ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年07月

何の魅力もないことをネチネチ書いてくる楽山が、また、キリスト教を否定するために罠を仕掛けてきたので、予定を変更して、おぞましい蛇と化した楽山を批判します。
 
 
  楽山が仕掛ける罠
 
 『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著
 2021年07月25日 楽山日記(LD)
 
 
(ネットより)
中村圭志(なかむら けいし、1958年 - )は、日本の宗教学者、編集者、翻訳家。 北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
(ウィキペディア)
 
なおも、キリスト教と信仰に、茶々を入れようとする楽山です。こういうところに、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDが表れてきたのです。自分の非を認めない、なぜなら自分は正しいから・・という命題が病質になっている評論家気取りの楽山です。
 
こういう人とは、いかなる議論も、交流も成り立ちません。付き合えば、恐ろしい徒労と疲労が待っています。そして、トラウマとして残るでしょう。楽山を全否定するしかない理由と根拠も、こういうところにあります。著者は、楽山に、悪用されています。スキを与えてはいけません。
 
*読み応えがある本
本書はタイトル通り、キリスト教の基礎知識を紹介するものであるが、「宗教について懐疑的な人の合理精神を極力尊重して」著されているところ、四つの福音書を横断的に説明し、それぞれの特徴と差異を明らかにしているところ、福音書の各場面についてキリスト教内における解釈とともに著者の考えも提示されているところは読み応えがあり、大変勉強になった。
以下に、本書のなかで特に印象的だった箇所と感想を書いておきたい。
 
「大変勉強になった」・・楽山は、勉強などしない人です。都合がよかっただけだと思います。
 
*悪魔の誘惑
まず著者は、イエスが受けた悪魔の誘惑(マルコ1、マタイ4、ルカ4)について次のように書いている。
イエスの個人的体験をヴィヴィッドに見ていた人がいるはずもありませんから、これはあくまでも伝承的に創作された哲学的神話です。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.156)
 」
これは極めて現実的な読み方ではあろうが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という感じになっているのはおかしい。
 
伝承的に創作された哲学的神話・・その可能性がある、というところにとどめるのが、信仰者の態度です。それでも学ぶことはあるということです。神話、言い換えれば、お伽噺と断定してしまうと、神を決めつけることになり、背教ということになります。
 
*奇跡
著者は、奇跡物語についても容赦ない。
治療師があちこちでヒーリングをやっているとすると、治らなかった事例は忘れられ、治った事例は印象深く語り継がれるものでしょう。奇跡譚ばかりがたまってしまうのは自然の成り行きです。
(同上、p.165)
 」
奇跡は無かったと決めつけることからすれば、その元になる出来事は実際あったろうとしているところは柔軟ではあろうが、これだと奇跡の有難味が大分薄れてしまう感じがするのはさみしい。
 
これも、可能性の話です。このように、キリストの奇跡を、「治らなかった事例は忘れられ」るから、という可能性ではなく、決めつけるのは、早くこの問題を解決して、神を自分にとって既知の存在にしたい、というインテリ欲望の表れです。偽善者の楽山は、こういうエサに飛びつきます。
 
奇跡があったかなかったかについては、奇跡が神のわざであり、心の奇跡以外は人間には分からないことであることを知っているなら、物や肉体の奇跡については、・・分からない・・と正直に言うのが人間としての正答だと思います。無知の楽山が、こういうエサに飛びつかないようにしたいです。
 
*神義論
本書では、ユダの裏切り(マルコ14、マタイ26、ルカ22、ヨハネ13)に関連して、自由、責任、神義論にも触れている。
ユダの裏切りもまた、自らの意思、神の計画の両面から規定されています。ユダが神の傀儡だとすると、自分の行為の責任はないはずです。しかし、そういう解釈は許されないことになっています。
(同上、pp.204-205)
 」
 
紋切り型の理屈の解釈です。聖書は、心の書であります。人間の心によって理解するなら、ユダがどういう存在かは、神に任せる問題であり、やはり・・分からない・・というべきなのです。理屈だけを追うと、こういいう、楽山の罠にはまって、悪用されてしまいます。
 
神という全能の御方の力を信じていないから、結論を自分で決めつけてしまうのでしょう。わからないと言えなくなるのです。我を張ったがゆえに、それは、そのまま、楽山のような病質者のご馳走になります。楽山のような悪魔性の反キリストは、自尊のために他者の自尊が大好物なのです。
 
この記事には、信仰に楽山のような悪魔性が仕掛けてくる罠と、信仰者にとって、信仰について、餌食となる思考と、逆説的に、あるべき本来の思考が表れています。「さみしい」は、そのまま、反キリスト楽山の、ほくそ笑みと思うべきです。罠を仕掛けてくるのが、楽山という反キリストです。
 
そもそも人間の対局として設定された絶対神なるものが、謎めいた存在です。絶対神が万事お見通しであるのならば、人間は自分の悪に責任をとる必要はありません。しかし、原理上、そういう解釈は許されません。ユダの場合もこれと同様です。
(同上、pp.205-206)
 」
 
典型的な教条的解釈です。著者は、神の原理を知っているとでもいうのでしょうか。「人間は自分の悪に責任をとる必要はありません」・・何を言っているのでしょう。それは、神の前に、正直に告白できる人だけです。著者は、赦しのことを忘れたのでしょうか。
 
「そういう解釈は許されないことになっています」ということからすると、やはりここは微妙な問題であり、深く突っ込んではいけないところなのだろうか。
宗教にタブーはつきものだし、これも仕方のないことなのだろうが、「そんなことは考えてはいけません」と言われると、余計に興味がわいてくるから困る。
 
神について、ああだこうだ、だからいない、だからいる、などという解釈は、神の全能を持たない人間には、基本的に、できないことと知るべきであります。そうでないと、楽山のような反キリストが、喜んで、タブーがあるのか・・「余計に興味がわいてくる」などと、勢いづいてきます。
 
*犠牲
十字架の意味については次のように説明されている。
イエス・キリストの死という犠牲の供物によって、債務を帳消しにしたのです(ユダヤ人はもともと犠牲獣を神殿に捧げることで罪を祓っていたので、これはその延長上にある発想です)。
(同上、pp.208-209)
 」
 
このような教理話で、疑問に答えようとするから、心の無い教条と呼ばれ、かつ、温もりも潤いもない、平板で、深い情緒を持って人を動かすことのできない理屈となって、盲目的な信徒をうなずかせ、楽山のような背教徒を喜ばせることになります。
 
自分はこの発想については、当時のユダヤでは律法を守れなかったときは犠牲(汚れていない清らかなもの)を捧げることで罪を赦されたことから発展して、人類の罪が赦されるには、汚れのない清らかな神ご自身が犠牲になる以外になかったという論理に至ったと理解しているけれども、正直言ってこれにはどうしても違和感を覚えてしまう。
 
ああすれば、こうして、という、まるで取引のような、楽山の屁理屈話になっています。信仰を支えるのは、キリストの言動全体がもたらす愛と共感であり、不十分ながら、信仰者の、キリストへの愛と共感であります。楽山は、幼稚な小学校レベルの理屈で信仰をオモチャにする欠格人です。
 
「神様は血を厭い、殺生はよろこばない」という感覚が心に染み付いているせいか、神殿で殺生をしたり、血を流したりしたら、赦されるどころか神罰がありそうに思えてならないのだ。たぶんこれは自分が神道的な文化のなかで育ったためなのだろうが、キリスト教には共感するところも多々ありつつも、こういうところには異文化を強く感じないではいられない。
 
よろこばないが、神は裁きとして、人の思惑を超えたことをなさる御方だから、恐るべき存在です。そういう神への恐れが、芸能ファンレベルに堕ちている傾向が憂慮されます、そういうことだから、巷ではアーメンソーメンなどという揶揄もされるのでしょう。
 
神を愛するのは、愛することが赦されるのも、愛するようになるのも、キリストゆえであります。キリストこそが、神の、人に対する愛を、具現化した御方であります。そのことを、十字架は語っているのです。楽山の取引話は、糞尿の価値もありません。楽山は、エイリアン的な異世界人です。
 
余談ながら、神の体を食べ、血を飲むことで清められるという発想も自分にはよくわからない。肉食を避け水によって清められるというならわかるけれども、神の体を食べ血を飲むというのはすごく怖いし、清さ美しさを感じるのは難しいのだ。ここもキリスト教のうちでどうしても合点が行かない部分ではある。
 
こういうのは誤解というより、悪意による愚かな曲解です。キリストの血と肉の聖餐は、キリストが犠牲となったことの象徴的な儀式ですが、楽山は、実際の飲食のように、揶揄してくる教条主義の狂気であります。不治のようで、訂正不能で、治せる者もおらず、薬もありません。
 
*反省とゆるし
著者によると、反省とゆるしについては、マルコ福音書とルカ福音書ではちがいがあるという(マルコ2、マタイ9、ルカ5)。
マルコのイエスは無条件的に(つまり相手に反省を求めずに)人々を赦して歩いているように見えますが、ルカになると倫理的反省を条件にしています。
(同上、p.167)
 」
聖書を確認してみるとこうある。
「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)」
「イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)」
 
どうして、キリスト者なら、罪人を招くのに、当然だから、悔い改めが省略されていると解釈が出来ないのでしょう。罪人を招くのは、罪の赦しによります。罪の赦しの大安売りなどするわけがないのです。
 
それよりも、はるかに重要なのは、正しい人を招くためではないことです。神の前に、正しい人は、一人もいないからです。
 
マタイ福音書はマルコ福音書寄りのか書き方であること、マルコ福音書がもっとも早く成立していたろうことなどからすると、悔い改め云々はルカが後から付け足したものにも思えるが、後から付け足されたからといってイエスはそんなことは言っていなかったと断言はできぬことではある。はたして
現実のイエスはどちらの考え方をしていたのだろうか。
 
まるで、興味本位に、嬉しそうに「イエスはどちらの考え方をしていたのだろうか」と書いています。これは、今までの経過から、揶揄であり、笑って書いているのです。よくよく読んでください、楽山は、「どちら」と、勝手に二者択一にしています。楽山は、極めて狡猾な詭弁屋です。
 
世の中には、はっきりしたこたえを見いだせない問題が山ほどあるものだけども、これもそのうちの一つのようだ。
 
はっきりした答えが見いだせないのは、今も、楽山が、のうのうと書いていられることです。信仰者でもなく、知らないことなのに、救いの「す」の字も与えることが出来ないのに、疑問と否定だけを書いて、病質の自覚がなく、正常な人間性がないとしか思えません。楽山は、恥を知らないのです。
 
*まとめ
本書は、著者が「はじめに」で触れているように、「信じる信じないをとりあえず棚上げして、懐疑的な視点を保ったまま宗教の言語に(ここでは福音書の言語に)接触できる場を提供すること」を目的としている著述なので一部の熱心な信者には歓迎されないかもしれないが、信者ではない一般人が客観的現実的な視点からキリスト教を知るという点では有用であろうし、タイトルにある通り信じない人(非信者)には是非ともお勧めしたい一冊である。
 
懐疑の視点を保ったまま、というところの、対象は、自らの解釈であり、それは、誰もが持つべきものです。解釈が完成することはなく、そこを、悪魔性が、取り入ったり、わなを仕掛けたり、揶揄したりするのです。
 
したがって、引用された本書は、「信者ではない一般人が客観的現実的な視点からキリスト教を知るという点では」全く有用ではなく、さらに、楽山のこの記事は、その欠点を突いてくるような悪だくみを持つ偽善の反キリストの言であります。罪の自覚のない楽山は、害にしかなりません。
 
いつもそうですが、楽山の言は、いちゃもんを言ってくるが助けにはならない、反キリスト・反宗教の偏見の捏造者であり、誰も助けることが出来ないのに、いつも妨害を企んで、いつもお高くとまって、神さえも俯瞰できるような態度を取る、実は、スッポンポンの裸の王様の垢すりであります。
 
楽山の、もっともらしい言葉を受け入れないでください。本性は、人が苦しむのを見て笑っていられる男です。救いの言葉をあげつらっては、なんの質量もなく、からかっているだけです。楽山に近づくと、異常な疲労~病気になります。決して、相手にしないでください。
 
 
罠を仕掛ける者

罠を仕掛ける者
 
 
(2021年07月26日)
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
 
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
 
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
(2000年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
佐々木敦
@sasakiatsushi
·10時間
「文脈をちゃんと読め」という言説には「なんでわざわざ読まなきゃならないんだ」で返されるし、そう返されても仕方ないのがSNSなのだと思う。問題は事実ではなく感情のフックであり、理屈ではなく憤懣の一時的解消なのだから。だから「本当は違うんだ」と釈明しようとする努力は正否を問わず虚しい。
午前9:06 · 2021年7月25日·Twitter for iPhone
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDのために、こちらの書いた文脈を読むことが出来ません。また、自分の書く文脈を組み立てることが出来ません。代わりに、狡い詭弁と嘘を使って、まともに見せかけてきます。
 
楽山には、羞恥心、深く悔いる気持ち、罪悪感、しんみり悲しむ心、などの、高等感情がありません。だから、批判に答えることも弁明することもせず、平気で、人を笑ったり、新しい反キリストの記事を書いたりができます。楽山の感情は、恐らく、あざ笑いと憎しみだけだろうと思います。
 
楽山の表現は、「憤懣の一時的解消」だから、「「本当は違うんだ」と釈明しようとする努力は正否を問わず虚しい」ということです。楽山を決して相手にしてはいけません。楽山は、人を傷つけることで、自らの、人並み以下の頭脳を誇り、自負心を満足させるのです。
 
楽山が引用するのは、こういうことはいけないですね、私は大丈夫ですけど、という、免罪符のようなものですが、嘘です。今まで、ずっと、楽山は、自分に当てはまることを人に向けてきました。まるで、ことの是非を、早い者勝ちで決めるかのようですが、そのような方法はありません。
 
そういう楽山ですから、自己正当化の手段を選ばないと言えるでしょう。他者の発言も、本の言葉も、都合がよければ、引用し、利用し、悪用して、偽の知性と整合性を捏造する人です。もはや、精神衛生上の病原と言っても過言ではありません。どうか、どうか、近づかないようにしてください。
 
楽山は、口を開けば、薬に見せかけた毒を吐いてきます。思慮深さに見せかけた作為の欺瞞です。人を、人とも思っていません。この2年余り、批判を続けて、まともに返してきたことがないのです。そういう批判されている状況を、完全に無視できる訂正不能の思い込み自分カルトなのです。
 
上にあげた高等感情は、人間を人間たらしめる必須の性格なのですが、楽山には、それがなく、どうやら、人間性を失った欲望動物のように思われます。自己顕示欲、自己愛、自己中、無反省、無責任、無神経、無理解の、冷血漢が人間性を装う記事に、どうか、だまされないでください。
 
正体を知れば、吐き気がして、二度と会いたくないと思うのが、楽山です。他の人々が巻き込まれないように、こちらは批判を続けています。楽山は、厚顔無恥で、いつも平然としています。結局、良心がないのだろうと思います。複数のHNに成りすましている疑いもあります。
 
今まで、3人を批判してきました。
シャロームshalom:数年間だまされた後、約10年間、批判してきました。現在、所在不明です。罪は気にしなくていい、悔い改めなくてもいい、などと言っていた偽牧師です。
易坊:シャロームとともに、ヤフー時代の私のブログを荒らしてきました。
楽山:数か月だまされたのち、2年余り、批判しています。反キリストで、一貫した思想もないくせに、キリスト教の否定と肯定の記事を好きなように書いて、断定していないから責任はないと言い張っていました。右翼に傾倒しています。
 
この3人は、キャラを変えてはいるものの、独立しているのではなく、シャロームと易坊、シャロームと楽山は、仲間のようです。また、自己中、無反省、訂正不能など・・、という病質的ナルシストの特徴を持っており、同一人物の成りすましを疑っています。
 
 
 
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  楽山の危険思想2-2
 
 『安楽の門』大川周明著
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、親孝行から国家信仰への誘導、宗教を国家に帰する極端な右翼思想が、長~い引用とともに、剥き出しになっています。楽山は、丁寧語で書いている分、より陰険で狡猾で過激な右翼思想屋だと思います。とても危険だと思うのは、書いてあることに、理路も節操もないことです。
 
*母
著者自身はどのような宗教を信じているのかといえば、母が本尊であるという。
私は、吾母を念ずることによつて一生を安楽に暮らして来たのである。それ故に『汝は何うして安楽に暮らして来たか。』と問はれるなら、私は即座に『母を念じて暮らしたからだ。』と答える。
(同上、p.62)
数年以前に天満天神・阿弥陀如来・八幡大菩薩を本尊とする母の信仰を簡単平明なものと考へた私が、一層単刀直入に母を本尊とすることによつて安心を与えられることになつたのである。
(同上、p.210)
 」
母が本尊だと言われると、正直「なんじゃそりゃ?」と思わないではいられないが、どうやらこの話にはもっと奥行きがあるらしい。少し長いが、話の筋道が分かるように引用することにする。
さて一家の先祖が其家の神として崇められるやうに、多くの家族が相結んで部族を形成するやうになれば、諸家族の共同の先祖として信仰される部族神が、各家族の先祖よりも一層高位の神として崇拝される。そして其頃には先祖以外にも色々崇拝の対象が現れ、人間生活の宗教的一面が次第に複雑になつて来たので、茲に専ら祭祀を事とする一個の階級がうまれるやうになつた。次で多くの部族が一つの国家に統一されるやうになれば、部族全体の祖先が国祖として国民崇拝の対象となる。多くの国家では、内外幾多の原因から、建国当初の精神が中断又は断絶したために、国民の国祖に対する宗教的関係も自ら消滅せざるを得なかつた。其等の国々では、国民の生命の本源たる国祖を認めず、直ちに宇宙全体の本原たる神を父と仰いで居る。唯だ日本の場合は、建国当初より今日に至るまで、国祖の直系連綿として国民に君臨し、民族の歴史的進化が一貫相続して中絶しなかつたので、国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれるのは其のためである。それ故に日本人の場合は、子女としては親に考なること、国民として天皇に忠なること、そして一個の人間としては天を敬することが、三者一貫せる『敬』の具体的発言であり、従つて日本人の宗教である。
(同上、pp.200-201)
 」
 
楽山は、まとめることが出来ないようです。
「国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれる」
・・右翼思想の宣伝でしょう。
 
人間に不変な者などありません。神が不変でも、人は変わります。それが、改善、発展、平和、幸福につながるかどうかで、思想は、評価されるものだと思います。最初から不変なのは、神域であり、それは、人間の知るところではないのです。
 
神の全能と人の不完全を、混同する向きは、いたるところにあります。以前、シャローム shalom が、似たようなことを言っていました。"日本教" の話です。こういうところを見ると、やはり、楽山とシャロームは、つながっていると感じます。尊敬と信仰は、同じでしょうか、否です。
 
人間は、自分の言動の影響を、影響がなくなるところまで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って傷つけるということが起こります。だから、人間は、できることをして、結果を反省することで成長を期するわけです。そういうことをせず、理解も出来ない者が、大口をたたいています。
 
日本では忠孝一致になるという話は聞いたことはあるが、敬天も一致するとはおもしろい。今風にいえば、忠孝信が一致するということだろうか。母を敬し、信じることから、先祖崇拝に発展することは分かるが、それが忠孝信の一致にまで行くとは驚かされる。こういう理屈は愉快な心持ちがする。
 
楽山は「愉快な心持ち」だそうです。楽山は、右翼の宣伝マンなのでしょうか。国家や慣習で、宗教や信仰を決める傾向は、大いに悪用されてきた歴史があります。心のない楽山は「理屈」と言って、「忠孝信」のないところから、それを説いたつもりで、満悦しています。
 
信仰は、個人と神の関係であり、何でもいいのではなく、聖書によって、示されています。そのための、愛と共感が、楽山には皆無なのです。だから、宗教と信仰について、楽山には、黙っていろと言いたいわけです。
 
*神のイメージ
著者による神としての母は、次のようなイメージであるらしい。
私は『下獄の際には仕方がないと諦めた。』と言つたが、その諦めは、私が心の中で『母上、私は監獄に往つて参ります。』と挨拶しただけで、いとたやすくついた。それは三度とも其通りである。わたしのこの挨拶と共に、慈母の悲心、一瞬に山川百里を越えて、まつしぐらに私の身辺に飛到する。わたしが何事をも頼まないのは、母は私の求める一切を知り尽くして居るからである。赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める。いや、吾母は私が求めようともせぬものまで与へてくれる。その証拠には、慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。
(同上、p.46)
 」
意外なことに、これは自分の神のイメージと似てる。というより同じだといってもいいくらいだ。
 
楽山は、要約も出来ず、長いと読みづらいということも考えないようです。
 
楽山は、何でも赦して、何でも与えて、受け入れる母性に、神のイメージをいだいているようです。この母上には、楽山に書くのをやめるように言っていただきたいものです。
 
「慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。」・・この部分は、母=神なのでしょうか。
 
この部分は、言葉上、キリスト教の、神信仰と似ていても、人間の母は、神とは違います。したがって、人間は、過ちを犯すことがあります。
 
愛する息子が、楽山のことですが、自分カルトとなって、理路もなく、情緒もなく、名のある人の言葉を恣意的に悪用して、他者の意見を無視して、それを、神?になぞらえるとき、息子に対して、何でも正しいと支えてくれる母の愛は、依怙贔屓の偏愛の域を出ないのです。
 
自分と神のイメージを共有する人はどこにもいなそうだと思っていたが、先行者がいたというのは嬉しい。やはり自分が思いつくようなことは、とっくに誰かが考えているということなのだろう。いつも思うことではあるが、この世に新しいものはないというのは本当のことなのだろう。
 
「先行者がいた」・・気持ち悪いです。自分と同じレベルの人が著者だ、という自慢になることを、楽山は、考えないのでしょうか。それとも、承知の上で、自慢しているのでしょうか。どんどん、堕ちてゆく楽山です。書くほどに、そうなってきたのでしょう。
 
楽山が、"この世に新しいものはないというのは本当" だと思うなら、どこにも響かない自説を振り回すことはしないでほしいものです。楽山の書いたものに、独創的で、良い影響を与える、と言えるものが、どこにもないということが根拠です。
 
楽山は、上のほうの引用のような母の愛には、恵まれていないのかもしれません。ゆえに、楽山は、引用したイメージだけを讃え、自分が母に、どういう愛を向けたかを語っていません。それに、神のように絶対に正しい愛の母はいないと思います。
 
自分が抱いている神のイメージは、母性的な存在だという自覚はあったが、本書を読んでさらにその自覚は強まった。「赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める」という部分は、まさに「祈らずとても神や守らん」ということでもあろうし、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。
 
まえにも似たようなことを言っていましたが、軽々しく神に母性を当てはめる楽山です。祈らなくても守ってくれる神?を欲しているようです。神を恐れない身勝手な者は、何でも自分で作り出してきます。その神?が、何でも与えてくれるからと、また、自己中の正当化です。
 
そして、「涙こぼれる心持ち」などと、いつもの、感動芝居で、心にもないことを言ってきます。こういう楽山の白々しさは臭気を持つようです。放屁のようです。今までの経過から、嘘だと思います。むしろ、そこに、楽山の詐欺性と反宗教が、証拠として表れてくるのです。
 
それにしても、このくらい貪りから離れたら、さぞ心穏やかであり、神への感謝によって心は満ち、強いてどこかの宗教にしがみつく必要もなくなるのは当然だろう。自分はこういう心境とはほど遠いが、いつかは辿り着きたいものである。
 
神が人に与えた節操を知らずに、勝手に、"神への感謝によって心は満ち"、しかし、宗教は不要と言っている自己矛盾です。楽山が辿り着くのは、多くの被害者によって裁かれる詐欺的偽善者の末路の心境でしかないでしょう。
 
*全体の感想
大川周明については、前にも書いたように東京裁判での奇行から、あまりよい印象は無かったので、その著書を読んだり、人となりを知りたいという気にはなれなかった。でも本書を読んでみると、その宗教観にはさして異論もなく、よく了解できた。もしかしたら自分は、大川周明に対して、いわゆる食わず嫌い状態になってしまっていたかもしれぬ。
 
「よく了解できた」などという気安い肯定は、最初から、まるで工程のように決まっていたと思います。過激な右欲の思想家である大川周明は、知能の高いナルシストだったのかもしれません。楽山は、知能の高くない病的ナルシストだと思います。
 
こういう人が、高い知能にあこがれると、ろくなことはないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDが、原因なのか、結果なのか、不明瞭になっていますが、今、病的ナルシストとなっていることは、明かと言ってよいでしょう。
 
本書の中で、自分がもっとも強い印象を受けたのは、上の母に重なる神のイメージと、親孝行が絶対的な神への信仰につながるという理屈だった。親に感謝すれば、親を育んだ先祖への感謝となり、次にはその先祖を育んだ民族神、さらには国の神への信仰となり、最後には絶対の神への信仰に行き着くと…。なにやら修身斉家治国平天下のような雰囲気もないではないが、自分にはこの考え方は分かり易くていい。
 
なんて単純なのでしょう。もろに、個人の自由を無視した右翼思想になっています。300万人の日本人の犠牲を出した戦争の歴史を学んでいない証拠でしょう。残酷な心性だと思います。結局、国家主義の「民族神、さらには国の神への信仰」を勧めています。
 
神への信仰が、あとだそうです。すごい身の程知らずで、信仰知らずだと思います。しかも、「親孝行が絶対的な神への信仰につながる」そうです。楽山のスタンスが、はっきりしてきました。そして、立場が崩壊しても、言い続けるのでしょう。立場も挫折も、関係ない自己満悦の楽山でした。
 
人は神によって万物の霊長としてつくられたのであるから、自然を管理、支配する権利義務があるというよりは、自分が今あるのは両親、祖先のおかげであり、両親、祖先があるのは民族や国のおかげ、民族や国があるのは自然のおかげ、自然のあるのは神様のおかげ…という具合に、両親、ご先祖様、自分の生まれ育った土地の神、民族神、国の神、自然の神、絶対神…天地一切のものに感謝をささげるという方が、自分には合っている。
 
上の続きで、楽山の思想が表れています。つまり、正体がバレています。楽山という右翼は、国の神信仰であるならば、何でも感謝し、国のために命を失ってもいいと言うのでしょうか。歴史の史実としては、空襲で母を失った人が大勢いるはずですが。
 
これだけ大きいことを言った楽山は、国のために何をしてきたのでしょう。ネットを、じわりじわり、荒らしているだけす。楽山という万物の霊長は、他の万物の霊長の生活も人生も命も、どうでもいいのでしょうか。右翼過激思想屋、楽山の暴言であります。
 
本書を読むことで、こういう自分の宗教感覚を再確認できたのはよかった。本を読んでいて、これは反対だ、これも反対だと批判ばかりが心にうかんでくると、何でも反対屋になったようで気が滅入るが、共感できる箇所がたくさんある本を読むと、何やら自分が素直な人間になったようでなかなかいい気分だ。
 
再確認したのだそうです。怖いことです。共感という言葉を使っていますが、上の思想、共感の対象になるのでしょうか、素直と言えるのでしょうか。テロリストにでもなるつもりでしょうか。戦争を望んでいるのでしょうか。それで、何か、偉い地位にでも就きたいのでしょうか。
 
楽山の妄想です。それだけです。空想屋・妄想屋・偽善者・詭弁屋・自己愛性人格障害者に用意される椅子は、ギャング以外、電気椅子以外、どこにも何もありません。決して、楽山に近づかないでください。楽山から、身を守ってください。
 
明日、もう一つ、大川周明の記事を再録+加筆して投稿します。
 
 
妄想思想の不健康な暴発

妄想思想の不健康な暴発
 
 
(2020年07月22日、同日一部修正)
(2021年07月25日、再録+加筆)
 
 
 
  暴走の自由
 
総てが自由に走り始めている世界で
自由の勢いに任せて
うっかり死の命令形を
口から滑らせたばかりに
自分が死に定められていることを忘れて
年々歳々変わり果てていって
買ってくれる人も気にとめる人も
少なく遠くなってきて初めて
にわかに慌て始め
追ったり縋(すが)ったり
が当然ながら無味異臭の世界から
境界へ限界へ果てへと向かってゆくのだが
そのときには既に遅いでも早いでもなく
刺青(いれずみ)のように刻み込まれた
実は誰も属してなどいない
群れの柵(しがらみ)の
土産(みやげ)物の辿(たど)る宿命として
命令・暴力・暴走の終着近く
発した死が折り返して
迎えに戻ってくるのは
まさに人とその産物の自由なのである
 
(2000年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
論語みたいな考え方ですね。
・論語:里仁第四 〔18〕 父母に事えては
引用ツイート
HJ_oekakiman
@hj_oekakiman
 · 7月22日
二世の皆様へ。
例え、教会で何か気に入らない事があったとしても、ご両親がいわゆる狂信的で、窮屈な思いをした事があったとしても、それでも御父母様を批判する書き込みはするべきではないと思います。
このスレッドを表示
 」
 
事える(つかえる、仕える)
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山は「論語みたいな考え方ですね」と書いて、何が言いたいのでしょう。この記事の上のほうで、信仰を貶めて、国が先、神が後、と言っていたのは楽山です。楽山という右翼の暴言者、国粋主義者、日本主義者、国家主義者は、国を守るだけでなく、神を軽んじ、他者を無視しています。
 
楽山は、人それぞれ、個人の自由、などを強調して、自らの自分勝手なエゴイズム・自己中・自尊過大・自己愛を正当化していますが、他者の個人の自由を認めていないことが明らかとなっています。親に孝、君に忠を主張して、斬られるのは、自分だけに忠孝の楽山自身なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、その場その場で、思いついたことを節操もなく、よだれのように垂れ流してきますが、責任を負わず、反省しないので、主張に一貫性が全く見られません。楽山に対して、批判目的以外では、近づかないでください。もはや精神衛生の問題なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の危険思想2-1
 
 『安楽の門』大川周明著
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 
 
長い長い、引用も長い、楽山の記事で、批判も長くなるので、2回に分けて、載せています。去年の記事を、ところどころ、手直しして、改めて、もう一度、批判をアップしです。楽山の書く記事は、煩わしい耳鳴りのようです。
 
楽山の記事は、うんざりするだけの長いのやら、要点が抜けている短い記事やら、いろいろありますが、感動の要素は、まるで無いのが特徴です。キリスト教と信仰を、おとしめること甚だしいので、黙っているわけにはいきません。今回は、再録ですが、改めて危険だと思います。
 
大川周明は、A級戦犯で、梅毒による精神障害のために、死刑を免れた人です。またしても、戦前戦中の過激な右翼思想の人物を讃えています。楽山の思想傾向が表れています。
私の記事「楽山の右翼思想」
 
他者に何を言われても無視すれば、一時的には安楽に過ごせるでしょう。しかし、無視は、重ねられることにより、鈍感を膨張させます。無視による安楽は、他者との交流を無意味にし、学習と成長を不可能にして、楽山のような、感じることも考えることも出来ない化け物を作るのです。
 
*概要
著者は本書の中で、獄中でも、精神病院でも、どのような環境においても安楽に過ごしてきたとし、なぜそれができたかといえば元々楽天的な性格であることはもちろん、恩師、友人知人のおかげとともに、安楽の門(宗教)によるとして、自らの宗教について語っている。
 
楽山は、またしても、自分に都合の良い文言を漁ってきたようですが、楽山も、「獄中でも、精神病院でも」「安楽に過ご」すと言いたいのでしょうか。「なぜそれができたかといえば元々」鈍感な性格で、「恩師、友人知人の」いない「おかげ」だと言いたいのでしょうか。えらい違いです。
 
自己中で無反省で無責任な人には、苦言を呈することが無意味になるので、真の友人は出来ないと思います。楽山は、楽天的なのではありません。悔いや悲しみを感じないのです。だから、じっくり悔いて考えて反省するということがないのです。
 
以下に、その要点と思われる箇所を引用し、自分なりの感想を書いてみたい。
*宗教の目的
まず著者は宗教の目的について、こう書いている。
宗教とは無限の生命に連なることである。
(『安楽の門』大川周明著、出雲書房、昭和26年、p.237)
*註 旧字は新字にした
 」
これは梵我一如だとか、神人合一ということであろうか。無限の生命と人とは、別個の存在だというのではなく、連続しているという考え方をしているようだ。
 
無限の命につながる、ということは、解釈が幅広いので、カルトに利用されやすいと思います。どうやって、無限の命とつながったと分かるのでしょう。そこを、楽山は、無思考で気安く短絡して、神人合一などと言って済ませます。
 
理解可能なのは、瞑想などによって、心身の安定を得ることがある、ということでしょうが、それ以上に、楽山は、この曖昧な引用をもって何が言いたいのでしょう。怪しさ満点の楽山です。
 
(ネットより)
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
 
そのような同一は地上にはないと思います。一部の人がそのようだったとして、その人は、人間世界において、乖離した者でしかないでしょう。ゆえに、そういう人になることを教えることは、カルトでしかないと思います。
 
キリスト教周辺では、神が人を自らに似せて造った、という聖句を悪用するような者が、そういうことを言うことがあります。間違いの例として、神と人、聖霊と人の、合一感を言う人もいるようです。合一したと、どうして分かるのでしょう。
 
人間は、自己暗示と超越願望の固まりゆえ、超常体験を求める欲望があるのです。それは、結局、神になりたい、という、神に対する明確な反逆であります。信仰は、全能の神と、不完全な罪人である自分を、明確に区別するところから始まります。
 
宗教には、神秘を想わせる雰囲気があります。神のもとで安らぐ場ではあっても、そこは、地上の、人間としての、祈る場であり、それ以上ではありません。唯一の、人から神への告白の時と場を、人の超常欲求で、けがすことのないように、注意が必要です。
 
*既成宗教
著者は既成宗教については次のような感想をもらしている。
併し八代大将と同じく私にも仏教や基督教には何分『馬鹿らしき事』が多く思はれた。そして其の『馬鹿らしき事』が信仰の礎だと教へられては尚更納得出来なかった。
(同上、pp.204-205)
 」
これについては、某有名作家が仏陀を信じないかのような発言をしていたのを思い出す、人が解脱して仏陀になるなどということが実際にありえようかと。
確かにそう言われてみれば、人が修養して人格を磨くことは可能としても、煩悩から離れ、仏陀になるというのは若干真実味に欠ける。さらには仏陀になれば、千里眼やら何やらの神通力を発揮するとか、過去現在未来の三世を見通せるとか、眉間から光を出して遠い世界を照らし出せるというなら、それはもうファンタジーの世界だろう。仏典にしろ、聖書にしろ、その記述をそのまま事実として信じなければならぬとしたら、大方の現代人にとっては到底無理な話だ。
 
こうやって、楽山は、宗教を引用しながら、人の口を借りて、宗教と信仰をけがしてきました。持ち上げて落とす、その先には何が待っているのでしょう。アドラー教かもしれません。楽山教かもしれません。いずれにせよ、恐ろしい自己中の妄想カルトの世界です。
 
私には八代大将に対する小笠原中将のやうな導師はなかつたが、書物を読んで勉強し、心から尊敬する先輩に親炙して直接その宗教的一面に触れ、且つ自分自身の経験を深く反省して行くうちに、いつとはなく既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた。
(同上、p.205)
 」
 これは自分にも分かる。ただ自分の場合、「既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた」というより、既成宗教の信者になることができないことがわかったといった方がよさそうだ。既成宗教の教えはどんなに立派でも、どんなに体系化されていても、一定の枠があるし、自分にはどうもその枠内に留まり続けることはできないのだ。
 
楽山は、何も分かっていません。都合がよいから引用しているだけです。既成宗教が、皆、同じで、新しくないという主張は、楽山のような目新しい外面だけを求める輩に見られます。その証拠は、楽山の主張こそ、何の発展性もないまま、同じ主張を繰り返すことに表れています。
 
楽山は、キリスト教について言えば、その枠も、皮も、肉も、骨も、髄も、知ってなどいません。分からないのに、自己中に都合の良いところを取って来ては、楽山の中でだけ固定して、おとしめ、さらに、自分教が一番中立だという主張に持っていこうする下卑た盗人に過ぎません。
 
そういう態度は、他の書籍の引用においても、同様であろうと思われます。つまり信頼度ゼロであり、書物を読んでも、理解が偏って自分寄りの偏向となり、つまり、楽山は、理解できておらず、感じ取ることもないために、自分で軽薄な理屈遊びをしているだけなのです。
 
先日、内村鑑三の『宗教座談』を読んでいたら、神は聖書より大きいということが書いてあったが、おそらくこれは他の宗教についても言えることだ。神はどの宗教よりも大きく、その宗教の枠を超えている。だから特定の宗教の枠からはみ出したからといって、必ずしも神の御心に反するとは限らない。神はすべてを超越しているとすればそうなる。
 
つまり、楽山の主張とは、こういうことなのです。神を讃えているような文言で、結局、宗教は何でもいい、いい加減でいい、枠を超え、つまり、はみ出し者の自分でも、何を言っても正しい、という方向に持ってゆく詭弁です。
 
実際には、楽山は、神の机上の概念として扱い、信じるということの心を台無しにしています。しかも、自分だけでなく、人にも吹聴しているのです。楽山の言ってることは、正反対であり、逆であり、反キリスト性しかないものです。とても悪質です。
 
でも宗教ではこういう考え方はあまり歓迎されないし、その宗教の枠から出たら、神の御心に反する異端とみなされてしまう。これでは枠をあまり気にしない自分のような者は、どこの宗教にも入れてもらえるわけもない。
 
"枠から出る" ということの意味を混乱させる詭弁です。楽山は、自分で宗教の枠を決めつけ、枠を気にしない自分を、超越しているからこそ異端と見なされているところの悲劇のヒーローみたいに言っています。実際には、楽山が、悪意しかなく、非を認めない偽善者だから、アウトなのです。
 
楽山は、自尊過大の自己愛のために、考えること、感じることが、どちらも、偏るばかりで、できなくなっています。その証拠は、楽山の書く文章に、共感性も説得力もないことであります。オモチャのように好きなように書物をもてあそび、徒に、悪用するだけになります。
 
虚心に考へて見れば、人は基督教徒や仏教徒にならずとも、能く人性の宗教的一面を長養することが出来る。その実例を私は八代大将、頭山翁に於て見たのであるが、同様の例は日本及び中国の偉人に於て枚挙に遑ない。
(同上、p.151)
 」
ここは山本七平の語る日本教的な雰囲気が濃厚だ。自身の心を磨く修養が第一であって、そのために役立つなら仏教でも、基督教でも、儒教でも何でも用いるのであって、「絶対に〇〇教でなければならない」と固執するようなことはしないという行き方だ。だから仮に仏教→基督教→儒教と宗旨が変わっても、自己研鑽が第一という根本は変わっていないので本人的には自分の行動に矛盾はなく、平気だということになる。
 
キリスト教と信仰は、自力本願ではないので、修養や自己研鑽が第一ではありません。必要なのは、神の前の正直さだけだということが、聖書を読めば分かります。楽山には、その正直さが皆無であり、嘘と詭弁だらけなので、アウトなのです。
 
楽山は、キリスト教を、自身の心を磨く修養、自己研磨、と言っています。では、自分を磨けない人は救われないのでしょうか。楽山が何も分かっていない証拠です。共感という要素を、楽山自身が持っていないために、こういうことを平気で言うようになります。
 
さらに、楽山こそは、自分を磨いたことが、一度もない人だと思います。楽山の文章に、磨いた跡が、何も見られないからです。楽山は、いつも、安易に、学者気取りで、評論家気取りで、上から見下ろす視線しか持っていないことが表れてきました。ここでも、そうです。
 
ここでも、楽山の都合のよいように、平板で深みのない、固定概念的で、通念的な決めつけが、楽山の文章全体に行き渡っているのです。ここからは、神との個別の関係も、信仰についての個性も生まれようがないのです。
 
実を言えば、自分もこういうタイプだ。だからいろいろな宗教、思想を学ぶことにさして矛盾は感じない。こういう行き方は、特定の宗教や思想を信じ、その枠内に留まることにこだわり、そのために命を懸け、殉教も厭わないタイプからは嫌われるだろうが、自分は宗教や思想の奴隷になるつもりはないのだからこういう立ち位置になるしかない。
 
「宗教、思想を学ぶことにさして矛盾は感じない」・・自己愛者は、いつも、充実しているつもりなので、矛盾を自分に感じることはないのです。だから、宗教は枠のようなものだと決めつけて、枠から自由になったつもりで、実際は、我執という檻の中で暴言を吐いています。
 
楽山は、ただ、いい加減で、自己中で、怠慢で、無反省で、非を認めない人で、にもかかわらず、何でも理解できるつもりで、我こそは客観的とばかり、無理解を自己正当化して、偏見を当てはめ、宗教と信仰一般を、おとしめ、けがす者であります。
 
*奴隷
著者はここにおいて、宗教に対しても自由を放棄しないとしている。
私は書物に対する過度の尊敬から解放された。書物は心の案内者たるべきもので、決して私の心の専制者であつてはならない。私はいかなる学者の奴隷にもならず、自分の自由なる心で宗教を学び且求めねばならぬと思ひ定めた。この道理だけは早くから知つているつもりで居たが、身に沁みて左様でなければならぬと感じたのは遥かに後年のことである。
(同上、p.143)
 」
著者によると、横井小楠は朱子を学ぶといっても朱子の奴隷になってはならぬとしていたらしい。でも著者はこれを知りつつも、カントやヘーゲルの書を読むうちに自らの思考の自由を失いつつあることに気づき、上のように考え直したのだそうだ。
 
楽山は、自分も、この有名人たちと同じだ、という、楽山の、自己愛による、自己の高め方が表れています。そのようなことのために、楽山は、本や名前を利用するのです。楽山の読書は、楽山の高慢に利用されるだけであって、よこしまな動機によって進められてきたのでしょう。
 
だから、楽山の恣意的引用は、全く信用できないのです。書物という心の案内者を、好きなように、我執に合うように、偏向した精神で解釈し、固定し、ゆえに、当然、批判され、何も実のあることを返せない、という醜態に至っています。
 
この話は、江戸時代の儒者が、孔子や孟子が総大将になってシナの軍隊が日本を攻めてきたらどうするかと問われて、日本防衛のために武器をとって戦うと答えたというエピソードを思い出させるものがある。
恥ずかしながら、自分はとある新興宗教の教祖の奴隷になってしまっていたことがあるので、この言葉は身に沁みる。
 
楽山は、自己中、自分信仰の奴隷です。そして、「反省、とほほ」と、言葉だけ言っても、自己顕示欲から、思いつきと嘘と詭弁によって、他者を誘導し、自らに従う奴隷にしようと企む者です。非を認めず、他者のせいにするのが、書いたものに表れ、その証拠となっています。
 
*信仰
信仰については、何を信じるかではなく、どのように信じるかが大切であり、赤子のごとくあるのが理想であるという。
宗教の主眼は何を信心するかではなく、如何に信心するかである。宗教の価値を定めるのは信心の純不純でつり、信心の対象が宗教の高下を測る物尺とはならない。
(同上、p.231)
 」
総ての流れが、末は遂に大海に注ぐやうに、何を信心の対象とするにせよ、若し其の信心が無垢純一でありさへすれば、人は之によつて無限の生命に連なることが出来る。
(同上、p.232)
 」
これは「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」という道歌に通じるものがある。
どんな宗教であれ、まともな人もいれば、おかしな人もいるものだ。
 
おかしな人の代表が、楽山その人であります。自己中に信仰は語れません。
 
カルト信者だからといって必ずしも皆がおかしいとは限らない。同様に社会的に認められている伝統宗教の信者だからといって必ずしも皆がまともとも限らない。思想でも同じようなものであって、右でも左でも、まともな人もいれば、そうでない人もいる。結局のところ、何を信じるかではなく、各人の心の状態こそが大切だということなのだろう。
 
人間は、いつも、不完全ですから、皆が・・とは限らない、と言えるでしょう。しかし、このことは、何でもいい・・ということにはなりません。心の状態として、楽山は、悪であり、闇であり、偽善であり、信仰から最も遠い性質だけを表してきたのです。
 
つまり、楽山は、信じるかではなく、何でもいい、いい加減でいい、それが正しい、自分は正しい、と言っているのですが、本人だけは気づかないのです。おかしいかどうか、許容可能かどうか、信じるに足るか、これは、心に受けたことから、個人が判断することです。
 
"心の状態が大切" というだけでは語れるものではない、ということさえ、何も受けていない楽山には、分からないのです。きれいごとを、いくら、並べても、変わりはしません。自己正当化だけで、反省もせず、責任も負わないところには、正常な心は育ちません。
 
信仰は、目に見えません。必要なら、言動から判断するしかありません。楽山は、キリスト信仰を知りません。書いてあることが、幼稚で、デタラメということから判断しています。その根底に、このような、危険な政治思想というものがあるわけです。
 
イデオロギーは心の面倒を見ない。
 
何を信じるかにこだわる人は、ようするに自分の宗教を宣伝したい、押し付けたいからなのだろうと思う。
 
何でもいい、という、いい加減さに、こだわる楽山は、要するに自分が一番!バランスが取れているから!正しいんだ!と、宣伝したいだけなのだろうと思います。ちなみに、宗教は、自分のものではありません。信仰のために与えられるものです。楽山に、それが無いだけです。
 
 
無思考はこだわらない

無思考はこだわらない
 
 
(2021年07月24日、再録+加筆)
 
 
 
  私の耳は
 
貝殻を耳に当ててごらん
音が聞こえるだろう
貝殻を離してごらん
やっぱり聞こえるだろう
それが耳鳴りです
 
その音に
傷つくか傷つけるか
あまり良いことのない意味が
加わると幻聴ということになる
夜独り横たわっていると
静寂は
果てしなく広がり
大きくなる耳鳴りを与えてくれる
 
でも意味はない
まだ意味がないから
慌てることもなく
暴れもせずにいられる
かというと
そうでもなくて寝返りを打ったり
独り言を呟いたり内語(ないご)したり
眠れずに叫びたくなることもある
 
そんなときだ
叫びになりたい
その一方で
果てしなく広がる
樹海の土に憧れたりする
今度生まれてくるときは
・・・・・・
生まれてこないほうがいいのか
やっぱり人間に生まれたいのか
あまり良いことのなかった年月だけど
何故か無意味に拘(こだわ)って
貝殻の日々を送りながら
耳を澄ましているうちに
耳鳴りは体の一部のように
気にならなくなるんだ
 
(2000年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山の捨ててゆく時2
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。どうか巻き込まれないでください。
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てるのに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
 
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。
 
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかし、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。アドラー教ゆずりの自己中によって、都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
 
しかしながら、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習することが出来ないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、この記事がそうです。
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
 
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
 
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔物です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。
 
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など、世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
時間に「けちん坊」というのがあるのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。
 
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
 
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
 
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。
 
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。
 
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
 
 
悪意の詭弁

悪意の詭弁
 
 
(2020年07月20日、同日一部修正)
(2021年07月23日、加筆して再録+)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
(※ 前にもアップしたと思いますが、昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・楽山については、しばしばアップすることになりそうです。)
 
 
  衰える繰り言
 
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
 
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
 
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
 
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
 
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
 
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
 
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
 
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
 
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
 
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと一致しているとは限りません。
 
 
 
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  楽山の被害者芝居2
 
 楽山日記(LD)
 『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉
 占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著
 2020年07月13日 
  を改めて批判。
 
  ※ 文末に、楽山の呆れたリツイートを批判しています。
 
 
楽山は、今までもあったことですが、カルトの被害者を気取っています。しかし、楽山こそが、訂正不能、不感不応の、カルトだと思います。柔和、謙遜、中庸、とほほ、何でも芝居してくるところに、楽山の恐ろしさがあります。
 
それらの芝居は、ことごとく、今までの経過によって否定されています。それに対して、楽山は、何も答えられなかったのです。そして、否定されたことを忘れて、また、平気で書いてくるのです。無節操と鈍麻の極みです。
 
本書は、1巻と同じく、中学生女子を主人公にした物語と、香山リカの解説という構成になっている。
物語のあらすじは、中学生女子はひょんなことから某カルト教団のことを知り、カルトの危険性について学ぶというものである。終盤、主人公の友人が、あやしげな占い師に騙されそうになる場面はスリルがあって面白い。
香山リカの解説では、マインド・コントロールの手口について次のようにまとめてある。これはすごく分かりやすい。
・あなたを待っていました。ここに来たのは運命です、などと言って歓迎する。
・これまでの人生は間違っていたのです、などとその人の生き方や考え方を否定する。
・これを信じればすべてが救われます、と新しい価値観を与える。
(『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著、汐文社、2009年、p.45)
 
嘘と詭弁と婉曲表現と同情芝居で、人の心をもてあそんできた楽山が、マインドコントロールについて語る資格はないです。カルトの、大袈裟で安請け合いの説教と違って、楽山は、常識人を気取って仲介でもするかのように、優しい言葉遣いで近寄ってきます。新手なのでしょう。
 
運命と言って歓迎、これまでの人生は間違っていた、新しい価値観を与える、こういう勧誘と脅しが、カルトの手口、ということを書いて、楽山は自らを、カルトに対峙する者、という印象を吹き込んできましたが、いちばん、怪しいのは、今、楽山その人なのです。
 
何事についても、理解力に欠けているのに、霊が分かるっぽい、遺伝子がどうの、超常がどうの、学者の本がどうの・・と書いて、知識があるかのように宣伝してきました。カルトもスピリチュアルも大好きな、霊が分かるっぽい自覚?の楽山ですが、批判でもするかのように書いています。
 
このように、意見の方向性が、バラバラなのも、楽山の特徴です。恐らく、カルト被害者に共感するように見せかけて、実際は、宗教と信仰を、軽い道徳レベルにおとしめるのが目的だと思います。そのリーダーになって、正義の味方として讃えられたい自己顕示欲が動機でしょう。
 
振り返ってみれば、自分がカルト宗教にハマってしまった時も、これと似た話を聞かされたのだった。たとえばこんな感じだ。
 
元HS信者でアンチHSを気取っていますが、この2年余りの経過では、楽山が常識人だとは、とても思えません。今までのことを訂正もしないで、ときによって、カルトの犠牲者を装い、カルトを「(笑)」を入れながら、批判めいたことを書きます。
 
しかし、霊が分かるっぽいことを書いていましたし、霊言などを引用しています。宗教と信仰についての理解は、小学生レベルの、超常ホラー趣味以上ではありません。いちばん警戒するべき相手は、カルトと心霊の妄想にこだわっている楽山です。
 
「あなたには大きな使命があります。天上界において『地上に降りたならば、〇〇様の下に集い、その教えを広め、人々の幸福のために働きます』と誓って生まれてきたことを思い出してください。あなたが今、〇〇様と出会ったことは偶然ではないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は、様々な詭弁で、キリスト教をけがし、自らを、まるで、学者であるかのように、刷り込んできました。その楽山が、白々しく、カルトの手口を言っているというのが、楽山の新しい手口なのです。実際は、楽山は、自分教の教祖です。
 
こうやって、楽山は、自分は違います、自分は大丈夫ですと、印象を吹き込んでゆくのです。このような騙し方は、まるで、悪魔の狡猾さに似ています。訂正も修正も学習もなく、平気で、なおも、だましてくるのは、良心のない悪魔性としか思えません。
 
「自らの間違いを反省し、この教えによって自己変革をしましょう。この教えを知る前と、知った後で変わらなかったら嘘です。本当の自分に目覚めてください。
「現代社会では、唯物論という間違った考え方が広まっているために、多くの人々が死後、地獄に落ちています。今こそ、正しい教え…真理を明らかにすべきときです。これこそすべての人を幸福にする教えです。この教えに基づくユートピア建設を目指しましょう」云々。
 
反省、自己変革、変わる、これらは、楽山には、全然、できないことです。ゆえに、それを、楽山は、カルトに当てはめて批判し、責任を逃れようとしてきます。楽山の、いちばん大きな悪性は、自らの非を認めず、反省をせず、一切の責任を負わないことです。
 
キリスト信仰の反省は、頼みとする方向を、世俗から、神の前に、悔い改めて、正直な祈りをすることです。決して、楽山が言うような、正しくなることでも、真理を明らかにすることでも、ユートピアを目指すことでもありません。それらは、人間には不完全にしかなりません。
 
唯物論こそ、楽山が、その曲解によって、宗教をおとしめ、人の心を腐らせるために選んだ手法であり、それによって、逆に唯物論をもけがし、進化論もけがし、自己流に、自己中に、悪用し、人々から宗教も信仰も心も奪ってゆく手法なのです。
 
改めて思い出すと、こんな主張はカルト丸出しであり、陳腐この上ないものだ。これで騙される奴なんかいるのかよと思わないではいられない。でも、ほかならぬ自分がそうだったのだから恥ずかしくてたまらない。根がどこまでも、お人好しの理想主義者にできていたので、重要感を持たせられ、向上心を刺激され、世のため人のために働きましょうと持ち掛けられて、コロッとまいってしまったのだろう。
 
他ならぬ自分が、カルトに嵌ったなどと言っていますが、これも、恐らく嘘です。楽山は、だますほうであり、だまされるほうではありません。楽山は、自分カルトの、霊も、科学も、分かっている、知っている、という妄想に酔って動いている、ということだけが表れてきたのです。
 
楽山は、恥知らずです。根が、どこまでも、悪意によって、理想も宗教も信仰も科学も自己愛の下に置いて、けがす者です。だまされないでください。
 
楽山は、信仰なんか持たずに、向上心も持たずに、世のために働くこともせずに、ゴロリと怠慢を貪って、ただ、自分の言うことを聞いておればよいと、おのれの満悦教?を広めたがっています。
 
結局のところ、宗教にしろ、占いにしろ、それによって、いい気分になったり、不安になったり、感動したりするなど大きく心を動かされたなら、そのまま突進するのではなく、ある程度の距離をとって冷静さを取り戻すことが大事なのだろう。結論を出すのはその後で十分だ。
 
ある程度の距離を取って、と言って、楽山が言いたい本音は、宗教否定であり、その矛先を、何度もキリスト教に向けながら、私の批判に答えられず、結局、自分は何でも知っている神相当のものだということを、極めて狡猾な婉曲的表現によって、植え付けようとしてきます。
 
楽山は、悪霊のブタのように、崖に向かって突進する厄病神として生まれたのでしょうか。楽山は、自分以外とは、距離を取って、信じるな、と言っているわけです。楽山の宗教観は、小学校レベルの幼稚なものであり、そこになびいたら、知性も感性も破壊されるでしょう。
 
信仰には、距離を取るとか、信じ過ぎるとか、信じ足りないとかは、ありません。
 
人間らしい、潤いと温もり、悲しみと愛を、知る心があれば、心に響くものです。
 
響くという共感性に、過ぎるとか足りないとかはないのです。
 
楽山には、心がありません。だから、何も響かないのです。
 
楽山は、自分の心無いカルト思想を基準に、宗教と信仰を語っていますが、はっきり言って、楽山については、本当の信仰に触れたことが一度もない・・ということが明らかになってきただけです。だから、信仰を語っても、的外れだけがあらわになってきました。
 
宗教側は「天変地異が迫っている」「早くしないと大きな不幸が起きる」などと急かしてくるかもしれないが、そんな脅しに耳を貸してはいけないのだ。こういうことは当たり前のことだけども、宗教と出会って、「これは間違いなく本物だ!」と感動してしまうと、ついつい忘れてしまいがちなことではある。恥ずかしながら自分はそうだった。この点はよくよく反省したい。
 
「これは間違いなく本物だ!」とカルトを信じるのは、話の辻褄にだまされているだけで、本当の感動ではありません。人間らしい良心のない楽山の勝手な見なしに、だまされないでください。批判者を装って、自分の妄想自己中思想に染めようとしているのです。
 
楽山は、だまされるほうではなく、恐らく最初から、だますほうとしか言いようがありません。楽山は、悪意の、カルト、偽善者、自己愛性人格障害、教祖願望、霊能者気取り、有識者気取りを持つ、凶悪で狡猾なカルト煽動者です。
 
楽山の言語は、一見、物わかりのいいような語り口ですが、結局、理路は詭弁であり、情緒的感受性に欠けて、洞察のない屁理屈だけしか持っていません。満足するのは、楽山だけであり、誰も、何も、深くて良いものを受け取ることの出来ない虚偽だけにつながってゆきます。
 
楽山の言は、ボンヤリ言語と私は名付けていますが、柔和に見せかける婉曲表現と、謙虚を装う芝居で出来ています。この記事も、中庸(ちゅうよう)を気取っていますが、実際は、何も理解しないまま、自説だけを吹聴する、単方向の、軟派カルトの楽山の悪知恵に過ぎません。
 
楽山には、宗教を語る理路がありません、信仰を語る良心がありません。ゆえに、楽山の語る宗教と信仰には、節操も敬虔も、他にないという真剣さも、感動を呼ぶ説得力も、存在しません。
 
楽山には、小学生レベルの、軽佻浮薄の思い付きしかないのです。そこから、全く、成長していないのです。だから、読んでも、見栄と執拗さ以外には皆無なので、疲労と徒労が残るだけです。
 
(ネットより)
けいちょう-ふはく【軽佻浮薄】
考えや行動などが軽はずみで、浮ついているさま。▽「軽佻」は落ち着きがなく、よく考えないで言動するさま。「浮薄」は浮ついて軽々しいさま。信念がなく他に動かされやすいさま。「佻」は「窕」とも書く。
 
楽山は、真面目に真実を追求するブロガーとも、趣味を書くブロガーとも、日常を書くブロガーとも、全く違う人種です。妄想的結論から始まって、詭弁から破壊に至る害毒日記です。
 
恐らく、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害のために、生きてゆくのに、芝居をするしかなかったのかもしれません。しかし、それは無責任であってはならず、無反省であってはならないものです。どちらも楽山は無視して、人を傷つけるだけのサディストになっています。
 
性悪の根腐れの楽山に声を掛けるなら、今までも、これからも
 
・・あっちに行け・・だけです
 
人生を大切にしたいなら、決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
※ 
 
楽山は、神がいるなら神が悲劇から救うはずだから悲劇は起こらないはずなのに、実際は救われない悲劇があるのだから、神はいないという言い分のようです。楽山の考える幸・不幸の考えを、神に向けて決めつけていることです。
 
信仰からではなく、心からでもなく、楽山は、物と事実だけを欲しがる欲望の人です。そういう人が、声高に、無神論なるものを吹聴しています。人は、有神も、無神も、証明できません。形無きものは、すべて、心の中で活きています。それが分からないのが、楽山のような心無き者たちです。
 
楽山の大きな罪そして偽善は、神に代わる救いを何も提供できないことであり、さらには、絶望している人に、神はいないから絶望しかないと、傷に塩を塗るようなことを言っているに等しいということです。絶望を解決できず、いかなる救いも分からない人です。
 
信仰者としては、どうしようもない地上の世界だからこそ、神という最善の絶対者を信じ仰ぐことに意義があるという主張であります。そして、救いがあるとは思えなかった人が、キリストの愛と共感に導かれて、祈りにおいて神の前の正直さだけを捧げて生きているのです。
 
神は、その全能を、人の卑しい欲望の思考で分かるように示すことは、なさらないだろうということです。神の救いは、地上だけでもないかもしれません。例えば、地上以外のことについて、反キリストの楽山は、ホラー以外、何も語れないにもかかわらず、神について得々と語る偽善者です。
 
神と人を引き離そうとする反キリストの幼稚で次元の低い話に惑わされないでください。信仰者も、あの世の希望だけにすがっているわけではありません。理屈ではなく、既に、地上において、キリストの気高さからの共感という賜物を恵まれて、キリストを忘れられない人が、信仰者です。
 
 
(2021年07月22日)
 
 
闇に潜む者

闇に潜む者
 
 
(2020年07月21日、同日一部修正)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
kazu 訳あり3児育ててます(^^)
@kazu75543205
精神科から親子がポロポロ泣きながら出てきた。子に病名がついたらしく、母親が「今まで叱ってばかりでごめんね。そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいいよ。あなたはあなただからね。お母さんがいるうちは全力であなたを守るから!」と話していて、盗み聞きした私号(泣号)(泣汗マーク)
午前11:24 · 2021年7月19日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
自分の精神的利益のために都合がよいと思ったら、人の迷惑お構いなしに引用してくる楽山を批判しています。楽山は、どこまでも正義の味方のふりをして、背伸びして、背伸びして、自分の言うことは意味があると思いたくて、顎を外しかけています。
 
楽山が、これを引用するのは、「そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいい」というところでしょう。楽山は、自分も、こう言う脳で生まれてきたから悪くない、そのままでいい、と言いたいのです。違いが分からないのは幼稚すぎます。
 
これまでも、言葉面だけ都合のよさそうな話を、本から、ネットから、引用してきた楽山です。反省と修正のための知性と感性が足りないことの証明です。言葉面だけで、直感がないのです。自分で弁明できないから、人の口を利用して、その目的は、自分の正当化・・なんて、呆れた話です。
 
不可抗力の過ちや病気と、悪意からの悪行は違います。楽山は、意志を持ち、その意志によって、嘘を吐き、詭弁ばかりを弄してきたのです。これが悪くないなら、この世は、悪人の天国になります。楽山は、だんだん、程度の低い詭弁を弄するようになっています。
 
過ちを認めて、親が責任を負うのと、楽山のように、非を認めず、無視して、無反省、無責任に、悪行を続けるのとは、全く違います。大人の年齢である楽山の責任を負うてくれる人はいないでしょう。この話を、お涙ちょうだいにおとしめて、楽山は、恥ずかしくないのでしょうか。
 
楽山が、他者を引用するとき、必ずと言っていいほど、楽山の都合に合わせた暗示か詭弁の作為が働いています。読者が読んで何となく良い話として受け入れることを楽山は狙っているのです。どこまで、いつまで、言葉の盗人家業を続けるのでしょう。最低だと思います。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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