ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年04月

 
  見当違い2
 
 悟りとは何か?(『漱石全集月報』)
 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、二人の小説家の言葉を、単純と言っています。単純なのは、楽山です。
 
野村傳四氏によると、夏目漱石は悟りについて次のように言っていたそうだ。
私は途中、先生に「悟り」と云ふ事を御尋ねしたら、先生は言下に「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」と敎はつた事を明らかに記憶して居る。
(『漱石全集月報』岩波書店、1976年、p.355)
 」
これは「一切は過ぎ去ってゆきます」と言うように、目の前の現実をそのままを語っているだけで、言葉としては随分単純なものではある。
 
「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」の、同じ人間、過ちを犯す人間、という意味を、太宰の「人間失格」だったと思いますが「一切は過ぎ去ってゆきます」という時間の無常と言い換えが出来るでしょうか。
 
私は、前者を、同じ人間、後者を、過ぎ去って消えてゆく、空しい、という意味に受け取りましたが、楽山は、説明もしないのでしょうか。いつもながら、乱暴です。
 
さらに、「目の前の現実」を無視して、嘘と詭弁ばかり書いてくる楽山よりは、「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」も「一切は過ぎ去ってゆきます」も、人間としての、限界や悲哀という深い意味に結びつく言葉なのです。
 
楽山は、それが分からないのか、また、自分で広げて考えることが出来ないために、自分の未熟と不足を嘆くのではなく、「そのままを語っているだけ」「随分単純」と、小説家のほうをおとしめるという厚顔を表しています。
 
こういう、できない自分ではなく、できる人を低く見ることは、自己愛性人格障害であることの根拠の一つとなるでしょう。才能とか読解力とかで、ありもしない持ち物を、あると思い込んで批評する誇大妄想性の愚かさです。
 
でも自分はミジュクであるせいか、いまだにこの考え方を身につけることができていないのだから恥ずかしい。言葉の意味は分かっているつもりなのだが、どうにもこうにもこの言葉通りの思考ができないのだ。
 
上で、眉を潜めたくなるような誇大・尊大を、楽山は示しておきながら、ここでは、白々しくミジュクと書いてくる・・全て、芝居だという証拠であります。未熟の自覚があるなら、上の「そのままを語っているだけ」「随分単純」などと言う言葉遣いはしません。
 
楽山は、言葉の意味が分かっているつもりと言っています。違うんじゃないでしょうか。それと、これらの言葉は、思考を表しているのでしょうか。人生観だと思いますが。楽山は国語を語れない人のようです。しかも、傲慢です。だから、未熟ではなく、「ミジュク」という、ふざけた書き方をしてしまうのでしょう。
 
生まれつき、根がどこまでも理想主義者にできているせいか、
 
楽山は、利己主義であって、理想主義者ではないと思います。何故なら、宗教の理想も意味も、分からないのに否定し、あざ笑っているだけだからです。
 
いったん相手に惚れ込んでしまうと、極端に美化して神のような存在にまつりあげてしまったり、はたまた臆病で被害妄想の癖があるせいか、相手によくない印象を持った時には、その人は悪意に満ちたモンスターかなにかのように決めつけてしまったりして、ついつい相手も自分と同じ人間だということを忘れてしまうのだ。これは本当に反省しなければならぬ。
 
この部分は、人間としてアウトになるようなことです。こういう人になってはいけないということです。極端に美化、神のような存在、被害妄想の癖、悪意に満ちたモンスター、など、悪い例をボロクソに書いていますが、楽山は、これを、婉曲的に、批判者に向けたいのでしょう。
 
楽山は「ついつい相手も自分と同じ人間だということを忘れてしまう」と書いていますが、相手を人間とは思えないほど異常だと思うとき、つまり、無反省、無責任、不感不応、訂正不能、自己愛性、人間的配慮の欠損など、自己中に徹底している者に対しては、人間だからお手柔らかに・・ということは、除外されます。精神病質に対しては甘くなってはいけないからです。
 
無反省という実績しかない楽山が「本当に反省しなければならぬ」と書いています。このように、反省という言葉だけ書いてくるのが、楽山の特徴です。「ついつい」「忘れてしまう」「反省しなければならぬ」と書いていることが、楽山が、今まで、そうしてこなかった証拠になります。
 
謙虚芝居も、良識的センスが病質のために欠損して、ここまで、下手くそになると、バレるわけですし、バレた以上、楽山の立場など、どこにもなくなっているのです。何も書く資格のない人が、自己顕示欲と我執で書くと、こうも白々しいことになるという例です。
 
信仰は、このような言い訳めいた反省を勧めてはいません。神の前に正直であることは、ネガティブな言葉だけを当てはめて反省を装うこととは、全然、違います。自己愛性をごまかすために、妄想を癖という軽さで言ったり、気楽に「ついつい」と書いて反省したつもりになるのとも、全然、違います。
 
この違いは、楽山の虚偽によるものです。楽山の自己愛は、癖ではなく、病気なのです。それが、言い訳にも表れているということです。
 
楽山と太宰は、違います。太宰は嘆くべきことを嘆いていますが、楽山は嘆いたことなどない人だと思います。悲劇のヒーロー芝居でしょうか、気取りでしょうか。太宰や他の小説家を持ち出しては、最も恥ずかしい自分の下劣さを表してしまうのが、楽山の常となっています。
 
楽山が、次から次に書いてくる言い訳は、とても見苦しい詭弁ですから、成り立つことはなく、根拠もなく批判者を侮辱し、かつ、有名人の言動を恣意的に悪用する悪意の産物として、さらに批判記事という資料を重ねる結果と経過になってゆきます。
 
楽山は、時に、反省と書いてきますが、その前と、そのあとで、何も変わらない筆致であることと、自らを省みず人のせいにばかりする姿勢と態度が、まるで変わらないことをもって、逐一、見せかけだけだと、言い逃れだと、否定されてゆくのです。
 
そういうことも、楽山批判に組み込まれているのですが、楽山が気づかないということこそが、病的ナルシストの症状として記録されてゆくでしょう。
 
そういえば随分前に見たジョン・レノンのドキュメンタリーでとても印象的な場面があった。ジョン・レノンは自宅の庭内に忍び込んできた熱烈ファンらしき若者に対して、自分の姿をよく見ろ、他と変わらぬ人間だろうとか何とか言っていたのだった。
 
また、同じ人間、ということを言っています。どうやら、記事の文脈には、とても臭い作為があるようです。楽山は、同じ人間ではありません。「とか何とか」ではなく体質的異常者です。
 
どうも自分のことを英雄視したり、偶像化するなということらしかった。そしてその後は、しょんぼりしている若者に朝食は済ませたかを問いかけ、まだなら食べて行けと優しく声をかけていた。
これはヤラセ無しの事実だったのか、それとも脚本があったのかは分からないが、どちらにしても名場面であろうし、ジョン・レノンは「彼も人なり我も人なり」を悟り、身につけた人だったのだろうと思う。
 
ジョン・レノンの行為は、同じ人間ということなら、ヒーロー願望からは対極にあるでしょう。また、悟りと言うほどの、珍しい発想でもないでしょう。当たり前のことを、実践的に掘り下げたかどうかということでしょう。楽山は、格言を、誇大妄想で、勝手に結びつけています。
 
楽山は、違う人の言った言葉に勝手に結びつけて、まともぶって、都合のいい意味付けをして、また、著しい曲解によって、人をけがしています。どこまでも、教える立場に立てない楽山が、毎度毎度、話にならない文章を、気取って書いてくる厚顔無知に呆れます。
 
でも自分はこの場面を思い出すたびに、やっぱりジョン・レノンはすごいと、ますます神格化してしまっているのだからどうしようもない。自分がこれを悟るにはまだまだ時間がかかりそうだ(笑)。
 
ますます神格化、というのは、楽山の言葉の信頼度ゼロという私の立場からは、むしろ、楽山の、こんなに自分は特別なのに不当に扱われているという恨み、いわゆるルサンチマンを感じます。だから、こういう種類の文章に不似合の「悟る」などと書くのでしょう。
 
楽山の、人を上から見る「(笑)」は、苦笑いではなく、苦笑いを装うだけで、あらゆることを軽視して、掌か机上で軽く扱って、分かってるんだと言ってしまう尊大な態度なのです。そのような卑下の言葉をもって、改まるような自己愛性人格ではないということです。
 
ルサンチマンは、弱者に募る怨念、負け犬根性、負け犬の遠吠え、などとも言われます。
 
(ネットより抜粋)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
ジラールによればルサンチマンとは、乗り越えることのできない理想的モデルに対して誰もが抱く単なる嫉妬心にすぎない。
 
ルサンチマンは、意識されず、隠れていることが多いでしょう。楽山の今回の記事にも、隠れている、隠している、隠されている、とても暗いものがあるような気がします。暗い暗いところで悪意を燃やしている潜熱を、これまで、楽山は、性懲りもなく書かずにはおれない自己顕示欲によって、自ら醜い芝居の役者となっているのです。
 
楽山が隠している詭弁と誘導は、よく読まないと見えにくいが、とても邪悪な一方向をもって、病識も自覚もなく、人をおとしめてゆく攻撃的な悪魔性なのです。
 
 
闇の袋小路

闇の袋小路
 
 
(2020年04月23日)
(2021年04月30日、加筆して再録、同日一部修正)
 
 
※ 
 
 楽山のツイッターですが、国語の勉強もかねて。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福の科学では、公式でもこんな言葉遣いをするんですね 絵文字(にやにやした顔)
引用ツイート
幸福実現党政務調査会
@hr_party_prc
 · 4月22日
緊急事態宣言の発出とCO2の大幅削減を同時間帯に発表するとは恐れ入った感覚です。これはサービス業、製造業はじめ日本経済が何によって支えられているかを政治やマスコミが理解していないかの証しではないでしょうか。依らしむべしってか?「うっせぇわ」。
午前7:13 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 」
 
また、楽山の、開き直りの、にやにや顔文字です。公開でも「こんな言葉遣いをするんですね」ということを、既に、おかしいと言ってるのに、わざとやってくる厚かましい病的な自己愛です。
 
今までの、詭弁と嘘の履歴からは、言葉遣いについて、何も言えない楽山が、何も気にせず、好きなように言っている。つまり、図々しく、憎まれっ子世に憚る、という例です。
 
(ネットより)
憎まれっ子世に憚る
【読み】 にくまれっこよにはばかる
【意味】 憎まれっ子世にはばかるとは、人から憎まれるような者ほど、逆に世間では幅をきかせるものであるということ。
「はばかる(憚る)」とは、「幅をきかせる、のさばる」ということ。
はばかり【×憚り】
[名]
1 はばかること。遠慮すべきこと。「大先輩に対して何の憚りもない」
2 差し支えること。差し障り。「実名を出すのは憚りがある」
3 《人目をはばかる所の意から》便所。
[形動][文][ナリ]「憚り様」に同じ。
「お酌は―だが先生に願うで」〈二葉亭・其面影〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
はばか・る【×憚る】 の解説
[動ラ五(四)]
1 差し障りをおぼえてためらう。気がねする。遠慮する。「世間体を―・る」「他聞を―・る」「だれにも―・らず自由に生きる」
2 幅をきかす。増長する。いばる。「憎まれっ子世に―・る」
3 いっぱいに広がる。はびこる。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教祖がこんな発言をするとは怖い、怖すぎる…顔文字(絶叫した顔)
 
教祖が殺人を正当化したというツイートに付けたリツイートですが、「怖すぎる」と言いながら、まるで他人事のように、ネタと同じように、真剣味の無い絶叫の顔文字で、怖がり芝居をする楽山です。
 
こう言っている楽山が一番怖いと思います。大袈裟に怖がって見せるのは、他者が怖がるのを面白がりたい心境の表れです。怖いのだからと、わざわざ顔文字を付けるのも同じでしょう。絶句、唖然、本当の恐怖、という心からの表現を持たないのです。
 
原始感情だけがあって、高等感情がない、つまり、共感や思いやりのない者が、下手に感情を表そうとすると、こうなるという例でしょう。また、病質を表してしまう楽山です。
 
 
楽山は、深い思考力と感受性に欠けていて、遠慮がないので、いっそう、憚るようなことをしてきます。憚りのある人を、差し障(さわ)りの大いにある人を、憚らせてはいけません。批判目的以外で、楽山を相手にしないでください。改めて、本当に、ひどい文章です。
 
 
{2021年04月30日}
 
 
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  さかのぼる矛盾3+
 
 さかのぼる矛盾
 再録+
 
 
いたはずの先祖から
幾千年の恨みの坂を
今をさかのぼり
いずれ上らねばならぬ
 
経験は否定できない
個人にとっては真実になりうる
経験から与えられ考えたことは否定できない
しかしあまりに
出る杭は打たれて
マイナスの経験が繰り返されると
あらゆるものから身を引くことが真実になってくる
信じて待ち望むことが罪に思われてくる
御国に至ることも辞退すべきではないのか
 
母は恵方巻きを買ってきた
母と私で2本ずつ
恵方ってどこにあるんだろう
恵方に辿り着く確信があるわけでもなく
母は縁起を担ぐ
担いでおかないと不安な気分になるのだろう
母は南のほうを向いて弱った顎で
ぉんぐぉんぐと食らいつく
のどに詰まらせはせぬかと母を気にかけながら
私はむしゃむしゃと食卓でむさぼる
 
恵方というか
御国に辿り着かせてくださいと
祈ることも傲慢に思えてきて
この世の生が苦痛とともに
早く終わりますようにと
祈る先に神はいないかもしれないが
神は的外れの罪の祈りを聞いておられることを
神ゆえに人がいて
人ゆえに神がいることを
諦めきれずに
大いに矛盾して
否定できない経験と
大いに矛盾して
呂律(ろれつ)の回らぬ祈り
 
とても運が悪く階段のように
道を逸れてゆく阿弥陀クジなのかもしれない
 
主よ
私はそんなに良い人間ではありません
 
先祖を裏切り
父を裏切り
母を裏切り
人を裏切り
自らの矛盾をさらに裏切り
 
唇を切れるほど噛みしめながら
一歩一歩
絡みつく情の杭と
曲がった知の釘を
怒気の足裏に踏みひしぎ
幾千年の坂を上る
 
(2011年02月04日)
(2020年03月21日、一部修正)
 
※ 母は、今、介護付き老人ホームにいます。
 
 
  宿命と使命
 
 
幾千年の坂など
上れるわけもないのに
 
上る宿命を感じている
 
その坂以外に道はないかのように
 
引かれるような
引き裂かれるような
 
私は母に似ているがコピーではない
私は父に似ているがコピーではない
という当たり前のことなのだが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みであるかのような
血の筋の末端に居て
 
否定できないものが
私を縛るだけでなく
私を導いているのかもしれない
 
神はご存知であるが
私は何も知らない
 
罪の系譜
病の系譜
 
私がどうやって
福音の系譜にいるかと言えば
 
もし信仰がなくて
福音の系譜にいなければ
今、生きてはいないだろう
という否定の否定でしかないが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みの
それこそ父よりも母よりも
神に信頼しようとするのは
 
父と母の性格の中で
良くないものを私は既に持っていて
良いものを持っているかは不明であり
そこから逃れたい気持ちでもあったのか
 
神への全面的な信頼は
父への母への
他者へのそして自分への
全面的な信頼を否定し
依存を否定したいのか
 
しかし
そういう既知と不明からの自由や
コピーではない自由よりも
否定よりも否定の否定よりも大切なことは
 
他者よりも自分よりも大きな存在の命のもとで
地上における自我の必死と必滅の理(ことわり)よりも
神の存在ゆえに
人のわざの絶対を否定したのちには
人のわざの相対を生かすことだろう
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを好むからだ
 
 
さかのぼる矛盾

さかのぼる矛盾
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
渡辺みき四つ葉のクローバー@統一教会二世
@poo88888888
信仰の強制は虐待です。
【スピリチュアルアビュース】を広めたい。
小さい頃からこれが当たり前だと思ってた。
私たち、なんも悪くないよね。
親は間違ってたの?私は神の子なの?私は誰?
「異質」な私達を放置してきた日本社会が憎い。でもそれもきっと、この国ではしょうがないことなんだ。
 」
午後9:57 · 2021年4月26日·Twitter for iPhone
 
信仰はいやだが、スピリチュアルはいい、楽山の好みそうなツイートです。真面目に信仰を学ぶ気がなく、勝手にスピリチュアルを気取りたいからでしょう。こういうツイートを、字面だけ利用~悪用するのが、楽山の体質的な特徴のようです。
 
楽山は神の子?であるわけがないのは、ブログでもツイッターでも、底の浅いゴシップや、いちゃもんしか言えないような、つまらない人だということだけが表れてきたからです。
 
楽山の異質性は、高等感情の感受性がない、思慮が小学生のように拙劣である、反省し学習し成長することがない、などといった経過に表れてきました。
 
楽山は、罪悪感がなく、全く非を認めることがないので、いつまでもいつまでも、同じことをして、同じケチをつけて、同じスピリチュアル気取りでいられるのです。正常な人なら、目から火が出そうなほど、恥ずかしくなるところでも、笑っていられる異常性です。
 
一つには、文章の読解が殆どできないからかもしれません。あるいは、鈍麻した感受性と感情によって、批判されても、何も感じず、馬耳東風でいられるのかもしれません。ひょっとしてこの楽山の自己中は、スーパー・エクストラ・アドラー心理学的カルトなのでしょうか。
 
 
(2020年03月)
(2021年04月29日、再録)
 
 
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  凶暴な反復2
 
 
 2020年03月28日
 『若い読者のための『種の起源』』ダーウィン著、ステフォフ編著
 楽山日記(LD)
 
 
ダーウィンを持ち出してきました。そして、読んで大正解、納得できる、と言っています。科学の部外者の立場では済まない傲慢は、進化論でキリスト教とキリスト信仰をおとしめる狙いが以前からあるという理由によります。
 
楽山の凶暴性は、自己愛、自己中、訂正不能、そして、執拗な自尊の繰り返しで、評論家を気取る体質にあります。それは、何を言われても気に入らなければ平気で無視して同じことを繰り返す執拗な性癖に表れてきましたし、今回も同様です。
 
若い読者のための『種の起源』
「種の起源」は随分前にはじめの数ページを読んだだけですぐに放り出してしまい、そのことがずっと気にかかっていたのだが、本書はこれを簡潔、平易にしたものだとのことで興味を持ち、読んでみた。
 
ナルシストで楽山の興味は、いかにして、キリスト教をおとしめるかということで貫かれています。そのために、楽山は、聖書の通りに天地と動物と人間を創造したと信じて進化論を否定するがキリスト教だと決めつけています。
 
私は、最初に通った教会で、創世記は神話として読むことを勧められています。そのほうが、より多くの真実を受け取ることが出来ると、私も思っています。その読み方によって、生き生きとした人間の有り様と罪性が分かってくるのです。
 
しかしながら、凶暴な訂正不能の楽山は、わざわざ、創造論と言って聖書を進化論と並べる理屈としてしまって決めつけ、進化論という仮説のほうが正しいと言いたいようです。丁寧な書き方は、楽山の策略であることを強調しておきます。
 
楽山は聖書の読み方を知りません。また、事実と真理を決めつけないと気が済まないようです。そういう読み方では、神と人間の関係など、微塵も理解できないことをも強調しておきます。そのことを何度言っても、理解力がないのか、感受性がないのか、反省力も成長もないのか、楽山は書いてくるのです。
 
結果は大正解。本書は、生物学に無知な自分でも面白く読めた。序盤は頭の中で音読するようにゆっくり、徐々にペースを上げて行く読み方をして、ただ最近はどうも何事にも飽きっぽくなっているので、最後のところはやや流し読みに近くなってしまったのではあるが、それでもやっぱり面白かった。折を見て再読したい。
 
学習途上の人々を惑わすようなことを書いて、何が大正解なのでしょう。罪悪感と羞恥心がまるで育っていない楽山の、批判されると、反論どころか弁明どころか、無視しか出来ず、今回のような当てつけしか返せないでいて、なお、気取っていられる心性は、とても異常です。
 
シャロームと同様、全く話し合いの成り立たない人なので、成りすましの疑いもあります。他にも、親子など親族、仲間、組織の可能性も考えています。シャロームは、仲間が多いことを誇っていたからです。
 
内容については、他の本で読んで既に知っていることも多かったが、高地に点在する動植物についての話ははじめて読んだ。寒冷地の生物は氷河期のように地球全体が冷え込んでいた頃に南下し、生息域を広めるも、やがて地球の温暖化がはじまると、北に戻るものもいれば、高地へと移動するものもあったのだろう…云々と。同種の生物が離れた場所に生息しているのは不思議だと思っていたが、こういう理由があったなら納得できる。
でもこれと似た疑問として、淡水魚の場合はどうなのだろうと思う。たとえば、フナは日本全国の河川、湖沼に分布しているけれども、他とはつながっていない孤立した湖沼それぞれに生息しているのはなぜだろう。これにはどういう説明があるのだろう。
 
人の意見を聞かず、自分を支持するような情報、学者の言うことも対等の立場のように分かる評論家気取り、実は勘違いと思い込みばかり、・・そういうものを漁(あさ)って、分かっていることにしているとこうなる、という例になります。
 
進化論については専門家でも議論のあって不思議のないところですが、私は学者ではないので進化論の正誤については遠慮するわけです。しかし、楽山は、学者の言うことが分かる、納得できる、と言いたくてたまらないのでしょう。
 
淡水魚の場合は、なぜだろう、どういう説明があるのだろう、と分からないことがある自覚?みたいなことを書いていますが、楽山のように、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、本当のことを言うことが少ない、こうなってくると、分からないという自覚を書いても、本気ではなく、何らかの作為があるとしか受け取られないということです。まさに、"狼と少年"の話になります。
 
楽山が、分かったつもりのことは、楽山の、キリスト教に対するおとしめの筋書きに合っているからであり、分かっていると言いたい楽山は、それゆえ、進化論を讃美するわけでしょう。
 
実際には、こういう進化論のことを、いくら賛同して、書いても、キリスト教の本質には、何の関係もないのです。
 
楽山が謙譲芝居をするとこうなるという例でもあります。分かっていない自分を出すときに、分かっている自分を暗示してしまうボンヤリ言語は、楽山の筆致なのです。
 
学者の言うことを評論家のごとく語って、さんざん的を外してきたのだから、なにせ恐れも知らず霊が分かるっぽい、と思っている楽山ですから、もはや、ダーウィンという大きな名前を出しても、楽山の信頼度はゼロのままであり、いっさい、無駄なのです。
 
この記事を、分からないこともあるかのように中学生の感想文みたいに思わせるのですが、このわざとらしい書き方をしながら、一方で、キリスト教をおとしめてくるのだから、とても成長発達途上の人の感想文として読むことなど出来ない悪意の作為があるわけです。楽山の攻撃性は深く、性根は凶暴です。
 
また本書では創造論への批判がさりげなく挿入されているが、そのうちで最も印象深かったのはこの箇所だった。
自然を観察することで「このように美しく、精巧で、秩序ある自然が偶然に生まれるわけがない、設計者が存在するはずだ」と思わないではいられなくなることもあるけれども、それとは反対に「このような無残なことを創造主がよしとされたとは考えにくいし、もしこれをよしとされたのであれば創造主は人の情緒とは相当に異なった感性、価値観を持った存在だろう」と推定せざるを得ず、神は愛であるなどとロマンチックなことは言ってはいられなくなることもあるが、一体どちらが本当なのだろうと思う。
 
上に書いたように、楽山の言う創造論というのは、聖書の創世記をそのまま歴史の事実の主張として受け取って、神が創造したのならなぜ・・という疑問を書いてくるものです。
 
そうやって、楽山は、学ぶべき創世記を始めとする聖書を、興味本位の非人間的な超常話にすり替えて、固定観念として、自分はインテリだから進化論を支持するみたいな文脈にしてゆくわけですが、聖書も本も、まるで受け取る節操も弁えも理路の整合性も感性の貯えも持っていない自分を図らずも出してしまうわけです。
 
キリスト教の本質は、歴史の事実として創造を受け取るよりも、実存的に今も在ることとして、人間のあり方と罪性につながることとして学ぶべきであります。
 
キリスト教を、神が事実として聖書通りに創造したという信条を掲げている教派もあるようですが、私は、そういう受け取り方では、信仰の大事なことを、受け取ることにならない、あるいは、超常の話によって、むしろ受け取るべき真実が阻害される恐れがあると思っています。
 
楽山は、キリスト教内部での違いなど何の関心もなく、いつ書いても、みな同じように、創造と進化という対立の誇大的なテーマだけで扱い、おとしめようとしてきます。
 
楽山の机上にあるのは、複雑な問題を凶暴に単純化して、それこそ、楽山の狭い視野の中に、紙くずのようにぶち込んで丸めてしまった上での空論であることを知ってほしいと思います。
 
無残な有り様を呈している世界に、神がいるとは思えないという言い分は、無残な地上を生きるために信仰が必要と考える思慮を持たないで一途に神を否定したいだけの楽山のようなものが唾を飛ばして言っているだけなのです。
 
はっきり言って、地上の悲劇をもたらしているのは、楽山のような良心の欠けた人格~群像であります。そういう群れは、いつまでも、どこまでも、自己愛を優先し、平和や協調を持ち得ないために、破壊的言辞をもって、神と信仰者への憎しみをいだき続けるでしょう。
 
この辺りは人によって判断は異なるだろうけれども、これまでの時代の流れからすると、創造論と進化論とではどちらが優勢であるかははっきりしているし、
 
このように、楽山は、進化論が優勢だと暗示して、創造論の理屈におとしめて狭い引き出しに閉じ込めたキリスト教?をおとしめて、いい気になるのです。しかして、信仰については、何の助言にも、否定にもならないような、卑しいだけの自己顕示欲を満たしているのでしょう。
 
批判に対して、いかなる弁明もできないで詭弁で文句だけを言ってくる楽山に対して、同じように狭い引き出しに思想を閉じ込めるような人間にならないためにも、楽山の詭弁を正当な感じなどと思わないでください。
 
楽山という疲労物質は、人間として聖書も思想も受け取るということが出来ないようです。人間として発揮できる良心の働きがないから、人の迷惑を省みることがないのでしょう。
 
今後は宗教的感性が発達し、かつ一定の知性を持つ人にとってはそうではない人よりもいっそう生き難い世の中になって行きそうではある。
 
楽山は、自分が感性がないと言われたものだから、人に向けて、宗教的感性が発達、などと、人ごとにして、どこまでも評論家?的立場というより、人よりも高みにいる立場の気取りを守りたいようです。その実、やっていることは、言論において、邪魔にしかならず、相手にもならないようなものばかりでした。人を惑わしてまで、自分を高めたい者の体質なのでしょう。
 
将来的にはそういう人のために何らかの新しい道の必要性はますます高まってゆくに違いない。
 
新しい道に、遠回しに、賢者の一人として自分は大事な役を担う、という自尊が表れています。汚い欲望の、しかも、暗示的な高慢です。だから、書き続けるのでしょう。いつか、尊敬され、崇(あが)められることを信じて。
 
ここに、楽山という自己愛性人格障害の訂正不能の誇大妄想が横たわっているのです。
 
 
だいたい、信仰は、人間が生きるためにあります。そのために、大昔が、創造であったとか、事実であったとかは、決して大きな問題ではありません。楽山の言は、低次元であるだけでなく、冷淡で平板な情性と、同じことを繰り返す惰性(だせい)で、宗教を舐めただけの的外れです。意図的だからインチキだと言いました。
 
史実にこだわることよりも、人間は、元々、どういう存在であり、どういう性質を持っているか、ということに焦点を当てることが、宗教と信仰を考えるときには、よっぽど重要なのです。
 
そのことを考えれば、私は今まで、貧弱な頭と心で、努めて、書いてきましたが、聖書は、とても大切なことを伝えています。それが、楽山には、全く分からないのです。
 
何故かと言えば、楽山やシャロームなどの易坊類は、その教えに真っ向から背き続けている前提があるからです。嘘を吐き、詭弁を弄し、偽りを好み、自分を高みに置く、そして悔いない、・・全てが、人をだますための偽善の背信行為だから、分かろうとしない前提があることが、続ければ続けるほど、明らかになるわけです。
 
そのことを、いくら言っても、楽山のような者は、性懲りもなく保身のために、嫌がらせのような、学術めいた上辺(うわべ)を装って、偏(かたよ)って一面的な、そして、悪意に満ちた方向に誘導された文章によって、詭弁でしかない言説を、こともあろうに先人の名を悪用して、広めようとするのです。こうなったら、おしまいという病質の症例であります。
 
シャロームなどのお仲間を喜ばせたいということがあるのでしょうが、それ以上に自分を満足させたいだけなのです。
 
そういう者同士というのは、つまり、楽山やシャロームなどの易坊類は、その幼稚さ、執拗さ、嘘と詭弁、悔いない厚かましさ、悪だくみ、などの点で、実に、よく似てくるのです。カルト性が、悪魔性を呼び、みんな似たような、話にならない人間になっていると思います。それで、成りすましの疑惑も、ずっとあるわけです。
 
そして、楽山との交流をあきらめた頃からずっとですが、批判の目的は、楽山を変えることではなく、楽山の悪性の執拗さを書くことで、近づいてはいけない人という警戒情報を広めるためだけになってきました。そのこと以外に、もはや、目的はないと言ってよいでしょう。
 
だから、シャロームに対するのと同様に、楽山に対しても、批判は、とてもシンプルになってきました。前提を繰り返すだけのスピーカーに過ぎない者たちであり、対話の成り立たない相手とは、話しても無駄だからです。
 
ネットには、ときに、ためになる話や、ほお・・っと思うような面白い話もあるのですが、一貫して、月並みであり詭弁まじりの楽山の言から学ぶべきことは皆無です。かつ、楽山の執拗さと凶暴な反復の企てを見ると、楽山は、とても無神経で底意地の悪い人だと思います。
 
 
孤独な自慢

孤独な自慢
 
 
楽山の自己愛性人格障害による体質的で極めて卑怯な単方向性の反復する言論活動は、組織的なものか、個人の怨念によるものか、まだ、はっきりと断定はできません。
 
ただ、言えるのは、一般に対して、そして、とりわけ信仰を求める人々に対して、侮辱であり精神の破壊者であることは、今までの批判から明らかであります。
 
楽山は、神がいるなら不幸があってはならないと、まるで、神の合否を云々して神の不在を判断しているのです。私たち信仰者は、不幸があるから神の救いを必要としているのです。楽山のような人にかまってはいられないです。
 
楽山は、神はいないと言いながら、神に代わる幸いを何も示せません。人にそんなことできません。楽山は、人の心をもてあそんでいるだけです。つまり、不幸があるからと言いながら、不幸と煩いをばらまいているのが、楽山です。楽山の言こそが、災いであり、不幸の元なのです。
 
楽山は、人を煩わせるだけで、誰の何の役にも立たない人です。欠損した能力と人格から、楽山が、どんなに難しい本をあげて何か言ってきても、いちばん理解していないのは、楽山なのです。これほど学ぶところのない人は珍しいですが、それが病質というものでしょう。
 
楽山は、言論者ではありません。自分が言うだけで、人の言うことを受け取る器がないからです。このことは双方向の意見交換が不能であることを意味しています。つまり、フィッシイングのように、誰かが、だまされて引っかかるのを楽しみに待っているだけなのです。
 
楽山は、訂正不能の、宣伝と誘導しか出来ないサディスティックな性根だけを持っています。あらゆる詭弁と虚偽を弄して、だまして刷り込もうとしてきます。まともに相手すれば、疲労と人格破壊が待っているだけです。決して相手にしないでください。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人。
午後9:44 · 2021年4月26日·twittbot.net
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 」
 
楽山は、自身の攻撃欲または企みに従って、故意に残酷な不感不応と無視によって、キリスト教をおとしめるというモラル・ハラスメントを続けてきました。
 
楽山こそが、思慮もなく、共感もなく、やたら、サディスティックに「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人」なのです。
 
ここでは、またしても企んで、卑怯者らしく他者の口を悪用していますが、「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことを」やっているのは、楽山であります。証拠は、ずっと言ってきた無反省と無責任で十分でしょう。
 
こちらには約2年に及ぶ楽山の偏狭な決めつけの履歴があります。なおも、このように、恣意的に、人の口をゆがめて悪用するのが、楽山のやり方なのです。病質の執念が凄まじい。
 
楽山は、いくら批判しても変わりはありません。したがって、批判記事を書くのは、批判を始めて数か月を経過したのちは、楽山を変えるためではなく、世の中にいるところの、近づいていい人と、近づいてはいけない人のうち、楽山が後者であることを伝えるためであります。
 
 
(2020年03月29日)
(2021年04月28日、加筆して再録)
 
 
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一休み。批判と、詩のようなもの、昔々の春の詩4つ。宗教1つ+
あり合わせで申し訳ない。
 
 いつも不真面目な反キリスト楽山のツイッターです。
 楽山の、まとも芝居にだまされてはいけません。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
なんとなしに、『ジョーズ』で、人喰いザメ対策より、経済優先を主張する人がいたことを思い出しました 顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
引用ツイート
釈 量子
@shakuryoko
 · 4月23日
“戒厳令”で支持率が上がるとでも思っているのでしょうか。経済を回さなければ、生きていけません。“独裁者ごっこ”はやめていただきたい。
#灯火管制
 」
午後5:11 · 2021年4月24日·Twitter Web App
 
コロナ禍の問題を、「なんとなしに」『ジョーズ』で語ったつもりの楽山です。万事このような考え方であることが、この2年間で明らかになっています。真剣味が、まるで無いのです。
 
宗教を、趣味の、ファンタジー、ホラーアニメ、パニック映画、お伽噺、フィクションといったレベルで語って、批判し、否定したつもりになっている楽山であります。
 
コロナ禍については、そろそろ、医療崩壊、経済崩壊、パニックに備えて、生存権を直接強力に守る政策を考えておかないといけないような気もします。
 
人口3億2千万アメリカ:感染数3200万人(人口の10分の1)、死亡57万人。
人口1億2千万の日本:感染数56万人、死亡1万人弱。
(人の死を「万」単位で見ているとは・・。オレも、そのうち、行くんか・・の世界。)
アメリカの死亡数と日本の感染数が同じくらいというのは、まだまだ、日本では、終わらないという意味でしょうか。
 
 
 楽山に筆致の似ているツイートですが
 
raku
@rakusyo34
偽情報に惑わされない方法って、
そもそも、偽物ほど
友達、ママ友アピールしたり、
急に会ってこられたり、
永遠に食べられない人参をぶら下げて、多幸感アピールしてくる界隈は要注意ですね。
午後11:15 · 2021年4月24日·Twitter for iPhone
 
気取りだけの評論家である楽山は、まわりくどい丁寧語のボンヤリ言語と、わざとらしい卑下芝居のトホホ言語をもって、てれてれと、しつこくアピールしてきます。
 
文章を読んで、楽山には反省も訂正もする気がなく、理路は破綻し、感性は鈍麻して、およそ、楽山が引用する学者や有名人とは比べ物にならないほど、低劣な欲望の動機と、途方もない高望みから、愚にもつかぬ文章を書いているのが分かります。
 
しかし、それを、楽山に指摘しても、無視して、平気で、続けているのは、やはり、何らかの病質のせいであろうと思っています。いずれ、楽山の言葉は飛び散って、解体されるであろう宿命の、刺すような孤独感に駆り立てられての本能的衝動行為に至るのでしょう。
 
楽山こそ、「永遠に食べられない人参をぶら下げて、多幸感アピールしてくる」身の程知らずの、不感不応の、変質的で衝動的な煽動屋に過ぎないのです。
 
 
 
  陽気2
 
朝は冷ややかなプチうつをもてあそび
ほころびをつくろう部屋の始まり
 
昼は歩みを木の廊下にしつらえて
やさしい足裏の弾力に厭世を返す
 
夜はふくらんだ嫉妬をしずかに灯し
こだわりのない時を温める
 
幾度ひっくり返ったら
虫のあやまちを悔いるだろう
 
乾いた悲劇が陽気を嗅ぎつけて
恥ずかしい vivo が失われそうだ
 
 
(2020年03月11日)
 
vivo(ヴィーヴォ):生体(内)
 
 
 
以下、旧作「失せた心」「陽気」「三寒四温」
 
 
  失せた心
 
いつしか春を楽しむ心も失せて
失せた心が芳春を舞っている
 
いつしか花を愛でる心も失せて
失せた心が落花を浴びている
 
いつしか新芽を喜ぶ心も失せて
失せた心が新芽を噛んでいる
 
いつしか己を慈しむ心も失せて
失せた心が短い弦を震わせる
 
過ぎ去った春の巻き尺は切れ
また来る春までの時計は狂い
無数の季節の余事に絡まれ
乏しい接線を切れ切れに解いて
かじかむ手から汗ばむ手へと
見渡す春に渡されてゆく
 
 
(1999年03月30日)
 
 
  陽気
 
突然言うんだ
生活者なんかじゃない
変態のガリガリ亡者だ
そうじゃない
まともな生活はしてないが
そうじゃない
すると車の中にいる
乗せた覚えのないやつが
隣で言うんだ
この春は
何か欠けているな
そうかな
この一年いろいろあったけど
そうかな
脳ミソの神経か血管でも欠けたか
ふーっとため息ついて
また部屋に戻っている
春は そうだ いつも
わけのわからぬ問いが
ちらほら降ってくる
腕を組み
首をかしげ
この部屋の中に
同じように首をかしげてるやつが
少なくとも二、三人はいる
 
 
(1997年3月31日)
 
 
  三寒四温
 
ふるえながら部屋で
PCのキーボードを叩いていた
ディスプレイにやられたらしい
目汁
鼻汁を笑えぬ
寒さかな
で翌朝は
水の冷たさが憎たらしくない
昼は車の中で汗ばんで
暖かいのやら寒いのやら
温かいのやら冷たいのやら
夕方 宙ぶらりん
俺みたい どっちつかずの
ぼんやりしている瞼よ開け
澱(おり)のような顔の
孤独から
早く飛びだせ芽の光
 
 
(1997年3月6日)
(2011年2月28日、若干修正)
(2020年03月12日、旧作一部修正再録)
 
 
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
※ 繰り返し書きますが
 
心貧しさは、先入観のないこと。
精神の貧困は、先入観しかないこと。
 
 
春・陽気

春・陽気
 
 
(90年代?)
(2021年04月27日、再録+)
 
 
※ 
 
 苦言
 
一部のキリスト者の信仰は、
教理など教えられたことばかりになって、
反芻しているみたいに信仰を語る語彙が常同的で
大方、讃美ばかりで、自分の言葉が少なくなって
"頭がカチンカチン教" になっていることがあります。
 
キリスト教において
悪い言葉を口にしない
という聖句の教えから
批判しないこと美徳とし批判を禁忌のように思うのは
大罪であります。
 
言論において
理路と感性が鈍くなり
口にすれば讃美と豪語だけになるのは
カルトの特徴だからです。
 
そこには
悪意を懐に隠して
丁寧語ですり寄る偽善者が訪れるでしょう。
キリストを殺した者たちと同じ体質なのです。
 
求道者とキリスト者の集まりで
神っているんですか
と言う人がいたとき
顔が硬くなり語気を強める人はカチンカチンです。
 
余裕を持つべきというのではありません。
神様はどこにいらっしゃるんだろう
という問いは
キリスト者にとっても
一生の問いとして共感できるはずだからです。
 
そのとき
キリスト者は
神を証明するのではありません。
弁護するのでもありません。
私たちにそんな能力はありません。
 
神を、そして、キリストを
信じるようになった経験を語るのです。
 
そうすれば分かることがあります。
キリスト者が
神などいないかのような世界に生きていること。
 
そこで、自分が、
なぜキリストを必要としているかを語ること
それこそが、信仰を語ることであり、福音伝道だと思います。
 
 
(2021年04月27日)
 
 
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  楽山の有為と煩悩
 
 『万人に語りかけるブッダ 「スッタニパータ」をよむ』雲井昭善著
 2021年04月24日 楽山日記(LD)
 
 
また、楽山の、理解力、感受性、共感力の欠如を、偽りの机上の屁理屈を、真実に向き合うことのない怠惰を、いつものように都合のよい言葉漁りで、人の口を無断で借りて、筋の通った、などと言う身の程を知らない賛同などして、楽山は、せっせと、ごまかそうとしてきます。
 
しかも、楽山は、無常を語りながら、この記事の後に、本文たった4行の記事を書いて、この批判されるべき記事を目立たないようにしています。何が宗教でしょう。楽山の言は、世俗のヤニのような存在です。
 
本書は著者の「あとがき」によるとNHKラジオ番組のガイドブックを「再録」したものとのことであり、序盤は「スッタニパータ」の成立過程と仏教全体における位置付けなどについて説明し、その後は各章ごとに一定のテーマを設定し、それに関連した「スッタニパータ」等の原始仏典のことばを紹介するという体裁となっている。
では本書では具体的には仏教についてどのように語っているかといえば、まず仏教で思考される範囲は次のようなものだとしている。「仏教では今、現にここにある存在、目に見えるもの、現に見られるもの、万人が納得しうることが問われていて、目に見えない世界、経験されない世界を問うことはしなかった」(2003年 p.274)。
 
楽山が賛同する要素はないと言うことです。楽山が好むのは、フィクションと魔法と超常の空想の世界であり、そこから、宗教と信仰を語ったりするので、とても迷惑です。
 
楽山は、現にある自らの偽善に対する指摘を受け取らず、まるで気づかない自己愛性人格障害者です。いつどこで何を言っても、煩わしさと混乱以外、もたらさないと思います。
 
>したがって、人はどこから来てどこに行くのかという問いは取り扱わないし、
 
楽山は、神を机上の空論で否定し、その次元の低さに、呆れるばかりの文章をずっと書いてきて、反省もしないのです。つまり、「どこからきてどこに行くのか」を、知りもしないのに、何の救いにもならない、いちゃもんとして、法螺を吹いているだけです。
 
「人間存在としての「生」は本来、「因縁和合」(五蘊仮和合)によってなり立っているのであるから、その因縁が壊れれば消滅するのは当然」(p.232)ということとなる。人間以外についても、「因縁によって仮に和合したものはすべて滅びゆく存在である」となる(p.231)。 
 
どう理解したのでしょう。「こととなる」「となる」では、引用しているだけで、楽山が引用したということが、知性と感性の障害を通しているのだから、引き締まった理路も、理解を促す説明もなく、いかに楽山の自己顕示が無意味であるかを示しているだけなのです。
 
悪魔については、苦行の放棄をすすめるなど仏典にある「悪魔のささやきは、いずれも当時の修行法と人間の心に内在する内なる悪しき者のささやきであった」(p.205)としており、人から独立して存在するものではないとする。
 
そういう見方は、人間として、共感できることですし、楽山についても、外からの悪魔ではなく、楽山自身の内在する悪意の酷いものを悪魔性と呼んでいます。
 
それにしても、楽山のホラー好みが滲み出ています。楽山が、悪魔と言えば、人を誘惑する恐ろしい外部の魔物しか想定してこなかったことが、楽山の書くものに表れているからです。
 
それは、結局、神聖についても、楽山にとっては、神も、聖霊も、超常の魔物なのでしょう。そして、楽山に、自滅の刃でも与えているのでしょうか。論外です。
 
では仏典に繰り返し書かれてある輪廻転生はどう解釈するかといえば、当時の仏教教団では「在家者は生天を、出家者は涅槃をゴールとすべきことを教えています」(p.95)とのことである。他の書籍で、仏教教団では生まれ変わりについては在家者には説いても、出家者には説かなかったという話を読んだことがあるが、それと同じ考え方であろうか。
このような仏教解釈にはさまざまな意見があるかもしれないが、仏教の基本は諸行無常、一切皆苦、諸法無我にあるとするならば、これらは一応は筋の通った解釈ではあろうと思う。
 
えらく粗く、仏教の基本を、諸行無常などと、熟語だけ書いてまとめたものです。このように、短絡で、思考のプロセスを説明できないまま、「筋の通った」などと言えるのが、楽山です。
 
幾千年の歴史の重みを、一息で文章にして、それで、満悦するなんて、ふつうはないし、書かないです。何かを受け取ったのではなく、楽山の言の総てが、理解を装う芝居と言っていいでしょう。どうか関わらないでください。
 
たとえば、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我はあくまで原則にすぎず、人に限ってはこの例外であり、人には人を人たらしめている本質が存し、これは永遠不変である」とするよりは、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我は真理である。人もこの例外ではない」とする方が理にかなっているだろうことはいうまでもない。
 
だから、楽山が、それで分かっているのなら、楽山の諸行は我欲だけなのだから、わざわざ矛盾することを書くべきではない、ということになるのが、楽山には、分からないわけです。
 
我執しかない楽山が、無我を真理とは、呆れてしまいます。いかなる宗教の悟りも、我欲だけで心の無い楽山には、空疎なオモチャでしかないのでしょう。暇つぶしのオシャブリでも銜えている精神状態だと思います。
 
またこの仏教解釈は、釈尊が悟りを得たときに、他者の理解を期待せず、その内容を他に語ろうとしなかったという言い伝えともよく符合する。
 
ここで、楽山は、喜ぶのでしょう。「他者の理解を期待せず」を、自己中を正当化してくれていると、また、勘違いして、曲解して、悦に入るのです。言葉を、小学生ほどにも、勉強しなかったゆえ、節操のない楽山です。
 
釈尊とは別の事情ですから、理解されない自己満足など求めず、「他に語ろうとしな」いでほしいと思います。
 
それゆえに、難しい宗教用語を多用するのですが、読んでも、何も「符合」しないですし、何も響いて来ないのです。言葉の表面的な類似を漁っては、ひたすら、自己満足につなげて、考える人を演じて滅びてゆく大根役者であります。
 
当時は一般に輪廻が信じられている社会であったという。それなら輪廻を悟り、これは一般に理解されないだろうと考えたというのは理屈に合わない。けれどもたとえば五蘊仮和合を悟り、これは一般には理解されないだろうと考えたのであればそれはごく当然の思考ではあろう。
 
またまた、ごまかしの、用語の羅列です。「五蘊仮和合」の人間における意味を説明しないで、書ける根性は、ただただ、面の皮の厚さを示しています。
 
(ネットより)
個々の事物は因縁によって五蘊が仮に集まってできたものであるということを五蘊仮和合(ごうんけわごう)という[3]。五蘊仮和合は、特に有情の個体については、我として執着するような実体がないことを表す[3][注釈 2]。
 
有為の奥山、越えられず、己を飾る独り芝居、・・何の無常も理解せず、有為の我執にしがみつく楽山であります。欲望の刹那にいて永遠を自慢するような愚かさです。
 
釈尊は何を悟り、何を説いたかということは度々議論になることではあり、浅学非才の自分には容易には結論は出せず、断定的なことは何も言えないのではあるが、以上のような理由から本書で述べられていることは筋は通っているように思えた次第である。
 
浅学菲才なら、仰々しく分かったかのように「筋は通っている」などと書いてはいけないと思います。恐らく、楽山は、リアル・バーチャルを問わず、いかなる宗教についても、いちゃもんは言っても、実践的な交流をしていないと思います。、
 
楽山は、思想・宗教に、元々疎い人々を、詭弁で堂々巡りから袋小路に誘導しているだけなのです。決して、相手にしてはいけません。近づいてもいけないと思います。楽山という存在こそが、恥も罪も捨てて、人を害するだけの醜悪な伝染性の煩悩なのです。
 
今までの言動から思えば、楽山は、何かを言った後、直ちに、何を言ったかを忘れてしまう病気の人のようなものです。だから、責任など負えるわけがありません。と同時に、誰も相手にしてはいけない人ということになります。
 
無責任が常習になると、そういうことになるのです。良識ある人は、決して、楽山の真似をしてはいけません。楽山は、独りだけ架空の異常な世界に生きている不治の障害~病気なのです。
 
 
 いつも不真面目な楽山のツイッターです。
 楽山の、まとも芝居にだまされてはいけません。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
なんとなしに、『ジョーズ』で、人喰いザメ対策より、経済優先を主張する人がいたことを思い出しました 顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
引用ツイート
釈 量子
@shakuryoko
 · 4月23日
“戒厳令”で支持率が上がるとでも思っているのでしょうか。経済を回さなければ、生きていけません。“独裁者ごっこ”はやめていただきたい。
#灯火管制
 」
午後5:11 · 2021年4月24日·Twitter Web App
 
コロナ禍の問題を、「なんとなしに」『ジョーズ』で語ったつもりの楽山です。万事このような考え方であることが、この2年間で明らかになっています。真剣味が、まるで無いのです。
 
宗教を、趣味の、ファンタジー、ホラーアニメ、パニック映画、お伽噺、といったレベルで語って、批判し、否定したつもりになっている笑う邪魔者、それが楽山であります。
 
※ 
 
コロナ禍については、そろそろ、医療崩壊、経済崩壊、パニックに備えて、法律や命令だけではなく、生存権を直接強力に守る政策を考えるべきではないのか。
 
人口3億2千万アメリカ:感染数3200万人(人口の10分の1)、死亡57万人。
人口1億2千万の日本:感染数56万人、死亡1万人弱。
(人の死を「万」単位で見ているとは・・。オレも、そのうち、行くんか・・の世界。)
アメリカの死亡数と日本の感染数が同じくらいというのは、まだまだ、日本では、終わらないという意味でしょうか。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福の科学では、公式でもこんな言葉遣いをするんですね 絵文字(にやにやした顔)
引用ツイート
幸福実現党政務調査会
@hr_party_prc
 · 4月22日
緊急事態宣言の発出とCO2の大幅削減を同時間帯に発表するとは恐れ入った感覚です。これはサービス業、製造業はじめ日本経済が何によって支えられているかを政治やマスコミが理解していないかの証しではないでしょうか。依らしむべしってか?「うっせぇわ」。
 」
午前7:13 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 
開き直りの楽山の、笑いの顔文字付きの悪趣味です。「うっせぇわ」を「こんな言葉遣い」と言うのなら、楽山は、まともな言葉を使っているでしょうか、否です。またしても、自分を省みない楽山が、書けば失禁するという醜態です。笑うモンスターです。
 
つまり、「うっせぇわ」より、悪質なのは、反省や丁寧を装って、同情を引こうとするような、本音ではなく嘘と偽善の、楽山の、だまし言葉です。全部、嘘さ♪・・という歌がありますが、そんな感じです。
 
例えば、心にもない「反省。トホホ」とかで茶化して、同情をひこうとしたり、「言えなくもない」「かなあ」「ていうか」などの曖昧ボンヤリ言葉を、悪い印象を吹き込むときに、楽山は、やわらげたつもりで、よく使います。悪を隠して、だまそうという意図があり、最悪です。
 
しかも、それで、断定していないから責任はない、などと言うに至っては、常識の欠如であり、良心の欠如としか思えません。楽山の、有為ではなく故意の、有情ではなく無情の、無反省、無責任の、温もりも潤いもない自己中の慢心が止まりません。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
幸福の科学は部外者から見るととても笑える宗教ですが、彼ら的にはガチなので、自分たちが運営する中学・高校では学習指導要領はおろか教育基本法すらも無視して「笑える」内容を本気で子供たちに刷り込んでいます。ぼくが常々「笑えるカルトほどヤバい」と言ってるのは、こういうことです。
午後3:56 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 」
 
楽山は、あざ笑う自己中です。恐らく、他者すべてに対して、そういうスタンスしか持っていない自己愛性人格障害の病質者だと判断しています。よく読めば、楽山の言は、極めて浅薄で、何の助けにもヒントにもなりません。笑える自己中ほどヤバい・・と思います。
 
楽山は、道徳も倫理も宗教も教訓も学問も批判も無視して、まともを装う筆致で、関わる人を、嘘と詭弁で、邪悪な自己満悦のために、誘導して、刷り込んで、だまして、悪用してゆきます。それだけが、趣味で、生き甲斐なのでしょう。まともには誰とも交流できないのです。
 
楽山は、感性も知性も鈍麻して、もうかなり人格の崩壊が進んできたようです。自分で書いても、他者を引用して他者の口を利用しても、言葉や文章の選択において、人格破壊が、だらだら漏れてくるようです。
 
私は、楽山について、常々、「楽山の丁寧語にだまされないように」と言っています。
 
正常な人は、自身への批判に対して、いつまでも無視し続けることは出来ないものです。書くのをやめるか、理由を知ろうとするか、悲しむかするわけですが、楽山は、良心と良識が鈍麻~麻痺しているので、反省することなく、性懲りもなく、同じようなことを書いてくるのです。
 
つまり、楽山が書けば書くほど、楽山の病質が証明されてゆく成り行きになっています。楽山は、我欲と詭弁の発泡酒になっています。悪臭を醸造しているかのようです。
 
 
発泡する我欲

発泡する我欲
 
 
{2021年04月26日)
 
 
ストレスフルの私の遠吠え:
 
そうです。わたしは、もはや、おいぼれて、
ぶよんぶよんの、だらんだらんの、かっさかさの、ぎっとぎとの、ぶっつぶつです。
 
 
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