ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年06月

 
  自分に返信する楽山
 
 "taka"サイトツイッター(恐らく楽山)
  を批判。
 
楽山は、ブログで独り芝居を書いていましたが、今度は、ツイッターで、自分のツイートに、自分で返信を書いています。手を変え、品を変え、自省はせず、悪意が減ることはないようです。
 
独りツイッターですが、楽山は、ゆくゆく、ツイッターでも、HNを変えて、独り芝居を載せるつもりでしょうか。総て、Taka、恐らく、楽山の、ツイートなので、文章だけ引用します。
 
反省もせず、自粛もせず、罪悪感もなく、書いてくる楽山に巻き込まれないように、批判者以外は、返信を書きこまないでください。
 
最近「#プラグを抜こう」というハッシュタグが話題になっている。これはコロナワクチンを保管するための冷凍庫のプラグが抜けてしまっているという事象が相次いでおり、Twitter上でのこの書き込みを見てそうさせているのではないかと思われるが、原因は今のところはどれもはっきりしていない。
 
ニュース報道で、注意喚起でしょうか。楽山は、それどころではありません。危機を煽っているのは、楽山です。そして、コロナではないが、危機を招いているのも楽山です。楽山は反省をしないので、今も、正義の味方気取りで、警鐘を鳴らす側にいるつもりですが、その資格はないと思います。
 
そして、悪に対立している自分を顕示したいようです。実際は、悪と偽善に染まって、妄想的に自尊過大であり、ここで自己正当化に必死なのは、楽山です。手段を選ばないようですから、エスカレートする可能性もあります。楽山は、警鐘を鳴らされるべき脅威でしかありません。
 
平塚の考えでは「世界は支配者層の思惑で出来ている」という内容であり「支配者層から世界を救う」と言っている。そして彼が党首の国民主権党だが、平塚の考えを正しいと思う人しかいないため、完全に宗教団体のような状態である。一応は政治団体なので選挙には出てるが当選はなし
 
妄想が主体となり、他者に宣伝すれば、カルトと言ってよいでしょう。つまり、カルトに近い妄想家です。しかも、楽山は、無反省・無責任・無神経で、訂正不能ですから、質的に、よく似ています。楽山は、弁明できたことがありません。ですから、楽山に、人を批判する資格はありません。
 
そして平塚の印象は、常に上から目線で高圧的、そして言うこと聞かなければ怒鳴り付ける、まるでDV夫のような人物である。話を戻して、平塚は実際にプラグが抜かれてワクチン廃棄になったニュースに「ありがとう」と返信している。
平塚は「#ブラグを抜こう」のニュースの取材に対して「アカウントが私のものか言う必要はない、投稿を見たことはある」と言っているが恐らく本人だろう、これがもし偽物だったら平塚を名乗る偽物によって国民主権党員を簡単に騙せてしまう。誰も反論しないので、やろうと思えば出来ないこともないが
 
楽山は、いつも上から目線です。謙虚芝居をしますが、人も、神も、机上の命なき対象として扱います。そして、ボンヤリ言語で理路めいた詭弁を弄し、トホホ言語で同情をひいて、だましてきたのです。今になっても、悪意は止まず、このようなサイトを始めています。
 
このニュースを見て、今後また活動がどんどん過激になるのを恐れている。コロナ渦は永遠とは続かないだろうし、ワクチン普及でコロナ収束、そして自然とマスク外せば国民主権党は存在感を失う、つまり時間が限られてる、行動が過激になりかねない状態ではあるだろう。
 
自己愛性人格障害は、罪悪感のないのが特徴なので、一般に、サイコパスと呼ばれる犯罪者と同質の異常人格です。言動が「どんどん過激に」なる可能性があります。楽山の対象は、おもに宗教であり、いくらでも、いじるネタがあるでしょうから、収束する見込みはありません。
 
その表れが、このツイッター "taka"サイト なのです。恐らく執拗に書いてきますし、楽山こそ、自分絶対正義の正義中毒で、他者の意見を平気で無視して、知識人気取りで、詭弁で誘導します。ここに並んでいるツイートを読んでも、詭弁ですから、決して相手にせず、関わらないでください。
 
「正義中毒」とは、攻撃対象者に正義の制裁を加えると、脳の快楽物質である「ドーパミン」が分泌され快楽を覚えるというものです。しかしこれは繰り返し行い中毒的なものになると、アルコール、ギャンブル、スマホゲームの課金などと一緒で、完全に嵌まってしまうと抜け出せなくなります。
 
正義中毒は、ドーパミンだけで起こるものではありませんし、自分の脳内からの薬物中毒のように言っている楽山を信用しないでください。生まれ育った頃には、体質的に、人格障害として表れてくる場合もあります。楽山は、そういう体質がベースにあって影響していると考えています。
 
「完全に嵌まってしま」っている楽山が、「抜け出」すことは、私が関わった約2年半の経験からは、期待できそうにありません。何故なら、今でも、ときに "反省。とほほ"とか書いてくるだけで、相変わらず、他人のことばかり言って、実質は、一向に変わらないからです。
 
なお、楽山のツイートやコメントに返信して、遣り取りすることは止めたほうがいいです。人を疲れさせる技、即ち、詭弁と嘘だけは、年季が入っているからです。批判する人以外は、決して関わらないでください。
 
 
手を変え品を変え

手を変え品を変え
 
 
(2021年07月01日)
 
 
 
  失楽園
 
緑児(みどりご)は自ら進んで
血糊(ちのり)を見せることはない
 
大人はときに血糊を
見せざるを得なかったり
見て欲しくなったりする
 
失楽園
善かれ悪しかれ
知恵をつけた結果である
 
生きて楽園へ戻る道は
もはや何処にもないが
心有る人々には
姿なき幼児(おさなご)が
ときおり問いかけてくる
 
あなたはだれ?
なにしているの?
 
楽園の住人に問われても
楽園を追われ
忘れてしまった大人たちは
それゆえそのとき
むしろ悩んだり悔いたりする
血糊が減ることはないのである
 
一方で人々はしばしば
血糊に因縁話を付け加えながら
地上の楽園を探し求めて
赤児(あかご)を自慢の腕に抱き
善かれ悪しかれ
やがて知恵を吹き込んでゆく
 
いずれにせよ
血糊が減ることはないのである
 
(90年代か)
 
 
 
 改めて "taka"サイト(楽山)を見てみると
 
 
楽山は、好きなように、ツイートを、削除しては、書き換えているようです。追及されないためでしょうか。私の昨日の記事での引用は、6月28日だったように思います。
 
私は、今日の上の記事では、うっかり文章だけあればいいと思って、日付は書いてありません。29日かもしれません。こういうことなら、これからは日付を付けることにしようと思います。
 
先ほど見たところでは、下に示すように、6月28日~29日になっています。アイコンも変わっています。中身は、同じのもあるが、違うのもあります。
 
修正は不可ではありませんし、言葉遣いなど必要な場合もありますが、原則として、追加記事で、修正するのが、正当だと思っています。
 
何故なら、削除して修正を繰り返しているということは、あるとき、書いたとしても、その人の言ったことが、明日は変わるかもしれない、という不信感につながるからです。
 
私は、ブログ、ツイートを含めて、記事の引用は、コピペでやっているので、こちらで楽山の記事を捏造・改竄することはありません。
 
ゆえに、楽山の意見は、明日は、変わっているかもしれないということです。さて、楽山の、その時その時の意見は、何が本心なのでしょう。
 
taka
@taka84156681
·6月29日
最近「#プラグを抜こう」というハッシュタグが話題になっている。これはコロナワクチンを保管するための冷凍庫のプラグが抜けてしまっているという事象が相次いでおり、Twitter上でのこの書き込みを見てそうさせているのではないかと思われるが、原因は今のところはどれもはっきりしていない。
このスレッドを表示
taka
@taka84156681
·6月29日
平塚は「#ブラグを抜こう」のニュースの取材に対して「アカウントが私のものか言う必要はない、投稿を見たことはある」と言っているが恐らく本人だろう、これがもし偽物だったら平塚を名乗る偽物によって国民主権党員を簡単に騙せてしまう。誰も反論しないので、やろうと思えば出来ないこともないが
taka
@taka84156681
·6月29日
このニュースを見て、今後また活動がどんどん過激になるのを恐れている。コロナ渦は永遠とは続かないだろうし、ワクチン普及でコロナ収束、そして自然とマスク外せば国民主権党は存在感を失う、つまり時間が限られてる、行動が過激になりかねない状態ではあるだろう。
#プラグを抜こう 
#平塚正幸
 
平塚の考えとか印象とか、ディスっていた記事がなくなっているようです。
 
楽山は、自己愛性人格障害だと判断しているので、常に「行動が過激になりかねない状態」にあると思います。
 
taka
@taka84156681
·6月28日
SNSの社会では常に何かを叩かないと気が済まない人が本当に多い。脳化学者の中野信子さんの著書「人は、なぜ他人を許せないのか?」のなかでそんな人たちの事をを「正義中毒」と呼んでいる。
#正義中毒
このスレッドを表示
 
前に書いたように、過ちをゆるすことと、悪意ある言動をゆるすこと、即ち、見逃すことを、混同して、正義中毒の名で、批判しています。以前からの、正義の名のもとに悪を働く楽山の自己正当化の言い訳の詭弁です。このようにして、楽山は、人間の良心を腐らせようとしてくるのです。
 
taka
@taka84156681
·6月28日
つまり正義中毒者になると脳は常に誰かを叩く事を求めるようになります。しかもこの状態が続くと、相手への共感や、感情をコントロールする働きを持つ脳の機能である「前頭前野」が衰え萎縮してしまい、そうなると、頑固で他人の意見を聞かなくなる状態になってしまいます。
#正義中毒
 
楽山は、有名人の説く「正義中毒」という言葉を利用して、脳病のように扱い、誰かを叩かずにはおれない病気として、恐らくこちらに当てつけて、おとしめてきます。今、叩いている主体は、楽山です。私は、楽山は、脳病というより、人格障害だと判断しています。
 
「頑固で他人の意見を聞かなくなる状態」・・これは、楽山について、ずっと実感してきたことです。私からの批判を、楽山は、完全に無視しています。返ってきたのは、根拠のない汚い悪口と、醜い自己正当化だけです。楽山は、自分の非を認めることの出来ない病質者なのです。
 
taka
@taka84156681
·6月28日
今のSNSの時代になると、誰もが意見を書き込める時代になっているが、これによって、ふとした発言での炎上がそこらへんで起こるのがもはや普通になっている。こうなると正義中毒者が増えるのも無理はないと思ってしまう。常に物事を俯瞰的に見ることが大事だと思う。
#正義中毒
 
楽山のように、キリスト教をおとしめるために、悪い例を挙げて、良い例を無視して、悪い印象だけを、全体であるかのように刷り込むとか、宗教を、人生の問題としてではなく、超常ホラーの仕組みみたいに語るとか、自らの無理解と偏見を、真実に見せかける正義中毒者もいるわけです。
 
 
※ 
 
私は、独自に、キリスト教批判をしています。教条主義とか、超常奇跡信仰とか、人間を偏狭にするだけで、生きる糧とならない信条については、言葉だけを熱心に史実だと信じ込むの信仰だというのは誤りであると書きました。
 
物や肉体の奇跡は二千年前、少なくとも現代ではほとんど起こっていないし、事実としては、保留すべきであるとか、キリストが人々に向ける共感が信仰の芯であるとか、救いの理屈ではなく、共感という情緒的な享受が大事であるとか・・いろいろ書いています。
 
 
楽山のように、悲劇をなくさないから神はいない、などという、我がまま信仰?については、全否定しています。楽山は、ホラー趣味の勧善懲悪でしか考えられない人で、屁理屈しか持っておらず、宗教も信仰も全く理解していないと思います。書けば書くほど馬脚をあらわす経過です。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
>心機一転★こも楽山
@komo266
これでいながら、HSは自分らは自由を尊ぶ団体だと言うんですよね。
信者にならないと滅ぼすぞという団体に、自由があるわけないじゃん。顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
午後6:55 · 2021年6月30日·Twitter Web App
 
また、他者を、「じゃん」という若者言葉で、けなして笑っている楽山です。楽山は、人の自由な思考や感性を奪ってゆく病質者で、しかも、悔いることがありません。楽山の、無反省・無責任・偏見・訂正不能は、自由ではなく、自己中と言います。楽山に関わらないでください。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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  楽山の弁神論(1)2
 
 神義論、弁神論についての対話 1
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
弁神論は、神義論とも言い、神の正しさについて追究する学問のようですが、学問で、論理で、神の正しさが証明できる、ということについて、私は、気持ち悪いだけです。楽山のような、半端な知識を振り回す者は、弁神論が大好きなようです。
 
楽山の悪意が発火しています。愚か者は、冷静な理路を通さずに、怒り始めています。これが、楽山の正体なのです。楽山の立場は、反キリストです。惑わされないでください。
 
*再訪
信者 「こんばんは」
老人 「どうも、こんばんは。息が荒いようだが走ってきたのかな」
信者 「走ってなんかいません。あなたのブログ記事に呆れたんです。いつにもまして酷い事を書いてますね。ったく、腹立たしくてなりません!」
老人 「どの記事のことを言っているのかな。そんなに立腹されるようなことを書いた覚えはないのだが…」
信者 「つまり、悪い事をしたという自覚がないんですね。最悪…」
老人 「ともかく、私の記事のどこが問題なのか、具体的に指摘してほしいのだが…」
信者 「具体的に指摘したら削除しますか」
老人 「現時点ではそんな約束はできないが、話の内容によっては検討しないでもない」
信者 「随分と逃げ腰で、歯切れの悪い返答だこと(笑)。でも、まあいいでしょう。問題はここですよ。『神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか。この世にこれだけ悪があるということは、神は存在しないということを示しているのではなかろうか。そんな疑問を抱かざるを得ない』って何ですか。神がいないわけがないでしょう。何をバカなことを言ってるんですか」
 
「どこが問題なのか」に対して答えずに、「神がいないわけがないでしょう」と言って、頑な護教を示しています。注意してください。楽山に護教精神などありません。悪い例として、論(あげつら)いたいだけなのです。二人は、いずれも、楽山その人であります。
 
*神義論、弁神論の前提
老人 「それは神は存在しないと結論付けているのではなくて、『神がいるなら、なぜ悪があるのか?』という問題提起だね。私は基本的には不可知論的な立場だから、あれこれ考えはしても、神は存在するとか、存在しないとか、断言はしない」
信者 「おやまあ、また逃げてますね」
老人 「逃げるもなにも、どうも誤解があるようだから、自分の立場を理解してもらえるように、説明しているだけなのだが」
信者 「言い訳がしたいなら、好きなだけ言い訳をしたらいいですよ」
老人 「そうかね。では、あと一つ、ついでに説明すると、この問題は、神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じるものだ。これを前提とすると、『神は全能であるなら、悪を止めることができるはずだ、それなのに止めないのはなぜだ?』『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問が出てくるということだよ」
信者 「いつもの屁理屈がはじまりましたね」
老人 「間違っていたら申し訳ないのだが、あなたが信じている神は、どのような神なのかな。もし前述の全能、絶対、完全な神ではなく、いわゆる多神教的な神々だとか、高級諸神霊というような存在を念頭において、この問題を考えているなら、それはちょっとズレてると言わざるを得ない。ここのところは、よく気をつけてほしい」
信者 「そんなことは、いちいち言われなくても分かってますよ」
老人 「そうか、それならよかった」
 
先ず、楽山は、不可知論的な立場ではありません。ただの、安っぽい無神論者です。しかも、とても下劣で、卑怯な詐欺師のような人物です。そこを棚に上げて、論者を気取り、一流を気取っているところの、偽善者です。
 
私は、神の意志と行為を説明できる論は人間の側にはない、ということを、以前から言っています。説明できる、知っている、分かっている、という意見を、背教として否定している立場です。しかしながら、楽山に学問はありません。学んだ人とは思えないことを言ってくることが根拠です。
 
楽山は、「神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じる」と言っていますが、違います。問題は、その全能を、人知で理解しようとするから起こることです。それで判断すれば、かえって、分からないことだらけになるでしょう。そして、神を否定する楽山が出来上がります。
 
それゆえに、楽山は、理解力がないのに、ますます、意地悪に貶(けな)してくるのです。読まなければ、バカだと思われる。読めば、妄想にしかならない。読んだことにすれば、自己中の正当化の詭弁しか出てこないのです。
 
何でも分かる、ということにしないと気の済まない楽山が、その思い上がりによって、上のような理屈を捏(こ)ね上げているだけなのです。楽山は、自らの、"完全"、に思い上がっているものだから、神に、信仰に、いちゃもんをつけてくるのです。
 
人間として、不完全や罪深さを自覚できないので、とんがって吹聴し、結果、最も醜い様を曝(さら)しているわけです。「『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問」、呆れます。悪は、楽山のような、人から生まれてきます。
 
これは楽山などの自己愛の疑問であって、人間の疑問ではありません。人間として、人間の罪の性質を、自覚できない楽山です。神?として君臨したい妄想が表れています。ゆえに、楽山は、多神教のようなと、いい加減な見方で、どうにでもなる神?を、「分かっていますよ」と言っています。
 
楽山は、神?を哀れみたいのです。この場合、楽山は、どういう立場でしょう、神の上に君臨するものという立場に舞い上がっているわけです。恐らく、この辺りの小理屈で、楽山は、一生涯、堂々巡りをすることになるのでしょう。こういう楽山ですから、誰も近づいてはいけません。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
情報化社会の現代は、聖書の時代と違って、迫害者や偽善者や反キリストが、それだと、すぐに分かるような時代ではありません。彼ら邪悪な者たちは、様々な、だまし方をもって、良心を攻撃してくるでしょう。
 
楽山は、否定か肯定か、はっきり言わず、キリスト者とも付き合い、ときには、世辞も言いますが、最後には、キリスト教は正しくないと言えなくもない、などと言って、裏切るでしょう。楽山は、自らが教祖になる企みを持ち歩いている狡猾な偽善者です。
 
人間らしい心があれば、誰でも、深い信仰に至ることは可能ですが、自己中で無反省の心無い者だけは、どんなに見せかけの知性を振り回しても、真のキリスト者にはなれないでしょう。
 
楽山は、人の意見を全く聞かずに自分の言いたいことだけを言うことに、恥も罪も感じないほど、それゆえに、また、ネットでもリアルでも、彼に出会うことは不幸としか言いようがないほど、疲労だけを与えて混乱させる人格破壊者です。
 
怒鳴るより悪い、嫌らしい言い方、というのがありますが、楽山には分からないんでしょう。殴るより悪いことをしているのが、楽山です。こちらは、殴り返すことが出来ないからです。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
殴られるより悪いことがある

殴られるより悪いことがある
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」台詞字幕
 
 
(2020年06月27日)
(2021年06月30日、再録+)
 
 
 
  発熱
 
寒い夜に張り詰めた
細い線が切れてゆく
断端が曲がって
幾本も幾本も
ぱらぱらと揺れる
不意の停電のように
像が消える
音がしたかしなかったかと
思う間もなく
次の像が暗闇へ落ちてゆく
次から次へ
落ちては消え
落ちかかっては消え
熱と痛み
幻と記憶の中で
横たわるベッドだけが白い
支える床がない
足がない
この視線の罪に
ふさわしい名前さえない
 
(90年代か)
 
 
 
 ※※ 
 立ち上がったばかりのツイッターがあります。
 
taka
@taka84156681
フォローされています
色々と呟いていこうと思います
2021年6月からTwitterを利用しています
2 フォロー中
0 フォロワー
フォローしている人にフォロワーはいません
 
そして、次のようなツイートを書いています。
 
taka
@taka84156681
·7時間
SNSの社会では常に何かを叩かないと気が済まない人が本当に多い。脳化学者の中野信子さんの著書「人は、なぜ他人を許せないのか?」のなかでそんな人たちの事をを「正義中毒」と呼んでいる。
#正義中毒
午後2:47 · 2021年6月28日·Twitter for Android
 
「正義中毒」は、有名人を引用~悪用してきた楽山の記事に載っていた言葉です。そんなに、よく見る言葉ではありません。私に当てた言葉ですが、私は、批判の根拠も理由も書いているので、ブーメランとして、楽山に返ってゆくだけです。このツイート、楽山の筆致によく似ています。
 
正義中毒という言葉に込められた、善悪と、さらに、特に、偽善、という意味を、理解できない楽山は、今、自らに当てはまっていることを考えもしないで、浅知恵で、そうだ!そうだ!とばかり飛びついて使っています。
 
「人は、なぜ他人を許せないのか?」という大きな一般の問題にしたいようです。私が批判して、問題としているところは、無反省・無責任・自己中で、詭弁を弄する嘘吐きを許すべきでしょうか、という問題です。もちろん、答えは、否です。
 
楽山は、楽山という"個別の特殊"な問題を、"一般" の道徳にすり替える詭弁を使っているのです。楽山は、こう言う詭弁を弄してきます。"人それぞれ" だからと、自らの "自己中" を正当化しようとしたりします。この2つ、全く違います。楽山の言を、信用してはいけません。
 
楽山は、今まで、真実とか正直とかいう言葉が嫌いで、特に、正義という完全言葉に、正義中毒を当てて侮辱するような自己愛者の性癖が、身についているのでしょう。ここまでなら、条件反射的な、自己正当化の保身の反応~習性です。
 
しかし、それを、根拠もなく、見境もなく、婉曲的とはいえ、特定の批判者に向けるのは、悪意の企みと見なすしかないと思います。楽山は、内省と常識的判断によるブレーキが効かない、というより、そういう自分に対するブレーキを育てていないのです。楽山のようです。
 
taka
@taka84156681
·7時間
つまり正義中毒者になると脳は常に誰かを叩く事を求めるようになります。しかもこの状態が続くと、相手への共感や、感情をコントロールする働きを持つ脳の機能である「前頭前野」が衰え萎縮してしまい、そうなると、頑固で他人の意見を聞かなくなる状態になってしまいます。
#正義中毒
午後3:34 · 2021年6月28日·Twitter for Android
 
正義中毒について続けています。やはり、楽山の筆致のように思われます。今まで、いくつものHNを利用・悪用してきた経過があります。「共感や、感情をコントロールする働き」が欠落していて、「他人の意見を聞かなくなる状態」が続いているのは楽山です。
 
taka
@taka84156681
·6時間
今のSNSの時代になると、誰もが意見を書き込める時代になっているが、これによって、ふとした発言での炎上がそこらへんで起こるのがもはや普通になっている。こうなると正義中毒者が増えるのも無理はないと思ってしまう。常に物事を俯瞰的に見ることが大事だと思う。
#正義中毒
午後3:50 · 2021年6月28日·Twitter for Android
 
正義中毒は、他でもない、楽山なのです。俯瞰的には決して見ることのできない神を、見たつもりで、いちゃもんばかり、嘘と詭弁で、書いてきたのは、楽山です。人の言うことを受け取らず、訂正不能なのも、楽山のほうです。その結果、楽山の理路は、孤独な幻となって散逸してゆきます。
 
楽山は、何事についても「常に物事を俯瞰的に見る」ことは一度もないと思います。妄想的で、整わないことを俯瞰だと思い込んでいるようです。そういう思い込みで書けば、訂正不能になります。今まで、そういう書き方だったので、こちらは、誰の参考にもならない雑言だと批判してきました。
 
恐らく、このツイッターは、楽山でしょう。このような、ごまかしで、隠れては、何か書いてくる。楽山は、喩えるなら、ゴキブリかネズミのような習性をもっている薄汚い人だと思います。
 
また一つ、批判対象サイトが増えることになりそうです。"taka"サイト・・とでも、呼んでおきます。混乱と徒労と疲労と、ついには人格破壊をもたらす悪魔性のサイトです。
 
楽山と、コメントやツイートで、直接の遣り取りはしません。2年以上前に、遣り取りをしたときに、こちらの言い分を全く受け取らず、あることないこと混ぜこぜにして言ってきて、恐ろしく疲労を覚えたからです。楽山は、他者の精神衛生を破壊する病質者です。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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  楽山の悪魔性
 
 『對立を超えて 日本文化の將來』安倍能成著編代表者
 2021年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言う道学が道楽であるように、楽山が積読を減らすというとき、妄想を積んで置くことになります。今回の、文章の質の悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
 
楽山は、茶色に変色した本のページを画像として出していますが、問題は、楽山が、どう理解しているかなので、画像は省略します。
 
*積読本を減らしたい
この間から積読本を減らそうと頑張っているのだが、残念ながらなかなかうまくゆかぬ。でも今回はとりあえずこの本にざっと目を通してみた。
本書は昭和23年の座談会をまとめたものであり、昭和25年に出版されたものである。座談会の参加者は表紙にある通り、和辻哲郎、渡辺慧、前田陽一、谷川徹三、竹山道雄、小宮豊隆、木村健康、安倍能成である。
座談会の話題は、冒頭から明治維新は上からの革命で本当の革命ではなかっただとか、世界国家の建設を目指すべきだという主張があって失笑させられるが、その後は日本文化について有意義な対話が為されていて勉強になる。
一読したかぎりでは、この中ではやはり和辻哲郎がもっとも尊敬され、一目置かれているようだ。安倍能成も存在感がある。ただ個人的には竹山道雄の意見にもっとも共感できた。
以下には、この座談会において特に興味をひかれた話についてメモしておきたい。
 
楽山は、有名人や学者の名前一人では物足りないのか、座談会の本を持ち出してきました。人数を増やしても無駄なのは、具体的でない記事の質と、記事の短さに表れています。楽山は、面倒臭いのでしょう。でも、読んだことにしたいのでしょう。読んだとアピールして無理解を表す結果です。
 
そういう短絡が、記事の短さに表れます。読んだことにはならないことが、記事に表れるのです。「興味をひかれた話について」の記事がこの量と質でしょうか。名前だけは、たくさんあげて、興味と言い、積読を減らしたいそうです。楽山は、楽山の妄想を積んで置くことになります。
 
誰が尊敬されているかが重要でしょうか。「一目置かれて」「存在感」「共感」・・思った通り、これが感想か・・と呆れるほど中身の空っぽな自慢の、誰がどうこうと、単純な褒め言葉を並べているだけです。読んだことにしたいだけだと分かります。楽山のメモは、ひどくランダムです。
 
*内村鑑三
まず本書には、師としての内村鑑三について次の証言がある。
Scan0047 内村鑑三と武士道、儒者
これは人によっては、封建的でけしからんだとか、古臭く堅苦しいととる人もいるかもしれないが、自分には非常にさっぱりしていて愉快に思える。
 
画像を出してこれだけです。何が "けしからん" のでしょう。これで、書籍の案内にならないです。推測するに、内村鑑三、武士道、儒者のうち、武士道のことでしょうか。どう、さっぱりしているのでしょう。どうして愉快なのでしょう。楽山は愉快犯ということになってゆくだけでしょうか。
 
*日本語
二つ目は、日本語には「信ずる」という言葉はないという話。
Scan0048 日本語に「信ずる」はない
これは意外だが、「信ずる」は訓読みでなく、音読みであることを思えば合点が行く。
日本に無宗教者が多いのも、これと関係があるのかもしれぬ。
 
信だけでなく、愛、介、感、禁、高、講、察、・・等々、音読み+『する(ずる)』で出来ている言葉は多いですが、それが、どうして、日本語にないと合点が行くのでしょう。メチャクチャ雑な話です。さらには、無宗教と結び付けるとは、楽山は、思いつきだけで、言葉の中身がないです。
 
*祈り
三つ目は、祈りについてである。
Scan0050 祈りの効果。カレル著「祈り」より。
祈りについては、良い効果があるという話を聞いたこともあれば、そうとばかりもいえないという話も聞いたことはある。たとえば入院患者たちを自分の病気平癒を祈ってくれている人々がいることを知らされたグループと、知らされないグループに分けて、その後の患者の様態を調べると、前者は後者よりもよくなかったという結果が出たという話など。
祈りは効果があるのかないのか、一体どちらが本当なのだろうなと思う。
 
楽山は、祈りについて、治癒したかどうかで判断しています。祈りの心が無い証拠と言えるでしょう。ここまで、おかしなことになっている楽山です。祈りは治療効果があるから祈るのでしょうか、薬じゃあるまいし、否です。祈りというものを効果の有無で判断する楽山の甚だしい無理解です。
 
もはや楽山の知能を疑いたくなりますが、ひょっとしたら悪質な揶揄かもしれません。判断の基準について、一般教養としても稚拙すぎます。上と併せて、もはや、マンガでしょう。しかも、面白くもなく、中身が、悪意の揶揄以外、皆無です。
 
*藤井武
最後に本書中で、もっとも興味をひかれた箇所について保存しておきたい。内村鑑三の弟子の藤井武という人物は、次の主張をしていたという。
Scan0045 内村鑑三の弟子・藤井武「羔の婚姻」
Scan0046 神の計画的な導き、思想展開
要点をまとめると、こういうことか。
堕落した日本はいったん滅ぼされたあとに新生される
神の計画によって、各時代、各地域において新たな教えが説かれた
キリスト教において来世問題(霊界? 転生?)を明らかにする
これらは一見したところでは新規なものにも思えるが、よく考えてみれば必ずしもそういうわけでもないことがわかる。たとえば一つ目についてはその根っ子にはキリスト教的な世界観があるのだろう。また戦前の日本では大本教が、近々、世の中が立て直されることを予言し、騒ぎになっていたというからその影響もあるのかもしれない。あとの二つについては、スピリチュアリズム方面で語られていることだろう。よってこれらの考え方には目新しいところは特にない。
 
「新生」も「転生」も、キリスト教の中心ではありません。神の業は、神に任せる、という重要なポイントを抜きにして、心の問題を語れない楽山が、知ったかぶりで語る座談会は、もはや、楽山流に歪曲されたチープな雑言短絡のゴミ箱になっています。
 
宗教やスピリチュアルを気取って、ここまで、説得力のない詭弁も珍しいでしょう。楽山の記事には、陳腐だったり、詭弁だったり、曲解だったりしますが、目新しい卓見のようなものはあった例がないのです。
 
宗教を知らない、神を知らない、聖霊を知らない、そして、人間を知らない、さらに、読書できない、理解できない、分別がない、節操がない、立小便のようにメモと言って垂れ流す・・ネタにされた古本も気の毒です。
 
>思うに、宗教思想というものは個別に見ればあっと驚かされることがあったとしても、<
 
「あっと驚かされる」という、どこかで聞いたようなセリフでしか表せないことが、先ず、感想になっていないということです。この記事が、本の言葉とは思えなくなります。楽山は、知的にも、成人男性とは思えない遅れを、今回、あらわにしています。
 
横断的に広く見渡してみれば相互に影響されており、それぞれ単独で発生しているわけではないということがわかるものだ。新たな宗教は、神の啓示によって突然に説かれるのではなく、人と人の間から生まれてくるものなのだろう。
 
来世問題や世界観が、どう相互に影響しているのでしょう。楽山の説明が拙劣なために、宗教が、人と人の間から生まれるというのは、無神論が前提になった暴論に過ぎなくなっています。来世問題を語りながら、人と人の間?・・寄せ集めて語ろうとして、滅裂です。
 
信じないなら、信じなくていいが、その無理解で、人を惑わすような、知ったかぶりをされては、たまりません。楽山は、宗教について、神と人の関係について、何も分かっていない。来世どころか、この地上、そして、人間について、何も分かっていません。
 
これも、憎まれ口として、楽山が、故意に言っているなら、その質と量が、そのまま、楽山の体質的な悪魔性だということです。理解できず、理解しようとも思わないで、迷惑な雑言だけをまき散らす楽山には、一日も早く黙ってほしいとだけ、切に思います。
 
信者にとっては自分の信じる宗教こそが絶対的なものに見えがちではあるが、実際のところはどの宗教も相対的ものにすぎないのである。
 
何が絶対ということなのか、全く分かっていないまま、軽口で絶対性を否定する楽山です。神の絶対性は、信じる前提ですが、絶対性自体を、人が理解することはありません。神に対しては、人は、絶対性ではなく、ただ、神と違う己の、人としての相対性を弁え、恐れ、正直に祈るべきなのです。
 
そういうことが全く理解できない楽山は、宗教を、ゆえに、神を、相対のオモチャ箱に入れようとするような、恐ろしい傲慢を表しています。やはり、この記事は、本の中の文章ではなく、楽山が歪曲した理解つまり曲解を書いているだけです。人間を見ないで宗教を語るとこうなります。
 
自分はこの辺りのことに気づくことができず、上の三つと同じようなことを説くとある宗教を絶対視し、のめり込んで失敗した過去があるのでひたすら反省である…。
 
それ以前に、このクズのような記事を反省してほしいと思います。こうやって、自己愛性人格障害の楽山は、宗教の評価をクズだよ・・と、言いふらすつもりなのでしょうが、ここまで来ると、宗教と神に対する、楽山の病質からの、悪魔性に満ちた、あからさまで不細工な侮辱でしかありません。
 
よく、反省・・などと書けるものです。過去を反省した今の自分は正しいというニュアンスを読み取ってほしいと思います。楽山が、本当に悔いて反省することは、一度もなかったのです。病質から言っても、記事を見ても、これからも、あるとは思えません。
 
自己愛性の病質とはこういうものなのか、進行すると、これほど人間離れして壊れてしまうものなのか、という感を新たにしています。澱(おり)のようなものになって、掬いようがなく、救いようがない、それほど、手の施しようのないものになっています。
 
 
悪魔性

悪魔性
 
 
(2021年06月29日)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
(90年代か)
 
最終2行は、そうでなければ、物や肉体の奇跡話だけでは長続きしないし、救われないと思うからです。現代、物や肉体の奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないわけだし・・。人間の心を疎かにするのは信仰ではないと思います。
 
超常の話が増えれば増えるほど、楽山のような、何も分かっていない部外者が、偽善者として、蔓延り、霊能者気取りや学者気取りで、本来のキリスト信仰を、否定しようとするでしょう。
 
楽山の攻撃性は、罵詈雑言よりも、理路の散逸と、共感の欠如です。人間と遣り取りをしていることにならないのです。自己愛性人格障害の怖いところは、罪悪感がなく、極めて諦めの悪い執拗さです。こちらの頭も心も、煙に巻かれたように、疲労しボンヤリしてきます。
 
楽山は、また、新しいツイッターを立ち上げて、文句を言っているようです。良心の欠片もない楽山です。明日の記事に批判を入れますが、既に批判していることを蒸し返しています。
 
 
 
あるカルトの人は、キリスト者であることを疑ったところ、何やら書類のようなものを写真に撮って出してきました。それが信仰の証明になると思っているのです。役所の手続きか生命保険の契約のように信仰を考えていたようです。
 
信仰の証しは、免許証でも保険証でもありません。信仰の救いは、神に向かって祈り、自分を見ていただく以外にありません。人が祈る時、既に、神によって全て見抜かれています。神は、人間からの正直な告白を待っておられます。人には、それ以上の捧げものは無いからです。
 
聖書において救われた人々を見ると、救われるためには、完全な正義ではなく、完全な善でもなく、神の前に、努めて正直であることだけが必要十分であります。正直以外、神には通用しません。神の前で人は生きていますから、常習的な神への嘘吐きは、救いから、最初に除外されます。
 
教条絶対を語る者は、言葉だけでなく心の底まで見抜かれる神の存在を信じていないと思います。私たち信仰者が地上を生きることは、神の前で生きることであり、神に向かって祈ることであり、人の体裁も善行も正義も誉れとはならず、正直な祈りだけが信仰の義となる生き方なのです。
 
(2021年06月29日)
 
 
 
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  有名人を悪用する楽山2
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子著
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 
中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
 
以下のようなテーマを「やっぱり面白い」と言う楽山は、やっぱりおかしい、と思います。
 
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。
 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚い楽山は、また、斬ったつもりで、斬られています。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用~利用して書いてくるという当てつけの特徴が出ています。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いていることです。"自己中毒" とでもいうべきものです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきた反キリストなのです。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。
 
楽山は、この記事で、批判している奴は正義中毒じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。批判を無視して、他者の口を利用して、当てつけを書き続ける楽山こそ、正義中毒です。
 
それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という信条に無条件賛同をするという経過になっています。キリスト信仰とは、真逆の信条で、これが、シャロームが、偽キリスト者、偽牧師であることの証拠になっています。
 
この記事もですが、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己正当化の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという経過が続いているのです。楽山らしく、有名人を引用し、評論家の筆致に似せて、気取って見せている醜悪な詭弁であります。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、また、自分に対する批判を、総て悪と考えています。ゆえに、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、その個々の批判が悪である根拠を示したことがありません。判断の基準が、楽山自らの快楽原則にしかないからです。
 
ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。神通力についても許可制などと言って同様でした。楽山に著作権はないのですが。
 
有名人の著作であり、自分が書いたわけでもないのに、どうして、ネタバレを気にするのでしょう。恐らく、楽山は、他者の者と、自分のものの、区別がつかないのだろうと思います。他者の文章が都合がよいと利用して、自分が書いたような幻想に生きているのでしょうか。
 
つまり、自他未分化が見られ、付随して、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、
 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などという、その中間にあるものを考えない短絡なのです。どうしようもないことなら、近づかないことですが、その対象は、まさに、楽山であります。
 
分からないことを保留に出来ず、分からないと言えず、何でも分かっている自己愛によって、場当たり的に、思いついたらバタンバタンと薄板を叩きつけるような雑な思考で、結論を書いて、ひと仕事したかのように満悦してゆくのでしょう。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけと刷り込みには十分という計算がある、ということが、今までも繰り返されてきたのです。
 
自己愛性人格障害の楽山は、こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか出来ないのです。自らの独創性で書くことが出来ず、暫定的にも確かに主張できるものが、理路と共感の貧困な楽山の中には、何も無いからでしょう。発想できない貧困が、病質の思い上がりだけ持っていることになります。
 
脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、
 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということを狙っていると思います。
 
楽山の病質から、こういう言葉選びに、自己愛と他者侮蔑の症状が出てしまいます。つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回、表れています。重症だと思います。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な感情・情動が表れます。引用し丁寧語で婉曲的に書いたことで責任回避しているつもりの一種の罵詈雑言なのです。
 
つまり、またしても、自己中で無反省で、引用元を含めて他者の迷惑などは、いっさい、考えない楽山の厚顔無恥が表れています。丁寧だが、暴力的、ということがありうるという例です。そのような例がもたらす悪は、暴言以外にも、白々しい偽善や当てつけがあるということです。
 
脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
 
フィードバックなど、抑制機構は、価値観の大変化に対応するためでしょうか。個人の、生存のための日常的な他者との人間関係の学習などが関係しているのではないでしょうか。
 
楽山の筆致の特徴として、自分を除外して、大方、受け売りから、単方向に執着して誇大的になる傾向が認められます。冷静な学問なのだと見せかけたいのでしょう。
 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性・現実性が乏しいような書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような専門家気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを与えてくる地獄が待っています。
 
自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、
 
嘘です。執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、この句のような、恥を知っている人なら、出来ないはずです。楽山は、明らかに違います。同情をひくための、トホホ言語の典型で、つまり、嘘の芝居だと思います。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という楽山の言葉の選択に、楽山の凶暴になりうる攻撃性が潜んでいるのです。
 
保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、
 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、矛盾ですから、書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない楽山の愚痴です。これも自己正当化のために同情を誘う詭弁屋の、芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" の猿芝居なのです。
 
本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。
 
ネガティブフィードバックは、適応する必要があるものでしょうか、調節機能だと思いますが。それとも、ネガティブフィードバックについて、上に書いたことを繰り返しているだけでしょうか。
 
ネガティブフィードバックが生存戦略ならば意味がありそうだが、戦略と言うほどのものでしょうか。それとも、説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうか。こういう分かったふうだけのきれいごとは、シャロームの大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。
 
楽山やシャロームや易坊などの易坊類には、一人による成りすましの疑いを持っています。
 
終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。
 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。どちらにも無責任で無反省であることが、しつこいほど、表れてきたのです。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、言論も言葉遣いも、雑で、いい加減です。ここでは、また、短絡して、「相反する価値観を同時に持つ」というアンビバレンスか統合失調的な結論を書いて、疑問がないようです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!有効ですね!という気になって、満悦しているだけだと思います。矛盾した言動の正当化と、相反する価値観の受容は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化しておくことでしょう。訂正不能の単方向に固執する楽山とは、正反対の考え方になります。
 
本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。
 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。
 
楽山は、何を面白がっているのでしょう。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。楽山は、人を無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。人間という見方は必要ないとでも言うのでしょうか、否です。
 
生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。違うと思います。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。脳科学の本を読んで、いや、眺めて、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「切っ掛けにならないとも限らない」・・こういう婉曲表現がボンヤリ言語の典型です。楽山は、謙虚のつもりで、随所に書いていますが、中身は同じであり、責任逃れにしかなりません。
 
自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。
 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
2 儒学。特に、中国宋代の朱子学。宋学。
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
4 道家の学問。道教。
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていない楽山です。また、楽山は、いかなる論者にもなりえておらず、見栄張りと遠吠えです。だから、自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りと化粧だらけです。中身がないから、失敗して、病識もなく、それこそ、精神が、小梅太夫かチンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。道学というより道化であり、誰にとっても有害無益だと、つくづく思います。
 
 
ちんどん

ちんどん
 
 
(2020年06月16日)
(2021年06月28日、再録+)
 
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑みなども。
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
記事、読みました。「死人に口なし」ということを連想しました。立花隆氏とご遺族に同情します。
幸福実現党には、こういう死者を貶める恥ずべき行為には毅然としてノーといえる正義の政党であってほしいと思います。
午後1:10 · 2021年6月26日·Twitter Web App
 
「死人に口なし」「死者を貶める恥ずべき行為」と書いていながら、「正義の政党であってほしい」これ、アンチHSのスタンスでしょうか、希望を申し上げる書き方になっていると思います。幸福実現党の総裁はOR、つまり母体はHSでしょう。心ない楽山の、虚言に心なしでしょうか。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mi-mollet/ミモレ
@mimollet2015
·6月15日
心に深い傷を残す、親に虐げられた記憶――。大人になってなお、そのトラウマに苦しむ人は少なくないといいます。
「毒親」でも介護するべきなの?
しんどい親子関係を今すぐ終わらせる方法とは
午後1:26 · 2021年6月15日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。引用した楽山を批判しています。
 
心に深い傷を残す自己愛性人格障害NPDの記憶、徒労と疲労と、ネットだけでなく人間を信じられなくなるトラウマに苦しむ人を、全く気にすることなく、もてあそんで笑っているのが、楽山のようなNPDの病質者です。
 
楽山のような病質者の人権をも守るべきでしょうか、否です。自らの人権と尊厳を踏みにじられてはいけません。害毒となる悪しき人間関係からは、直ちに逃げるべきです。自分を守るために、楽山を相手にしないでください。決して楽山に関わってはいけないと思います。
 
楽山は、批判されると、批判者を、"善魔" と言っていましたし、また、"正義中毒" と呼んでいます。善は、魔でしょうか。正義は、中毒でしょうか。それについて詳しい説明が、楽山は、全く出来ないのです。何故なら、人間に分かる根拠を、霊能者気取りの楽山は、持ち得ないからです。
 
恐らく、偽善に近い意味でしょうが、誰よりも、楽山こそが、善の仮面をかぶった悪魔性、すなわち、善魔、そして、逆らうものを、正義中毒と呼んで、呼ぶだけで、何も説明できない偽善者です。楽山は、だますための詭弁だけで、整った理路を持ちません。丁寧語に、だまされないでください。
 
楽山は、批判者を、善魔と言い、正義中毒と言っても、妄想話、超常話、批判を無視した自己正当化などを書いても、根拠のある反論も弁明も出来ません。この経過が、楽山が詭弁屋であることを示しています。楽山こそ、無反省・無責任の、善魔、そして、正義を中毒におとしめる偽善者です。
 
楽山が、いくら、目新しい学術みたいな用語、善魔、正義中毒、などと言っても、そこに、根拠という実がないのです。NPD楽山は、靄(もや)のような言辞で、理路をごまかし、詭弁と誘導をもって、嘘っぱちで無責任な楽山の詭弁を刷り込んでくるだけの地獄の管理人です。
 
 
楽山は、いくら論理ぶった書き方をしても、自己愛のために、冷静な理路がありません。だから、見栄を張って、学者を引用し、見かけだけ、学問を気取ります。楽山は、学問より、超常話が好きですが、自己愛者だから、のめりこんで、現実離れして、非常識になっています。
 
楽山には、しんみりと悲しんで自分を悔いて振り返るような高等感情がありません。罪悪感や、羞恥心や、共感や、反省する心がありません。ゆえに、言葉だけの同情や卑下を繰り返します。トホホ、反省、共感、胸に刻んで、・・などです。言葉だけなので、よく読むと、不自然です。
 
楽山は、遣り取りが核心に触れると矛盾が噴出します。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しない、と言って、非常識が信条?~妄想なっているので、無反省、無責任です。楽山に、だまされ続けると、以上に述べたような、楽山に似たような人格になってゆくでしょう。
 
 
(2021年06月28日)
 
 
 
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  読書2
  
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連と楽山批判がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。他の人々から、読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分でした。母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな。理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットの病的ナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのか、それで分かったような書き方をしてよいのか、という問題があります。
 
しかし、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。楽山の言葉を拾ってみると、「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」・・八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。
 
実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。そして、「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」・・どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。
 
悪い意味で、すごいのは、楽山が、唯物論、というデカい言葉を、平然と使っていることです。こういう、学術用語、専門用語を使うのが、楽山の好みであり、気取りであり、見栄なのでしょう。今まで、学問の言葉を愛し、学問することをサボってきた楽山ならではのことです。
 
(ネットより)唯物論: → Wikiですが、なぜ載せたかピンと来なくなったので、文末へ移動。
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などを表せるはずはないのです。
 
楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。機械論と創造論のことについても、同様でしょう。一般的にも推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになりますが、違います。
 
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
世の中、金や、金や、という意味でしょうか。違うと思います。また、それが革命で良い方向に実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は、まともには動かないと思っているので、あまり興味はありません。物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで、信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もありません。楽山の理屈は、これまで、結局、視野狭窄と短絡で出来ていました。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいない、と言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている、"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけなのです。
 
楽山が、ずっと、心霊について書いてきたことが、半端ながら、楽山の唯物論を、否定しているのです。聖書は、常識的な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけを受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、近づかないでください。
 
 
読書したふり?2

読書したふり?
 
 
(2020年06月21日)
(2021年06月27日、再録+)
 
 
 
  わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう。
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学のお勉強を時々していた。
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さとか、
X軸回転体の表面積とか、
1‐(1/2)+(1/3)‐(1/4)+…など、
高校の時には考えなかったことが
解けたときと似たような感じを覚える。
 
数学は独特の感覚的理解を要求するので、
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない。
 
詩や文学・芸術にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる。
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが、
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない。
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の解放感
を必ず伴なう。
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない。
 
(90年代か)
 
 
 
数学は、数学の感性と理路を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
詩は、詩の感性と発想を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
 
少なくとも日常的な人間の感性と知性を持っている人なら、多くの文章を読むことも書くことも出来るでしょう。ふつうの感性と知性は、学習することで、磨かれます。
 
しかし、その感性と知性を、努力もなしに、妄想的な前提で固定してしまう自己愛性人格障害者には、読んで受け取ることも書くことも、歪んでしまうのです。そういう者が、一人前に書こうとしても、書けないために、嘘を吐いて偉そうに見せたり、詭弁で誘導するしかなくなります。
 
体質的な自己愛者は、丁寧語や、優しそうな言葉で、取り入って、婉曲表現の多い文章に、よく読めば、偏った思想の流れが見えてくることがあります。遣り取りとしていると、学習の欠乏と、筋の通らない妄想的な内容や、隠された怨念や攻撃性が表れることがあります。
 
自己愛者は、他者の意見を受け取らずに、自分の意見を繰り返し、手を変え品を変えて、言ってきますが。訂正不能であるばかりでなく、小学生のように幼稚な内容を、学者の名前でごまかして、知識人を気取る有り様が、その異常性を見抜くきっかけになるでしょう。
 
人間は、他者の意見を受け取って、不十分ながら理解したうえで、責任をもって、つまり、間違ったら訂正や反省をすることを通して、言論を生かしてゆくでしょう。少なくとも、そういう努力の姿勢が見えてくるはずです。
 
しかしながら、自己愛者が、こちらの疑問に全く答えられず、反論も弁明も出来ないだけでなく、さらに、何も理解しないまま、自己顕示欲だけから、気取りだけで、学問や学派や学者を語る様は、とても醜いものです。そういう意味では、自己愛者は、現実のホラーと言ってもよいのです。
 
反省を全くしないこと、人のことばかり言い、人のせいにばかりすることから、自己愛者だと知ったら、その者が、決定的な破綻をきたす前に、出会ったら、逃げること、関わらないことを、お勧めします。ひどくなれば、犯罪に結びつきやすいと思います。
 
ドラマなどに出てくるような、怒りと笑いと芝居だけで出来ているような犯罪者は、自己愛性人格障害、人格破綻者、精神病質、サイコパス、情性欠如者、などと呼ばれます。似たようなものです。病識と自覚は、全く見られません。どうか、くれぐれも警戒してください。
 
 
俗にナルシストと言われる人の中には、単なる自慢好きも含まれているかもしれません。そういう人と、自己愛性人格障害者という病的ナルシストの違いですが、前者は、人が困っていたり、のっぴきならない事態であるときには、それを感受して、一気に実直になれることでしょう。
 
後者の病的ナルシストは、いかなる事態にも、どんなに人が迷惑していても、それ以前と同じように、平然と、自己愛からの発信を続けるだろうと思います。その経過は、批判を開始してから2年、変わりなく、謙虚を装って、ときに笑いながら、自慢を続けてきた楽山に、如実に表れてきました。
 
病的自己愛者には、ブレーキがかかることはないのですが、都合が悪くなって、様子を見たり、やり方を変えてみたりはあると思います。それは、反省とは全く異なるもので、策の練り直しであり、狡猾さが表れているのです。
 
(2021年06月27日)
 
 
 
2021年06月26日
三島由紀夫の霊言?
「幸福の科学とは何だろう?」ブログ by 楽山
 
楽山は、この記事で、ORによる「三島由紀夫の霊言」なるものへのリンクを貼っています。それが、どうだとかは、書かずに、リンク付けて、何が言いたいのでしょうか。楽山自身と共通点のある教祖のことを書いて、おかしいでしょ・・と言いたいのでしょうか。見るがよい・・だけでしょうか。
 
個人メールか、宣伝ビラのような考えでしょうか。書けば、見る、見れば、分かる、という気安さで書いて、ブログで発信することの公共性を、ほとんど考えない楽山です。
 
 
 
→ (ネットより)唯物論:参考までに。
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
 
 
 
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