ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年06月

 
  死者と救済(修正再録)2
 
 
神は生ける者も死せる者も支配し救済する。
というのは
神の全知全能からの思いである。
しかし
死んだ人のことはもちろん
神が生きている人をどう支配し救うかについて
全知でも全能でもない人が
確信できることは何もない。
 
一方
「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神」
という聖句がある。
ここで注意すべきことは
この聖句は
生ける者に向かって語られているということである。
神が死者にどう関わるか
あるいは関わらないか
生きている人に確信できることは何もない。
 
人は神による被造物であることを思えば
神が自分の造ったものに対して
造るにしても育てるにしても壊すにしても
その理由を手取り足取り
いちいち納得できるまで人に説明はしないだろう。
それゆえ神のなさることはしばしば
人には救済と思えないことがある。
 
神を信じる者は
恐るべき御方として
無条件に
神を信じないでは生きられない者のことである。
 
信仰は恐れを知り、確信は恐れを忘れる
 
神の行為について
人が確信できることは何もない。
 
ゆえに確信を持てないのだから
人は、あらゆる物事について
神を恐れるべきである。
 
神を恐れるとは
神は完全だが人は不完全だ
ということを弁えることである。
 
ゆえに、人は、
神聖の意志と行為を決めつけることは出来ない。
 
 
(2011年09月01日)
----------------------------------------------------
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
22:30
復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
22:31
また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
 (マタイ22:30-32、新約聖書)
 
マルコ、ルカも、ほぼ同様
 
私は学者でも牧者でもないから詳しい聖書の解釈は知らない。
ではなぜ、今までもそうだが、聖書についての解釈を書くのだろう。
 
例えば、愛について書かれている聖句についても、
ある人は、異性を、ある人は、家族を、あるいは、隣人を、あるいは、キリストを、あるいは、神を、考えるだろう。そのとき自分が一番気になっていることを考えてしまう。
 
そして、そこで真実と思ったことは、別のときに自分で修正するときまで、主観的な真実であり続けるからだ。そのように、個人が受け取ったことは、正しいかどうかわからないまま、個人の真実となってゆく。
 
ここに、カルトや偽善者の、訂正不能の悲劇があり、
また同時に、
人間の成長の必要性と、それを可能にする信仰のあり方があるとも言えよう。
 
その都度、受け取り、かつ、折に触れて、反省して、祈り、願うことがある。
 
だからこそ、私たちは、信仰者として敬虔でありたいと思うなら、自分の解釈を、そして人に教えてもらった解釈を、さらに広く認められている解釈さえも、決して絶対化してはいけない。人の伝えるものに、地上の一生を通じて、絶対はない。
 
上に挙げた聖句であるキリストの言葉の前後には
「アブラハム、イサク、ヤコブの神」
という当時としても大昔の祖先の名前が書かれてあり、
「人はみな神に生きるもの」という聖句もあり、
キリストは肉体の死を
「死」とは考えておられなかったような気もする。
しかし、肉体の死さえも、自分については、まだ知らない私たちにとっては、
救いに密接に関連している死の問題について、語れることは少ない。
 
また別に
葬式に行かせてくださいと言う弟子に対して
「私(キリスト)に従え」「死人の葬りは死人に任せよ」
という聖句もあるが、(マタイ8:21-22)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:20
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
8:21
また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。
8:22
イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
 (マタイ8:20-22、新約聖書)
 
これは上とは別の意味を持つのかもしれない。
キリストの弟子がキリストとともにいて
直接教えを聞くことの出来る期間は僅か約3年であり、
それをご存知のキリストの20節の哀しい言葉があり、
それゆえ今優先すべきことを言われたのであろうか。
 
いずれにしても、前にも述べたようなことだが、
聖書は必ず人の解釈を通して読まれることを思えば、
約二千年前の聖書の登場人物を、
聖書の記事だから正しいという理由で、気安く自らに当てはめて人に対するのは、
聖書を学ぶ態度ではなく、自分を聖人と同格と見なす行為であり、
聖書の乱用、さらには、聖書解釈くずれの自分信仰とでも言うべきものであり、
遠慮を持って慎むべきことである。
 
今回、私は聖書の解釈めいたことを書いたが、
どんなに聖書に詳しい人であっても、人の解釈は、あくまで人の解釈であって、
どこまでいっても、
神への思いが強くなることはあっても、神の意志と行為の確信に至るものではない。
 
そのことを全く理解していないのは、カルトの所業である。
 
正しいと思う言動において人は怯むべきではないが、
その思いと信仰のうちに、神への恐れを抱き、
ゆえに折に触れて自らの罪性を省みるべきである。
 
神の確信が信仰なのではない。
 
神への思いと神への恐れが信仰である。
 
それが「神を恐れよ」を、とみに私は衰えてゆくのに、
あえて執拗に、うんざりするほど繰り返す理由である。
 
 
信仰は恐れを知り、確信は恐れを忘れる
 
信仰は御心を仰ぎ祈り、確信は心を固めて終(しま)う
 
 
信仰と確信

信仰と確信
 
 
(2019年04月21日、修正)
(2021年06月26日、再録+)
 
 
 
 言葉の意味
 
言葉は、言う人、言う状況、言うときの声・口調などによって、意味が変わる性質を持っています。当たり前のことです。言葉は、辞書に書いてある意味で固定などしていません。辞書の意味は、言葉を言葉で言い換えた相対的な近似に過ぎません。
 
言葉の意味というのが言葉が与える影響と考えれば、当然、その影響は、状況などに左右されるわけです。影響のうち、最も大切な影響は、心への影響です。作用と言ってもいいでしょう。言葉だけではないが、様々なことで、人は、人を、助けたり、傷つけたりもするのです。
 
神の言葉と言われる聖書の言葉も、同様であり、文字面だけを求めて、それを言っておればよい・・などということは、一切、成り立たないことなのです。言葉そのものを絶対としてしまう教条主義が、キリストによって、激しく批判されたのは、そのためであります。
 
教条主義は、意識するとしないとに関わらず、宗教や思想や法制度において、とても重大な問題を、そして、齟齬(そご)を生んでいると思います。御言葉、神の言葉、という聖書の、勝手な人の恣意による悪用がが、詭弁と悪意のカルト思想を生んでいるのです。
 
神の言葉だからと、教えの固定・不変を教えてはいけません。心の自由な成長を阻害する恐れがあります。個人が受け、そして、発する言葉は、極言すれば、その個人の心にのみ対応しています。私たちは、その曖昧な共有を信頼して、言葉による交流をしているのです。
 
精神活動全体に、似たようなことがあります。これで大丈夫と固定していいものは人間にはありません。人類が万物の霊長なのは、学習し成長することが、期待されているからに他なりません。絶対不変は、人間にはなく、いくつになっても、成長しうるから、生かされているのです。
 
(2021年06月25日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
メガネ陰陽
@hatsusenoUK
「こころの深呼吸」より
胸に刻んでいきたい
午後11:07 · 2021年6月24日·Twitter for iPhone
 
添付画像には文章が載っています。
 
地獄とは
「自分が絶対に正しい。きらいな相手はゆるさない。自分が幸せになればいい」そう思う人にとって、神さまのもとで、すべての人と幸せに暮らす天国は、我慢できないほど嫌な場所でしょう。そのような人たちが、天国に入るのを嫌がって集まる場所が地獄です。
 」
 
これに最も当てはまるのが、自己愛絶対の、楽山自身です。楽山は、またしても、自己正当化を企んで、逆に、自らの非道を表しています。2年余り、批判記事を書いてきました。「胸に刻んで」・・楽山は、真逆です。
 
こういう人からは逃げるしかありません。楽山を、決して相手にしないでください。丁寧語を使って、嘘と詭弁で、総て人のせいにして、だましてくる、極悪の偽善者なのです。このリツイートは、白々しすぎて、怖いです。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(3)2
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。どれかを知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか聖書も理解していないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる時です。
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もないことが表れています。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
楽山本人は、ブログのタイトルに、LDと書いている。学習障害 learning disability のことであろうかと思ったが、ブログサーバー livedoor のことのようです。障害の自覚はないということでしょう。実際は、様々の症状を呈する自己愛性人格障害からの学習障害だと思います。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、または、本の中の引用で、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
訂正不能の自己顕示

訂正不能の自己顕示
 
 
(2020年06月24日)
(2021年06月25日、再録+)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(2)2
 
 神についての対話 2 
 楽山日記(LD) 2020年06月21日
  を改めて批判。
 
 
楽山が悪意の人であることが表れています。信仰が分からないから、信仰について、文句が言いたいのでしょう。そして、終わりに、小説から、ふざけたことを言って、神を笑う気持ち悪さなのです。
 
努力している信仰者も非信仰者も、たくさんいるでしょうに、楽山は、反キリストとして、霊が分かるっぽい特別の地位を欲して主張しているのだろうと思います。
 
神を崩れた理屈に納めたつもりの楽山が、決めつけはよくないと書いても、何の説得力もないのです。楽山の、自己愛こそ、自己中こそ、無反省こそ、楽山が決めつけた自分信仰です。
 
楽山は、対話形式にして、工夫をしたつもりで、ますます、演技的になってる、芝居がかってる、わざとらしい、などと思われることを予想しなかったのでしょうか。
 
自分に酔う者は、芝居の度合いを増すことで、ますます、いい気になり、観客つまり読者がどう思うかが分からなくなるようです。まさに、自己顕示欲が、自らを滅ぼしてゆく楽山の独り芝居です。
 
*神のイメージの幅
若者 「えぇっと、ちょっと待ってください。いま、お話を聞きながら、妙なことを考えてしまったのですが…」
老人 「妙なこと? どんなことだい?」
若者 「い、いえ、やっぱりいいです。すごくバカバカしいことなんです」
 
とても気持ちの悪い謙虚芝居です。このような対話形式でなくても、「とほほ」など、楽山は、同情を誘いたいのか、この手の作為の白々しい芝居をしてきます。舌打ちをして耐えるしかありません。
 
老人 「ひらめきや思い付きには、あまり自己検閲をかけすぎない方がいいと思うよ」
若者 「そうですか。では言いますけど、あなたの意見は、人には神のことは分からないのだから、『神は~である』とは断言できないし、『神が××であるなら~だろう』と仮定として話すか、『私には神は~と思える』と感想を話すくらいしかできず、誰かが抱く神のイメージについて確信をもって正しいとも、間違っているとも言えないということですよね」
老人 「そうだ。他人が抱いている神のイメージについては、共感したりしなかったりはできるが、どういうイメージが正解であるかは分からないのだから、正しいとか、間違っているとかは言えない」
若者 「そこで僕は思ったのです。それでは、もし『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人がいても、それを否定できないのではありませんか? これはおかしくありませんか?」
老人 「神は残酷だということについては、私の記憶では、たしか、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』にそういう表現があったね。主人公の少年は、親友が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、牧師の下に通い、信仰に目覚め、その後は多大な犠牲を払いながらも、邪悪な存在と闘い、その活動を阻止するという物語なんだ。少年は自分には邪悪な存在の活動を防ぐ使命があり、その使命を果たすために自分が霊的なことに目覚める必要があり、そのきっかけとして友人が事故に遭うことが計画されていたことに気づき、神は残酷だと呟いていた。運命論的な考え方、すべては神の摂理によって支配されているという考え方からゆけば、悲劇は神によって予定されていたことになるわけだし、そういう感想を持つのは致し方ない面はあるだろうし、そこに真理は少しも含まれていないということはないだろうな」
 
「『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人」・・これこそ、楽山なのです。自分で若者に疑問を言わせ、自分で老人に説明をさせています。条件法で、神を語る楽山は、同じやり方の詭弁でしか答えることが出来ません。神は、条件の対象にはなりません。神は、信じ仰ぐ対象です。
 
本当に、楽山は、神が嫌いで信じないのなら、何も書かなければよいのに、・・ならば・・、という言い方の対象に、神をおとしめて、摂理の使命・・的な話のネタにしています。何処にも、糧になるものがないのが、楽山の、捏造フィクションの、それこそ、運命なのです。
 
楽山のように、神を、登場人物として、自身の貧弱な辻褄合わせで語れると思う者は、神について、キリストについて、人についても、何か良きものを、感じることも、ひとかけらも、受け取ることはないでしょう。
 
「真理は少しも含まれていないということはないだろうな」・・楽山の、二重否定です。大事なところで、確証がないのか、ごまかしたいのか、曖昧な表現が表れます。とても気色の悪い婉曲表現、ボンヤリ言語です。
 
こういう人と遣り取りすると、絶望的な疲労を受け取ることになると知ったので、私は、批判記事だけにして、コメントの遣り取りをやめました。長々と、愚にもつかぬ表面的な理屈、即ち、屁理屈を並べて、疲労させてゆくのが、実感というものを持ち得ない楽山の手口なのです。
 
楽山の書く思い付きの文章の邪悪さは、神を否定しながら、他に、救いも、救いにつながるヒントも書けないことにあります。自己愛が強いからでしょう。文句だけ言って、責任を負わない楽山は、他者も、自分の言ったことさえも、気にしない体質なのです。
 
信仰者は、いかなる悲劇があっても、キリストの愛を忘れることの出来ない人間です。臆病や疑いのために、キリストのもとを離れる人もいるでしょう。また戻ってくる人もいるでしょう。信仰は、一度で決定することではなく、正直でありうるなら、神の愛の寛容によって、いつでも、やり直せるのです。
 
信仰は洗礼を受ければ後は心配ないという信仰ではなく、様々な疑惑という経緯があって離れても、主のもとに帰る道があります。ゆえに、少なくとも、楽山のような者の意見を真に受けるよりは、はるかにマシだと言えます。楽山は、無益な言葉によって他者の人格を破壊する方向だけなのです。
 
キリスト信仰は、境地の固定ではなく、成長するための道です。楽山は、同じような非生産的なことを繰り返して、言い得たと思うわけですから、成長できない、そして、成長しないでいいと思っているようです。これは、人間の思想ではありません。
 
そういう腐敗に腐敗を重ねるような人生は、楽山やシャロームなどの限られた厚顔無恥の異常者にとどめるために、私は書いています。彼らに、誰も、近づかないでください。
 
若者 「神は邪悪であるというイメージについてはどうですか」
老人 「『神は善であろう』と仮定すれば、神のイメージは善から外れるものは認められないことになるけれども、『神はすべてであろう』としたらそのイメージは必ずしも善に限定さなければならないというわけではなくなるだろうね。『神は善悪を超越しているだろう』としても、そのイメージは善に限定されるものではなくなる」
 
楽山の言い分は、自分が正しい、自分は視野が広い、という方向で説明が付きます。限定されない神のイメージを、楽山の、字面の善と悪と善悪、という言葉で書いては何も言いえたことにはなりません。"善悪を超越" という言葉を安易に使う楽山は、何も分からないまま、反キリストの策略を弄しています。
 
人は、神の正しさが分かるから信仰者になるのではありません。それも、私のブログに書いてきました。信仰は、神の義と善に従うためにあるのではありません。それは、人間には出来ないのです。
 
不完全で罪深い人間が、神に対して出来るのは、祈りにおいて、精いっぱい正直であることだけです。それが、信仰なのです。神は、人間に完全な義のないことを承知の上で、正直だけで、信仰の義を与える御方です。人間の側からは、そうとしか、神について考えようがないのです。
 
楽山は、都合の悪いことは無視して、自己顕示欲を小細工で論理的に見せかけて、自身をインテリっぽく見せかけるために、中庸みたいなことを、前から書いていますが、実際は、通念的字面に終始して、何も言えなくなる虚無へ誘っているだけの悪魔性です。
 
楽山は、信仰の救いについて、体験がないために、何も理解していません。さらに、分からないのだからという謙虚さもないために、書くことを控えることもせず、反キリストらしく、無秩序に、いちゃもんをつけてきます。
 
楽山は、自らの混乱を伝染しようとしているだけです。恐らく、よほど、お仲間以外の、誰からも相手にされなかったのだろうと思います。
 
若者 「神は善であると言い切れないのだとすると、なんだか辛いですね。僕はやっぱり神は善だと信じたいです」
老人 「宗教のなかには、神のことを善神と悪神に分けているものもある。住民に虐殺命令を下したり、さほどの落ち度もない人物を不幸のどん底に突き落としてその反応を見てみようという悪魔の提案を受け入れる神もいる。また世界の神話には、現代的視点から見たら、とても善なる存在とは思えぬ神々が描かれている。神は善であるとは限らないという考え方は、そう珍しいものではないよ」
若者 「うーん、確かにそうですね」
 
「神は善であると言い切れない」・・ひどい虚言~妄想です。人は神の絶対の善を知りえないし行なえないということです。
「神のことを善神と悪神に分けている」・・それは、キリスト信仰とは何の関係もありません。悪魔のことなら、それを、神とは呼びません。
 
神の与える救いは、地上と御国を含んでいるので、楽山のように、現世が不服で、神に文句を言って、神を否定するのは、自己中の極みでしょう。キリスト信仰は、分からないことをも、神にお任せする信仰です。とても冗長で、疲労しか与えない楽山の独り芝居とは違うのです。
 
楽山は、まるで、聖書の話を、これをやったから神はおかしい、という、けなし方ですが、神を机上の対象にしている時点で、分からない楽山の不感が明らかになりますから、そこで既にアウトなのです。神を仰ぐのではなく、神を頭の中に作って云々しているのが楽山です。
 
楽山が言ったことに、「うーん、確かにそうですね」と、楽山が答える。笑止のインチキ芝居の自己顕示であります。時と場合を弁えない楽山、自分が何をしているか分からずにいるのです、という、聖句を思い出します。
 
私は、楽山のボンヤリ言語で、楽山のようなボンヤリ人間が増えるのを、できる範囲で防ぎたいと、切に願っています。それこそ、悪魔のように、訂正不能に何度も屁理屈をこねてくる楽山に、決して、近づかないでください。
 
楽山は、人間らしい活性と生産性がないために、同じことを言ってくるのです。問答形式にしたところで無駄なのです。中身は、知らない世界にまで、知ったことにしないと気の済まない病的ナルシストの常習的な醜い生業です。
 
老人 「善悪の基準は、時代、地域などによって変化するものだ。だから古代人が善なる神をイメージしたとしても、それは現代人からみればとても善とは思えず、理解不能なものになることもありえる。今きみが精一杯に善なる神をイメージしたとしても、それは未来の人々と共有できる善なる神とは限らないし、どちらかといえば理解されない可能性の方が高いのではないだろうか」
若者 「そうかもしれません」
 
人は、精いっぱい善なる神をイメージして信じるのではありません。上のほうにも書いたように、神の正しさは、不可知の神の、不可知の善として、人は、祈りにおいて、反省し、黙想し、告白するのが信仰です。それ以上は、人には出来ません。それが絶対孤独にはなかった信仰の道を歩むことです。
 
楽山の、信仰についての勘違いは、殆ど妄想化しているので、交流や議論は無意味であり、批判をせざるを得ないのです。この妄想的確信ゆえに、楽山は、感受と気づきをもって信仰を理解することができないのです。
 
また、それゆえに、楽山は、自身が信仰を理解できないものだから、手段を選ばず自分を高めたくて、手段を選ばず敵意を表してきます。対話形式だから、分かりやすくなるような要素は、楽山の主張にはありません。姑息な楽山の苦し紛れです。
 
老人 「そうであれば、きみが神は善であると考え、イメージしたとしても、それはあくまで個人的なイメージにすぎず、それに賛同しない人が現れて、『この若者は、到底、善とは思えぬ邪悪な存在を神だとしている。これは神に対する冒涜だ!』と噛みついてくることもあるかもしれない」
若者 「世の中には、いろいろな人がいますからね。まさかとは思いますが、ひょっとすると、そんなことも起こり得るかもしれません。少なくとも絶対ないとは言い切れないですね」
老人 「人には、絶対なんてことは言えないからね」
 
楽山は、結局、楽山の言うような、幼稚で、無反省で、無責任で、乱暴で、訂正不能の、反キリスト思想を、自己正当化し、自画自賛して、馬脚をあらわしているだけなのです。人間の原罪による不完全性から赦されて救われることではなく、どこまでも、自己正当化妄想を語っているだけです。
 
神の善は、地上では、人のものとはならないことを、人は判断しているに過ぎないことを弁えるべきことも、私は書いてきました。しかし、楽山の言は、おとしめるためだけに、キリスト教を信じるとこうなりますよ的なことを捏造しながら書いてくる裏の闇の印象操作です。
 
「絶対ないとは言い切れない」、これは、だから注意するべきだ、という意味ですが、楽山は、自身の文章と思想に溢れている偽りに、全く、意を注がず、こちらに向けてきます。そういう人が、言っている、ということを忘れないでください。
 
楽山は、キリスト信仰への、いちゃもんを否定されることを、迫害であるかのように言って、真実の殉教者であるかのような書き方をしています。ならば、楽山は、生まれて今まで、全部、嘘の、悪魔性、・・絶対ないとは言い切れない、ということになるでしょう。
 
*宗教批判について 
若者 「これまでお話をうかがって、前よりずっと、あなたの考えを理解できてきたように思います」
老人 「それはよかった」
若者 「でも、あの……」
老人 「どうしたんだい?」
若者 「すいません。また疑問がわいてきてしまったんです」
老人 「どんな疑問かな?」
若者 「ええっと、ですね…あなたの考え方は、神は不可知であって、人には分からないものだということでしたね」
老人 「そうだ」
若者 「だから、人には『神は~である』と断定的には言えないと」
老人 「そうだ」
若者 「神について語るときは、『神は××とすると、~であろう』と限定的に言うか、『私には神は~と感じられる』というように感想を言うくらいしかできないと」
老人 「そうだ」
若者 「神については確かなことは知り得ないのだから、他の人が語る神について、それがどういうものであっても、それについて正しいとも、間違っているとも断言できないとも」
老人 「そうだ」
 
楽山の卑怯さが全開です。神について、楽山が好きなように言うのを、正しいとも間違っているとも言うな!・・と言いたいようです。ですから、言います。楽山は、邪悪で、間違っています。否定される宗教思想は、このまま、多くの人が信じたら、社会悪に結ぶ付くもの、まさに楽山です。
 
楽山の、自己中、無反省、無視、訂正不能、虚言、無理解、などの体質は、明らかに当てはまります。宗教を、自己愛や自己中で語れないことは明らかであり、反省しなければ、いつか、犯罪に結びつく恐れが大であるからです。野放しにして、宣伝させてはいけません。
 
楽山は、明らかに間違っているのです。しかも、故意なのです。ゆえに、反キリストなのです。違法行為がないと逮捕は出来ませんが、批判は、言論の自由だから、いつでも出来るのです。その批判に対して、見苦しい愚痴と嘘と詭弁を返してくるだけなのが楽山なのです。
 
若者 「そこで一つ疑問があるのです。あなたの考え方からゆくと、間違った宗教を批判することはできなくなるのではありませんか。世界には、反社会的なカルト宗教というものがあります。神を自称する教祖もいます。人には神のことは分からなず、他の人が語る神について断固否定することはできないのだとすると、そのようなカルト宗教や教祖を批判することはできなくなってしまうのではありませんか。これはおかしいです」
老人 「たしかに、きみの言う通りだ。でもそれは宗教的な見地からは有効な批判はできないというだけのことで、他の面からはいくらでも批判はできるんだよ」
若者 「はあ…、それはどういうことですか」
老人 「人には神について確かなことは分からないのだから、カルト教団が語る神について、それは正しいとも、間違っているとも断言できないし、その教祖が神であるかどうかも確実なことは言えないけれども、その教団および教祖が、違法行為や人権侵害行為をしているならばそれを指摘することは可能だ。教祖の言行不一致や奇行についても指摘できる。教義に論理的矛盾があればそれも指摘できる」
 
楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無だと言いました。今も言っています。既に、私は、それに対して、カルトは、犯罪に及ぶ前日はカルトではないのか、と書きました。
 
上のことは、カルトの定義ではなく、逮捕できるかどうかの基準に過ぎません。特にネットの時代においては、カルトを早期に発見して、何よりも批判をすることが必要だとも書きました。
 
まさに、訂正不能と無反省と無視を貫いて自己中と不整な自説を広めようとしている楽山は、カルトと同質の批判対象なのです。矛盾がどうこう以前に、何も整っていないのです。
 
しかも、結果としてではなく、故意なのです。都合の悪いことを総て無視して、同じことを、手を変え品を変えて、今回は、独り言で恐ろしく長い対話を捏造して、また、言ってくるのです。
 
若者 「つまり宗教的な見地からは確実なことは言えないとしても、人権、法律、道徳、倫理、論理などの見地からは意見が言えるということですか」
老人 「そうだ。しかしその宗教において、神は、人権、法律、道徳、倫理、論理などは超越し、何らの束縛もうけないとしており、信者たちがそれを信じているならば、それらに基づく批判はさほど有効なものではなくなるだろう」
若者 「うーん。そういう宗教や教祖が間違っていることを証明するのは無理なんでしょうか。それができないなんて納得できないし、すごく悔しいです」
老人 「それをするためには、神とは何かという問題を解決しなければならないし、それができない以上は、どうにも仕方ないことだね」
若者 「そうですか…」
 
神とは何かという問題を解決しなければと言っています。神とは何か、分かるなら、その神?は、人知を超えた神ではなく、信仰にもなりえないと思います。宗教の基本的な見方が、楽山には出来ていないようで、とても、幼稚です。
 
楽山の扱い方で、神とは何か、分かると言うなら、それは、楽山の、真っ赤な嘘です。いちばん信仰に大切なことが、自己愛・自己中ゆえに、楽山は分からないまま、いちゃもんだけを言っています。あたかも、議論しているかのような小細工を弄して。
 
独り芝居の楽山は、問うたつもりで、主張しており、不可知と言いながら、ならば、解決しなければと言い、かつ、「どうにも仕方ない」 と言う始末です。
 
*到底、神とは思えない神
老人 「タイトルは失念したが、ずいぶん前に、酒場に入りびたる天使が出てくる小説を読んだことがあるよ」
若者 「天使が酒場に入りびたってるんですか?」
老人 「そうだよ。小説の主人公のところに、ある人物が訪ねてきて、自分は天使だというんだ。でもその人物は酒場に出入りしていて、とても天使には見えない。だから主人公は、『酒場に入りびたる天使なんかいるわけがない。あいつが天使であるはずがない。でももし本当に天使であったとしたら、それを信じなかった自分はいったいどうなるんだ? 不信仰の罪を犯すことになるのか?』と悩むんだ」
若者 「結末はどうなるんですか」
老人 「主人公は、信じることを選択するんだよ。そして実際、その者は本当に天使だったんだ」
若者 「酒場の天使ですか…どうにもイメージできません」
老人 「私もきみと同じだよ。でも神は全能であり、なんにでもなることができるとしたら、酒場で泥酔している姿で現れないとも限らないだろう。それだったら神が何らかの目的をもって、カルト教祖として現れないとも限らないだろう。場合によっては、空飛ぶスパゲッティモンスターとして現れることもあるかもしれない」
若者 「ははは。それは冗談でしょう。もし冗談でなければ、いくら何でも極論過ぎてついていけません(苦笑)」
老人 「まあ、なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいいだろうね。せいぜい自分には神はこうであると思われるという程度にしておいた方がいい」
 
フィクションである小説に出てきた神?を、真顔で、神の前提として話を進めている楽山の詭弁に気づいてほしいと思います。「(苦笑)」は、その軽さを表しているのです。
 
酒場で泥酔、カルト教祖、空飛ぶスパゲッティモンスター、という神、・・これは、明らかに、楽山の悪意による侮辱です。酒びたりの天使の、宗教的発言・行為を書かず、酒びたりというイメージだけで、あざ笑いの対象としています。これも詭弁でしょう。
 
そして、「なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいい」と言っています。
 
聖書に表された神は、全知全能・絶対完全・永遠不変という人間の手に負えない御方です。キリストは、人に共感する救い主です。ゆえに、キリスト・イエスを、神と人の間の仲保者という言い方もあります。
 
聖書についても信仰についても短絡した意見しか持ちえない楽山は、その一方的な思想から、神を、雲か霞のような、薄ぼんやりとした存在感のないものという印象を吹き込みたいようです。楽山は、固定観念で云々しますが、神とキリストは、人が固定できる存在ではないのです。
 
楽山にとって、神という存在は、ボンヤリした存在に過ぎないのでしょう。そこが、字面だけで考える楽山の宗教観の限界であり、即ち、神について語る心の資質を、楽山は持っていないということことが、楽山によって、示されているのです。
 
にもかかわらず、神を、机上で決めつけて、神がいるならなぜ悪があるのか、などと、けなしてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、神を、楽山の字面だけの理屈の中に決めつけてきたのです。
 
私は、何度も、神とその意志と行為を決めつけてはいけない、と書いてきました。決めつけないことが、私の書く信仰観の中心の一つだからです。
 
そういうこちらの言い分を、無視するのが、楽山という先入観の形骸のような人です。それは、読書にも表れてきました。学者や評論家と肩を並べるかのように、都合の良いところだけ引用して、自身の軽率で拙劣な理路の中に置いて利用し満悦するのが楽山です。
 
今回も、ふざけて、満悦し、神を、高みから見下ろして、神を冗談のネタにして笑う楽山です。まさに、楽山が、今、野放しになっていることが、神様どうしてですか、という祈りにつながると言えるでしょう。
 
楽山の独り芝居の詭弁と悪意に対しては、私が書けるあいだ、改めて批判を書いて、何度でも投稿してゆくしかありません。楽山は、反キリストと偽善者の典型です。
 
 
ぬめるあぶら

ぬめるあぶら(滑る油)
 
 
(2020年06月23日)
(2021年06月24日、再録+加筆)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
 
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
青年の初めて着た背広姿が
 
いつも歩く散歩道の一歩一歩
死を弄(もてあそ)べる老人が
 
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
(90年代か)
 
 
 
※ 今日の大谷は空振りがすごかった。(23日)
(・・上とは無関係です。)
 
 
 
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  楽山の独り芝居(1)2
 
 神についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記
 を改めて批判。
 
 
楽山が、もろに攻撃を仕掛けています。それも、仮想のコメントの遣り取りを捏造しての話です。ここで、楽山は、コメント者として、自分に好意的で、尊敬してくれるような人物を想定していますが、楽山自身でしょう。つまり楽山の独り芝居が、また、今回は対話形式で始まったということです。
 
異常者は、懲りるということがなく、どこまでも、真実から目を背けて、だましてくるのです。罪悪感も羞恥心もなく、ただ、攻撃意欲だけが働いています。人間にも悪魔性に囚われる者がいるという宿命でしょうか。批判に答えられない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
もし、これが、どこかで交わされたコメントの遣り取りであれば、組織がある、同調して無条件に褒めてくれる仲間がいる、ということの証拠になるでしょう。既に、だまされた人たちが、そばにいるのでしょうか。
 
芝居仕立ての、楽山の詭弁を見てゆきます。
 
*まえおき
 最近は、本の感想を書くことが多かったが、たまには趣向を変えて対話篇というかたちで書いてみたい。
*はじまり(若者と老人の対話)
若者 「こんにちは」
老人 「こんにちは。ひさしぶりだね」
若者 「はい。先日はブログを読ませていただきました。おもしろかったです」
老人 「ありがとう」
若者 「でも申し訳ありませんが、正直な感想をいうと、どうしても同意しかねるというか、疑問に思えるところがありました。もっともこれは、僕の誤読のせいかもしれませんが…」 
老人 「なるほど(微笑)」
若者 「あれ? お怒りにならないんですか?」
老人 「そうだね。人はそれぞれ違った意見を持っているのが当たり前なのだから、私の意見に同意しないからといって別に腹を立てることはないさ」
若者 「そういうものですか」
老人 「そうだよ。それに巷には、相手の意見を誤解したまま、正確に理解しようともせず、ああだこうだ言う人は少なくないし、ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。それからしたら、きみのように、あれこれ言う前に、自分の誤読の可能性を考えたりして慎重な態度をみせてくれるのは、とてもありがたいことだ」
 
ここの最後の老人の言葉に、楽山の言い分が書いてあります。楽山は「ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。」というのは、私に当てつけています。
 
極めて初歩的な、人間なら分かるはずの誤解も、自己愛絶対のために曲解して、中身云々よりも的外れの自説を言い続けてきたのは、楽山その人であります。
 
それと、当たり前のことですが、私は、前もって決め込んだりはしません。この記事もそうですが、私は、楽山の記事に反応して、そのたびに病的な作為だと感じて、批判記事を書いています。
 
自分の誤読の可能性を、全く考えず、にもかかわらず、批判に、反論も弁明も出来ないのは、楽山です。このような、意地の悪い当てつけだけを向けてきます。
 
お仲間以外、誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒める訪問者の芝居をしているのでしょう。殆ど児戯に等しい楽山の学芸会なのです。
 
ここまで崩れるほどに、高慢を守ろうとするカルト的思想の思い込みは、人間を、そして自身をも、破壊してゆきます。
 
*神のことは分からない
若者 「そう言って頂けると、とても話がしやすくなります。ありがとうございます」
老人 「どういたしまして。それで疑問に思ったところというのは、どの部分についてなんだい」
若者 「神についてです。あなたは神についていろいろ書かれていますが、僕にはどうもあなたの真意がどの辺りにあるのかが分からないのです。あなたは一体、神とは何だと考えているのですか」
老人 「……」
若者 「どうしました?」
老人 「どうって質問にこたえたんだよ」
若者 「こたえた? 口を閉じたまま、何も話さなかったじゃないですか」
老人 「私は、神とは不可知であると思っているんだ。人には神のことは分からないとね。だから私には、神とは何かと問われれば、沈黙でこたえる以外にはこたえようがないんだ」
 
楽山の意図は、反キリストであり、神とは何かについて答えがないから、信ずるに値しないという言い分のようです。楽山のような自己愛だけの偽善者に、神の御心など部分的にも触れることはないでしょう。信仰を求める心ではなく、我欲が中心だからです。
 
神の沈黙は、神が、いちいち、ここはこうしなさいと教えてくれるわけではないという意味です。当たり前です。しかしながら、聖書から、人に比べて、創造主である神の大いなること、救い主キリストの共感性と愛に触れている人が信仰者になっています。
 
神は、不可知であり、基本的に、沈黙の神であることは、人間が、神に対して思い上がらないために必要であり、そういう神でなければ、人を救うことは出来ないだろうくらいは、推測するわけです。全知全能・絶対完全・永遠不変を、人は、知っているとは言えない、ということです。
 
しかしながら、楽山は、私が言ったことさえ利用して、分からないなら信じられないと、ここで、自己中心を正当化を書いています。今まで、キリスト信仰を、好きなようにおとしめてきて、こういうことを書くのは、楽山の底意地の悪い狡猾さを表すだけで、真に受けることなど出来ません。
 
実際、反省も、修正も、したことはなく、正しいだろ、と見せびらかしている自己顕示欲の臭さだけが漂ってくるのです。楽山に、謙虚な姿勢などありません。
 
謙虚な人であれば、もうとっくに、それまで書いてきたことを否定して反省の言を表しているはずだからです。楽山は、物事の必然というものが全く分かっていないために、そらとぼけて書いて、これで良し、と思ってしまうのでしょう。
 
独り芝居の独り納得、という、真実とは真逆のもの、楽山が何か書くたびに、それだけが明らかになってきたのです。これからも同じだろうと思います。決して近づいてはいけない人です。
 
*神について語ろうとするとき
若者 「なるほど。神とは人知では知り得ないと考えているんですね。でもそのわりには、神についてたくさん書いているようですが…」
老人 「よく読んでもらえれば分かってもらえるだろうけれど、私が神について意見を言おうとするときは、大概は、一つの仮定として書いているつもりだ。『もし神が超越的な存在であるなら××だろう』とか、『もし神が全知全能であれば〇〇であろう』という風にね。または『◇◇教では神は△△としているが、これから考えるなら~だろう』とかね」
 
楽山の自己正当化は成り立ちません。条件をあげ、それに合わないからと神を否定してきたのが、楽山ですが、そのような理屈で、神を規定することは出来ません。さらに、その条件は、実に、楽山の欲望を満たす幼稚なものでしかなかったのです。
 
キリスト者は、いかなる字面の矛盾も疑問も、キリストに与えられた癒やしを否定できないことを知っています。楽山は、恐らく、愛も共感も経験していないと思います。だから楽山が執着するのは、超常的な "霊" そして幼稚な小理屈の字面に過ぎないのです。信仰とは何の関係もありません。
 
つまり、とても、低次元で、神を対象として、神と取引をしている態度なのです。このことは、前にも書きましたが、楽山は、不都合を、ことごとく無視して、徒労と疲労だけを与えてきます。
 
ゆえに、悪だくみの知恵だけで、話を進めてくる楽山には、誰も近づいてはいけないと言ってきました。今回も、そのような、詭弁だらけの、反キリストが、醜さを全開にして、あがいているに過ぎません。
 
若者 「そう言われてみればそうですね。他にはありますか」
老人 「『自分には神とは××と感じられる』という言い方をすることはあるね。いわば先の語り方は神について理性的に語ろうという試みだが、こちらは感覚的に語ろうという試みと言える。後者については人はそれぞれ感性は異なるものだから、私とは異なる感性の持ち主であれば、当然に私とは異なる感想を持つだろうな」
 
「そうですね」と、芝居で言わせて、刷り込もうとしてくる楽山の悪意は、底知れないものがあります。楽山が言い、楽山が肯定している文章に、いったい何の価値があると言うのでしょう。
 
楽山は、一見、論理的なことを書いているように見せかけます。しかし、実際は、論理というものにも心が関わっていることを知りません。恐らく、こういう人は、人殺しが悪いという証明は誰にもできない・・みたいなことを言う人と同様なのでしょう。人間としての直感がないのです。
 
字面の理屈だけで物を言う、物が言える、と思っている勘違いの、恐ろしい表れを、楽山に見ることが出来ます。楽山の理屈は、いたるところで、壊れています。一方、楽山の書くことには、感動を与える要素が何もありません。共感がないからです。
 
それゆえ、今、共感し賛同する相手を仮想し捏造している、という悲惨な自慰の末路を辿っているのです。繰り返し、繰り返し、自らの理屈を、こすっては、自分だけで納得し満悦する楽山です。
 
若者 「ということは、あなたが神について語っている時は、『神は~である』というのではなくて、『神は××であるとすれば~である』『自分には神は~と感じられる」というように、仮定の話だったり、実感についての話だったりするということですね」
老人 「その通り。神は多義的であり、多面的でもあろうし、そう簡単には定義できないものだ。強いてそれをしようとするなら、神とは人には分からないものだとするくらいしかできないのではないかな」
 
条件や仮定など、楽山の理屈で、神を語ろうとすれば、すべて、的外れになるでしょう。このような堂々巡りのような、洞察力と直感力を欠いた、寸足らずの言い分に、惑わされないようにしてほしいと思います。・・ならば、・・、などという言い方で、神を表すことは出来ません。
 
神が分からないなら多義的かどうかも分からないはずです。楽山の視野は、楽山が語れば語るほど、狭くなってゆくようです。言い逃れできないところを、字面の理屈で埋めようとするからです。
 
信仰者でない楽山が、神について、信仰について、実感のある話など出来ないはずです。つまり、そのような当然の謙虚さすらも弁え得ないところに、楽山の病巣があるのです。
 
若者 「はい」
老人 「だから神については、『神とは~である』と断定的には語れず、『神が××なら、~であろう』『自分には神は~と思われる』という程度のことをしか言えない。そしてこの場合、誰かが『いや、自分には神は~ではなく、××と思える』と主張するなら、『それは違う』とは言えず、『ああそうですか。あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ないんだ。神とは何であるか確かなことは分からないのだから、そうならざるを得ない」
 
この楽山の話には、暫定的であっても、正当性を、つまり真実を、追及する意志が欠けています。この楽山に従っていると、どこまでも、真実について結論が出ないということを、楽山自身が証明しているのです。
 
楽山は「あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ない」と書いていますが、楽山は、実に、そういう考え方で、短絡して、あれも言えない、これも言えない、と考えて、ついには、賛成も反対も、はっきり言えなくなって、そこで、固定しているのです。
 
だから、楽山は、聞いても、どうにもならないような、無責任なことしか言えなくなっています。人の言うことも、聖書の言葉も、真っ当に受け取れず、真実もまた、受け取れなくなって、無視するようになって、結局、楽山は、曖昧で、何の役にも立たないようなことしか言えなくなっています。
 
語尾にこだわることが正確だと思っているようです。はっきり言って、総ての発言には、語尾に「と思う」が付いていますが、いちいち書くと文章が見づらくなるだけなので、省略されているのです。それで終わる話なのですが、字面にこだわる楽山の、神経症的な強迫観念が表れています。
 
厳密さを語っているつもりの楽山が、これまで無遠慮に語ってきたことには、偏見と妄想だけが表れており、整った理路が見られたことは一度もないのです。なんでもいい、なんでもよくない、という無為の虚構、それが、楽山の言であります。
 
さらに、楽山の文章の語尾には、曖昧な言い回しでごまかすところの、ボンヤリ言語の災いがしばしば見られるという事実を、楽山は、また、棚に上げて、無視しています。曖昧にして何も言ったことにならないで、責任を負わないのが、真実への糧になるでしょうか、全く、否であります。
 
もはや、それは、人間の言論ではないのです。受け取って、考えて、判断して、言動する、という、プロセスが、全く抜けているから、楽山は、責任を負わないのです。楽山には、言論の活性が見られません。それで、責任逃れだけを書いてきます。
 
語尾は、表現であって、人間の言うことには、「と思う」は、いつも付いています。楽山は、そこに異常に執着することが大事だとして、カチンカチンのガラクタを作り上げ、何も言えなくなっている楽山という無為を実践してきたのです。まさに、生産性がゼロなのです。
 
いわば、楽山は、反論も弁明も出来ずに、駄々を捏ねるように独り芝居を演じているのです。楽山を、理論家などと、決して思わないでください。楽山は、大事な理路から、最も遠いところをふらふら歩いている偏向した詭弁思想の持ち主です。どこまでも空回りだけし続けるでしょう。
 
若者 「ああ、今回、お話を聞けてよかったです。お陰様で、ようやく納得できました。実はあなたの語る神について、少々、違和感を覚える部分があったのですが、それはどれが正しく、どれが間違っているということではないんですね」
 
楽山は、また、「お話を聞けてよかったです」と、独り芝居のセリフを言わせて、自分で、自分に、お礼を言っています。内容が貧弱な分だけ、滑稽でしかありません。高慢な、教える姿勢が、体質なのでしょう。
 
「どれが正しく、どれが間違っているということではない」・・その判断なしに、生きてゆけるつもりでしょうか。何でもあり、に帰着する楽山は、有害なカルト思想伝道者です。そして、これこそが、ボンヤリ言語の特徴なのです。楽山は、ますます混乱してゆくでしょう。
 
善悪・正邪の判断は、誰でも、生きる上で避けられないことです。そこで、信条を固定しないことが必要なのであって、楽山のようなボンヤリ言語を受け入れてしまうと、楽山のように、何も判断できなくなり、人間性を失ってしまいます。楽山の言は、ひどい屁理屈と言っていいでしょう。
 
善悪の判断を絶対化しないことのほうが大事であり、キリスト信仰者には、正直な祈りという告白の時と所があり、反省を促されることになり、ゆえに、成長が可能になります。つまり、曖昧が正しいとする楽山には、成長がないというであり、まさに、それは、文章に表れてきたのです。
 
老人 「その通りだ。きみが神についてどのようなイメージを持っているのかは分からないが、人には『神とは~である』と断言することはできないのだから、誰かが描く神のイメージは正しく、他の誰かが描く神のイメージは間違いだということは言えないだろうね」
 
また「その通りだ」と言う台詞で、変質した自己を肯定しています。なんて、わざとらしい芝居なのでしょう。神について、聖書以上には知らなくても、神は我が主である、という告白することで、生きている多くの信仰者を、楽山は、軽口で否定しているのです。
 
私は、宗教と信仰を考えるときの一つの視点として、多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えます。楽山は、神をイメージでとらえたつもりになり、間違いだとは言えないと言っています。このような人は、訂正不能で、無反省、無責任である分、とても危険です。
 
楽山の記事に表れてきたところの、自己愛、自己中、無反省、訂正不能、これらから生まれてくるような、いかなる思想も信条も意見も、結局、社会悪につながる要素だけを持っていると判断しています。あってはならないあり方を、楽山は、毎回、示してきたのです。
 
自己愛と自己中によって、反省せず、自分のために平気で嘘を吐くような孤独に硬直した楽山のような人が、神の名を使って、一人前のように社会参加してくるのは、恐ろしいことです。しかも、それを、キリスト信仰に絡めて来られたのでは、たまったものではないのです。
 
楽山のような人を肯定したら、ゆくゆく、広まれば、この世は、偽善者だらけとなり、何も定まらず、混乱し、地獄と化してゆくでしょう。そういう楽山だから、私は批判をしています。楽山は、まともな理路も、まともな感性も、まともな良識も、持ち合わせていない病質者です。
 
楽山は、まともに文章を組み立てることが出来ないのです。だから、近づけば近づくだけ、だまされるか、疲労するか、になってしまいます。真実の追求において、楽山は邪魔になるだけの疲労物質でしかありません。このようなことも前から書いてきました。
 
にもかかわらず、楽山は、あの手この手で、まだ、自己正当化を主張しています。病識の無い異常者だからでしょう。私は、楽山の書いてくることに、批判を当ててゆくだけです。
 
批判は、誰も楽山に関わることのないように警鐘を鳴らすためであります。楽山は、どこにでもいるような、ふつうの知ったかぶりではないのです。災いの発信元になる病原なのです。約2年間の批判を経て、楽山の底は、既に、見え透いたものになってきました。
 
楽山の放ってくる、いちゃもんについては、前から似たようなことが続いており、私は、批判してきました。今回も、楽山は、似たようなことを書いているだけです。恐らく、それこそ、こちらを疲労させるのが目的でしょう。楽山は言論者ではありません。楽山は体質的な病気です。
 
楽山が書くたびに、楽山の人間離れが明らかになりますが、憑りつかれたように、楽山は書いてくるのです。常識的判断が出来ず、流れも文脈も読めないのは、亡者と言ってよいと思います。霊能者気取りの霊が分かるっぽい楽山は、空想ホラーの世界で、独りヒーローを気取り続けるのでしょうか。
 
 
黄色い海に棲む者

黄色い海に棲む者
 
 
(2020年06月22日)
(2021年06月23日、再録+)
 
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごいよかったよ」
 
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
  礼状
   「暗いのが多いんです」
   「じゃ、あたしも暗いのかな」
    と笑ってくれたある人に
 
一刹那、むき出しの
答えようのない問いに似た
恥ずかしいものを見せられて
よりかかるように、慰めの
ありもしない保証を求められたようだと
尊厳の海の中で
揺らめいていた陽光から
緩やかな海流を貫いた閃光が
冷たく結晶化した鋭い尖端で
よりかかりを切ろうとするのだが
それよりも早く
海の摂理は速やかに
剣先を包み込んで鎮め
切るまでもないと差し伸べられた光が
恥ずかしくない程度に
身を低みに下ろして
少しばかりピエロを演じて下さいました
 
 
(90年代か)
 
 
 
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深夜帯に接続サーバーの工事がありました。予定所要時間が210分ということでしたので、投稿が遅れました。前もって告知しなくて、申し訳ありませんでした。
 
 
  自由と解放2
 
 
信仰は
欲望や、世俗のしきたりや、先入観や偏見などの
戒律みたいなものに縛られる心から
基本的に
神の御心を思う世界へ
生き方の方向を変えることです。
神様のほうを向くという表現もあります。
つまり生き方の方向転換と言えるでしょう。
 
こだわる物事が別のものへ変わるのではなく
こだわりという不自由からの解放
つまり自由ということです。
そうでなければ信仰は無意味だからです。
 
信仰は取引ではありません。
何かを捨てて別の何かを得るという交換ではありません。
信仰は気づきの世界であり
物事の集合を本質としてはいないからです。
 
つまり信仰は
自分を縛っていた様々な不必要なことへの隷属から
人を解放することであり
世俗への強迫的こだわりからの自由になります。
 
それが新たな"信仰?"への縛りに強迫するのでは
もはや望ましい信仰ではないのです。
つまり
信仰は信条への束縛ではなく
世俗へのこだわりからの解放であり
どこまでも
自由意志によるところの信仰です。
そうでなければ意味がありません。
 
ゆえに信仰は
決して強制できない本質を持つと言えます。
 
ゆえに信仰は
人間の自由意志による可逆性を持つとも言えます。
 
ゆえに信仰は
縛られることではないということです。
 
信仰者になって
様々な信条や教理に
新たに縛られたのでは話になりません。
 
ゆえに
信仰において忘れてはいけないことは
神への正直な祈りだけです。
 
あとは折に触れて聖書に親しむこと
というようなシンプルさであることが必要です。
信仰の知識はその中で自然と学ぶこと以上ではありません。
 
 注意してください。
 信仰を
 神についての妄想的教理に誘うもの
 何でも神が味方という自己中に誘うもの
 優しくて穏やかな神だけを伝えるもの
 逆に教条の戒めにうるさいものとするなら
 これらはキリスト信仰ではありません。
 
信仰は
神に対する善でも正しさではありません。
そんな正しさ、地上の誰も持ち得ません。
 
信仰は
神に対する正直だけが本質です。
それだけが神に対して人の出来ることだからです。
 
ですから、また、
信仰は道徳の寄せ集めではありません。
 
世俗からの解放は
世俗の物事を全否定することではなく
世俗にこだわり縛られる心を解放することであります。
 
ですから信仰は
世俗のあらゆることを捨てて
世捨て人になることではありません。
 
また信仰は
教理や信条だけで言動するように
他の関心事を捨てることではありません。
 
というのは
そのようになってしまうことは
信仰に献身したというより
信仰から人間性を外して
信仰?マシーンになるようなもので
むしろ神が与えた心や自由意志を捨ててしまうことであり
一種の強迫神経症に過ぎないからです。
 
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
そこから良心も人間としての正義も生まれます。
しかし人間に絶対はないので
意見があり、また、批判があるのです。
 
最悪なのは、神の名によって、それらを封じることであります。
 
二番目に悪いのは、神の名によって、
都合の良いほうを残し、不都合なほうを封じることであります。
 
次に悪いのは、封じることはしないが、無視することであります。
それは、信仰においても、人間性においても、まともではありません。
 
カルトや自己中やサイコパス的人物は、
そういう、隠蔽、無視、などをする者たちであります。
いかなる社会においても、まともに付き合えない者たちであります。
 
信教の自由と言論の自由は
信教の責任と言論の責任を負う
という前提において保証されるべき自由であります。
 
カルトや自己中やサイコパスは、
自由勝手に言動し、かつ、責任を負わない者たちです。
ゆえに、平気で、人を無視し、嘘を吐けるのです。
 
 
信仰において許される自由は
信仰によって与えられる解放に伴うものです。
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
信仰は決して人間の知情意を束縛するものであってはいけません。
それは、神をけがす行為であります。
 
信仰は人間の知情意の良心を促進するものであり
縛られていた心の束縛からの解放によってもたらされます。
 
いつのまにか人間の心をだまし束縛する者がいて
そういう者を、誤って信頼したり、鵜呑みにしていると
いつのまにか自由を失って人格が破壊されてゆきます。
 
間違っても信仰が神?による束縛や縛りになりませぬように。
 
信仰が魂と心の自由への解放となりますように。
 
 
信仰は禁欲に置き換えられるものではありません。
禁欲は、修養としてはありますが、
それで信仰が成るわけではありません。
 
欲に縛られるから、
縛られないように欲を捨てる
という幼稚な戒めで信仰は語れません。
欲は死ぬまでついてくるからです。
 
信仰は関係であり絆であり共感であります。
ゆえに生きる希望と愛になりうるのであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
情欲の聖句は
情欲についての戒めにとどまりません。
聖句のモジリを書いておきます。
 
人を欲の目で見る者は姦淫を犯したのである。
 
つまり人はしばしば欲の目で見ており
すでに、そして、これからも、姦淫を犯します。
姦淫は、情欲だけでなく、偶像崇拝であり、
この場合、欲への崇拝を意味しています。
 
"他人の妻" には情欲の目を慎みましょう
などと言う説教では決して表せないものです。
 
したがって罪なき者は一人もいないのであって
信仰者は、心の向きを変えて、
神とキリストのほうを向いて祈るでありましょう。
 
欲から自由になることが信仰なのではない。
欲は誰にでもあり、信仰者だから清潔ということはない。
何を仕出かしても、
神の義のほうを向く心があるかどうかだけが信仰の有無であり
すなわち
正直に罪を告白し祈る心があるかどうかだけが信仰の有無であります。
 
祈りは、おもに、悔い改めのためにあります。
悔い=人に言えなくても、罪悪感を持ち、罪を自覚し、罪を後悔すること。
改め=折に触れて、祈ること、
   即ち、そのとき、"神のほうを向く"ことになる。
   それが、世俗から神へ、拠り所の向きを改めるということです。
   そして、正直に罪を告白して、赦しを乞い、願いを述べる。
   というのが信仰者の務めであります。
 
信仰は取り引きでも魔術でもありませんので
すぐ何もかも解決したり幸福が訪れたりするわけではありませんが、
祈ることで、何らかの心の安らぎを得る
というのは、多くの信仰者が経験していると思います。
 
地上の現象としては、心理的効果と言われるでしょう。
まあ、それでもよいのです。
神のもたらす効果を、地上の人は、
いちいち、これは神が、きっと神がと、確認できるわけではありません。
 
神という絶対者に、キリスト・イエスの御名によって、
祈るということを旨とする暮らしが、何よりも大切であります。
 
祈ったことは、すべて、神によって、聞かれている
というのは、祈りの信仰の中心であります。
 
しかしながら、
その祈りは必ず神に受け入れられている、ということは言いにくいのです。
というのは、偽善者も、欲望実現のために、偽りの祈りはするからです。
 
神は、確かに、一言一句漏らさず、聴かれるでしょう。
しかし、届く意味は、信仰者と偽善者では、正反対になります。
 
ちなみに、私が聖書を読んで考える善悪の言葉は、
悪性度の高い順に、偽善>悪>善>偽悪、と考えています。
 
キリスト信仰は
偽善を最も忌み嫌うことが聖書に表されています。
 
 
悔い改め

悔い 改め
悔い改めとは、完全になることではなく、生きる方向を改めること。
悔いても、過去も未来も、改められないことが人間にはあるでしょう。
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
 
(2020年06月20日)
(2021年06月22日、再録+)
 
 
 
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