ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年08月

 
  楽山の妖怪フェチ2
 
 
スピ系、幽霊、霊感、そして、妖怪を愛することについて、趣味にとどまるならば、批判する必要はありません。しかしながら、楽山は、リアルの人間関係においては、人の意見を聞かないで自分の言い分だけを図々しくネチネチと、超常の筋書きを並べ続けるという性癖があります。
 
それが、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝となり、スピ系讃美、反キリストとなっていて、さらに、深いテーマについて書いてゆく思慮と弁えを持たないで、雑に、乱暴に、評論家気取りで書いてくるので、一般の読者を毒する誘導として批判対象となり続けています。
 
この記事では、人間よりも、妖怪好きの楽山が、はっきり表れています。楽山が、人間のことを深く考えることをしないのに、妖怪という空想の産物に向かう嗜癖が明らかとなっています。
 
真摯に、かつ、謙虚に、深いテーマを考える、という姿勢を持たず、いかなるテーマも、人をひたすら誘導し、だましてゆく、傍迷惑な人食いのカルト妖怪みたいになっているのが、楽山です。
 
その分、人間性を軽視し捨ててゆく慢心だけで書いてくる人間離れの鈍い記事は、決して一般に語られる面白い妖怪話として読むことは出来ません。
 
 
 『日本現代 怪異事典』朝里樹著
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 
 
先般ひさしぶりに図書館に行った際、タイトルにひかれて手に取り、しばらく前に映画で見て以来ずっと気になっている隙間女を調べてみようと開いてみたら、五十音順だけでなく、類似怪異、出没場所、使用凶器、都道府県別の索引も完備されていて驚かされた。仕事の丁寧さ、細やかさは有り難くもあり、どこかおかしくもある。
 
隙間女という妖怪のことが、ずっと気になっているそうです。楽山は、今まで、宗教について書いてきた、おおよそ、偏見と芝居としか思えないような曲解について、何も訂正しないままであります。
 
せっかくなので隙間女は五十音順ではなく、出没場所索引で探してみることにすると、「隙間」という項目はすぐに見つかった。隙間には隙間女だけでなく、隙間男というオバケもいるらしい。人間社会が男女平等になれば、それに連動してオバケ社会もそうなるということか? 他には、三センチお化け、隙間の目、ヒラノといったオバケもいるようだ。こんなにオバケがいるんじゃ、隙間はうっかり覗いてしまわないようにこれまで以上に注意しなければならん(笑)。
 
うっかり覗いてしまうどころか、人間性を失うほどに、超常と霊に、のめり込んでいる楽山です。霊が分かるっぽい自覚の楽山にとって、趣味ではなく、空想と思いつき以外、語れるものがないのです。そのような在り方で、人間の弁えを持たないで、霊と超常と妖怪について語るのは異常です。
 
「赤毛のアン」には、アンがあそこの森にはオバケがいると想像した結果、それが本当のように思えて怖くてたまらなくなり、森に近付けなくなる話があっておかしかったが、自分はいい年したおっさんであるにもかかわらず、隙間女の映画を見てからは隙間の向こうにある闇のことをあれこれ想像しては怖がるというアンと大して変わらない失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)。
 
「失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)」というのは嘘です。恥ずかしいなら書かないでしょう。楽山に恥ずかしいという悲しみの情があるなら、今までの経緯から、このような記事を書いて「(笑)」でくくることは出来ないはずです。楽山は、違います。
 
「失敗」「恥ずかしい」と書いて、「(笑)」でくくる楽山です。聖書の悪魔が悲しまないのに似ています。そして、退けられても、退けられても、誘惑を仕掛けてくるのにも似ています。
 
 
 『江戸の怪談 絵事典』近藤雅樹監修
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 
前記事で書いた『日本現代 怪異事典』のケセランパサランの項を見たら、ケセランパサランについて「江戸時代にはすでに語られた記録があ」(p.147)るというので、江戸時代の怪異譚に興味がわき、本書を見てみた。
子供向きの本なので怖くはないし、誰でも知っている怪談が紹介されているのではあるが、改めてそれらを読んでみると、主人から虐待された女、夫から毒を盛られた女、男に襲われ殺された女、恋い慕う男に煙たがれ嘘をつかれた女など、かわいそうな女の話がやたらと多いのには驚かされた。
 
楽山は、他者を下に見て、憐れみと和みの独り芝居に興じ、詭弁を盛っては、ボンヤリ言語で人格破壊へ誘導し、平気で嘘を吐くなど、怠惰の毒性が、やたら多いのに驚かされます。楽山の柔らかく見せかけた詭弁と誘導は、だまされて食べると毒饅頭に匹敵するでしょう。
 
なんだかこういう話ばかり読んでいると幽霊は怖いというより、かわいそうになってくる。小さかった頃は、大人が幽霊はかわいそうだというのを聞いても、その意味はさっぱり分からなかったが、今になってようやく分かってきた気がする。
 
楽山は、楽山自身も人間性を失って似たようなものだから、幽霊が怖くはないでしょうが、かわいそうだと言っています。かわいそう、という感情は、楽山にはないと思います。そういう言葉があるから、人間らしさの芝居として使っているだけでしょう。つまり、あざ笑いなのです。
 
「分かってきた」を真に受けないでください。今までのことから、楽山に、悔い、悲しみ、あわれみ、共感、反省、などの深い情はないと思います。そういう言葉があることだけを知っていて、人間味を装う芝居をしているのでしょう。しかも、幽霊に向けているのです。
 
本書の第4章では、「稲生物怪録(いのうもののけろく)」が紹介されているが、主人公の屋敷で家具が空中を飛び回るポルターガイスト現象が起きたり、さまざまな人物が物怪退治に訪ねてくるだとか、現代の視点からみてもエンターテイメント性が抜群の物語となっている。
 
このように、楽山が興味を持つのは、面白おかしいことだけだと思います。ポルターガイストにも、恐らく、幽霊にも、超常現象にも、気楽なエンターテインメント性だけを求めていると思います。そして、それと同じ見方で、宗教と信仰を語ったつもりになるという愚かさです。
 
今まで、偽宗教と反宗教を書き、右翼に賛同し、心霊のことをいっぱい書いておきながら、何ごとについても、製作者や著作者の意図にかかわらず、実感をもって受け取ることがないのだろうと思います。ゆえに、何も理解できないので、でっち上げるしかなくなっています。
 
言ってみれば、楽山は、平面に生きているようなものです。そこが世界だと思って、得々と語りますが、傍から見ると、聞くに堪えないほどの偏狭で、一面的な視野が、表れてくるだけなのです。楽山が鈍麻しているのは、そうでないと、楽山は、恥ずかしさに昏倒してしまうからでしょうか。
 
当時はこういう話がウケていたのだとすると、今も昔もアクションホラーのファンは沢山いるということなのだろうな…。
 
やはり、ウケる、といった安易なことしか書けないのでしょう。今も昔もアクションホラーのファンはたくさんいると思いますが、それを書いて何を言い得たつもりでいるのでしょう。人間らしい心を持たない楽山も妖怪フェチに過ぎないのです。楽山のホラー好きは、人生の誤変換です。
 
楽山は、まともに見せかけて書いて、はっきりした主張をまとめることが出来ません。なぜ、この記事を書いたかも、分かってはいないのでしょう。楽山は、記事を書いて、まともぶることだけが、満悦につながるのでしょうか。
 
丁寧語で、やばいことも強いことも派手に書いているわけではないとしても、その丁寧で抵抗のないような文章の曖昧な感じこそが、楽山の狙いであり、受け入れると、知らず知らず、余計な、煤のようなものがこびりついて残って溜まってゆく、という詭弁なのです。
 
付き合っても、何も得るものがないというのは、こういう、楽山と、楽山の生産物であります。楽山という詭弁屋で嘘吐きのペテン師は、実際には、アクション、ホラー、スピリチュアル、宗教、信仰など・・理解も体験もしていないのです。
 
宗教、特に、キリスト教の信仰について、楽山は何も分かっていません。理路も発想も直観も直感もありません。楽山は、分かってなくても、根拠が無くても書けるのが、超常的な心霊の世界だと思っており、あとは、有名人の著作から言葉だけ貼りつければいいと思っているのでしょう。
 
そういうことだから、どんなテーマも、趣味のエンタから、思想・宗教・政治などという重要なテーマまで、みな、安っぽい駄弁か繰り言レベルで書いてしまうのでしょう。こういう人と付き合うと、結局、一種異様な、侵襲性の高い疲労だけが残り、それによって人格が摩耗してゆきます。
 
宗教を考えることは、人間を考えることです。信仰を持つことは、よりよい人間に成長することです。楽山のように、宗教のつもりで超常ばかりを語ることは、関わる人を、宗教と信仰の真実から遠ざけることです。ゆえに、批判し否定し続けることが必要なのです。
 
 
妖怪フェチ

妖怪フェチ
 
 
(2019年08月22日)
(2021年08月31日、再録+)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
 
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
 
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
(昔の作)
 
 
 
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  イデオロギー2
 
 
ここでは、イデオロギーと題していますが、信条や教条など、思想が言葉や理屈で固定され、心の直感的共感を持たないものを意味しています。宗教にも、政治にも、あらゆる分野に深く関係する非人間的な固定・固着です。
 
(ネットより)
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
 
 
イデオロギーは
心の面倒を見ません。
 
論理は
心の面倒を見ません。
 
言葉は
それだけでは
心の面倒を見ません。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきました。
 
宗教も
言葉だけの
思想・信条・イデオロギーと化してしまえば
同様でしょう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を凝固させ変形させます。
 
言葉は
心を伝えるための
暗号に過ぎません。
 
聖書が神の言葉でも
読む私たちは人の言葉しか持っていません。
神の言葉だからと振り回す人は
心を失いつつあります。
 
人は人の言葉を絶対化してはいけません。
 
人は絶対ではないのだから
人は何も絶対化できないはずです。
 
思想、宗教、政治、総てにおいて
 
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがあります。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すでしょう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからです。
 
心の努力は
惜しむべきではないのです。
 
信仰は不変の平安の境地ではありません。
 
信仰は生きて学ぶ道です。
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示しています。
 
歌は、悲しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆきます。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶と情感は不可分であります。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
記憶されることへの希望となります。
 
言葉が心を動かすのは
言葉によって表されたものを
心が受け取れた場合だけです。
 
心が動くのは
人間の心として受け取れるものだけです。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、
これらは、人間の手には負えません。
神の性質を表していますが、人が神を理解するための言葉ではありません。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身に
限界があることを気づかせるための言葉です。
 
神の全知全能を人が理解することはなく
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られます。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきなのです。
 
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在しています。
 
 
神の寛容は
悪や偽善をも赦すということではありません。
讃美の言葉なら、無難で正しいというわけでもありません。
神には正直以外通用しません。
 
神は
人に対して正しさや善を求めるのではなく、
神は
人の不完全と罪深さを知っておられるので、
御前に捧げられる祈りにおいて
精いっぱいの正直だけを求めておられ、
それだけをもって信仰の義とされる御方です。
 
神は、正直な告白の祈りを待っておられます。
 
祈りの言葉を間違えたら、また、祈ればよいのです。
それが、神の寛容と言われます。
 
 
神と人、共感と言葉、信仰と人の絶対、これらを同一のように語って、訂正不能に陥っているカルト的自己愛性パーソナリティ障害NPDがいます。
 
神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
神と人、言葉と心

神と人、言葉と心
 
 
(2020年08月08日)
(2021年08月30日、再録+加筆)
 
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
(90年代か)
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集
 2021年08月29日 Comment(0) 楽山日記(LD)
 
 
今まで、楽山が、他者にかけてきた迷惑など、何とも思っていないのに、まとめたことにして、整理したことにして、ちゃんとやっているふうを見せないと、楽山は気が済まないのでしょうか。整えることを、いちばん、妨害してきたのは、楽山その人です。
 
*発言集まとめ
他所で、ひさしぶりにブログ村騒動の記事をまとめたので、ここにも保存しておこうと思う。
・「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
・「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
・「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
・「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
・「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
・「ブログ村騒動」発言集(補選 中立的な意見)
・「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)ブログ村騒動とは何だったのか?
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2【追記あり】
ちなみに、ブログ村騒動というのは、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内における信者同士の喧嘩のことである。これは数年に渡って断続的に続いた。主な参加者は、ガン、レオ、ぽん吉、ピア健、コウ(敬称略)などであり、ぽん吉、ピア健はこの騒動の途中で退会し、アンチHSとなったのだった。
 
ずらっとリンク(省略)が並んでいます。今まで書いてきた記事ですから、このように、楽山は、自分を責めることが出来ず、その分、それぞれの記事で、また、まとめて、ここで、他者を責めてくる人です。他者のHNを、並べて、さらし首でしょうか。
 
楽山が言いたいのは、"自分は悪くない、自分は悪くない、分析すればですね、あれが悪い、これが悪い"、などと自己中に言い続けて止まないということです。つまり、楽山という人は、どこまでも、他罰的で、共感性がなく、自分を省みない人なのです。
 
どうか、楽山と付き合わないでください。楽山と付き合って、何も、良いことはないと思います。そして、後になって、上の一覧と、それぞれの記事として、ネチネチと悪者にされてゆきます。この間、反省は、皆無です。これほど、非人間となるのは、自己愛性人格障害としか考えられません。
 
楽山に対するには、楽山の執拗さと同じように、逐一批判をもって、終わることのない批判を続けるしかないのです。楽山に対して、病んで、または、逃げて、黙り込む人にもならず、批判し続ける人にもならないためには、関わらないこと以外にはないのです。
 
楽山には、罪悪感がありません。もし、生存をかけて闘っていた戦国時代であれば、信頼への裏切りは決して許されることはなく、はりつけ、やりぶすま、八つ裂き、さらし首、火あぶり、それ以上となったでしょう。今の時代に、個人は、批判と非難を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山の「反省、とほほ」は、"無反省、えへへ" だと思ってください。楽山は、臆病だから恐慌状態にはなっても、しんみり悲しむことも泣くことも出来ない人です。嘘と詭弁で世渡りして、言ってくることに、真実の欠片もない人格の形骸です。
 
ドラマなどで、ときに出てくるサイコパス(精神病質)というのは、反社会性人格障害の旧名です。罪悪感がなく犯罪性が高い人格障害です。サイコパスは、自己中で自己愛性なので、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害は、近縁の人格障害です。
 
楽山のような病質者は、逃げられない状況で説教をされると、頷くかもしれません。しかし、説教が終わると、さーっと立ち去って、また同じ悪さを、さっさと続ける、平気で繰り返す、という具合に、訂正不能の無反省を基調とします。
 
恐らく、表情は基本的には乏しく、感情は、根深い怒り憎しみと嘲笑いで、本当の思いやりの温もりと悲しみの涙という潤いが、欠落しているのだろうと思います。
 
つまり、感情に深みがありません。だから、反省、共感、理解、よく分かった、読んだ、などの、言葉だけの表面的な言い方を多用し、とほほ、かなあ、と言えなくもない、などと、曖昧にして、断定していないと、後で問われる責任を逃れているつもりです。
 
味も素っ気もなく生きていて、我執の自己顕示欲で出しゃばって言って、他者のことを書きながら、他者に関心はなく、他者を全く必要とせず、ただ、自己を受け入れさせようと芝居をするのが、自己愛性病質者の症状であり、目的であり、非人間性の生き甲斐です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·3時間
私もそんな感じに考えてます。
信者は、現実の教祖というより、自分好みに理想化した教祖像を信じている
この両者の差異に気づき、理想像を維持できなくなったときは、教祖に失望し、信仰の危機となる…と。
午後7:00 · 2021年8月29日
 
楽山は、キリスト教と信仰についても、信じ過ぎてはいけない・・など、似たような決めつけをしてくる反キリストです。楽山は、自分の言うことはバランスが取れていて適切だと思い込んで訂正不能の妄想となっていることから、楽山には、教祖になりたい願望があるように思われます。
 
楽山は、人を操りたいのです。しかし、言うことは、ことごとく、嘘と詭弁であり、印象操作であり、刷り込みであり、誘導であります。そういう楽山の言から、私は、楽山が自己愛性人格障害であることを何度も書いてきましたが、楽山は、反論も弁明も出来ていません。
 
 
 
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  楽山の弁解2
 
 自己中心的な人(HS教祖と信者の抱える問題)
 2020年08月25日 楽山日記(LD)
 過去記事の抜粋ですが、改めて批判します。
 
 
また、楽山は、発作のように長いだけの記事を書いています。今回、楽山は、HS批判をしているつもりのようですから、抜粋して批判します。楽山がHSを批判しているというより、自分はHSではないという弁解と、結論ばかりの悪口にしかなっていないようです。
 
まともで分かっているふうを出していますが、この1年半に及ぶ楽山の記事と批判によって、楽山が、HSも、アドラー教(アドラー心理学)も、抜けきってはおらず、その影響下にあることが明らかになっています。HSは超常、アドラー教は自己中、という共通点があるからでしょう。
 
いつもと違って、唾が飛んできそうなHS批判ですが、その批判の大方は、楽山に返ってゆくのであり、楽山が、前の記事に書いていた、いわゆる、ブーメランだと思います。
 
楽山を、まともな批判者だと思うのは、非常に危険です。
 
教祖の目には、世の中には、自分は得するために生まれて来たと考えている人が多く、手っ取り早く結果を欲しがる人ばかりに見えているらしい。
 
そういう人が少なくないということは言えるでしょう。楽山は、努力もしないで偉いと思われたいのでしょう。さらに、病質による自己中であります。また、人の批評ばかり言ってくるのは、自覚のない証拠です。自分に問うてみることをしない楽山です。
 
楽山は、今回、あとの方では、ずいぶん世の中の人を、褒めています。こういう、節操もなく、ほめたり、けなしたり、どっちつかずの話を、他者を無視して書いてくるところは、豪語する教祖よりも、楽山のほうが、整っていないということですし、狡猾で陰険なのです。
 
楽山の言論に、一貫性のないところなのです。そういう、いい加減な書き方で、結局、自己正当化をしているだけになる堂々巡りのブーメランです。
 
また、「自分をほめ上げ、他の人を批判する人」のことを、まるで他人事のように語っていることからすると、自分がそれに該当するとは、少しも思っていないらしい。
 
典型的なブーメランでしょう。いつも、言葉だけ丁寧で、婉曲表現や、刷り込みの詭弁で、「自分をほめ上げ、他の人を批判する」のは、楽山その人です。そして、今回、まさにそうです。楽山は、自身が書いたことによって、返されているのです。
 
こちらでは、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊などの偉人は、世の中で理解されないかのように言っている。釈尊の生き方について、「余人の想像を絶するもの」であり、「普通は、この世的に見て、より有利なことを選ぶもの」だとのことである。
 
想像を絶するもの、というのは、結局、超常的な人という意味でしょうが、少なくとも、イエス・キリストが伝えていることは、人間であれば受け取って共感できるものです。ここには、心よりも、超常の奇跡を信仰の中心だと考えている楽山の先入観です。
 
霊や超常への入れ込みと、そのために日常の心を疎かにするような、偏見と先入観の典型は、教祖はともかく、楽山に著しいということを明らかにしてきたつもりです。
 
キリスト教へのいちゃもん、やさしさ芝居、否定しないと言いながら嫌味を並べてくるボンヤリ言語、同情を引こうとする共感芝居のトホホ言語、そして、何より、嘘と詭弁など、これらの履歴が残っているのに、楽山は、何の弁解が成り立つと思っているのでしょう。
 
*法話の背景
これらのことを念頭におきつつ、法話を読むと、その背後には次のような思いがあるらしいことがわかる。「世の中には、自己中心的な人が多い。だから、イエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さは分からないし、釈尊の生まれ変わりである私が、世のため人のために尽くしているのも理解されないのだ」「私は自分褒めはしないし、他人の悪口も言わない。人を利用するために、『あなたの過去世はすばらしい。あなたは高い霊格を持っている』等とおべんちゃらは言わない。私は自画自賛はせず、他人を妬まず、恨まず、損得勘定はせず人のために尽くし、嘘はつけない性分だ」
 
教祖のことを言っています。自分の訂正不能を棚に上げて。
 
信者はどうかといえば、この法話を読んで、次のような思いを抱く人は少なくなさそうだ。「世の中には、自己中心的な人が多い。でも自分はちがう。だからイエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さが分かる。釈尊の生まれ変わりである大川隆法総裁先生の偉さも分かる」「私も総裁先生と同じく、自分褒めはしないし、他人を誹謗中傷することもしない。嘘も言わない」「仏陀であり、地球神エルカンターレでもある総裁先生の弟子となり、その教えを聞くことができて幸福だ。自己中心的な人は、自己中心であるが故に、この幸福は少しも分からないのだろうが、自分はよく分かる」
おそらく、信者が、批判者に対して自己中心だと責めるのは、こういう考え方に理由があるのだろう。
 
信者のことを言っています。自分の自己中心を棚に上げて。
 
余人からしたら、教祖と信者が上のような考えを持っているというのは、にわかには信じ難いかもしれない。
けれども改めて、HSの信仰と、HSをとりまく客観的な情勢とを確認すれば、このことは容易に理解できるはずだ。
HSの信仰…教祖は仏陀の生まれ変わりであり、人々を救おうとしている。
客観的情勢…教祖は仏陀であり、人々を救おうとしていると信じる人は少ない。
この二つは、誰が見ても矛盾しているだろうが、通常なら現実に合わせて考え方を変えれば済む話だ。
「教祖は神であり、仏陀の生まれ変わりで、世を救うために活動していると信じていたけけれども、30年以上も活動しているのに、それに応じた結果はでていない。選挙では落選したし、信者も、支持者も増えておらず、むしろ減っている。この現実からすると、自分の判断は間違っていたとは思いたくないが、考え直すべき点もあるようだ」と。
 
現実を、いちばん見ていないのは、自分を省みない楽山だということが、今までに明らかになっています。つまり、楽山は、いかなる人をも批判する資格を持ちません。それでも、自分は、まともで知能が高いと言いたくて、今までのことを無視して、他者のことばかり書き続けるのが楽山です。
 
どういう批判精神が、楽山に成り立つというのでしょう。楽山自身は、批判に対して、何も答えられませんでした。一方、他者を、批判者を、無条件に、無根拠に、くだらないからスルーするなどと言って、無視してきたのは、楽山その人であります。
 
楽山は、現実を見ることもなく、たくさんの、常識はずれの記事や、心霊の記事を書いてきたわけです。「現実に合わせて考え方を変え」ることを、いっさい、してこなかったのが楽山なのです。
 
しかし硬直化した信仰を持っている場合は、このように現実によって信仰を変えるのは退転、棄教ということになるので、それは決してできないのだ。したがって、信仰も、現実も変えられないとすれば、信仰に合致する現実認識をこしらえるしかなくなり、「世の中には自己中心的な人が多く、そのため教祖が仏陀であり、救世のために活動していることが分からないのだ」と思わざるを得なくなるという寸法だ。
ようは、自分にとって不都合な現実をそのまま受け入れることはできず、「正しい自分たちを受け入れ、尊敬しない世の中は間違っている」と言い張るしかなくなるということ。
 
「現実認識」は、「こしらえる」ものでしょうか。「こしらえる」を使って批判するなら、"偽の" くらいを付けるか、現実認識とは別の言い方になるのではないでしょうか。それとも、楽山の、妄想と詭弁の作り方を教えたいのでしょうか。
 
楽山こそ、書いた記事の大部分において、正しい自分を受け容れないのは、間違っているとボンヤリ言語で言ってきたわけです。詭弁屋であり嘘吐きである楽山の記事において、正しい自分が表されたことは一度もありません。
 
そういう、虚偽がベースとなっているのが、楽山です。正義の味方を気取って、今回のように口酸っぱく、他者を批判して体面を取り繕おうとしても、無駄なのです。楽山の表してきたことが、舌を出して、嘘だよ・・と言っているのです。
 
*自己中心はどっち?
余談ながら、信者の中には退会者に対して、次のように言う人がいる。「自己中心だから、退会することになるのだ。自己に都合がよい時だけの信仰だから、自己都合に合わなくなった途端に、退会し、教団の悪口ばかり言うのだ。総裁先生の言葉の真意を解せず、自己都合解釈ばかりしているから、そうなるのだ」
 
楽山の、自己愛性パーソナリティ障害NPD、その自己中、無反省、訂正不能、という特徴を明らかにしてきたつもりです。総てを無視して、平気で、他者を批判して、いい気持になれるのは病的です。つまり、HSも、アドラー教も、信じても、超えても、抜けてもいない、楽山の、悪あがきです。
 
でも実際のところは、上で触れたように、退会者(退転、棄教者)の大半は、信仰と現実の矛盾を直視したうえで、現実を素直に受け入れ、信仰の間違いを認めることができたから退会できたのであり、いまだに信者を続けている人は、信仰と現実の矛盾に眼を背け、現実を自己都合解釈によって曲げているから、信者を続けているのだ。この点からすれば、どちらが自己中心的であるかは明らかである。
 
「信仰と現実の矛盾に眼を背け、現実を自己都合解釈によって曲げている」のは楽山であります。自分の都合の良いように、受け入れたり、否定したり、ふらふらと話を変え、今回のように強い口調だったり、暗示の刷り込みであったり、やさしさの三文芝居だったり、まとまらない楽山です。
 
楽山は、自己愛と自己中の世界から、いつも評論家気取りで物を言い、現実を認識できていません。教祖や信者のことを言う前に、自らの過去と現在を見るべきですが、それだけはしないのです。だから、自己愛性人格障害だと分かるのです。
 
ちなみに、信者は概してアンチより短気で怒りっぽいのも、このことが関係していると思われる。信者は、自分の信仰に都合の悪い現実は見たくない、不都合な現実は自分の信仰に都合のいいように改変してからでなければ受け入れたくないと思っているから、それを許さないアンチに腹を立てるのだ。
 
楽山は、今回、まともに見えるように、目一杯、文章を考えたつもりなのでしょうが、既に、言ってきたこと、してきたことが、楽山の正体を表し、楽山の、まともらしさは、みな、三文芝居であることを、暴露しているのです。
 
信者は怒りっぽい、という基準は、楽山自身は怒らないということを前提としているようだが、怒らないのではなく、あざ笑いがベースにあるから、安穏として笑いながら、書いて、それが、ある程度、通ってきたのでしょう。そのことは、だましてきた、と言い換えるべきことです。
 
楽山がいくら批判とアドバイスをしても、その実態は、ボンヤリ言語で、トホホ言語で、詭弁で、他者の言葉を字面だけ借りて、刷り込んでくるような陰険で狡猾な誘導に他なりません。怒るより始末が悪く、いわば、しつこく、しつこく、自他のための墓穴を掘っているようなものなのです。
 
*まとめ
最後に、今回の法話と、これまでのHSの主張をまとめると、およそ次のようになる。
世の中には自己中心的な人が多く、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊の偉さを理解できない。ましてや総裁のことは理解できない。
総裁は仏陀であり、神である。総裁を悪く言うのは神仏に対する冒涜である。
霊言は本物だ。これを信じないのは霊の存在を信じない唯物論者である。
 
楽山は、何よりも、人間が当然知っておくべき常識を理解できないために、他者を無視してきます。楽山は、哀れな自己中の病人であり、なのに、霊が分かるっぽい幼児期の思い込みから、霊能者を気取ってきたところの、唯物論も、無神論も、有神論も、宗教も信仰も、理解できない人です。
 
HSの主張だそうですが、楽山について言えば、自己中、無理解、決めつけてネチネチと嫌がらせを言う、そして、霊言にこだわっている・・これは、誰よりも、さらに上から物を言っている姿であり、反省、内省、自省、というものをしてこなかった楽山の特徴です。
 
他者から受け取るレセプターがなく、自分から他者に向ける方向しか持たない単方向の特徴でもあります。その反動として、自慰行為として、本を読んだ、本を読んだ、・・という記事を書き続けているだけなのです。
 
(ネットより)
受容体(じゅようたい、receptor)とは、生物の体にあって、外界や体内からの何らかの刺激を受け取り、情報(感覚)として利用できるように変換する仕組みを持った構造のこと。レセプターまたはリセプターともいう。
 
一方、自分はこういう現実認識をしている。
世の中の人々は、大概は、協調性をもって生きている。自己中心的な人ばかりではない。
一般的には、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊は、偉人聖人だとされている。これにケチをつけるのは、天邪鬼、中二病の人くらいだろう。
 
今になって、不自然に、世の人々を褒めても、また、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊、という、とんでもなくビッグな名前をあげても、前から指摘してきたところの、他者の名を借りての自己正当化にしかなりません。楽山こそ、典型的な、「自己中心的な人」です。
 
楽山は、天邪鬼という比喩的な性格の問題ではなく、今は大人だから中二病でもなく、自己愛性人格障害であります。それに、楽山は、キリスト教に、ケチをつけ、神を否定したことを、また都合よく無視しています。
 
つまり、楽山は、自らの主張を、その時々の都合に合わせて、ころころ変えるような、全く信用できない人です。心の健康を守るために、楽山には、決して、関わらないでください。近づかないでください。楽山を、決して、相手にしないでください。
 
(ネットより)
中二病(ちゅうにびょう)とは、「(日本の教育制度における)中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動」を自虐する語 。転じて、思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラング。
 
楽山は、中二病から抜けきっていないのかもしれません。さらに、未熟な人格として悪化したのかもしれません。だから、書けば書くほど、ボロが出ますし、書けば書くほど、批判言葉が、ブーメランとなって、楽山に返ってくるのです。
 
HSに、よくないイメージを持っている人は多い。
『自分は仏陀で、救世主で、至高神で、地球神で、国師で、ワールドティーチャーである』と自称する教祖や、『自分は正義であり、神の側に立っている』と誇る信者が、他人のことを自己中心的だと批判するというのは、まったくバカバカしい限りだ。
 
唾を飛ばしているような強い書きぶりですが、そのまま、楽山が「他人のことを自己中心的だと批判するというのは、まったくバカバカしい限り」であると言えるでしょう。自分が飛ばした唾の分だけ、臭くなってゆく楽山です。
 
HS側からしたら、こういう見方こそ、バカバカしく、笑止千万なものに見えるかもしれない。
でも、上から目線で言うようで恐縮だけども、HS信者は自と他を客観的に正しく見、正しい判断をくだすことができるようになるためにも、この辺りについてはもうちょっと考えてみてはいかがかと思う。余計なお世話だろうけれども、老婆心ながらそのことをおすすめしたい。
 
ここに至って、「この辺りについてはもうちょっと考えてみてはいかがか」とか、「老婆心ながらそのことをおすすめしたい」などと敬語になり、物騒なことは言いませんよ・・みたいなトーンになっているのは、丁寧語で書けば通用するじゃろ・・と思っている楽山の浅はかさです。
 
いくら、立場を変え、対象を変えても、人格障害は、書くこと自体の不細工に表れます。楽山は、病質のために、理性も情緒も不安定なので、単方向性を、ごまかしきれず、一貫性のない滅裂な文章になってしまうのでしょう。
 
今までを踏まえれば、批判と忠告・助言をする資格は、楽山にはありません。楽山は「自と他を客観的に正しく見、正しい判断をくだすことが」できない人です。特に自分の非を、一切、見ないし、認めない、というのは、かなり最低の部類です。
 
でも自分の経験では、頭のいい人は性格もいいことが多かったように思う。よくできる人のことを妬んで、悪く言う人もいなかった…過去に出会った人の中で、そういう人がいたという記憶はない。
注意されたときに、屁理屈を言うというのも、あまり聞かないかな。この辺りの自分の認識は、総裁のそれとは全然ちがう。
 
「頭のいい人は性格もいいことが」多いとは限りません。頭の良さと、優れた人格や良心とは、必ずしも比例しない、というのは、常識でしょう。楽山は、何を、ご機嫌取りのような、一面的な誉め方をしているのでしょう。有能な自分がそうだと言いたいのでしょうか。
 
楽山の言は、大方、屁理屈の部類でした。論理を装っても理路は散乱して、しかも、主張そのものが、場当たり的に、右往左往して、とても人前に出せるものではないと思います。ここに、楽山の、わざとらしい反省言葉であるトホホ言語に堕ちてしまうところの、大きな欠陥があります。
 
ちなみに自分は、小さい頃から納得できないことには反論しないではいられない性質で、学校の先生に怒られたときも、納得できないことがあれば言い返したりしてた。でもどういうわけか、いつも通信簿には素直だと書かれていたのだった。これは担任が変わっても同じだった。たぶん自分はおかしいと思うことには、おかしいと言い返したけれども、筋が通っていると思えばそれは率直に認めたので、担任はここを見ていたのだろうと想像する。
そういえば今でも、楽山は屁理屈屋だという人がいる一方で、楽山の意見には一理あるとする人もいるけど、自分の担任は後者のタイプだったのだろう。
 
反論しないではいられない、言い返したり、素直、おかしいと言い返し、筋が取っていると思えば率直に認めた、・・このような楽山は、批判してきた一年半、一度も表れたことがありません。嘘と詭弁で他者をおとしめ、自らを讃美してきただけです。
 
どこまで幼稚なのでしょう。いつの話でしょう。担任に褒められたことを、自慢するとは。
 
褒めれば、おとなしくなるような、扱いやすい子供だったのでしょうか。楽山については、ちょっと、意味わかんないです。楽山の、一理には、底知れない闇があります。
 
*水と油
今回、大川隆法の法話を読んで、改めて思ったのだが、やっぱり自分は大川隆法とはまるきり考え方が合わない。というか、思想がどうこういう以前に、現実認識からして全然ちがっている。
たとえば大川隆法は、世の中の人々の評価は異様に低く、救済対象としてみているようだけども、自分は世の中の人々はみんなまともであって、自分より立派な人はたくさんいると思っている。ニュースやネットを見ていると、おかしな人もいるようだけども、リアルではそこまでおかしい人とは滅多に会わないし、やっぱりみんな普通だろうと思うのだ。
 
調子に乗ったのか、楽山は、くどくどと書いています。それでも、超常と霊言にこだわるカルトから抜けきっていないことが、今までの記事に表れてきたのです。今さら、何を弁解出来たつもりになるのでしょう。異常です。
 
そして、世の中の人々はまとも、立派な人はたくさんいる、おかしい人とは滅多に合わない、・・何を、不定の人々を、安く安くベタ褒めバーゲンしまくっているのでしょう。また、ご機嫌取りの世辞使いになっています。もしそうなら、深く考えたりすることない人なのでしょう。
 
つまり、他者を、ここでは、白々しく褒めまくり、みんな普通という中に、自分を含めようと躍起になって、世辞を言っているのでしょう。ここで問題意識を放棄しているのは、誰よりも楽山自身が、自分はおかしいという自覚を持ち得ないからです。
 
前に、大川隆法の本を読んで少しも共感できなかったときには、氏に対する悪感情があるゆえに、自分は公平に評価できないのかもしれぬと考えたりもしたものだったが、どうもそれ以前に現実認識も、思想も、考え方も水と油くらいに違ってしまっているがため、そのような判断になってしまっているようだ。
 
楽山は、ひょっとして、HSはダメだ、教祖は自分でなければという野望を思い始めたのでしょうか。しかし、HSの超常についての考えは、楽山の霊が分かるっぽい自慢話と、水と油とは、到底、思えません。
 
さらに、楽山は、自己を正当化してくれる自己中製造のアドラー教(アドラー心理学)を、ずっと引きずっていて、自己愛病質からの自己中と自己満は、何を書いても、楽山の訂正不能の体質として表れてくるものです。
 
世の中には、大川隆法の話を素晴らしいと感じる人はいるだろうし、そういう人はその方向で自己研鑽に励めばいいのだろうけれども、自分はやっぱり別の方向に進むのが合っているし、HS退会したのは正解だったようだ。
 
また、信じる人は励めばいい、などと、楽山は、面倒臭くなったのか、ここで一気に、他者は他者の好きなように、自分は自分の好きなように・・と、今まで言ってきたことから乖離して、求められてもいない許容を書いています。主張の軸など、どこにもない人だと分かります。
 
楽山が、自分は別の方向、と言っても、超常と自己中の有害な思想に、ずっと変わりはなかったのです。楽山の浅ましいカルトの欲望は、丁寧語にだまされて、うっかり受け入れて、誘導された人にとっては、人格破壊の必然が待っています。
 
そういう悪事と偽善を、自分を高めるためだけに、自分を正しいと見せかけるために、体質的に生業(なりわい)としているのが、楽山です。どうか、近づかないでください。
 
 
結局、自己中許容へ収束

結局、自己中許容へ収束
 
 
(2020年08月27日)
(2021年08月29日、再録+)
 
 
 
  あの世
 
明け方バイクに乗って山の上から
雲海を眺めていた
太陽、雲、あらゆる光
この目はうばわれて、どこか
この世にいなかった
 
翌朝、山のふもとの道
雲海の雲の中を走っていたのだろう
体はバイクの上で冷たく濡れていった
急に開ける視界
いつのまにか朝日をあびて
シャツが乾いて汚れていた
体はうばわれて、どこか
この世を離れていた
 
昼下がり、車のフロントガラスから
太陽を隠す大きな雲
そのふちは輝き、やわらかい輪郭の
空の上から下へ
隠された太陽から放射状にまっすぐ広がって
注ぐ光、光の帯
 
天国への階段かと
虹を思い出そうとして
色をうばわれて、どこか
この世に別れを告げていた
 
太陽は神ではない
しかしときに自然が見せる
とくに太陽にまつわる
この世ならぬ感覚は
ある種の喪失か自己消滅か
 
あの世
でもいいけれど
信じているものは求めて目に見えず
信じたい世界では
信じたい人々からは
信じるべきものは目に見えて闇のようだ
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労だけを与えられることになります。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、自分がそうだ・・とでも言いたいのでしょうか。しかし、当然ながら、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格も最低という人もいるわけです。
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる楽山のような者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。自分の評価だけ、有頂天なのです。
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。したがって、楽山に、保守も革新もありません。今も、最低の自惚れが、楽山を動かしているだけです。
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。それで、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別の分野です。
 
楽山は、自分を飾る材料として、字面だけで、意味を理解していないから、なんでもかんでも、いっしょに見えるのでしょう。そして、無知蒙昧の、とてつもなく思い上がった山上の快楽の奇態を晒してゆくのです。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる者の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように、並んでいるという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき的外れの悪意の人です。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、言葉の字面だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための見かけの丁寧語、すなわち、根拠のない婉曲のボンヤリ言語です。
 
そして、ときに、反省や努力などの、言葉だけ書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、はっきり断定することが出来ないことから、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っているのでしょう。それで、賛否両方なら何を言ってもよいという言い方で責任を負わないのです。
 
推測ですが、例えば、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、結局、何も語っていないのと同じであり、また、何も受け容れていないということでもあります。そんなもので、だましてくる楽山を、信用してはいけません。
 
楽山の視野には、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間らしいし、主張を変えたときには、ちゃんと修正したというメッセージが、ときには、謝罪が、必要だという人間の必然的な視野が欠けているのです。恐らく、真剣には、何も考えていないのだと思います。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、成り立たないことを主張したり、それを知っている?自分が、自分で、中庸かつ冷静な言論者気取りのような自覚になって言い続けることは、それを公表してきます。
 
他者が読んで受け入れてしまうと、その先に刷り込まれる影響が、楽山ん本人に起こっているのと同じような鈍化のプロセスを通して、人格破壊の病因となってゆく危険があります。楽山の無反省と無責任は、受け入れることで伝染します。
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
他者を、面倒臭くさせ、疲れさせ、傷つけ、壊してゆくのが、楽山です。今さら、改めて書くのではなく、早く書くのをやめることだけが、世の中のためです。
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
いちばん自分を客観視できない自己愛性妄想の楽山が言っています。こういう、病識のない、見え透いた自慢を書いてくることで、自信ありげに見せかける狙いでしょう。
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・まさに、楽山の持ち物です。
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているつもりの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。( )内が、楽山の補足のつもりでしょう。
 
楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。嘘と詭弁だからです。そういう人に、証明を・・と言われるのは、気の毒、不運としか言いようがありません。
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
真否と是非という重要な問題を、特殊という自覚に、ズレを解消する問題に、すり替えています。楽山が、解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。楽山は、誰よりも対話のズレがあり、殆ど通じないレベルであり、偏見と先入観だけなのです。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。さらに、楽山は、「きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」と言って、自分はきちんとしていることを、暗に宣伝しているところです。やはり、教祖願望があるようです。
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
 
一例をあげると、↓
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。楽山は、どちらでもなく、自分が、いちばん、客観的だから、偉い・・と言っているだけなのです。
 
今まで、自分勝手な、妄想的で、先入観的な、小学生レベルの、幼稚な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。つまり、「仏教もキリスト教も正式に学んだことがない」のは、楽山その人です。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解できないのだと思います。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。
 
対話になっていないような気もします。どっちが批判者なのでしょう。ひょっとして、独り芝居だろうか、全部、独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、独り芝居をして代償している自慰行為ではないだろうか、などということも考えています。
 
シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同の事実も頷(うなず)けます。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また、否定もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の詐欺師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して、近寄らないでください。待っているのは疲労と破壊だけです。
 
 
霊が零となる日

霊が零となる日
 
 
(2020年08月26日)
(2021年08月28日、再録+加筆)
 
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
 
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
 
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
 
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
 
見て見ぬふりのあなた
 
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
 
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
 
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
(かなり昔の作)
 
 
 
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  楽山の逃避と堕落2
 
 『〈霊〉の探究 近代スピリチュアリズムと宗教学』津城寛文著
 2020年08月17日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、本当にお気楽な空想の世界です。そこに現実逃避して、誰かが、褒めてくれるのを待っているのでしょうか。褒めてくれるのは、シャロームのような偽善者の世辞でしかないでしょう。
 
本書は面白かったのですぐ読めた。
 
気安い書き方です。今まで、楽山から、本の理解が伝わってきたことはありません。
 
全体の流れをメモしてみると、序章では近代スピリチュアリズムの始まりとその概要について説明されている。「同時的に起こる諸事件」として「一八四八年の共産党宣言」とハイズヴィル事件、「一九一七年のロシア革命」と「ファティマのマリア出現」(p.13)などについての考察や、死後生存の有無の議論と高等スピリチュアリズムの思想性の議論の違いを、シェイクスピアは実在したか否かの議論とシェイクスピア作品の中身の議論の違いになぞらえている箇所は個人的にはツボだった。
 
つまり、楽山は、またしても、すぐ読めたなどと強がって、自慢して、字面の項目を並べるしかない楽山自身の、理解不能をあらわにしています。そして、"ツボだった" と、どう気に入ったのかを言えずに、言葉面だけの賛辞を書いています。
 
1章では「比較宗教学の祖マックス・ミュラーの著作」とモーゼスの「霊訓」はその主張のみならず文章表現さえも類似性が認められることを指摘し、その理由を探求している。本章で例に挙げられている部分を見る限りにおいては確かに著者の言う通り両者の考えは似ている。ただ両者に類似性が認められることについて、著者の考えはややスピリチュアリズム的に過ぎるように感じられた。
 
大雑把なあらすじの項目のようなものを書いています。楽山は、詳しいことが書けないのです。"ややスピリチュアリズム的に過ぎる" ・・これで伝わるものは不明です。理路と共感によって中身を説得力をもって説明することが出来ないのです。
 
読書して、理解・洞察・共感が足りなければ、良心がある人は、どこが分かって、どこが分からないかを、記事にすることが出来ます。なのに、楽山は、読めた、ツボだ、としか書けません。そこに、楽山の自己愛性人格障害らしさが表れています。
 
出来ないことを、出来たかのように言う障害は、体質的なものでしょう。読めたと言って、本人は、自己顕示欲を満足させるかもしれないが、思想において、一見、読解を装う態度は、邪魔であり、迷惑であり、悪影響でしかありません。
 
2章ではスピリチュアリズムと心霊研究の間における争点…霊言を語っているのは霊なのか、それとも「媒介者」の一部である潜在意識、第二人格などなのかという問題や、守護霊という存在について語られている。
 
今までの、霊言、霊、媒介者、潜在意識、第二人格、守護霊、総て、楽山の空想で受け取った言葉です。誰も本質を理解できない代わりに、誰も否定できない、曖昧なことを言う以外に、楽山には、自分で主張する手段がないのです。だから、現実から、さらに、離れてゆくのでしょう。
 
3章では臨死体験がテーマになっているが、キュブラー=ロス、ムーディに対する批判が紹介されているところは面白い。その理屈は、治療現場では臨死体験直後の患者が、怖ろしい体験をしたと証言することがある、しかし好ましくない記憶は時間が経つことで抑圧されることがある、キュブラー=ロスらは治療現場にはおらず、したがって臨死体験直後ではなく、一定の時間が経ってから証言を集めることになっている云々ということらしい。これが本当なら、二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多いということになるだろう。
 
楽山は、結局、その臨死体験を認めているのでしょうか、それとも、時間がたってから証言を集めるのだから、本当かどうか分からないと言っているのでしょうか。
 
楽山は、「二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多い」と言って、否定していないので、前者のようです。全体に理路が不整です。自分が満悦するためにだけ書いているからでしょう。楽山の、恐ろしい・・は、興味の婉曲表現かもしれません。
 
常識的には、楽山は前者で、真実は後者ではないかと思われます。患者の臨死体験だという発言によって、臨死体験だと証明することは困難です。こういう超常現象は、根拠のない世界の話だから、楽山は、繰り返し刷り込んでゆくしかないのでしょう。本気にしないほうがよいと思います。
 
4章ではホイットンやワイスの前世療法、ケイシ―のリーディングやカルマ説、シルバー・バーチ、マイヤーズ(霊)、カルデックの輪廻説などが紹介されている。ブラヴァツキの死後、その名をかたる霊が生前の輪廻に関する自説を撤回したエピソードにも触れられている。
 
楽山は、努力せずに、反省せずに、さすが出来る人と言われたいので、どんどん不思議話をつぎ込んでくるでしょう。やさしい人と思わせ、考える人と思わせ、読書家と思わせ、実際に使っているのは詭弁と嘘ですから、それ以外、何も言えなくなってゆきそうです。
 
終章ではスピリチュアリズムと神智学オカルティズムとの対立と議論に触れつつ、両者の差異について説明されており、
 
神智学と来ました。しかもオカルティズムだそうです。楽山が好きそうな言葉です。さらに、楽山が、自分は分かるんだと、いちばん言いたい言葉なのでしょう。しかし、今までの楽山の記事の、いい加減さや、詭弁が、それを全否定しています。
 
そういう不思議な話の記事ばかり集めて性懲りもなく字面だけ披露してくる楽山は、相当なインチキだと思います。楽山は、根拠のあることが言えないから、根拠が無くてもいいような分野で、格好をつけたいのでしょう。
 
神智学について:
(ネットより)
神智学(しんちがく、英: theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。神知学、神知論、接神論とも。
神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。
グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である。
後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い。
 」
 
「神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するもの」ではなく、人知を超えた霊的認識?を扱っているわけです。科学ではないと思います。まるで、カルト思想の源流のようです。こんなことがウィキペディアに載っていることが、不可解です。
 
「宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができる」・・むしろ、これが、オカルトではないかと思います。
 
ここで著者は「説明を透明にするため、あらかじめ筆者の位置を明らかにしておくと、私は「高等」と呼ばれるスピリチュアリズムの思想文体に親近感をもつ一方、オカルティズム(神智学を含む)のそれには所々に違和感を覚える」(p.195)云々と信仰告白? をしている。本書の前半部分からすでに著者の文章にはそのような雰囲気は感じられてはいたが、それを明言するというのは生真面目な方なのだろう。こういう著者の文章であれば、他の文章もぜひ読みたいと思う。
 
引用元著者は、スピリチュアルに親近感を持つが、オカルト神智学にはところどころに違和感を持つ、と書いています。それで、楽山は、著者は生真面目な人だから、ぜひもっと読みたいと書いています。何か「透明に」なったでしょうか。霊感商法のような話に、楽山は興味があるのでしょう。
 
著者は、宗教学者のようですが、保身か、安全弁のつもりで書いているのでしょうか。スピリチュアルを既に認めているのであれば、学者とは思えません。実証も、実験も、一般的には出来ず、みな、特殊な個別の場合しかないのがスピリチュアルでしょうから、学問の体を為していないと思います。
 
だから、楽山のような、自己顕示欲だけの劣悪な宣伝者が寄ってくる隙が出来てしまうわけです。根拠も、理路も、説明も、要らないからです。超常という現実離れの世界に興味を持つ人は、現実に希望を見い出せない人なのでしょうか。
 
どんな境遇でも、希望を求める人間らしい心があれば、希望につながる多くの道しるべがあると思います。ただ、自己愛が過ぎて反省力や罪悪感が育たない人には分からないでしょう。
 
人間離れしてゆくと、人間らしい感性も思慮も失ってゆきます。そういう人を、ずっと批判してきました。もはや、他者の意見を無視し続けるような楽山をどうしようというのではなく、楽山みたいにならないように、楽山には近づかないでくださいと、批判を続けています。
 
楽山という自らの人格をも破壊して行く者が書き続けています。楽山は、ますます、考えることをやめて、幼稚になり、退行してゆくのでしょう。批判は、ますます単純で白々しいペテンの詭弁になってゆくでしょう。
 
 
退行するお伽噺(おとぎばなし)

退行するお伽噺(おとぎばなし)
 
 
(2020年08月19日)
(2021年08月27日、再録+)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  夜から夜明け
 
電灯の下
影になって
不眠の夜をおとなしくあきらめていた
 
夜明けに先立って始まる
カエルの声と
ニワトリの声と
どんな都合でないているのか
遠くから取り巻かれているように
飢えたもの
耐えられないもの
死にそうなもの
おびただしい
遠い叫び
それほどさっきまで
夜は静かだったのだ
 
オートバイに乗って
出かける頃には
もうカエル聞こえない
ニワトリも聞こえない
 
壊れつづける機械といっしょになって
朝の騒ぎにまぎれていく
ひとつと数えられない
覚えられることもない
命のまわりを走りぬけた
命の後を行く
死んだように
かつて夜は静かだった
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
昔々のHSなら、イエスをトップとした白色霊団が現代医療を指導している、ワクチン開発には光の天使が関係しているとして医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに、
今のHSは、現代医療を全否定しているようで、白色霊団に対する信頼、尊敬はないみたいですね。もっと信仰を大切にしたいものです。
午後9:47 · 2021年8月25日
 
楽山は、昔の霊団?なるものを、よしとしているのでしょうか。「医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに」・・正気でしょうか。それとも、楽山は、アンチだと言っていましたが、是非が分からなくなっているのでしょうか。平気で、嘘を吐いているのでしょうか。
 
「信仰を大切にしたい」・・白々しい嘘です。楽山は、信仰と宗教を、好きなだけ、おとしめてきましたが、その根拠は、小学生レベルのご利益主教の知識によるものでした。つまり、楽山は、全く整わない反キリスト・反信仰です。また、平気で、嘘を吐いています。
 
 
 
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