ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年08月

 
  当たり前?(改)2
 
   当たり前のこと
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568495.html(ヤフー終了)
   楽山のブログ記事。2019年08月17日 楽山日記(LD)
    を改めて批判。
 
 
楽山は、いろいろ難しい専門用語を並べて学者気取りの記事を書いたりする一方で、今回のように、2年ほど前の記事ですが、小学校の道徳か、と思うようなことを書いたりもします。
 
そういう芝居がかったことをしながら、楽山は、以前、今回の元となる記事を載せた頃、ヤフーブログで、真面目に書いたコメントなのに、都合が悪ければ未承認のままにして隠すという当たり前でないことをしていたのです。
 
自分に対するところの、恥ずかしい、未熟だ、当たり前すぎる、言って何になる、という直感が楽山にはないために、無反省に訂正不能に、自らの慢心を芝居がかって出してきます。
 
反省しないために、修正・学習・成長がなくなると、書く文章が障害を表すことになります。こういう人は、例えば読書をして、他者のことを褒めても、都合がよいと思う判断だけですから、成長に結び付きませんし、誰のためにも参考になりません。
 
その後、最近の記事などには、しばしば、ごまかすために、見せかけの、反省、トホホ、という言葉の字面を並べるようになりました。しかし、反省と書いた前後で、何も変わっていないのです。
 
そういう、反省と書いておけばいい、というような、気安い作為で、自らの自己愛性の害悪に気づかないで、今も、分かっているふうを装い続けています。どんなに、柔らかく書いたつもりでも、自己顕示欲からの歪みによって、不出来に気づかず、自己陶酔に酔い痴れているのでしょう。
 
この一年余りで、記事の実質は、ますます思想の内容が乱暴になって何も改善されていない、という経過になり、ますます、実質のない文章であることを自ら証明してしまう始末です。
 
当時も批判しましたが、
今読んでも、楽山の、わざとらしい台詞が気持ち悪いので、改めて補足して再録しておきます。
 
当たり前のことを
当たり前に
できるようになりたい
と思う。
 
できるようになりたい、とは、当たり前にできていないことを認めるのでしょうか。しかし、少しも変わっていないようです。
 
人と会ったら、
こんにちは、
と挨拶する。
 
挨拶するのですね、礼儀として。普通の人でも、挨拶ですから、誠心誠意とは限りません。しかし、楽山には、真実より、大事なことなのでしょう。社交の世辞で、ごまかすからです。
 
何かしてもらったら、
ありがとう
とお礼をする。
 
小学生向きだが、今までのことから、世辞は言っても、してもらった・・という気持ちは、厚顔無恥のおっさんである楽山にはないと思います。どこまでも、他者に対して、教える立場だという欲望を大事にしたいようです。
 
まずいことをしてしまったら、
すみません
と謝る。
 
これも、小学生レベルの説教のようです。まずいことを続けながら、楽山は、謝りもせず、訂正もせず、自己中を継続してしていて、その上で、こういうことを書いてくるという悪質であります。
 
楽山自らは無反省で訂正不能なのに、他者に対しては上のようなことを書いて公開してきます。基本的に、彼ら、楽山と偽善者シャロームなどは、本気で謝罪する気など微塵もない者たちです。
 
こういう当たり前のことを
当たり前にできてると、
自も他も、
余計なストレスなく、
平和に生きられるからいい。
 
当たり前のことを、当たり前にせずに、にもかかわらず、砕けた、あるいは、くずれた言葉を、わざとらしく使って、当たり前のこととして勧めているのです。その狙いは、自らのカルト思想であり、自らを高めることであり、決して当たり前の精神ではないことばかりなのです。
 
こういうやり方で、超常のことも吹聴して、気に入らないことを無視する一時的な気楽さを勧めて、結局、自己中を勧めて、自分の問題とストレスを排除して、安穏に生きるのが楽山の楽なのです。実際は、人生の落伍者が、お山にふんぞり返って、幼稚な見栄を張っているのが、楽山の山なのです。
 
楽山は、当たり前のことが出来ない人です。自分独りの、根拠のない多幸気分に生きています。社交の世辞以外には、謝罪も、その元となる反省も、罪悪感も、全く持っていないということを強調しておきます。決して関わらないでください。楽山は、思いやりの欠片もない冷血漢です。
 
若い時は、
当たり前のことを
偽善だといって
毛嫌いしたり、
 
楽山は、当たり前のことを、偽善だと言ってきたのでしょうか。そうではなく、今、楽山の、この記事が、作為の白々しい偽善なのです。
 
当たり前のことは、当たり前であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。当たり前が、そのまま、真実というわけではなく、当たり前が、偽善と限るわけでもないのです。
 
そういう弁えもないまま、言葉をいじって書けば書くほど、楽山の、ごまかしと偽善の作為が、かえって表れてきます。
 
偽善の問題こそ、二千年前、既に、キリストが指摘して批判した大問題だということに、何も気づかない楽山です。
 
当たり前でないことを
屁理屈言って
正当化したり
することもあったけど、
 
「屁理屈」、かたより、ひいき、月並み、短絡、自己「正当化」、そして、詭弁と嘘くさい芝居による誘導、それが、楽山の言論の特徴です。この記事は、幼稚な分、壊れ方も分かりやすいほうです。
 
やっぱり
当たり前がいいな。
平凡、普通というのが、一番いい。
 
楽山を受け入れないでください。今までの経過から、楽山は、自身のことを言っているのではなく、他者がそうあれば《都合が》いいと言っているに等しいのです。
 
楽山は、平凡でも普通でも当たり前でもありません。嘘吐きの三文芝居の大根役者の詭弁屋です。楽山の作為は、他者への、印象操作と、詭弁と、臭い説教と、くさい芝居と、誘導と、刷り込みです。
この点、シャロームと、よく似ています。そのことから、成りすましを疑っています。
 
今読んでみると、楽山は、なんだか、相田みつを・・の真似でもしているつもりなのでしょうか。まことに身の程知らずであり、背筋の寒さと痒みとともに、表れているのは、呆れるほどの、浅はかさと、言葉の真実に対する安易さと軽視と、わざとらしさ以外にはありません。
 
深みのない者が、その自覚もなく、深く考えることをせず、自己顕示欲で真似をするとこうなる、という例です。
 
 
   手厳しい(スピリチュアリズム、波長同通の法則) 
 
 
楽山の宗教観が、当たり前でないことは、今までも、いっぱい表れてきましたが、今回も、その例に漏れないようです。霊が分かるっぽい妄念に囚われると、どうなるかという例です。
 
超常の霊とかが大好きで、それを当たり前だと自分に当てはめて満悦し、本当に当たり前の現実の日常を疎かにして、その結果を、つまり現実の自らの人格の鈍麻と破綻を、シャロームと同じように、身に受けていることに気づかない楽山です。
 
マリアさんは、なかなかに手厳しい。
・ひさしぶりに訪問履歴を見たら
(省略)
自分は聖書の話はよく分からないけど、
当該記事は、スピリチュアリズム的なので、
書いてあることは、まずまず分かります。
 
聖書のマリアではなく、ヒステリックなカルトの、自称マグダラマリアのことだろうと思います。楽山は、「聖書の話はよく分からない」なら、聖書のことも、キリスト教のことも、信仰のことも、肯定したり、否定したり、できないのだから、書いてはいけないはずです。
 
スピリチュアルというのも、人間とか心理とかを見て判断しているサイトもあるようですが、霊感の要素が思いこみといっしょに強くなる場合というのは、超常信仰?になり、ひどくなれば、楽山のようになり、カルトのようになるでしょう。
 
楽山は、スピリチュアルが、まずます分かるのだそうです。さりげなく言うことに、霊が分かるっぽいという妄念の本性が現れているようです。一人の人間の、あるときの精いっぱいの表情ほどにも、迫真性など、伝えることのない楽山です。
 
ネットのカルトである自称マグダラマリアのことを言っているようです。前に批判したことがありますが、結局、神の正しさと、人の信仰による正しささえも、区別できない彼らの主張を、私は、キリスト教とは思えません。
 
自称マグダラマリアは、批判に対して、「ぷぷぷ」とか「けろっ」とか奇妙な言葉とともに、ボロクソの罵詈雑言しか返せない人なので、相手にしてはいけません。ひょっとしたら、自称マグダラマリアも、楽山の成りすましかもしれません。
 
そういえば、
スピリチュアリズムでは、
類は類を呼ぶ
波長同通
というようなことを強調してると思うけど、
最近は、
このことを、
つくづくリアルに感じるようになってきた。
 
これは言うまでもないことですが、物理学の波長ではなく、根拠を示せない、楽山の、超能力としての、霊的?な波長ということです。楽山は、リアルに、霊感の波長を感じると言っているのです。楽山の超常と霊能の妄想が表れています。
 
スピリチュアリズムの、類は友を、いや、楽山は自分に似ていると思い込んでいるスピリチュアルの人たちを、霊が通じ合っているとでも言うのでしょうか。そういうことを、楽山は、波長同通?で、リアルに感じるそうです。楽山の直観力の鈍さを考えれば、これこそ、真っ赤な嘘だと思います。
 
楽山の話には、魔術的、超常的なことがメインになってきましたから、この発言は、楽山が感じていると言っている霊的超常的なことをリアルだと思い込んでいる妄想と受け取っていいのでしょう。随所に、怪しさが漏れ出てくる楽山です。
 
聖霊、悪霊、心霊、神霊、など、霊というものは、在るともないとも言えないことですが、少なくとも、そのひらめきや敏感さを、楽山に感じることはなく、代わりに、下卑た欲望に縋りついている鈍重なズルズル根性の執拗さだけが表れています。
 
霊界の話を持ち出すまでもなく、
この世を見回しただけでも、
人と人との関係において、
共通点があれば親しくなり、
共通点がなければ疎遠となるようなので。
 
共通点があることを、波長同通という難しい言葉で表して、スピリチュアリズムを語った気分になり、格が上がったかのように思い込む楽山の超常嗜好と霊能者気取りが表れています。
 
結局、楽山は、気に入ったことは「親しく」受け取り、気に入らないことは考えもせず、原始反応として、無視するということです。「疎遠」ではなく、無視であり、かつ、婉曲的に、当てつけや、嫌がらせだけはしてきます。楽山は、稀に見る、とても陰険な人です。
 
アドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた楽山は、その教えであるところの、気に入らないことは無視する、ということを、ずっと字面のまま文字通りに実行してきた人です。
 
楽山は、無視することを、スルー、ここでは、疎遠、と言っているようだが、字面を変えても、自分は言いたいことを言うが、人の言うことは聞かない、という体質は変わらず、真実の追求において、有害でしかありません。
 
人付き合いについての終わりの2行を、始めの2行の霊界の話に、さりげなく関連付けてくるところが、楽山の詭弁であり、霊界の話を持ち出せる自分という自己愛の陶酔気分を表しているようです。
 
霊界の話を持ち出すまでもなく、ということは、楽山は、霊界の話を持ち出せば、いったいどんなことを言い出すのか、今まで以上に霊能者を自負するのだろうか、カルト教祖になるつもりか、などと思われる訂正不能のホラーで、内実は、児戯的かつ幼稚なので、決して、近づかないでください。
 
楽山は、今まで霊的能力について書いてきましたが、「心の理論」という記事では、発達心理学の初歩的な理路を理解しないで、仏様の心が分かる霊感の話に、改造していました。これは、証拠と言ってよいでしょう。
 
私は、超常にばかり関心がゆくと、日常の配慮や感じ方が正常に学習されないという危惧をいだいています。とりわけ、シャロームや楽山には、如実に、その害悪が現れていて、その結果、自己中心で、訂正不能になるので、元の人間性へ戻れなくなってしまうようです。
 
そういう意味で、楽山ブログは、公害だと思います。また、シャロームや楽山のような、人間としての豊かな情感が、欠けている人は、えてして、自分を改善することより、超常の助けや超能力を妄想し、自分の、どうしようもない不足をごまかすために、超常を欲しがるようです。
 
そして、それが手に入るといったことに関心があり、実際は得られない、もどかしさから、一気に、あるいは、妄想的に、得ているという自覚と自尊を、超常趣味で妄想的に満足させようとするのでしょう。
 
例えば、霊、霊的何々、神、奇跡、など、超常のことを分かる、あるいは、分かったつもりで語る人というのは、自分が、一般の人とは違った特別なの存在であると思いたい人でしょう。それゆえ、人間と人間性そして良心を疎かにしやすいのです。
 
 
上の2つの記事で、楽山の書いていることは、小学生なら騙(だま)せるだろう、というような、次元の低いことです。ペテン師の、わざとらしいインチキ三文芝居です。
 
つまり、楽山は、幼稚な説教を、子供でも分かるでしょ、当たり前でしょ、当たり前ですよね、という類の誘導の詭弁で、刷り込んできています。そこから、超常と妄想の世界に誘導してゆきたいのでしょう。
 
考えることが好きな人なら、作為の芝居と台詞の、幼稚な企みだと気づくことなのです。真に受ける人はいないと思いますが、くれぐれも、楽山には、近づかないでください。人の話を好意的に受け取る傾向のある人や、そういう教育を受けている人が、特に心配です。
 
私は、楽山がレスしないからとか構ってもらえないからとかいう理由で批判を続けているのではありません。楽山が、おかしなことばかり書き続けていて、キリスト教が大いに誤解される恐れがあるので、批判の必然が生まれるということです。楽山は、宗教と信仰の敵です。
 
もしかして、小学生あたりから、だまそうというのでしょうか。当たり前バカボンの楽山先生?です。賢い小学生から、石でも投げられたらいいのです。
 
私は、シャロームについて、そうしたように、楽山の詭弁と偽善の有り様を、今は、資料化するために、引用し、批判を重ねています。
 
 
当たり前バカボン

当たり前バカボン
 
 
(2019年08月20日)
(2020年08月20日、補足修正して再録)
(2021年08月26日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
リベラリオン
@komo266 RT @liberalion757: 
洗脳信者のこんなツイートを読むと、心底ゾッとしてくる。
これが教義そのものではないとしても、デマ情報と
信仰が結びついて、こんなトンデモない主張になって
しまう。
おそらくこんな信者がウヨウヨいるのだろう。
信者を思考停止させるカルトの怖さを、まざまざと
見る思いがする。
引用ツイート
クレヨンゆうちゃん With Savior🌎✨ With EL CANTARE🌎😇
 · 8月14日
コロナワクチン接種するは、遺伝子組み換え人間になることだ。悪魔になることだ。
遺伝子組み換え人間に対し、宗教は勝てるか。
遺伝子組み換え人間に対し、信仰心は勝てるか。
我が幸福の科学の真価が問われる死闘になる。
 」
 」
午前9:57 · 2021年8月21日
 
引用元を批判するつもりはありません。リツイートした楽山を批判しています。
 
とても異常なのに、正常と常識を装う楽山がもたらす害は、深く静かに進行する誘導と思考停止によって、異常だと気づきにくい分、疲労だけでなく、人格破壊と鈍麻という後遺症がありうるので、むしろ、人生における悪しき影響つまり害は大きいのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
もし内村鑑三がHSの指導霊になったら、イエスの悟りが手のひらに見えたとか、自分がイエスを指導したという大川隆法が一番先に破門されるでしょう。
それから実力ある職員は独立を促され、従来のように弟子は一生弟子でいなさいというのはなくなるでしょう。もちろん教祖信仰もなくなりますね。
(引用省略)
午前7:10 · 2021年8月25日
 
そして、教祖並みの高慢で、知りもしないことを学者気取りで語って、反省しないし責任も負わない楽山が、真っ先に、悪魔性を見抜かれて、跡形もないほどに、排除されるでしょう。破門どころではなく、楽山は、存在を認められるかどうかも、怪しくなるでしょう。
 
教祖信仰は、なくなるのでしょうか。教祖を廃して、宗教を、思想に、おとしめたい楽山が言っています。何も信じないで、自己を、神よりも、キリストよりも、高みに置く楽山の、許しがたい欲望が表れています。
 
「弟子は一生弟子でいなさいというのはなくなる」・・イエスの弟子は、聖人と言われても、弟子であることに変わりはないのです。キリスト信仰を知らない楽山は、弟子が救い主の立場を乗っ取っていいと思うのでしょうか。
 
物知り顔に、楽山が、書けば書くほど、次から次に、楽山の反キリスト性と、反宗教性が、あらわになってゆきます。壊れたスクラップのポンコツ車を、モーターショーの高級車のように、見ることだけは避けたいものです。
 
まことに、余計なことばかり書く楽山です。楽山よりは、犬か猫一匹のほうが、よっぽど、人間の心には、善い影響を与えるでしょう。書けば書くだけ、誤謬~誤解~曲解~無駄~迷惑~無理解~妄想~有害~病原となる、楽山の自己愛性パーソナリティ障害なのです。
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
  あの夜と病
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の偽り方2
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が正当だと認められるなら、宗教はお伽噺以上には何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。
 
私は、反キリスト楽山の資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
霊言、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、明らかであります。丁寧語で書いて、且つ、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。
 
断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、刷り込もうとしてきます。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方をして、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。
 
断定しないと言いながら、楽山は、自分に都合のよい神がいないことから、神を否定していました。これが、楽山の、根拠のない断定なのです。このように、いちゃもん、詭弁、嘘、などが、楽山の専門で、まるで、ネズミ男のような存在です。"いい加減" が人間の形をしているのです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。何も理解しなければ、断定できず、判断も出来ず、そのことを柔和に見せかけて、だましてきた楽山です。
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
これが、何かの弁明になるのでしょうか。すごい壊れ方です。こう言っている、こう書いている、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れが、楽山の記事になっています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山の、ねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労だけを与える元凶なのです。
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる知恵であるかのように、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、中身がないだけに、煩わしいものになります。
 
今までのこと、上に書いたこと、などから、いちばんのトンデモは、楽山です。だから、何も書くなと言っています。奇珍の理路、無感性、無共感、無反省、そして無責任。
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。楽山は、ろくに聖書を読んでもいないのに、こういう、いちゃもんになりそうなネタを拾っては書いてきます。結局、信仰を、あざ笑っているに過ぎません。
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところであります。絶望の言葉が、キリストの復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。
 
そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。楽山の言は、出来の悪い子供が、墨で髭と眉を書いて、総理大臣だい!、水と肛門様だぞ!・・と言っているようなものです。
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
「捨てる」楽山は、かなり断定的に判断しています。言った傍から、「実感するし」「あやしく」「結論付ける」と、自己矛盾も甚だしいのです。自分で何も、考えないけど、自分は頭がいいので、有名になりたい、というのが、楽山の、悪い夢になるプロセスなのでしょう。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、中学生~高校生の時に、私もいだきました。
 
信仰は、神が分かるから生まれるのではなく、聖書とキリストによって、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。楽山には、神と取引しているかのような、存在の身の程知らずなのです。
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈も、直感・直観も、皆無だと思います。そういうものを見せたことがないからです。成り立ったかのように見せかける詭弁に、だまされないでください。直観は、なにかしら心を解放するものだけが是とされるでしょう。楽山には見られたことがありません。
 
理屈は、欲しく思って、ある程度、付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、「欲しく」「つける」などと、何を軽薄なことを言っているのでしょう。学習を捨てた楽山には、ないものねだりです。
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
楽山の無難・穏当は詭弁であり、トンデモを退けるなら自らの言葉をを退けるべきです。この楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないのトンデモです。既にバレているのです。楽山こそ、インチキなのです。
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
理路は、ほどほどで満足するものではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していないと思います。参考にもなりません。ただただ、害になるだけです。
 
楽山の言は、思いつきと思い込みが大半の酷いものでした。それで満足すること自体が、楽山の言論不向きな根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。言論に「ほどほど」良いものなどありません。言論は、真実の追求です。楽山は、インチキ丸出しです。
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
だからトンデモを退けるなら、楽山の屁理屈を退けてください。「ほどほど」ではなく、明確に、楽山を退けてください。真実の追求に、いちばん邪魔な障害物です。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の姿勢って、メチャクチャです。
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、奇説、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。どうして屁理屈が必要なのでしょう。楽山自身が、いつも屁理屈だけを言っているからです。
 
信仰について語る、ということは、神への恐れを持ち、それゆえに、神の前の正直ということだけが必要です。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。学習も成長もしない楽山には分からないところです。
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。常識的で穏当なものは、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないことが多いのです。それに、楽山には、常識はありません。
 
妄想でもなく、超常でもないところで、信仰は、世俗の見方によっては、裏切られていることが多いからです。俗の臭みと詭弁だけで、学習を怠け成長をしない楽山には、分からないところです。
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の持ち物です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に無条件賛同したことなどにおいて、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
楽山に、うんちはあっても、うんちくはありません。うんちくを、うんちくだと受け取る感性もありません。楽山は、ただただ、ペテン師であるだけです。楽山の言う「穏当」は、何の助けにもならない、楽山の、婉曲と曖昧の、ボンヤリ言語のことです。聞くだけ、有害です。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だから、とても異常なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、ずっと、学習途上であります。楽山の「穏当」は、恐ろしい騙し文句です。
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の慢心は、「(笑)」を楽山にもたらします。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症候群をもたらしているのです。ヘラヘラと人を笑うことしかできない楽山には、独り笑いの悟り顔の、醜さが付きまとうでしょう。
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。言論に標準はありませんが、楽山の詭弁と嘘は排除しなければ、言論も、信仰も、成り立ちません。
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊する悪性の病原です。標準的な感性、良心を見失っているのは、他でもない、楽山であります。
 
私が楽山に対して批判として書いた感性と良心のことを、楽山が、今、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば悲劇となるという狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っていないと判断しています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書かないでください。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用しない妄想的単方向を、うす笑いで進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。もっと恐ろしいところへも向かうでしょうから、誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
食えないことを書き続ける

食えないことを書き続ける
 
 
(2020年08月23日)
(2021年08月25日、再録+)
 
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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  いちゃもん2
 
   とこしえの御座 (詩編9:8)
   2019年07月27日 楽山のブログ、楽山日記(LD)
    改めて批判します。
 
 
楽山は、まじめに読んでもいない聖書に苦情を言っています。
 
主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
(詩編9:8)
 
詩篇9:7のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
9:5
あなたはもろもろの国民を責め、
悪しき者を滅ぼし、
永久に彼らの名を消し去られました。
9:6
敵は絶えはてて、とこしえに滅び、
あなたが滅ぼされたもろもろの町は
その記憶さえ消えうせました。
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
9:10
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
主よ、あなたを尋ね求める者を
あなたは捨てられたことがないからです。
 (詩篇9:5-10、旧約聖書)
 
このように、裁きと救いの聖句です。しかし、楽山は、永遠という長さにこだわっているようです。聖書の文脈を読まないで、気になった言葉だけで考えているようです。そういう自分を反省することもなく、聖書に文句を言うのでしょうか。
 
以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
でも近頃は、
そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、
ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
けっこう好きだった・・という趣味では聖書は語れません。圧倒されて・・というのは、どうやら、感動ではなく、安っぽく短絡した概念から気味が悪いという気持ちに近いようです。また、信仰を、おとしめるつもりでしょうか。
 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなるような」・・楽山の、いつもの、大袈裟なだけの芝居のセリフだと思います。分からないことを、受け取れないことを、共感できないことを、ごまかそうとすると、わざとらしく大仰な言葉を使うしかなくなるのでしょう。
 
たとえば、とこしえという時間は、
宇宙の百倍の大きさの石があるとして、
一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、
すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、
あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
聖書の、とこしえ、という言葉は、物理的な時空で語れないのは当たり前のことでしょう。楽山の、信仰に対する、いい加減なスタンスからは、「めまい」というのは、嘘だと思います。また、信仰を、おとしめるつもりのようです。
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、
そういう時間を生きることになるのだろうし、
これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
足下がふらふら、怖い気がする、・・嘘だと思います。信じるかどうかは、自由ですが、信じてもいないのに、いちゃもんだけは付けてくる楽山です。永遠の命を、時間と安易に決めつけて、永遠の時間を生きるなんて、想像もできないのに、「ふらふらして」「怖い気」がするでしょうか。
 
そんなわけで以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、
最近はどうも、そういうことは想像することさえ躊躇してしまう気分になってきている次第である。
 
とこしえ、永久、永遠、という言葉だけに、何らかの興味を持つという、少年の興味から、卒業しないまま、「想像することさえ躊躇してしまう」ほど気分がよくないと言っていますが、永遠なんて、躊躇することではなく、もともと想像できないことでしょう。
 
暗に、信仰は成り立たない、でたらめなんだとでも、吹き込みたいのでしょうか。このように、楽山のような反キリストの魂胆は、ほのめかすことによって、信仰をおとしめ、曲がった印象を吹き込もうとしているようです。
 
楽山のような深みのない病質者は、いい加減な読み方しかしてこなかった自分について、何の反省もなく、軽口で言ってしまいます。結局、何が言いたいのかが分からないほど、記事を、ボンヤリ言語の弊害で満たしています。
 
はっきり否定せず、肯定せず、しかし、否定的な印象をすり込んでゆくやり方です。この記事、企んでいなければ、書く必要など、どこにもないのです。そう感じるから、そう書いた、というのでしょうか。そう感じたなら、そう書く前に、公開する前に、考えるべきです。
 
ふつうは、いい加減な読み方をしたという自覚があれば、いちゃもんは、遠慮して、書かないものですが、楽山は、自尊第一で自分の合理化の意味付けのために、考える前に、自己中のクレームを書いてしまうのでしょう。疑問を、疑問として処理できない体質が表れています。
 
考えもなく、欲求のおもむくままにするのは、欺いてばかりだったことがもたらす災いとして起こり得ます。まっすぐ問題に取り組む姿勢をなくしてしまったからでしょう。ピンと来なくなり、感動できなくなり、不快になるのです。
 
それは、すでに、心と理路の秩序を失っているところの、シャロームの、讃美噴射とボロクソ節に表れているのです。キリスト信仰は、教えられたことを鵜呑みにして、同じことを唱えると褒められるカルトとは決定的に違います。
 
永遠は、測れないし、人知では理解できませんが、あるとき、永遠を感じることはあるのです。楽山には、それがないから、辻褄合わせに走ってしまうのでしょう。次元が低すぎます。 
 
キリスト信仰は、自己愛に固まった者や、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。彼らは既に分かったつもりでいるからです。つまり、楽山のような、いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになって、その思い上がりだけを表しているということです。
 
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。楽山は、そこから、最も遠いところに居て、いちゃもんだけをつけてきます。
(いちゃもん:言いがかり、難癖)
 
 
 
 
楽山の、いちゃもんです。聖書の短い聖句だけを引用して、前後の文脈など、お構いなしに、はっきり言って、子供のだましの、いちゃもんをつけているに過ぎません。
 
「ふっと気が遠くなるような」「めまいがする」「ふらふらしてくる」などと、山の上から景色を見ているような書き方をするのは、聖書の伝えようとする意味を、わざと、日常感覚の言葉を使って、的を外し、読者を聖書的な意味への道から遠ざけようとする悪意があるからです。
 
つまり、ブログ記事本文に書いてある言い方は、キリスト教って、おかしいね、という、刷り込みであり、この、ふざけた書き方によって、感想ではなく、作為の揶揄だと分かるのです。
 
楽山は、いつも、一見、ふつうに感想を述べているように見せかけます。一見、ふつうに見せる、これが、楽山のボンヤリ言語です。しかし、実際は、反信仰、反宗教、反キリストの楽山の企みであり
ここでは、キリスト信仰の言葉を、あざ笑っているわけです。
 
もう一度言いますが、キリスト信仰は、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。何故なら彼らは既に分かっているつもりでいるからです。いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっているからです。
 
正直に祈る心を持たない者は、自己顕示するしかないのでしょう。しかし、聖句を、からかっても、何の解説にもならず、意地悪にヘラヘラ笑っている姿をあらわにするしかないという例です。大人のわざとらしい児戯は、実に醜いものです。
 
もう一度言いますが、
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、
神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。
 
信仰者が
神の前に祈るとき必要なのは
そのとき精いっぱいの正直さだけです。
 
それしか神には通じないことを、楽山は知る由もなく、神聖を侮(あなど)り、低め、笑いながら、結局、自分の見苦しい高ぶりだけを表すことになるのです。
 
自己愛の低次元に囚われたまま成長せず、幼稚な辻褄合わせをするしかなくなり、論者気取りだけでクレーマーとなり、知性の広がりも、感性の柔らかさも、自ら捨てて望まなくなり、気持ち悪さだけを表してしまう楽山です。
 
 
不正直の獣道(けものみち)

不正直の獣道(けものみち)
 
 
(2020年8月13日、リブログ+、同日一部修正)
(2021年08月24日、一部修正加筆して再録)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
 
区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ることもできるが
迷うことも飢えることもある不自由
 
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
その両価性に循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
(二千年代か)
 
 
 
 
ヤフーブログ時代に、私のブログをコメントで荒らした様々なHNが、スクショで残っています。楽山は、その様々なキャラが楽山だと証明できないことを利用したのでしょうが、一方では、それらが、楽山ではないと証明することも出来ないというネットの罠に嵌っているのです。
 
 
 
学校の先生が、いじめ被害者家族に言ったことは、驚きです。加害者とこの教頭は良心がないと思います。決して許してはいけません。人類の敵は、教育などの制度ではありません。人類の敵は、人間性のないサイコパスです。あらゆる世界に、楽山のようなサイコパスが増えていると思います。
 
サイコパスは、善悪の判断が出来ません。その場で、良さそうな屁理屈をでっちあげます。考えれば、人道に反することが常識で分かるはずですが、その常識そして良心がないのです。被害に遭っていない多数のほうを優先させて言い訳にする詭弁でした。一人の被害者が一大事なのです。
 
いじめ被害者家族に対して、加害者にも将来があると責めたそうです。加害者には、反省しない限り、将来はありません。こういうことを言う教頭は、何の人道も分かっていません。その場で、ぶん殴られても不思議はないと思いました。これが、教育の現状なら絶望的です。
 
そして、その教頭は、よく考えてくださいと家族に言ったそうです。貴様が考えろ!・・ということでしょう。理路が、楽山の詭弁に、よく似ています。形式的で、人間として考えていない証拠です。うわべだけ理屈が通っているつもりのようだが、常識があれば、成り立たないのは明らかなのです。
 
(ネットより)
「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」
ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2021/08/post_245909.html
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  楽山のねっとり右翼
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張し誘導したいようです。楽山は、そこでアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性パーソナリティ障害者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合う・・などということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだ、という、体験者とは別の話なのです。面談したというのは、また、楽山の、インテリ気取りの作り話の自慢話ではないでしょうか。
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の臭いがプンプンしてきます。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性パーソナリティ障害は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
立場など無い者

立場など無い者
 
 
(2021年08月23日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らない、謝ったからいいじゃろ・・という言い訳は成り立たない、という話です。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話でもあります。
 
決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、謝りもしない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。
 
楽山は、また、勘違いして、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、いっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山は、そういう印象操作をする人です。だまされないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより「ほととぎす・・・ほととぎす」
と自分の名を頻(しき)りに唱えている
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない
・・・
から
 
 
  忸怩
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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  人間が受け取れること2
 
 私の記事「人間が受け取れること」
  補足修正して再録します。
 
 
信仰は
神・キリスト・聖霊という神性について
それぞれ、こうだと分かって信じることではありません。
そういう信じ方を決めつけ思い込みの信じ込みと言っています。
 
信仰は
人が神のもとにあるという希望です。
それは絶えることのない希望です。
 
信仰は
キリストの愛と共感によって
絶対孤独から解放された人間が
キリストの愛と共感に答えて
キリストを愛することです。
 
人間が受け取ることの出来る信仰とはどういうものでしょう。
 
超常の奇跡も仕組みも
人間が、分かったと受け取れるものではありません。
しかし聖書に書いてあるのだから否定されるものでもありません。
 
教理としてまとめられた解釈は糧(かて)となりますが、
それを、そのまま話しても、
恐らく人間に対する説得力はないでしょう。
 
教理は、聖書解釈から、妥当な道筋を表したもので、
それを信じ込んで、信仰となるわけではないのです。
私たちは、経験の中から、敬虔な信仰を学んでゆくのです。
 
そういう手に負えない救いの仕組みについて
神に任せるしかない超常の話について
私たちは正直に、分からない、と答えるべきであります。
それが神のもとにあって
人が不完全であることの自覚であり
敬虔なのです。
 
敬虔は礼儀ではありません。
敬虔は信仰に密接に結びついており
信仰になくてはならないものです。
 
人間には何が分かるのでしょう。
人間に分かるのは人間に起こることです。
また人間によって営みとできることです。
 
人間には知性と感性があります。
どちらにも直観的または直感的な理解というものもあります。
この2つの熟語の区別は、私の中では、はっきりしてはいません。
人間に起こることでも心の中のことは
人間には明確につかむことの出来ないことが多くあります。
 
知性に拠って理路となり実行可能となること
感性によって納得できて心を活発にすること
これらは人間にとって
完全ではなくとも
手に負えることです。
つまりこれらを用いて聖書を読み
これらを用いて信仰生活で必要なことを考えてゆきます。
 
聖書の中で
処女懐妊、奇跡、肉体の復活について
人間は、そう書いてありますと言っても
それを理解することは出来ません。
これらは神のわざですから
神のものは神に任せるべきであります。
 
神に任せることについて
生命保険のような保証を得たと思うのはカルトのすることです。
神に任せたのであれば
喜びをも悲しみをも、最後には地上での死をも
与えられることを受け容れるべきでしょう。
 
 
聖書の中で
キリストと人間が交わって
キリストが何を見抜いたか
そして、交わした言葉と態度が、人間にとっては何よりも重要です。
 
聖書の中で
キリストが、いかなる人を救ったか、
キリストが、いかなる人を批判し否定したか、
この両方から、キリストの意志と意図を読み取るべきです。
 
そして、聖書を読んで、キリストに癒やされた経験があるなら、
それは、魂の奇跡、または、心の奇跡と、呼ぶべき奇跡なのです。
この奇跡だけは、人間に理解可能です。
 
 
既に、記事に書いたことではありますが、
 
 (創世記、口語訳)4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
 (創世4:5、旧約聖書)
 
カインは、創造主が省みなかったとき、憤りました。
相手は創造主なのだから、本来、深く悲しんで理由を聞くべきだったのです。
 
カインのこういう在り方は、サイコパスの特徴ではないかと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 
 (マタイ19:20-22、新約聖書)
 
守ってきたという青年の高慢をくじくために、キリストは、総てを捨てるように、青年に言います。
そして、青年は、出来ないことを言われたので、悲しみながら立ち去ります。
カインとは違うところです。
この青年が、その後、どうなったかは、聖書には書いてありませんが、
この青年に、その後の導きがありますようにと、祈るのには十分でしょう。
悲しむことの出来る人は、神のもとにあって、幸いです。
 
このように、神から、そのときは離れてゆく、という人にも違いがあります。
そこに、救いに与(あずか)るために必要なヒントが書いてあるように思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
カインと、青年の、2つの聖句で表された、怒りと悲しみは、不都合なことが起ったときの感情として、憎しみと暴力につながるか、悲しみと反省と悔い改めにつながるか、という大きな違いがあります。前者はカインの道であり、後者は信仰者の道であります。
 
それは、そのまま、人間の感情の方向が、御心に、適(かな)うか、適わないか、ということでもあります。聖書は、怒りよりも、悲しみを、信仰の義に至る経過としているようです。
 
カインは、その後、弟アベルを殺します。殺したら、取り返しがつきません。
 
青年のその後は、書かれていないようですから、推測するしかありませんが、立ち去っても、戻ることは可能です。悲しみは、内省やアドバイスによって、元気を取り戻すことが可能な感情です。
 
憎しみは、外に向かう攻撃性で、暴力につながりやすく、
 
悲しみは、内に向かう分、反省につながる可能性があります。
 
悔い改めの正直な祈りは、多く、悲しみを経ています。怒りや憎しみからは生まれません。
 
怒りは、とっさの反応として湧き上がってくるものです。それが、憎しみという持続する陰性の感情になるかどうかは、とても重要だということです。
 
悲しみは、長く続くと、心の病につながることもあり、悲しまないでいられるほうがよいのかもしれませんが、生きておれば、自他ともに人間は不完全ですから、多かれ少なかれ、悲しみは、必ず訪れてくるものです。
 
悲しみと、憎しみと、どちらを抱えている人に、人は近づこうとするでしょう、言うまでもなく、前者であります。助けになれる可能性があるからです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
誰かに慰められるだけでなく、癒しと救いという信仰の本質に直結する大事な聖句です。怒りに身を任せる人、憎しみに身を任せる人には、人も近づかず、神も近づかない、というより、近づいたことに、人が気づかなくなるのです。
 
怒りには、義憤というものもあります。不正に対する怒りであり、短絡しなければ、必ずしも、いつも悪いとは言えません。しかし、憎しみや怨念になってしまうと、災いとなることが多いでしょう。
 
最も災いなのは、無感情と無反応です。何があっても、感情的にならないのではなく、感じない者は、また、感じなくていいと思っている者は、結局、さらに感性が鈍麻してゆき、無反省になるので、そこから、知性も成長しなくなってしまうのです。
 
無感情、無反応、無反省は、人間ならば、ありえないことのよう思われますが、傾向としては、人格障害において起こりえます。カルトの刷り込みなどによっても、起こりえます。帰結するところは、人格崩壊、または、自暴自棄の混乱状態となってゆくでしょう。
 
 
(メモ的に)
 
神のほうが人から離れてゆくことはありません。
神の全知全能は、人の総てをも知るのであって、離れることはないのです。
だから、人は、離れても、いつでも、神のもとに帰ることが出来ます。
神は、いつも、待っておられるということです。
 
神ではなく、人のほうが、勝手に離れてゆき、
神への節操を忘れて、正直な告白と悔い改めをしなくなることがあり、
そういう者に限って、心の中に別の守り神?を捏造してゆきます。
そして、盛んに讃美するのです。
 
神は人を裏切りません。
 
また、自由意志のない動植物は神を裏切りません。
 
人だけが神を裏切ることがあります。
 
その中で最も重い罪は、自分に都合の良い偶像を神?と言うことです。さらに、自己正当化と自己顕示欲のために、悲しみに気づかないならば、代わりに、自分を高める嘘を吐くようになるからです。
 
悲しむ心を持たないで、沸き起こる怒りと継続し増幅する憎しみに任せる精神状態は、悔い改めとは逆方向の、あざ笑いと復讐の念をを生じるでしょう。不都合に怒るカインにおいて、サイコパスの起源として、典型であります。
 
悲しみをいだくということは、それほどに、人間が救われる重要な要素なのです。
 
 
今、悲しむ者は幸いなり

今、悲しむ者は幸いなり
 
 
(2019年08月18日)
(2020年08月21日、加筆修正して再録)
(2021年08月22日、再録+加筆)
 
 
 
  低い人
 
低みを流れる風に吹かれて
川を眺める
緩やかな流れに揺らめく空の高み
あの青い風に吹かれたいのは
 
長い影をつくり
森を沈ませ
闇へと消してゆく
ひとときの
雲の縁を輝かせ
じりじりと焦がしていく
あの熱に焼かれたいのは
 
星の地図よりも星と星の間
小さな星を瞬かせ
夜の空をつくっている
黒い曲面よりも平坦な
深海よりも深い立体の
あの底の底へ旅したいのは
 
人ひとりの
喜びや悲しみも測れないでいて
忘れることも割れることも
地上で覚え育った
鏡よりも
低い
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
スープ飲む?
 
 
(90年代か)
 
 
 
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