていても、幸福感がありえる?と言っています。このような幸福感は御免です。
 
楽山は、幸福感という言葉も、正邪の言葉の使い方も、ぞんざいであり、浅い固定観念で気安く使っているだけです。楽山は、このように、思想・宗教を語る素地を持っていないのです。
 
幸福感は主観であり、騙されているときの異常な気分からも生じ得るもの、そして、経過によっては大いに揺らぎ得るものです。
 
そのことを無視して、正しくなくても幸福になればいい、というような感覚を植え付けようとする詭弁です。要は、楽山は、自分の考えが正しいと言いたいだけなのです。
 
幸福感は主観ですから、楽山が幸福だと言うことに従って、地獄を見ることもあるでしょう。
 
また人が何を幸福と感じるかは人それぞれ異なっているのだから、自分がA教で幸福感を得たとしても、他の人もA教で同じだけの幸福感を得られるとは必ずしもいえないことだ。
 
これは、信仰は "人それぞれ"、ということを悪用して、幸福になるのだったら、いいじゃないか、という自己正当化の詭弁です。カルトは、幸福感のまま、人を犯罪に誘導する、ということは、危惧として、また、事件として、明らかになっているのです。
 
いかなる言い訳も無駄となった事態に、さらに、悪あがきをしている楽山の底が見えてきます。寒気がします。
 
中身に斬りこむことのできない楽山が、一般論的に、「幸福感」「A教」「必ずしも言えない」というボンヤリ言語の概念遊びという詭弁で、正当に見せかけて、ごまかしているという醜態です。
 
人は宗教に凝ってしまうとそんな簡単な理屈も分からなくなってしまうことがあるから困る。
 
これを、一般則のように言って「困る」と結んでいる時点で、楽山の嫌らしい詭弁はアウトなのです。困るという楽山の印象を宗教一般に適用するという詭弁なのです。論理を全く気にしない刷り込み屋だから出来ることです。
 
楽山は、前に何度も書いたことですが、軟派カルトの宣伝者です。被害者面と傍観者面と批評家面と丁寧語とボンヤリ言語が、楽山の騙しのテクニックなのです。
 
宗教も、信仰も、理屈も、情緒も、人間について言葉以上の深い理解の欠けている楽山の、詭弁による自己正当化なのです。今、この記事で、誰よりも "困らせている" のは、楽山その人です。
 
楽山こそ、体質的欠陥によって「簡単な理屈も分からなくなって」いるのです。楽山の自己中・自己愛性人格障害によるもので、まことに、常識的な判断すらできていません。
 
実を言えば自分も宗教にはまり込んでしまっていた時期はそんな風になっていたのだから恥ずかしい。
 
何も変わっていません。今もカルト宣伝者です。宗教にはまり込んだからではなく、楽山は、何も分かっていないのに、宗教に、余計な、ちょっかいを出してしまう自己顕示欲と自己愛の奴隷なのです。
 
証拠は、破たんした理路に、気づかない感受性に、ここまでずっと表れてきました。そして、ここでも詭弁を武器としていることで、いっそう、明らかです。
 
どこまでも、批評するかのような芝居で、どこまでも、自己正当化を謀っていますが、もはや、総て無駄なのです。汚い本性が、ずっと、表れているのです。本人だけが気づかない、あるいは、知らぬふりをしている。身の毛が弥立ちます。
 
これも一種のマインドコントロールなのだろうけれども、宗教を信じてしまったがために思考力、判断力が低下してしまうこともあるし、ここはよくよく気をつけたい。
 
楽山は、自分も前にカルト信者だったが、今は、大丈夫だから、気をつけてください、みたいなことを言いたいのでしょうか。否であります。
 
誰よりも、カルト体質の自己愛性パーソナリティ障害である楽山に気をつけてください。反省力も罪悪感も責任感も持っていないことが明らかになってきた人です。
 
今の楽山こそ、詭弁、印象操作、刷り込み、嘘のでっち上げ、などによって、他者一般をマインドコントロールしているところです。とんでもない策士で、精神の詐欺師なのです。
 
病的な体質のために、楽山は、今も、思考力・判断力と、さらに、情緒的感性も著しく低いので、詭弁に頼っているのです。楽山に影響を受けないように「よくよく気をつけ」てください。
 
ヤケクソ状態に近くなれば、いっそう危険です。決して関わり合いにならないでください。平静を装っても、楽山は、カンシャク玉か、ネズミ花火のような状態です。ますます人間性を失って、見境がなくなり、パニックとなってゆくプロセスかもしれません。
 
私が楽山について言ってきたところの、訂正不能のカルト思想によって思考力判断力が低下する、ということを、逆手にとっていますが、この楽山にこそ、近づかないように、「よくよく気をつけ」てほしいです。
 
「気をつけたい」なら、楽山は、背筋の寒くなるような騙しの詭弁など書かなかったはずなのです。楽山は、根っから、カルトの素、という体質です。
 
被害者意識をもって、「気をつけたい」などと言っても、騙し続けてきたのは、今までの記事とコメントの文脈から、楽山であることが、とっくに明らかになっているのです。
 
楽山という、詭弁で刷り込んでくる変質者は、断末魔でしょうか、バーゲンでしょうか、嘘吐きパリピでしょうか、何も応えることなく突っ走って、まっすぐ物を見る目を失って、反省もせずに、似たようなことを繰り返して、あたかも、同じところをくるくる這いまわって堂々巡りしているネズミのようです。
 
腐った根性が、ずうっと、無実を装う素知らぬ顔のままだから、平気を装う醜い姿で芝居がかって、結局、結果として、ますます深い深い悪意を表してしまうことになります。
 
こういう人の書く文章は、意味を汲み取ろうとしてはいけません。伝えようとしているのは、意味ではなく、支配欲からの無節操な誘導ですから、まともな理路も情緒も表れてはいません。
 
騙(だま)しの悪だくみだけが、隙(すき)あらば、袖(そで)からも、裾(すそ)からも、ずけずけと無遠慮に入り込もうとする貪欲の病原が、くさく息荒く流涎しているだけの様相です。
 
 
学んだこと:
 
正直という人間の真実を失った者は、やがて、自分自身をも隠すようになるだろう。
そしてついには自分自身をも失ってしまうだろう。
 
 
捏造の理路

ねつぞうの理路
 
 
(2020年03月24日、同日一部修正)
(2021年03月26日、再録+、さらに一部修正)
 
 
 
 
  祈りと叫び・共感の主
 
恵みの神様に感謝しますという賛美の祈りより
神も仏もあるものか!という本音の叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられるような気がします。
 
神の意志に背く地上の偽善者に笑われながら
その血まみれの蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を遣わされた神様だから
 
 
  信じて信じて
 
一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
 
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば山上の垂訓から
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 
神の立場を決めつけない限り
この世のことも
あの世のことも
望むのは信仰に反しない
 
 
(ずっと昔、再録+)
 
 
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  他者の口を利用2
 
 2020年03月22日
 神との対話の危険性(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山は、自分の霊感を主張して止みません。しかし、楽山は、霊感の働く人であるならばありえないような、無理解、異なる意見に対する不感不応、理路の破綻と情緒の欠落、などの人間的欠陥だけが露呈してきた経過です。もはや、悪意以外何もないのでしょう。それで、また、人格を自ら破壊してゆくのです。
 
下の文章によると神の言葉は耳に聞こえるのではなく、心にうかんでくるのだという。
神は、わたしにとってはまったくの実在である。わたしは神に語りかける、するとしばしば答えを得る。わたしが神に指図をこうと、わたしがそれまで懐いていたのとはまったく違った思想が、突如として、わたしの心にうかんでくる。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.111)
 」
これは体験者の手記として、本書に引用されているものなので孫引きになってしまうのではあるが、こういう風に、霊的存在の声が聞こえるのでなく、その思いが直に心に伝わってくるという話は、その相手が神、高級霊、守護霊、生霊などの違いはあれども、他所でも読んだり、聞いたりしたことはある。
 
引用書籍の人が、どういう体験をしたのか、事実なのか、比喩的に表現しているのかは分かりません。しかし、実在の神が語りかけて答えを得る、というのは、自分は絶対正しいと言っているようなものですから、敬虔な人ならば、控えるようなことなのです。
 
今まで楽山の記事とコメントで見てきたことからは、カルトが自身を言い表すのに、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して騙すしかないという習性によって、悪意の偽善者である楽山やシャロームなどは、ひどいインチキしか表れていないということです。
 
たとえば、某スピリチュアル系のブログで、自分の心にうかんだ思いについてよくよく吟味してみれば、それが自分の思いではなく、自分以外の存在(指導霊、守護霊、生霊、悪霊など)の思いであることが分かるということを書いているのを読んだことがある。このブログ主は、そのようにして心の中の他者との対話を試みているようだった。霊好きの人のなかには、毎日、霊と話しているという人がいたりするけれども、こういう心の中での対話をそのようにとらえている場合も少なくなさそうだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山の、妄想的な霊の話です。霊能者が分かるというのは、自分も霊能者だという主張です。身の程を弁えない者は、反省しないために、他者の異常な能力を鵜呑みにして、自分もだ・・と言いたいのです。
 
楽山が霊能者であったなら、このように悪意の不祥事を批判されることはなかったはずです。
 
直感、直観、インスピレーション、ひらめき、思いつき、そして、理解に至るまで、人間の精神活動は、複雑ですが、楽山は、人が書いているからと、霊の分類まであげて、見せびらかします。つまり、説得力のないことを、他者の口で補おうとする醜さです。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの精神であります。
 
この、人が書いていると楽山が言うことも、指導、守護、導き、誘惑など、心に起こっている活動や作用を分けてみたのかもしれない、という思考力を、楽山は、持てない人なのです。
 
楽山には、可能性がありません。断定だけを暗示的に繰り返しています。そもそも人格が、既に、自己中絶対の方向に進行性に病んでいるからです。
 
タロット占いをする知人も、これと似たことを話していた。この人の占いはよく当たっていたので、その理由を問うと、何となく分かるのだという。カードのケースにある説明には、カードの意味について抽象的かつ簡潔にしか書いていないのに、なぜカードの意味をそんな風に具体的かつ詳細に語れるのかを問うても答えは同じで、何となく分かるのだという。どうも語るべき言葉が自然と心にうかんでくるらしい。
 
楽山は、よほど、人に影響を受けやすい人格のようです。あるいは、人の口を利用しなくては、何も語れないのでしょうか。こういう情けない有り様も、楽山の知性?と感性?が、実は、欲望だけによることを物語っているのです。
 
楽山は、語るべきでない言葉が、不自然に、浮かんでくるようです。これが、楽山が、人に対して、ケロッと無感情に、疲れさせ、傷つけるケース(事件)でしょうか、カース(呪い)でしょうか。
 
自分は世界には人知ではうかがい知れぬ不思議なことがあっても別におかしくはないと思うので、オカルト、神秘主義を頭ごなしに否定しようとは思わないのではあるが、心の中での対話は、心の健康のためにはよくないという話は聞くし、霊的存在との対話にハマり込んでしまうと段々とその命令に逆らえなくなり、やがては自分の人生を乗っ取られたり、現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れがあるという話も聞いたことはある。実際自分もこの手の注意の大切さを実感した経験がないでもない。
 
オカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山ですが、そのことを「否定しようとは思わない」という言い方で、客観に見せかけて、自らの霊感を受け入れさせようとするのが、楽山の、ボンヤリ言語、という、とても卑怯な細工なのです。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」というのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作の、ボンヤリ言語のインチキのやり方だということを忘れないでください。どんどん、怪しさが増しています。
 
楽山には、能力に関する特別なものが、書くものに表れたことはありません。むしろ、文章と理路に、歪曲しているところや、足らざる点や、救いがたい欠陥があることだけが、2年の間に明らかになってきました。文章を書く人として、楽山は、品がなく、とても下劣です。
 
昔、見かけたことのある、お祭り騒ぎの乗りみたいに、祭りの出店でタコの入ってないタコ焼きを売るような、下品なインチキ商売だということを、楽山自身が、次々に表しています。
 
楽山やシャロームのような人物が、いちばん、真実を追求する人たちを、自分のインチキレベルにおとしめたり、カウンセリングする人たちの邪魔をしたりする、とても悪質な半端者なのです。
 
世の中には霊好きな人…この手のことにどうしてものめり込んでしまわないではいられない人もいるだろうけれども、一般的にはそういうことはほどほどにしておいた方が無難だろうし、できればはじめから近付かないのが一番だろう。触らぬ神に祟りなしというのは本当だと思う。
 
霊好きな人と、まるで他人事のように言っていますが、霊に固執してきたのは楽山です。というより、触らぬ神に祟りなしと言うなら、霊のことなど、書かなければよいのです。ここは、ある意味、批判者に対する脅迫とも受け取れるでしょう。ヤバい本性です。
 
「触らぬ神に祟り」・・悪質です。遠回しに宗教を否定しています。しかし、今までのことから、楽山が考える宗教は、オカルトであって、真の宗教ではないと判断しています。楽山が、分からないくせに、宗教を語るのは、結局、自分の偽霊能を宗教がらみで、認めさせる詭弁なのでしょう。
 
知情意の整わない者が、自己愛が高じて、自分は特別なんだと思い込みたくて、数々の思慮と情緒の破綻を指摘されても、他者に笑われても、なお、お気楽に、霊が分かるっぽい自分を、安易に短絡した記事を書いて、霊を聞くことはあるんだ、などと吹聴しているだけなのです。
 
何故なら、霊が分かるっぽい楽山は、まるで、人間が分かっていない。さらに、人間の信仰が分かっていない。理路が詭弁だらけで通っていない。情緒が鈍くて、感受することが、いずれも幼稚な夢物語か、おとぎ話の類(たぐい)になっています。
 
実質が何もないのに、自分を特別な霊的存在だと思いたがるのは、ナルシスト+オカルト趣味の、末路なのでしょう。
 
かつ、楽山は、その欠陥を全く自覚せず、反省せず、学習による訂正をせず、自分が特別という前提にしがみついているので、成長のない訂正不能の穴グラに居て、過大な自己愛によって、ひたすら、発信だけを繰り返して、恥に恥を重ねていることに気づかないでいます。
 
どこにも通用しないし届かない妄想世界の作り話ですから、騙される人が出てこないように、私は、批判記事を書いています。よく平気で、ネットに出てきて、書けるものだ、というレベルの文章ばかりなのです。
 
こういう、見かけだけ優しい易しいボンヤリ言語で、詭弁、印象操作、刷り込み、マインドコントロール、というのが、知らずに感染して、いつのまにか同じような人格破壊の病巣に進行してゆく、という楽山のやり方です。
 
楽山は、決して、スピリチュアルを云々できる人ではありません。要・警戒、というより、要・否定だと思います。社会の敵としての特徴がそろっています。
 
決して、楽山の言を、吸い込んだり飲み込んだりしないでください。既に受け入れてしまった人は、できるだけ早く、汚物入れか何かに吐き出してください。そして、逃げてください。
 
楽山の影響下にいることは、とても危険です。楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするからです。
 
 
(2020年03月23日、同日一部修正)
 
(2021年03月25日、再録+) 
 
 
 
神と人の違い、神とキリストへの思いの違いについて書いたこと。
 
  神とキリスト
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない
 
(ずっと昔、再録)
 
 
※ 
 
屁理屈をこいて、神がいるなら悪がはびこるのは変じゃないか、という、整っていたら信じるけど整わないから信じない、神はいない、と言う者の詭弁に惑わされないでください。
 
楽山は、詭弁を弄します。つまり、詭弁だらけの文章を書きます。数か月だまされていた体験に基づいて、私は、約2年の批判記事に、そのことを書いてきました。
 
楽山は、あらゆる精神の生産活動において、人間性の健康な精神活動の阻害因子でしかありません。楽山が自分を出してきたら、生産的な心の活動が阻害され、疲弊してゆきます。今まで、ずっとそうです。そこで、ニヤニヤして自己満悦することことが、楽山の生き甲斐であるかのようです。
 
楽山は、自我が過剰に強いために、神を机上のキャラクターのように扱って、理屈に合わないからと、嘲ってきたのです。その楽山は、神が合理ではないと言っているが、いちばん非合理なのが自分だということに全く気づけないのです。
 
反キリストと言っていいような体質的悪意の詭弁屋が、手段を選ばずに、キリスト教の信仰に、屁理屈で、いちゃもんをつけてきます。無反省・無責任・無理解・無神経の者です。加えて、何を返しても、不感不応・訂正不能です。交流も議論も、全く成立しません。
 
インチキな反キリストは、何も答えられないほど、理路は破綻し、心は鈍麻しています。他者に文句をつけてきますが、無反省と書いたように、自分を斬ることも見ることも出来ません。
 
どうしようもない災いがあるから、人は神に救いを求める、という心情が、楽山には分からないのです。それで、逆に、神が、災いが起こるのをどうして止めないのかと文句を言い、神を否定して悦に入る始末です。楽山には、人の悲しみに共感する心が無いのでしょう。
 
自我絶対の自分信仰から、常識も弁えず、同じ屁理屈を繰り返しています。罪悪感がなく、恥を感じることが出来ないのです。楽山とシャロームという宗教詐欺師のことです。
 
 
神が、キリストが、神聖が、人の理屈に合っているから信じるのではありません。
神が、人に分かるような合理なら、そもそも信じる必要はないのです。
 
信仰は理屈ではなく、聖書を読んでキリストに共感することです。
 
 
共感と反感

共感と反感
 
 
(2021年03月25日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  体質と言葉2
        (再録+)
 
 
体質とは、ここでは、
先天的または後天的に規定されるところの
その人の言動を特徴づける人格の意味で使っています。
 
(ネットより)
百科事典マイペディアの解説。
体質:
すべての精神的・身体的な人間の形質の総和で,遺伝と環境の相互作用によってつくられる。
 
思想・宗教の言葉は
それを表した人の言葉によってではなく
それに反対する人の言葉によってでもなく
それを発する人の体質によって
救いともなり
邪悪ともなる。
 
神の言葉は
受け取った人の言葉になると
人を生かすことがあり
人を壊すこともある。
 
こういうことがなぜ起こるかは神の秘密であろう。
以上は、認めるしかない事実である。
認めない者は、自分信仰になる。
 
神の言葉は
人の言葉となって
先ず、人は、
神と人の、そして、
神の言葉と人の言葉の違いを学ぶべきである。
 
神の言葉の真理は不可知であり
人の言葉の真実は曖昧に可知である。
 
この違いのみが、心掛けて弁えるべき信仰の節操である。
 
 
受け取ることと、信じ込むことは違う。
 
思うことと、、決めつけることは違う。
 
判断と、断定は違う。
 
救いの希望と、不変の境地は違う。
 
いずれも、前者がキリスト信仰である。
 
絶えることがないのは、
常時の平安ではなく、
必要なときに
祈りに答えて与えられる癒しと平安である。
 
人は、受け取れるものを受け取るが、
信仰が、物としてのプレゼントと違うのは、
受け取って忘れるのではなく、
受け取ってそのまま置いておけるものでもなく、
即ち、固定できるものではなく、
いつも人生に必要だから否定できなくなることであり、
 
それは、信仰が、
固定して揺るがないのではなく、
忍耐強く求め続けるものであり、
否定の判断が下せないほど必要だと思い、
希望し続ける祈りの生き方による。
 
それゆえ、信仰は、
いつも、新しい目覚めを求め続ける。
 
完全に知ることが出来ないゆえに、求め続けるのである。
信仰は、成長する。
 
正直な祈ることによって人は
神の偉大さとキリストの愛と共感を新たに知るからである。
 
 
異常な体質の特徴。
 
自分を責めることができない。
罪悪感がない。
しんみりと悲しむことがない。
自己中心にしか考えることができない。
 
思考と感情に深みが見られない。
短絡しやすく、上気しやすく、妄想化、固定化しやすい。
 
それゆえに
不都合において、自分の罪を認めず、反省せず、すべてを人のせいにする。
思慮深く理路を整えることができず結論的決めつけを繰り返す。
情緒面で、深い高等感情が発達しないし、
他者の意見を受け取っておらず、学習不能で、自己修正できない。
 
能力ではなく、異常な人格が、理路と感性を奪うからです。
ふつうに共感できることが、過大な自尊のために出来なくなります。
 
ゆえに、バランスが保てず、バランスが分からず、
ゆえに、大仰な讃美言葉や、世辞の褒め言葉、
そして、整わないまま結論を、でっち上げて、
作り話や、デマなどで、相手を侮辱するしかなくなる。
暴論も正論も理解できず区別できずに、
自分に都合の良い欲望の方向と、相手をおとしめ罵る言葉だけを繰り返します。
 
しかも、その間、高みから見下ろす嘲りが感情の表現として見られる。
自分が上だという立場から抜けられないために
相手を見くびった発言しか出来ず、そういう見下し言葉だけを探しては出す。
 
そういう者が、人の意見を聞く耳を持たず、しかも、上から教える態度だけに凝り固まって、万事が益となると信じ込んで、自分の利益、つまり、正当性の根拠として、よく引き合いに出しているのが以下の聖句です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
共に働くことなく、自説に慢心している者には、"万事を疫"病となるように、今に至る成り行きが出来ているようです。
 
決して、友達にも、仲間にもしてはいけない破壊的人格です。
批判するのでなければ、遠ざかることだけが最善の方法です。
 
 
(2020年03月16日)
 
嘲る(あざける)嘲笑い(あざわらい)
 
 
逃げなさい

逃げなさい
 
 
(2021年03月24日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山は、他者の言を引用すれば、責任はないと思っているようです。
 
しかし、例えば、リツイートなどで引用して、批判対象としないことは、引用の意図が、そのまま賛同か、利用したことになるという責任を、全く理解しないのが楽山の、自己愛からの自己中の病質なのです。口出しするな・・ということを、他者の口にしゃべらせて平気な楽山です。
 
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
·3月21日
何にでも口出ししてくるお節介な人っているじゃない?
そういう人はね、
暇なのよ。
別にアナタのことを気にしてるんじゃないの。暇つぶしなの。
 
他者を気にせず、暇つぶし、これは、まさに楽山のことでしょう。楽山は、おおよそ、関わるだけの真実も心得も持たない宗教とカルトの問題に、さも分かっているふうに、コメントや記事を入れてきます。
 
人の迷惑を考えず何でも自分勝手にやるのが自由だと思っているのです。それに文句を言っているのは、全部、余計な口を出すことで、お節介だといいたのです。
 
通らない屁理屈の刷り込みで、いちゃもんだけのボンヤリ言語で、真実に反する卑怯な迷惑行為をして、根拠もなく良いこと言っているつもりでいる裸の王様が楽山なのです。
 
そして、批判されると、このリツイートのように、他者のツイートから都合のよい文言を選んで当てつけてくるのです。自分で説明とか弁明とかが、全然できないからです。
 
それに、楽山が、暇つぶしで宗教・信仰・真実について書いているとしか思えないわけですから、とんでもない無礼な話であり、ゆえに、引用元に対しても、無礼な話であります。
 
以上より、このツイートを引用する妥当性は、楽山が、していること、してきたこと、言ってきたことなどを考えれば、どこにもありません。人のことを考えず、なりふり構わない楽山の自己中の病質が今回も表れています。
 
中途半端に相手すると、どんどん入り込んでくるから、
笑顔で一言こう言いなさい。
「あ、大丈夫です」
午後2:45 · 2021年3月21日·Twitter for Android
 
人を巻き込み、評論家気取りで、子供じみた幼稚な先入観で物を言い、かつ、責任は一切負わず、詭弁で言い逃れを書いて、全くの無反省でいられるような楽山は、ずいぶん前から、病質の者であり、全く "大丈夫" ではない、とても有害な人です。
 
前に書いたように、楽山の笑顔は、微笑みではなく、意地悪な、ほくそ笑みか、高笑いであります。それ以外に求めるものがないようです。また、他にすることもないようです。
 
楽山は、悪意と作為について、結果を気にしなければ、平気でいられると思っているようです。あらゆる結果を気にしないということは、正常心理では、ありえないことなのですが、楽山は、病識がないので、反省することもなく悔いることもなく生きていられるのでしょう。
 
そのようにして、何度も何度も、楽山は、自ら、醜い自分を表して、恥をさらしに来るのです。
 
 
(2021年03月24日)
 
 
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  危険人物2
 
 
危険人物とは
犯罪性の強い人でしょうか。
 
犯罪性の強い人は
日頃から乱暴であれば気づかれやすいでしょう。
 
しかし本当に恐ろしい者は
そういう印象から遠いところにいます。
 
聖書では
偽善者と言われています。
守っている
知っている
分かっている
見えている
という確信に満ちて
しばしば教えたがり
出来た人物と言われるのが大好きです。
 
自己愛性パーソナリティ障害とか
ナルシシストとか言われます。
反社会性人格障害とか
サイコパスという言葉もあります。
 
文字通り自己愛が強く
自我を自分で砕くことが出来ず
不備や欠点など自らの非を決して認めず
罪悪感がなく反省せず無責任で
あらゆることを自己中心にしか考えず
 
あらゆる不都合において
自分を責めることが出来ず
人のせいにします。
 
ときに丁寧語や幼児語のような
平易な言葉で表し
精神療法のように優しく言って
柔和な自分をアピールします。
 
自己顕示欲が強く
気障(きざ)で衒奇(げんき)的で
"ひらめき"を誇示して
繊細な神経を持っているかのように
一見、上品に振る舞います。
 
しかし
高等感情が無いために
人に対する思いやりや配慮に欠けていて
人と共感することが出来ません。
 
ネガティブな忠告をすることを遠慮せず
あらゆる深謀遠慮が不可能で
自制することが出来ないので
相手が傷つくことを配慮して遠慮する
ということが出来ません。
 
特に自らの失敗を処理できずに
弱そうに見える誰かに対して
情報不足や無遠慮などお構いなしに
不向きや不適正のマイナスの忠告めいたことをして
アドバイスしたのだからと
いいことをしたかのように自己満悦します。
 
「向かないと思うね、うん」
「ひらめきとしてね」
「かなあ」「言えなくもない」などの語尾
などという「ね」付きの気色悪い丁寧語には
十分注意しておく必要があります。
 
実際は侮辱であり
受けた側は長くトラウマにさえなりかねないので
そういう人ととは
まともな付き合いなどしないことです。
できるなら遠く離れて関わらないことです。
 
出くわしたり何か言われたときは
そういう人だと分かったときも
逃げるしかありません。
あるいは言い返すことも出来そうですが
言い返しても根腐れなので不感不応です。
 
偉そうな態度と併せて
謙虚そうな芝居をしますから
うわべの評価は一定しませんが
一度被害に遭うと一生忘れることはないでしょう。
 
自分を責めることが出来ない人です。
責められると、いつでも
腹いせの復讐を考えるような
陰険な原始反応しかできない人です。
 
勝ち負けと快楽原則で世渡りをしていて
人に勝つこと負けないこと優ることを生き甲斐とします。
その前提で謙譲芝居をしてインテリぶっていますが
実際には真の勝利など全く知りません。
 
褒められることを快感としますが
人格的に欠陥があるので、多く失敗します。
それらを知られることを何よりも恐れています。
 
欠点を隠すことしか出来ず
生産的に反省し修正することが出来ません。
 
思想は通念的で独創性がないので
気取った言い方で、うわべ賢そうに見せかけますが
正体が分かれば、いちばん、つまらない人
そして、嫌われる人なのです。
 
人格者として一定の尊敬を得ている場合がありますが
まともに見せかける芝居をしているだけです。
 
実際は、偽善者であり、人間らしい温もりがなく
冷淡で、自己満悦か、快と不快の快楽原則しかなく
大方、結局、怒りと怨念だけになっています。
 
しんみり悲しむことが出来ません。
だから共感が出来ないのです。
 
代わりに共感という言葉だけだったり
芝居をするだけの大根役者です。
 
彼らは、宗教・教育・医療など
人の命や人生を左右する仕事についてはいけない人です。
 
しかし実際、数式だけは得意だったり
口だけ達者だったりすることがあり
宗教や神秘や超常に関心を決めつけていたりもします。
人によっては
医者だったり、医学生だったり、指導者だったり、
ある程度の知的職業についていることもあります。
 
宗教家や思想家や評論家などのインテリ気取りを伴うこともあるでしょう。
 
しかし人の悲しみに共感することが出来ないのです。
対等の立場においての共感や同情を感じることができず
いつも上から下へ見下ろして教えを施してあげる態度であり
人には反省が必要などと白々しく言いますが
自らの非を認めず反省することがありません。
 
最悪である偽善者は
不快を感じても
悲しみを感じない人。
 
いつも丁寧で礼儀正しい外面を持ち
言動の乱暴さが見られるとは限りません。
しかし
追いつめられると手段を選ばなくなるでしょう。
 
気をつけてください。
彼らは
演技と思い付きの
気の利いた言い方をして
慢心して
・・腐っています・・
 
 
危険

危険
 
 
(2020年03月20日)
 
(2021年03月23日、再録+)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
取材するには許可を取るというのは、マナーとしてその方が望ましいのは当然ではある。でも常にそうしなければならないというのは極端すぎる。
それでは取材される側のご機嫌をうかがうようなことしか書けなくなってしまいかねない。この辺りについては、藤倉氏のいうことに理がある。
午前11:39 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
「取材される側のご機嫌をうかがうようなことしか書けなくなってしまいかねない」ということから、楽山が書くのは批判を含む記事であることを、楽山が、表しています。
 
しかし、楽山は、ご機嫌取りの丁寧語とボンヤリ言語を書き、そして、そのような返しを悦ぶようです。ここでも、人のことを言って、結果として、自分のことを表してしまっている楽山です。批判して、それが自分に返ってくる "ブーメラン" が繰り返されています。
 
なお、批判の場合は、いちいち許可を取ることは、マナーとして望ましいのが当然・・ではなく、必要ないのです。何故なら、批判は、批判対象に、苦言を呈することですから、無視する人はいても、許可する人は極めて少ないからです。それでも書くのが批判です。
 
そういう批判を、ことごとく無視して受け取らず、何事もなかったかのように振る舞い、書いてくるのが、嘘つきで偽善者の楽山その人です。そういう人の場合、批判だけが続くことになります。
 
批判には、許可ではなく、根拠を示すというマナーがあります。それを無視して、好きなように、いちゃもんを書いてくるのが、楽山その人です。それは、批判を返すことではなく、ただの悪口に過ぎません。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教を、幼稚な先入観で、つまり、机上の先入観の固定観念で、繰り返し、無根拠に、無神経に、同じような文言で、おとしめてきました。
 
ご機嫌取りとして、楽山は、優しそうな丁寧な言葉を使います。つまり、楽山の優しさは、世辞で取り入るための方便、つまり、便宜上の手段に過ぎません。
 
批判は、一つは、相手に間違いを改めるように説得することですが、自己中で訂正不能の楽山には無効です。理路の破綻と高等感情の鈍麻によって、理解が進歩しない曲解として固定しています。その有り様は、楽山の、カルト的体質を表しているのです。
 
ゆえに、もう一つの批判のあり方として、相手が不当であることを、一般に敷衍して、注意を促すことになります。不感不応の楽山に対する批判がそうです。批判対象に関わらないように注意を喚起するための批判です。警鐘とも呼ばれます。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
·18時間
人殺しになりたくて入信した人は一人もいない。そんな彼らがなぜ加害者としてこの最期に至るのか、その背景を丁寧に理解しようとしないままでは、いつかどこかでまた繰り返される。
地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉” 
#地下鉄サリン事件 #オウム真理教 #文春オンライン 
午後5:25 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、なぜ、加害者に至っているのか。その背景を、楽山自身が、述べようとしないのだから、知る由もないのです。@rakusyo raku のような生い立ちなのでしょうか。
嘘吐きの楽山という履歴を積み重ねてきたのでは、何も信用できないし、何も解決しません。
 
何よりも、楽山が、無反省・無責任のままで、何も変わりはしないのです。変わることなく、嘘を吐き、偽善者でありたい、などという薄笑いのパーソナリティになりたい人がいるとは、信じがたく、驚きであり、脅威であり、恐怖であります。
 
楽山が、バラまいている精神の毒は、喩えるなら、水銀か鉛のようなものです。気づかずに受け入れていると、やがて、耐えがたい痛みに襲われるか、あらゆるところが傷んでくるのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
家田さん、宏洋さん、どちらの動画もおもしろい。絵文字(口を開けて笑っている顔)
お二人の様子は、家田さんの動画の方が和んでるみたいだから、こちらの方があとに撮ったんだろか。絵文字(考えている顔)
個人的には、宏洋動画の最後、これ以上突っ込んだら動画で流せなくなる…が、えらいウケた! ははは。大爆笑
午後7:16 · 2021年3月21日·Twitter Web App
 
楽山は、カルト批判をしているはずですが、このように、絵文字を入れて、繰り返し大笑いするのが、悦楽なのでしょうか。高等感情が育たず、原始的な感情だけになっているのでしょう。
 
楽山は、感情が、一つは陰性の怒り憎しみ恨み、もう一つは、微笑ましい嬉しい喜びではなく、誰かを低く見て、面白おかしいと感じて、大笑い、高笑い、バカ笑いすることなのだろうと思います。
 
 
(2021年03月23日)
 
 
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  楽山の邪魔
 
 幸福の科学とは何だろう? 楽山ブログ
 建造物侵入騒動の行方(「幸福の科学」広報チャンネルの動画と個人的な感想)
 2021年03月21日 ツイッター引用を含む。
 
 
勝手に言いたい放題言うのが、楽山の趣味であり、そのために、役に立たない曖昧な意見が、正当な雰囲気を出して、言論を乱すことになります。真実の追求という重大な問題に、思いつきだけの楽山の口が、侵入して、迷惑を省みないという邪魔になっています。
 
*個人的な感想
前記事に貼った関連記事を読み、当該動画を見て、疑問に思ったところをつぶやいてみたので、それもここに保存しておきたい。
 
無反省・無責任の楽山の言は、本当に、余計な、つぶやき以上ではありません。真に受けると、真っ当な理路を乱すことにしかならないでしょう。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
これは正論とは思うのだが、
各種報道では、藤倉氏はHSに批判的な記事を書いたゆえに、HSから出入り禁止されたことを裁判所は認めたとしてる。
そのため、これは「言論は自由です。でもHSに不利な発言をしたら、相応の責任をとってもらいます」と聞こえてしまう。。😰
 
言論の自由には、責任が伴うという当たり前のことです。それを、楽山は、不当だと言っているのでしょうか。ただし、言論の責任を果たすことは、言論においてなされるべきであります。言論したら強制排除、というのは、言論の自由を脅かす行為であり、明らかに不当なのです。楽山は分からないのでしょうか。また的を外しているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
独裁国家では、移動、取材、写真撮影には許可がいるが、
日本は独裁国家ではないから、移動、取材、写真撮影は原則自由だと思ってたけど、これは間違いなのだろうか。
そりゃあ、権利者の了解を得るのがマナーだろうが、どんなところでもそうしなければならないというのは極論すぎるのでは?
 
楽山は、原則とは何かを書いていません。旅行で風景写真を撮るのは、大方、自由でしょう。「権利者の了解を得るのがマナー」ではありません。いちいち、そんなことできないからです。
 
許可の必要な施設や場所や秘密の場所はあるでしょう。そういうところでは、前もって、そういう表示をすることになるでしょう。そういう表示が為されていなければ自由なはずです。事情の詳細が分からないし、私のテーマではないので、この件は、ここまでとします。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教団側は施設内の平穏を乱されたかのように主張するが、監視カメラ画像を見る限りは、特に平穏が乱されているようには見えないというのが正直な感想です。
内部撮影については、信者数1100万以上と称する教団の実態を知る上で、人影なく閑散とした施設内の様子をとらえることに価値はあるでしょう。
 
上と同じで、画像だけで「特に平穏が乱されているようには見えない」と言うような、楽山のボンヤリ曖昧言語や、また「様子をとらえることに価値はあるでしょう」という楽山の主観の価値判断で決められることでもありません。
 
語る資格のない者が、自己中の主観で物を言えば、こういう勝手なメッセージになるということです。
 
*偏向してる?
もしかしたら、上のツイートを見て、「あなたは教団に批判的にすぎる」という感想を持つ人もいるかもしれない。
これについては、自分は次の二つのことを念頭に置いて考えをまとめているとこたえておきたい。
まず一つは、今回の件は次の流れの中で生じたものだということである。
 
楽山の、言いたい放題の言論も、流れの中で明らかになってきました。楽山は、自分の流れだけは、分からないようです。今回も、他者の悪の追及だけをして気分がよさそうです。
 
当初は、幸福の科学と藤倉善郎氏とは、極端に険悪な間柄ではなかった。職員の里村氏と藤倉氏とのおもしろい掛け合いもあったように思う。
 
具体的に書かずに、「おもしろい掛け合いもあった」ことが、険悪ではなかったことの根拠になるでしょうか。裁判に関わる問題を、まことに、自分の欠点にはまるで気づかず、楽しみたいだけの評論家気取りの楽山は、興味本位の、面白半分の、雑談か冗談のような言い方で書いています。
 
しかしながら、幸福の科学は、藤倉氏の書く記事に不満をいだくようになり、氏に圧力をかけはじめた。
その結果の一つが、今回の建造物侵入うんぬんということである。
これはかなり簡略化した経緯説明ではあるけれども、裁判所も大筋はこのような理解らしい。
カルト新聞によれば、判決要旨は次のようなものであるとのことだ。
→確かに、被害法人への取材の必要性が存することは否定できず、被害法人が被告人の施設への立入禁止の決定をした最大の理由が、被害法人に関する批判的な内容の記事を書いたこと(しかも後に民事裁判で真実性が認められている。)であったことがうかがえること、被害法人内では被告人を貶めるような書籍を刊行するなどなどに照らすと、被告人を一律に排除しようとする被害法人の意思決定のあり方の当否については議論の余地もあろう。
・やや日刊カルト新聞: 「曖昧な判決」「報道の自由は死んだ」建造物侵入事件で執行猶予付き罰金判決を受けたジャーナリストが弁護団と会見
 」
もう一つは、世にいう幸福の科学事件である。幸福の科学は過去に、次のような判決を下されたことがある。
・幸福の科学事件 - Wikipedia
幸福の科学事件(こうふくのかがくじけん)とは、宗教法人幸福の科学およびその幹部らが、元信者および代理人弁護士らが行った民事訴訟およびその提訴記者会見が名誉毀損であるとして損害賠償請求訴訟を提起したところ、この訴訟提起が、「批判的言論を威嚇する目的」でなされた不当訴訟であるとして、代理人弁護士に対する損害賠償が命じられた民事裁判の事例である[1]。
請求金額が不相当に高額な場合に、当該請求自体が不法行為となる可能性があることについては複数の判例が存在するが、この事案はその中で、批判的言論を威嚇する目的で名誉毀損を理由とした請求をしたものであり、いわゆる不当訴訟のうちに「批判的言論威嚇目的訴訟」(スラップ)という独自の類型を成立させるものとなった[1]。
・・・
1997年1月7日
合計8億円(幸福の科学に7億円、その職員ら2名に各5,000万円)の損害賠償)
 」
この二つを念頭に置いて考えると、自分にはどうも、この件は批判的言論を封じることこそが目的であって、建造物侵入うんぬんはただの口実としか思えぬのである。そのため、どうしても幸福の科学に対しては厳しい見方になってしまうのだ。はてさて、これは偏った見方であろうか。どうだろう?
 
問題は、司法の判決であるのに、楽山は、「批判的言論を封じることこそが目的」という、誰でも分かることを書いています。
 
その主張の根拠に、判決例をあげていますが、これは、楽山が、前のは良いが、今のはいけない、という判断を、しているだけです。つまり、楽山の判断のままであって、それを語っても、主張の根拠になるものではありません。楽山には、いつも、結論しかないことが表れています。だから、物知りふうに書いて、刷り込むしかないのでしょう。
 
*裁判所の判断
ちなみに今回の件について裁判所は、上のように教団が藤倉氏に対して施設への立ち入りを禁じたのは、批判的言論への圧力であることを認め、問題視しながらも、どういうわけか藤倉氏が施設に立ち入ったのはけしからんし、この裁判も公訴権濫用ではないとしている。
 
ということは、楽山は、施設に立ち入ることを是とし、今回、原告側が控訴権を乱用しているという主張のようですが、楽山は、自分が必要だと思ったら、建物にも侵入するが、そのことで裁判を起こしてはならない、というのでしょうか。楽山の自己中が表れています。
 
何よりも、根拠が示されておらず、結論からの主張を言い張っているだけなのです。現状に居合わせたのなら、あるいは、詳しく情報収集したのなら、そう書くべきですが、そうではないのでしょう。
 
他人事を、趣味で扱って、好きなように言って満悦する楽山の自己愛性病質が表れています。流れに乗って漂流するしかない者の、ちょっと見ただけの無根拠の思い込みだということでしょう。
 
司法の流れがおかしいというなら、司法についての根拠を示せないなら、自分の持っている思想からの根拠を書くべできですが、そういう一貫性のある思想を、楽山は、まるで持っていないのです。
 
①本件公訴提起は公訴権濫用にあたるか
→弁護人は本件の公訴提起は(中略)公訴権濫用にあたり公訴が棄却されるべきである旨主張する。しかし、(中略)弁護人の主張は採用できない 
・やや日刊カルト新聞: 「曖昧な判決」「報道の自由は死んだ」建造物侵入事件で執行猶予付き罰金判決を受けたジャーナリストが弁護団と会見
 」
自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれないが、藤倉氏への施設立ち入り禁止は批判的言論の封殺、報復であろうことを認めながら、今回の件は公訴権濫用ではなく、施設内に立ち入ってもならぬと結論づけるのは、どうにもつじつまが合わず、捻じれがあるように思えてならない。
 
専門家でないなら、一ブロガー発信として、的外れにならないような書き方をするべきです。自己愛者の楽山には、それが出来ないのです。
 
一つの意見ではなく、いつも、全部分かっているような書き方をして、「自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれない」と書いても、とても臭い言い逃れに過ぎません。
 
裁判所が、必ずしも正しいとは言いませんが、事件ごとにバランスを取っているということはあるでしょう。それが正しいかどうかは、楽山のような自己中の単純命題で出来ている思考には判断できないことです。
 
極めて幼稚な考え方として、司法は、いつも、同じ側の味方をしなければならない、という決めつけの先入観的な定理があるようにも思われます。
 
この件はこれで終わりではなく、まだ続きがあるようだが、この判決は改められる可能性はどのくらいあるのだろうか。どうなるかはわからないが、この件は引き続き注視していきたいと思う。
 
楽山は、いつも、かっこつけて、出てきては、もっともらしいことを書いたつもりで、そのたびにピント外れだけが明らかになってきました。
 
楽山は、注視すると言っていますが、今まで、不注意な記事とツイートを書いてきたのです。真実追求において、楽山の破綻した理路は邪魔になるだけです。誰も関わらないことだけを願っています。
 
カルト的で未熟な精神と、訂正不能の超越意識で、客観的に書けると思っている病質者ほど、厄介なものはないということが、今回も、うんざりするほど明確に表れているのです。
 
人の言うことを聞かずに、言い張る、ということが続いている楽山には、正義感ぶれば、その分だけ、隠している罪と悪と偽善が、明らかになってゆくでしょう。
 
カルトの元信者というのは、カルトから抜けて、カルト批判者として、回復した人間性を発揮してゆくのでしょう。しかし、楽山は、元HS信者と言いながら、霊が分かるっぽい自覚から、自身のカルト妄想へと悪化し変性しているのです。
 
しかも、楽山の思想は、主張すれば、人を疲労させ、傷つけるだけですから、真面目な人間関係を持つことが出来ないのでしょう。好きなように別の複数のHNで成りすましているような気がします。
 
年齢・職業不詳で、隠していますが、恐らく、リアルならば、ひどいことになっている人です。
 
つまり、楽山の人生は、自分は特別と思いたいための、反宗教と、右翼思想と、自分カルト妄想とを、浮浪者のように、さまよい歩いているのです。楽山は、自らの不遇から、敵意・悪意だけを育ててきたからです。
 
 
じゃま

じゃま
 
 
(2021年03月22日、同日一部修正)
 
 
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