ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年08月

 
  楽山の児戯滅裂
 
 「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
 2021年08月15日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
だらだらとURLばかり書いてい、URLをいっぱい並べていますが、クリックで跳べるようにはしていません。楽山は、ブロガーとして怠け者です。このような雑な出来というのは、楽山が、本気では、何も言えないことや、言うつもりもないことと、符合しているようです。
 
リンク先のアドレスを書いているだけなので、この記事では、いちいち、自分でURLをブラウザで確認するようなことはしません。恐らく、読み手を、批判者を、疲れさせたいのでしょう。そういう楽山の邪悪な意図だけが明らかになること、それが、この批判記事の意義であります。
 
飛べないリンクを、いちいち、こちらが、わざわざ追うことはしません。殆ど、楽山の、暇つぶしの記事だと思います。事情を知っている人だけが見れる設定ですが、事情を知っている人が、こんな記事を読むでしょうか。楽山が仕掛けている徒労への誘導は無視したほうがよいと思います。
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
この騒動ではさまざまな争いがありましたが、今回はその番外編として、楽山論争を紹介したいと思います。楽山は「ブログ村騒動」を観察しつつ、その発言を保存し、感想を書いていたのだが、レオ氏はそこにあるレオ批判を見咎め、いわゆる当てこすりのような手法で楽山批判を書き、楽山の方もそれに応じて同様の手法でレオ批判をしたのでした。
またここでは、ついでにぽん吉氏による楽山批判も載せておきます。これによって、ぽん吉氏による楽山批判と、レオ氏による楽山批判との比較が可能となり、両者の性格の違いがよく分かると思うので…。私見ながら、批判というものは、批判対象よりもむしろ批判者本人の姿をあらわにさせるものなのだと思います。
編集方針は前記事と同じです。 
 
編集方針が、先ず、記事として成り立っていません。URLの林のような記事ですが、飛べませんし、楽山(自由)として書いていても、コメントも記事も分かりにくく、かつ、少ないのに、アドレスだけでクリックで飛べないのですから、何かを伝えようという態度ではありません。
 
楽山は、途中で投げ出したのでしょうか。ちゃんとやってるふうの見せかけだけなのでしょうか。主張が、全く見えてこない記事を書いて、いったい、何が言いたいのでしょう。ひょっとして、誰も見ないだろうということを承知の上での、自己満足なのでしょうか。
 
*発言集
 では、以下に双方の発言、記事を貼ってみます。(注 「自由=楽山」です)
楽山くーん、君ね、
人の意見ばかり集めて
自分の意見、ないんじゃないか??
君のポリシーは??
君の生き様は??
それが一番、大事なんだよww
楽山くーんww
シャキッと生きろや!!
シャキッと!!
2017/2/13(月) 午前 1:50 [ sle***** ](注 ぽん吉氏です)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512695.html
 
確かに、楽山には、自分の意見などないと思います。どうでもいいのでしょう。かっこつけることだけが目的なのでしょう。だから、こんな不親切な記事を書いて、人が面倒くさがることを、サディスティックに見て、笑いたいのでしょう。こういうところが、迷惑男、楽山の本性なのです。
 
かしこまりました! (笑)
2017/2/14(火) 午前 7:36 [ 自由 ]
http://mn266z.blog.jp/archives/17512695.html
 
おふざけです。本気など、一度も、持ったことのない楽山らしいコメントです。しばしば、そういうときに「(笑)」を付けてくるのも、今に始まったことではないと分かります。これだけ、見苦しい自分を出しながら、平気でいられるのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDだからです。
 
*これも偶然?
自分は、霊的なことにのめり込み過ぎてはいけないという記事を出したのだけど、その後に、悪魔は霊的なことから目をそらせようとするという記事が出ていたようだ。おもしろい偶然だ。何気に悪魔呼ばわりされたような気分がしないでもない(笑)。
 
楽山の悪魔性については、すでに書いてきました。ここでも「(笑)」で済ませられるところが、ますます、それらしいことを示していますが、楽山は、崩壊人格のために、感受できないでいるようです。にもかかわらず、こうはなりたくない病質というものを隠せなくなっているようです。
 
まあそれはともかく、この方も、悪魔は、菩薩以上の魂に限らず、それ未満の魂も狙ってくると考えているっぽい。でも、悪魔は基本的には、凡人は狙わないが、真理の団体の一員であれば、凡人レベルでも狙われることがあるという教義もあったように思うので、これはこれで従来の教義でも許容範囲かもしれない。
2017/3/14(火) 午後 7:36[ 楽山 (自由) ]
 
「考えているっぽい」という楽山の言い回しに惑わされないでください。楽山の記事は、無視しても、何も失うことはありません。真に受けると、徒労と疲労、そして、楽山と同じような精神の鈍麻が待っているのです。良いことを何も提供できない楽山の意地悪なあがきです。
 
*おもしろい流れ
ははは。こうして並べると、この流れはおもしろい。
●宗教の見分け方|楽山日記
 
「ははは」と独りで笑ってる・・こういうことは、独りの部屋でやってほしいのです。流れは、少しも面白くありません。バカバカしいだけです。楽山は、バカだけが笑うところと言われることを予想しないのでしょうか。もはや、完全に孤立して、自己満足だけのベロベロになったのでしょうか。
 
●価値観は人それぞれ|楽山日記
http://mn266z.blog.jp/archives/17512678.html
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40713379.html
◇人それぞれ、というだけではなく、万人に共通する普遍の真理もやはり要る|LEO幸福人生のすすめ
 
楽山は、人それぞれ、人は人、自分を貫く、という言葉を、盛んに、ついには、必死に、自己正当化のために利用してきました。自由には責任が伴います。嘘と詭弁と悪と偽善は、自由から、自由によって除かれるのです。何も知らないで、古く酸っぱくなってゆく楽山の酢の物です。
 
●聖人の道は、平坦で、誰もが通れる道である?|楽山日記
◇自分を正当化するための屁理屈を編み出しても、意味は無い|LEO幸福人生のすすめ
 
自己正当化の屁理屈のために、誰よりも、自分の人格を壊してしまった楽山であります。しかも、数年前のことを蒸し返して、何になるのでしょう。今の問題が、それで、解決するとは、到底思えない記事の有り様です。こういう記事を書くしかなくなったのでしょうか。
 
●人生で、一番大切なこと…|楽山日記
●人生で、一番大切なこと…(その2)|楽山日記
◇自分はどうしたいか、ではなく、人はいま何をすべきか、を考える|LEO幸福人生のすすめ
 
自分のしたいことだけしか目に入らず、何をすべきかを考えない楽山の、末路の1シーンがここにあります。どうにもならないことになり、どうにもできないまま、記事を書くという体裁だけを作って、書いたことにするのは、何も見えて来ず、手も足も出なくなった楽山です。
 
●本にがっつりハマれない?|楽山日記
◇読んで、理解して、考える|LEO幸福人生のすすめ
◇「清水幾太郎の新霊言」を読みながら … その1|LEO幸福人生のすすめ
●恩にこだわると、正義を見失うのか?|楽山日記
◇単なる言葉遊びと、本当の理解とは、ぜんぜん違うのだということ|LEO幸福人生のすすめ
●知的正直、自己本位、聖賢におもねらないということ…|楽山日記
 
楽山は、読むことも、理解することも、考えることも、できない人だと思います。また、恩も知らず、正義も知らず、普遍的なことを何も知らずに、原始的な恨みだけに生きていると思います。そして、言葉の字面だけを並べて、出来たと思ってしまう自意識だけの理論家気取りです。
 
パーソナリティ障害の観点からいえば、日本社会は、どんどん自己本位になっているといえるだろう。
 
パーソナリティ障害の観点というのは、精神病理の症例報告であり、あってはいけないことなのです。楽山は、こう言われて、わざわざ書いてくるわけですから、いかに、楽山の理解が的外れであるかが表れてしまうのです。
 
自己本位と、自己中心は、違います。自分を大切にするという人間本来のあり方と、自分のことしか考えないという他者を傷つけて悔いない悪意の本性という違いです。後者こそが、楽山です。楽山には、全く病識が見られません。
 
●宗教を止めてよかったこと(恐怖心からの解放)|楽山日記
●自己変革にこだわっていたころ…(変えられることと、変えられないこと)|楽山日記
◇正しき心の探究 ~自分に都合のよい偏ったモノの見方は、ダメ~|LEO幸福人生のすすめ
 
宗教を恐怖としか思えない楽山は、殆ど自主性・主体性がないように思われます。ゆえに、変えられるものを変えられず、「自分に都合のよい偏ったモノの見方」だけで書いてくるために、当然のごとく、齟齬を来たし、矛盾を呈し、批判を浴びせられて、何も答えられないのです。
 
この退転アンチの悪質さは、ブログ村騒動では、第三者の仲裁があって、騒動の原因が明確になったにも関わらず、その後も延々と、相手方の方が正論であるかのような悪質な印象操作を交えた、事実改竄記事を書き続けて粘着していたこと。
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 
どういう仲裁があったというのでしょう。仲裁というだけでは、誰なのか、どういう立場の人なのか、分かりません。説明できないのであれば書かないことです。印象操作、改竄、これに説明も説得もないのです。これが楽山の屁理屈です。難しそうな用語を並べるだけの自己満足に過ぎません。
 
相手方の非が数多く証拠もあがって、事情がいっそう明確になった後でさえも、それらのことはスルーして、わたしを貶めたいあまりの、自己都合の解釈論でもって、延々と相手方を弁護し、こちらを誹謗中傷するという邪悪な行動を行ってきました。
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 
楽山の解釈は、"論" になったことはありません。嘘と詭弁だらけです。それが、新たな証拠となってゆくのです。不毛なのは、楽山自身であります。議論の気もなく毛もないのです。
 
ブログ村騒動は、いくつもの論点があるので、これだけでは、どれについて言ってるのか分からない。
>LEO氏には確実な証拠が示され、事実は明らかになったにも関わらず、楽山は屁理屈をいって、事実をひっくり返し、誹謗中傷していたように見えているのかもしれないが、自分としてはたとえ証拠が提出されていてもそれだけでは事実確定できず、解釈の余地があるなら、ああでもない、こうでもないといろいろな可能性を考えることになるし、はっきりした事実が確定できるものなら、はっきりした考えを持つことになる。ただそれだけのこと。
信者ブログを見たけれど 2(古い話の蒸し返し)|楽山日記(LD)
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDですから、総て自己中心に回っており、解釈の余地など分かりません。事実が確定されることを、真実と思うのは、間違っています。心の問題を考えることの出来ない障害者である楽山の自閉世界に過ぎないからです。
 
「ああでもない、こうでもない」と、何事にも難癖をつけてきた自分の事実関係さえ、楽山は自覚していません。はっきりした事実確定も、はっきりした考えも、楽山には生まれないと思います。何故なら、人格が、自己中心では、結論など出しようがないからです。
 
まともな結論も経過も分からないから、意地の悪い婉曲の誹謗中傷しか出てこないのです。自己愛・自己中の軸しか持たない者は、議論自体が不可能です。何故なら、自己中の結論が前提になってしまっているからです。
 
議論は、正否を明らかにするためですが、楽山自身に、妄想的な正はあっても、否を思う要素がないからです。楽山は、いつでも、いつまでも、今のままでしょうから、議論をしたい人は楽山に関わってはいけない、という結論にしかなりません。
 
さて、自己愛性パーソナリティ障害の症状全開の楽山はどうなるのでしょう。記事の文脈も整理できなくなっています。主張もまとまりません。楽山は、ついには、繰り言にも疲れて、パニクって、何かのケダモノのように、ブラッパッパッパァァ・・とでも吠えてまわるのでしょうか。
 
理路の成り立たない度合いが、ひどくなっている楽山、ゴールは廃人でしょうか。なにはともあれ、おぞましくなってゆく楽山には、近づかないほうがよいと思います。昔の話をほじくり返して、まとまらないまま、長々と乱雑に並べても何にもならないことさえ、分からなくなっている楽山です。
 
あの頃は、輝いていたと懐かしみたいのでしょうか。思考がまとまらないから、まとまらない箇条書きにしかならないのです。今の問題から顔を背けて、なお、インテリ気取りで、整ってるふうを装うのでしょうか。整うことは、最初から、なかったのです。
 
 
整理しても滅裂の造花

整理しても滅裂の造花
 
 
(2021年08月16日)
 
 
 
  情報人間だ
 
多くの人が歩いている街
それぞれは血も涙もある人間だし
会って話している人もいるけれど
出会うことないお互いは
動く障害物にすぎない
障害物をよけながら
多くの人が上手に歩いている
群がり移動するお互いは
えさを運ぶ蟻以上の無関係
整然と群衆が移動する風景
確か複数のファイルをまとめてコピーする方法があったな
 
情報化社会のシステム
マルチメディア・ネットワーク
規格の統一
バーコードになった言葉
会話?
その恩恵から取り残されるとよっぽど怖いことになるのかな
 
今でさえテレビにも新聞にも本屋にも
情報はあふれているのに
どう選択したらいい
人間の記憶には限界があるのに
どう整理したらいい
コンピューターに保存しておけばいい
コンピューターの記憶装置が整理してくれる
コンピューターと記憶装置はつながっているが
人間とコンピューターはどうつながっている
人間の記憶の中にあった大切なものが
コンピューターに移されて
 
大切な約束のために訪ねたある日
ちょっと待ってねと
彼は部屋に入った
入ったきり出てこない
心配で見に行くと
パソコンがやさしい声で言った
「もうすぐですから少々お待ちください」
パソコンの前に座っている彼は
背筋をまっすぐ硬直させたまま
ディスプレイに向かって
複雑なバイナリーのコードらしきものを
さかんに左右の眼を点滅させながら
口から泡をふきながら叫んで発信し続けているのだった
 
(90年代か)
 
 
 
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  楽山のざらざら
 
 「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
 2021年08月14日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
起死回生でも狙っているのか、遺書のつもりなのか《それはないと思う》、楽山は、自分で、ろくなこと言えないものだから、他者の言葉を集めています。一方では、他者の意見を無視して、自分は分かっているという自己顕示欲の鬼です。
 
楽山のような人につかまって、人生を台無しにしないでください。何も持っていない人です。人のための言動などしたことのない人です。あらゆる善き人を気取って見せますが、気取りだけで、数か月、付き合えば、良いところなど、何も持っていないと分かる人です。
 
こういう人に引っかかっていると、さらに、言うことを鵜呑みにしていると、思考が妨げられて、理路が分からなくなるでしょう。妨げられた思考を、楽山と同様に、詭弁で、ごまかすようになるでしょう。精神機能が、無反省と無責任のために、全般に鈍麻するでしょう。
 
この一連の記事で、楽山は、自分の意見を殆ど書いていませんが、僅かに書いたことも、批判対象になるだけで、つまり、人生や思想や宗教の深みなど、全く理解していないのが分かります。にもかかわらず、賢者を気取って俯瞰しているつもりの、厚い厚い面の皮であります。
 
リンクは貼りません。楽山は、殆ど書いていないので、人の口で、よく思われようとする匹夫の浅知恵が見え見えであります。人を引用するためには、先ず、自分の不完全と弱さを晒さなければなりませんが、楽山は、自分を飾るために、こちらが震え上がるほど傲慢です。
 
楽山は、信仰とは、反対側に棲んでいる偽善者です。
 
引用元は、大方、HSの信者のようです。
 
リンクは省略して、一部を引用してみます。一貫して、楽山は、人の口を利用~悪用している事実は変わりありませんし、楽山個人の主張が成り立たないことについて、楽山自身が、どうしようもなくなったのでしょう。
 
私が、ブログ【癒し 天使たちのことば】を、肯定的に捉えている理由
もしも
原理主義者達が主張するように
『信者達の誰もが、高級霊のインスピレーションが降ろせず
高級霊のインスピレーションが降ろせるのは、総裁先生タダ一人だけ!』ならば
悪魔達は、大喜びだろうね?
それが、真実ならば
悪魔達は
総裁先生が
寿命で亡く成るまで
後、約二十年の間
じっと我慢するだけで良い
その後は、悪魔達の天下に成るだろう
 
教祖の教えが、人間にとって印象深いものならば、永遠性を持ってきます。例えば、キリスト・イエスは、今も、聖書を通じて、生き続けています。人間が生きるために必要不可欠なことであるならば、消えることはないからです。
 
教祖が、狂素に過ぎないならば、後遺症が残ります。オウムなどが、その例です。個人的に影響を受けて、自由になれないからです。楽山後遺症を残してはいけません。
 
教団は、タダの、能無し教団と成って
救済力は、全く無く
ただ
教団維持の為に、御布施を集め
形骸化した教えを、維持する為だけに
存在する事に、成ってしまうだろう
 
大方の人にとって、カルトは、嫌な記憶と記録になります。
 
教えが、人を生かすならば、形骸ではないものが、教団にいてもいなくても、書物等によって、残ってゆきます。つまり、そこに真実の永遠性があります。
 
日本の神々が
そのような事態を、望むハズも無く
せめて
数多くの、神社や神殿において
巫女や神主達が
衆生の、様々な要望に応じ
高級霊達のインスピレーションが
適切に降ろせる事が、望まれるだろう
今回、私が
ブログ【癒し 天使たちのことば】を
肯定的に捉えているのは
そのような、理由からだよ?
もちろん
総裁先生と
我々、一般信者とでは
霊格の差は、歴然だ
 
楽山という教祖願望においては、跡形もなくなくなることだけが望まれます。つまり、楽山の生きた数十年は、一生懸命、紙くずを食い散らかす期間に過ぎません。そして、人の心も、食い散らかしてきたのです。それが、楽山の、利のため、欲のためなので、生きるほどに醜くなります。
 
だから
巫女達が、受け取るインスピレーションも
あれが、精一杯だろう
総裁先生の様に
長時間の
神降ろしは
とてもでは、出来無い事が、ハッキリした
さあ!
これからが
弟子達の正念場だ!!
タダの、能無しで
今世の寿命を終える
【役立たずの職員】で終わるか?
それとも
適切に、高級霊達のインスピレーションを受け
総裁先生も感心するような、立派な仕事が出来るように成るか?
私は
世界中の
キリスト教徒達や
イスラム教徒達を
立派に感化出来る、弟子達を望む!!
ただ
彼らから
逃げ回るだけの
能無し信者は、必要とはしない!!!
『正義の法』は
誰に対して行えば、救済出来るのか
貴方の胸に手を当てて
良く考えることだ。
 
キリスト教も、一枚岩ではないですから、感化されたり、無信仰になったり、妄想作りに変貌したりはあるでしょう。現にあるような気もします。だから、宗教において、最も大事なことは、超常の奇跡がどうかではなく、人間一人を生かすかどうかです。
 
信仰は、地上にあるあいだ、地上の人間に対して、何が一番大事なことなのかを、問い続けるでしょう。聖書を通じて、キリストが問い続けているからです。
 
楽山のように、自分だけを大事にしている者は、問うこともなく、問われることもないので、だんだん近くなるのは、警察か、精神病院か、どこかの河原・・だろうと思います。
 
今日は、エルカンターレファイトのことについて、感じたことを書いてみたいと思います。
なぜかと云いうと、私は最近少し体が重く、何となく変だったが、巫女役の方もそのことに気づき、どうしてだろうと意識を向けてみたところ、誰かが数名で私達に向けてエルカンターレファイトをしているのを発見しました。
これは、主との約束事なので、行じると主の光の降魔の光が相手に届くことになります。
私達はその降魔の光をありがたく受け取ることにし、しかし、その中に混じっている「砂」の部分は取り出し、祈りによって浄化し、発信者にお返しさせて頂きました。
ただ、私達が気付くのが少し遅かったので、私の家族にその影響がでまして、緊急に病院へ行くことになりました。幸い軽くてすみましたが、私の力不足を、とても悲しく残念に思っています。
 
お大事に。・・楽山は、人間性を喪失して、人間を物扱いするペテン師になっているために、こういうことも書けないのか、乱暴に引用だけしています。
 
2014年の記事の引用のようです。楽山は、なつかしモードに入っているのでしょうか。それとも、古い記事なら反発もあるまいと計算しているのでしょうか。いずれにしても、楽山が、今、目の前にある問題から逃れようとしているのは確かでしょう。
 
「砂」と書けばご理解していただけると思いますが、もう少し詳しくお話したいと思います。
これは、爽やかな風のお話の中で、この風に砂塵が混じっているというところから「砂」を使ったものです。
砂は、「あまりよろしくない思い」と言う意味で前回の文章に使っております。
その思いが人を傷つけると、言っているのです。
このエルカンターレファイトを行じるにあたり、まず自らの心を点検し、この砂塵が混じっていないかどうかをよくよく点検する必要があると思います。
そして純粋な気持ちで行おうとしているのか、主の教えに反した心でもって行おうとしていないか、これを問う必要があるのではないかと思います。
ですから、エルカンターレファイトを行うにも、修業の観点を忘れてはならないのではないかと思います。
多くの経験をすることにより、主の理想に近づく、そして、人の役に立つエルカンターレファイトが出来るよう、常に常に努力が必要ではないかと思っております。 
 
砂が入っているというより、砂だけで出来ているのが、楽山だと思います。今まで、一度も、宗教と信仰の、実質の理解を表したことがありません。キリスト教と信仰について言えば、小学校レベルの屁理屈で否定したり肯定したりしたことだけです。嘘にまみれて、ざらざらしているだけなのです。
 
楽山も、楽山の記事も、決して信頼してはいけません。部分的には良いなどと思っているなら、その部分においても、一部を全部に見せかけるという詭弁を用いているのです。楽山の脳内理路が狂っているのか、作為の詭弁か、いずれにしても、関わってはいけない相手です。
 
 
砂でしょうか いいえ潟です

砂でしょうか。いいえ、潟(がた)です。
 
 
(2021年08月15日)
 
 
 
  一所懸命
 
森が町になって
町が焼かれて
火事が荒野をつくって
荒野が砂漠と呼ばれて
砂漠が山になって
固まっている
その上に黄色い人がいる
のが見えるくらいの小さい山だ
 
耕して種を蒔(ま)いている
穀物や野菜
果物まで植えている
のが見えるくらいの山だ
 
平地は誰かが持っていった
山をどうしようと持ち主の勝手だ
一所懸命とはこのことだ
 
山に家を立てる
道をつくる
車が走る衝突する
電気を通す感電する
水道を通す
プールができる
水があふれる溺れる
 
その上にビルが建って
コンピューターが置かれる
ゲームができる
町ができる
店が並ぶ
次々にビルが並ぶ
 
結局その中で温室栽培している
穀物や野菜や果物を
植えたり埋めたり掘ったり捨てたりしている
 
試験管を扱った手で
酒を掛けて祈っている
アルコールがガソリンに変わる
石油をまき散らす
余ったからだという
 
ここはどこだ
元々どこだ
黄色い人
ここは誰もいない
のが見えないくらいの山だ
 
(90年だか)
 
 
 
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 ※ 水害のニュースについて。広範な災害で、数十年に一度、経験したことのないような、命の助かる可能性のある方法を、とまで報道しながら、死者の報道が、数人というのは、どうなのだろう。 土砂や水に呑まれて、埋まっている人、沈んでいる人など、報道規制でもあるのだろうかと思ってしまう。発見が遅れるのは分かるけど。老婆心ながら、岐阜県の白川郷とか、大丈夫でしょうか。
 

 
  楽山の無責任広告
 
 「キリスト教に関する来訪者の声」を読む
 2021年08月13日 楽山日記(LD)
 
 
記事の大方は、リンクを貼っているようですが、いつものように、他者の口を借りて、キリスト教と信仰に、いちゃもんを言ってくる卑怯者の楽山です。楽山は、話にならない人はスルーすると言っていましたが、いちばん、話にならないのは、楽山です。こちらは、リンクは貼りません。
 
楽山は、訂正不能の腐敗に陥ると、正当なものは、一切、理解できないのに、分かったつもりの、だまし言葉で、立派に見せようとしてくる、という履歴であり、面白くもない偽善の道化なのです。楽山は、他者の都合を一切無視してくるので、楽山の言も一切無視してください。
 
*知る喜び
この間から、佐倉哲エッセイ集の「キリスト教に関する来訪者の声」を読み返しているが相変わらず面白く、かつ勉強になる。
以下に、今回特に心に響いたところをメモしておきたい。
 
先ず、楽山は、勉強をしない人です。自分の快感につながる都合のよいことを漁っているだけです。その証拠に、読書したはずの楽山の宗教観は、読めたものではないのです。
 
*信仰と探究
まずこのやりとりは、自分には真に迫るものがある。以前とある宗教を信じていた時に、「この宗教は正しい。自分は正しい宗教を信じている」という信仰と、「正しい宗教とは何か? この宗教は本当に正しいといえるのか?」という探究心との間で悩んだことがあったので。
・「キリスト教撲滅運動か」
 
どうして、その間に悩むというのでしょう。しかも、言葉だけ探求心と言っていますが、楽山にあるのは、クリミナルマインドだけだと思います。別個の問題を区別できない楽山が表れています。なお、「正しい宗教」も、信仰も、楽山は書いたことはありません。心に響くところがないのです。
 
*あれかこれか
これも自分には他人事とは思えないやりとりである。以前信じていた、とある宗教も自由を推奨しつつも正邪善悪をはっきり区分し、二者択一を迫るところがあったので。
・「二者択一の論理」
 
嘘です。楽山には、すべて他人事だと思います。というのは、楽山には、まともな自分がなく、この記事もそうですが、他人の言うことを、我執と我欲で選んで、もっともらしく、また、問題をすり替えて、見せてくるだけなのです。
 
*内村鑑三
佐倉哲氏がここで紹介している内村鑑三の言葉は、自分にとっては真っ赤に焼けた鉄のようであり、一度触れれば魂に深く焼印を押され、もう二度と忘れることはできなくなるようなものだ。内村鑑三は大きな人だと思う。
・「内村鑑三」
 
楽山は、真っ赤な嘘と、焼けただれた言葉を、記事に貼り付けて送信し、それを、記事とか文章とか稿とか呼んでいるだけです。内村鑑三も、激しいところがあるので、それを、楽山は、好きなように悪用しているのです。最後には楽山自身が焼けただれることも知らずに。
 
楽山は、読む人に、最初は、やんわりと、ついには、消えようのない焼き印のように、刷り込んでゆく独りカルトの煽動者です。反省もせず、責任も負わないで、楽山が書いてくるところの、丁寧語と、学者気取りに、だまされないようにしてください。
 
*生け贄と神観念
ここでは日本人にとって生け贄という考え方が難解である理由が、分かりやすく説明されている。日本的感覚では生け贄を要求する絶対的な権力者は、「やまたのおろち」と同様に悪と受け止められるというのはその通りだと思う。少なくとも自分にはそういう感覚はある。
・「十字架」
・「十字架のあがないと日本人」
 
楽山は、それこそ、生きた人間と、生きた良心を、焼き尽くす生け贄として、求めているのでしょう。心の底から腐ってしまうと、このように、人間離れした悪魔性になるということを、楽山は、示しています。悪魔性が、人間らしさと、インテリ気取りで、書いているインチキブログです。
 
*本音と建前
ここでは聖書の無謬性についての本音と建前が語られている。
こういう文章を読んでいると、自分が信じていたとある宗教でも似た考え方があったのを思い出す。普段は「この教えは最高の真理だ。史上、これだけ素晴らしい真理が説かれたことはない」としつつも、その教えに間違いが含まれていることを指摘されると「それは枝葉の部分にすぎません。教えの本質を見てください。この本質においては少しの間違いもありません」というのである。この辺りの本音と建前は、どこの宗教でも変わらないのかもしれぬ。
・「写本・訳本問題」
 
信仰は、枝葉ではなく、有無の問題です。行為義認ではなく、道徳でもありません。楽山は、今までの経過から、信仰を、多からず少なからずの安い楽山レベルの安い道徳におとしめてきます。元々、救われる気もなく、見せかけの優しさと霊能者気取りのエゴイストに、だまされてはいけません。
 
*つづき
つづきは、稿を改めて…。
 
まだ書くという脅しでしょうか・・・楽山の稿は、疲労と徒労の入り口です。あらゆる問題を無視して書いてくる楽山の文章には、今まで、説得力も、本心も、見られたことはありません。表れてくるのは、嘘と詭弁とペテンと悪意だけです。どうか、楽山を相手にしないでください。
 
 
(2021年08月14日)
 
 
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 2021年08月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
 
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
*発言集
では、コピペ批判に関連した発言を貼ります。
 
いつものように、他者のことばかり言ってくる楽山です。
 
コピペブログをやってる人たちは、自分では文章は書けないけど、幸福の科学の教えは広めたいという気持ちから、せっせとコピペ記事作成してるのだろうし、きちんとコピペ元を明示してリンクを貼ってるなら、よしとしてあげてもいいような気はするけど、どうだろう。甘すぎるかな。
でも信者村では、コピペブログはいくつもあるし、ガンさんはいくつものブログに噛みついた形になっちゃってるな。
 
弱気の筆致で描いていますが、これは、楽山の芝居で、トホホ言語と呼んでいます。責任を薄くするための、お道化の一種でしょう。楽山は、「きちんとコピペ元を明示」しているでしょうか。「>」の使い方が、雑です。リンクを付ける作業もしていません。怠け者らしい書き方です。
 
楽山は、自分の意見に軸がないので、他者から、特に、有名人の本から、都合のいい文言を引っ張ってきます。誤解とかは考えず、自分のために、有名人さえも利用して、自分も同じレベルだと、学者やインテリを気取ります。
 
相変わらず、コピペブログ批判をしてるようだ。
傍から見てると、ブログの方針にしても、アンチへの対応にしても、それぞれのブログによってちがっていていいと思うのだが、それじゃあダメなのかなあ。
 
ボンヤリ言語「かなあ」が出ています。いい加減なことしか言えず、責任を負う気のない者の筆致です。それで、言ったことの責任がなくなることはありません。「ちがっていていい」と言って、引用して、責任は負わないわけです。そういう引用は、いちばん、厄介でしょう。
 
「信者ブログはこうあるべきだ」「アンチにはこのように対処すべきだ」という自分なりのポリシーを持つのは悪いことではないだろうけど、他人も自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎのように思える。
 
「こうあるべきだ」に対して、別のあり方を提示して説明することが、楽山には、できないのです。だから、何でも、議論も、言論も、投稿も、ブログも、リンクも、本の引用も、すべて、いい加減になってゆくのは、無責任の証拠でしょう。楽山には自己愛性人格障害の病識がありません。
 
責任を負わないのなら、意見を言うべきではありません。自分のしっかりした意見が、楽山には、ないのです。楽山の人生観は、言いたいこと言って、気が変わったら、訂正も反省もせずに、好き勝手に、違うことを言ってもいいという考えなのでしょうか。だとしたら、社会人ではありません。
 
他にも、書いてありますが、似たようなものですし、お情けちょうだいの「かなあ」「だなあ」「なかろうか」の、ボンヤリ言語・トホホ言語で、まるで、おねだりしているような筆致は、臭くて、読むに耐えません。
 
 
(2021年08月14日)
 
 
 
  縊死(いし)
 
幾人かの自殺者が残していったものは
あまりにも急な沈黙に終わってしまって
動機も理由も結局は不明のまま
明確に語れる者は誰もいなくて
噂だけが死臭のように漂ってはくるが
口の中でムニャムニャ
聞こうとして聞くに憚(はばか)り
そのムニャムニャが胸の底まで沈んでいって
さらに病みながら片隅にあるばかり
 
キリスト者とはいえ自分の場合は
自殺しない保証は何もないから
せめて「ごめんなさい」と
祈りともつかぬ最後の独り言を
今更のように戯言を
そのときには呟くしかないのだろうか
すべては自分の責任において
首を括り首を吊る
責任と意志
 
いつの日からか
我が身から出たものは
いずれ我が身に返ってくる習いから
その顔が溢血点や鬱血や
腐乱や浮腫でどんなに醜くかろうとも
正視しなければならない
 
そう気づいたときから
自分で自分の首を絞める
という縊死は
繰り返される日常の中にある
 
 
(2000年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
与国さんなりに、自分に正直に、真摯に、命がけで意見を述べたのに、
霊的に悪い波動を受けての発言ですね、反省行に打ち込んでください、で済まされたんじゃ、たまったもんじゃないな。
まあHSでは、教祖、教団に不都合な意見は「下のものに言わせられてる」で片付けられるのが当たり前なんだけど。
午前7:09 · 2021年8月13日
 
「霊的に悪い波動」は、霊能者気取りの楽山の嘘と詭弁が専門です。楽山は、ふつうに生きてるつもりなのでしょうか。教団の不都合を言いながら、一方では、キリスト信仰をおとしめて、右翼思想家を讃えて、霊やホラーに気を奪われて、他者の気を奪っている超・無反省・無責任の楽山です。
 
 
 
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  楽山のマイコン2
 
 マイコン解除のきっかけ(幸福の科学とキリスト教)
 2020年07月27日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、時々、キリスト教を持ち上げます。何を勘違いしているのでしょう。ここで、持ち上げても、今までのキリスト教への、いちゃもん、悪口、クレームが、消えることはないのです。
 
*きっかけ
自分がキリスト教に興味を持ったきっかけは何だったかと考えると、多分それは三浦綾子の本を読んだことだった。小学校のときに校門前でキリスト教の紙芝居を見たり、高校生のときに福音書を読んで感動したこともあったが、本当に興味を持ったのは三浦綾子がきっかけだった。そしてこれがHSから離れることにつながったのだった。
 
楽山が読んだという言葉を信用してはいけません。キリスト教に興味を持ったという言葉も信用してはいけません。読書は字面を追うだけ、キリスト教は揶揄の材料と、世辞のネタにしているだけです。楽山は、異常な精神からの保身のため、結論というものを持てない人です。
 
つまり、180度と言っていいほど信頼を裏切ってしまうと、"狼と少年"、のように、何を発言しても、だまし文句として、誰にもまともに聞かれなくなるということです。楽山は、今さら、何を言っているのでしょう。楽山が何を言っても、また嘘を吐いている、ということにしかなりません。
 
HSでは、大川隆法の説く教えは、どの宗教よりも高く、奥が深いとされていた。HSこそ最高、最大、最強であって、HSの出現によって、他の伝統宗教の役割は終えた、HSによってすべての宗教は統合されるといった具合である。恥ずかしながら、HS信者だった自分はこれをそのまんま信じていたのだった。
でも三浦綾子の本を読むと、その真摯な生き様に感動させられずにはいられないし、キリスト教関連の本を読んでゆくと、その奥深さに気づかないではいられないのだった。そしてこれに反比例する形で、HSの信仰論など、その教えの浅薄さが目につくようになって行ったのだった。
 
楽山に、真摯、感動、という言葉は、飾りと自慢でしか使われることはないと思います。何故なら、今までの、反省も、謙譲の言葉も、みな、言葉だけだったことが、その前後の実質的な無反省と無変化と無責任に表れており、なおも、ネチネチネチネチと、言い訳がましいことを書いてくるという行為に表れているからです。
 
こういう風にあからさまに宗教を比較し、優劣を論ずることは褒められたことではないだろうけれども、自分はキリスト教関連の本を読んでゆくうちに、HSは最高、最大、最強であると信じ込むというマインド・コントロールが解けたのは事実であるのだから仕方がない。少なくとも自分がHSの信仰論のおかしさに気づけたのは、キリスト教のおかげであった。これは有り難いことである。
 
ならば、キリスト教を、揶揄したり、おとしめたり、お伽噺と同じように扱ったりは、しなかったはずなのです。楽山は、マインドコントロールをするほうであって、かけられるほうではありません。既に、訂正不能の自己愛、自己満悦、自尊過大に満たされ、囚われているからです。
 
いつでも、平気で、有り難い、などという、白々しい三文芝居のセリフが言えるのが、楽山です。心からの感謝は、楽山の病的人格には、有り難い→ありえないことなのです。
 
*印象操作
ところで、HSブログ界隈についてご存じない方のために、一つ警鐘を鳴らしておくと、HS信者のブログには、三浦綾子、アウグスチヌスなどの言葉を頻繁に引用、紹介しているところがある。これはある意味、HS信者でさえも、大川隆法の教えよりも、キリスト教の教えが優れていることを認めているということなのだろう。
 
キリストの教えがすぐれていることを、楽山が何も理解していないのは、今までの経過で明らかであるのに、楽山は、また、字面だけの文章を、だらだらと書いています。侮辱しておいて、それを、ほめることで中和することは出来ません。
 
例えばこちらが反省して悔い改めることが必要だなどと言ったら、恐らく、楽山は、反省して悔い改めようと思う、といったことを、平気で書いてくるような人だと思います。そして、何も変わらない、という結果だけが積み重なっています。
 
楽山は、心にもない偽りを言うことに罪悪感を感じないのです。そこまで、白々しい履歴が残っているのだから、もはや、何かを書いて凌ごうとしても、無駄なのです。
 
大川隆法の教えが圧倒的に優れているならば、わざわざキリスト者の言葉を持ち出す必要もないはずだ。でも実際にはキリスト者の言葉を引用してばかりいる。これはつまり前者の言葉は、必ずしも後者の言葉を圧倒するほど優れたものではないということなのだろう。ブログ主はこのようなことは全然考えていないようだけども、この点は傍から見ていて少々おかしくはある。
 
HS批判に、キリスト教を持ち出す資格は、楽山にはありません。楽山は、キリスト教も信仰も、全く理解していません。さらに、人間は平等に言論の自由があると言っても、言論の責任を負わない楽山には言論の自由はないのです。メチャクチャおかしい偽善者は楽山です。
 
ただこのブログ主の引用の仕方には、笑いごとではすまされないところがある。それは恣意的な引用が見受けられるということだ。たとえばキリスト者の言葉のうち、HSに都合の良いところばかり引用し、さもキリスト者がHSの正しさに太鼓判を押し、支持しているかのように印象操作しているのだ。
 
「恣意的引用」は、楽山の得意とするところで、読書からの引用も、大方、同様であろうと思われます。それが、自分の言葉を持たない楽山の、性癖であり、生業(なりわい)なのです。印象操作も、楽山がしばしば、欺きのために、先入観づくりのために弄してきた詭弁の一つです。
 
HSの霊言本では、古今東西の偉人賢人の霊が登場し、大川隆法を讃美、賞賛しているが、このブログではアウグスチヌスや三浦綾子などのキリスト者の言葉のうち、大川隆法の教えと重なる部分を抽出し、さも彼らが大川隆法と同じ考えを持っているかのように紹介されているのだ。
 
楽山が、読書したつもりで、箔をつける意図で、著者の名前と言葉を悪用するのに、酷似しています。他者のことを言えば、お前はどうだ、と言われるということを知らないのでしょうか。
 
ちなみに、スピリチュアリズムの古典についても、同じような仕掛けになっている。スピリチュアリズムの古典のうち、大川隆法の教えと共通する部分が引用され、さも両者は共通の真理を説いているかのようにされている。これはまったくひどい話だ。
 
ひどい話を、だますために、混乱させるために、自分で長い間してきた楽山には、誰を批判する説得力もないのだ、というのが、もはや結論と言ってよいでしょう。まったくひどい話です。
 
HSの教えの根本には、信者は、大川隆法を神と信じ、崇拝せよという思想がある。一方、スピリチュアリズムの基本は、内なる神を信じることであって、誰かを崇拝することではないだろう。キリスト教でも、新興宗教の教祖を神として崇拝せよという教えはないだろう。むしろ偽預言者に気をつけよとして、そのようなことを厳しく戒めているだろう。
 
偽預言者の体質を持っているのが、楽山とシャロームなのです。つまり、嘘をまともに見せかけることだけに、人生の大半を費やしてきたのでしょう。だから、真実が、どこにもなくなっています。
 
その結末は、誰からも、信用されないということです。だから、今も、だまそうとし続けている現状があるのでしょう。だまし続けるしかない楽山に、関わってはいけません。
 
当該ブログ主は、こういう根本的な相違点は無視して、大川隆法の権威付けのために、キリスト教やスピリチュアリズムの教えを利用しているのだ。当人は自分は正しいことをしているつもりなのだろうが、迷惑な話だ。
 
楽山というブログ主は、根本的な相違点は無視して、自分の権威付けのために、キリスト教やスピリチュアリズムの教えを利用しています。当人は自分は正しいことをしているつもりなのだろうが、迷惑な話です。楽山は、いかなる救いからも、最も遠い人です。
 
つまり、長く嘘を吐き続けて、その記憶と記録が残ってしまっている楽山とシャロームは、他者に向ける悪口が、楽山が言っていたブーメランによって、楽山自身に、総て返ってくるということです。
 
キリスト教やスピリチュアリズムの書籍をたくさん読んでいる人であれば、この辺りのことはピンとくるだろうけれども、そうでないHS信者は、当該ブログを読んで、スピリチュアリズムも、三浦綾子も、アウグスティヌスもみんな大川隆法と同じことを説いている、やはり大川隆法の教えは永遠不変の真理だと思い込んでしまう可能性が大きいし、これは本当に困ったことだ。
 
楽山の言うことは、一貫して、恣意的な偏向だ、という、もはや、可能性ではなく、事実経過になっています。自分という、いちばん困った存在から、読者の目を逸らせるために、楽山は、この記事で、他者のことばかり言っています。これが楽山という人格異常者なのです。
 
*棚の上?
と、ここまで書いて気がついたのだが、自分の場合は、いろいろな書物の中から大川隆法の教えとは異なる教えを引用、紹介することが多いのだった。古典名著の中から、大川隆法の教えとは正反対のものを引っ張り出して、紹介し、それによって大川隆法の教えを相対化すると…。
 
「教えを引用、紹介することが多い」・・理解しないで引用してきました。特に、キリスト教において甚だしいが、心理学の「心の理論」というのも、ひどいものでした。それらは、まだ、修正されておらず、反省の跡も見られないのです。
 
その分、自分を絶対化してきたわけです。自己愛、自尊、自己中心、自己満悦、自己正当化、という、自己ばかりを高めてきた報いは、これから、長く長く、楽山に向けられる負の債務なのです。楽山は、古典名著など本から、都合の良い言葉面を引っ張り出して、紹介し、悪用しています。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自己中・自己絶対化の権化のようなものです。そういう楽山が、何を引用し紹介したつもりでも、すべて、症状でしかなかったのです。
 
これを考えると、自分も人のことを言えたもんじゃないかな。でも自分は、こういう意図については前々から正直に話しているのだから、だんまりを決め込んでいる上の信者ブログよりはましだろう。
なんだか最後にオチがついた形になってしまったが、とりあえずここで筆をおくことにしたい。失礼。
 
楽山の正直は、どこにも表れたことはありません。もし、正直なら、既に信用を得て、このような言い逃れの記事は、書く必要もないはずです。正直とは全く正反対の自己中世界にいるために、弁明に見せかけた言い逃れに必死です。
 
実際には、批判に無反応を決め込んで、ネチネチネチネチと自己正当化の主張ばかりしてきたのだから、誰よりも悪質なのは、楽山です。"オチ" ではなく、楽山が、堕ちるのです。堕落の醜さを、嘘を、詭弁を、重ねることで、自己顕示しないではおれない楽山です。
 
 
 批判は、ネタの宝庫ではあるけれど…
 2020年07月27日 楽山日記(LD)
 
 
批判は、ネタの宝庫ではありません。真摯で冷静な努力によって少しは可能になる、という、理路と情緒のバランスなのです。私については、うまくいっているとは言えません。できることをして、あとは、神にお任せするしかないのです。
 
今回ひさしぶりに批判記事を読んで思ったのだが、批判というものはものすごいネタの宝庫だ。さらっと流し読みしただけで、新記事のネタをたくさん仕入れることができる。
 
楽山の記事は、総て、惑わしであり、自画自賛であり、非常識であり、超常趣味の言であり、楽山がいくらネタを仕入れても悪質であり、言い逃れの無駄だけが表れます。つまり、総じてインチキであります。総て、楽山によって、自己中心に妄想化され訂正不能になってゆきます。
 
自己愛の意地だけが強いので、呆れるほどの執念で書いてきますが、楽山の自慢ばかりが表れて、結果として、かえって、つまらないものになり、人生のヒントになるようなものは、長さに比して、皆無であります。
 
相手の意見を変えさせたい、自分の意見を認めさせたいという欲求がなくなってから議論に熱中できなくなり、批判にも興味がなくなり、いちいち読むこともなくなっていたけれども、この点、批判を読むことは有意義なことかもしれない。
 
また、楽山は、嘘をついていますが、今まで、ずっと、体質による不治の病のように、相手を惑わしたい、自分の言を認めさせたい、自慢したい、俺は偉いんだ、宗教を超えている、ほめたたえられたい、という欲求だけで書いていると思います。
 
楽山に対して、批判は、楽山を変えるという意味では、全くの無駄であります。
 
ただ、批判は、それを、たまたま読むのであっても、決して近づいてはいけない楽山日記というブログがあることを、記憶に少しでもとどめてほしいという目的で書いています。百害あって一利なし、というサイトが実際あるという情報であります。
 
ただ難点としては、批判から得るネタは、自分にとっては新味がないということがある。自分が意見をいうときは、ただの思い付きをいうこともあるけれども、大概はそれなりに思惟を重ねた上でいっているのだ。だからそれに対する批判があっても、自分にとって意外なものは少なく、ほどんどがすでに検討済みのことばかりであり、したがってそこから得られるネタに新鮮味はない。
 
楽山が、ネタに新味がないと思うのは、新しいものを受け取る感受性が楽山にはないからでしょう。楽山が、新しいと思って書いても、実際は、キリスト教に対するいちゃもんのように、陳腐で、幼稚で、つまらないものばかりを、書いてきたのです。それらは、既に、私の記事にしています。
 
「自分が意見をいうときは、ただの思い付きをいうこともある」と、開き直っています。楽山の記事は、思いつきだけの、まとまりのない言葉のおもちゃ箱であり、恣意はあっても、どこにも、思惟を重ねた跡が見られません。それを、ごまかすために、著名人の書籍と名前を悪用してきたのです。
 
したがって、いちばん新鮮味がないのは、楽山の記事であり、楽山の思考であり、月並みなのに、いつまでも検討済みになっていない、いちゃもんの類であり、混乱だけを与えるだけの用語の見せびらかしであります。
 
また批判から得たネタで記事を書くと、どうしたって文章が乱暴な感じになってしまうというのも困るし、どうにもみっともない。
こうして考えると、やはり批判から得たネタで文章を書くのはダメだな。それよりは本を読んで感動したことについて書く方が楽しいし、得るものも多い。この方が根が平和主義者に生まれついている自分には合ってる。反省。
 
楽山は、批判に対して反論も弁明も出来ないために、批判から得たネタが、ダメだと決めつけています。これが、楽山の、底知れぬ悪意の言い逃れなのです。楽山は、知情意とも、鈍麻しているので、感動することはありません。無感動の軽さが、「感動」と言わせているだけです。
 
乱暴になるか、理路を組み立てられるか、感性を磨けるか、努力し成長できるか、続けられるか、ということは、書く人の節操と意志と感性によるわけであって、楽山には、それが無いから、乱暴にしかならないと、自分でわざわざ言っているに過ぎません。
 
しかも、それを、「平和主義」などと、ふざけた言い方をしていることが、言論において欠格者である楽山を表しているのです。こういう人には、話し合う余地はなく、悪意と作為しかなく、婉曲的に侮辱する陰険さゆえに、決して平和主義者ではありません。
 
2年余り、楽山の記事を読んできて、「本を読んで感動したことについて」何も伝わってきたことはありません。恐らく、楽山は、本を読んで感動したことはないと思います。悪用~利用してきただけなのです。
 
楽山は、書く記事の、悪質な疲労をもたらすという影響を指摘されても、他者を無視して、節操もなく、努力もせず、口から出まかせで、書き続けています。楽山の、ねちねちと執拗な筆致は、感動どころか、何度も言ったように、無用な疲労を与えるだけの毒にしかならなかったという経過です。
 
 
洗脳者

洗脳者(の有り様)
 
 
(2020年07月30日)
(2021年08月13日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ぱやぱやくん
@paya_paya_kun
共感性が低い人は「他人の気持ちがあまりわからない」のでメンタルが強い傾向にあります。ここにさらに高いIQが加わると「まったく共感できないけど、ここは共感しているふりしたほうがいいだろう」という「偽共感」という技が誕生します。人には本心で優しくありたいですね。
午後5:19 · 2021年8月10日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。批判対象は引用した自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山です。楽山に高いIQがあるとは、到底、思えませんが、楽山は、自分に近い・・と思って、偽共感を、楽山の場合、嘘っぱちを、正当化したいのでしょうか。
 
高いIQを除いて、まさに、楽山のことです。楽山は、共感性がないので、人の気持ちが分かりません。共感という言葉だけを使って、共感したふりをします。だから、表現が、いつも、幼稚で、日田糞です。偽りを書いて、芝居をしますが、本心は、自己顕示欲・自己正当化だけなのです。
 
「人には本心で優しくありたいですね」・・今まで、嘘と詭弁で、だますことを繰り返しておいて、楽山が、いくら引用しても、この台詞は、何の共感も生じ得ません。自分に当てはめることが出来ない楽山は、まだブーメランに気づかないで、何か言えると思い込んでいる非人間です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信者の間でさえ、大川隆法の言葉は鵜呑みにできないとされてるとしたら…なんか大川隆法は哀れだね。
午前7:37 · 2021年8月11日·Twitter Web App
 
楽山は、鵜呑みにさせてきたのでしょうか。鵜呑みと、理解は、違います。楽山は、理解を得ているのでしょうか。否です。楽山の丁寧語・ボンヤリ言語・トホホ言語を鵜呑みにする人がいなくなることを願っています。
 
 
 
 定めと恵み
 
落ちてゆく自由とは
一瞬なのに
時間のかかるものだ
 
軸から外れて
トントンと車道を転がり
歩道へ露路へ線路へ
飛び出す車輪の
不規則な眩暈が
もはや直線でも円でもなく
向かう先に着こうとして
衝突しては剥がれてゆく
だんだん段々を転がって
弾んで跳んで落ちて
回っているのに衝突の音を立て
ウォークスルーを飛び越えて
跳ねて壊してゆく
 
止めるものもなく
路地の子どもたちに向かって
ひび割れながら縮んでゆく先に
ようやく
見たこともない天国へ消えてゆくのだろう
 
(2021年08月13日)
 
 
 
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  楽山の破正顕邪
 
 「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
 2021年08月11日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
執拗につづく「騒動」シリーズのようです。楽山が書く理由は不明ですが、「数年前」と書いてありますから、他に書くことがないときに、何も書けなくなったときに、こういうことをするのだろうと思うしかありません。書いて、説明しないのが、楽山の特徴です。
 
一連の記事の置いて、引用の「>」の使い方が雑なので、楽山のコメントなのか、後のほうにある別のHNのコメントなのか、分かりにくいです。責任の所在を不明確にするための作為でしょうか。こちらは、推測して、引用し、楽山だけを批判しています。
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
この騒動ではさまざまな争いがありましたが、その背景には「破邪顕正」という考え方があったようです。今回はそこに関連した発言をまとめました。
編集方針は前記事と同様です。名前のない文章についてはアドレスをみれば、発言者またはその派閥の見当はつくだろうと思います。
 
学があることを見せる、いや、見せかけるために、用語の説明をしない楽山、今に始まったことではありません。漢字を見れば、邪を破り正を顕す、ということだから、だいたい、分かるとは思います。つまり、意味としては、新しくはなく、当たり前の正義を表しています。
 
(ネットより)
はじゃ-けんしょう【破邪顕正】
誤った考えを打破し、正しい考えを示し守ること。不正を破って、正義を明らかにすること。▽仏教語。「破邪」は邪道・邪説を打ち破ること。「正」は「せい」とも読む。
 
相変わらず、プロデューサー気取りか、編集長気取りで、楽山は、自分が、なれない、できない、通用しないところを、お伽噺のように、独り芝居で、満悦するのでしょう。楽山の人生は、芝居で出来ており、真実・真理・現実がないのだと思います。
 
*これもおもしろい
上とは違った意味で、これもおもしろい。口が悪いことで有名な英さんを正義感が強いとべた褒めした人が、コピペ攻撃で有名なポン吉さんを正義の人といった人を批判するという……。
 
このように、楽山は、人の名を出し、人を指して、面白がることしか出来ません。
 
選挙中おじゃまします
「某掲示板におかしな書き込みがある。アモーレさんのブログのコメント欄が発端」という連絡をいただき、確認のためにおじゃましております。
かつてLiberty webで、英の降魔成道さんと喧々諤々の議論をしていた、私 着ぐるみと他のお二人とも、アモーレさんのブログで、英さんに対して謝罪したことはありません。
今後英さんに対して、謝罪することもありません。
一体何が原因の謝罪かも理解不能です。
最近忙しくしておりますので、幸福の科学会員さんのブログに訪れることも殆どできませんので、無責任な書き込みに、これで終止符を打てたらと思っております。
 
楽山が、謝罪したとしても、現実感のない楽山の嘘ですから、無責任な楽山への批判は、無視が長期にわたって訂正不能であることを確認した時点で、楽山への信頼度ゼロから始まり、楽山の記事がなくなるまで、止むことはないでしょう。信頼回復は、楽山の場合、ほぼ不可能だと思います。
 
*破邪顕正と公開処刑
ひょっとしたら、レオさんたちが法友批判しているのは破邪顕正の一環なのでしょうか。
そうして、レオさんたちの法友批判(破邪顕正)を、ぽん吉さん、コウさんらは「公開処刑は止めろ。法友を屠るのか」と非難しているという……。
レオさんたちの法友批判は、破邪顕正なのか、公開処刑なのか、それとも他の何かなのか、これはなかなか難しい問題です。
*結果から逆算すると
とはいえ、リバティwebのコメント欄が閉鎖されたという結果からいえば、そこでは破邪顕正というより、荒らし行為が横行していたんだろうなあとは思います。
 
楽山の記事とコメントは、明らかに、人間離れした楽山芝居からの、"破正顕邪" とでも言うべきものです。言論と言論者を、宗教と宗教人を、公開処刑ではなく、謀殺~暗殺してゆくことになる、というより、楽山が、自身の鈍麻病を伝染させることによって、実際、やってきたことです。
 
つまり、楽山というペテン師の言は、無反省に、無責任に、評論家気取りやインテリ気取りなど様々な気取りや、見せかけの丁寧語、ボンヤリ言語、トホホ言語、三文芝居、などによって、真面目に真実を追求する人と努力に対する、悪質な荒らし行為であります。
 
2年以上批判しているのを承知の上で、それを、くだらないと言って無視して、平気で、自分の言いたいことだけ書き続けられるという楽山の心性には、いつも呆れます。不都合を無視、罪悪感なし、ということでしょうが、それにしても、人間としての性質を、どんどん捨ててゆく楽山です。
 
 
退行と変質

退行と変質
 
 
(2021年08月12日)
 
 
 
以下は、失恋の詩ですが、なぜか、ここに載せたくなりました。対話というものが、成立しない状況は、いろいろあります。また、言葉というもののもたらす罪もあるでしょう。
 
以下の詩のようなものから離れれば、世の中には、言葉に、対話に、悪意と嘘と詭弁を載せて運ぶ病原菌のような人もいるということです。
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  古い端末
 
誰かを判別し
誰かを裁いたかのような日々の終末
誰も愛さなかったことの結末は
ひとつの端末のように
ここにまだ残っていて
狭い箱の中で
飛び散る暗号をころがしては
間違った解読を遊んでいる
 
 遠い遠い昔
 「一応働いてもらってるから」
 君は笑いながら言ったのち
 求める位置へ去っていった
 
一応働かなくなってしまって
たまっていくほこりを払うように
たまに体を動かしてみる
腰と首と頭と
どこからどこまでだろう
解読できない痛みが
壊れかけた端末に年齢を刻み
安否だけは知りたいけれど
不意に現れるデータひとつひとつの
とびとびに欠けた部分の
傷つけたり壊したりの
入力を拒み
修正をできなくしている
もうこの顔しかない
 
 
(90年代)
 
 
 
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