ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年07月

 
  くさい2
 
   気持ち
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41563997.html
   ヤフー終了後は
   http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
   2019年07月24日
    楽山のブログ記事+コメントを改めて批判。
 
 
楽山は、今まで、キリスト教と信仰を、神がいるなら悲劇が起きないような楽園でないと気が済まないという極めて幼稚な理屈で、執拗に否定してきました。また、右翼思想を支持していることも、いくつかの記事で明らかになっています。理路も直感も、ふつう以下の鈍さだと判断しています。
 
さらに、批判をしても、反論も弁明も反省も出来ないことや、この記事にも表れているように、自己陶酔、自己満悦を表し、にもかかわらず、無反省、無責任に、訂正不能に、似たようなことを書き続ける自己愛性パーソナリティ障害NPDであることが分かっています。
 
楽山は、ポエムを書いているつもりでしょうか。改行しながら書いていますが、詩と言えるような発想や連想やイメージの飛躍が見られません。通念的な、きれいごとを書いているだけです。小学生でも、感性の優れた子は、もう少しマシなものを書くでしょう。
 
詐欺師や女たらしが、中身のない、やさしい言葉で誘ってくるのと同じでしょう。そして、楽山は、書いて見せて、批判されても、大方、返せないので、忘れることにするのでしょう。不都合を無視して忘れることだけ、超常的、というか、人間離れしているのです。
 
真面目に書いた詩なら、再度こちらから批判をすることはなかったでしょう。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDから、いい加減な気持ちで、霊能者気取りなど様々な気取りから、学ぶことなく、自己陶酔気分で書いて、一人前に書けたと自慢したいのです。
 
 
(記事本文)
 
我ながら
単純だなあ
と思うのだけど、
 
日記の文章としても、詩にはなっていないと思います。言葉の文字通りの意味を書いて、自分だけ満悦するためだから、人に見せるための発想もなく、優しい言葉遣いならいい、というような安い考え方で書いているとしか思えません。「単純だな」・・その通りです。
 
今までのことから、楽山は、考え方としては、とても幼稚だと思います。正常ならば、通念的な考えから脱する志があるので勉強もするし、経験を生かそうともするのですが、アドラー教のために、それをしなかったのでしょう、客観視を努める思慮も、大人の謙虚さも、楽山には見られません。
 
単純に善い言葉を書けば賛同してくるような自我の弱い人を対象にして、だますために書いているとしか思えないのです。今までのことから、謙虚で誠実だと思わせる、ネチネチした筆致が、気色悪いです。程度の低いキレイごとを、遠慮もなく公開してくる楽山に、だまされないでください。
 
元気で明るい文章
を読んでたら、
何となく、
こっちまで
元気が出てきた。
 
明るい文章というだけで、読んで元気が出るでしょうか。白々しくて、気が滅入ることもあると思います。楽山は、こういう文章しか書けないか、これで、優しい人と思われて、気をよくしたいのでしょうが、いいこと書いたと、自己満足だけで、見せてくる楽山は、自省が出来ないだけです。
 
明るさだけで感動するなら、楽山は、CMを見て感動するのでしょうか。
 
プラスの通念的な言葉を並べただけ、明るさを装う三文芝居だと思います。心の中は、腹黒い人です。このようなことを書いて、宗教の弁明や説明に使えると思うのでしょうか。あるいは、詩のつもりでしょうか。
 
「だなあ」「思うのだけど」「元気」「何となく」「出てきた」・・このような月並み表現で何を伝えたいのでしょう。そう誰かに言われたことはないのでしょうか。本人は良い詩のつもりでしょうか。そのまま詩になることはないと思います。
 
人の気持ちは、
他に伝染するというけど、
たしかに
その通りと思う。
 
「伝染」というのは、現代では、おもに病気が移るときに言うんじゃないでしょうか。明るさが伝染する・・違和感があります。ですから、熱心に、自身の妄想やアドラー教を、幼稚な説教で、広めようとしているのは、つまり、伝染させようとしてきたのは、楽山その人です。
 
伝染には、うつりそまる、という意味もありますが、辞書の引用は、ずいぶん昔の文献のようです。さらに、学習をしないために固着している楽山は、経験からくる深みがなく、「たしかに」「その通り」というような言い方しかできない人ですが、言葉の選択も雑のようです。
 
(ネットより)
伝染:
[名](スル)
1 病原体が他の生物体に入り、増殖して病気になること。感染。「はしかが伝染する」
2 物事の状態・傾向などが他に移って同じような状態が起こること。「あくびが伝染する」
 
楽山の、自己中の体質と、印象付けの詭弁は、気をつけないと、詭弁に対する抵抗力のない人々に、病気として伝染する性質を持っています。楽山が、そういう意図を持っているからです。それは、無自覚に進行する人格破壊を意味しているので、決して、あってはならないことです。
 
"気に入らないことは無視しましょう" というアドラー教によって、批判を無視して、反省機能も皆無のまま、自分が楽になることだけを目的とするブログを書いている楽山は、学ぶ意志もなく、安い肯定の言葉を、伝える努力もせずに、発信してきます。
 
楽山は、いつも、大雑把で、単純で、しばしば、自分に都合のよいように、選択し、短絡して、偏見に満ちた文章を書いて、丁寧語や芝居で、ごまかして、一方的に、繰り返し主張して、自己満足しますが、その分、不勉強と、学習不能を、あらわにしてゆくのです。
 
笑顔の人の傍にいると、
こちらも気持ちは軽くなり、
 不機嫌な人の傍にいると、
こちらもどんよりしてくるとか…。
 
笑顔にもいろいろあります。あざ笑いもあります。楽山の笑いは後者が多いと思います。ここでは、単純に明るければよいと、婉曲的に、反対を言う人には近づかないようにと、実は、どんよりした、遠回しのセリフで、誘導してくるのです。これこそ、楽山の誘導の三文芝居であります。
 
上機嫌の笑顔に囲まれると、かえって、暗くなる人もいるでしょう。ありがたや、ありがたや、いやなことはわすれて、・・こんな宗教が、昔、あったような気もするのですが、これがカルトの罠の入り口であることを忘れないでください。楽山には、洞察力も人間的共感性もないと思います。
 
批判者を不機嫌な人と見なして、どんよりしてくるとか、まわりくどく言っていますが、それ以前に、こちらは、楽山の気色の悪い、ボンヤリ言語の、婉曲の刷り込みによって、どんより、うんざり、鼻が曲がるほどの臭さを経験しています。楽山は、自分カルトの醜い媒介となっています。
 
最近は、
心を整えることには
前ほどは関心が無くなってきてたけど、
自分のためだけでなく、
他の人のためにも、
やっぱりこれは大切なんだろうな。
 
楽山の心は、知る限り、整ったことがありません。楽山は、そして、この記事のような文章は、アドラー教(アドラー心理学)の強気な文章と相まって、だまされやすい人間を誘導して、さらに愚鈍で盲信しやすい人に変えてゆきます。楽山は、誘いながら、バカにしています。
 
不都合を無視して、ヘラヘラ笑って、自分は明るいと思い込んで、楽山のような、反省しない無責任になりたい人がいるでしょうか。それは、誰よりも陰険な人の特徴であり、成長する人間のあり方ではありません。
 
それで、にこやかに笑っている表情になったとしても、それは、現実逃避と、不都合無視の経過と結果の、ニヤニヤか、ヘラヘラ笑いに過ぎず、それが、楽山によって、人格破壊が進んで鈍麻してゆくことなのです。
 
楽山は、それを、人それぞれで、自分の心次第、というようなことを吹聴してくるでしょう。誠に、楽山は、寄ってくる人に、「人それぞれ」とか「個人の自由」を悪用する詭弁で、不都合無視の因業を、吹き込んできたのです。
 
ゆえに、人の心を破壊してゆくだけの楽山に、心を整える気はなく、他の人のためにも、大切な何ものかを、または、そのヒントさえ、提供することはないのです。百害あって一利なしであります。だまされないように、関わらないようにする対象でしかないと思います。
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 
「どんな気持ちもそれぞれ尊い」と言って何になるでしょう。「いろいろ」あるけど「整える」なんて、簡単な話じゃないわけで、楽山などに教えてもらっても病気になるだけです。平凡のオンパレードです。全部、きれいごとだけの、嘘と言っていいでしょう。何の足しにもなりません。
 
揺れたら、揺れを戻し、などと言っても、場合によって、簡単ではありませんし、楽山にだまされた人にとっては、肯定を否定に向きを変えるわけだし、苦行か拷問になるかもしれません。それに、揺らしながら、揺れを自覚することも、揺れを戻すことも、しないのが、楽山です。
 
めんどくさいのか、こういう、何の糧にもならないことを、ずっと書いてきたのが、楽山です。インテリ気取りで、学術用語を使うことも多いですが、反省しない者は、理解することもありません。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山に、他者に向かってアドバイスする資格はありません。
 
言葉をそれらしくすればよい、という気安さで、大きなテーマから、ポエムまで、最悪の質の文章を書いてきたのが楽山です。楽山の正体は、人間も、思想も、宗教も、何も理解していない幼稚さを、自分だけが気づかない醜態をさらして、表しているだけなのです。
 
言い換えれば、楽山は、この程度の軽さでしか人間を考えていないということです。楽山の精神の鈍麻と言葉の浅薄さが、にじみ出ています。ここまで、執拗に不変不応不感の人は珍しく、病質としか言えません。今、楽山に関わっている人は、すぐに離れてください。
 
楽山、shalom、易坊、mine、など、恐らくマルチな成りすましの可能性を思います。残念ながら、ネットでは、決定的な証拠が成り立たず、証明が出来ません。自分の心は、自分で守るしかありません。批判目的で、楽山を読む人以外、少なくとも、楽山に関わらないようにすることが大事です。
 
 
(コメント欄)
 
自由さん おはようございます
「揺れを戻し、整えることも大事。」
そうですよね。
私はやじろうべぇが好きですが、ごぞんじですか。
どんなに揺れても、振り回されることがあっても、
たしかな支点に支えられていれば、相対化の揺れがあっても、
支点によって揺れを取り戻し、整えられる…あの人形ですが。
2019/7/24(水) 午前 9:03 [ shalom ] 返信する
 
おはやし役のような、同じ成りすましが疑われている シャロームshalom がコメントを入れてきました。やじろべえ、に喩えていますが、シャロームと楽山の精神・思想の支点は、今まで、自我であり、揺れるという活性もなく、すべて、でっち上げの大嘘です。
 
シャロームに対しては、批判すれば、いっさい答えられず、弁明できず、逃げてゆきます。仲間だけで褒め合うだけの、世辞同好会から生まれる、ニコニコではなく、ヘラヘラには、長期にわたる批判が、楽山以前に、約10年ほどありました。そして、この二人は、仲間ぼめをする間柄です。
 
シャロームの言の、吐き気を催すような、胡散臭さ、ウソ臭さ、芝居がかって、わざとらしく白々しい、排せつ物のような、手ごたえのまるでない、人間の卑しいところを抽出して散らしたような、尿便よりも、酷い刺激臭を経験しています。楽山と、キャラは違っても、そこは共通しています。
 
怖いことに、囚われてしまうと麻痺するみたいで、同じような生き物になる人がいるのです。そこが、楽山やシャロームの付け目なのです。批判する気のない人は、一刻も早く退散して、この2人から離れるしかないと思います。
 
似たような病質者は、楽山やシャローム以外にもいると思いますから、どこかの誰かの別のHNの記事にも、私が今まで書いてきたような特徴が見られたら、付き合わないようにしてください。
 
 
臭い(くさい)

臭い(くさい)
 
 
(2019年07月24日、同日一部修正)
(2021年07月31日、再録+加筆)
 
 
 
  上手なサービス
 
原稿を上手に読む女性の声が
芸術作品を説明している
 
骨を上手に覆い隠す
肉の遺伝子を持っていると
イドラになれる
 
この部屋には誰もいないが
名前が上手に住んでいる箱がある
たとえば
すり替えられた名前は世渡りが上手だ
流れ弾が少年の叫びを上手に止めた
刃物が少女の日常を街角に赤く流した
上手に上手に
もっと上手に
坊主が上手に不毛を捏(こ)ねて
誰にも悟られないイコンを作った
 
リップサービスは上手にフリーで
幸福な未来を捏(でっ)ち上げた
 
サービスできない未熟なリップは
未だ上手も下手も知らないが
サービスと奉仕に
反比例の臭(にお)いを嗅ぎ始めている
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
 
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
 
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
(90年代か)
 
お手本になるような上手な詩ではありません。それに、私の記事は、詩の上手下手を書くのが目的ではありません。この私の2つの詩のようなものは、最近、再録するようになっている流れの続きです。
 
昔、詩のつもりで書いていたのは、私なりに、自分の思いを書くのに、ふつうの言葉遣いから離れたかった時期があって、悪あがきをしていた頃です。今もあまり変わりないですけど。
 
 
 
 楽山の成りすましを疑っているツイッターですが
 
taka
@taka84156681
·6時間
正義感が強すぎるは、正義で人を抹殺するのが普通だからな
勧善懲悪の悪い面が出てしまっている
マンガ(省略)の中のセリフ
「人の本性は手にした正義の使い方で分かる」
 」
午後8:41 · 2021年7月27日·Twitter for Android
 
正義感が強すぎることがあるのでしょうか。正義で人を抹殺するのが普通でしょうか。勧善懲悪に悪い面があるのでしょうか。楽山という嘘吐きの偽善者を守る者がいると思っているのでしょうか。正義だけでなく、良心の総てを裏切っているのは、楽山です。2年余りの批判記事が証拠です。
 
楽山は、手にした正義?で、嘘を吐き、詭弁によって、人を、自らの自己愛から、嘘をまことに見せかけて、だまして満悦する生き方です。つまり、言い換えれば、何の正義も手にしていないということであり、いつも、自己正当化のために、臭い芝居をしてきます。
 
マンガの、本性と正義というテーマによって、斬られているのは、まさに、楽山自身なのです。楽山は、自己愛性人格障害(パーソナリティ障害)NPDが本性であるために、今までも、今回も、自分の恐ろしい内面に気づかないまま、自分の滅びを自分で表し、ますます、滅びの道を進んでいます。
 
前に書きましたが、楽山とシャロームが在日なら、この二人、日本に嫌韓を増やすことになるでしょう。それが目的かどうか知りませんが、とうてい、人間のすることではないのです。
 
 
 
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  楽山の零の話
 
 宗教のはじまりは、神の啓示ではなく、人々の営みによる!?
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の精神障害は、病的な体質なので、医者にも、宗教家にも、治せません。このような自己満に満たされた者は、書くことをやめません。書けば書くほど、批判の参考資料となり、不変・停滞したままの楽山のほうが、ボロボロになってゆくことに、まるで気づかないからです。
 
*宗教のはじまり
巷では、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」という話があるが、中村圭志氏の著作にもそれと似た考え方が書いてあった。
そもそも、一つの思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべてを、その最初にある起源の一点、一人の偉大な開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザの功績に帰すことはできないでしょう。いかなる思想的潮流の立ち上げも、英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.36)
 
「思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべて」の起源について、すべて知っている人はいません。楽山と、引用されている学者らしい人は、とても、いい加減なことを言っています。長期にわたるプロセスの、その起源だけを否定したいようですが、遠すぎることです。
 
「開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザ」の開祖とは、キリストのことを言っているのでしょうか。キリストは、奇跡のチカラワザだけだったでしょうか。違います。この二人は、いちばん大切な、キリストの洞察と共感のことを書いていません。
 
「英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません」・・英雄とか独創性とかではなく、人間が生きるために、なくてはならないことを、数々の抵抗と嘲笑に遭いながら、命を賭して語ったのが、イエス・キリストであります。楽山には、なくてはならないことが、ないのです。
 
どうも、この学者は、キリスト者ではないようです。反キリストかもしれません。あるいは、楽山の恣意的な選択による引用でしょうか。旧約があり、キリストが宣べ伝え、後の、信仰者や学者が、解釈や体験談を積み上げてきたわけです。キリスト信仰の心を語れない楽山は知る由もありません。
 
キリスト者が一枚岩ではないとしても、いちばん大事な信仰の心を疎かにしている学者や、何にも分かっていない楽山が、否定してよいことではありません。キリストの敵というのは、パリサイ人のように、命と心を救う術を持たない者たちです。楽山は、その典型的な精神病質者です。
 
思想や習慣に一個の中心があると捉えるのは、あくまでも当事者にとっての「心の要請」であって、「客観的事実」ではありません。歴史上の起源の一点として開祖物語の事実性を想定しなければならない論理的な必然性はないのです。私たちは、当事者の心の問題は公共的な知識にはならない、と肝に命じておく必要があるでしょう。
(同上、p.37)
 」
 
信仰は、客観的事実ではありません。心の要請にこたえるのが信仰であります。この学者は、楽山と同様の反キリストだと思います。「当事者の心の問題は公共的な知識にはならない」と言っていますが、心を救う信仰は、元々公共的な知識ではありません。
 
開祖物語の事実性は、キリストの、人の心への共感性に比べると、人間にとって、おおよそ、分かち合うことのできないものだから、神のわざとして、保留するべきだと言っているのです。学者か何か知らないが、信仰の本質をすり替えるところは、楽山に、よく似ています。
 
これは確かにその通りだ。新しい宗教は、特別な能力を持つ一人の天才的な宗教家が悟りを開いただとか、神の啓示を受けたなどと称してはじめるものだという印象があるが、宗教の歴史を調べれば調べるほどそれはあくまで印象にすぎず、実際は著者の言う通りだと認めざるを得なくなるものだ。
 
いつもの太鼓持ち楽山のセリフ「確かにその通りだ」と言って、学者を理解したような顔をしているらしい楽山は、"ひょっとこ"顔に過ぎません。キリストの特別な能力のうち、人に理解可能なのは、人に対する洞察力と共感力です。いずれも楽山には全くないものです。
 
楽山は、歴史の事実性にこだわり、心の救済を、どんどん遠ざける者です。物や肉体の奇跡は、現代では滅多に起こっていないのだから、それを信じ込むことは、人を生かす信仰ではありません。しかし、終生の同伴者の共感は、人を生かします。それを、楽山は語ったことがないのです。
 
共感ということが、言葉だけ書いても、楽山には分からないのです。共感、同情、罪悪感、羞恥心などの、高等感情が、楽山にはないのだと思います。だから、事実や史実や辻褄にこだわり、そこで、総てを語ろうとするのですが、大事なことについて、全くの無恥の無知であります。
 
どんなに革命的で新奇に感じられる宗教、思想であっても、それ以前の歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない。この意味で、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」というのは冗談のようでありながらも言い得て妙である。
 
信仰においては、文化的影響や、学問的発達もまた、神の導きという視点を持っていて、それが、神を恐れることにつながります。そういったことを、全く考える能力も視野もないのが、楽山であり、ゆえに、屁理屈屋は、理屈学者の言を利用して、その通りだと、はやし立てるのです。
 
神が人を造るのを見た者はいません。神が人を造るのは、その人生においてであり、どこがそうだと言えないような神の秘密、これこそが神秘なのです。そういう恐れへの感受性を全く持たない自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、ゆえに、反キリストになっているのでしょう。
 
*宗教は人から生まれたものなのか?
とはいえ、スピリチュアルな方面からは、「新たな思想宗教は、この世を超えた世界の存在を信じない唯物論者には人々の営みの中から生まれたように見えるかも知れないが、実際には人々の霊性を向上させようとする神の計画に基づき地上に展開されているのである。世界宗教の開祖などはそのような使命を担って生まれた存在なのである」云々という反論があるかもしれぬ。
 
インチキだけの楽山がスピリチュアルを語るのでしょうか。霊性を向上させるという言い方は、スピリチュアルの宣伝でしょうか。聖書を学んで人間として成長するのが、信仰であります。"霊" という言葉は、恐らく、楽山が、気取るために悪用した最初の材料です。
 
これはこれでスピリチュアルな世界観の内側ではそれなりに筋が通っているようにも思われる。けれどもこの考え方の背景にあるのは「人の本質は霊であり、輪廻転生をくり返してさまざまな経験を積み、霊性を向上させることを目指している」という霊性進化論であり、これはダーウィンの進化論の影響を受けて生まれた思想であるという見方があるのだ。
 
霊から、超常の輪廻転生に、話が行くのでしょうか。さらに、「霊性進化論」という言葉さえも利用して、学問だという箔を付けて、さらに、ダーウィンの進化論まで結びつけるに至っては、食傷というか食中毒とでも言うべきでしょう。ゆえに、ネットにブログに吐いているのです。
 
このように、楽山は、学問や学者を引用~悪用して、実質がないのに、言葉の面構えを作ります。これを、知性であるかのように受け取ってしまうと、実は、楽山の、欺瞞に満ちた架空の、霊が分かるっぽい幼児体験から、右翼思想にまで誘導されてしまうという悲劇が待っているのです。
 
不思議なことですが、神の超常奇跡を否定する楽山は、自らの、仏様の気持ちが分かるっぽいということに始まるところの霊を信じているのです。唯物的なことを言えば言うほど、ほころんでゆく宿命を持っていますから、今後も壊れてゆく楽山を相手にしてはいけないと思います。
 
もしこの見方に真実があるなら上の考え方は一人の天才が悟りを得るなり神の啓示を受けるなりして突然に言い始めたのではなくて、先行する思想宗教等の影響下において生まれたものであり、新たな思想宗教は人々の営みの中から生まれるという見方の正しさをますます補強するものでしかなくなるだろう。
 
「新たな思想宗教」は、人間において、一挙に完成されるものではなく、数多の先人の真摯な努力と実践によって解説されてゆくものなのでしょう。そこに働く神の秘密の導きを、恐れもなく否定し続ける楽山には、恐らく、別の近道、つまり、暗闇へと滑り落ちる道への引導が渡されるでしょう。
 
「人々の営み」・・という曖昧な表現が使えるところではないのです。さらに、この「人々」の中に、決定的に、楽山は含まれません。楽山は、人の営みを妨害する作用しか持っていないからです。ゆえに、楽山の味方も、何をも補強せず、ただただ、堕落が堕落を呼んでいるだけです。
 
こうしてみるとどうやら現時点においては、宗教というものは、地上の人々の間から生まれたものだとは言えても、地上の人々の手には届かないこの世を超えた世界で生まれたものであるとは言い難いものだと言わざるを得ないように思う。
 
このように、詭弁を進めて、何の説得力もないのに、説得したつもりになって、"現時点においては"、という免罪符まで付けて、超常の神も、地上に降りたキリストも、無視して、自身の悪魔性の霊だけは分かるっぽくない楽山の性根が、臭気を放ってきます。
 
「言わざるを得ないように思う」・・無責任の楽山の婉曲ボンヤリ言語も、どんどん退化してゆくのは、こちらが、楽山の文章から楽山の偽善を知り、信頼度がゼロになり、なおも書いてくる楽山の、根底にある病魔に気づくに至っているからです。楽山に近寄ってはいけません。
 
 
軸がない 霊を信じて唯物論?

軸がない 霊を信じて 唯物論?
 
 
(2021年07月30日)
 
 
 
 昔書いた聖霊の話
 
聖霊体験なるものを
重視するのが主流らしいが
聖霊と友だちのように
直接交わる体験の話に
抵抗を覚えてしまう
 
父・子・御霊(みたま)という神格
即ち神様とキリストと聖霊のうち
人格となって語られ
人間の永遠の友でありうるのは
イエス・キリストだけではないのか
キリスト教はいつから
聖霊教になったのか
キリストはいつから教義上の
贖罪仲介者になってしまったのか
 
聖三位は恐れ多い御方であり
神の導きや聖霊の働きは
聖なる領域からの
秘められた賜物(たまもの)であり
もっと心に恐れを
口に慎(つつし)みを
持ちたいと思うのだが…
 
キリストの神格について
わかっているわけではないし
これも独り善がりの独り納得の
信仰観に過ぎないのだろうか
 
嘆息よ
レスポンスのない
置き去りにした課題
何ひとつ解決していない
 
(2000年代か)
 
 
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  楽山の幼稚2
 
 『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著
 2020年07月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
(ネットより)モラルハラスメント
モラル(良識とされる道徳や倫理)によって行われるハラスメント(嫌がらせ)。 俗語としてモラハラと略すこともある。
 
去年の楽山の記事ですが、改めて批判します。楽山は、いかんなく、自覚のないモンスターぶりを見せています。モラルハラスメント・アニマル楽山といっても過言ではない。楽山は、自己中からの判断だけで、都合の悪い人を無視し、理解もできないまま宗教をおとしめる人です。
 
楽山の論理めいた詭弁は、扉を、その外見だけから、開けないままで、先は空しいと言うのに似ています。扉を開けて中に入るのが面倒で、机上で、中の部屋を、決めつけて満足しています。一切の労苦をしないで、真理を得たと思いたいだけの幼稚さです。
 
本書では主に進化心理学の立場から男と女の心理について考察しているが、あっと驚かされる話が沢山披露されていて面白い。たとえば誤解を恐れずに大雑把な言い方をすれば、一夫多妻は女性に有利で、離婚は男性に有利だとか、結婚相手に求めることは男と女とではどのような違いがあるかなどだ。こういう話は実に面白い。
 
楽山は、「あっと驚かされる」のだそうです。しかし、このような楽山の発言に、全く信頼性がないことが2年余りの批判によって明らかになってきたのです。あっと驚く楽山ですが、驚きを表す単純な言葉しか思いつかないようです。「実に面白い」も、表現の乏しさを表すだけです。
 
楽山が、あっと驚くことは、小学生なら、驚くかもしれないが、中学生なら、あまり驚かず、高校生なら、舌打ちをするようなことでした。自己満悦しかない者というのは、本当に困りものです。しかも、訂正不能に繰り返すだけで、学習と成長がないのです。
 
楽山が言っていることを信頼しないでください。男女のことは、単純に割り切ることは出来ない、という当たり前のことが、楽山の頭にも心にも入っておらず、実に、安易に、自己満で、分かったとか、驚いたとか、面白いとかいうのが、楽山の嘘っぱちの特徴なのです。
 
ただ著者の語る人間観については、人によって合う、合わないははっきりわかれることになりそうだ。たとえばまず著者は、人の心について次のように規定している。
 
人によって合う合わないがあるのに、なぜ、上では、男女の話を実に面白いと肯定するのでしょうか。主張の一貫性がなく、ばらばらなのも、楽山の特徴です。つまり、楽山には、一定の主張というものはないのです。その時その場で、適当に言葉の字面を並べているだけなのです。
 
利他主義、同情、共感、良心、公平などの感覚は、すべて遺伝子を基に生じている。
(『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著、竹内久美子監訳、小川敏子訳、講談社、1995年、p.33)
 
遺伝子を基にしていることを知っても、予測など付かない、ということを、楽山は、考えることが出来ない人です。遺伝子がどうなって精神がどうなる・・という具体的なことは、分かってはいないのに、それで、次のようなことを言うのです。
 
おそらくは、人の精神について他の生物とはまったくの別物とし、なんらかの崇高な存在に由来すると考える人にとっては、このような人間観は承服し難いものだろうと思う。
 
崇高な存在に由来するとは、神と信仰のことでしょう。また、反キリストらしく嫌がらせの当てつけをしています。こういうことを言って、自分は真理を知っているんだ、と思い込んで満悦するのが、哀れなほど低レベルのままの楽山であり、崇高とは逆の存在の有り様を見せ続けているのです。
 
ゆえに、承服しがたい対象は楽山であり、小学生レベルの夢物語で現実を語ったつもりになる人なので、くれぐれも、真に受けないでください。楽山は、弁明も反論も出来ない無理な人です。多くの人の中に少数いるところの相手にしてはいけない人が、楽山です。
 
遺伝子の存在と、学校で習った機能を、否定するのが宗教ではありません。そういう科学で表されたものだけで説明できないのが、心です。楽山は、心が無いので、心を抜きにしたところに居たいのでしょう。そこで、何も分かっていないのに、本を読んだからと自慢したいのでしょう。
 
そこで、止まってしまうから、誰とも共感を持ち得ないのですが、無反省で訂正不能の楽山は、そのことを無視して、学習も成長もなしに、自身の鈍い停滞を神?として、自分は、他者と違って、崇高だと思い込んで、他者を軽く見て、自己満足しているのです。
 
間違っても、楽山の、低レベル、停滞、精神の鈍化、自己満足と満悦、他者の軽視、などと、同様になってはいけません。それこそが、人格破壊による、人間の、あらゆる機能の鈍麻から、コントロールが効かなった姿です。だから、いつまでも、これ見よがしに書いてくるのです。
 
また著者は、人の自由意思についてはこう書いている。
遺伝子とは、無意識のうちに私たちを動かすものなのだと頭に入れておいて欲しい。そうすれば、セックスだけに限らずさまざまな領域で、自分たちは操り人形だということがわかってくる。かろうじて手にすることのできるわずかな自由といえば、人形遣いの論理を解読することだ。
(同上、p.65)
 
楽山は、このことで満悦し、賛同しているのでしょうか。だとすれば、呆れます。
 
操り人形だと分かることも、操り人形ではなく自由意志だと思うことも、操られているだけの必然であるならば、結局、操り人形であるかどうかを考えること自体が無意味だという理路が、楽山には、分からないのです。
 
人間は操り人形だから、自分が詭弁と嘘で操ってみせるとでも思っているのでしょうか。またしても、いつものように、自らの辻褄に、短絡して、酔い痴れて、のぼせて、満悦する楽山です。酷いインチキの詭弁です。
 
このような、何も良いものをもたらさない空論は、確かに、楽山の好むところではあります。意味の帰結を考えず、とにかく、結論を出して決めつけることだけが、楽山の快感なのでしょう。それで、悟ったような気持ちになるのでしょう。浅はかです。
 
恐らく、楽山は、生きることに何の望みも見い出せないのでしょう。だから、毎度毎度、気持ちの悪い詭弁の言説をもって、信仰を卑しめるサディストになっています。楽山は、人を、絶望と怠惰と疲労へと誘導する煽動者です。類が激しく類を呼んでいるのです。
 
今回は、操り人形という詭弁を語って、絶望を広め、絶望仲間へと誘いたがっているのです。楽山の言を読んでも、真実と希望の欠片も受け取ることはない、つまり、全くの無意味発言と無責任が楽山だということを知ってほしいと思います。
 
これはドーキンスの『利己的な遺伝子』で語られている人間観と同一のものだろう。
いくら個体レベルでは利他的に見えたとしても、遺伝子は一貫して利己主義を貫いている。
(同上、p.240)
 
遺伝子に、感情はありませんが、利己という主義があるのでしょうか。遺伝子を見ることも測ることも出来ない楽山が言っています。比喩表現であることは分かっているのかな・・とさえ思います。
 
喩えであってもなくても、遺伝子の利己主義が、人間の利己主義につながるわけではないのは、次元が違うのだし、かつ、遺伝子をモニターも出来ないのだから、常識があれば、当然のこととして、分かるはずなのです。
 
しかし、利己主義の自己中の楽山は、利己主義という言葉だけで、自らの自己正当化が成ったかのように、大発見?であるかのように、驚くべき理解?だと思い込んで、酔い痴れて、"残念だが、これが真実だよ" と言わんばかりに、書いてくるのです。
 
真実への、真っ当な追求が出来なくなった楽山は、殆ど、学者からの文字列を運んでいるだけのピエロです。それで見栄を張って、付き合う人をおとしめ、本を理解できず、心を思いやることもできないまま、ガラガラ音やガチャガチャ音を立てる陶器の破片のようです。
 
これも上と同じ人間観だ。
 
操り人形のどこが人間観なのでしょう。見たことも分かったこともない遺伝子なのに、遺伝子に規定されているというだけで、総ての結論を得たかのような気分になるのでしょうか。
 
その結果、虚無に陥り、努力を怠り、何も実のあることを学習できなくなって、都合の良い文言だけを、本の中から漁って投げてくる楽山の惨劇であります。楽山は、殆ど原始的な反応系です。
 
先に述べた通り、こういう考え方には人によって合う合わないはあるだろうが、自分はこれをユニークかつリアルに感じるタイプではある。これが進化心理学というものであるなら、もっと知りたいとも思う。
 
合う合わないではなく、楽山は、理路が全く分かっていません。ユニークかつリアルではなく、未熟かつ幼稚なのです。分かっている自分という慢心があると、こうなります。その後の学習を怠ってきた楽山の、これまでと、これからの、経過は、恐らく、とても悲惨です。
 
人間の心…たとえば「利他主義、同情、共感、良心、公平」、信仰、愛情、希望、うそ、エゴ、怨恨、懐疑など、崇高または下劣なあらゆる心理を、超自然的な何かを持ち出すことなく、進化論で説明できるとしたら、実に面白く、興味はつきない。
 
人間の精神を進化論で説明するという虚妄を語る楽山です。楽山は、「興味は尽きない」と書いていますが、それは、真実の興味ではなく、自己満悦欲求に過ぎません。自己愛性に凝り固まると、このような人格になって、あらゆる間違いが噴き出してきます。
 
人間の心理を、進化論で説明することは出来ません。個別と全体、人間と人体、という、追究のワールドが全く異なります。それに、心の問題は、"論" で尽くすことは出来ません。楽山は、それも分からないのです。楽山の異常性の病理は、増幅して、人格の退化を進めています。
 
楽山が欲しているのは、自分は偉いんだという満悦だけですから、そのうち、今度は、現実の市井(しせい)で、悟り?を語り始めるかもしれません。だまされた人々と、自己中のお仲間も、巻き添えになるのでしょうか。そうなれば、カルトだと、はっきり分かりやすくはなるでしょう。
 
精神病院に収容されるでしょうか、恐らく、否です。人格障害は、医療や薬では治らないので、扱わないでしょう。犯罪行為に及ぶまで、野放しになる可能性が大です。
 
楽山の人格の低格化は、凄まじいものがあると思います。それとともに、羞恥心もなくなり、今後、さらに、誇大妄想を、実際は、絶望への妄想を、むやみに押し出してくることが予想されます。
 
楽山については、関わらないことと、批判することと、情報を敷衍(ふえん)すること以外に、出来ることはないようです。批判は、批判する気になった人がします。楽山は、情緒も理性も、まともではない危険人物です。どうか、近づかないでください。
 
 
※ 
 
楽山の言の、語尾を「と言えなくもない」「否定できない」「かなあ」などは、語尾を濁しているから断定していないつもりのようで、それで、楽山がやってきたのは、多くのことを曖昧なボンヤリ言語でごまかして、責任を負わない態度でした。しかし訂正不能であれば断定なのです。
 
しかし、断定して、訂正不能でありながら、楽山は、責任だけ負わないのです。何だか、とても、イージーな言論を、楽山は、完成しているつもりなのですが、全く成り立ちません。自己愛者が考える論理というのは、大方、そのようなものに堕しています。論理構築過程が、既に詭弁です。
 
何故なら、通常、人間は、何を言っても、何をぼかしても、書いても、総ての語尾には「と思う」が付いているようなものだからです。それが、楽山には分からないのです。いったい、どういう論理を学んできたのでしょう。人間の言葉ではなく、記号の遊びごとしかしていません。
 
神を否定しておきながら、ある教会を褒めたり、祈り芝居の詩のような?ものを書いたり、否定も肯定もしていないから、責任問題は発生しないと、言っていたこと、言論の論理が分かっていない証拠です。否定と肯定、両方とも、それぞれ、その都度、責任は発生します。
 
このように、楽山には、何か発言するたびに、無責任な詭弁の必然があり、元の言論の責任+詭弁の責任が、大きな問題、というより、大きな作為の欺瞞として発生してきます。治らないでしょうから、議論においても、論者の精神衛生上も、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
断定していないと言い張りますが、語尾を曖昧にすれば断定していないことになるなら、楽山には、すべての議論は結論が出ず、楽山の言論は不能という循環になります。責任を負いたくないものだから、曖昧で柔和を装う楽山の企みは、無意味です。
 
 
背伸びして折れる

背伸びして折れる
 
 
(2020年07月13日)
(2021年07月29日、再録+)
 
 
 
 イメージ断片
 
緑の向こうに
濃い緑
その向こうに
また緑
その向こうに
バキッ
耳に残る
急ぐ足の下に枯れ枝が
たまたま折れやすくあっただけなのだが
 
走るオートバイの上から
葉を残した
落葉樹を見つけるのに時間がかかった
寒さはすでに
秋から冬を教えているのに
秋には秋を
なぜ探す
 
枕木の上に横たわる
霧を轢(ひ)き轢き
列車は自らを牽引する
遠く向こうの霧の中へ
後戻りできない水滴を乗せて
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
自覚がないから、神を自称し、人にああしろこうしろと説教できるのかもしれないですね。
自分を棚の上において、人にああだこうだ言うことにかけては、大川さんに勝てる人はいないでしょう(笑)
午後7:44 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
また、他者のことを「(笑)」っています。自分が、いちばん、醜いことに気づかないのです。楽山の言ってることが当てはまる悪は、楽山に他なりません。詭弁と嘘による誘導、乗らない人は無視する。自分を棚に上げて、「人にああだこうだ言う」のは、楽山です。
 
楽山を受け入れると、疲労し、人格が破壊されます。楽山とは、議論してはいけないし、関わってはいけません。世辞を真に受けないでください。楽山を相手にしないでください。ある時期に、霊が分かるっぽいと思い上がり、いつも満悦したいために、人を人とも思わず、詭弁の餌食にします。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
最近は、この手のニュースを見るたびに、大川隆法が表社会の高い地位についたら、過去の言行をさらされ、えらいことになるだろうなあと想像してます(笑)
 (引用省略)
午後7:28 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、性懲りもなく「えらいことになる」ことを「(笑)」っている楽山です。人格に締まりがなくなってきたのでしょうか。無意味に、無理に、他者を嘲笑いながら、低次元の快楽を、笑いを、求めているようです。
 
楽山が「社会の高い地位についたら」ネットで、言ってきたこと、やってきたことなど「過去の言行をさらされ、えらいことになるだろう」と思います。楽山のように、他者を、自分の都合だけで無視して、勝手に発信だけを続けるなんて厚顔は、社会人でも、まともな人間でもありません。
 
 
 
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  楽山の右翼思想2
 
 『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』佐藤優著
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、A級戦犯となった大川周明についての記事を載せています。これが、楽山の奥底に隠してきた本音だったのでしょうか。政治思想の記事を出してきた楽山は、軍国青年だったのでしょうか。
 
大川周明については、もう大分前に某リサイクルショップで『米英東亜侵略史』を見つけて読み、「つくる会」の歴史観と同じだと思ったのと、東京裁判での奇行くらいしか知らないので、もう少し知識を仕入れておきたいと思い、本書を読んでみた。
そんな自分が本書の中で特に心に残ったのは以下のことだ。
まず一つ目は、大川周明が語った『米英東亜侵略史』は事実に基づいていたためにアメリカを激怒させたという話。これについて著者は「大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う」(p.90 単行本2006年)としている。たしかに対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。
 
楽山のような、理非を弁えず、人間らしい情緒を持たず、未熟なまま大人になったような人物が、政治思想を語るのは、非常に危険であります。極端に走ってゆく傾向があるからです。周囲の誰もブレーキを掛けなかったのでしょうか。
 
楽山は、対立している批判者を、そして、すべての他者を、無視し続ける男です。そして、全く、真実の交流、本音の話し合い、真っ当な議論のできない人です。
 
「対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。」などと、よく言えると思います。実際は、対立している相手を完全に舐めて、無視してよいと思っているのが楽山です。
 
二つ目は大川周明が東京裁判に呼び戻されなかったのは、「大川は腹の底から法廷をバカにして」いるようであり、「いたずら心で法廷を喜劇の場にしてしまうことをアメリカは恐れたのではないか」(p.97)という見方である。
 
大川周明は、知能の高い人のようですが、先勝国であるアメリカが、この人を恐れるのでしょうか。楽山は、恐れられるような言論力はなく、代わりに、煙に巻く詭弁と嘘があり、無反省と無責任と無神経ゆえに鈍麻して、実際は、楽山が誰も恐れていないということでしょう。
 
自分としては大川は裁判から逃げたいがために、人の頭をピシャリと叩き、正気を失ったふりをしたのだろうと推測していたが、氏が優れた論客であり、あの場でふざけてみせる図太さがあるならば、たしかに東京裁判を喜劇に変えることは出来たであろうし、アメリカがそれを警戒した可能性もなきにしもあらず。
 
東京裁判を喜劇に変えるのではなく、独りで喜劇を演じることになったのではないでしょうか。梅毒による精神障害と書いてあるようですが。アメリカは、それを警戒するでしょうか。楽山の持ち上げ方は異常だと思います。高い知能を引き寄せて、自分もだと言いたいのでしょうか。
 
三つ目は大川が『日本二千六百年史』において源頼朝や足利尊氏に一定の評価を与えたところ、蓑田胸喜から天皇機関説の疑いをかけられ、修正を余儀なくされたという話だ。この批判は筋は通ってはいるのだろうが、あまりに窮屈すぎて笑いをこらえるのには苦労する。でもこの批判を受け入れる形で当該書籍が修正されたとすると、当然ながら当時は笑いごとでは済まされなかったということなのだろう。
 
どう笑いごとでなかったのか、説明がありません。「筋は通ってはいる」と言いながら「笑いをこらえるのには苦労する」というところに、楽山の、いい加減さが表れています。ブログ読者への説得力など、楽山には、どうでもいいのでしょう。自己愛で、完成しているつもりだからです。
 
四つ目は上と関連するが、蓑田胸喜は自己を復古主義者と規定していたかもしれないが、実際には「典型的な近代主義者」であり、「自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である」(p.272)という指摘だ。
 
楽山も、自分はは学者レベルだから偉い!そして言うことはおのずから皆正しい、という単一の価値観のようです。自説に反することは、すべて、無視してきた2年間でした。楽山は、反論・弁明できなくても、笑っていられる体質です。
 
またこれに対して大川周明の場合は、「前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつ」のだという。
これは何やら難しい話ではあるが、自分は後者の方が好みだ。話は少々変わるが、たとえば宗教について考察する場合、信仰、唯心論、有神論という方向からだけではなく、それとは反対の懐疑論、唯物論、無神論という方向からも考えたい性質なので。
 
楽山の語る○○主義を、まともに受け取ってはいけません。字面の浅い概念しか受け取っていませんから、言葉だけ、専門用語を使って、自分を飾っているだけだと思います。キリスト教について、如実に表れていたことです。既に浅はかさがバレているのに、なおも見栄を張り続ける楽山です。
 
楽山の、論、というのが、どの方向であれ、話にならないことを、私は、今までの批判記事に書いてきたつもりです。今回の記事で、危険が増し加わったと思います。これが、自己愛のために知性にも感性にも縁のない、楽山、という暴力的で節操のないサイコパス的人格の思想~妄想です。
 
楽山は、信仰という方向から考えたことはありません。信仰についての話は、幼稚な詭弁ばかりです。恐らく、総ての思想と論理について、楽山は、まともに組み立てて語ったことはなく、ネジが緩んだガタガタの精神作業のために、何も成り立ってはいないと思います。
 
対立する命題から考えるというのは、思考において当然のことです。しかし、心が無ければ、賛否の論も、いっさいは空しく、危険なだけなのです。そこに、楽山の、思い込みから暴力的思考への傾倒が生まれています。
 
つらつらと、とりとめのないことを書き連ねてしまったが、本書を読んだことで、自分は大川周明について、さほどの知識もないままに、偏見を持ち、不当に低く見ていたということがよく分かった。やはり知識が増えるとそれだけ視野は広がるようだ。読書の大切さが身に染みる。大川周明についてはもうちょっと調べてみたいと思う。
 
楽山は、勉強が嫌いで、かつ、宗教が嫌いな、右翼青年だったのかもしれませんが、そういうこととはかかわりなく、「つらつらと、とりとめのないことを書き連ね」たのなら、正当な論者であれば、公開しないはずです。実際、ゴミ箱だけが似合っている楽山の言であります。
 
知識が増えて視野が広がる、と言っています。失ってゆくものに、失われてゆくものに、全く無関心な楽山です。悲しみに共感できる心がないために、自分について、悲劇を想起できないのでしょう。読書の大切さを、ことごとく、自我の満悦のために棒に振っている楽山です。
 
私は、右も左も詳しくはありません。しかし、国家主義・軍国主義が支配した日本の歴史に、誰も否定はできないのは、日本だけで300万人の犠牲を出した戦争があったという事実でしょう。楽山の視野では、不都合は総て無視するので、特に人名や人生や心や命について、楽山は不感症です。
 
楽山には、決して近づかないでください。思っていたとおり、楽山は、危険です。さらに、右翼思想家に傾倒となれば、今後、どういう転帰を辿るか、恐怖しかありません。しかも、楽山は、今までの批判に書いたように、笑うサディストですから、人の人生も命も、何とも思っていないと思います。
 
 
大川周明:
(ネット百科事典マイペディアの解説より)
 「
右翼国粋主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京帝大でインド哲学を学ぶ。1919年北一輝らと猶存社,1924年行地社を結成。啓蒙活動を行う一方,軍部桜会の将校と接近。三月事件,十月事件に関係し,五・一五事件で検挙。釈放後は法政大学教授を務め,《米英東亜侵略史》などを刊行。第2次大戦後,A級戦犯に指名されたが,東京裁判の公判中精神障害を起こし釈放。著書に《日本文明史》,コーランの翻訳がある。
 」
 
 
虚偽と詭弁と偽善の文章に対する厳しい批判とは、対象の文章を見たとたんに生じる悪臭と不快感と怒りを、コントロールしてクールダウンして、冷徹な理路と比喩に置き換えてゆく作業を理想としています。うまくいってるかどうかは、また、別ですが。
 
 
妄念思想

妄念思想
 
 
(2020年07月02日)
(2021年07月28日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと一致しているとは限りません。
 
 
 
(ネットWikiより抜粋)記事の参考までに:
 「
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家[1]。東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。
 
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[2]。
 
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴されたことで著名となった。しかし梅毒による精神障害と診断され、裁かれなかった。なお、晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究で著名。
 
大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。
やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[4]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。
 
貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
 
満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。
 
戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
 
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。
 
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。
 
東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる[10]。
 
 
 
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楽山は、また、学者の言を利用して、当てつけてきます。やりたい放題、利己のために、他者を悪用して平気な楽山です。自分の意見を組み立てられないからでしょう。予定変更して、批判します。
 
 
  楽山の絶望宣伝
 
 知ることと信じること
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月26日 楽山日記(LD)
 
 
信じない人のための・・という前提で、いかなる福音も存在しません。まるで、希望を捨てたような乾燥して実感のない筆致で、楽山は語ります。学問の名のもとに、キリストを磔にするのは、こういう者たちだと思います。絶望の伝道者、いや、中間宿主と言ってよいでしょう。
 
(ネットより)
中間宿主(ちゅうかんしゅくしゅ、intermediate host)とは、ある種の寄生虫において幼生期の発育を行い、成虫が有性生殖を行う宿主が別の動物である場合の宿主。
 
*新鮮な考え方
宗教では信じるか信じないかということは重要な論点ではあろうし、自分もそのように考えていた。
でも中村圭志氏の著書を読んでいたら、それとは正反対の考え方が提示されていたのでメモしておきたい。
一般的に言って、宗教に関してむしろわたしたちが気にすべきことは、「信じる/信じない」の境界線ではなく、宗教を構成する要素(教義、儀礼、歴史、開祖に関する事柄)を「知っている/知っていない」の境界線の方です。信じるか信じないかは、こう言ってよければ、主観的な問題です。しかし、基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.9)
 」
 
「基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう」・・・基本的な情報などと、宗教をまとめてしまうところが、既に、傲慢だと思います。こういうのが大好きな楽山によって、インテリ気取りの餌になっています。
 
キリスト教と信仰は、信じる者のためにあるのであって、信じない者にとって基本的な情報などはありません。一般教養としての宗教など、誰も救えはしないのです。まさに、著者は、キリスト教のことではなく、社会通念アーメンソーメンのことを言っています。何の意味があるでしょう。
 
著者が言うには、たとえばキリスト教を信じるといっても、福音書にある奇跡を文字通りに信じる人もいれば、それを信じない人もいるし、そもそもそんなことはどうでもいいという人もいる、イエスを超能力者か何かのような存在だと信じる人もいれば、イエスの徳の高さこそが神の証と信じる人もいるなど、その信じ方は様々で原理主義的なものもあれば、信じないに近いものもある、信じるか信じないかの間には明確な区分はなく連続している、それならばそこにこだわる必要はないのではないかということらしい。
 
信じるということは、生きる縁(よすが)にするということです。楽山は、鼻くそのようなことを書いていますが、このような興味本位の、本気がどこにもなく、オモチャで遊んでいるような、ああでもないこうでもない先生気取りの楽山の、どこにも信はないのです。ずっと、そうです。
 
信仰は、趣味的に扱える問題ではありません。有か無かという人生そのものであり、命そのものであります。"信じない人のための福音" など存在しません。あざ笑うサイコパス楽山は、否定と軽視のための、絶好の餌を蒔いてくれるボンヤリ人間を見つけたようです。
 
そう言われてみれば確かにその通りではある。信じるか信じないかという主観にこだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが、そこにはこだわらず客観的な情報を得たいと考える非信者にとっては信じるか信じないかはそこまで突き詰めて考えねばならぬ必然性はなく、それよりは知っているか知っていないかの方がよほど重要ではあるだろう。
 
何事もなかったかのように、へらっと軽く書いてくる、いつもの、罪悪感を持たない楽山の筆致です。「こだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが」・・最近、しばしば、楽山が書いてくる免罪符のセリフです。凄まじい "すっとぼけ" が隠されています。
 
非信者にとっては、信じないのだから、何も突き詰めることなどないのです。非信・不信を前提に、信仰を考えることも論じることも、ありえません。楽山は、庭を見ながら、一生懸命、月の裏側のことを、まくしたてているようなものです。
 
信じない者にとって、宗教は、知識としての教養であり、救いとかも、癒しとかも、含まない、歴史と文化の問題に過ぎません。その知識から、信仰に至る者が表れているのですが、楽山も、引用元も、教養をひけらかすだけの、いわゆる偽善者であります。
 
*愉快
知ることと信じることについては、自分なりにあれこれ考えてきたつもりではあったが、恥ずかしながら自分は上のようなことは思いつきもしなかった。
それだけに本書を読んでこういう考え方を知ることができたのは愉快である。近頃は読書欲が衰えてきていたのだが、やっぱり読書というものはいいものだと改めて感じた次第である。
 
楽山は、この2年余り、何も、考えてきた跡がありません。楽山は、人を、信仰者を、良心を、神を、あざ笑う術(すべ)だけを身に着けています。だから、読むたびに、吐き気がしていたのでしょう。楽山は、サイコパスだから、そうなることが、愉快なのでしょう。
 
読めない者が、理解できない者が、読書をすると、どうなるか・・、読んで何も受け取っていなくても、知ったかぶりをして、人を、あざ笑うようになるのだ、ということが分かります。楽山は、今まで、見てきただけでも、良いことを思いつくことなどない人だということです。
 
真(まこと)のものを、善きものを、美しいものを、何も提示できない楽山です。だから、自分で、「いいものだ」、また、今までも、これからも、「反省」「とほほ」などという言葉だけを繰り返すしかないのです。
 
自分が優位だと見せかける言葉とともに、滅びを体現している楽山です。これこそ、ホラーなのです。今まで、批判記事を書いてきたのも、また、今、この、楽山の、異常な体質を書くのも、サイコパスのこの男に潜むホラー性を暴くためであります。
 
 
絶望宣伝が趣味

絶望宣伝が趣味
 
 
(2021年07月27日)
 
 
 
 楽山の成りすましではないかと思っているツイッターですが
 
taka
@taka84156681
·5時間
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
スルメ・デ・ラ・ロチャ
@surumelock「
(マンガですが省略、その中のセリフ))
人生を変えようとする人を叩くのは
人生を変えられない人だからな
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 」
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、楽山は、人のことを言っているつもりで、自分を表しています。
 
他者の人生に破壊をもたらす楽山は、無反省、無責任で、訂正不能です。変わることなく、人に、自己中を吹き込み続けて、ますます、自分を変えられなくなっているのです。楽山にありがちな、何も持たないのに、物申す病質の宿命でしょう。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13時間
HS信者さんは、他人から意見されると、すぐに逆ギレする人が多い印象があったが、
Takayukiさんはそうはならず、落ち着いて自分の考えを話してますね。
今でもそういうことができるHS信者がいたのかと、思わず感動してしまったよ!
引用ツイート
Takayukl太陽の光エルカンターレを信じよう
@E8tKm
返信先: 
@ryouran1011さん
ご指摘ありがとうございます。
正しい信仰を持つことは素晴らしいことです。
大川隆法総裁が地球神であるなら、すべての人類にはにはその教えが必要です。
幸福の科学を広めてはいますが、押し付けはしていません。
信仰は自らの手でつかみとるものです。
午後8:23 · 2021年7月24日·Twitter for iPhone
 」
午後10:12 · 2021年7月24日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。楽山批判です。
 
教理を批判していたのではなく、HSがおかしいと言っていたのではなく、落ち着いたHS信者なら、感動?するのが、楽山の軸?なのでしょう。宗教についてカルトについて一定の見解も批判軸なども持っていないことが表れています。
 
この軸のなさは、楽山が味方だと思うことの大きなリスクを表しており、批判あるいは無視されるべきだということを、再認識することになります。こういう、いい加減さが、人々を、かき乱してゆき、本人だけが、正義の味方気取りで満悦することにつながっています。
 
私としては、楽山は、もちろん、神ではないし、良いものを広めてはいないし、嘘と詭弁で誘導していると思います。正論ぶっても、自分の手で何もつかみ取っていない自己愛性パーソナリティ障害NPDだと思っています。楽山は、どこまでも、手段を選ばず、あくどいです。
 
楽山は、キリスト信仰についても、神はいない、信じ過ぎてはいけない、などと言いながら、ある教会を褒めたり、賛同するような幼稚な詩のようなものを書いたりしています。しかも、他者の言や、有名人を引用して、箔をつけようとします。楽山は、軸のない病質者なのです。
 
楽山を、少しでも柔和だとか、ときには良いことを言うとか、部分でも、肯定してはいけません。そういうのを利用する男です。受け入れれば、振り回され、疲れ果てることになるでしょう。楽山は、まともな言論者ではありません。批判は、楽山を変えるためではなく、全否定するためです。
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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