ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年05月

 
  退行の繰り言2
 
 神は、悪を容認しているのだろうか?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月29日
 
 
楽山は、今度は、HSだけでなく、キリスト教否定のキレ気味の記事を2つ書いてきました。意地でしょうか、単純なのでしょうか、それとも、相手にしてほしいのでしょうか。読めば、語調が強くなっただけで今までとほぼ同じ繰り返しです。一つ覚えのようです。
 
楽山は、"正義の味方気取り" で書いていますが、前に言ったことを強調しているだけです。いつまでも、その疑問の中にずっと棲んでいたいようです。実際は、思い通りにいかない人生を、神のせいにしているだけだと思います。
 
楽山は、小学校レベルの理屈で、信仰を否定できると思っているようですが、実際は、書くたびに、共感性のない無理解が明らかになっています。分からないのに否定してくる楽山の言は、信仰者にとっても、非信仰者にとっても、丁寧語という仮面をかぶった的外れの汚言であります。
 
楽山は、信仰を受け取る器が、自己愛過剰の自尊過大によって、損なわれているので、信仰のいちばん大切なことが分からないのです。
 
だから、結局、前後関係お構いなしに何でも利用する飢えた獣性があらわになっています。そして、ますます、自尊に固まってゆくのでしょう。キリスト教と人間、その一番悪い例になっています。
 
聖書で言えば、楽山は、キリストを裏切ったユダは後悔したので当てはまらず、強いて言えば、神が供え物を受け取らなかったとき、どうしてですかと砕けた魂で訴えるような悲しみをいだけず、怒るだけだったカインに似ています。
 
創世記のカイン、恐らく、しんみりした悲しみも罪悪感もいだけないサイコパスの起源でしょう。
 
これは本書に引用されている文章の一部である。「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ないというところまで踏み込んでいるのは随分大胆だと思う。
私は、ある残酷な男が自分の妻を二階から蹴落とし、彼女が気絶してしまうまで蹴りつづけた、という話を聞いた。私は事の怖ろしさを強く感じた。その瞬間、『そんなことを許す神など私には必要がない』という考えが私の心に閃いた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
個人的な好悪で言うならば、自分は相手に対して要不要で判断するのは嫌いである。ただそれでもこの人物の気持ちは理解できなくもない。
 
どうやら、引用元も、楽山も、自分は怠けたまま、どんなときでも、めでたし、めでたし、ということにしてくれる神?でないと承知しないようです。つまり、100%好都合を与えよ、と言っているのです。そういう傲慢の者に、神も、キリストも、分かるはずはないのです。
 
この二人は、身から出た錆を、金粉に変えてくれる恣意の命が欲しいのでしょう。これは、いつも赤ちゃんのように乳を吸っていたい我がまま者の夢・幻の揺り籠のお伽噺でしかありません。このような自分勝手な怠け者たちの欲望に、神が反応して恵みを与えるでしょうか、否です。
 
前にも書きましたが、罪は、自由意志を与えられた人が犯すものです。その自由意志を、神の御心を考えることで、育ててゆくのが信仰の成長ですが、この楽山と引用元は、自分で自分を育て損なったことを、神のせいにしています。
 
すでに書いたような幼稚なことをまた繰り返して、いちゃもんによってキリスト教をおとしめてくる楽山です。このような人の言うことを受け取って、自画自賛の繰り返しを受け入れて付き合っていると、人格を破壊されます。決して近づかないでください。
 
「「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ない」という引用をして賛同しています。自分信仰の楽山には必要ないのでしょうから、悔い改めもせずに、滅びてゆく経過が、作文に表れています。
 
楽山は、偽善者です。そして、その悪意さえも、神のせいにしたいのでしょう。上の引用で、暴力を振るう男は、罪悪感がなく執拗という点で、楽山に似ているのです。
 
罪は人間が犯すものです。そして、人間は、警察や司法を考えだしました。人類は、少しずつだが、進歩し続けているのです。歴史は、まだ途中なのです。つまり、人間は恐ろしい性質を持っているが、正しさを求めてもいるのです。楽山は、総てを神のせいにして、一途に退行してゆくのでしょう。
 
そして、悔いることさえしない楽山のような者が、記事を書いて、自分で何かをよくするすべも示せないで、神を否定しながら、自らは、卑怯な言論を続けている限り、"正義の味方気取り" の楽山のような偽善者はなくならないでしょう。リアルで楽山が何をしているか、恐ろしいと感じます。
 
「相手に対して要不要で判断するのは嫌い」と言いながら「それでもこの人物の気持ちは理解できなくもない」と肯定している楽山独特の詭弁の卑怯さを覚えてください。これがボンヤリ言語という楽山の無責任言語なのです。じわじわと恣意を刷り込んできます。
 
神は、楽山のような身勝手に、都合よく合わせるような御方ではありません。楽山が、神の正義を否定するならば、それ以上に、人の正義の欠片もない悪と偽善の楽山自身を否定しなければなりません。楽山のような者の、正義に見せかけた安穏は、神によって保証されることはありません。
 
この世に悪があることで、神に文句言っても、言ってる本人が、悪人であるだけでなく、ペテン師、かつ、偽善者では、話になりません。
 
神は全能であり、何でもできるならば、この世の悪逆非道な行いを止めることもできるのだろう。
 
神の全能は、神の意志によって表れるもので、楽山などの、わがままを助けるために都合よく顕れたりはしません。自らの悪逆非道を止めることに何の努力もしない者に、好都合なことは、一生、神によって顕されることはないということです。
 
人間は、神に似せて、自由意志を持って造られた以上、楽山のような怠け者の偽善者を除いて、自分で何とかしようと考えます。そして進歩するのです。
 
何でも、悪があるのは神がいない証拠じゃろ、・・と短絡するような、楽山のような者は、では、神を信じないで、あなたはどう解決するのですか?、という問いには、何も答えを用意していないのです。どこまでも、卑怯な偽善者は、楽山その人です。
 
そして、自尊を満足させるためだけに、まるで正義の代表であるかのようなふりをして、この記事のようなものを書いて、結果として、誰よりも醜い自分を曝してしまうのです。
 
まさに、総ての不都合を、人のせいにし、神のせいにしてきた、楽山の、自己愛性人格障害が全開です。楽山は、自らの口から出る排泄物を、神に投げて、どうするつもりなのでしょう、どうできると言うのでしょう。
 
でもいつまで待ってもこの世の悪逆非道な行いは無くならない。その兆しもない。
 
神と人のせいにするばかりで悔いない楽山のような者が、大口叩きながら、そこにいるからでしょう。楽山には、悔い改めの兆しも見えない。
 
つまり神はすぐにこれを止めようとは思っていないのだ。そんな神ならいてもいなくても何も変わらないだろうし、「神なんていらない。どーでもいい」という人が出てくるのも仕方がないことではある。
 
「神なんていらない。どーでもいい」・・これは、楽山の意見ですが、楽山は「という人が出てくるのも仕方がない」と、人の口のように書いてくる、これが、楽山の、婉曲的で、無責任で、とても卑怯な、ボンヤリ言語の書き方なのです。
 
楽山にとっては、どうでもいい神?ですが、人間には、求道者には、信仰者には、生きてゆく上で、神が、キリストが、必要なのです。
 
楽山は、神?をけなしながら、相変わらず、人と神のせい?にしながら、生きてゆけばいいでしょう。しかし、楽山が、必要な知性も感性も自覚も反省力もないのに、同じことを繰り返して、神否定を公の場で煽動することは、結局、否応なしに、楽山自身が責任を負うことになります。
 
ましてや昨今は、いじめっ子だけでなく、それを見て見ぬふりをしている者も、いじめの加害者だという考え方が広まっている。これからしたら、この世の悪を放置している神もまた、加害者であり、批判されてしかるべきだということにもなるだろう。
 
さんざん批判されて何も返せない楽山が、キレて、上のほうでは、神なんていらない、ここでは、神を加害者だと、罵詈雑言相当の悪口を連打しています。
 
何様のつもり?
 
楽山こそ、おとなしい書き方の裏に、恐ろしい敵意と悪意を込めているのがバレていると分からない人のようです。自分の不遇の腹いせを、神に向けているのです。
 
子供たちの味方をしている正義芝居をして、楽山は、何をしてきたかといえば、偽キリスト者シャロームの味方をして、アドラー教の自己中の片棒を担いで、気に入らないことは無視しましょう・・なんて、自己中カルトの手先、あるいは、成りすましに過ぎません。
 
楽山自身は何なのか。子供を守る正義を実行したのか、否、何も出来ないし、そんなこと考えてもいないくせに、自分を棚に上げて、正義ぶって、文句ばかり言って、苦難の世であるからこそ生きるための救いと癒しの伝道の、全く邪魔ばかりしている、実に、典型的な偽善者のパターンです。
 
こういうことを考えるのは、宗教的には神に対する冒涜であり、悪の中の悪ということにもなるのだろうけれども、悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する限りにおいては、この世に神も仏もあるものかという義憤を堪えるには、相当に信心深く、穏やかな性格に恵まれてでもいなければ無理な話だ。
 
楽山の言う「穏やかな性格」を信用しないでください。悲劇に反応しないような、穏やかな性格はありません。楽山は、何の解決法も示せないで、神よりも上から、暴言の限りを尽くしているのです。こんな人を信用したら、人生は、破壊されるでしょう。
 
神に対する冒涜、悪の中の悪が、偏向した目で「悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する」などと言っています。悲惨残酷なのは、他者と神の悪口ばかり言って進むことだけは怠けている自己満悦の楽山その人であります。
 
「神も仏もあるものか」が義憤だと言っています。義憤は不正に対する正義の怒り。神に対して義憤は成り立ちません。楽山の反キリストらしい決めつけです。義憤だと言った時点で、神の恵みには気づかなくなるでしょう。発言が無責任な楽山は、やたら言っては、何もしないでいる人です。
 
神がいないようなこの地上世界、それは、誰もがいだく疑問であって、人間は、そのことを受け止め、考えながら、真実を求めて、成長しながら懸命に生きてゆくのです。
 
だから、正常な人は、疑問があるからといって、とどまってなどいないのです。不平不満で文句ばかり言うのは、楽山が、そこにあぐらをかいて進まない人だから、ということに過ぎません。
 
自分を省みず、無根拠に神を否定し、そのくせ、「信心深く、穏やかな性格」などと言って、口調を穏やかにしたつもりのようです。下種というのは、このようにも、卑しい書き方をする、という結論しか出てはきません。浅はかな楽山、これだけバレても、まだ懲りないようです。
 
これはいささかいわゆる厨二病的な思考でもあろうが、この神議論、弁神論的な問題が解決されない限りは、今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう。
 ちなみに、映画『ひ・き・こ降臨』では主人公がネットで下の画面を見る場面があった。
 
「 神様なんて本当にいるのでしょうか?
 いるとしたら、
 どうしてこれだけの理不尽が
 世の中で許されているのでしょうか 」
 
これは神について考えるとき、どうしても避けて通れぬ論点なのだろうと思う。
 
楽山は、神義論を避けては通れぬと言って、神を信じないのは楽山の勝手だとしても、読者にまで、停滞を勧めているから、批判することになります。成長する人は、あまりに遠くに行って、取り残された格好の楽山の、実に、自己正当化らしい、思い上がりの発言です。
 
もう一度、書いておきます。神がいないようなこの地上世界、それは、誰もがいだく疑問であって、人間は、そのことを受け止め、考えながら、真実を求めて、成長しながら懸命に生きてゆくのです。信仰者も、この点は、同じなのです。怠慢な楽山だけが、文句ばかり言っているのです。
 
楽山は、自分の遅れた分を取り返せないので、神を否定したいだけなのです。できるだけ多くの人を巻き添えにして、いい気になりたいのでしょう。
 
悲劇の映画の心情の告白を書いて、「避けて通れぬ論点」と言っています。楽山は、全部、神のせいにして、逃げているだけであり、疑問についての人間らしい共感ができていません。不平不満にキレているだけで、"悲しみ" が、どこにも表れていないのです。
 
この映画は見たことはありませんが、この台詞を言った役の中の登場人物は、楽山みたいに、文句ばかり言って神を否定する人になったのでしょうか。それでは、映画のストーリーが成り立たないと思いますが。
 
だましてでも味方を増やしたいだけの下種というのは、こういう台詞までも、自分に近いと判断して、前後関係もお構いなく利用して、自分を高めてきます。引っかからないでください。
 
楽山は、中二病ではなく、言葉だけ学者を気取って、実際は発達が止まったままの小児退行だと思います。神義論が、つまり、神の正しさが、人によって証明されることは、地上ではないでしょう。短絡した否定に終始する楽山は、これからも、努力もしないし、進歩もないでしょう。
 
「今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう」・・・楽山の "呪い" です。人より上に立っているつもりだけの人です。疑問を、自己正当化と、神に対する他罰に明け暮れている楽山こそは、呪いしか持ってはいないのです。
 
自分の機嫌と快楽原則だけで、存在の是非まで決めつけてくる自己愛性人格障害のインチキ説教者なのです。偽牧師シャロームと気が合うはずです。
 
 
 宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月29日
 
 
抜粋です。HSについての部分は省略します。宗教は、信じ方が問題です。楽山のような考え方で信じると、楽山のような反宗教になるでしょう。
 
これは本書に引用されている手記の一節だけれども、自分もこれと同じとは言わないまでも、似た経験はある。
十六歳のとき、私は教会の会員になり、私が神を愛するかどうかを質ねられた。私は型のごとく、期待どおりに、『はい』と答えた。しかし、たちまち閃くように、私の心のなかでなにものかが『いや、お前は神を愛していない』と言った。私は自分の虚偽と、神を愛さない自分の邪悪さとに対して、恥じらいと悔いの念に長いあいだ悩まされた。この恥じらいと悔いには、復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない、という恐怖が混じっていた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
 
ここを引用するのは、楽山が
「復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない」
という恐怖を煽りたいためとしか考えられません。
 
それにしても、楽山の神?は、救いはしないが、復讐はする、という神?のようです。
そういう神?、私は知りません。何とでも尾ひれを付けてくる楽山です。
 
思うに、信仰というものは、大して信じてなければなんとでも言えるけれども、本気で信じていれば信じているほど「信じます!」という信仰告白は難しくなるものなのだろう。そういえば以前、匿名掲示板において、とあるクリスチャンと議論したときに、「洗礼を受けたということは、いざという時には殉教も覚悟しているということですか」と問いかけたら、「そうあるべきだろうけれども…」とはっきりしない答えが返ってきて、それを聞いた自分は、この人は本当に信じているのだなあと思ったものだったが、HS信者が命懸けだとか不惜身命だと息巻いているのを見ても、この人は全然本気じゃないんだなとしか感じないのもそういうことなのだろう。
 
神への恐れを知れば、不正直に豪語することを恐れるようになるからでしょう。これは、信仰の、一つの成長なのです。偽キリスト者シャロームには、それが、全然、見られませんでした。もちろん、楽山も、何も知らぬゆえに、恐れも知らず、神から人を遠ざけようと、悪口ばかり書いてきます。
 
この楽山の記事のタイトルは誤解を招きます。楽山は神を信じたことなどありません。意図的な侮辱でしょうか。「宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?」のではなく、神への恐れを知る者となって豪語を避けるのは、信仰の成長なのです。それこそが、信仰告白になります。
 
結局、人は本気であればあるほど責任について考えるものであるし、そうであれば当然のように口は重くなり、軽はずみなことは言えなくなるものなのだ。もっとも世の中にはいろいろな人がいるわけだから、すべてがこの通りというわけでもあるまいが、少なくとも自分についてはそんな風にできているのは確かではある。
 
恐怖の楽山が「本気であればあるほど責任について考える」と言っています。さらに「自分についてはそんな風にできているのは確か」と言っています。真っ赤な嘘です。楽山は、自己愛性人格障害で、徹底して、自分の刹那的な快楽と満悦だけを貪ってきた無反省と無責任の男です。
 
「軽はずみなことは言えなくなる」「自分についてはそんな風にできているのは確か」
・・これこそが、軽はずみな発言であり、言葉を真剣に考えていない証拠で、さらに、これは自慢になりますから、のぼせ頭からの白々しい自慢の軽口です。
 
楽山の言は、ことごとく、その場の思い付きの軽口であります。しかも、平気で、嘘を吐いています。
 
発言の責任能力は、キリスト者の場合、神を恐れるがゆえに、神の前において、正直であるべき、嘘は吐けない、飾ってはいけない、大口は叩けない、という自覚から、成長してゆくでしょう。
 
楽山は、地上で解決しない疑問によって、神を否定して、そこから全く成長が見られないので、発言についても、言い放って終わり、という、シャロームと同じで、責任能力は皆無です。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自覚で、心理学の「心の理論」を心霊という酷い曲解、奇跡についての循環論法に気づかない、など、めちゃくちゃなことを好き放題に言って、訂正していません。
 
今までも、思いつきで発言し、詭弁で正当化して、それを訂正せず、今また、自慢しているわけです。反キリストは、自分しか頼るものがないので、悪を、いちいち、正当化して、自慢に変えてゆく宿命になります。ゆえに、次第に、くずれが明らかになってゆくのです。
 
頭も心も生き方も人生もメチャクチャになって収拾のつかない楽山の醜態が続いています。不都合を総て無視して、厚顔無恥だけで生きているのでしょうか。反キリスト・反宗教の、楽山の、根拠のない暴言と罵詈雑言であります。丁寧語にだまされないでください。
 
 
煽動者

煽動者
 
宣伝者・煽動者の攻撃から身を守りましょう。楽山に関わらないでください。楽山は、病的な自己愛からの、無反省・無責任・無理解のまま変わらず、丁寧語で、得意気に物を言い、ねちねちと宗教を、特に、キリスト教と信仰を否定してくるサディストだと思います。
 
 
(2021年05月20日、加筆して再録)
 
 
 
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  時と風2
 
 
時は風のようなものだ
 
あの日の時と
今の時と
それほど変わりはない
 
同じような時が日々の必要を告げる
 
あの日の風と
今の風と
それほど変わりはない
 
同じような風を頬に受けている
 
私たちの変わりようといったらどうだろう
 
時は風のようなものだ
 
流れてゆくようで
流している
 
流れてゆくのは私たちのほうだ
 
 
私たちは時ではない
私たちは風ではない
 
時も風も空しさを感じない
感じるのは私たちだ
 
私たちは
時に乗じて風のように進むのではない
 
時にも風にも限りはないが
私たちには限りがあって
 
時にも風にも変わりはないが
私たちは変わりがあって
 
必要に応じて
受けたものを返してゆく
 
感じるから返してゆく
 
 
※ 
 
あの日の時も風も知らないのに
まるで比べるかのように
未知の終わりに向かって変わり続ける自分
 
そういう悲哀に共感できる人は信仰に向いている。
 
一方で、そういう共感を全く持ち得ない者がいて、反信仰しか語れなくなっているが、そういう者が、なぜ、生まれて、存在しているのか、という疑問は、神がいるのに、なぜ、悪があるのか、という疑問とともに、神の大きな懐に秘められているのです。
 
 
(2019年04月)
 
(2020年04月25日、修正)
(2021年05月20日、加筆して再録)
 
 
 (伝道の書、口語訳)1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
 (伝道1:14、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
2:25
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 
2:26
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道2:25-26、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
4:15
わたしは日の下に歩むすべての民が、かのわらべのように王に代って立つのを見た。 
4:16
すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道4:15-16、旧約聖書)
 
信仰を持ち、日々、何かを努めるとしても、私たちは、時が経てば、寿命が尽きていなくなる存在。「風を捕えるようである」≒ 私が読んだ聖書の訳「風を追うようなものだ」、つまり、私たちは空しい存在だ。この地上の世界は、限りある私たち人間にとって、空しく思えてならない。
 
そのことを強調しながら、伝道者が伝えるのは、2:25にあるところの、神を離れては楽しめない、≒ 神がおられるからこそ楽しめる、という教訓的な讃美になっている。
 
地上の人の生き様が、いかに空しいかを説きながら、神のもとで楽しむことを説いている。いわゆる神への、逆説の讃美歌となっている伝道の書。私は、そういう伝道の書が好きです。
 
 
(2020年05月02日)
 
 
※ 近況
 
母は、4月30日、肺炎で入院しました。入院は、介護施設に入ってから3回目、今年2回目です。入院手続きとともに、ドクターからの説明あり、熱も下がって、肺炎は治りはするが、繰り返す可能性、急変もあり得る、そういうときの延命処置をするかどうか、など、要するに、"いつでも死にうるから覚悟せよ"的な説明を受けました。頷くしかない。
 
母は97歳、尿路感染と肺炎を繰り返せば、でこぼこのダウンスロープは、だいたい分かる。
 
入院手続きの話と、書類が、保証人、支払い、小物の申込書、日常の洗濯物、タオルなど、わぁ、私に聞かれても分からないことも多くて、私は、お世辞にも、まめな孝行息子ではないので、介護施設に連絡を取って、病院に電話して決めてほしい旨お願いして、前回、ハンコを忘れたので、今回は持っていって、書類は病院で書いて済ませて帰ってきました。
 
母はコロナの肺炎ではないようですが、慎重さが求められており、面会は出来ませんでした。今は元気だそうです。
 
(2020年05月01日の近況)
 
母は、腰の骨を折って、整形外科入院。そこで認知症が明らかになって、小規模多機能介護施設入所。肺炎や尿路感染で内科入院。そして、リハビリのために老健施設入所、そして、先月、有料老人ホーム入所となって今に至ります。面会もコロナ禍の影響で少なく、ときに必要な物を持っていって帰って来るという程度でした。
 
コロナについては、検査も、ワクチンも、未だです。親子共々、年が寄って、世間のことからは関心も離れてゆく感じになっています。どっちが先に・・・なんてことも考えますが、分からないことだらけで、神にお任せするしかないのです。せめて、日々の暮らしに、心が荒れませんように。拝。
 
(2021年05月20日、現在の近況)
 
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
(90年代か)
 
 
時と風

時と風
 
 
 
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  楽山の児戯性
 
 『竒談の時代』百目鬼恭三郎著 2020年05月16日
 楽山日記(LD)への批判記事を再録+
 
 
楽山は、今までの心霊や超常の話を、子供の空想話を出して、ごまかそうとしています。見苦しい言い訳ですが、楽山は、それで済むと思ってしまう人なのでしょう。恥とか罪とかを知る正常な心が無いからでしょうか。
 
本書は日本の古い書物にある不思議な話を分類、整理、紹介したものである。頁を繰ってみると、死後の世界や生まれ変わりについての項目があったので、とりあえずその部分だけ読んでみたのではあるが、どうも結論としては、著者の書きぶりからゆくと、それらはみな事実であるというよりも、生きている人々の作り話ということになりそうだ。こういってしまうと何やら身もふたもない話だが、どうもそれが現実であるらしい。
 
「古い書物にある不思議な話」について「作り話ということになりそうだ」と書いていますが、前の記事で「生まれ変わりを信じることができれば便利なんだよなあと思う。」などと言ったのは、楽山です。また、霊が分かるっぽい立場から、たくさんの記事を書いてきたのも楽山です。
 
心理学の「心の理論」という話を、霊が分かるっぽい話にしたのも楽山です。心理学は、心理について語るのであって、霊について語りません。
 
奇跡について、行き詰まりの循環論法を書いておきながら、分かったかのような筆致を捏造して、成り立たないデタラメを、もっともらしく見せているのも楽山です。
 
楽山と楽山の話こそ、「身もふたもない」のです。
 
(ネットより)
身(み)も蓋(ふた)もな・い の解説
言葉が露骨すぎて、潤いも含みもない。にべもない。「そう言っては―・い」
 
低次元の超常理解で、キリスト教とキリスト信仰と、一般に、宗教を、否定したり、深く信じないほうがよい、などという、わけのわからない信じ方に、おとしめようとしたのも楽山です。
 
自分が間違っていたことを認めて訂正するのではなく、違うことを書くのは、その場その場で、自分の都合の良いように、いい加減に書いてきた、ということを認めたことになります。
 
まず死後の世界の話については、その形成過程をみると、人々の疑問に答える形で拡充されて行っており、はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっているようだし、生まれ変わりについては眼前の不条理を我慢し、やりすごすために、前世の因業という話をこしらえ、それが広まったということのようだ。
 
「はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっている」のは、前からの、楽山の筆致、というより、日常的な、詭弁の営みのようなものです。もちろん、ペテンの営みです。
 
ですから、今ここで、戒める側にいるかのように、逆のことを言っていることは、楽山が、まとまった思想を持たず、いい加減な人物で、平気で嘘を吐き、その誤りを認めて謝罪~訂正することなく、別のことや、逆のことを、また平気で言うような人であることを表しているのです。
 
しかも、自らの不全や欠陥を、他者のせいにして、自分はそれを指摘しているかのような書き方をすること自体が、楽山という人が、言論というものに対して、非を認めることのできない卑怯者であり、自己中であり、無反省であり、信頼できない人であることを表しています。
 
こうしてみると不思議な話は信じ込むのでなく、自分の生活をよくするための方便として聞くか、エンターテイメントとして割り切るのが無難のようだ。
 
言ってみれば、楽山は、ずっと、人を惑わし、だますことを、エンターテインメント(娯楽)としているのです。そして、楽山には、身勝手で、邪悪な、ふざけたライアーゲームの娯楽しか生き甲斐がないのでしょう。関わる者にとっては、大迷惑~犯罪に結びつくものです。
 
今まで、学者気取りで、批評家気取りで、楽山の書いてきたことを、今さら、エンターテインメントだと言えば、それはそのまま、楽山は、遊びで、キリスト教とキリスト信仰をけなし、遊びで宗教や心霊について、ねちねち書いてきたということです。思想の芯となるものが何もないのです。
 
ちなみに余談ながら、自分の周囲にも前世を記憶する子供たちのようなエピソードはある。あくまでも知人の話ではあるが、彼は幼かった頃、生まれる前のことを知っていると言っていて、両親からそんなことがあるわけがないと笑われると、決まってこう答えたそうだ。
「ぼく、お母さんのお腹の中にいるとき、おへそから外を見てたんだもん。だから、みんな知ってるんだもん」
彼は今はもう幼かった頃の自分がそんな荒唐無稽なことを言っていたことはすっかり忘れてしまっているのだが、両親はいまだにこれを笑いの種にするので閉口しているとのことである。
 
楽山の幼児期のことでしょうか。のちに親から聞いた話みたいなことでしょうか。それで、楽山は、ずっと、自分は特別だ、霊の世界が分かるんだ、と思うようになったのでしょうか。霊が分かるっぽい自覚を語っていた楽山です。
 
そうでないなら、楽山が、今、このように書くのは、今まで書いてきたことなんか、オチャラケですよ、と言っているようなものであり、そのことは、楽山が、いかに、お気楽に、嘘を吐く人であるかを表しています。
 
ふつう、そういう人は、叱られて、書くことを禁止されるか、自ら控えるものですが、楽山には、その気がなく、何とか、冗談として乗り切れると考えているわけだから、あきれます。
 
惑わされないためには、読者が、近づかないようにするしかない、という結論になるでしょう。楽山は、嘘を吐いても、罪悪感も羞恥心も感じない人だということです。
 
想像するに、こういうことは子供なりのユーモアで言っていたことであろうし、それならば生まれ変わりがどうこうと真面目に受け取る必要もなく、このご両親のように朗らかに笑って楽しむくらいが丁度いいのだろうと思う。
 
楽山は、ユーモアだから、笑って楽しむのがいいと言っています。子供の話ならば、それでいいのでしょう。楽山は、子供でしょうか。いいえ、楽山は、大人として、実に長い間、宗教や心霊や超常のことを書いてきました。
 
楽山は、真剣味もなく、霊や超常のことを話して、否定も反省も訂正もしていないということです。オカルト趣味、ホラー好み、そして、宗教を、魔法の世界としてしか語ってこなかった楽山の小学校レベルの興味に付き合うことだけは、どうか、しないでください。
 
すでに、うんざりするくらい、読書家気取りで、本の、都合の良い文言を引用して、大きなテーマについて、空想~妄想話を書いてきて、今さら、子供の話を結び付ける詭弁で逃げようとすることによって、ますます、楽山の悪意が明らかになっています。
 
楽山は、底知れない悪意の人、そして、病識のない異常人格です。
 
 
独り遊び

独り遊び
 
 
(2020年05月17日)
(2021年05月19日、再録+)
 
 
 
  しみる夜
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れていく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
過去は現存しない
死んだ果実の名残を求めて
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
また一つ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
(90年代か。70年代から、
 学生でも、職を得ても、なお、
 堂々巡りの思考に浸かっていました。
 詩という形式は、感情を記録するのに有用です。)
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して
物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。
 
こんなことが出来るから従え
という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは
神の権威をもって語ったかもしれない。
物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
神の前の、正直と本気、信仰には必要なのは、それだけです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という、救われたい気持ちの必死さと、身の程を弁えた敬虔の表れです。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、女性が「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言ったことで、食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
私の経験から、言葉だけの敬虔芝居は、実に醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。
 
そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうに言葉を仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、正しいから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
心2

こころ
 
 
(2020年05月12日)
(2021年05月18日、再録+)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
 
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
(90年代か)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
「この人、いいこと言ってる」と思って、ファンになり、その人のことを追っかけているうちに、いつのまにか引き返せないところまで深入りしてしまってることもありますからね。要注意。
午後7:59 · 2021年5月17日·Twitter Web App
 
楽山の、自分が言われそうなことを他者に当てはめて、自分については安心だという印象を刷り込む詭弁です。以前から指摘していることです。「いいこと言ってる」のではなく、誘導です。楽山には、本当のファンはいないと思いますが、だまされた人がいると思います。
 
私は、数か月、だまされて、楽山を、まともな人だと思っていました。その後、約2年余り、批判しています。引き返すのではなく、私のように批判する人以外は、いっさい関わらないことが大事です。楽山は、人の話を、受け取っていないし、全く理解していません。
 
楽山の、無反省、無責任、無神経、高等感情の鈍麻、他者無視、良心の欠如、自己中、訂正不能、などの、人間にとって致命的な欠陥が、楽山のもっともらしい言い回しにならされると伝染する恐れがあります。楽山は、恨みを買うことを、気にせずにいられる自己愛性人格障害なのです。
 
楽山は、人をあざ笑うのが生き甲斐のようで、「要注意」どころではなく、悪意があると思いますから決して近づかないでください。楽山は、人真似しか出来ません。それで、インテリを気取ります。楽山の言は、糧(かて)になるようなことを、何ひとつ、もたらしません。この2年間がそうでした。
 
 
 
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  楽山の実現したいこと
 
 2021年05月15日
 幸福実現党の移民政策(2)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、秘密モードにすると言っていましたが、今度は、ツイッターの画像を引用して、幸福実現党を批判しているつもりです。もっともらしい文言が、詭弁屋の楽山の、唯一の武器なのです。
 
そして、自身を省みずに、人を責める楽山です。幸福の科学を批判しながら、人を惑わせ、不幸に陥れるような詭弁と嘘を発信してきたのは、楽山です。
 
自身が、カルト的霊能者気取りでありながら、アンチというカルト批判者を装い、上から見下ろして、他者を云々してきたのです。いったい、どういう立場で、自身の罪悪・無反省・無責任を棚に上げて、批判者を気取っていられるのでしょう。
 
*移民一億人と打ち上げたのは事実
及川幸久氏が、移民一億人についてツイートしていた。
幸福実現党は立党時には、移民一億人を目標としていたが、その後は取り下げたとのことである。
20210515 今移民1億人も入れたら日本でなくなる
 
空想的で荒唐無稽な移民政策だと思いますが、取り下げたのだそうです。楽山は、好きなように自己中心・自己愛から、得々として、反キリスト、神否定、右翼礼賛、霊能の自覚などを、思想家気取りで、語ってきました。取り下げることもしていません。言ったら、言いっぱなしです。
 
*素朴な疑問
移民一億人というのは、政治の素人がみても暴論、放言でしかないことは分かるだろうに、どうして党の数値目標とされたのだろうか。
言い出しっぺは誰? どうして誰も反対しなかったのか? もしかしたら党内の最高権威者が言い出したことなので誰も反対できなかった? どうなんだろう?
 
楽山は、問題視し詮索し追及したいようです。しかし、楽山自身の発言についてだけは、何の問題意識も持っておらず、訂正してもいないのです。それで、また言ってくる病質の厚顔無恥であります。
 
>*対照的 
ところで、幸福実現党が移民一億人を政策として掲げていたことについて、及川幸久氏は立党時にはそのようなこともあったとしているが、西野あきら氏はそのようなことはなかったとしていた。アンチの印象操作、嘘、捏造だとでもいいたげである。ここは正反対になっているのは面白い。
20210515 「移民で一億人」という印象づけをしたいのでしょう
 
他者の意見が「正反対になっているのは面白い」・・真実に関することで揶揄して面白がるのは、ナルシストそしてサディスト、楽山の特徴です。一人前の正常人のつもりで書いていますが、病質に満たされて訂正不能になっているのが自己愛性人格障害者なのです。
 
ていうか、西野あきら氏は及川幸久氏のツイートをリツイートしているではないか。
20210515 (3)西野あきら氏、一億人移民リツイート
(*赤線は引用者による)
 
前に、若者気取りのボンヤリ言語として挙げた「ていうか」が出てきました。一切の言論の責任を取らない楽山の言い方、"ていうか"、ゴシップネタの言い方、議論なのか駄弁なのかをぼかす言い方で、自身の嘘と詭弁の事実以外、何もない楽山流です。
 
テーマは宗教、つまり、真実の追求という重要な問題なのです。宗教について、何かを語れば、それは、その宗教を信じている人々のことになり、人間の生き方の問題になり、冗談半分で書いてはいけないことなのです。
 
「ていうか」だけでなく、今まで目立ってきた、ボンヤリ言語の婉曲、トホホ言語の同情芝居、当てつけ、いちゃもん、根拠のない決めつけ、等々、無責任に書いてくる楽山の軽い姿勢は、既に、門前において、アウトなのです。
 
自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふりってよく分からん。
 
「自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふり」しているのは、楽山です。今までも、自己愛性パーソナリティ障害の証拠を、自ら、みすぼらしさとともに、並べてきたのです。それだけをしながら、楽山は、余生を送り、そして、人生を終わるのでしょう。
 
楽山は、両手で自分の嘘と詭弁を後ろに隠しながら、他者を批評・批判する病気で、病識のない精神障害で、かつ、体質によるものだから治療法も治療薬もなく、白々しさと、執拗さだけで、人をだまして、ネットに、リアルに?、生きてきて、実際は、真実が、どこにもない嘘吐きなのです。
 
嘘吐きとは、嘘を吐く人ですが、実際は、本当と嘘を混ぜこぜにして、人を、惑わし、だまし、あらぬ方向へ誘導する人、そして、その罪悪を隠す人です。部分的に、もっともだと思っても、決して、相手にしてはいけません。真実と言えるような、まとまりが、どこにもないのです。
 
 
  楽山と詩
 
 2021年05月16日
 『詩集 私のパンセ』をチラ見してみた
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
詩を理解できるとは思えない楽山が、ORの詩を笑うという記事です。似たようなカルト精神を持っていて、つまり、楽山は、アンチではなく、人をバカにして、あざ笑うことで、批判したつもりになるだけの安っぽい身の程知らずなのです。
 
書店で、大川隆法の詩集『私のパンセ』をチラ見してみたのだが、人を厳しく裁く父なる神を退けて、限りなく優しい母なる神を賛美していて、あっ!と驚いてしまった。最近、自分も似たような事を考えていたので…。面白い偶然もあったものだ(笑)。
 
楽山の思想は、ORに似ているのでしょう。楽山は、批判精神より、はるかに教祖願望のほうが強いということです。だから、批判を書いても、「(笑)」となり、バカにして笑うほうに書いてしまうのです。オレのほうが上だ・・という気持ちが勝ってしまうのです。
 
詩集全体をざっと見た感じでは、素朴で、短い詩が多いようだった。その雰囲気を真似て書くと、こんな感じかな。
 
詩のようなもの3つは省略します。本当に、真似て書いたのでしょうか。写したのではないのでしょうか。詩の出来は、私には分かりませんが、私の好みではありません。かなり、痒いです。
 
自分でいうのもなんだけど、こういうスピリチュアルっぽいノリの文章であれば、いくらでも書けそう(笑)。
 
ここに、楽山の体質が、十分に表れています。「スピリチュアルっぽいノリの文章」・・って、詩でしょうか。楽山は、「いくらでも書けそう(笑)」なのだそうです。楽山が「(笑)」なら、私としては、笑止です。
 
批判のつもりで、他者の高慢をあざ笑うことで、自らの高慢を表してしまっています。あきれた自惚れ屋、それが、楽山です。
 
今回「(笑)」が2つですが、恐らく、楽山は、自分が詩を読めないし書けないものだから、詩をバカにしていると思います。自分が出来ないことはバカにする・・恐らく、自己愛性人格障害の特徴だろうと思います。
 
 
何処(どこ)

何処(どこ)
 
 
(2021年05月17日)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福実現党の提案する大統領制を、幸福の科学にあてはめれば、
幸福の科学のトップは信者らの選挙で選び、その権限、責任を拡大し、
大川隆法とその一族は違う次元の存在なので、教団運営とは全く関係ないものとする、これが大川家を守ることにもなる、ということか。
信者には噴飯ものだな、これは。
午前7:01 · 2021年5月16日·Twitter Web App
 
「大統領制」を「噴飯もの」と言って、また笑っている楽山です。人を笑うことが、楽山の生き甲斐なのでしょう。唯我独尊の楽山に「あてはめれば」、ずっと人間としても、また、最近は、ブログに秘密モードを宣言するほど、不遇と孤立が続いています。
 
霊能者気取りの楽山の望むことは、自分の「権限、責任を拡大し」さらに自分が「違う次元の存在」となり、高く高く舞い上がったつもりの陶酔気分に浸りたいのでしょう。人を笑えば自分が笑われますが、楽山の言は、噴飯ものどころではなく、糞飯もの、いわゆる、クソ食らえのレベルなのです。
 
(ネットより)
ふんぱん‐もの【噴飯物】 の解説
食べかけの飯をこらえきれずに噴き出してしまうほどに、おかしくてたまらない出来事。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄。「政治屋が政界浄化を語るなど噴飯物だ」
[補説]文化庁が発表した平成24年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「おかしくてたまらないこと」で使う人が19.7パーセント、本来の意味ではない「腹立たしくて仕方ないこと」で使う人が49.0パーセントという逆転した結果が出ている。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信仰継承についての天照大神の霊言では、
天皇は、天照大神の子孫という建前だが、宗教儀式をすることで存続を許されており、それを怠るなら危機的状況に陥ると語られていたかと。
これは万世一系も、天皇の神聖も認めないという意味だと思いますが、及川氏の考えはこれとは違うみたいですね。
午後3:36 · 2021年5月16日·Twitter Web App
 
「天照大神の霊言」というのがあるのでしょうか。一般に認められているのでしょうか。HSの主張ではないのでしょうか。本の名前なら、著者の善川三郎は、ORの父親のようです。このように、あちこちに、HS由来のことを当たり前のように引用している楽山です。
 
楽山は、アンチHSでしょうか、違うと思います。楽山の、いつも気持ち悪い「ですね」口調と「みたい」の婉曲は、恐らく、批判に見せかけた刷り込みです。
 
 
 
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