ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年05月

 
  信仰と固定(再)2
 
 
人間が信じられることは
人間が信じるようになることは
人間性で理解できて
人間性で共感できることです。
それらが心を動かすからです。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが
神とキリストを理解できるのは
人間の知性で理解できることであり
人間の感性で共感できることです。
 
人間を超えた物事を理解できるのは
人間を超えた存在になることですが
 
地上の人間である限り
人間を超えることはありません。
その弁えが信仰の節操です。
 
神や聖霊が教えてくれたからだ
と言うならば
超えた存在ではない人間に
教えたのが神や聖霊だと
どうして分かるというのでしょう。
 
そこにおいて人間は
神を恐れているか否か
神の前に敬虔であるか否かが測られるのです。
神聖を知らない私たち人間が
神聖が教えたと言い張るのは傲慢です。
 
神聖を振り回す人は
自らを神聖とする人間離れの背教です。
 
したがって
物や肉体の奇跡そのものを信じることは出来ないはずです。
理解も共感も出来ないからです。
 
人間が理解できる信仰になるのは
生きている人間の心を動かす生きている言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは
ご利益信仰に過ぎません。
 
物や肉体の奇跡は
人知を超える神を恐れるためにあり
神にお任せするしかありません。
 
人知を超えている奇跡を
人知が理解することは出来ないのです。
それは人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする
このことは
限りある人間の能力を思えば当然であります。
 
物や肉体の奇跡は
最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは
奇跡で救われた人が
なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか
キリストが、なぜ、その人を憐れんだか
という
心の奇跡または魂の奇跡
それこそ軌跡、すなわち
人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては
物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。
 
物や肉体の奇跡で救われると信じるのは
まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように
石がパンになる=物への奇跡
飛び降りても死なないかどうか試す=奇跡の実現で神を試みる
この世の栄華によって悪魔を崇拝
=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて
人を騙しているのがこの世界です。
もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
知性と感性とは特別な才能のことではありません。
神が人に与えた賜物として
人間ならば誰でも持っているもので
その中に不完全ながら
思慮が含まれ
理路と分別が含まれ
良心と共感が含まれ
温もりと潤いが含まれ
かつ、生まれています。
 
その賜物によって
聖書を理解し、信仰に至ります。
 
人間の信仰理解は
完全な理解ではなく
心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。
聖書から、そして、体験から
神とキリストに気づかせ
人を動かす神聖は聖霊と呼ばれますが
聖三位は、信仰の対象であって
敬って友だちのように仲良くなる対象ではありません。
 
動かし気づかせるのであって、固定するのではありません。
 
信仰者は
訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも
去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。
 
そこに不変の境地はありません。
 
学びと成長を促す道があります。
 
 
※ 
 
神ならぬものを信じてしまうと
神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。
 
心について考えない者が受け取るのは
手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり
あるいは知っていると自慢するためであり
 
それゆえに理解も共感もなく自己中心に
やたら讃美しまくって
奇跡の必然を自己暗示して
自分か他者の心を固定してゆくのです。
 
このような信じ方が
思い込み信じ込む信仰?であり
自分で神を決めつけてしまう信仰です。
 
そうなると、まず自分の人間性を破壊し
次には関わる人に作用して
他者の人間性を破壊してゆきます。
 
それは人間離れの心性を固定して
カルト化が始まってゆくプロセスなのです。
 
 
求めていること

求めていること
 
 
(2019年05月14日)
(2020年05月25日、修正再録)
(2021年05月26日、加筆して再録)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
 
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
 
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
思いも塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
 
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
 
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
 
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
 
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
 
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を
残したままにしておこう
 
 
(90年代か、一部修正)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Megmix43
@hamayokomegumi
「幸福の科学を下支えするカルチャーは「努力・精進」です。」と建て前では「努力・精進」を謳っておきながら、「英会話ペラペラ祈願」とか「強力ダイエット祈願」とか「突然秀才になるための祈願」とか自助努力を否定する祈願ばかりなのは何故だろう?しかも成就率は金額に比例ww
午前8:21 · 2021年5月24日·Twitter Web App
 
ツイート元ではなく、ずっと、楽山を批判しています。「努力・精進」をしなかったし、する気もないのが楽山です。ゆえに、霊とか、超常とか、自分の浅薄な結論で宗教を語っても、そこから進歩する生産性がありません。不都合を総て無視して、自己愛の自己満悦に浸る異常者だと思います。
 
そして、都合のよい文言を探しているだけなのに読書家気取りで、例えば「心の理論」という心理学を、心霊に結び付けて、霊が分かるっぽい自覚を語り、自分を霊能者や学者と同列に並べて、自己満足しているだけなのです。これだけ孤独な慢心に陶酔し続ける人は、正常だとは思えません。
 
楽山には、決して、関わらないでください。詭弁で、混乱させて、相手が疲れるのを、楽しむサディスト的な人格であり、まともに受け取っていると、こちらの、理路と感性が鈍麻してゆきます。この約2年半の間、楽山を読んできて、何か良いことの糧(かて)になったことは一度もありません。
 
※ 
 
人間は、何か分からないことに出会って、悩み苦しみますが、その袋小路や堂々巡りから、分からない自分、限界のある自分、不完全な自分を、自覚するときに、そのことを、正直に祈る相手を得ることは、恵みとなり救いとなりうるでしょう。
 
信仰は、超能力が身についたり、矛盾のない神聖の仕組みが分かったから信じることではありません。そういう思想は、むしろ、信仰とは逆で、思い上がりの原因になるだけでしょう。ゆえに、神聖が分からない・・ということは、信仰の動機にこそなれ、決して、信仰の否定にはならないのです。
 
楽山は、この点において、正反対の先入観を訂正不能に持っているために、神がいるなら悪を退治しないのはおかしいじゃろ・・などと言って、神を否定できた気分になるのです。この幼稚さは、思考力と感受性を育て損なって、異なる意見や批判を無視してきたからでしょう。
 
さらに、楽山は、信仰の代わりに、何か救いになることを提示できるかと言えば、何も用意してはいないのです。楽山の言ってることは、神義論・弁神論でもなく、もはや、論でさえなく、宗教嫌い以上に、自身の高慢からの、詭弁説教であり、病的ナルシストの症状に過ぎません。
 
極端なことを言えば、楽山の、元々の本来の人格が見えません。時々に、様々な、芝居、装い、偽装、詭弁、嘘、成りすまし・・を演じているのでしょう。本音というものがなく、虚偽の人格だけが豊富なのかもしれません。私は、楽山が表してきた偽りを批判していることになります。
 
 
 
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  不感不応=無知2
 
 心に思ったことは現実になる?(詩篇108[109])
 2020年05月11日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、自業自得ということが分からないようです。また、訳の違いで検索しても一致しにくい聖句について、本任せで、解釈の根拠を示しません。そんなに、独りで、引用して、言いたいこと言って、それだけで満悦したのなら、人に見せずにやってくれと言いたいのです。
 
書くことで満悦したいだけの楽山の自己顕示欲という我欲の産物なので、私は、訳を気にせずに、楽山の聖句引用として批判してゆきます。それでも、楽山が書けば、積み重なった悪意と自慢と自己中の醜さは表れていますから、詭弁の資料となってゆくでしょう。
 
スピリチュアル精神世界の方面では、心に思ったことは現実になるとか、その思いに相応しいものが寄ってくるとかいうけれども、それと似た考え方が詩篇でも語られている。
彼は呪うことを好んだので呪いが彼にかかり、
祝福することをきらったので祝福は彼から遠ざかった。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.273)
 」
 
楽山は、とうとう、結論だけを投げてきます。聖句について、また、楽山のことも、ただの自業自得でしかありません。「心に思ったことは現実になる」とか・・ひどい解釈です。
 
 (詩篇、口語訳)109:17
彼はのろうことを好んだ。
のろいを彼に臨ませてください。
彼は恵むことを喜ばなかった。
恵みを彼から遠ざけてください。
 (詩篇109:17、旧約聖書)
 
これは、例えば、不正をする者に対して、復讐を神に祈り願い、かつ、神に任せる態度です。そうでなくても、例えば、楽山の不正に対する報いは、最終的には、神に任されます。人は、できることをして、神に祈るしかありません。
 
常識的には、訂正不能の悪の自業自得、ということだと思いますが、またしても、楽山は、心に思うと現実になるぞ・・というような、ホラー話として魔界の解釈をしているようです。人間的な見方が出来ない者は、そういう理路をでっちあげてきます。何でも超常的に見るのは、カルトには、よくあることです。
 
ごまかしに次ぐごまかしで、デタラメに次ぐデタラメの解釈で、聖書を恣意的に曲げて、自らへの批判をしにくくしたいようですが、批評として幼稚すぎて何の意味もありません。このようなズルをしているのに、幼稚だと気づかず、何の罪悪感も感じないのが楽山の程度の低さです。
 
楽山の言は、とうとう、誰とも議論などしたくない、例えば「オレは自分の書きたいことを書く、聞け。」・・とでも言ってるようなものです。
 
一般には、祝福することを嫌う者は、祝福しないのだから、あとは、無視するか、呪うだけになり、ゆえに、祝福されることもなくなるのは、当然のことであり、自業自得であり、それは、まさに、今、楽山のことなのです。
 
こういう法則性が現実にあり得るかどうかは、万人を納得させるべき形で証明するのは難しいことではあろうけれども、ただそれでも自分は根が迷信深くできているせいか、こういうことを信じてしまう方ではある。
 
何の法則なのでしょうか。聖書を読んで、どこかで起こっている現象と見なしているのでしょうか、そう信じてしまうのだそうです。ただの的外れの間違った思い込みです。楽山が聖書から何も良いものを見いだせないのは、当然のことです。
 
楽山は「根が迷信深くできている」・・根深い病理と病原性ですが、ふつう、反省の対象になることを、できているから仕方ない、とでも言い訳しているのでしょうか。そのまま、宗教の批評~批判をする資格などないということを表しているのです。
 
それだから、悲観的なことを口に出したり、思ったりすれば、それが現実になってしまうかもしれないので、そういうことは言ったり思ったりしないようにしよう、できるだけ良いことを言ったり思ったりするようにしようと心掛けたりする。
 
心に思うと現実になることを恐れるらしい楽山は、今まで、嘘と詭弁ばかりで、良いことを言ったことなどありません。楽山は、心から良いことを言うことを、心にもないことを良さそうな言葉を見つくろって言うことに、すり替えています。そして、読者に、混同させようとしています。
 
悪意による婉曲の、ボンヤリ言語の悪口と詭弁で、キリスト信仰に、嫌がらせをしているだけです。ナルシストは悲観的なことを考えることがないという無反省と自己満足の狭い部屋で、悪意と嘲笑いだけを育てている楽山の異常さがうかがえます。
 
井沢元彦は、日本では言葉に出したことは現実になるという言霊信仰があるために、危機について具体的に言葉に出して議論し、その対策を講ずることが難しく、したがって危機管理が疎かになりがちだとしていたし、これは一理ある意見ではある。
 
楽山個人のことにとどめておけばよいものを、大言壮語に結び付けてゆく自尊過大の誇大化を避けられない楽山です。かっこつけないと気が済まないようです。そして、批評家気取りで、引用した他者の発言を、一理もない楽山が、上から、一理ある、などと言っています。
 
曖昧な書き方しかできない楽山は、どう一理あると言うのでしょう。言霊信仰のほうでしょうか。言霊信仰によって危機管理が疎かになることでしょうか。楽山は、何の役にも立たないくせに、詭弁という邪悪な言霊をまき散らしてきました。
 
ただ自分はこれを承知しつつも、それでもやっぱり悪いことを考え、口に出すことには若干の躊躇があるのだから、我がごとながら呆れてしまう。もうちょっとでも頭を近代化して、合理的思考のできる現代人になりたいものだ(笑)。
 
いつも悪意の企みしか考えていないという経過と結果しか表れていない楽山が言っています。合理的思考が出来る現代人になれるのは、反省と学習機能を持っている人だけです。本を読みましたという自慢からは何も生まれてはこないのです。
 
そして、また、冗談を言う文脈ではないのに、ズレた感性からの、真剣味のない「((笑))」です。楽山の、おふざけは、楽山の文脈と理路を、壊して、楽山を、孤独なピエロに変えてゆきます。
 
楽山は、他者の意見を無視する分、思慮が驚くほど浅く幼稚になり、エネルギーのない泥の飾りまみれになって、感動のない隙間を徘徊しているだけなのです。よく「(笑)」などと書ける。これは、偽善カルトのシャロームと同じ症状です。
 
 
 聖書と多神教(詩篇95-3)
 2020年05月11日
 楽山日記(LD)
 
タイトルは失念したが、何かの本で聖書は一神教だと思われがちだが、実際には多神教であるという指摘を読んだ記憶がある。先日、詩篇を読んでいて、ふとそれを思い出した。
まことにヤㇵウェは大いにして、いとほめらるべく
すべての神々の上に恐るべきもの。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.232)
 」
これは字面だけを見ると、神は複数存在して、ヤハウェはその上に立っているといっているようだ。自分には一神教の世界を想像するのは困難だが、こういう多くの神々と、その上に立つ神という形であれば大分想像しやすくなっていい。天照大神とその他の神々だとか、毘盧遮那仏とその他の如来菩薩という世界観と似てくるので。
 
字面を見るだけで書いてはいけないのです。
 
軽々しく好都合だからと思い付きで言ってくる、これは、まさに、自分を最上とする自分信仰の為せるわざであります。神聖の中の最上、あるいは、むしろ、異教の神々のこと・・厳密な解釈について、私はよく知りません。
 
私の信じる神は御一方なので、こだわる必要は感じません。
 
しれっと「神は複数存在して」と言うのが、情けない短絡による楽山の詭弁です。聖書での神々というのは、異教の偶像の神々のことだと思いますが、楽山は、この情ない話で、神が複数いるという話にして、おとしめてきます。この理解不足は、哀れです。なのに書いてくる陰気な楽山です。
 
ずいぶん前のことだが、さる匿名掲示板でHSを退会してキリスト教の洗礼を受けたという人が、神社に神はいない、何もいないというようなことを書いていて、びっくりしたことがあった。
自分はどうも根っからの多神教世界の住人のようで、神社仏閣、祠、山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ、畏れてしまう性質だ。唯物論や無神論に傾いているときであれば、その感覚は薄れるが、それでもまるっきり消失してしまうことはない。
 
「根っからの多神教世界の住人」と、いい加減宗教観の告白です。「山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ」と、まるで真剣味のない楽山の言う宗教観は、楽山に干渉しない人生観的な飾りのようです。自らの崖っぷちに気づかないからでしょう。
 
あらゆる自然や人工の物に、この世ならざる存在を感じると言っている楽山は、人間にだけは共感を持つことがないようです。キリストと父なる神に、芝居でなく本気で、祈ることも考えることも出来ない理由は、ここにあるのでしょう。楽山の言は、いつも、そこから書いてくるのです。
 
他者の、そして、人間の存在について何も感じられない楽山は、それを人のせいにして、代償行為的に、自然や物をあがめる、というより、上から "あわれんであげる" 方向に、人間離れして、さらに、霊が分かるっぽいなどと思い込み信じ込むようになったのでしょう。
 
自分は特別だと思い込んで人間離れしてゆく者には、キリスト信仰が芽生えることはないと言ってよいと思います。それは、人間として人格として異常だということです。
 
ちなみに、楽山は、自己愛が過剰なので、何も畏れてはいませんし、何を信じてもいないし、何をまともに感じてもいない、ということだけが、書くものに表れてきました。ゆえに、結果として、原始反応だけになって、知性も感性も働かないのでしょう。
 
人間の理路が組み立てられない楽山は、「唯物論や無神論に傾いている」でしょうか、否です。楽山の頭で扱うものが、物しかなく、神はいない、ということであって、「論」にはなっていないと思います。また、どこまでも、見栄を張って、分かっているふうの偉そうな物言いをしています。
 
だからキリスト教の神のみが実在し、その他の神は存在しない、神社には何もいない、空っぽだと信じ、それをリアルに感じることはできないし、それが可能だという人には驚いたのだった。
 
何を言っているのか不明です。神社には歴史と何があるのか、誰も知りません。だから、恐れをいだくのでしょう。説としては、散らされたユダヤ人が、中国、そして、日本に渡って、日本の宗教に影響したという説がありますが、信憑性は不明ですし、個人の信仰に影響するわけでもありません。
 
楽山が唯一感じるのは、なんでも感じているつもりの自我の満悦感でしょう。実際は、感じているのではなく、感じているつもりで思い上がる唯我独尊の慢心だけとなり、感じないことへの恐れがなくなり、情性の鈍麻と、修正不能の傲慢から、主張がことごとく的外れになってしまう定めなのです。
 
この辺りのことからすると、一神教と多神教世界の住民の自分との間にある溝は、想像以上に深くて、そう簡単に埋められるものではないらしい。
 
一神教と多神教をまとめてしまうことは元々されていないわけです。楽山が、宗教について何も知らないことを表しているだけなのです。結局、楽山の、自他未分化、神聖と自分未分化、ということです。そのことは「心の理論」の誤解~曲解に表れていました。
 
さらに、楽山は、恐れをいだくべき対象を考えられず、全部、自分の世界の持ち物扱いになっています。自分の貧困な枠の中で、あたかも、世界の真理を語っているかのように装い、その報いとして、自己愛だけの崩壊した精神となっているのです。
 
腹いせのためだけにキリスト教を攻撃し、嫌がらせする悪意だから理路も共感もなく書ける、ということに、楽山は、満悦できる人物のようです。書けば書くほど、楽山という病魔の根深さを感じます。壊れた人、楽山に、決して近づかないでください。
 
 
人の信仰は、悪魔性に勝てるでしょうか。単独で勝てはしません。できることをして、結果を神に委ねるだけです。そうして、積み重ねられてゆくものが、必然的に、信仰においては神への捧げものとなり、受け取りは、いつも神に任されます。
 
 
魔性は、信仰に勝てるでしょうか。勝てるでしょう。人間的なエネルギーを、少しも使わず、消費しないのですから。しかし、そういうエネルギーは、神の前では、泡沫になると知っています。
 
楽山は、自分あての独り言の手紙でしかないものを、他者への悪口で満たして、公共の場に貼りつけ、かつ、何も受け取らず、自己満足の砂場に、怒気だけを積み重ねて、破壊の鉱毒を自らに満たしてゆくのでしょう。
 
シャロームと同様に、宗教についての偏見を訂正不能にして、否定の先入観を、公共の場に垂れ流しているから、楽山の言は、文責を負わない分、理路も共感もなく、短絡的に乱暴で、侵襲性のある誘導となり、とても有害なのです。
 
 
自己破壊のブーメラン

自己破壊のブーメラン
 
 
(2020年05月13日)
(2021年05月25日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
·15時間
やっぱり、こうしてツイッターをやる上で
・情報は漏らさない
・秘密は守る
・他人のプライベート等を詮索しない
って大事だよね。お互い、身バレのリスクとかもある訳だし。
とにかく信用第一!
午前9:49 · 2021年5月23日·Twitter Web App
 
ツイートに対しての反論ではなく、楽山批判です。なぜ、このツイートを引用しているかということです。「情報は漏らさない」「秘密は守る」「他人のプライベート等を詮索しない」・・楽山の秘密は、罪悪の秘密です。そして、何か悪いことに誘導する意図があります。
 
知らせなければ、だまされる人が増えるでしょう。いわゆる、悪の隠し事ですから、プライベートではなく、詮索ではなく、隠そうとする者を放置してはいけないから、公開して敷衍すること、即ち、広く知らせることが必要だということになります。
 
他者の口を、詭弁に変える楽山のリツイートです。楽山が隠しているのは、尊厳にかかわる個人情報や秘密ではなく、無視と無反省と無責任の、反道徳の罪悪です。どんどん暴露して明らかにして、楽山を裸にするしかありません。楽山は、信用してはいけない人です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
幸福の科学における二世問題は、(略)幸福の科学学園や「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ」という、無認可の”大学もどき”に2世の多くが通い、
そこで社会性や常識が身につかないまま「宇宙人」や「霊言」などの荒唐無稽な教義を刷り込まれ、反発する者は悪霊扱い、などの点が問題。
午前0:40 · 2021年5月23日·Twitter Web App
 
ツイートした人ではなく、リツイートした楽山を批判しています。楽山は、また、他者の言を、恣意的に、悪用しています。「社会性や常識が身につかない」典型は、楽山です。反省しないですし、発言の責任を負いません。大人なら弁えることを、楽山は、感じないし考えない人です。
 
楽山は、霊の問題に執着して、ふつう、なくてもいいし、結論が出るわけでもないような、霊の関連の記事が多いわけです。霊能があって霊が分かるつもりでいるのでしょう。ゆえに、霊言についても記事にしています。楽山にとって、他者は人間ではなく霊なのかもしれません。
 
つまり、楽山は、常識人ではなく、HSを批判しても、本当の批判になっていないのです。宗教と信仰についても、霊とかの超常の問題としてしか考えていません。現実の生き方に必要だとは思っていない、というより、楽山には、現実に向かう視線がないと思います。
 
つまり、楽山の考え方は、空想的なカルトに近いということです。超常の辻褄合わせに、執拗に、こだわって、日常の考え方と感じ方が、習得されておらず、したがって、現実の宗教と信仰について、何も、まとまった意見を書けません。お伽噺のヒーロー願望ではないかとも思われます。
 
 
 
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  楽山は見物人
 
 HSUに違法行為はない!
 (『宏洋の言いがかりを完全論破』)
 2021年05月23日 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
動画は省略します。私は、宗教と信仰の敵、楽山を批判しています。
 
*HSU議論
宏洋氏のHSU批判に対して、与国氏らが反論していたので、ここに貼っておきたい。
・【ぼったくり】【脱税疑惑】HSU(ハッピーサイエンスユニバーシティ)の高すぎる学費が明らかに。『私塾』の授業料は非課税ではないので、脱税になるのでは?
・【嘘つき】『幸福の科学大学』が違法行為をやっています【イケハヤ】【ホリエモン】【堀江貴文】【中田敦彦】【HSU】【ハッピーサイエンスユニバーシティ】
・宏洋の言いがかりを完全論破 HSUは宗教修行を行う高等宗教研究機関 【宏洋氏に物申すシリーズ113】
 
また、人の口を借りているだけの楽山です。何かの試合を見ているスタンスなのでしょう。真に迫って批判が必要だという気持ちや、アンチに共感する心はないと思います。楽山を信用しないでください。真剣味もなく、自己顕示するだけの目立ちたがり屋だと思います。
 
*三つの論点
宏洋氏はHSUの脱税疑惑、学費比較、名称問題を論点しているが、広報チャンネルの反論は次のようになっている。
*脱税疑惑
まず脱税疑惑については、HSUは高等宗教研究機関であり、授業料はお布施(非課税)であるとのことだ。
*学費比較
宏洋氏の「学費比較」は不公正であり、印象操作だという。
*名称問題
HSUは「university」であり、「大学」とは名乗っていないから違法とはならないとのことである。
 
楽山は、HSの言い分を引用し、省略しますが動画を貼って紹介しながら、そのことについて、自分で批判していません。できないのでしょう。楽山を、アンチHSと見なすのは、間違いだと思います。精魂込めるという態度が、楽山には皆無であり、見物人・傍観者の立場しか表していません。
 
*公明正大、単純明快な正論に期待する
こうしてみると、広報チャンネルは、タイトル通り、宏洋氏の主張を完全論破したといえる。
 
楽山は、無反省、無責任ですから、他者の "完全論破" を判断することも出来ません。ただただ、自分を、まともに見せかける自己顕示欲の強情であり芝居に過ぎません。自分を、批評とかの出来る知識人と思わせたい楽山の、むしろ、欲望の表出であります。
 
ただ個人的な感想を述べると、学費比較については広報チャンネルに理があるとは思うが、他の二つについてはディベートとしては面白いけれども、その主張が現実社会で受け入れられるのは難しいのではあるまいか。法律論として通ることはあるのかもしれないが、一般人の多くはこういう理屈にはあまり良い印象は持たないだろう。議論では勝っても、その結果、社会的信用を失ったというのでは仕方ないし、広報チャンネルはこの点についても注意してみてはどうかと思う。
 
「ディベートとしては面白い」・・・楽山は、体質的に相手の言うことを少しも聞いていませんので、何を言われても反応しません。つまり、ディベート・議論・討論などは出来ません。人の口を借りて、人のことを揶揄して、議論に見せかけています。
 
「法律論として通ることはあるのかもしれない」・・・楽山は、法も、法の精神も知らないし、何より、反省・責任といった最小限の人道すら身に付いていないので、法律について、何か実のあることを言う、という能力はありません。
 
こういうのは、すべて、楽山の "気取り" です。人の、ときには本の、口を借りて、自分を上等に見せようとしてきますが、受けて答えるという反応が出来ないことは、今までに表れてきたことですから、もはや、また言ってる・・という空しさだけ、性懲りもなく空回りさせているのです。
 
「良い印象」・・・楽山の丁寧語や、学者口調に、だまされて、受け入れている人がいるかもしれませんが、印象は中身を示しません。だから、印象操作という詭弁を使う楽山のような者が、今もネットで存在しうるのでしょう。嘆かわしいことです。
 
それと、アンチを自称しながら、HSをサポートしてアドバイスをしているかのような筆致です。どっちの味方なのでしょう。楽山は、明確な立場というものを持てない人です。自己の主張も立脚点もなく、自己を顕示することだけを面白がっているのです。
 
楽山などいなくても、アンチは活動しているわけですから、楽山が書いていることは相手にしないでください。楽山が、アンチとHSについて、何か語っても、言った責任を負わないのですから、結局は、余計なお世話であり、障害にしかならないと思います。
 
楽山は、どこまでも単方向の自我の奴隷であり、誰の仲間にもなれない人です。平気で他者の意見を無視するような人ですから、こちらも議論や行動の仲間・戦力からは完全に除外して、徹底して無視してゆくしかありません。交流しても、節操のない楽山は、何も言ってないのと同じです。
 
 
末路の自己顕示

末路の自己顕示
 
 
(2021年05月24日)
 
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
 
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
(旧作です)
 
 
 
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  楽山の零言
 
 星野源 守護霊の霊言が話題になっていた
 2021年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
ゴシップ好きの楽山は、こういう話が大好きなのでしょう。真剣ということが全く成り立たない楽山は、キリスト教と神さえも、ゴシップのように興味本位で扱って、根拠が無くても、平気で、おとしめ、否定してきました。
 
根無し草で無反省で無責任の軽口を、あたかも、真理であるかのように語る楽山を、決して信頼しないでください。楽山には、自己愛からの虚言と妄想と固定観念しかありません。
 
楽山は、霊言が大好きなのです。楽山は、記事にもしばしば取り上げていました。
 
*守護霊の霊言というけれど…
新垣結衣と星野源が結婚したとのことで、アンチHS界隈では改めて星野源守護霊の霊言が話題になっていた。そのなかで次の記事をツイートしている方もいた。
・幸福の科学・大川隆法の「星野源」守護霊インタビューを読んでみたら驚愕の内容が...いまも童貞、風呂の鼻歌で曲作り (2017年2月16日) - エキサイトニュース
(リンク省略)
教団は霊言は真実であり、宗教的秘儀だとかいうけれど、こういう記事を読む限りは、たちの悪い冗談だとしか思えないというのが正直なところだ。
 
霊言について、ここでは、批判していますが、楽山は、今まで、憧れであるかのように、書いてきました。無根拠で受け取れるかのような、インスタントな超常が大好きな楽山です。こういう心霊好みの人の意見を受け入れるべきではありません。自分で判断してください。
 
*他の評価は…
この霊言について他ではどう評価されているのか気になったので、とりあえずAmazonを見てみた。
・俳優・星野源 守護霊メッセージ「君は、35歳童貞男を演じられるか。」 (OR books) | 大川 隆法 |本 | 通販 | Amazon
(リンク省略)
カスタマーレビューをみると、星4つをつけている人もいるけれども、ほとんどの方が強く憤慨している。本人の著作と間違えて購入しないようにという注意もある。それはそうだろうな。
 
「それはそうだろうな」と楽しんでいる楽山を信用しないでください。まともを装う楽山は、ゴシップと同じ視野で、宗教と信仰の真実を知ろうともしないで、否定してきました。無知であるのに、恥を感じない無恥であります。話が、散乱して、また、"人それぞれ" になってゆくからです。
 
大きなお世話かもしれないが、HSはこれらの意見を尊重し、霊言集の表紙、売り方について再考してみてはどうだろうか。
 
「大きなお世話」ではなく、何のお世話にもなりえないのが、楽山です。何か世話をしようとか、助けようとか、糧を提供するとか、生産的な意志が、楽山にはないのです。軽いことも、重いことも、雑談しか出来ません。だから、「大きなお世話かもしれない」ではなく、迷惑にしかなりません。
 
楽山は、確かアンチHSを気取っていたはずですが、「再考してみてはどうだろうか」と、ご丁寧な言い方で、まるで、ご意見番のように、アドバイスのように書いています。真摯だから?紳士だから?・・違います。責任をもって、一貫した文脈を構成する、ということが出来ないのです。
 
興味本位だけなので、主張が、散乱するからでしょう。楽山は、きっぱり否定したり、全否定したりが、出来ない人です。いかなる宗教も真剣に考えたことのない、いい加減さが、今まで表れてきた楽山です。感性が鈍く、知性がまとまらず、責任を負う気がないから、はっきり書けないのです。
 
このように、誰もが、おかしいと思うような他者の不都合を、楽山は、喜んで記事にして、楽しんで、おとしめてきます。自分以外の、自分と同じ意見以外の、他の意見を、考察することが出来ないのです。結論から始まって、結論に終始します。こういう者が、煽動屋ということです。
 
自分単独では何も考えることが出来ない、理路が成り立たない、心に響くことがない、心に響かせる文章が書けない、だから、無根拠に、当たり前でしょ・・ということに飛びついて、丁寧語でカモフラージュしながら、はやし立てるわけです。
 
そのくせ、楽山は、責任を負わせられては、たまらないのでしょう。八方美人というか、曖昧というか、煙に巻くというか、何を書いても、言い訳や、責任回避がついてきます。責任を負う気がないなら、書くべきではないのですが、自己顕示と自己愛が、粘りついて、結局、ずっと、卑怯者です。
 
霧雨の、くもりガラスの、煙が目に染みるのではなく鼻に突く、そういうことしか書けないので、オブラートに包んで、すぐに破れて粉のように散乱してゆく、それが、楽山の言であり、その時点で、既に、楽山は、言論者ではなく、口さがない軽口のゴシップマニアです。
 
(ネットより)
くち‐さがな・い【口さがない】 の解説
[形][文]くちさがな・し[ク]他人のうわさや批評を無責任・無遠慮にするさま。「―・い世間の人々」
 
小鳥のさえずり twitter は、聞いて気持ちがよいこともありますが、楽山の無責任な記事とツイートは、みるたびに、うんざりします。
 
(ネットより)
Weblio 辞書 > 英和辞典・和英辞典
twitter
(小鳥の)さえずり、興奮、身震い
tweet
チッチッと鳴く
 
楽山の霊言についての話は、零言です。チッチッではなく、ピヨピヨでもなく、
耳鳴りのような、シーシー、キーンキーン、チェックソ、・・の類です。
 
 
災い

わざわい
 
 
(2021年05月23日)
 
 
 
  止めてごらん
 
焼いてごらん この網膜
裂いてごらん この硬膜
切ってごらん この動脈
湧き水だよ 面白いよ
戻してごらん この食欲
晒してごらん この性欲
潰してごらん この贅沢
どんよりだよ 眠たいよ
殺してごらん この希望
殺してごらん この無謀
殺してごらん この骸(むくろ)
どんよりと曇った日の
山奥の涌き水を止めてごらん
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
 
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
 
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  神と二項2
 
 少し修正して再録
 
 
嬉しいと思える恵みは
同時に試練だ
喜びのために思い上がらないようにと
 
試練としか思えない悲しみは
同時に恵みだ
立ち直って成長するために
人によっては
生死を超える神の民になるため
 
失望は新たな願いを生む
 
絶望は否応なく希望を生じる
その希望が次々に消えてゆくとき
絶望は強く迫ってくるので
人は成り行きを思い
運びを思わざるを得ないだろう
そのとき信仰は
少なくとも絶対孤独から人を救う。
 
恵みと試練
希望と絶望
 
相反するような二つはともに
神と人の間で
御心と人の心が奏でる調和とも言える
 
しかしその調和と一致を
人はごく一部しか理解できない
 
その調和は人が保つのではない
 
人は自分自身についてさえ
存在のバランスを保ち得ない
 
人は不変ではありえない
 
 
存在のバランスと調和は
常に神のもとにあり
人が完全な調和に到達するとしても
恐らく人の終末か世の終末においてのみであり
 
だから人は生きている間
自らの存在について
調和やバランスを保つことは出来ず
自らの意思によらなくても
変わってゆくしかないのだろう
 
反対に見えるものが
同時に存在して矛盾し対立し破壊することのないように
対立している二項は
神によってのみ調和するのだろう
 
だから、人は、しばしば矛盾している
 
ゆえに、人の言葉による固定的な見なしは空しくなるだろう
 
人は自ら調和を目指すことはあるが
人は自ら調和を完成することはない
 
人間の尊い言葉の一期一会と
神への正直な一所懸命の捧げものを通して
地上の命では見ることの出来ない憧れがあり
それは
人が地上では知りえない神の世界において
秩序と慈愛の一致として
対立する二項の調和した存在の
一つの表現形式に過ぎなくなるのだろう
 
恵みと試練
希望と絶望
 
神の世界においてのみ
人は存在の根源に帰って
神と人は一つの生命になるのだろう
 
 
(2016年01月05日、同日一部修正)
(2021年05月22日、一部修正)
 
 
私たちが、刺激を受けて動揺するのは、
私たちに常識と良心があるからです。
 
ある変な牧師の説教が
カルト妄想者によって引用されていました。
信仰を死体に喩えて、ビクともしないと。
まるで呪いのようです。
 
偽善カルトは何を言われてもビクともしません。
まさに、生きた人間の活性がどこにもなく、
死体のように、ビクともしないのです。
 
 
メモ的に:
 
ほぼ恒常的で、ほぼ秩序立っていて、ほぼ双方向の感覚であれば、
人間は、それを感覚に過ぎないとは思わず、幻想だとも思わず、
実在だと思い込む。
 
つまり、実世界は、そのような感覚世界と、つまり、ある意味、共同幻想と、同値である。にもかかわらず、その世界で、真実を求めて、一生懸命、感じ取り、考えようとするのは、人間だからである。自らを、空しさの餌食にしたくない人間だからである。
 
 
どこまでも生けるものとして

どこまでも生けるものとして
 
 
(2020年05月15日、加筆修正して再投稿、同日一部修正)
(2021年05月22日、加筆して再録)
 
奏でる(かなでる)
嬉しい(うれしい)
否応なく(いやおうなく)
一期一会(いちごいちえ)
憧れ(あこがれ)
 
 
 
  君ではない
 
痺れた手に持てと言う
折れた足に立てと言う
軟化した脳に思い出せと言う
忘却を描けと言う
色を無くした眼に彩れと言う
音を無くした耳に踊れと言う
泡を吹く動かぬ口に語れと命ずる
それは紛れもなく君自身だが
咄嗟(とっさ)
君ではない
 
(90年代か)
 
 
 
 ツイッターに書いたこと:
 
聖書を読むとは、
旧約聖書を読んで、神と人の違い、即ち、人が罪深く不完全であることを知り、
新約聖書を読んで、キリストと人々との関わりから、信仰の義、即ち、人間らしい正しさがどういうことであるか、人間の不義、即ち、神に背くとはどういうことかを学ぶことです。
 
自己愛者は、ベースが訂正不能の自己愛ですから、自身を、不完全だとか、部分的にも間違っているとかを、考えることが出来ません。したがって、人間には届かないような超常のことも、分かったつもりだけで得意になって、語りたがります。
 
したがって、どんどん、求道や成長から外れて、しまいに、誰にも通用しないような、危険な妄想の境地に至ります。よって、何かを行なえば罪か偽善、それを人に向ければ疲労~人格破壊をもたらします。犯罪に及ぶ可能性もあります。
 
自己愛者は、いかなる危機の場面でも、誰も救えません。いちばん先に逃げる人です。逃げてしまったとき、正常な人であれば、救えなかったという悔いが残り、場合によっては、共感になるでしょう。しかし、自己愛者は、非を認めないのです。
 
そのために、なぜ救わないんだと人に言っても返されるだけなので、結局、神のせいにするのです。そういう醜い自己正当化を平気でして、平気で納得し、自己満悦して、どこまでも、どこまでも、非を認めず、反省せず、責任を負わない厚顔無恥が特徴です。
 
(2021年05月21日、ツイート済み)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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