ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年05月

 
  矢印の人々2
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
 
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
自分に都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして口を閉ざし
記憶から消してしまうかもしれない
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも自分の味方をする神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに、逆に
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐して
気に入らない人に対して
「彼は少し、冷静さを欠いたようです」
と言った口は不感不応の
慇懃無礼な冷酷さだけが勝っている
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感性のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
自分と同じ信仰を持たないからだ
という因果律を当てはめて
ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続ける
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間性は潰されてゆくことだろう
 
彼らは実に
いつも単方向のベクトルを突出させ
固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくる
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じているので
 
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
 
(2011年09月28日)
(2019年04月25日、修正)
(2021年05月16日、再録+)
 
 
何を目指すのか。

何を目指すのか
 
 
※ 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりしたとき
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
(ずっと前、一部修正)
 
 
 
 (詩篇、口語訳)26:2
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 (詩篇26:2、旧約聖書)
 
 (詩篇、他ブログより)
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
 (別の訳らしいが、興味あり)
 
※「はらわた」は、人が心に秘めたものでしょうか、加えて、「火」は、神の強い力に拠り頼む情熱的な信仰の意志のように感じられて、強いインパクトの訳になっています。
 
 
 
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  敬虔4
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に
ありがちな発言として
 
「「神のうちに生き、動き、存在している」
という視点に立つとき、
私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
 
折に触れて
自分について
神の意志は?と考えるのは
信仰者としては当然だが
 
「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ
最終的な真偽や正邪を
神の運びに任せる敬虔がありうるのであって
 
「見極めることが出来る」ならば
神の意思を自ら排他的に確信することになるから
そこに敬虔はない
 
すなわち、この場合「謙遜」は
取って付けたような虚飾に過ぎない
 
また
「神の導き」
「キリストによる罪の贖い」
「聖霊の注ぎ」
などという言葉を
まるで公式のように
常套句のように繰り返し使い
それで真理が伝わると信じてはいけない
 
その理由は「聖書の真理だから」
という信念であり
その信念については
説明できる実感と実体がないまま
そう覚えているだけであるなら
信仰の言葉にはならない
 
その時その場で
与えられた人知としての
経験と知性や感性などを働かせることなく
聖書的な言葉を並べて
伝えた気持ちになってしまう
 
いずれの場合も
謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔
とは無縁である
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても
それを受け取り、伝えようとする人は
神と違って不完全なのだから
人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては
伝える努力が及ばないこともあるだろう
 
そのようなときに大切なのは
聖書は真理でも
それを実感のないまま語って
神の導きにお任せしますと
出来ることもせずに
責任放棄して自己満足に浸ることではなく
 
人と人が互いに
表す言葉の拙さを共感し共有することである
 
敬虔と呼ばれる信仰者の謙虚さはそこにあるのであって
 
実感もなく繰り返される言葉の数にあるのではないからだ
 
 
 
よくある信仰についての勘違いですが
罪は赦されたから罪なき者となったのではなく
罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもなく
 
罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて
信仰を与えられている我が身を振り返って
自らの来し方を思い、行く末を考えるならば
 
自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり
見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは
直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって
何もかもが良くなって完全になるなんて言うのは
カルト思想か多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神を恐れるとは
完全なる全能の神の存在によって
不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ
それゆえに柔和になることです。
 
言い換えれば
神のもとで生きる砕かれた魂
という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 
砕かれた魂

砕かれた魂
 
 
(2011年07月15日)
(2019年04月20日、修正)
(2020年05月05日、さらに修正再録)
(2021年05月15日、再録+)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
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 三島由紀夫とスウェーデンボルグ
 (『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』)
 2021年05月12日 楽山日記(LD)
 
 
カルトを信じていた人は、脱会しても、霊の話などが、記憶に残ることがあるだろうと思います。楽山が、元々大好きな、超常・魔法・心霊・心霊・霊能者、などの話です。これらは、カルトが、信者を獲得するために、好んで、話題やテーマにするものです。
 
楽山は、子供のときから、"仏様の気持ちが分かるっぽい" そして、霊が分かるっぽいという自覚があるために、結局、こういう霊の話に飛びつくのでしょう。
 
書いて公開すれば批判される、という繰り返しで、楽山が選んだことは、自粛ではなく、反省でもなく、"秘密" であります。体質から逃れられない因業の魔物を持っていることが、公開から、秘密の情報にすることで、むしろ、明らかになっています。
 
楽山に好意的に関わってきた人は、不幸というしかありません。霊能者気取りだが、人の心が、まるで分からないということが、書いてくる文章に表れてきた楽山です。
 
*三島由紀夫とスウェーデンボルグ
『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』をつまみ読みしていたら、三島由紀夫がスウェーデンボルグに触れている箇所があったので、メモしておきたい。
十一日は籠をにげだした小鳥のやうに神田の古本屋を歩きまはり、六年来探してゐた、スウエーデンボルグの「天国と地獄」をみつけて有頂天になりました。
(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』新潮社、1997年、p.42)
 」
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
 今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
(ネットより)
エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
・・・
1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。
・・・
カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)
 
スウェーデンボルグは、霊について、不思議な能力について、大量に書いた人のようです。霊能者気取りの楽山にとっては、霊だから検証しなくてよく、考えなくて済むような、うってつけのテーマなのでしょう。秘密に教えますよ・・というやり方が、既に、あざといのです。
 
スウェーデンボルグの語る霊とは、聖霊なのでしょうか、悪霊なのでしょうか。楽山と似たような自己愛からの霊能者気取りなのでしょうか。私は、楽山を見てきて、うんざりしているので、興味はないです。
 
類は友を呼ぶ、というところでしょうが、著名人と楽山では、落差が大きく、楽山の語る霊の話も宗教の話も、幼稚だったことを考えると、関わらないほうがよいと思われます。
 
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
楽山にとって、霊は、疑うこともなく、存在が前提となっているようです。スピリットには、心という意味も含まれていて、スピリチュアリズムと言えば、心霊・霊能・霊魂と言うより、身近に感じられるというところがあります。
 
要するに、無条件で受け入れるしかない超常であり、楽山にとって、考える必要もなく、努力する必要もなく、反省もしないで言って気持ちがよいテーマなのです。
 
キリスト信仰において、霊は、労力の要らない便利ツールではなく、聖霊は、聖三位の一つであり、人間には届かない存在です。悪霊は、悪魔性の活動として、邪悪の代名詞のようなものです。
 
聖書では、病気や災いは悪霊のせいだと見なされ、病人は差別されていました。そこに救いの手を差し伸べたのが、イエス・キリストであります。キリストは、人間的な共感に溢れた御方であります。
 
つまり、問答無用・議論不要の霊に帰するところには、人間の心や共感が無くなり、超常の魔術的な結論だけが意味を持つのでしょう。努力しないで安きに流れてきた楽山には、霊と超常に傾倒する必然があるような気がします。
 
それにしても、また、三島由紀夫や川端康成などの著名人を引き合いに出して、恐らく右翼寄りの思想もあるのでしょう。楽山は、有名人が大好きで、自己満悦のために、書いていいのだろうか?という疑問も遠慮も節操もなく、好きなように利用しています。ずっと、節度なき我欲と我執を表しているのです。
 
*憑依
本書の巻末には、佐伯彰一と川端香男里の対談が収録されているが、そこにはこんな発言があった。
佐伯 四十一年六月号の「文藝」に載った「英靈の聲」は、ふっと何かにとりつかれたように一気に書き上げた、と三島さんご自身の口からうかがったな。その後、美輪明宏に会った時、「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとしたという話を、三島さんは例の誇張したおどけた調子でおっしゃられたことを覚えています。
(同上、p.215)
 」
以前、某匿名掲示板にて、三島由紀夫は「英靈の聲」を書いたときに、226事件の首謀者の霊に憑依された云々という話を読んだことがあったが、その元ネタはこれかもしれぬ。
「英靈の聲」は最恐ホラーよりもさらに怖いと思ってはいたが、やはりいわくつきの作品だったということか。
 
「「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとした」「誇張したおどけた調子で」・・これって、賛同でしょうか。楽山は、「最恐ホラーよりもさらに怖いと」受け取ったようですが、笑い話として書いているという見方はできないのでしょうか。
 
三島由紀夫原作の映画「午後の曳航」のセリフに、「殴られるより悪いことがある」というのがありました。楽山は、まとも芝居で、丁寧語で、婉曲的に、そういう、"殴られるより悪いこと" をしては、人を疲労させ、傷つけて、何とも思わないでいる人です。
 
(以下は、心霊的な話題に踏み込むのでプライベートモードで失敬)
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宗教も信仰も理解できないのに批判だけしてくる楽山は、こういう不思議話を、まるで、吸い取り紙のように、何の疑念もなく無批判に、受け入れるようです。超常オタクで、人間として、いかにあるべきかという問題には、まるで関心を示さない楽山です。
 
"霊的"右翼の秘密結社でも作るつもりなのでしょうか。気の短かそうな、血しぶきの飛びそうな、掟のありそうな世界に、無反省・無責任の楽山が、通用すると思っているのでしょうか。
 
以前から、楽山については、人間としての、思考力、判断力、客観性、および、共感性に、問題を感じていましたが、いよいよ、とても怪しい領域に、本格的に、のめり込んで、誰かに刷り込んでゆくのでしょうか。公開すると叩かれるから、秘密のモードを使って(?)。 
 
結局、ペテンに終始するだけの楽山ブログのサイト、ダークサイトで、暗黒面ダークサイドまで行くかどうかは分かりませんが、もちろん刷り込まれたりしないように、また、とばっちりや巻き添えを食らうことのないように、決して楽山に関わらないでください。
 
 
暗黒面へ

暗黒面へ?
 
 
(2021年05月14日)
 
 
 
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  善悪2
 
 
何が正しくて
何が間違っているかなど
善悪の厳密な結論は
 
風さえも支配されるところの
神ならば分かるでしょうが
 
風を追うような私たちに
分かるはずはないのです。
 
 (伝道の書、口語訳)1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:17、旧約聖書)
 
私たちは、ただ、懸命に考え、判断して、実行し、反省して
それを神様に正直に捧げる祈りの時を知っているだけなのです。
 
正しいか間違っているか
すなわち正邪というのは
風を追えない私たち人間にとって
判断に過ぎないのであって
そこに、信仰があるから云々とか、神の御心は云々とか
私たちが言葉を並べてみても不完全で
高が知れていると弁えるべきでしょう。
 
私たち信仰者が
何を人に伝えられるかと言えば
福音伝道と言いますから
聖書を読み神の寛容さのもとで
キリストの慈愛の同伴によって
祈ることで反省し成長する道を与えられたことに他なりません。
 
与えられていることは
否(いな)みようもないことですから
その通り、与えられたと言うしかありません。
それが福音なのです。
 
しかしながら
聖書の話や信仰の恵みについて
神がどうであるとかいったことは
私たちも多くを知らないのであって
この地上では分からないこととして
求道者と共有を目指すべきであって
 
まちがっても
知らない者に教えるという態度になってはいけません。
 
共感と共有だけが
人としての立場を弁えて目指せる目標であります。
 
つまり
福音伝道は
自他という人が主語であります。
 
人に共感の可能性を伝えるのであります。
神の導きと言えば、どのように?
神とはと言えば、どういう存在?
キリストはと言えば、どのように同伴?
という難題になりますが
 
自分という人間が
束縛された心から解放されたという話なら
信仰について話が出来るでしょう。
 
受けたことを伝える
この立場を守るならば
たとえ邪悪なカルトが
完全ではないことを罵(ののし)ってきたとしても
知らないことは知らないと言えるでしょうし
受けたことは受けたと言えるでしょう。
 
良心を持たないカルトは
実に思い上がっていて哀れむように見せかけて
軽蔑や嘲笑いを向けてくるでしょう。
そんなとき
"主を誇る" などと言ってもカルトには通じないでしょう。
カルトに何を言っても無駄です。
 
ただ信仰において気づいたこと
すなわち
神という絶対者を仰ぎ
キリストという救い主を好きになり
キリストの同伴を祈り願って
その大いなる存在に比べて
低く弱く小さくあることの幸いを知ったことを語るなら
その自覚が多くの束縛からの解放だったことを
改めて自らも知ることになるでしょう。
 
つまり余計な負けず嫌いや自尊過大がなければ
然(しか)りは然り、否(いな)は否と言えるでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
 (マタイ5:37、新約聖書)
 
そういうことをカルトは全く理解できないが
 
へりくだって真実を求める求道者の中には
共感が芽生えることがあるかもしれません。
 
そうやって自分もキリスト者になったことを
新たに自覚する機会にもなるのです。
 
そのようにして
信仰者と求道者双方に
恵みは続き
学習は続き
成長は続き
福音は宣べ伝えられてゆくのです。
 
善悪および正邪は人にとって
その時の良心の判断に過ぎません。
良心に基づいて行動しますが絶対ではありません。
 
しかし
神の前に努めて正直であることは
人間に出来る唯一の "神を愛すること" であり
神に救われる条件なのです。
 
ゆえに
正直な祈りに努めることは
神に対して
人間が出来る "唯一の正しいと言えること" なのです。
 
正直な祈り以上の良きものを
人が神に捧げることは出来ないのです。
 
決定的な優先順位を
人にとって曖昧な善悪や正邪ではなく
正直な祈りに置くのがキリスト者であります。
 
 
光と陰

光と陰
 
 
(2020年05月7日)
(2021年05月12日、再録+)
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
(90年代か)
古い作については、どこに何度アップしたか覚えていないので、投稿が、繰り返しになるかもしれません。聖書を、少しは真面目に読んだ私という人間の言葉に過ぎません。失礼。
 
 
 
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  超常の神、日常の人 2
 
 
人には手に負えないところの
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神の性質は
人が神を恐れるためにあります。
 
人がそれらを身につけるためでもないし
理解するためでもありません。
 
人は、神の性質・意志・行為を
推測したり想像したり
行動するために判断したりすることはありますが
それは経過と結果を神の前に祈りとして捧げて
人が人として反省し成長するためであります。
 
全知全能ではない人は
限られたこの地上で
人に限られた能力しか持たないのだから
全知全能の神を理解することはないのです。
 
神は、こんなだ、すごいだろ
と言うのが伝道ではありません。
神のすごさを理解できる人はいないのです。
 
また
神のすごさを信じ込んで
人は何を受け取るのでしょう。
 
すごい神が味方だとでも思って
強くなりたいのでしょうか。
これは
強い自分を誇ることであって
神を恐れる態度ではありません。
 
愛と寛容の神は
妬む神でもあります。
金の偶像を否定するだけではありません。
神を思い込む心の偶像をも妬まれるでしょう。
 
神を恐れる態度は
愛と寛容の神だけを信じることだけではなく
戒める神と懲らしめる神を恐れる態度です。
神の妬みを買わないように生きるのが信仰の道です。
 
戒める神と懲らしめる神の妬みを恐れることは
神のごとく完全になる欲望ではなく
神のごとく完全になれないことを弁えるためなのです。
 
道徳を守ったからと
施しをしたからと
誰かを助けたからと
罪深い自分を忘れるくらいなら
 
道徳を守れない意志の弱さを
施しのできない貧しさを
誰も助けることのできない臆病を
そのまま祈り、神に捧げるほうが
まだマシな信仰なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)18:9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
 (マタイ18:9、新約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
神について、信仰について、
見える、知っている、分かっている、と思い上がることは、
罪であり、傲慢であり、信仰に反します。
 
揺るがない信仰、そして、
固く信じる、ということは
信仰の忍耐強さを表しています。
思い込みを固くすることではありません。
 
信仰の忍耐強さを支えるのは
キリストの同伴という共感であり、
キリストの愛であり、キリストへの愛に他なりません。
 
 
       きずな・共感

               絆(きずな)は共感
 
 
(2020年05月10日)
(2021年05月12日、再録+)
 
 
古い古いポエム
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
 
そらを みれば
 
そらに すわれ
 
こなごなに なって
 
きえて しまいそうで
 
 
ひとを みれば
 
ひとみの おくに すわれ
 
すきとおる こどくの なかで
 
いきが たえて しまいそうで
 
 
いつのまにか
 
うすい いのちに さく
 
はなの あいだに
 
ただよう かおり まつみの
 
ほのかな
 
ぬくもりのかげに にている
 
 
(90年代か)
 
 
※ いい気持で結びたかったのに、性懲りのない楽山のツイッターで、また、汚れてしまいますが、
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
もう一つ、付け足してはどうだろう。
④ ①②③を理解しない相手には近づかない事
引用ツイート
Testosterone
@badassceo
 · 3時間
①自分が間違ってるかもしれないと常に自分を疑う事
②世の中には絶対的に正しい意見なんてないと認識する事 
③立場が変われば正義も正解も変わると意識しておく事
視野が狭い人、偏見や思い込みが激しい人、他人とよくモメてしまう人はこの3点を覚えておくだけでだいぶ改善するのではないでしょうか
 」
午後9:29 · 2021年5月11日·Twitter Web App
 
⑤ 視野が広く偏見も思い込みもなく他人とうまくやってるつもりだけの楽山には、近づかない事。
 
楽山は、訂正不能の自己愛のために、自分の間違いに気づかず、視野狭小にて理解力がなく、正義も正解も固着した偏見のままで、深く考えることができず、どこまでも、笑いながら、人を不快にしてしまうのです。まるで自覚と自省がないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山は、人間の心と理路が育っていない自己愛性人格障害なので、どこまでも、人のせいにして、気づかない人です。因業とでもいうか、芝居をするしかない変質者で、反省せず、どんなに恥ずかしいことになっても、書くことをやめないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山が、他者を悪く言うとき、その悪口は、ことごとく、楽山に当てはまります。それでも、楽山は、書かずにはおれないのです。わざわざ、自身の醜さを、自分で、あらわにしてゆく、という、恐らく不治の、体質的な病です。のぼせ方が、さらに、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
本性がバレてしまって、それでも、書いて、楽しいのでしょうか、楽山の保身と他罰のリピートについては、理解不能です。未熟と不足と欠損のまま、修正不能だから、人間としての、どん底の評価が変わることもなかったし、今後も続くのですが、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
 
(2021年05月12日)
 
 
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