ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年08月

 
  楽山の暴走
 
 「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2
 2021年08月19日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山は、また、恐ろしく長い記事を書いてきました。まとまりがなく、楽山中心に書かれている記事を、いったい、誰が読むのでしょう。URLは、リンクされていません。一連のHSとアンチの論争のようですが、いつのことなのか、2012年とか、2020年とか、分散して一定しません。
 
もちろん、全部引用することはしませんし、これを記事にする目的は、ずっと変わらず、文章に表れる楽山の症状であります。批判されて、現在の問題点から目を離したい楽山の断末魔のようです。
 
両者を比べると、・・相手を名指ししない当てこすり、アテツケばかりだけども、ガン氏はアンチのUMA氏と正面から議論してたので、ここは立派だったと思う。
ただUMA氏から痛いところを突かれてからは議論そっちのけで、UMA氏の通報排除にやっきになってたのはカッコ悪かった。
 
楽山は、まるでレフリーのように、「立派だった」「カッコ悪かった」などと、批評しています。楽山は、そういう立場に立てる人ではありません。批判される側であり、いうなれば、被告と言うべき位置であります。
 
当てつけは、こちらが否定していることを執拗に書いてくる、という、楽山がしばしば書いてきた嫌がらせがあります。またしても、自分のことを書かないで、よくもまあ、平気で人のことを言えると思います。
 
公序良俗に反しない限り、言論は自由です
 
楽山の、こちらの意見を無視して同じことを言う、幼稚な偏見のようなことを重要であるかのように繰り返す、などは、明らかに公序良俗に反して有害です。しかも、妄想のように訂正不能です。節度がない典型が、楽山です。
 
自分の捏造、嘘、ごまかし、偽り、邪悪な心を規制しないで、好きにさせてくれという意味の自由です。
 
こういう自由のすり替えは、楽山の場合、人それぞれとか、自分を貫く、といった言葉を、自己中で、勝手で、迷惑をかけてもいい、という身勝手な自己正当化として使ってくる詭弁となっていました。
 
楽山は、実に、好き勝手に書いてきましたが、どれ一つとっても、単方向の無責任発言では、公開して一般に通用する文章ではなかったのです。
 
具体的には、わたしを含め、わたしの近しい友人は、あなたのブログを一切訪問もしないし、したがって、あなたの記事を今後一切読みません。そういう方向で話をまとめるよう、努力してみようと思っています。
しかれども、そのことはあなた自身も、わたしたちに対して、行なっていただかないといけない。
あなたは今後、わたしのブログを一切訪問してはならず、読むこともしないでいただきたい。わたしの近しい友人のブログも、訪問してはいけないし、記事を読んでもいけない。
 
現在、私は、楽山の3つのブログと、3つのツイッターを、批判のために見ますが、何かの参考にするとか、役立てるとかは、全くありません。楽山の排泄物として観察しているだけです。楽山のHNは、自由、楽山、raku、taka、こも楽山、などです。
 
このように過度に他人の心を自由に支配したいと思うのも、妄想性人格障害の症状です。一度、本当に心療内科に診て貰った方がいいと思います。正常な言動とは思われません。
 
これが当てはまるのは、楽山その人であります。しかも体質的な病的ナルシストなので、妄想性についても、自己愛が勝ってしまって、心療内科でも精神科でも治らないのでしょう。正常な言動に見せかけても、いずれは、バレるのです。
 
他者を障害と決めつけていますが、自らの、とても異常で傍迷惑な、自己愛性パーソナリティ障害NPDという精神病質については、全く、お構いなしなのです。つまり、病識がないということです。楽山の活動は、殆ど、不治で経過する病の暴走であります。
 
ついでに書くと、レオ氏による楽山批判のデタラメぶりはこちらで指摘している。最近の例といっても、もう一年前のことだけど。
一般的にいって人は誰しも間違うものである。少々の勘違い、記憶違いがあったからといって責めても仕方がない。でもこれだけ事実誤認が重なると、もはやデタラメだらけとしか言いようがない。
 
楽山のデタラメぶりは、公序良俗に反しますし、読解や事実誤認や常識の歪曲も著しく、到底「誰しも間違うもの」で、済ませられるものではありません。理路も、共感も、ぶっ壊すような恣意の捏造の代物なのです。
 
さらに、楽山は、間違いを自覚できないし、自覚しようともしません。自己愛病質による訂正不能と無反省の症状です。嫌らしいのは、自分が言われそうなことを、他者に当てはめて、言い逃れをしてくるところです。
 
コウ氏の発言の根拠を求めると、それに概ね合致する事実は見つかったが、ガンレオ氏らの発言の根拠を求めたると、それとは正反対の事実がちょくちょく見つかったということ。
コウ氏の間違いは「そう受け取るのも仕方ないな」と思えるものが多いが、ガンレオ氏の間違いは「なんでそんな正反対の受け取り方をするの?」というものが多のだ。
私がガンレオ氏らに批判的な理由の一つがこれである。コウ氏にも迂闊なところはあるけど、ガンレオ氏らの歪曲捏造はそれ以上に酷いじゃないかと。
 
楽山は、このように、まるで仲裁でもしているかのように、枝葉末節の屁理屈をこねて、論理的に見せかけていますが、こういう手法は、楽山が、焦点をぼかして、責任を不明確にするための、詭弁として、よく使っていたやり方です。楽山に、他者のことを、とやかく言う資格はありません。
 
というわけで、こういうことを目撃してきた私は、コウ氏に同情的になり、ガンレオ氏らに厳しくならざるを得ないということである。
「コウさんは正義で、ガンレオさんらは邪悪だ」なんて言おうとは思わないが、ガンレオ氏らはコウ氏を不当に貶めているところはあるし、自分らでいうほど正義ではなかろとは思う。
コウ氏の迂闊な間違いを、迂闊な間違いだと注意し、迂闊なのはお互い様だと慰めるならともかく、意図的な嘘だ、邪悪だと決めつけ、裁き、貶めるなら、それは正義というよりも、相手の事情を思いやることのない自己中心ゆえの過ちといえるのではなかろうか。
 
楽山は、また、自分が言われそうなことを、他者に当てはめています。とても、悪質だと思います。今まで、ずっと、こういうことばかりでした。それで、まともな論者を気取ってきたのです。他者を批評・批判するけれど、自分を見ることだけはしない楽山です。
 
いちばん、正義から外れ、いちばん、邪悪なのは、楽山です。人の知性と意欲と感性を疲弊せしめ、感情を乱して異常な疲労をもたらし、傷つけて、人格を破壊してきたのが、楽山です。何を、気遣いみたいな説教を垂れているのでしょう。呆れます。
 
まともな理路ではなく「相手の事情を思いやることのない自己中心」は、まさに、楽山の体質的に得意とする攻撃方法であります。罵詈雑言よりも、相手が疲れて弱るような言い方を、楽山は心得ているのです。決して、楽山を相手にしてはいけません。楽山は、人格破壊の伝染病です。
 
 
悪意・悪質・悪筆、多量分散

悪意・悪質・悪筆、多量分散
 
 
(2021年08月21日)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
 
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
 
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
 
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
 
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
 
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
 
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
 
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
 
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
 
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  白々しい楽山
 
 『死について考える』遠藤周作著
 2021年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
反省が必要なときに、読書家気取りで、「考える」などと言われても、既に、山積みの問題が、無反省と無責任の楽山を否定するのです。つまり、楽山にとって、読書は、自らの嘘と偽善の罪を隠蔽するのに使われ、結果として、逆に、醜さを倍増してゆきます。
 
*気になる本
大分前にタイトルにひかれて本書をパラパラめくってみたところ、キューブラー・ロス、死後の世界といった文字が見えたので読むのは止めにしたのだけれども、その後も本書のことはなぜか気になって仕方がないので、やむなく今回通読してみることにした。
本書全体は、老い、病、死についての平易で読みやすいエッセイ集といった体裁になっている。全体的にキリスト教の話は控えめで、スピリチュアリズムっぽさが散見されるが、これは「あとがき」にあるように意図的なことなのだろう。
以下に、本書中で個人的に心に残った箇所についてメモしてみたい。
 
メモなら、公開しないでほしいとは、前から言っていることです。楽山が「メモしてみたい」というとき、"責任は負わないよ" というメッセージだからです。実際、言論の責任を負うことは、一度もありませんでした。いい加減さが、いつも、鼻に突きます。楽山は、人を困らせて悦ぶ人です。
 
*死後の世界
まず著者は、死後の世界を信じているようだ。
私自身も死というものはぷつんと切れて、それでもう何もかもおしまいで、あとは無だというのではなく、次の世界に入ることだと信じています。臨死体験をした人たちは、その後、死というものを恐がらなくなったそうです。
(『死について考える』遠藤周作著、光文社〈光文社文庫〉、1997年、p.117)
 」
キューブラー・ロスを肯定的に紹介していることからすると、これも当然か。
 
楽山の、「死後の世界を信じている」、という言い方は、超常世界のお伽噺を信じ込んでいる、ということになります。楽山が、今までの、霊が分かるっぽい発言から、そのレベルで空想するだけであり、生きている今を、人生を、まるで考えていないことが明らかになっています。
 
そういう、気持ちの悪い楽山妄想をもって、小説家を巻き込み、利用し、悪用しているだけなのです。楽山は、そういう有名人の前で言える何ものも持ってはいません。つまり、死者を利用する、いわば、死の商人的な性根であり、それが、楽山の読書なのです。
 
*死ぬ瞬間
椎名麟三は洗礼を受けた後、これで死に際にジタバタしてもよいと思えるようになったと言っていたそうで、著者はその理由を以下のように想像、説明している。
心の奥の死の恐怖や人間の弱さ、そういうものを神様はよくご存じですから、今更、人間に見栄をはる必要もないという安心感がある、
(同上、p.129)
 」
立派な死に方をできず、無様な姿を晒すことになり、世間の人たちから笑われようとも、神様はすべてご存知だ、それで十分だという気持ちは無宗教の自分にも分かる。
 
遠藤周作氏の、信仰告白なのでしょう。楽山は、自分を飾るために悪用しています。嘘吐き楽山が、机上で、良さそうなことを言って通る時期は過ぎ去ったのに、真実の怖さを未だ知ろうともしない悪魔性の病質が表れています。
 
生きて醜態だけを晒している楽山が言うと、これからも、人のことなど考えず、反省もせず、無責任に好きなことをやっていくぞ・・という悪意表明になってゆきます。楽山は、無宗教ではなく、反宗教、反キリストの、霊が分かるっぽいという個人カルト妄想患者です。
 
神さまは、楽山の、すべてを見ておられ、すべてをご存知です。「自分にも分かる」・・楽山は、「死の恐怖や人間の弱さ」も、何も分かっていません。分かっていたら、震え上がるようなことをしてきたからです。
 
*祈れない人
国木田独歩は死に際に、牧師から祈ることをすすめられたものの、「祈れません」といって涙をこぼしたという。これについて著者は、祈れなくともよい、祈れないのも祈りであると書いている。
祈れません、と言っても、それが既に祈りになっているのだから一向に構わぬ、と私は思うのです。
「苦しくて祈れません」
「不安で祈れません」
「もう絶望して祈れません」
「神様がいないような気がしてきましたので祈れません」
「こんな目にあわせる神様、とても祈れません」
というような祈れませんであっても、それは神との対話ですから既に祈りです。たとえ祈れなくても神がそれを大きく包んでくれるというような感じがします。
(同上、pp.133-134)
 」
不覚ながら、こういうことは考えたことがなかった。でも言われてみればたしかにその通りだ。
こういう気付きがあるから読書は楽しい。
 
不信仰の祈りは、祈りです。神に向かっているからであり、正直だからです。しかし、楽山は、正直さを微塵も持っていません。同じ言葉が通用するわけはないのです。神は、既に、本性を見抜いておられるからです。だから、楽山の「たしかにその通りだ」・・吐き気がします。
 
*裁くなかれ
これは頭では分かっていても実践するのは難しい。
いいこと、悪いことの判定は神がするのです。だから聖書にも「裁くなかれ」という言葉があります。神だけが判定できるのです。
(同上、p.160)
 」
正しい判定は神様にしかできないと分かってはいても、自分はこう思う、こう考えるという判断をしないではいられないのだからどうしようもない。これもいわゆる業というやつだろうか。
ふと思ったけど、「裁くなかれ」と「無分別智」とは関連があるのだろうか。  
 
裁くなかれという教えは、善悪や正邪の判断をするなということではありません。最終的な裁きをするのは、神のみだということです。自分についての判断を、全くしてこなかった楽山は、裁かれる日を待っている身分でしょう。だから、裁くなかれという教えを、また、悪用するのです。
 
「いわゆる業というやつだろうか」・・楽山の場合、人間共通の不可避は、当てはまりません。とびきりのペテン師であり、今も、嘘を吐き続けているからです。信仰には、善や正義ではなく、祈りにおける正直さだけが必要です。それは、楽山には、欠片もないものです。
 
*地獄に堕ちる人
以前、自分がはまってしまった、とある新興宗教では、現代は全体の半分以上の人が地獄に堕ちているとしていたが、著者はそれとは大分ちがうことを言っている。
地獄というものはないかと言われれば、ないとは私も言えませんが、しかしまあ一万人中、一人が地獄に落ちるかどうかだろう、というぐらいに考えます。
(同上、p.162)
 」
著者が言うには、「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間が仮にいたとしたら、そういう人間こそ、一万人中で一人だけ地獄に落ちる人間だろう」とのことであるが、ニュアンスとしてはそんな人は実際にはいなかろうという雰囲気がなくもない。
「人を裁くな」というのはこういうことを言うのであろうか。自分もできれば、こういう考え方を自然にできるようにしたいものである。
 
「一万人中、一人が地獄に落ちる」には、全く根拠がありません。想像に過ぎないでしょう。
「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間」・・今、書いている楽山が当てはまります。恥を恥とも思わないで、嘘を吐き続けています。
 
恥をかくことと、恥ずかしいと感じる羞恥心は、違います。楽山には、前者はたくさんあるのでしょう。そこから、何らかの怨念が訂正不能になっていると思われます。しかし、後者は、全く認められません。いわゆる、恥知らずの楽山です。
 
*神を否定する信仰
神を憎むことは、無関心よりずっと良いという話は聞いたことはあるが、宗教はそこから始まるという考え方は、このくだりを読んではじめて知った。
子供が白血病になり、一所懸命に神様にお祈りしたけれども、子供は死んでしまった、神なぞ何だ、と神を憎む、神も仏もあるものか、というところから宗教は始まるのではないでしょうか。
神を憎むことも、神の存在をはじめから無視している無宗教や無関心ではなく、憎むということで神を強く意識していることです。神があろうがなかろうがどうでもいいという無関心より、神を憎むことのほうがはるかに宗教的でしょう。
(同上、pp.167-168)
 」
この発想は、「祈れません」というのも既に祈りであるというのと、どこか共通するものがあるように思える。読んでいて、涙がこぼれる心持ちになるのも共通している。
どうやら、この辺りには涙腺のツボがあるらしい。
 
「神も仏もあるものか」は、信仰の出発点というより、信仰者として生きるあいだに、幾度も頭をよぎってくることです。そのたびに、信仰者は、絶対孤独を感じ、そこからの解放であった信仰を思い出すのでしょう。結局、他に寄る辺のない者、それが信仰者です。
 
悪事だけに専念する楽山には、寄る辺も拠り所もありません。「涙がこぼれる心持ち」「涙腺のツボ」・・楽山の大嘘です。大根役者の三文芝居です。いずれも、この2年半によって分かったことです。楽山は、神を憎み、それ以上に、神を笑う者となりました。
 
*耳に痛い言葉
これは自分には耳に痛い言葉である。
三浦朱門君とヴァチカンで法王さまに会った時、法王さまは、
「どうか日本の仏教の人たちや、その他の宗教の人たちと、絶えず対話をつづけてください。対立ではなく、話し合いを、いつも仲良く話し合いをしてください」
と言われました。それが法王の私に対する最初の言葉だったのです。かつてのように、他の宗教を異端として拒絶することのないように、ということです。
(同上、pp.172-173)
 」
恥ずかしいことであるが、自分には対立者に向かって言わずもがなのことをズケズケ言ってしまう悪癖がある。「これだけははっきり言っておかねば…」と思って発言し、すぐあとで「あーっ、また言わずもがなのことを言っちまった」と気づくパターンである。反省。
意見の異なる相手とは、対立ではなく、仲良く穏やかな話し合いをするよう努力したい。
 
楽山の言うことは、すべて、自己正当化の詭弁でした。そして、反省をしたことがありません。反省したことが、その後の文章に、全く表れていないからです。つまり、トホホ言語の嘘の「反省」なのです。楽山の「仲良く穏やかな話し合い」は、ボンヤリ言語の婉曲でごまかすことです。
 
楽山は、正直に「ズケズケ言ってしまう」ことなど、一度もありません。言うときには、必ず、誘導の作為と、詭弁の悪意があります。この記事もです。どうか、真に受けないでください。
 
同じような詭弁が今も通用すると思っているのは、楽山の知情意の鈍麻症状です。
 
*引き寄せられる感覚
本書はいったんは読む必要なしと判断したのだったが、その後もずっと気になって仕方がないので、再び手にとってみたところ、とても勉強になり読んでよかったと思えた本である。
あまり迷信的なことは言いたくないのだが、こういう経験をしてみると、
 
息をするように嘘を吐く楽山です。楽山の読書は、自分に都合のよい文言を漁る作業に過ぎません。ですから当然「勉強になり読んでよかった」・・嘘です。
 
やはり「何となく…」という感覚は大事にした方がよいようだ。世の中には、必要とするものに引き寄せられる法則なるものがあるのかもしれん(笑)。
 
これが、子供のときからの、霊が分かるっぽい症状です。実際は、理路も、情緒も、信仰も、何も感じることも考えることもしない人です。「何となく」、ボンヤリと、人を、だましてきます。そして、分が悪くなると、トホホと、安っぽいお涙ちょうだいの泣き芝居をするのです。
 
人間離れして、人間に戻る気もないようですが、楽山の一生が終わるときには、もはや、形も、精神も、人間ではないと、はっきり分かるようになるかもしれません。人間の良心を、全く持っているとは思えない自己愛性パーソナリティ障害NPD、それが、楽山なのです。
 
私は、その前に、御許へ行くのでしょうけれど
 
楽山が挨拶してきたら、すぐ削除して、関わらないようにしてください。
 
 
嘘に酔う者

嘘に酔う者
 
 
(2021年08月20日)
 
 
 
  よるの森
 
よもすがら きょうも
ひとり じれてましたね
びょうきでしたね
くるってましたね
 
ひねもす いつも
おあいその えみ や
うすっぺらな おもてで
なみうつ わらい
ほしければ
てにいれる すべは
いくらでも あったでしょうに
 
もっと ほんとうを もとめて
この ウソの 森を
えらんだばかりに
よもすがら きょうも
たれも みむきもしない
ちいさく せまい まどから
ぬけだして もりを さまようのです
 
クモのす に かおを ひっかけ
つまずいて ころんで
すりきず きりきず あざだらけ
よる と あめかぜ に
こかげで ふるえ
 
やっと みつけた
ちいさな ひかりの かけらなど
たれも みむきもしない
 
ずぶぬれの よごれた かおで
よもすがら あかつきに ひもすがら
おえつするがいいのです
わたしは みずから えらんだと
 
(二千年代か)
 
 
 
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  謙虚2
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ない
これは地上の人間にとって真実である。
 
しかしそう言いながら
解釈においては
人にとって常識的な論理つまり知性を用いて
人は神との関係を持つことが出来る。
それが神を知ることだと語る。
 
ここまでは
「信仰の原罪」であろうか
不可避である。
信仰者にとって生きるために必要なこともある。
そして、聖書にて
神は・・こう言われています
という書き方になる。
 
信仰は
神を理解することではなく
キリストの命を賭した愛と共感をもって
神を信じ仰ぐことであり
神に正直に祈ることである。
 
しかし
神との関係を持ち
神を知った者が
やはり常識的な論理の言葉を用いていて
 
つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに
 
様々な個別の出来事や事柄を
人の及ばない秘め事であるのに
神の行為と結びつけて判断し
確信の固定をもって伝え広めようとするなら
 
聖三位と同等の振る舞いになり
神と人に対して
明らかな傲慢不遜である。
 
 
神のしもべであっても
様々の驚くべき出来事について
しもべは主(あるじ)が
人知を超えた御方であることを知るゆえに
 
信仰をもって
それを恐れ
主なる神の行いについて
しもべの浅知恵や
限りある経験によって
断定することをも恐れるのであります。
 
慎ましく受け取り
間違いのない神とは違うのだから
確信を持って声高に語ることをせず
慎ましく語り
何事も包み隠さず正直に祈ります。
 
少なくとも都合の悪いことに
目をつぶったり
耳を塞いだり
口をつぐんだり
他者の口を封じたりはいたしません。
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して
まるで最初から
なかったかのように
見せかけたりもいたしません。
 
さもなければ
起こっている悲劇を聞きながら
我が身の多幸を感謝して
自分を満たすために
信仰に見せかけた心地よいの砦を作って
抵抗しない人だけを招き入れ
自分の解釈に神秘の味付けを加え
自分の花園をこしらえ
造花を植えて愛でて
満悦するような偽善者になってしまうからです。
 
 
分かっていなければならないのが信仰ではなく
分からないならば分からないと正直に言うのが信仰です。
 
 
 
 
「いいね」を入れてくれたから見てみると、その人のブログでは、批判というものを害毒のように言ってるようです。
 
批判を書いている人はいっぱいいると思いますが、まず、この人が書いているのは批判ではないのでしょうか。さらに、批判についての基本的な誤解~曲解があるようです。
 
批判と言われているものには2種類あると思います。
 
1)相手を変えるために批判する・・これは、双方向が成り立つ間柄で、忠告や提案をすることにとどめておいたほうがよいでしょう。それ以上は、大方、うまくいかないと思います。
 
2)として、1)のやり方で相手を変えることは難しいけど、放置しておいたら害が増えるだけと思われる場合は、こんなおかしい人がいますから関わらないようにしてください・・というような、情報を公開してゆくことが必要です。
 
私の批判は、おもに、2)であります。つまり、批判記事は、こんなおかしい人がいますから、だまされないようにしてほしいという願いを込めて書いています。つまり、記事を読んでほしいのは、批判対象ではなく、一般読者であります。
 
批判対象は、記事を読んでも読まなくても、都合の悪いことは無視して、平気でいるような輩です。
 
明確な意志と方法を持って批判しているなら、批判することで不安になるようなことはありません。
 
悪いことをする人の情報を書かなくなったら、悪人は、どんどん蔓延ってしまいます。それと、悪い人の中には、善を気取ってだましてくる、いわゆる偽善者もいます。批判を全然しないのが正しいと思い込んでいる人は、偽善者クラスの悪人の手助けをしていることになるでしょう。
 
自分が批判するしないは個人の自由ですが、一般論として、批判はよくないと決めつけるのは、それこそ、認識不足と自説への慢心による間違い~偽善と言うべきであります。
 
 
いかなる天上を信ずるのか

いかなる天上を信ずるのか
 
 
(2011年05月31日)
(2021年08月19日、再録+)
 
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが(再録)
 
楽山は、記事も、ツイッターも、自らは、はっきり言わず、責任を逃れようとしながら、他者の言から都合のよい文言を引用して、味方にしようとします。それで、引用の責任さえも、負わないでいいと思うような無責任ぶりであります。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 」
 
「キリストの幕屋」は、右翼の教団で、信条に大和魂が入っているという話を聞いたことがあります。純粋なキリスト教とは言えないでしょう。そして、楽山は、右翼のA級戦犯を褒め讃えるネトウヨであります。楽山は、今も、まだ、クラゲのように、蠢(うごめ)いているようです。
 
 
 
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  楽山の聖書曲解2
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっている、読んでいる自分を誇るためでしかないのです。
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
ヨブは、神に近づいてはいません。背きそうな心情を、神に向かって、訴えているのです。
 
例えば、自分は、神にとって、何なのか、監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ、赦してくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをするしかありません。楽山は、神を知らず、信仰を知らないので、いい加減なことを言って、反信仰を表しているだけです。
 
楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、楽山が部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも知らず、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもないなら、黙っておればよいものを、分かったふうに、キリスト教にちょっかいだけを出してくる楽山という悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。
 
楽山の言は、悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分をも、見ようとしてはいません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
ビルダデは、パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。正しいことをすれば栄える・・これは結果として表れることでありますが、正しい人など、一人もいないのです。
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
誰にとっても、この聖句は、理想であり、あるいは、神の愛を表しているのであって、全部否定形にすれば人の現実となります。ゆえに、相当な戒めの言葉になるでしょう。ここを読んで、いい気持になるだけでは、読んだことにならないと思います。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、自分以外、何も信じていません。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、愛の賛歌と呼ばれるコリント13章を挙げるのは、笑止であり、愛の対極にいる典型が、学習も反省もしない楽山であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパス、凶暴で執拗な反キリストです。上に書いたように、愛の賛歌の言葉を、すべて否定形にしたところに、楽山がいます。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、ここでだけ無視して、聖書について厚かましく書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。楽山は、罠をかける悪魔の性質に酷似してきます。
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、この記事のように、あたかも、神の側にいるかのような記事を書くことで、本心ではなく、嘘を吐いており、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人ですから、キリストからも決して赦されることのない偽善者です。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけの自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、真っ向からのキリストとキリスト者の敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。楽山の今までの履歴が、楽山が反キリストであることを示し、この楽山の言を否定しています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っていると思います。
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語れば、そのような教条の上辺だけになってしまうのです。中身のない評論家気取りに過ぎません。
 
楽山の、神義論(弁神論)の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家がでっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
今回も、反省もなく、自粛もせず、キリスト教と聖書を知っているかのような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していており、偽善者に相当する楽山です。
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
楽山は、人を誘導し巻き込みますから、そこは、蜘蛛の巣のような、罠に満たされます。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。嘘を吐くことへの罪悪感のない証拠です。
 
楽山は、精神の詐欺師であること以外に、何を伝えたつもりでいるのでしょう。ここまで白々しい者に掛ける言葉は、どこからも、あっちに行け!・・以外には、ありません。
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」、ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そして、今も、侮って裁いていることが、このペテンの敬虔芝居に表れています。
 
そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきたのです。そして、また、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。そのようにして、楽山は、自らを、高みへ高みへと上げるつもりで、実は、闇へ闇へと転げ落ちてゆくのです。
 
楽山が、聖書とキリスト教の記事を書けば書くほど、だまされる人は増えるかもしれません。しかし、楽山が、神とキリスト教に対して、無反省に暴言を放っておきながら、あとになって「反省」と書き、ほめ言葉を書いて、まるで、物質のように中和できると思うのは、愚かな企みであります。
 
中和も平和もなく、逆に、偽りに偽りを重ねることで、楽山の性根の腐れ具合が尋常ではないという証拠になってゆくのです。いずれ、ひきつった笑い顔で、鏡を見ることになるでしょう。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、子供だましのレベルです。
 
楽山を批判している理由は、内村鑑三のような有名人の本を引用して、字面だけ読んでも、心の無い者にキリスト教を語ることは出来ないのに、無理解と自己愛と自己顕示欲で語れば、さらに、嘘を吐き、偽りを広めることになるからです。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、勝手すぎて、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰はあるとしか言いようがないでしょう。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に、あっさり賛同しました。何も理解していない証拠です。さらに、何も考えていない証拠でもあります。
 
このことは、楽山が、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となるだけでなく、無反省に反信仰を語り続けるケダモノでもあるということです。反省して、正直な祈りによって、悔い改めるのが、信仰であり、悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得しようなどという意図は既にありません。楽山は、シャロームと、恐らく、同一か、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、元々する気のない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、楽山は、また、理解を装って書いてきます。恐らく、理解を示したうえで、否定したいからでしょう。
 
この自己顕示欲の醜い有り様こそが、楽山の、おぞましい正体であり、実際には、宗教と信仰への根深い怨念による悪意が、逆に、表れている結果となっているのです。
 
楽山は、情感も共感も理路も反省も、人生の学習を怠ってきたゆえに、宗教・信仰・思想が不可能になっている自身について、考えもせずに、悔いもせずに、白々しくあたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いてきます。
 
それで、何か言えることがあると考え、何とかなると思っていることが、何よりも、現実におけるホラーの異常性となって表れているのです。
 
 
不遜な無理解

不遜な無理解
 
 
(2020年08月01日、同日一部修正)
(2021年08月18日、再録+)
 
 
 
悪魔については、自分に当てはめて考える必要があります。超常の化け物としてより、怖い悪魔が、人の心には、棲んでいるのです。それに気づきもせず、笑っているのが、楽山であります。
 
楽山は、今のところ、3つのブログと、3つのHNでツイッターを書いています。これから、また、さらに別のキャラに成りすましてくることが予想されます。誰も近づいてはいけないと思います。
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているもの
と考えてみる必要が常にあるだろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
 
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
 
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
 
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
(90年代か)
 
 
 
前に載せましたが
2019年07月26日 22:53
楽山に送られたコメント
 
「 
隆くんへ 
・・・
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
・・・
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 」
 
これに対して楽山は、
「これも一種の、人間の性なんでしょうかね。」
と書いて、人間一般の話にすり替えています。
どうしようもない人です。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターですが
 ( 楽山から raku、隆から taka )
 
taka
@taka84156681
·2時間
物申す系YouTuberで誰かを追い込んで自殺させた例はまだいないとされる(シバターにはあるらしいが自殺とは断定されていない)
ただ今の時代は誰かを吊し上げて正義という名の集団リンチをなにかと目にするので将来的にそうなる可能性は十二分にある、そうなるとその物申す系は人を死なせたレッテルが
午前1:47 · 2021年8月17日·Twitter for Android
 
楽山は、悪事を好きなように続けさせないと自殺するぞ・・とでも言いたいのでしょうか。被害者のつもりなのでしょうか。通らないものは、通らないと言い続けるほかはないのです。誰も近づかないようにと批判しています。放置すれば、人生を破壊されてしまう人が出てくるからです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害からの害を、自己愛性パーソナリティ障害者だから自覚できないということでしょうか。それとも、また、正義の味方気取りなのでしょうか。悲劇のヒーロー気取りなのでしょうか。加害者が、被害者面して、何を言っているのでしょう。
 
私は、楽山について、2年半の経過から言っています。罪悪感、後悔の念、羞恥心が、楽山にはありません。宗教・信仰など、真実の追求という大きなテーマを書く上で、楽山は、反省する気がなく、責任も負いません。言論の責任を負わない人に、言論の自由はありません。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
·8月15日
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 
このように、人の意見を拾って他の宗教を笑うのが、楽山の趣味です。こういう人には、宗教心も信仰もありませんし、ありえないと思います。自分を見ることが出来ない人なのです。だから、自分の問題に気づくこともないし、そういう人は、宗教とも信仰とも、真逆の人生になります。
 
つまり、信仰を持つ人を、自分より劣った人と見なしているということです。こぼれ話で、信仰者の失敗や失言を漁り、それを笑うことに生きがいを感じるのでしょう。楽山を批判して、2年半、そういう態度ばかりでした。
 
信仰者は、人生の問題として、信仰を考えます。楽山は、なんで悩んでいるの?、宗教なんて意味ないでしょ・・とばかり、笑っているのです。信じないなら信じなくていいけど、信じることを笑う人は、人間性に欠陥のある人です。楽山の実在は、そういうモデルとなっているのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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また、雨が激しくなる予報なので、早めにアップします。
 
 
  楽山の腐敗臭
 
 「ブログ村騒動」とは何だったのか?
 (「ブログ村騒動」発言集 編集後記)
 2021年08月16日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山については、この2年半の批判によって、信頼度ゼロである証拠が明らかになってきました。楽山は、記事の量だけで、信頼が回復できると思ったのか、長々と不親切で雑な文章を、回顧録のように書いて自己満足しているようです。冷静に見せかけるフェイクが、醜い楽山を表します。
 
何を言われても、気取りが続くのが自己愛性パーソナリティ障害です。楽山のペースに、だらだらと付き合わされるのだけは、ごめんです。自己中からの発言は、どこまでも変わらず、他者のことばかり批判して、おとしめ作業に専念する楽山に、付き合わないでください。
 
このような楽山の長い文章は、読者を疲労させ、弱らせて、頷かせることが目的だと思います。感動とは、ほど遠い文章は、そういう効果があります。楽山の、弁明ではなく、責任回避の刷り込みの手法なのです。したがって、長々と書いてるな・・と思って、終わりにすることが大事です。
 
引用はしていますが、うっとうしさだけ感じてもらえたらいいので、理解しようなどと思わないでください。
 
*まえおき
ブログ村騒動の関連記事をひさしぶりに書いたので、以下にその感想を書いてみたい。
*「ブログ村騒動」とは何だったのか?
まず結論からいうと、ブログ村騒動とは、ガンレオ両氏の信者ブログ潰しによって引き起こされた騒動だったのだと思う。
ガンレオ両氏は、英氏と同じく破邪顕正を志したり、幸福の科学カテゴリーの上位は良質な信者ブログで占めるのが望ましいと考え、そうでない信者ブログを排除しようとし、それが幸福の科学カテゴリーを混乱させ、信者同士の争いを引き起こす原因になったのだ。
幸福の科学カテゴリーにコウ氏らがいようがいまいが、ガンレオ氏がいるかぎり、ブログ村騒動は避けがたい災難だったのである。
 
結局、誰かを攻撃するためだったのでしょう。そして、混乱させ、自分に向けられる批判を、無視して、資料と理屈を並べる自己愛性パーソナリティ障害NPDの特徴でしょう。まさに、自分を悪の圏外に置いた評論家気取りなのです。相手にしてはいけません。
 
*結果から原因を考える
もしかすると、ガンレオ氏らからすれば騒動の原因は、コウ陣営側にあると主張するかもしれない。
けれども騒動の終点を見れば、これは間違いである。もし騒動の原因がコウ陣営にあるとすれば、コウ陣営が沈黙すれば騒動は終わるはずであった。けれども実際はそうはならなかった。
コウ陣営のピア健、ぽん吉らがカテゴリを出ても、コウ、ピッポ氏らが沈黙しても、ブログ村騒動は終わらず、ガンレオ両氏は今度はコピペブログ(危機に立つ日本)を攻撃しはじめただけだった。ただ「危機に立つ日本」氏は大人だったせいか、ガンレオ氏から繰り返し批判されてもほぼ無視で通し、信者と信者の争いを顕在化させることはなかった。
そしてこのあと、ガン氏の記事更新が途絶え、レオ氏がブログ村を出て行くことになり、これでようやく幸福の科学カテゴリーは平穏さを取り戻したのだった。こういう流れからすれば、幸福の科学カテゴリーはガンレオ氏らがいる間は争いが絶えなかった、騒動の原因は両氏にあったと言わざるを得ないのではなかろうか。 
 
つまり、正常な議論というのは、先ず、楽山のような、無責任と他罰で出来ているような無法者を排除するところから始めなければいけない、ということが、楽山自身の書く文章から明らかになっています。長々と書いてくる、一見、まともそうな文章を真に受けてはいけません。
 
*対立関係から原因を考える
次に、ブログ村騒動における対立構造を整理すると、大体このようなものになるだろう。
・ガン、レオ vs コウ、ピッポ、ピア健、ぽん吉
・英(レオ派)vs コウ
・レオ vs チョコスッキー
・ガンレオ vs 天使のことば
・kairu(レオ派)vs コウ
・アマミ(レオ派)vs コウ
・ガンレオ vs 危機に立つ日本
上は「信者 vs 信者」だが、「信者 vs アンチ」なら、こうなるだろう。
・ガン vs UMA
以上、対立関係からみても、ガンレオ両氏は直接または間接に、ほとんどの争いに関与していたといえる。
 
他者の名前をいっぱい出して、複雑だが自分は分かって分析しているように見せかけていますが、分析の対象によって、楽山自身だけは除外されるだろうと思います。
 
*それぞれの発言から原因を考える
発言内容について是非を論じるとすれば、発言集を見てもらえれば、ガンレオ氏らの攻撃性が群を抜いていることは大方の人には理解してもらえると思う。
コウ陣営でもぽん吉氏の悪口コピペはひどいのだが、大半は「お前の母ちゃんデベソ」的な子供っぽいものばかりで、その毒気、憎悪、敵意、攻撃性、陰湿さに関してはガンレオ氏らとは比較にならないだろう。
(注 ぽん吉氏の悪口コピペについては正直言って私はあまり興味はなかったので保存はしておらず、発言集にもほとんどないが、コウ氏のブログ、ピッポ氏のブログのコメント欄には残っているので容易に確認可能である)
 
「理解してもらえると思う」が、理解につながらない典型です。何故なら、長く続いた楽山自身の害毒が、何も書かれていないからです。だまされてはいけません。こういうのが、楽山の「毒気、憎悪、敵意、攻撃性、陰湿さ」なのです。
 
*個別のテーマから原因を考える(1)
ブログ村騒動ではさまざま議論がなされたので、大枠での裁定のみならず、それぞれの議論ごとの判断も必要である。
これについては、楽山日記の過去記事を提示しておきたい。自分の考えはさほど変わっていないので。
・★ 同性愛差別論争について(コメントまとめ)- 楽山日記
http://mn266z.blog.jp/archives/17512666.html
・★ 自称宇宙人論争について(コメントまとめ)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512665.html
・★ 「リバティのコメント欄」閉鎖騒動(コメントまとめ)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512671.html
・★ エルカンターレファイト論争(コメントまとめ)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512670.html
・★「幸福の科学村」騒動のまとめ
http://mn266z.blog.jp/archives/17512667.html
 
決して、後悔せず、反省せず、いろいろ書くけど、一切、責任を負わないところの、自己愛性パーソナリティ障害NPDが全開となって、読者にとって、すさまじい自己正当化の疲労物質となっています。この長い文章で、楽山に対する免疫をつくってゆくしかないのです。
 
以下の引用、精神衛生のために、じっくり読んだりしないでください
楽山は、結局、笑っています。何様のつもりしょうか、これだけ書けるんだぞ・・とばかり、人のことばかり長々と書いている。理解してもらおうなどとは、全然、思っていない証拠です。
*個別のテーマから原因を考える(2)
他の論点については、大雑把ではあるが自分は次のように判断している。
IPさらし騒動…レオ氏はぽん吉ソフィア同一人物説の証明として、IPさらしをしていた。たしか当該記事内では他の信者ブロガーとIP情報の交換をしたとの記述もあったかと…。この出来事はレオ氏らの個人情報管理の程度がよく分かるし、レオブログを見る場合のリスク管理の必要性を感じさせる騒動であった。ちなみにレオ氏は騒動とはあまり関係ない信者から注意をうけて、IPの一部を伏字に修正したのだった。つまり他の信者から見てレオ氏の行動は行き過ぎであり、レオ氏もそれを認めたということ。
半裸画像さらし騒動…ガンレオブログのコメント欄にて、匿名希望氏がピア健の半裸画像ページをさらしていた。ぽん吉氏らはこれを削除するよう要請したが、レオ氏が受け入れることはなかった。ピア健氏は自らの風俗営業ページをさらされても自業自得との見方もあろうが、論争とは直接関係なかろうプライベートをさらし、相手を貶めようとする行為は決して褒められたことではなかろう。
悪魔呼ばわり論争…コウ氏はレオ氏らから悪魔呼ばわりされたといい、レオ氏らは悪魔呼ばわりしたのは我々ではなくコウ氏の方だ、コウ氏は嘘をついていると非難していたのだった。けれども傍から見ていれば、コウ氏らはレオ氏らを悪魔呼ばわりしているし、レオ氏らもコウ氏らを悪魔呼ばわりしていると解釈されても仕方のない発言が多々あった。こう見ると、どっちもどっちとしか言いようがないのではなかろうか。
コピペブログ批判…コピペブログはブログ村騒動とは無関係でガンレオ批判をしてもいなかった。しかしガンレオ氏らは一方的にコピペブログを批判していた。ガンレオ氏らの攻撃性と、自分らの価値観を他者に押し付ける傾向が強いことが明らかとなった事案である。
チョコスッキー騒動…ブログのコメント欄の管理について薀蓄を語っていたレオ氏は、チョコスッキー氏から軽いツッコミを受けて激怒し、猛反論をしていた。チョコスッキー氏はその後はブログ更新は途絶え、ブログ村からもいなくなったのではなかったろうか。これはレオ氏の過剰反応、ヒステリーがよく分かるエピソードであった。
トンヌラ門前払い事件…トンヌラ氏は、レオ氏に対してブログ記事内にある自分の名を削除してほしいと依頼していたが、レオ氏はそれを突っぱねたのだった。トンヌラ氏の理屈ではレオ氏のブログ記事に自分の名があると、そこを伝って悪魔悪霊がやってきて困るから名を消してほしいとか何とかいうものだった。傍から見ればデンパであるが、本人にとっては切実な悩みだったのであろう。でもレオ氏はこの頼みを突っぱねていた。自分はピッポ氏に、自分を名指しするな、自分の名前を出すなと要求していたというのに…。
仲裁騒動…ブログ村内がギクシャクしていたときに、ある日、唐突に仲裁役を申し出る者が現れた。レオ氏はすぐにその話に乗り、ピア健は難色を示したものの、結局はある程度の話はすることにしたらしかった。けれども残念ながら話し合いはまとまらず、仲裁者は仲裁断念の記事を書いていた。それはレオ氏の過剰反応、ピア健の無断引用などを戒め、喧嘩両成敗的な部分もあったのだった。またアテツケ記事の危うさも指摘するものだった。
舞台裏発覚騒動…のちに、上の仲裁者は、ガンレオ氏に近い者から依頼されて仲裁役を申し出たことが明らかとなり、これにはコウ氏が苦情を申し立てていたのだった。仲裁者は中立ではなく、敵陣営の依頼によるものだったとはどういうことか? そのことが今まで秘されていたとはどういうことか? と。これはコウ氏が怒るのも無理はない。
約束違反騒動…上のガンレオ氏に近い者は、コウ氏は仲裁者との約束を破っていると批判していた。その言によると、コウ氏はガンレオ氏のことはもう批判しないと約束をしたにも関わらず、その約束を守っていないというのである。これが本当ならコウ氏に非があるだろう。けれども、コウ氏は大っぴらに他者批判をするが、レオ氏は相手を名指ししないアテツケ記事で批判することが多い。これでは私のような第三者からみた場合どちらが先に相手を批判しはじめたのか分からぬし、そもそも今後相手を批判しないという約束なんて無茶すぎるようにも思えたのだった。
公式ブログ騒動…上のコウ批判は「豊川支部ブログ」によってなされた。これに対してコウ氏は、公式ブログが一信者にすぎぬ自分を名指し批判するのはおかしいと疑念表明。後日、「豊川支部ブログ」は一信者によるものにすぎず、公式ブログではないことが判明し、教団からの指導でブログ名は修正されることになった。ちなみにガンレオ氏はこの件について異論は述べず、「豊川支部ブログ」を応援していたのだった。一信者のブログに公式ブログかのような名称がついていることに少しもおかしさを感じなかったらしい。
個人情報流出騒動…騒動の仲裁者が、コウ氏の個人情報をすべてレオ氏に渡したことを公言していたことがあった。争いごとの仲裁者が、一方の個人情報を、もう一方に渡したとのことである。個人的にはこれは仲裁者としては絶対にしてはいけないことであろうし、もしそれを受け取ったならレオ氏も相当だなと思う。
真理の理解度…コウ氏はアンチの意見の中にも宝物があるとしていた。ようするにアンチからも学ぶべきものがあるということであろう。一方、レオ氏はアンチは戦うべき相手だとしていたようだ。アンチはもちろん、同じ信者であっても自分と対立する相手に対しては、その意見を無価値と断定することに躊躇しないようでもあった。ようするに派閥で判断する人であるらしい。このことからすると、レオ氏よりコウ氏の方が真理を見出す力は上であろうし、どちらが争いを生む考え方をしているかは言うまでもないことだろう。
過去記事削除問題…過去記事を読もうとした場合、ガン、ピッポ氏のそれは今も読めるものが多いだろう。コウ氏の場合は過去記事のうち削除、非公開になっているものが時々ある。ぽん吉氏の場合はブログはすぐ消す人だが、過去発言はピッポ、コウ氏のコメント欄で確認可能だ。レオ氏の場合は重要な論点になるだろう過去記事でも削除、非公開で読めなくなっているものが多い。こういう視点からみれば、自分の発言に責任をもたず、歴史修正しようとする人が誰かはおおよその見当はつけられると思う。
ぽん吉騒動(不倫コピペ)…ぽん吉氏は不倫だ不倫だと騒いでいたことがあった。事情を聞いてみれば、コメント欄で男女信者が親しげに話をしていたことから、ただならぬ仲だ、不倫だと独り決めしたらしかった。あほらし(笑)。
ぽん吉騒動(レプ呼ばわり)…ぽん吉氏には、レオ氏は他の信者を公開処刑にして屠っているように見えており、その正体はレプタリアンだと判断し、さかんにレオ氏をレプ呼ばわりしていたのだった。信者にありがちな思考であろうが、傍から見ればぶっちゃけどうでもいいことである(笑)。
ぽん吉騒動(所属支部暴露)…ぽん吉氏はレオ氏の所属支部はどこそこだと盛んに吹聴していたことがあった。これも傍から見ればどうでもいい話であった。レオ氏がどこの誰かなんて興味ある人なんているのだろうか?
ぽん吉批判…ぽん吉氏の悪口コピペは、裁判沙汰になりかねない深刻なものもあったが、ガンレオ氏らに向けてのものに関しては上のような類のものが大半だったのではなかろうか。けれどもレオ氏はこういうぽん吉氏に本気で激怒し、長文の批判記事を何本も書いていたのだった。自分にはこういうレオ氏の行動は謎である(笑)。
以上。この騒動の論点はこれ以外にもあるだろうが、ここではこの辺で一区切りとしておきたい。
とりあえず自分としては、ブログ村騒動の各論点について上のように考えているので、どうしてもガンレオ陣営には厳しい判断をしないではいられないわけである。ぽん吉氏の悪口コピペは酷いし、コウ氏らにも間違いがあり、ピッポ氏、ピア健氏にはデンパが多いのは承知しているが、私がブログ村において直に目撃したことを材料として考える限りは、ガンレオ陣営は彼らが主張するほど正しいわけではなかろうと言わざるを得ないのである。
 
恥ずかしいことです。頼まれもしないのに、年月も経っているのに、今の自身の問題から背を向けて、他者を論評した気になるための駄文~悪口です。ガンレオという陣営を批判しているようですが、何よりも、楽山こそが、しつこく再生したがる癌なのです。気遣いも思いやりもありません。
 
楽山については、もはや、誰にも相手にされず、独りの部屋で、独り言を言いながら、無視されて当然の無駄話や悪口を、ああでもない、こうでもない、・・かなあ、と書き続けているうちに、寿命が尽きてゆく人生しかない・・ということが、今回の一連の記事に表れているのです。
 
*おおまかな傾向性
ちなみに、レオ、コウの両陣営の主張を大雑把にまとめれば、レオ陣営の主張は(われわれは不良信者を裁き、排除する権限がある)ということであり、コウ陣営の主張は(他を裁くな、攻撃するな)ということだろう。
もう少し書けば、レオ陣営の主張は、(HS教義はこれこれである。彼らはこれに反している。正義はこれこれである。彼らは正義に反し、悪である)という型になっていることが多い。場合によっては、(彼には信者の資格がない。信者失格である)と断言してしまうこともある。信者かどうか、破門かどうかの判定は教祖教団の権限であろうが、レオ氏などは平気でこの手の主張をする。
 一方、コウ陣営はといえば(『自称宇宙人さんへ』はピア健氏を揶揄中傷し、傷つけるものだ。謝罪すべきだ)(彼らは同性愛差別をした。これは間違いだ)(今は霊性の時代だ。どんな奇跡が起きるとも限らない。だからその霊言は偽物だと簡単に決めつけてはいけない。歴史を振り返れば、そのような決めつけて、多くの光の天使が傷つけられてきたではないか)という(他を裁くな、攻撃するな)という型の主張が多い。
些細な意見対立は省略し、大きな視野から見た場合、両者には上のような方向性の違いがあるし、どちらが争いの原因となりやすいかは言うまでもないところだ。
 
不良で、排除されるべきは、恐らく、楽山その人だということです。人を、上から俯瞰したつもりで、ああだこうだと主張する者に欠けているのは、自分を見る視線だということが分かるでしょう。誰が、楽山に、楽な山の上から眺めて意見を言ってくださいと頼んだでしょう。
 
そんなこと、誰も頼んではいないのです。楽山は、自分の問題を無視して、お山の上にいることしかできない人です。そして、頼まれもしないのに、宗教、思想、真実について、退屈なだけの文章を書き続けてきたのです。
 
こんなに詳細な文章を・・すごい!などと思ったら、楽山の思うつぼです。
 
勝手に、まとめとばかり、現時点から離れて、昔のことを書くのも、責任逃れのためでしょう。何の助けにも参考にもならないことは、今までの文章に、うんざりするほど、表れてきたのです。
 
*結論
以上のことから考えると、ガンレオ陣営はHS教義の解釈の正統性だとか、論客としての能力などでは、コウ陣営より上手といえなくもなかろうが、ブログ村において騒動を引き起こす原因を作ったのは誰かという論点からいえば一番にその名をあげられても文句は言えない立場にあるといえるだろう。
ガンレオ氏らはその傲慢さから、自分らは相手方より真理を理解し、正義の立場にあると思い込み、自分の目の丸太に気づかぬままに、相手の目に塵があることを非難するというよくある陥穽に落ち込んでしまったのである。
 
このように、人の力量を図るのが、楽山の大好きな趣味なのでしょう。楽山は、訂正不能の自己中ですから、論客にはなれません。騒動の引き金にはなるかもしれません。真理など、狭量な楽山は、微塵も理解していません。
 
楽山の付け焼刃の愚かさです。「自分の目の丸太に気づかぬままに、相手の目に塵があることを非難する」・・まさに、楽山自身に他なりません。自分の目に刃が刺さり、血が出て、全く盲目となっても、同じような気取りを続けるのでしょうか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:24、新約聖書)
 
楽山は、自分のことだとは、まるで気づいていないようです。富んでいるということは、財産のことだけでなく、知恵におごっている状態をも示しているのでしょう。愚かさも極まったと言うべきでしょう、キリストの立場で物を言うとは。
 
*動機
最後に、今回「ブログ村騒動」に関する記事を書くことにした動機について触れておきたい。
これにはおよそ二つあるが、まず一つは先日他所で書いた通り、楽山日記の人気記事にブログ村騒動の記事が上がっていることである。いまでもこの問題に関心を持つ人がいるなら、分かりやすいまとめ記事を書いておこうと考えたのだ。
もう一つはレオ氏から次の批判があったからである。
 
「分かりやすいまとめ記事」でしょうか。長さと鬱陶しさで疲れさせて、圧倒したいだけだと思います。どうか、楽山の文章を、本気で読むことだけは、しないでください。
 
この退転アンチの悪質さは、ブログ村騒動では、第三者の仲裁があって、騒動の原因が明確になったにも関わらず、その後も延々と、相手方の方が正論であるかのような悪質な印象操作を交えた、事実改竄記事を書き続けて粘着していたこと。
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
http://blog.livedoor.jp/space_people/archives/24172922.html
 
楽山は、詭弁と嘘と印象操作によって刷り込んできます。さらに、実質が何もないことも明らかになっており、自己顕示欲だけの自己愛性パーソナリティ障害NPDです。罪悪感がなく、悔いることも反省することもなく、執拗に書いてきますが、中身は何もないので、疲労だけをもたらします。
 
相手方の非が数多く証拠もあがって、事情がいっそう明確になった後でさえも、それらのことはスルーして、わたしを貶めたいあまりの、自己都合の解釈論でもって、延々と相手方を弁護し、こちらを誹謗中傷するという邪悪な行動を行ってきました。
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
http://blog.livedoor.jp/space_people/archives/24172922.html
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害なので、責められると、必ず、被害妄想を返してきます。そして、反省しないのです。救いようのない人・・ということになります。○○論ということを、しばしば言ってきますが、楽山は、自己中ですから、先ず、論というものが成り立っていないのです。
 
これは私には身に覚えがないことであるが、そんなに言うならブログ村騒動を振り返り、事実確認してみようと考えたのである。
それで結論はどうかといえば、すでに上に書いた通り、前以上にガンレオ陣営には厳しい見方をするに至ったというオチである。
ぶっちゃけた話をすると、発言集を見れば分かる通り、レオ氏はその高慢さと短気さのせいか失言が多く、自分で自分を貶めることを繰り返しているので、レオ批判のためにわざわざ歪曲捏造、誹謗中傷をする必要はないのだ。
それにも関わらず、自分は誹謗中傷される被害を受けているというのは、自己客観視ができておらず、他のアンチ氏が指摘しているように被害妄想があるためなのだろう。お節介かも知れぬが、大事に至る前に他のアンチ氏の指摘は真面目に検討した方がいいと思う。
 
楽山には、自己中の事実しかありません。楽山によって選択し捏造される事実を、真に受けてはいけません。何度も何度も、オチてきたのは、楽山のほうですが、そのたびに、ネチネチした正当化の詭弁を、今回のように、書いてくるのです。「真面目に検討」するということのない人です。
 
そして、楽山は、「自分で自分を貶めることを繰り返している」ことに、全く気づかない特性があります。そして、今までも、「わざわざ歪曲捏造、誹謗中傷」を、丁寧語で返してきます。この自己中は、恐らく、どこに行っても、嫌われるだけでしょう。
 
*自己正当化のための議論
余談ながら、「書評・レビュー」カテゴリーを見てると、レオ氏は香ばしいタイトルの記事を連投している。
 
URLが並んでいます。しかし楽山は、
 
>記事の中身は見ていないが、
 
だそうです。そういう人です。人の言うことを、まるで、受け取っていません。自己愛の精神病質のために、受け取れないのかもしれません。
 
タイトルからすると誰かを批判し、自らの正当性を主張するものばかりなのだろう、たぶん。
でも誰かをどんなに批判したところで、自らの難点が修正されることはないのだ。それよりは先に書いたように他人の目の塵を見て、自分の目の丸太を見ないことになるのがオチだ。
 
「自らの正当性を主張するものばかり」・・これが、楽山であり、今回も、全開なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 
 (マタイ7:3、新約聖書)
 
自己正当化に、好きなだけ、聖書を悪用している楽山です。2回目。これが、どれだけ、大きな罪と背教になるか、楽山は知りません。つまり、根っからの、悪より悪質な、反キリストであり、偽善者であります。
 
たとえば、「書評・レビュー」カテゴリーで自分の記事がどんなに浮いてるかが分からなかったり(笑)。
レオ氏はこの辺りのことについてよく反省し、脚下照顧を実践してみてはどうかと思う。そうすればアテツケ記事はやめられないにしても、アテツケ記事を書いた後で、ほんわか記事を書いて柔和さアピールするのは傍から見てあまり格好良いことではないことに気付けるはずである。
 
楽山の基本姿勢は、あざ笑いだということが表れています。つまり、真剣味はゼロということです。そのような軽薄さで、宗教と真実に関わることの報いは、いずれ、楽山が負うべきものであります。とばっちりを食わないように、どうか、楽山には、誰も関わらないでください。
 
 
醜い自慢

醜い自慢
 
 
(2021年08月18日)
 
 
 
  忸怩(じくじ)
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
 
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
(2000年代か)
嘖む(さいなむ、苛む)呵責(かしゃく)
 
(ネットより)
じく‐じ〔ヂクヂ〕【×忸×怩】 の解説
[名](スル)深く恥じ入ること。
「吾人、実に―するに堪えざるなり」〈東海散士・佳人之奇遇〉
[ト・タル][文][形動タリ]深く恥じ入るさま。
 「忸怩として非礼を謝す」「内心忸怩たる思い」
 
(人間にあって楽山には無いものです)
 
 
 
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※ また雨が激しくなる予報なので早めにアップします。
 
 

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