ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年07月

 
  楽山の自己正当化2
 
 『死なないつもり』横尾忠則著
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
気に入らないことは全部無視して忘れて、自己正当化をせずにはおれない楽山の体質が表れています。自己正当化に、有名人や学者の言を利用して、都合の良いことだけを受け取ってゆく生き方だから、言動の、いたるところに、現実逃避と、真実から目を背けてゆく姿勢が表れてきます。
 
タイトルが微笑ましく、面白いと思ったので手に取ってみた。内容は芸術や人生についてのエッセー集であり、明るく前向きで楽天的な話題が多い。タイトルから、「死」や「老い」について書いてあるのだろうと思ったのだが、いい意味で裏切られた気分。
著者のものの見方は、自分から見るとすごく新鮮だ。たとえば、世間的には「飽きっぽい」ことはよくないこととされることが多いが、著者からすれば「飽きるということは、自分を守るためにも、自由になるためにも必要なこと」(p.59)だという。たしかに、飽きっぽいとは、一つことに囚われず自由だ。
 
飽きっぽいのと、故意に無視するのとは違います。人の言うことを無視して、それを、囚われない生き方と思ってしまうと、本気で裏切られ敵対され、人間をやめることになるでしょう。自由を取り違えた楽山が、また、自己中をさらしています。
 
また著者は「理屈をこねないで、無頓着で暮らすのが一番です」(p.203)という。その理由は「『なぜ』に答えるためには、物事を理屈で考えていくことになります。それを繰り返すと、どんどん細くなっていって身動きが取れなくなる」(p.202)からという。これは耳に痛い話だが、それだけによく分かる。
 
「なぜ」には、情緒的動機もあります。かつ、楽山の理屈は狂っています。つまり、理屈だけではなく、人間としての心をもって考えないと、楽山のように字面だけの小理屈になって、嘘と詭弁で、自己正当化しながら自分を慰めるだけで、人生を渡れなくなるでしょう。
 
また、無頓着がいいと言っても、楽山がしている無視とは違いますし、自分の仕出かした悪と偽善を、自分の非を、忘れてゆくような無反省になったら、成長と進歩がなくなり、荒廃した人生を送ることになります。今回も、自己正当化の癖が抜けないようです。楽山の腰は抜けたままです。
 
反省する気がないために、このように、他者の意見や人生観や書籍などから、都合の良い言葉だけを拾って来ては、自分はこれでよいと思い込んで、自己正当化し続けてきたのが、楽山の生き方なのでしょう。自己愛の我執から逃れられない楽山です。いずれは、100%否定される日が来ると思います。
 
「老齢になると自然に欲望も執着も消えて、/好きなことだけが残っていく。/隠居の本当の意味は/好きなことで忙しくすること。」(p.127)というのは、理想的な年の取り方だ。三浦綾子のエッセーで、認知症になった老クリスチャンが、昔のことはみんな忘れてしまいましたがイエス様のことだけは忘れませんと言っていたという話が、ずっと記憶に残っているのだが、この話とどこか通じるところがあるようでもある。
 
救いを忘れないのと、自我に執着するのとは、全然、違います。ここでは、キリスト者の例を出して褒めていますが、本質は、反キリストであることが、今までの言に表れてきたのです。宗教も人生も、おもちゃのように、自分が即席に楽しめることだけを是としてきた楽山です。
 
だから、無反省に、こういう白々しいことも書けるのでしょう。学ぶ姿勢がなく、利用する姿勢しか持たないと、こうなってしまうということです。都合のよいことだけを、乞食のように拾っては語っておれば、いつか、忘れている都合の悪いことが、災いとして、まとめて迫る時が来るでしょう。
 
自分は悲観的な面があるので、長く生きるほど辛い記憶が積もり、圧し潰されそうな気分になることもあるので、年を取るほど純化されて好きなことだけが残るというのはすごく憧れる。
 
楽山は、しんみり悲しむことが出来ない人だと思います。悲観的とか負の感情を表現したり、反省という言葉だけ使っていても、その発言が記事の流れや文脈と一致しておらず、言葉だけであり、実際には、非を認めることがありません。
 
それで、根拠もなく「年を取るほど純化されて好きなことだけが残る」という文言を、そのまま受け取って悦ぶのです。総て自己中心からの他者の発言の悪用としか思われない楽山の文章です。
 
「圧し潰されそうな気分」になることもないままに、安穏として鈍化するだけなら、押しつぶされる時が来るのを、気づきようもないでしょう。最後の圧力は、肉体的か、精神的か、分かりませんが、恐らく、想像を絶するものだろうと感じます。
 
何事かを極めた人物の言葉には深いものがあるというけれど、本書を読んで本当にその通りだなと思った次第である。
 
そして「何事かを極めた人物」と、べた褒めしても、本を読んだ感想でも、自己中の欲望に強引に当てはめて言っているわけで、楽山の発言において、深みのない特徴として表れてくるために、信用できない人物なのです。こうはなりたくないと思っています。
 
その通りと言いながら、身勝手な解釈で、見習うことも出来ず、極めることも出来ず、流れに任せて、罪の報いが押し寄せてきて、その深さを教えられるのでしょうか。その時、楽山の顔は、膨らむでしょうか、しぼむでしょうか。果てというものを、自己愛のために、全く見ない楽山です。
 
 
信仰は、神という、不可知ながら、絶対正義の存在を知り、人間が、神の前に、自らを低くすることで、正直に、非を認め、罪を認めて、反省し、悔い改めながら、癒されて成長する道であります。
 
その心の器という感性が、まるで見られない楽山は、信仰に対して、条件を付けたり、褒めたり、けなしたり、悪意をもって対したゆえに、全く主体的な説得力を持ち得ない迷路の住人から、恐らく、楽山の大好きな魔道の徘徊老人となってゆくのです。
 
しかも、自尊だけは高いために、厚かましく、執拗に言い続けるので、きわめて迷惑であり、福音伝道の妨害者として、批判を向ける対象でしかなっています。批判を続けることに意義があるのは、できることをする、という教えによるのであり、それ以上は出来ないという実感によるものです。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
深い情感がなく、共感性がない。後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、同情を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無で、発言に説得力がない。対話形式とか、記事の体裁を変えて書いていましたが、独り芝居を書いても無駄なのです。
 
さらに、政治的には、右翼思想に傾倒しているようです。人の命を粗末にして破壊をもたらす戦争が好きなのでしょうか。右翼青年だったのでしょうか。A級戦犯に賛同しています。右翼思想と、カルト思想とは、自己愛・自己中という点で、接点を持つのかもしれません。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
 
自己愛性人格障害NPDの人と、交流してはいけません。NPDは、こちらの言うことを受け取っていません。ちゃんと聞いているという芝居をしているだけで、理解力はないと思ったほうがよいです。いくら説明しても、同じことを何度も言ってきます。
 
NPDは自己中なので、嘘も平気で吐いてきますが、それよりも、これは前に反論したじゃないか、説明したじゃないかと、自分がイライラし始めるのを自覚したら、しかも、それが、繰り返されるようなら、相手がNPDである可能性を考えるべきです。
 
こちらは、楽山の書く文章に逐一批判を書いています。楽山が、それを無視していいと思うのは何故でしょう。楽山は、今も個人の自由だと思っているのかもしれません。何度も言ったのに、未だに、自己中と自由の区別がつかないのです。
 
つまり、知性と情性が大人として発達していないからです。自己中と自由の区別もつかないのです。そういう意味で、楽山は、知恵遅れなのです。このような人は、一人前の社会人として生活することは不可能だと思います。
 
議論がどうとか真実追求がどうとかの問題ではありません。精神衛生の問題なのです。病的自己愛者を、うっかり相手にして、徒労と疲労だけが続けば、こちらの人格が破壊されます。NPDとの無駄な言い合いは、きっぱり避けて、心の健康を守るために、楽山に関わらないでください。
 
 
※ 
 
たとえ孤独のうちにいても、人間らしい感性と分別があれば、自然を見て、また、メディアを通して、温もりと潤いのある人生を過ごすことは可能です。
 
その恵みを、人生の早期に放棄して、自己中に固まってしまうことのないように願っています。
 
 
生きながらに滅びゆく者

生きながらに滅びゆく者
 
 
(2020年06月30日)
(2021年07月16日、再録+)
 
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
  夜の切り口
 
夜に小さい傷をつけておいたのは私
伝言を刻み
遺言さえしたためたつもりで
死んでも星にも
星屑にもなれないけれど
空を青く見せている
大気の塵の一つぐらいには
込めたいものがあって
静けさと闇のうちにと
明るい電灯の下で
そっとペンを下ろした
 
薄っぺらなカーテンの縫い目の間から
朝日が星のようにきらめいている
と見えたのは視線が動くからで
日の光はまたたきも明滅もしない
射るように貫いてくるばかり
あんなに明るかった
つけっぱなしの電灯が
色に過ぎないほど褪せている
朝に引き渡された
私に傷をつけておいたのは夜
 
 
(90年代か)
 
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと完全に一致しているわけではありません。
 
 
 
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  超常と日常2
 
 
聖書に書いてある超常現象
つまり
処女懐妊
物や肉体の奇跡
肉体の復活について
信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。
 
何故なら
超常現象の奇跡を信じても
そういう奇跡は、
少なくとも、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで
もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから
超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。
 
神の超常は
神に任されることです。
 
人が超常にこだわることは
日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は
神のみのわざです。
神のみに任されることです。
人が自分の都合で
神のわざを信じ込むのは
神のわざを決めつけることであり
不遜というものです。
 
心の奇跡は悔い改めであり
神と人との関係において起こることです。
心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。
 
人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を
信じますと言っても、
信じると何が起きるというのでしょう。
 
処女のまま妊娠しますか、
何か超常現象を起こせるようになりますか、
死んでも肉体が蘇りますか、
誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。
むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。
地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。
その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。
信じたら超常の奇跡が起こると言われても
実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。
 
病気になってもすぐ治るのでは
病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
超常に執着することで生じる鈍感さは
日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。
 
奇跡に頼ってしまえば
人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから
奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは
神の御心に任されていることです。
 
信仰は
信じれば奇跡が起こる
という交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は
怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると
もっと考えるべき日常のこと
人間としての節操や
愛と共感そして真実の追求など
人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが
超常現象を信じることは
思考と感情をゆがめてゆくのです。
大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら
驚きを持って見るでしょう。
それで命が助かったら感謝もするでしょう。
しかし、驚きと感謝以上にはなりません。
そういう奇跡で人は成長しません。
私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
 奇跡に頼って
 過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
 その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
 理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
 ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
 その上にあぐらをかいて、
 もはや人間とすら思えない状態になっています。
 この人のどこが救われた人なのでしょう。
 滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は
超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。
 
 
私たちは、私たちに与えられている良きもの、
つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において
それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。
多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、
キリストに対して
正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。
彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
 聖書において
 教条と戒律主義に陥った者たちは
 儀式の形式を守ることで
 良心の実質を疎かにして
 守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
 彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
 選ばれた者という自覚に思い上がり
 そしてキリストを殺す者となり
 神の怒りを買いました。
 
信仰は
共感の可能な心によってのみ受け取られ
悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。
どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、
神のごとくであることを求めない敬虔によって、
代わりに人間らしい心を与えられ、
育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるには、
徹底して、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 
超常と日常と闇

超常と日常と闇
 
 
(2020年07月06日)
(2021年07月15日、再録+)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
(2000年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考になるかどうかは、私には分かりません。
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 ツイッターでも
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業として、何を言われても、何事もなかったかのように書いてくる無視力ということです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、また批判しなければならなくなります。
 
*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
『ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る
 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 
*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。
 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 
*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。
 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。さらに、「反省」「とほほ」なら何も書かないことです。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明しています。根腐れとはこのことで、その分、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
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  人のことばかり語る楽山
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 
*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。
神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、
 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約2年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 
仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。
 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が説明していることになります。
 
これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。
 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 
*神秘体験の影響力(第三者)
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。
神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。
 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように干されて捨てられてゆく経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 
これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。
 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの人なのです。
 
大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。
 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 
*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。
 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 
しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、
 
「乗り越える」という言い方にだまされないでください。こういう企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」ようとするのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
どう「乗り越える」というのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える大きな要素なのです。
 
もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。
 
霊が分かるっぽい楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知性になり、感性が不感性になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくく、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚から、真実の言論から、はてしなく遠ざかってゆくでしょう。
 
楽山のような人は、恐らく、無反省だから何も学習せず、無責任だから何もはっきり言わず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないから自分はバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、人間ではないです。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 
聖的独り言

聖的独り言
 
 
(2021年07月14日)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
(2000年代か)
 
 
 
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  スルーの詭弁2
 
   スルーする人、しない人。2019年06月11日
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41551426.html
   楽山のブログ、楽山日記(LD)の記事を改めて批判。
 
 
楽山は、気に入らないことは無視する、という自己中心カルトの、アドラー教を宣伝してきましたが、音楽家らしい人の記事で、センスが物を言う音楽と、節操が大事な宗教とを、同じように扱って、いったい何を言っているのでしょう。
 
スルーと言って、まともに見せかけても、人の意見を無視する楽山の独善は、最悪、最低です。
 
>ツイッター見てたら、次のツイートが流れてきた。
>「批判はスルーすべし!」という考え方のようだ。
 
楽山は、自己肯定をもって、スルーする力が大事であるように言っています。しかし、お手本として挙げているのは、自分の才能に自信を持つことが必要なミュージシャン、ギタリストなのです。こんな常識はずれな言い分が通用すると思っている楽山は、異常です。
 
楽山は、軟派カルトであり、他者を無視する不感不応の自己正当化に、また詭弁を弄しています。楽山は、自分の宗教の才能に、芸術みたいに自信を持ってしまったのでしょうか。はっきり言って、これは、傲慢な自惚れ教カルトにしかならないのです。楽山は異常です。
 
宗教と信仰は、つまり、神を信じることは、才能ではありません。楽山が持たない心の問題です。楽山は、成り立たない自己正当化のために、詭弁と嘘しか言えないのです。
 
ここで、ハタと思い出したのは、
ケリーサイモンさんは批判には、
きっちり反論する人だったということ。
 
はっきり言えることは、楽山は、いかなる批判にも、「きっちり反論」したことがないということです。楽山が、ボンヤリ言語の婉曲と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかすのを、もはや、通用させてはいけません。
 
音楽や芸術の場合、感性の才能というのは、人によって質的にも違うのでしょう。自分の才能を疑っていては前に進めない分野だと思います。しかし、楽山のやっていることは、宗教そして信仰という公の義と議論のあるべきことです。少なくとも、節操や分別の必要なことなのです。
 
楽山の見当違いと的外れは甚だしいものです。宗教と信仰にも感性は必要ですが、それは、人並み外れていなくてもよいことです。むしろ、共感をもって、公共に向かって、自分の考えを発表するべきであり、人の意見を無視してよい分野ではないのです。
 
恐らく意図的なのでしょう。今までも、ボンヤリ言語で、他者を無視することを刷り込んできました。そして、批判者に対しては、嫌味を言って、保身しようとしてきたのです。楽山は、正面を向くことがありません。狡猾に企み、疲労物質をもたらしてきます。
 
宗教と信仰において、気に入らないことは無視してよい、などというアドラー教の信条は、語るべき何ものも持たない者の、言い逃れに過ぎません。それを宣伝していたのが、楽山です。その通りに、自らの罪業によることでも、気に入らないことを無視してきました。
 
その正当化に、またしても、ボンヤリ言語で、ごまかしながら、アーティスト・ミュージシャンをあげて、それと同じような自身の感性の世界を主張するとは、ナルシシズムも、ここまでくると、手段を選ぶとか題材を選ぶとかいう常識さえも失ってしまったようで、呆れます。
 
つまり、楽山には、文脈を考えて、文章に仕上げる知性と感性が、まるでない、あるいは、意図的に操作して、読者に刷り込もうとしているとしか思えません。体質のために知性も感性もどんどん鈍化してゆく楽山に引き合いに出されたほうが、いい迷惑でしょう。
 
>でも記事を読み直してみると、
>あんまりくだらん悪口は、スルーするとしてるかな。
>通報して終わりと。
>こうしてみると、やっぱり、スルー力って大事なんだな。
 
この辺が、芸術と音楽を悪用して、自分を同じ根拠に立っているかのように見せかける詭弁でしょう。楽山は、こういう企みに満ちた根っからの病質的虚言者です。
 
>ではどうしたらスルー力をみにつけられるかと考えてみると、
 
ここでは既にスルーすることが正しい?という前提になっています。音楽家の個人の必要で語られ、誰も認めてはいないのです。楽山は、このように、理由があってスルーすることと、総て無視することという違う意味を、表面的な類似によって同一視して、成り立たない詭弁を捏造します。
 
>どうも圧倒的な自己肯定力が要になってそうではある。
>あとは、世の中はそういうものだから、しょうがないという諦観かな。
 
楽山の圧倒的な自己肯定力は、人間とは思えない無節操で不感不応によるところの、他者を圧倒する傲慢な無視の力であります。楽山には、読む限り、圧倒的な、いかなる才能も見い出すことは出来ません。霊が分かるっぽいという霊能者気取りなどの、気取りばかりです。
 
芸術家や音楽家と同様の独自性を全く持たない楽山が、言葉だけ借りてくるのは、滑稽だが、人間関係においては最悪です。これで、気に入らないことは無視する、というアドラー教の信条をすり込んでくる人です。やむを得ない、しょうがない、という言い訳まで挟んでいます。悪質です。
 
>自己肯定と諦観って、
>正反対のもののような気がしないでもないけど、
>どっちも大切のようだ。
 
ここで、変な理屈からの感慨を述べて、楽山が言う自己肯定は、この場合、我執の自己正当化を大切と言っているのです。覚えておいてほしいです。楽山は、こういう人なのです。自分の都合しか考えない人です。楽山ブログは、手段を選ばない自己中宣伝ブログなのです。
 
自己肯定と諦観は、世の中の壁に当たると生まれやすいものですが、楽山は、誰の何の壁にも当たることなく、都合の悪いこと総てから逃げているだけです。したがって、自己肯定でも諦観でもなく、卑怯な遁走であります。
 
罪と非を認めず悔いることも改めることもしないシャロームや、荒らしでナルシシストの理屈倒れの易坊に、かなり共通しています。楽山を加えて、この3者には、同一人物による、危険な罠だらけの成りすましという疑惑があります。
 
正々堂々ということから正反対のところで、人を欺こうとする者は、自らが設けた罠に嵌って、ますます、その卑怯な詭弁と、暗示による悪魔的な優しさ気取りの欺きを増悪させてゆくようです。だんだん、本性を表し、恐ろしさを増してくる楽山です。
 
楽山、シャローム、易坊に、どうか近づかないでください。感性においても思慮においても、身の程も弁えず、引用の自己肯定を勘違いして、スルーという言葉で無視にすり替えて美化し、都合の悪いこと総てを無視し、性懲りもなく企んで書き続ける、という、とても怖い者たちです。
 
付き合うと、恐らく、なんとなく、楽山を肯定し続ける人がいるかもしれません。それは、人格を自分で破壊する結果になります。つまり、仲間になってからでは、遅いのです。それに、いかなることにも、楽山は、責任を負う気はありません。
 
楽山の壊れ具合に、お手本として出されたアーティストが、いい迷惑でしょう。楽山は、他者に対して、言い方だけ白々しい丁寧さですが、侮辱しているのと同じです。こういう記事を、ボンヤリ言語で、さらっと書いて、まともなつもりでいるのは、きわめて異常です。
 
人の迷惑を考えない楽山には、誰も近づかないでください。塵、ホコリ、汚れの類だと思って、それこそスルーしてください。関わって、得られるものも、与えられるものも、良きものは、何もありません。楽山ブログは嘘吐きブログと結論してよいと思います。
 
 
嘘つき自己中

嘘つき自己中
 
 
(2019年06月22日)
(2021年07月13日、再録+)
 
 
 
  暗鬼
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
 
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
 
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考になるかどうかは、私には分かりません。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
動画を見たけど、またもや他宗教の神々を低くして、エル・カンターレが一番偉いといってるようだ(笑)
午前9:07 · 2021年7月11日·Twitter Web App
 
「(笑)」うことしかできないようです。恐らく、真面目な批判など、したことがないのでしょう。こういう根性で、楽山は、キリスト教の神を否定したのですが、不真面目で、怠慢で、いい加減で、ゴシップ好きな者が、成長につながらない揶揄だけをしてきたに過ぎません。
 
自己中で、いちばん偉そうにしている、批判者気取り、宗教家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなのは、楽山です。ころころ変わるような揶揄には、どこにも真実に向き合う態度がありません。今も、まだ、人も神も下に見て、何か言えると思っている、醜態のピエロです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
日本の悪いところばかりでなく、よいところも知ろう、日本らしさを大切にしよう、日本も主張すべきことは主張しようとかならまだしも、
HSは、日本が一番偉い、日本は他の国々よりずっと上だと公言して憚らないからヤバい。しかもその根拠は霊言だという…(笑)
午前9:16 · 2021年7月11日·Twitter Web App
 
楽山は、他者のことばかり言います。楽山は、自分を見ることが出来ません。楽山は、日本らしさも、人間らしさも、全く知らないで、人に教えようとします。人の言うことを聞く気のない楽山に、人に何かを教える資格も伝える資格もありません。だから「(笑)」うしかないのでしょう。
 
楽山は、自分が他の人々よりずっと上だと言い続けているようなものです。ゆえに、いつも、他者のことを笑っています。その結果として、人の言うことを聞いていません。霊が分かるっぽいつもりの子供時代からです。霊が分かる言っても、楽山は、人間が分からないままなのです。
 
楽山は、人の言うことを受け取る器を持っていないのです。もはや、オートマチックに、楽山の言うことの大方が、楽山に返ってゆくのですが、それに全然気づかない楽山です。人のことを言い、自分を見ないということの、持続的な報いが向かってゆく地獄の方向を表し続けています。
 
 
 
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  楽山の悪用2
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子著
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
キリスト者でもない楽山が、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 
「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
 
楽山は、反キリストですから、「その通りだと思う」ことはないと思います。勝手に、懐疑という言葉で、いつもの短絡理路によって、我が意を得たりとばかり、言っているに過ぎません。ただ否定したいだけの楽山は、言葉の表面に反応していますが、児戯に過ぎません。
 
キリスト者の懐疑は、今までの楽山の記事に書かれたような低劣な短絡ではなく、もっと深く、もっと真剣なものです。そういう懐疑には、この世の必然があり、試練があり、むしろ目を背けることのほうが、罪深いと言えるでしょう。そこから、信仰は新しく成長するからです。
 
実に余計なお世話なのです。反キリストである楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。
 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。楽山は、何も明らかにならず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を刷り込む輩です。
 
そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・嘘だと思います。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりませんが、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。99%も100%もありません。定量で表せるものでもなく、喩えられるものでもないです。
 
楽山は、自身の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊のために悪用するような、楽山の言を信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。人間の信仰は、いつも、不完全、という自覚が必要です。
 
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。
 
信仰を字面の小理屈で語り、否定したり、肯定したりして、しかも、嘘を吐き、かつ、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしている楽山は、求道する心がないために、それこそ、1%の信じる心の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
今まで言ってきた嘘や詭弁を、チャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、総て、発言の断片だけの悪用であろうと思います。
 
ろくなことは書けないくせに、狙いが、反キリストであり、かつ、とても、卑しいからです。楽山の、無反省と無責任から他者の言葉を利用すれば説得力があるじゃろ・・という気安い企みに、だまされないようにしてください。信仰は、最終的に、神に評価をお任せします。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山の言は、大方、都合に合わせた芝居なので、信用するとひどい目に遭う、という性質のペテンであります。
 
信仰は有無であります。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この1年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、反省しない限り、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)に出会って、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。腐った性根は、それぞれの記事に表れてきました。シャロームは所在不明ですが、楽山は、今も、時々書いてきます。罪悪感と羞恥心がないからです。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に、書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類です。
 
理路が全く成り立っていません。楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。
 
人のことなど言う資格の全くない人であり、そういう状況に、まるで、気づかない病者であります。いつまで、恥を重ね、罪を重ね、偽善を重ね、悪意に悪意を重ねたら気が済むのでしょう。他者の、特に有名人の言葉を悪用してまで、神を否定したいだけの人です。
 
楽山が認める信仰は、信じ過ぎるのもよくない、信じないのもよくない、という、とても、いい加減な、無理解な楽山の、腐った理路の中の、平板で実体のない粗暴な道徳律に過ぎません。しかも、そういう、ありふれた道徳さえ、楽山は守っておらず、嘘と詭弁を繰り返し書いてくるのです。
 
福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。
 
今度は、信仰を、自己催眠と言い出しました。楽山というカルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないまま、人に意見してきます。楽山に出会うこと自体が、不幸の始まりなのです。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性・性癖・悪意があります。ゆえに、この浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきました。
 
まさに、楽山は、我が強く、我欲・我執となり、いつまでも、いつまでも、自らの過ちを認めることなく、自分が「正しいと判断した自分は正しい」という循環に陥って、反省することなく「自分には本質を見抜く眼力がある」という妄想的確信から書き続ける亡者となっているのです。
 
自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、
 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、馬脚をあらわして、楽山の嫌らしさが増幅されてゆくだけなのです。しかし、恐らく、嘘です。楽山は、もはや、嘘を吐いて、自分を保つしかなくなっているのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習せず、感動経験のない、鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機で、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 
それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。
 
信仰は、思い込みではありません。思い込み信仰は、人間を破滅に導くでしょう。聖書において、救われた人々には、思い込みはなく、悲しい現実がありました。そういう心の危機において、キリストに出会っているのです。自分を、何か言える人と思い込んでいるのは、楽山です。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型生物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、ということでしかありません。
 
こちらとしては、楽山の、言い訳がましく、またしても、人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ、批判を貼りつけて否定してゆくしかない、という成り行きになっています。
 
自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。
 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の詭弁を平気で言い続ける、人の間違いを言っても、自分の間違いを真摯に認めたことが一度もない、というような楽山には、出てくる文章ごとに、批判を当ててゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という、私が関わってきたところの、約2年以上の履歴が、積み重なってきました。もう、恐らく、楽山が、まともに戻る可能性は、絶望的ではないかと思っています。
 
楽山が、シャロームの反キリストの信条に賛成したのが、実に、遠い昔のように思われますが、今に至るまで、訂正などは、一度もしたことがないのです。芝居好きの楽山と、シャロームは、キャラを変えていますが、同一人物の成りすましではないかという疑惑が続いています。
 
他者に頑張ってほしいと言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも、図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる精神の詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者に、一切、妥協してはならないのです。
 
そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。
 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、楽山の無反省と無責任に気づいた後、とんでもない人だと気づきました。もう、誰も、楽山に、だまされてはいけません。
 
楽山は、こちらの理路を混乱させて、じわじわと精神的な拷問のような疲労だけを与える人であり、何の実感もなく、字面のきれいごとを並べ、高慢によって増長し、経過と結果において、さらに情緒障害を来たして、気色の悪い芝居で欺いてくる口先だけのペテン師です。
 
 
詭弁・欺瞞・誘導

詭弁・欺瞞・誘導
 
 
(2020年07月01日)
(2021年07月12日、加筆して再録)
 
 
 
  楽な痛み
 
何もしない日
何かしている
楽しくはない
ぴりぴりと痛む
楽だが
気楽ではないこと
後頭部だろうか
ずっとぴりぴり
ピリオドが打てない
 
 
  失意
 
失意の意思を想う
外を見るための窓は
視野を四角に区切り制限している
その死角の向こうを
実は補って見ている外
 
失意の狭窄に補える
円(まど)かなる空と雲のような
意思があるなら 失意よ
もはや緩急はなく
寒暖は滅却され
沈めるために空を見たい
 
 
  病める「べき」
 
「べき」は頭が痛い
到達点や目標は気が遠くなりそうだ
苦痛にしかならない重荷だ
何の癒しにも励みにもならない
暇は腐るほどあって
そのまま腐らせている
「べき」にも無数のステップがある
今日のステップ
今のステップ
短く低い身近なステップ
暇は腐るほどある
それはよろしい
そのままを何か
読み書き
一章あるいは一節
一頁あるいは一行
祈り
小声あるいは内語
思いの丈(たけ)あるいは一言
「べき」のステップほんのちょっと踏んで
休んでいる
暇は腐るほどあって
大方腐らせている
 
(90年代か)
 
 
 
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