ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年04月

 
  救われる条件(2)2
 
 
キリスト者になると柔和な人間になると
あるいは社会的基準においても善人になると
思われているかもしれません。
 
信仰の結果として善を目指すでしょう。
 
しかし、実際は、
必ず善人になるかどうかは分かりません。
普通の人間と同じように
ときに頑なになることもあります。
 
さらに信仰があるという自覚ゆえに
特に教理や善と悪と罪の意識において
かえって人一倍、頑なになることがあります。
 
それはキリスト者ならでは
という信仰の働きではありません。
人間だから起こることです。
 
信仰を勘違いすることがあり、そのために
本当に付き合いにくい人になることもあるのです。
そうして、相手にされなくなることもあるのです。
 
それは人間として
決して望ましいことではありません。
そういうあり方としての過ちと罪があります。
 
では、信仰を持たなければよいのか
という疑問に対しては、
信仰は
人間が持ちましょうという意志だけで持つものではない
と言うしかありません。
 
キリストに絆(ほだ)されて
忘れられなくなった者は
その共感を忘れられないために
キリスト者・クリスチャンと呼ばれます。
 
そのように
キリスト者は常人と比べて
決して優秀を表すものではありません。
むしろ経緯において
多くの欠点を持っているからこそ
キリスト者になるのです。
 
では、そのようなキリスト者が
どうして救われるのでしょう。
 
それは、誰よりも神が、自らの民として、
決して優秀さや能力によって人間をを召命してはいないからです。
 
なのに、なぜ救われるのでしょう。
そこには、キリスト者になった人たちの
ただ一点を
神が見ておられるからなのです。
 
それは、その人が、
どんな意地っ張りでも
自己中心でも
思い込みが強くても、
そう思われていて、実際そうでも、
あるいは秘密が多くても、
ただ神という絶対者の前においてだけは
頽(くずおれ)れる心を知っているからなのです。
 
ゆえに、神が救われるのは
神の基準によります。
決して善行によるものではありません。
 
つまり、神の前において、すなわち祈りにおいては、
頽れ、憐れみを乞うしかない、砕けた魂を持つ人間であること、
その弁えだけが、救われるためには必要十分な条件なのです。
 
そのことが聖書には書かれています。
 
砕けた魂を持つ人間は
もはや神の前に
正直にそれを告白することしかできません。
他に捧げるものなどないからです。
 
正しさや善行の主張など何も言えないと知っている者が
神に救いを求めます。
 
まさに総ての人間がそうなのだと
主イエス・キリストは
聖書を通して宣べ伝え続けているのです。
 
神の前に正直以外は通用しない
と言ったのはそのことです。
 
 
神の前でだけは

神の前でだけは
 
 
※※
 
祈りにおいて
いつも偽りの讃美言葉を並べるような偽善者については
自ら救いを拒んでいるわけで、
神は、それを余さず見抜かれるのです。
そして、神の国から永久追放されるのでしょう。
そして、そのことは、
この地上において人格破壊の醜さとして表れるでしょう。
 
 
(2019年03月30日アップ、同日一部修正)
(2020年04月05日、加筆修正して再録)
(2021年04月25日、再録+)
 
 
  病質者対策
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、2年批判している楽山と、10年批判してきたシャローム shalom のような自己愛性人格障害者のことです。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、つまり、他者に勝ろうとする悪意だけを持っていて、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生治らないのでしょう。そして、一生治らないということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して為すべきことだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。自分に都合のよいように皮相な細工を文章に施して、まともに見せかけます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。まともで真面目に見せかけているだけです。ただ、楽山の気分がよくなるように、どこまでも、言い逃れの類だけを書いてきます。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、疲労の罠に嵌ります。
 
楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や意味の違う方向への言い換えでごまかしてくるところを、指摘し警戒し資料とするためだけに拾ってゆくことに専念するべきであります。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わないという卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察も能力もない人であります。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、信頼しないでほしいと思っています。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸で中立の人物を装う、これが、楽山の書き方・筆致です。ちょっと注意して読めば、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感するだろう、という、真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だと分かってくる楽山です。
 
 
楽山のキーワードは、
 
楽山・無反省・無理解・無責任・無神経
自己愛性人格障害
嘘吐き・詭弁・偽善者
病的ナルシスト・良心の欠如・自己中心
反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
(2021年04月25日)
 
 
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  楽山の舐めるもの
 
 
楽山は、他者の口を借りるしか能がないので、またしても、人に舐めてもらうように、他者のツイートを載せています。最も見苦しい手口で、宗教をおとしめて、自分の言い分を肯定したいのでしょう。恥も外聞もない。こうは、なりたくありません。
 
楽山は、人を無視して見なくなったために、自らがいかに醜いことをしているか、気づかないでいられます。こうやって、言論者を、舐め続けているのです。殆ど、思慮のない原生動物です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·6時間
そうです。ついでに言うと、ただインチキであるだけならとやかく言わないけど、インチキであることが明白で、そのインチキが害悪を生んでいる場合は「インチキ!」という批判はします。カルト批判も、教義への批判・否定を一切しないというわけではないのです。
引用ツイート
 」
ジャポニスタン
@japonistan
 · 6時間
幸福の科学の非科学的なインチキ霊言についても人様に迷惑をかけない以上は勝手だけど、周庭さんの霊言みたいに本人の命を脅かしうるものというのは明らかに問題なので、我々は抗議に行ったわけですね。 twitter.com/suspendednyora…
 」
 
楽山は、自己愛性人格障害による詭弁と嘘の丁寧語によって、付き合い続ければ、人格を破壊するほどに、大きな害毒を与えるインチキです。約2年の批判を無視したままです。楽山は、人を人とも思っていないようです。
 
楽山は、机上の幼稚な神否定を繰り返して、成り立たないクレームによって、キリスト教を否定し、人を惑わせ、楽山自身と同じような人格破壊をもたらします。極めて害毒性の高い、祭りの出店や見世物小屋のインチキより、さらに迷惑で悪質なインチキです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·8時間
宗教に科学的合理性はないと思います。ただし「カルト批判」の場合、教義や思想が正しいかどうかや科学的・合理的かどうかではなく、人権侵害的な行為が存在する(具体的個人に具体的被害がある)ことを批判するという基本があります。
引用ツイート
 」
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 9時間
あくまで個人的な意見だけど。やっぱり、カルトに限らず宗教全般に違和感を強く感じる。
例えばキリスト教にしたって、処女が子供を産めるわけ無いじゃん。
イスラム教だって、豚は不浄だから食べちゃいけないとか、科学的合理性は無いよね。
 」
 
楽山は、詭弁と嘘によって、低次元の批判をし、自身に返ってきた批判をことごとく無視して、平気で訂正不能に繰り返すことによって、人権を侵し、おとしめ、破壊してゆく悪魔性です。
 
「処女が子供を産めるわけ無いじゃん」・・これが事実と信じたから救われるというキリスト信仰ではないということです。ゆえに、もっと大切なことは、別にあるのですが、楽山のような人は、そこを全く理解しないでキリスト教を否定している反キリストの偽善者です。
 
 
 
※ 信仰の中心
 
何度も書いてきたことですが、例えば、処女懐妊、数々の奇跡、肉体の復活などは、二千年前、起こったにせよ、起こらなかったにせよ、キリスト信仰の中心ではありません。
 
何故なら、起こるにせよ、起こらないにせよ、その奇跡は、私たちには、分からないからです。さらに、起こったと信じることで、救いにつながるとも思えないからです。
 
そういう奇跡は、神に任されることです。人が神の意志と行為を決めつけてはいけません。分からないことは、正直に、分からないと言うのは、信仰の条件であります。
 
物や肉体の奇跡について、起こると確信することは、この地上での視点が、超常に向いてしまい、日常を疎かにする危険があります。さらには、誰も知らないが起こるんだよ、と信じることが、誤った信仰者の優越意識にもつながりかねないのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者に比べて、優位に立つのではありません。同じ罪人であることは、信仰があってもなくても、変わりはないのです。ゆえに、福音伝道は続くのであって、そこに、他者は劣る者という視線を持つことは、神に背く傲慢だと思います。
 
信仰の中心は、私たちにも理解可能な、キリストの、人間に対する洞察と共感であります。ゆえに、二千年前に、偽善を最悪として批判したのです。そこを外してはいけないと思います。
 
私たちは、聖書から、人間としての心に響いて、受け取れることを、受け取るべきであり、それ以外は、保留の箱に入れておくべきであります。
 
さらに、キリスト信仰は成長するものですから、訂正不能に思い込んだり信じ込んだりすることは、厳に、戒めるべきであります。信仰は、繰り返し念じて、こびりつかせて、肯定の癖をつけるような安物ではないのです。
 
信仰の中心は、経験によって深めてゆく人間としての共感です。原初の信仰は大切ですが、訂正不能にしてしまったら、言葉だけの教条に堕してゆくでしょう。
 
一挙に、神の真理を、さらに、信仰の奥義さえも、人が得ることはないということです。自閉的な人も、社交的な人も、人間関係の中で、それなりに学習し成長することが大切なのです。
 
ゆえに、私事ですが、自閉的で疑い深い私も、キリスト者になったのであります。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間の持つ心の、"土の器" と書いてあるものに、信仰は与えられ、成長します。譬えだと思います。人が、神によって、土から造られたことによるのでしょうか。
 
ところが、この土の器を、何やら、超常の魔法の器のように信じ込んで、信仰は心のどこにもないと言っていた者があります。自分を特別な恵みを得たと特別視して自慢するためです。
 
その者シャロームは、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、などとも言っていました。悔い改めていないことを正当化するためです。しかし、彼の言を言い換えると、彼には、神は悔い改めを与えていない、導いてもないということです。
 
つまり、これは、人を見下すこと甚だしいところの、真っ赤な偽者の例です。キリスト教に疑問をいだくのは自由ですが、このような大馬鹿者にだけはならないでください。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 
 (ローマ2:4-5、新約聖書)
 
神の、慈愛、忍耐、寛容、と書いてあり、人間にも理解できることです。
 
このシャロームの言を、当たり前のように、肯定していたのが、楽山であります。このことで、楽山の語る宗教・思想の言は、信頼度ゼロであることが明らかになりました。
 
つまり、神の怒りを自分の身に積んでいる楽山とシャロームであります。
 
シャロームは、神の導きということを、まるで、魔法がかかって操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。笑止であります。
 
悔い改めは、神の前に、罪を正直に告白して赦しを乞うことです。つまり、祈るとき、世俗から、神へ、方向転換していることになります。神様のほうを向く・・という言い方があります。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
4:8-9
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
 (2コリント4:7-10、新約聖書)
 
信仰による勇気を語っていることは明らかです。
 
土の器は、自慢するためではない。魔法でもないのです。
 
カルトや妄想家は、直感的な理解が、劣っているか、ない場合が多いです。
 
 
悪用

悪用
 
 
(2021年04月24日)
 
 
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  神について語るには3
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが
神という御方を考えるとき
全知全能の神については
私たちの概念の箱には到底納まらない
ということを先ず言いたいのです。
 
神と聖書について人間が持つべき箱は
修正可能な分かった "つもり" の箱と
分からない保留の箱だけです。
 
したがって
「神」を概念や観念として
言葉で考えることは
無理すれば
人が全能者を扱うことになり
教条主義という罠に堕ちるでありましょう。
 
 最悪の例を、一人は10年、もう一人は2年、批判しています。
 
全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ
全能ではない人が
神の概念を語ることは困難であり
語るにあたって
少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのか
ということになりますが、
恐れを持つということは
語るなということではなく、
語る内容を言葉で決めつけてはいけない
ということです。
 
どういう姿勢で
神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく
導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど
神が人に及ぼした作用の
人における経過と結果から
推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、
導きを受けた人のことを語ってもよいし
そういう人の様子や経緯から
推測できることを語ってもいいでしょう。
 
神そのものは
人によって捉えられるものではありませんが
神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については
人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから
人が聖三位について語るとき
最も多く語れる対象はキリストであります。
人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については
なお人間の理解の届かないところにあります。
キリストについて
物や肉体の奇跡を追いかけて
魔法使いの言行みたいに語ってはいけないと思います。
そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと
キリストが救った人々との交流から
救いとは何か
 
キリストが批判した人々との遣り取りから
救われないとは何か
 
こららのことを学ぶことは
決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで
自分に、そして人間関係に、
さらに思考や感情に、
そして人生に
どのような変化があったのかを
語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの
信仰がどうあるべきか
信仰者がどう生きるべきか
などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として
心が揺さぶられることは
キリストからの愛に
そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて
総じて
導きは祈りに帰してゆきます。
祈りは
その日までの経過であり
その日からの出発点なのです。
 
 
(2019年04月アップ)
(2020年04月18日、一部修正)
(2021年04月23日、再録+)
 
 
神様のことは
ちょいと徳の高いお爺さんがいるから
話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから
会えば分かるわけでもないのだから
会って直接話を聞ける相手でもないのだから
おとぎ話に出てくる仙人みたいな人でもないのだから
 
少なくとも信仰者は
善の代名詞みたいに
気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように
自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして
形容だけ大袈裟にして
大真面目を装って嘘を吐く輩が
キリスト教内外にいますから
彼らのように気負って
神の意志と行為を決めつけてよいものでもありません。
 
神聖について
人が持つべきなのは
確信ではなく
恐れであります。
 
人に起こることというのは
聖書からだとしても
よく語られる超常話が人を救うのではなく
つまり物や肉体の奇跡ではなく
 
人間であれば理解できるような
人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか
人間に理解できることが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが
聖書にはたくさんあります。
そこに価値を見出した人は
理解できないことや疑問や矛盾は
人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は
自らの経験と思考の届きうるもの
すなわち、人間であれば
理解できること、共感できること
それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは
こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ
・・すごぉい!・・と
奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく
 
信仰の学びとは
主イエス・キリストが思いを共にして下さる
という孤独からの解放を
人間らしい心の深みにおいて聖書から学び、
また、生きているあいだ考えて
伝えてゆくことなのです。
 
 
同伴と共感

同伴と共感
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの主への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知り得ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
(2020年04月21日)
(2021年04月23日、加筆して再録)
 
 
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  楽山の失格 (映画)
 
 『美しき誘惑-現代の画皮-』のルーツを探る
 2021年04月17日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
抜粋して批判
 
真意は分からないが、同じ材料、テーマの先行作品があったり、影響を受けた作品がある場合には、それを無視するのではなくて、きちんと作品名を明らかにして敬意を示したらいいのにと思う。それがないのは残念。
 
「敬意を示したらいいのにと思う」「それが無いのは残念」・・楽山の、心の無い丁寧語です。アドバイスのように見せかけていますが、敬意がないので、丁寧に書けばいい、という安易さだけが、鼻を突いてきます。
 
いつも形だけ丁寧語で、かえって嫌らしいと思います。上から批評家気取り、という獣性をごまかす書き方です。楽山の厚顔無恥を知って、何度も味わってきたブログの流れにおいては、中身のないことが分かっているからです。
 
批判でも丁寧に書けばよい、角の立たない書き方をしているつもりのようだが、そういうものでは決してないという例です。丁寧は、楽山の思い込みだけなのです。要は、言葉だけ丁寧で、中身は、あざ笑いながら、こき下ろしているわけです。
 
薄汚い性根を隠すために、どんなときも、善人アピールをしたい楽山の無理が、悪意を隠す卑怯な偽善の丁寧語になってきたのです。言い方だけ丁寧であることに自己満足する楽山です。
 
丁寧に書けば、冷静だと思われるだろう、という楽山の安易な思い込みの先入観が表れています。
 
楽山は、こういう丁寧語で、自分はいつも冷静な紳士だからと言いたいのでしょうが、中身はと言えば、実は嘲笑いを伴う否定に、理解があるとうわべだけ見せかける保身が加わり、楽山固有の、何とも言えない、陰湿な印象になります。何度も見ていると、"偽善者" という言葉が浮かんできて吐き気を催します。
 
楽山が書いてきた「反省。トホホ」というのがありますが、ただ反省という言葉を付ければよいという気安さが、気持ち悪くて気持ち悪くて、楽山には、真心が無いのだと知りました。これは、ふざけた態度であり、「トホホ」ではなく「テヘヘ」なのです。
 
 
※ 
 
 楽山の失格 (読書)
 
考えてみれば明らかなこととして、有名人や小説家や学者が、楽山のような自己愛性人格障害者に賛同することなど、ありえないわけです。
 
相手が、既に死んでいるか、縁のない人だからといって、楽山が、あたかも同じレベルの学識経験者であるかのように、自己愛のために勝手に利用~悪用していいわけはありません。それくらいのことも分からないのでしょうか。楽山の読書は、自他の両方にとって、害毒です。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:11
口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 15:12
そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 
15:13
イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 
15:14
彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。 
15:15
ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。 
15:16-18
イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 
 (マタイ15:11-18、新約聖書)
 
 
口から出るもの

口から出るもの
 
 
(2021年04月22日)
 
 
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近況:

 

認知症と腰椎圧迫骨折で歩行困難の98歳の母は、小規模多機能介護施設 → 肺炎と尿路感染で病院入退院 → 老健施設、そして、昨日、デイサービス付きの有料老人ホームに転所となりました。

建物は元々整骨院だった3階建ての古いビルを施設にしたもので、グーグルマップでは整骨院の看板が出ていて更新されていません。向かいがジョイフルで、田舎だけど道路沿いに店は多いようです。

相変わらず、コロナのせいで、自由にに面会は出来ず、内科にも定期通院させるわけですが、あちこちで、ふつうに手指の消毒をして、時に熱を測ります。

新しい病院なので、一応、X線や血液尿検査して、乳癌疑いと言うことで、胸に薄い影があるようです。「98歳くらいになれば誰でも癌はあります」と、思い切りのいい先生です。こちらとしても、生物学的延命は望まないが、痛みが出たら軽減してほしい旨申し上げました。
 

(2021年04月22日)
 

 
飲兵衛さんの思い出。再録+
学生時代の思い出です。
 
 
  飲兵衛さんの思い出3
 
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の飲兵衛さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが鬱積しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我をさせるか
喧嘩になって
こちらが怪我するかも知れない
 
しかたないと諦めて
エンジンを止めて紙切れを見た
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
顔が和んできたのに気づいた
 
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかった
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
 
しかしこの飲兵衛さんにだって
プライドがある
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人から
聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのか
 
あのとき思った
案外、精神科医に向いている
かもしれないという見込み
は見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
(1999年06月26日)
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思いがけず、自分が和ませた、癒したかのような気持ちになっていましたが、飲兵衛さんもいろいろです。乱暴な人もいるかもしれません。
たまたま、そういう飲兵衛さんに出会ったひとときの間、そういう出会いによって私が、ある意味、
思いがけず、和んだ、癒された、つまり、そういう飲兵衛さんがいて、よかった、ほっとした、
という思い出かもしれないと今は思っています。
 
飲兵衛(のんべえ)
怪我(けが)
塞がる(ふさがる)
鬱積(うっせき)
喧嘩(けんか)
和む(なごむ)
 
 
 
  武装
 
 
正直は
単なる道徳ではない。
 
正直と正直は
解決を見出すかもしれない。
 
飾りと飾りは
どこまで行っても飾りだ。
 
偽りと偽りは
どこまで行っても偽りだ。
 
偽りと正直は
加害者と被害者を生む。
 
怒りと怒りは
衝突して何も見出さない。
 
怒りは一時的だが
根に持つと怨念になる。
 
大切なのは基本的に
神に対しても人に対しても
できるかぎりの
正直で武装しておくことだろう。
 
 
(2020年04月)
 
(2021年04月21日、再録+)
 
 
正直で武装

正直で武装
 
ここで、武装とは、暴力の用意ではなく、向かい合う用意ということです。それが生き方を決めてゆくのです。
 
それが全くできないし、する気もないような人がいて、表面的な優しさ芝居で、怨念を隠し、付き合えば、気色の悪い疲労をもたらし、迷惑だけを掛けてきます。
 
復習みたいなものですが、楽山は、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、という信条に賛同しました。どう見てもキリスト教の信条ではなく、むしろ、反キリストの信条です。そこから、今まで、約2年余りの楽山批判が続いています。
 
楽山の正当化に、"人それぞれ" だから自由だ、という言い分がありますが、これが詭弁で、キリスト教の信仰が、"罪を認める" でも、"罪を気にしない" でもいい、自由だ、なんてことは、ありえないわけで、前者しかありません。極めて、初歩的な人間の理路が、楽山には成立していません。
 
(2021年04月21日)
 
 
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