ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年09月

 
  楽山の超常気取り2
 
 三魂説について(「妙貞問答」)
 2020年07月24日 楽山日記(LD)
 
 
今度は、また、他者の書いたことから、いっそう難解な超常言葉を弄してきました。批判に対する弁明の代わりに、意地を張ってくる、しかし、説明になっていない、それが楽山です。
 
*三魂説とアニミズム
前記事で、三魂説について一寸触れたので、「妙貞問答」を確認してみた。
DSCN0509 人と動物の魂の違い。三魂説。
DSCN0510
(『南蛮寺荒廃記・妙貞問答 東洋文庫14』海老沢有道訳、平凡社、昭和39年より)
 」
 
本の画像のようですが、画像は省略。
 
知らない熟語について調べる気にもならないほど、超常言葉の分類みたいなことが書いてあるようです。いつもの、他の人には分からないだろうけど自分には分かる、と言いたい楽山の自己愛と自己顕示欲だと見なして、いちいち調べたりしないことです。
 
意地やプライドで、調べようとすれば、前から言っているように、楽山の企みによる人格破壊が待っているのです。それが、楽山の目指す勝ちであり満悦なのです。説明責任は、どこまでも、楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
これはこれで一理あるとは思うけれども、自分はやはり人間以外の動物はもちろん、山川草木や岩石にも魂は宿り、人と同じ感情を持っているという感覚は捨てきれないものがある。「一寸の虫にも五分の魂」というけれども、魂の尊さは五分どころか、一寸の虫でもなんでも人と同じだと感じないではいられない。
 
私にとっては、魂の実体があってもなくても、こうだと断定など出来ず、動物と、人間同士のように話せるわけでもなく、かといって、遊びのように動物を虐待するわけでもないでしょうから、分からないとして保留するのです。
 
おとぎ話のようなことまで、自分の霊能力の一つとして、分かっているかのように書いてくるのが、妄想家の楽山です。そういう楽山の話は、難しい言葉で、謎を深めたように気取りますが、具体的に何かが進展することなど、まるでないのです。
 
*「ブラック・ジャック」と「夏目友人帳」
そういえば、ブラックジャックはたしか、人間の政治家、一般人の赤ん坊、イリオモテヤマネコが怪我した時には、重症のイリオモテヤマネコ、赤ん坊、政治家の順番で手当てをしていたが、これは情緒的にも論理的にも間違っているとは思えなかったのだった。
 
神社と妖怪が出てきます。信仰について語らず、妖怪で何かを言おうとするところが、霊能者気取り?の楽山らしいのです。アニメに出てくる、霊が分かる孤独な少年に、自分を重ねているのでしょうが、そのことは、人間が知るべき宗教と信仰には何の関係もありません。
 
先日から見てる「夏目友人帳」もそういう世界観になっている。
・夏目友人帳 | アニメ | 無料動画GYAO!
第一話では物語の大まかな設定が明示されて、第二話以降から少しずつ物語の幅を広げて、第四話以降になると傑作が続いている。あやかし、つばめ、ほたる、子ぎつねの健気な心が愛おしく感じられる話だ。
 
妖怪物語です。これを、宗教と信仰に関わる問題に、正面から使ってくるところが、霊が分かるっぽい?自覚の楽山らしい、ということです。人間について、心について、何も分かりませんと言っているようなものです。
 
これはファンタジーであり、フィクションだということは分かってはいるのだが、ついついアニメ以外の現実世界においても、人以外の妖怪、動物、虫たちも、人と同じ心を持っていると思わないではいられないのだから我ながらおかしい。
 
楽山の話自体が、ファンタジーでありフィクションなのです。楽山だけが、宗教や思想の話と同列のように扱って溺れているので気づかないだけなのです。だから、楽山は、現実世界での、反省も学習も怠ってきたのでしょう。確かに、楽山は、おかしいのです。
 
こういうことからも、楽山によって表されたことによって、その背景や心理や体質など、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDという異常性を、精神病理学とまではいきませんが、ある程度は、ヒントまたは題材として、考えることは可能でしょう。
 
こうしてみると自分の宗教感覚は、原始的なアニミズムから脱しきっていないし、これは子供時代からまったく進歩していないようだ。この調子だと今後もずっとこのまんまなんだろうな、たぶん。
 
だったら、わけのわからないことを書いて、納得のいく説明をしないまま、人を惑わせたり、自慢したりをやめるべきです。本当にがっかりしたのなら、読者の迷惑を考えて、書かないはずです。常識・良識・良心という、高等感情がないから平気で書いて、謙虚芝居で済むと思っているのです。
 
つまり本音ではなく、これが、楽山の、トホホ言語、という、同情をひくための芝居なのです。自分が、どれだけ、人を疲れさせ、傷つけているか、まったく気にしていない、自己愛性人格障害、または、サイコパスの白々しさであります。
 
もう一度、書いておきますが、説明責任は、どこまでも、それを書いた人すなわち楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
楽山には、説明責任放棄の不正の履歴が、記事を書くごとに積み重なってゆきます。
 
 
責任放棄の超常気取り

責任放棄の超常気取り
 
 
(2020年07月25日)
(2021年09月30日、再録+)
 
 
 
キーワード:責任
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
 
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
 
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに口からの荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
 
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
 
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  いやなやつ
 
今だから言うけど
(今になったら責任はないのかね)
昔のことは言いたくないんだが
(まさに言おうとしているじゃないか)
あの時のことなんだ
(あの時が一体いくつあるんだい)
つまらない些細なことなんだが
(そのわりに忘れもせずによく覚えているんだね)
確かに悔いは残るかもしれない
(確かに、で何故、かもしれない、だ)
愚痴を言うわけじゃないけど
(言うわけじゃないけど言うわけだな)
いい意味で殺したかったですね
・・・・・・
 
 
(昔々の作)
 
 
 
楽山のツイッターですが、画像です。どこにあるか分かりませんので、テキストのようには、コピペできませんでした。こういうのが、楽山のやり方なのでしょうか。しかたないので、画像から、一部を書写しておきます。
 
こういうところにも、楽山の、自分を見ないで言うだけ、反省しないで言うだけ、という妄想的高慢の確信がベースとなっていることを忘れてはいけません。
 
楽山 
心機一転★こも楽山
@komo266・9月25日
「言うべきことは言うべし」とはその通りと思います。自分もそのようでありたいです。
 
楽山に、「言うべきこと」があるのでしょうか。今まで、何も正当なことは伝わっていません。書いてくるのは、楽山の訂正不能の先入観からの偏見だけでした。そのような発言は、自己愛性人格障害の自己顕示欲からの発言なので、決して、まともに受け取ってはいけないことなのです。
 
楽山は、ずっと、我欲によって、いっさい反省せず、責任を負わず、人の意見を聞かないで、言いたいことだけを勝手に言い続けています。つまり、楽山は、言うべきことを責任を持って言う、という「そのようでありたい」言論者の姿からは、真逆の方向しか持っていない人です。
 
「言うべきこと」がある人は、責任をもって発言し、人の言うことも聞いて、間違えたら反省し修正する心構えで言うのであり、何でも好きなように言いたいように言うだけではいけないこと、常識があれば分かることなのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、そこを理解しません。
 
つまり、楽山は、そういう当たり前の常識が分からないまま、それを、していない自分を自覚することもなく、誰かの都合のよい言葉の表面だけをなぞって、「言うべきこと」を自分も言ってるつもりになり、「自分もそのようでありたい」などと気楽に言っているのです。
 
楽山が、今まで言ってきたことのテーマは、宗教、信仰、政治など、真実の追求するための、日常よりも掘り下げた深いテーマであります。そういうテーマですから、個人の軽口や、その場の見なしや思い付きで、安易に言ってはいけないことです。
 
楽山は、否定も言い肯定も言ったから、責任問題は発生しないなどと言ってきました。言論に、プラマイゼロという公式はありません。マイナスを言っても、プラスを言っても、言うたびに、それぞれの責任は着いてくるのです。
 
こういう常識についての無理解~欠損が、楽山の病質者たるゆえんであります。楽山は、平気で嘘を吐くので、今、問いただせば、そんなこと言った覚えはない、などと言い逃れを言うかもしれませんが、楽山の発言は、こちらの批判記事に、引用として既に載せられているのです。
 
つまり、楽山には、自分の言うことに全く責任を持つ気がないことが既に明らかになっており、ゆえに、楽山の発言は、邪魔なだけの、いい加減な、無駄話か、いちゃもんに過ぎないということです。どうか、相手にしないでください。どうか、楽山の丁寧語や賛辞に、だまされないでください。
 
 
 
(楽山の無責任発言について)
 
 
>(楽山)
自分の記事のテーマは、「ある言論が、正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのは難しい」ということなので、発言責任に触れても触れなくてもその論旨にはさほど影響はない。
 
批判か中傷かを区別しないわけですから、楽山には、言論の資格がないということです。それで、何でもOKだから、そこを前提にして、責任を負う必要はないと言っているのであれば、もはや、楽山は、大人の言論者ではありません。まさに、異常な自己愛と学習障害が生んだ荒らしです。
 
 」
 
 
>(楽山)
自由と責任のどちらに重心をおくかは、次のようにテーマと立場によって、コロコロ変わる。
 
 」
 
今読んでも、腹が立ちます。言論の自由と、言論の責任は、コロコロ変わったりしません。権利と義務、自由と責任、これは、言論の鉄則であり、どちらにも重心があり、変わることはありません。
 
楽山は、自由に発言しておきながら、責任を負わないし、何もなかったかのように忘れてしまうのでしょう。以前から、楽山について指摘してきた無反省・無責任は、楽山の自己愛性人格障害からの異常性を示す体質的な精神病質の症状です。
 
 
 
 
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  楽山の反宗教2
 
 『アメリカの宗教右派』飯山雅史著
 2020年08月08日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の反宗教思想は、まず、宗教の本質を全く理解していないのに、宗教を客観的に見ている自分を気取ることから始まり、それが、楽山のスタンスになっています。そういう卑怯な立ち位置は、どこにも正当に存在しないのです。悪意の産物だからです。
 
この本は、アメリカの宗教事情に興味があったので、タイトルにひかれて読んでみたのだが、序盤ではアメリカの宗教史のような体裁で、長老派、バプチスト、メソジストなど各教派の成り立ちや社会的歴史的な立ち位置について語られている。
また過去の大きな出来事としては、20世紀初頭に進化論などの近代科学や高等批評という聖書分析とどう向き合うかという議論がなされ、それらを受け入れる主流派(多数派、近代主義者)と、あくまで聖書の言葉をそのまま読もうとする原理主義派、両者の中間に位置する福音派にわかれた(プロテスタントの大分裂)のだという。
 
宗教は、思想となり、教条主義となり、イデオロギーとなって、多くの弊害を生んできました。しかし、それは、人間の不完全性から生まれた罪の性質であり、宗教そのものの意義を損なうものではなく、むしろ信仰を受け取る人間の側の修正を促す必要を表しているのです。
 
楽山のような者が、手持ちの、半端で偏った、偏見と先入観に満ちた知識で決めつけて否定することこそが、信仰を最も損なう害悪です。楽山の知識は、宗教と信仰を語る上で、何の役にも立たず、ただ、楽山の攻撃性を満足させるだけのために積まれているものです。
 
人間には、不完全であるゆえに、罪の性質を常に持っています。そこから、様々な過ちを犯します。しかしながら、それゆえにこそ、逆に、赦しと救いにつながる宗教、そして、心と命を支える信仰が必要になるのです。
 
その罪の性質を、自らに少しも認めようとせず、ゆえに、何の共感もなく、悪い材料だけを持ってきて宗教をおとしめているのが、楽山であります。聖書においても、心無い者は、悪魔としての役割しか持ってはいなかったのであります。
 
そういう悪意だけの役割を、自己愛という魔物を原動力にして、実践しているのが、楽山であり、善に見せかけた悪意の存在であります。まさに、その類似は、聖書にあるところの偽善者であり、一見まともに見せかけていても、心を失った詭弁と戒律と教条の悪鬼なのです。
 
千年王国については、主流派や福音派はキリストの再臨は千年王国の後だとする後千年王国説の立場をとり、人々の努力によって千年王国は達成可能とするなど楽観的だが、原理主義派はキリストの再臨は千年王国より前だという前千年王国説の立場をとり、人々の努力によっては千年王国は実現できず、人々は「ただ、悔い改めてキリストの審判を待つしかない」(p.61)として悲観的傾向が強いという。
 
悪意だけの楽山が批判をしようとすると、人間的な欠陥が表れてきます。すなわち、人間離れと現実離れの話しか言えないということです。誰が、千年王国と再臨があるから信仰をもつ、などという幼稚な動機でキリスト者になるでしょう。
 
それぞれが、悲観的傾向ではなく、現実の悲しみから、救いと癒しを求めているのであって、楽山の空想話などは、たとえば、靴の端にゴミが付いているからお前は悪者だ、と言っているようなものです。誰が、千年王国の立場を待つというのでしょう。楽山の固陋(ころう)の嘘八百です。
 
楽山は、人の信仰を、ゴミも靴も人格も、いっしょにしている妄想患者なのです。そして、一方で、楽山は、何の努力もしないし、自らのゴミにも罪にも不完全性にも、全く気づかないという、すっとぼけの病的ナルシストなのです。
 
ねじけて腐った根性で、読書家と批評家を気取っている楽山は、理解力と共感力の欠如から、また、何をやってもうまくいかないという現実の当然の悲観的傾向から、怨念の固まりになっているだけのルサンチマン(負け犬根性)で、宗教と信仰を、訂正不能の我執から貶めているだけなのです。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
 
ルサンチマンは、多く、カルトのベースとなる心性です。そして、努力せずに、一気に、偉い人~悟った人~バランスのとれた人~ひとかどの人物のつもりで自慢したがる根性です。アンチを気取る楽山は、むしろ真逆の、そういうカルトの性質と、むしろ、符合しています。
 
中盤以降は宗教と政治のかかわりについての記述が増え、宗教右派は1960年代の行き過ぎたリベラル傾向に対する反発から活動を活発化させ、政治的影響力を強めたものの、近年はピークは過ぎてやや停滞気味になっているとしている。本書は2008年の出版なので、この部分は現在でもそのまま受け取ってよいかどうかは慎重であらねばならぬが、さて著者の見解は妥当だったというべきかどうか…。
 
楽山は、宗教と信仰そのものの本質について、まるで語る言葉を持っていないために、超常のことゆえに誰も否定できない想像~空想話か、このような、政治との関係をもって、専門用語を使う評論家気取りで、現象だけを論(あげつら)って、宗教を批判しているつもりになるのでしょう。
 
本質を知らずに、ここでは政治の話をして、悪口だけを刷り込んで、広めようとしてくる楽山には、反宗教・反キリストの、悪意だけの、いちゃもん屋という評価しかありません。何度も、何度も、人の顔に、首筋に、鼻くそをなすりつけてくるような汚らしさは、嫌悪感と疲労をもたらします。
 
ひょっとしたら、それが目的かもしれません。もはや、人間としての、一人一人に大切な、好ましいプライドや、正常な尊厳など、楽山には欠片もなくて、ゆえに、他者にも認めなくなったのでしょうか。悪い噂だけを言いふらして、おとしめて自己満悦するサディストぶりが表れています。
 
宗教の政治への影響には、色濃く、人間の不完全であるゆえの罪性が表れてきます。しかも、それは一部の極端な例として明らかになるでしょう。楽山の言は、楽山の暇つぶしや、いちゃもんの材料にはなっても、宗教批判の根拠にはなりません。
 
楽山の言に、いつも欠けているのが、そういう、物事の、"本質への洞察" なのです。これがないところには、いかなる批判も成り立たず、ただただ、程度の低い悪口にしかなりません。的を著しく外しながら、宗教と信仰を語る楽山に、耳を貸さないでほしいと思います。
 
一部であり、極端な例ですから、全ての信仰が間違いということにはなりません。さらに、間違いは、いつも、人が犯すものです。その典型としては、偽善という最悪のものを、楽山その人が、今、次々に、表しているわけです。
 
アメリカの宗教事情というと、中絶反対のために婦人科医を殺害しただとか、レイプによる妊娠であっても中絶を禁ずる法律がつくられただとか、進化論を学校で教えるのに反対する人々がいるなど、驚かされるニュースが多いし、よく分からないところがあるのだが、本書を読んでその背景がいくらか見えてきたようでありがたい。引き続き同一テーマの書籍を読んでみたいと思う。
 
こういう人間とは思えない蛮行に走る事件が起こることはあります。人間らしい宗教と信仰ではなく、カルト化している場合です。そして、体質的に、批判されて返せないものだから、執念深く、いちゃもんだけを、的外れにつけてくる楽山は、カルト的煽動者と言えるでしょう。
 
どういうカルトなのか、いつまでも、失禁のように続く無反応の記事が、いずれ、それを表してゆくでしょう。楽山は、宗教にこだわると、こんなことになるんだよ、という、悪い例だけを挙げて、いかにも煽動家らしく、煽っています。
 
しかし、一方で、キリスト教をほめる話も書いてきました。この否定した、褒めたり、という相反する2つのことから、楽山の言は、信頼度ゼロとなり、どちらも嘘であり、残っているのは、過大な自尊からの我執の衝動的な発露でしかないと分かるのです。
 
信仰者の罪は、いつも、人が、教えの本質を曲解して、犯すものです。
 
一部の極端な例を、宗教の本質であるかのように、こわいですね、とばかり言いふらす下種の根性が、分別を欠いた、楽山の生業なのです。
 
宗教と信仰のもたらす良きものを、その本質を、楽山は、いっさい知りません。知りえないものだから、いわれなき復讐のように、汚物を投げては、これが宗教だとばかり、いい気になっています。この見苦しささえも、無反省で、高等感情のない、楽山本人だけは、感じないのでしょう。
 
楽山の言うことを、その一面においても、いっさい信頼してはいけません。楽山は、空っぽの本質の、醜い性根の炎症性の皮として、詭弁と誘導だけは卑怯な方法を知っているのです。決して、関わらないように、近づかないように、警戒してください。
 
 
反面、鬼

反面、鬼
 
 
(2020年08月09日)
(2021年09月29日、再録+)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
 
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 
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  楽山の手口2
 
 『神道からみた この国の心』樋口清之、井沢元彦著
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
イド(欲望)と、エゴ(自我)だけがあって、スーパーエゴ(超自我)のコントロールの利かない楽山は、中身のない記事で、確認したつもりになります。それが楽山の手口なのでしょう。
 
これは神道および日本についての対談をまとめた本であり、前に読んだことがあるものだが、内容はすっかり忘れてしまったので今回あらためて読み返してみた。特に印象に残ったのは次の箇所だった。
まず一つは、井沢元彦と樋口清之の会話は、井沢元彦が「逆説の日本史」などで書いている自説を披露し、それに対して樋口清之は慎重な態度で感想を述べるという型が多いことだ。このあたりは小説家と学者のちがいが明確にあらわれていて面白い。
 
知恵が足りないために説明できない者が、自己顕示欲を満たそうとして取る手段は、いっさい、説明をしない、ということです。有名人の名前だけをあげて、「面白い」、と言い、自分が、このレベルのことが分かるインテリなんです、というアピールをしてくるのです。
 
どういう「ちがいが明確に表れていて面白い」のでしょう。何も書いていない。アイデアもセンスもない楽山には、何も書けない、ということが、ここで既に、バレています。
 
二つ目は日本では信仰を統合、統括しないという話だ。たとえば火山の神、灯火の神、炊事の神などは個別に拝むが、火の神として一つにまとめたりはしないという。なぜかといえば「そんなことをしたら、ゼロになってしまいますから。すべてのものを統括したものというのは、実は、あるものであってないものなんです。ないものになっては困る」(p.40 樋口)ということであり、「火の神として一つにしたら、目の前の竈や灯火から、神様がいなくなってしまう」(p.40 井沢)からだという。
 
「信仰を統合、統括しない」・・楽山の自己中の話し方です。楽山は、書き方を正確に、みたいなことを、前に言っていましたが、ここでの主語は誰なのでしょう。事実でしょうか、当為でしょうか。さらに、人間が主語になれるでしょうか、否です。信仰の統合など出来ません。
 
神が・・ということなら、今度は、神を決めつけていることになります。言ってることが、ことごとく、成り立たない、それが、楽山の詭弁の成り行きです。人の口を利用し悪用するゆえに、部分で全体を決めつけて、自分の口を失っているのです。
 
さらに、人は、神を、まとめることは出来ません。日本を主語にして「一つにまとめ」るということは、元々、できないことです。神を、物か何かのように机上の対象物とする楽山のような、信仰に縁のない者だけが、まとめるなどと言って、無知と無恥をさらします。
 
自分は思想宗教の統合だとか、体系化だとかにはさほど関心はなく、そういうことはあまり性に合わない方なのだが、どうもこれは日本的な宗教感覚と無縁ではなさそうだ。
 
関心がなく性に合わないなら、なぜ、書くのでしょう。「日本的宗教感覚と無縁ではなさそう」などと、分かっているかのように、説明もしないで書く災いが、気持ちよくても、楽山に日本的感覚も、宗教感覚も、皆無です。
 
宗教感覚と言って、それを説明できないのは、分かっていると言いたいだけの自己顕示欲だからです。実際は、何も説明など出来ない楽山です。実に迷惑です。楽山は、書くことで、疲労だけをもたらします。つまり、エナジーバンパイアだということです。
 
三つ目は、皇族には知らないことを恥ずかしいとする考え方がないという話である。樋口清之は皇族のある方に講義をしたときに、その方は知らないことがあっても恥ずかしがる素振りを少しもみせなかったので、不思議に思ってその理由を問うてみたところ、皇族では「負けても知らなくても、悔しいとか恥ずかしいとは思わないのが、普通」(p.122 樋口)らしいことが分かったのだという。 
 
楽山は、負けたり知らなかったりすることが恥ずかしいのでしょう。知っている、分かっている、と思わせる詭弁と嘘だけを、ずっと書き続けています。しかも、誇り高い存在感など、一度も見られたことがありません。品のない執拗さだけで、言論にしがみついているだけです。
 
楽山は、ことごとく批判されているのに、無視して書き続ければ、説明をしなくても、刷り込みのように、いつのまにか、自分も、有名人と肩を並べるインテリ評論家だと見てくれるじゃろ・・とでも思っているのでしょうか。浅ましいことです。
 
この話はずっと記憶に残っていたものの、何の本で読んだのかは忘れてしまって、さっぱり思い出せずにいたのであるが、どうやら本書で読んだものだったらしい。長年のもやもやが解決できてよかった。こういうことがあると、やはり本は一度読んでおしまいにするのではなく、時々は読み返してみるものだとつくづく思う。神道のことは今回の再読でもやっぱりよく分からなかったのではあるが、それでもこの点について確認できたのは本当によかった。
 
そして、楽山は、説明も根拠も書かないまま、ほめています。「長年のもやもやが解決できてよかった」「確認できたのは本当によかった」・・自分はインテリだと確認できてヨカッタさんなのです。完全に読者を無視している自慢だけの記事となっています。
 
楽山は、何を「確認できた」というのでしょう。自己愛が確認するのは自尊過大の妄想だけです。楽山の「もやもや」のボンヤリ言語が目立つだけで、有名人の名前を出して、読んだ読んだと何も説明せずに、自分を高めようとする人も、珍しいでしょう。恥というものを知らないからです。
 
 
 幸福の科学とスピリチュアリズム
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
 
 
浅薄な知識と、不感不応と、自己顕示の自慢という、楽山の腐った手口が、明らかになっています。
 
*共通点と相違点
「霊界からのメッセージ」氏のツイートを読んでいて思い出したのだが、幸福の科学(HS)も初期の頃は、スピリチュアリズム色が濃厚だったのだった。
サンポール氏の記事で、初期の教えを確認してみると、やっぱりそのようになっている。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
とはいえ、両者には大きな相違点もある。たとえば、スピリチュアリズムの方では、霊人の名前でなく、その教えの内容こそが重要なものになっていて、だからこそアメリカ先住民の無名の霊が、地上の欧米社会に向けてメッセージを送るという形になっていたりもするのだが、大川隆法による霊言の方はといえば、歴史上の偉人賢人など、有名人の名を冠したものばかりなのだ。この点については両者は正反対だといえる。
 
「アメリカ先住民の無名の霊」の霊が語っても、それを代弁している人が、霊を信じていることに変わりないのに、どこが「大きな相違点」なのでしょう。現実離れの立場は、同じです。こういう常識的な理路さえ全く分かっていないのが楽山という自己愛性人格障害なのです。
 
有名人?の名を冠しても、検証不能な超常のお告げならば、正反対かどうか、どうして分かるのでしょうか。あるいは、HSの傲慢を言っているのでしょうか。ならば、なぜ、HS批判として、そういう書き方をしないのでしょうか・・つまり、自分を高めるのが目的だからなのです。
 
楽山は、字面だけで、一気に霊や超常に飛びたいだけなので、どちらも大好きなのでしょう。字面だけ難しい言葉を使ったり、複雑な言い方をして、自らの心霊主義を、専門家気取りで高めようとしています。本質を説明できないものだから、考えもせずに2つ並べて正反対と短絡するのです。
 
もしかしたらHS側は、その理由として霊媒の能力を問題にするかもしれない。スピリチュアリズムの霊媒たちは、霊的な認識力が充分でなかったために、霊言をする霊人の正体をつかみきれず、その名前も分からなかったが、大川隆法総裁は偉大な霊能者であって、霊的な認識力に優れ、霊言をする霊人がどのような存在であるかがはっきり分かるのだと。
 
霊媒という説明できない霊の話ばかりになっています。比較しているつもりなのでしょうか。正体をつかみきれるのでしょうか。超人?の話になって、楽山は饒舌になっています。中身、信頼度、説得力は、一貫してゼロです。霊能もないのに、他者の霊能力を話題にするのは、みじめなだけです。
 
でも百歩譲ってそれが事実だとしても、白人社会において有色人種の霊がメッセージを送るというシルバー・バーチの霊言と、日本社会において多くから尊敬されている偉人賢人の霊がメッセージを送るというHSの霊言とでは、その背景にある理念はまったく異なるということに変わりはない。
 
「百歩譲って事実だと」するそうです。そして、霊言の「背景にある理念」が、国によって、「まったく異なる」と言っています。何を根拠に?どう異なる?というのでしょう。文化が違うから、違うの当たり前じゃろ・・とでも言うのでしょうか。あきれます。
 
どちらも、根拠のないことだから、最初から最後まで、何も説明できはしないのです。空疎すぎます。
こういう楽山のような者を受け容れて、一生、泡を吹き、地団駄を踏み続け、踊らされる人生になってよいわけはありません。
 
楽山は、裸のインテリ気取り、王様気取り、実際は、何も独自の洞察など、組み立てられない人です。疲れるだけでなく、そのために、人格が鈍麻してしまいます。ゆえに、決して関わり合いになってはいけません。人生は、思いのほか、短いのですから。
 
一方は被差別者による霊言であり、もう一方は権威者による霊言であるというちがいは、その背景にある意図、理念、精神がまったく異なることを示しているのであって、霊媒の能力の問題で済まされることではないのだ。
 
被差別者というのは、霊能者だから差別されたということでしょうか。権威者というのは、差別するものでしょうか。ここで、楽山が、真偽について語らないのは、信じているのでしょうか、楽山は、どう済ませるつもりでしょうか。うさんくさい話に終始しています。
 
ちなみに、被差別者による信仰と、権威者による信仰は、背景云々よりも、その土台が異なるために、前者は被害者意識に、後者は威丈高になりやすいだろうと思います。どちらも、信仰においては、改められなければ、害毒になるでしょう。霊能を分析できないのだから、言っても空疎です。
 
*教えの改変
サンポール氏は、HSの初期の教えを紹介した後で、それがどのように改変されたかも記事にまとめてくれている。「法子の部屋」氏の記事の転載とのことなので、資料をまとめてくれた「法子の部屋」氏にも感謝したい。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
 」
この記事を見れば、誰にも一目瞭然だろうが、『旧版・日蓮聖人の霊言』から削除されたのは、宗教とは距離をおき、権威主義や偶像崇拝、他力信仰などには陥らず、内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指すというスピリチュアリズム的な部分ばかりである。これらの教えは、教祖を崇拝し、教団の勢力拡大を目指す他力推奨型の宗教という現在の教団にとってはよほど都合が悪かったのだろう。
 
「内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指す」・・さらに、楽山は、うさんくさくなってゆきます。楽山は、悪霊以外には、縁のない人です。
 
超常ヒーロー願望~評論家気取りの楽山は、できもしない誇大的なことを当たり前のように言って、疲労と人格破壊を自他に与えるところの、エナジーバンパイアに過ぎません。
 
「方便の時代は終わった」の目的については、建前上は信者らが混乱しないように、教義を整理し、エル・カンターレ信仰に一本化したということになっていたかと思うが、結局のところ、その実態は教団運営に不都合なスピリチュアリズム的な教えとの決別であったのだ。このとき、スピリチュアリズム的な教えに賛同していた初期会員たちの中から多くの脱会者が出たというのも相応の理由があってのことだったのだ。
 
楽山が、なぜ、このようなことを書くかといえば、自分は、霊が分かるっぽいスピリチュアルだから、HSとは違うから、正しいんじゃ・・と言いたいだけなのです。霊が分かる証拠を、まるで持っていない楽山が、スピリチュアルを弁護するのは、スピリチュアルにとっても迷惑な話だと思います。
 
実際には、楽山は、すでに現実を遠く離れて、超常の霊の世界に逃げていることが、この記事にも表れています。楽山は、今まで書いてきたように、自己愛性によって、自己正当化、自己顕示して、自らを、賽の河原の石積みのように、結局は、壊してしまうだけなのです。
 
*まとめ
自分のイメージとしては、HSはスピリチュアリズムの要素が濃いと思っていたのだが、今回あらためて確認してみると、どうやらそれは間違いであって両者はまったくの別物であると結論付けざるを得ないようだ。
端的にいえば、初期HSはスピリチュアリズムと似た教えを説いており、同系統の運動に見えるところもあったが、実際にはその根本の精神はまったく異なっており、それだからHSは時が経つにつれて、スピリチュアリズム的な教えから離れ、典型的な教祖崇拝型の新興宗教という形におさまったということである。
スピリチュアリズムから離れた視点から見れば、HSは霊性進化論の一種ということであり、スピリチュアリズムの流れの中にあるように見えもするが、スピリチュアリズムの本流から見た場合は、HSは支流も支流であって、かなり道を逸れたものにすぎないのである。
 
楽山が、HSを教祖崇拝型の新興宗教と見なし、スピリチュアリズムを本流としていることを忘れないでください。私が言いたいのは、楽山は、「霊性進化論」などと言葉だけ書いても、平気で嘘を吐く人で、スピリチュアルとして、何か深い洞察を書いたことは、一度もないということです。
 
この楽山が、前に、キリスト教について、ひやかし、いちゃもん、一方で、ほめ言葉など、でたらめなことを書いてきたのです。そして、楽山は、説明力と説得力が皆無の嘘吐きの詭弁屋であることを、他でもない楽山自身の記事によって示してゆくことになるのです。
 
*判断ミス
恥ずかしながら、自分はHS会員だったころ、日本のスピリチュアリズム界の大御所らが、HSに合流してこないことがどうにも納得できず、不思議でもあったのだった。なぜそういう人たちはHSの霊言を信じないのだろうかと。
でも当時の記憶を掘り起こしてみれば、自分もはじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定したのだった。「これは偽物だ。偉人賢人や、神の名を名乗る霊に本物がいるわけもない」「本を売るために、有名人の名前を利用するなんて酷い奴だ」といった具合である。
 
「はじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定」したと言いながら、「大御所らが、HSに合流」すれば、偉い偉いと納得したのでしょうか。もはや、現実世界よりも、まとまりのないスピリチュアルの世界に、埋没したがる楽山なのです。楽山の底が、見えてきます。
 
でもそれにもかかわらず、後になって迂闊にも霊言集を手に取って読んでしまい、スピリチュアリズム的な箇所を見つけ、共感し、いいことが書いてあると判断し、ハマってしまったのだった。いわば、自ら進んで、木を見て森を見ない状態になってしまったのだ。霊言本のタイトルを見て偽物だと判断したときは、木を見ずとも森を見て正しく判断できていたのだが、その中身を読んでからは木を見て森を見ないようになり判断を間違えてしまった。
 
読解力と説明力のない楽山が、「スピリチュアリズム的な箇所を見つけ」るのだそうです。霊言集であれ、スピリチュアルであれ、「いいことが書いてある」と言うのは、既に、楽山が、現実離れ、人間離れして、超能力を欲しがっている証拠です。木も森もなく、楽山の精神は、砂嵐でしょう。
 
木も、森も、心も、見ることのできないために、一気に、心霊の安易さに飛びついた楽山の、「間違えてしまった」は大嘘で、実際は、自己愛から、間違いに気づいた自分を高めていることを見逃してはいけません。何を書いても、自己正当化につなげる自己愛性人格障害だからです。
 
有名人の名を冠した「××の霊言」という本があった場合、ふつうの人なら、うさん臭さを感じて見向きもしないだろう。でも自分は心霊的な方面について生半可な知識と興味があったがゆえに、そのような本を読みふけってしまい、ハマってしまったわけである。自分のことながら、まったく愚かにも程があるというものだ。
 
子供のときから霊が分かるっぽい自覚の楽山は、霊能者気取りです。だから霊の話が多いのです。「心霊的な方面について生半可な知識と興味があった」楽山は、生半可なら書くべきではないし、恐らく、興味本位の情報を知識と呼び、超常現象を悦ぶ子供のまま大人になっているのでしょう。
 
だから胡散臭いのは、楽山です。愚かさに気づくんですアピールをしながら、スピリチュアルを自分に当てはめようとしてきた楽山であることを見逃してはいけません。そういう、スピリチュアルを気取る姿勢は、霊についての記事の多さに表れています。今も、変わってはいないのです。
 
楽山から、良いものは生まれません。今まで、自己正当化以外何もないという記事ばかりだったからです。数々の、だまし言葉を経て、今は、超常大好き、現実大嫌いを、隠さなくなってきた楽山です。反省しているふりで、かえって、馬脚をあらわしています。
 
*第一印象を忘れないこと
巷では、「よく知りもしないくせに知ってるようなことを言うな」という考え方があるし、HS信者もこれと同様に、批判者に対して「HSを批判するなら、HSの本をすべて読破してからにすべきだ」と言ったりするけれども、どうも自分の上のような経験からすると、宗教に関しては、少々の知識があるよりも、さほどの知識も興味もない一般人の方がよほど正確に判断できていることが多いようだ。
 
「正確に判断」出来ているかどうかを、楽山が決めているのは、滑稽としか言いようがありません。楽山の字面の知識よりも、大切なのは心であります。しかし、楽山は、心にだけは、見向きもしないで、霊という超常に執拗にこだわり、中身のない妄想を並べてきました。
 
「一般人の方がよほど正確に判断できていることが多い」と言うなら、自己愛性パーソナリティ障害NPDで気取りだけの楽山には、黙っていなさいと言いたいのです。楽山は、秀でた人でも、一般の常識ある人でもないのです。
 
少々理屈を言えば、宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは、その教えの中には多少はマインド・コントロール的な要素が含まれているものであるし、もしその教えを学んだ後で判断するとすれば、それは若干のマインド・コントロールを受けた上でのものになってしまい、本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがあるということだ。
 
本来の宗教にマインドコントロールは含まれていてはいけません。それは、カルトの特徴なのです。いかなる宗教も、洗脳やマインドコントロールが含まれることがあれば、それは、全くの不祥事なのです。それを当たり前に書いている楽山こそ、他者コントロールしたがる危険人物です。
 
「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた」などと言っていますが、楽山の誘導に乗るよりは、はるかにマシなのです。含まれているのが当たり前のようなことを言って誘って、マインドコントロールを狙っているのは、まさに、楽山その人です。
 
考える宗教と、思考停止のカルトを一緒にして、「宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは」「多少はマインド・コントロール的な要素が含まれている」と言っている楽山の言は、全くの無知と、さらなる悪意の詭弁であります。
 
「若干のマインド・コントロールを受けた上でのもの」「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがある」と言って、宗教をカルトと同様に見ている楽山こそが、最も危険なカルト妄想煽動者なのです。楽山の詭弁を決して受け取らないでください。
 
物事を判断する際には、その中身をよく調べ、吟味した後にすべきだという考え方もあれば、第一印象などの直観こそが大事だという考え方もあり、そのどちらが正しい判断方法であるのかはそう易々とは決められないのではあるが、それでもやはりこの件に関しては、自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであったとつくづく思う。
 
「易々とは決められない」と言いながら、「自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであった」というほうを勧めてくる楽山の狡猾な刷り込みの詭弁にだまされないでください。底まで腐っている楽山だからこそ、出てくる悪質な誘導です。
 
正常な人間は、学習する生き物ですから、第一印象も、経験と聖典からの学習も、どちらも、大切な学びです。そういう、学習し、反省してゆく気持ちと性質と能力が、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山には欠けているのです。
 
楽山が、いくら、詭弁を弄して、自己正当化を企み、暗示して誘導しても、最後に、自業自得で、見捨てられるのは、自己中が明らかになってゆく楽山なのです。
 
人ははじめは奇異なものに感じたものであっても、じきに慣れるものであるし、宗教もこれと同じではじめは気味が悪いと思っても、じきに慣れてしまい何ともなくなってしまったりもするものだ。だからこそ、その宗教をはじめて知った時に、どう感じたのかは大切であるし、これこそが本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れないということが大事なのだ。
 
宗教は、奇異に感じることでも、気味が悪いものでも、慣れるものでもありません。人間らしく反省し祈り学習し成長する道です。楽山の、今までも、繰り返された楽山の宗教蔑視と、おとしめの詭弁であります。根腐れの遠吠えです。自分の第一印象はいいでしょう?・・と誘っています。
 
「はじめて知った時に、どう感じたのか」が大切で、それが「本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れない」というのは、楽山が他者を破滅させるやり方ですが、楽山の破滅の様式でもあります。その通り、破滅しつつあるわけです。
 
楽山の大事は、決して大事ではありません。曲がったセンスで、自分を大事にしてくれぇ・・と言っているだけです。そうだな・・などと思ったら、楽山の奴隷になり、あらゆるセンスが、ますます鈍化してゆくでしょう。
 
そうではなく、信仰は、その後の学習によって、疑うべきを疑い、思考と経験を積んで、反省し修正し、学習し、成長して、深まってゆくのが信仰です。
 
 
楽山が、やさしい言葉をかけるのは、楽山の言を肯定的に受け取る人に対してだけです。反対意見に対しては、受け取らずに完全に無視するか、嫌がらせの悪口を言ってくるだけです。ですから、やさしい人だと思った人は要注意です。交流を続けると酷い疲労から奴隷的な人格破壊に至るでしょう。
 
楽山は、言論の世界から、一日も早く消えてほしい邪悪なエナジーバンパイアです。
 
カルト的な詭弁以外のことを、楽山は、何も言えなくなっています。
 
 
心無き詭弁の道

心無き詭弁の道
 
 
(2020年08月07日)
(2021年09月28日、再録+)
 
 
 
キーワード:嘘
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
真説八正道では、正信をはじめにおいていたと記憶していますけど、
よく考えてみれば、正信は、正念に含まれているだろうし、
信仰対象が正しいかどうかは、正見で判断するものだとすれば、
やはり一番はじめは正信ではなく、正見とすべきようにも思えます。
午後10:09 · 2021年9月24日
心機一転★こも楽山
余談ながら、儒教では、仁義礼智信としており、信は最後ですね。
午後10:12 · 2021年9月24日
 
正信も正念も正見も、仁義礼智信も、楽山に分かるとは思えません。楽山は、後も先もなく、何も信じていないから平気で裏切ります。何も念じていないから平気で嘘を吐きます。何も見えていないから、何でも、でっち上げて、刷り込んで、だまそうとしてくるのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
大川総裁は、仏陀在世の時は仏陀を、仏陀なき時は法につけと説いていたと思いますが、
仏典を確認したところでは、仏陀在世の時も、なき時も、法につけとありました。
この点については、大川総裁の教えは、HSの教えとしてはよろしいでしょうが、仏教及び仏典解釈としては間違いと思います。
午前6:43 · 2021年9月25日
(引用ツイート「人につかず法につけとは、仏陀の言葉。」など省略。)
 
楽山は、師もなく、法も守らない自己中で、好きなように、人に嘘を吐いて、だましてきました。楽山は、自分が師、自分が法のつもりです。師が目の前にいるのに法を考えるとは、どういう教えなのでしょう。楽山については、師ではなく、ペテン師なので、否定し続けることが肝要です。
 
心に響く何ものもなく、平板な理屈だけ受け取って、辻褄合わせだけで慢心し、ケチをつける楽山ですが、嘘と詭弁と自己中からの無視という酷い罪悪を経てきて、一切責任を負わないまま、いったい何が、楽山の手に負えるというのでしょう。
 
 
 
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  反面の者(改)2
 
 私の記事「反面の偽善者」
 を修正再録します。
 
 
信仰について
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う人がいます。
 
(人が、どう受け取るかは、議論の対象になります。)
 
また、"ああでもない、こうでもない、ていうか、
それが信仰というものなのかなあ" ・・みたいな言い方をする人がいます。
 
(否定するための曖昧表現は、クズです。)
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない人たちは、
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるでしょう。
受け入れないと、次には、侮り、あざ笑ってくるでしょう。
 
ずっと神聖と人に向かって立小便をしているような
真実を排泄物に変えてゆく人たちです。
 
このような真実を求めない者になってはいけない
というモデルとなるために生きているのでしょうか。
 
罪の門口に行って
やがて来るものを待つためでしょうか。
 
 
御心は測りがたい。
 
偽善者の
謀ることは御心ではない。
 
神の前では総てが明らかにされ
反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者には
御心は測りがたくても
折に触れて反省はいくらでもできることが
神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白によって祈り
 
偽善者は虚偽と不感不応の顔で笑って讃美しまくる。
嘘がバレないとでも思っているのだろうか。
 
神の啓示と聖霊の導きについては
人は、これがそうだとは言えない存在。
 
 
 神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
 感じることと考えることを怠っているのであり、
 既に信仰者ではない。
 
 また、幼稚で滑稽な詭弁を
 さも重要であるかのように
 言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
 言葉の語尾にこだわるが
 言葉の中身を考えていない。
 このような者は
 不遜に生きて腐肉を食らう者であり
 怠慢に生きて砂を重ねる者であり
 滅びを生きて自らの有り様を自覚できない。
 
 ゆえに彼らは
 人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
 平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
 
 彼らの褒め合い笑い合うに任せよ。
 信仰者は
 信仰にとって破壊者にしかならない者たちに
 近づいてはいけない。
 彼らは見え透いた嘘のように虚しい。
 
 これらのような偽善者に関わってはいけないが
 偽善者について知ることは重要である。
 その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は神聖を根拠にはできない。
神の啓示と聖霊の導きについては、
不完全な、ゆえに、罪深い人間は、
これがそうだと言える能力はない。
 
信仰に満たされたつもりでも
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。
そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。
そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆく。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり
人は、神を恐れるならば、すなわち、信仰者ならば、
神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
信仰者が聖書を読み
信仰者が語っても
説得力がないのを
御言葉だからと正当化してはいけない。
 
人の語るのは人知であり
判断に過ぎず
和しても闘っても
罪なき者は一人もいない
という共感を忘れてはいけない。
 
信仰者は正義に生きているのではない。
信仰者は罪の支配から解放されて生きる人間であり
神の正しさに人の正しさが遠く及ばないことを知って
決めつけて裁く自己正当化の生き方から
判断して行い神に告白する心を学ぶ生き方へと解放されている。
 
それは、
神に裁きを任せることと、
主イエスの同伴によって、
神の心になるのではなく
人間に相応しい心があることを知ったからである。
 
信仰は、不変の安楽を得ることでも売ることでもなく
神の前で生き、人の道を祈り求めることである。
 
 
反面教師

反面教師
 
 
(2019年08月14日)
(2020年08月15日、修正)
(2021年09月27日、再録+)
 
 
 
  空しさⅡ
 
いくつもの夕日を浴び
そのたびに月日が経ち年をとる
こんなに空しいことはない
いくつもの空に焼かれ
焼けてなお生き残る
こんなに空しいことはない
いくつもの朝に寝返りを打ち
目をこすって涙も出ない
こんなに空しいことはない
いくつもの間に人がいて裏切り
裏切り返して余命を削る
こんなに空しく
空しさは出て行き
帰ってくる強さを持っている
 
 
  保証のない契約
 
改めて保証のない契約について
私は語れたらと思う
生まれて初めて他者に気づき
生死の是非を自らに問うたときから
いかに私が裏切りを重ねてきたかを
 
しかし私は語れない
そのことばかりは
 
私は遊んで暮らすのです
転がるプライドを箱に納め
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
今日も春風に震えながら出掛けるのだ
行きて帰らず
それでもいいのです
目的地は着いてから探す
ああ埒(らち)もない
 
この春に芽吹き過ぎた
草木たちにでも聞いて下さい
私は知り得ないでしょう
なぜ見送ってしまったのか
この春までに散っていったものたちを
私が何度
馬鹿野郎と呟いたかを
 
 
  裏切り
 
肌と肌は
合わせられた汗が乾くように
いつか離れてゆくだろう
残されて冷めた皮膚の下に
毒々しい鮮血の筋肉を
ときおり凍らせ
ときおり焼きながら滅ぼすまで
影と影は
互いに召されたように遠く
いつか盲信のように
沈黙の厚い衣を纏(まと)い
すでに独りであることさえ
忘れながら踞(うずくま)るだろう
影は一滴の黒い雫(しずく)を落とすが
それは何処にも届かない
もはや土に帰るよりも先に葬られ
薄れゆく皮肉である
 
 
(昔々・・)
 
 
 
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  楽山の逃避とべた褒め
 
 
楽山は、自分の問題から目を逸らすために、他者のことを言ってきます。他者の批判もありますが、ここでは論客だと褒めています。楽山は、いかなることも自分の問題として考える思慮を持たないことが表れています。言いたい放題言って、責任を負わず、逃げまくっている楽山の醜態です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ひさしぶりに、信者による信者批判を見たので、ブログ記事にまとめてみました。
tsubasa氏はすごい論客ですね。
午後3:34 · 2021年9月25日
 
楽山のべた褒めです。楽山が「ブログ記事にまとめ」る必要が、どこにあるのでしょう。稚拙な屁理屈しか言えない楽山に、他者を「すごい論客」だと受け取る器はないと思います。
 
楽山の有り様からは、例えば、メディアから逃れるために、慌てて、車に入り込んだり、ビルに入ったりなど、ニュースなどで見る光景を思い出します。
 
そういうときに、楽山らしく、べた褒めしたり、悪口を言いながら、放屁してゆくのが、こういう記事になるのでしょう。それで、楽山の、記事というより、逃避の足跡として残される文章には、卑怯者の、一種、異様な臭気が残されてゆくのです。
 
 
さて、記事に入ります。
 
 2021年09月25日
 信者同士の対立(信者による信者批判)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
画像とリンクは、楽山批判とは関係なさそうなので、省略しています。それにしても、楽山の、粘着ぶりが、よく表れています。時々、こういうリンクや引用だらけの長い記事を書いてきますが、楽山の言は、言論を、開き、掘り下げ、進める機能が、まるでないという特徴があります。
 
*フェイスブックとツイッター
少し前にフェイスブック上にて、与国秀行氏が釈量子氏を批判していたそうだが、先日は遠江秀年氏がアマミ氏を批判していたそうだ。伝え聞くところによると、その論点は、信者が信者に霊指導したり、商行為を行ってはいけないということらしい。
自分はフェイスブックには参加していないので詳細はわからないが、ツイッターを見ると、アマミ氏が有料悩み相談の看板を出しているのは確認できた。これが霊指導および商行為だとして批判されているということだろうか。
またツイッター上では、遠江氏とは別の観点から、アマミ批判があるようだ。この議論については、以下にその一部を保存しておきたい。
(省略)
 」
 
楽山は、殆ど、観戦モードです。観戦する余裕も、コメントする資格も、楽山にはありません。余裕さえも捏造して、上のツイッターの「すごい論客ですね」は、このお気楽観戦モードで言っていることです。
 
こちらは、論争そのものに入り込むことはしません。
 
*黒歴史?
まず一つは「黒歴史」という言葉遣いに関連した議論である。tsubasa氏は、アマミ氏が堕胎流産を黒歴史と表現したことは問題であり、またそういう表現をしたのはそのように考えているからだと批判している。これに対してアマミ氏の方では、堕胎流産を黒歴史としてはいけないという主張を、堕胎流産は黒歴史だという主張と誤解されたとしている。
2021-09-25 (11)堕胎流産は黒歴史と呼ぶべきことではありません
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441275358901194753
2021-09-25 (10)「堕胎流産が黒歴史」という前提に立っている
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1440256606566948873
2021-09-25 (8)私の文章の文脈を理解しない一方的誤解
https://twitter.com/amamikyo77/status/1440965901658963969
2021-09-25 (9)このツイートを読んだ信者さんから
https://twitter.com/amamikyo77/status/1439931898977918983
 」(内容は省略)
 
黒歴史というなら、楽山は、黒い排泄物をブログに、いっぱい排泄しています。その嘘と詭弁にまみれた暗黒面を、3年近く批判してきましたが、隠れて流産し続けているのが楽山です。
 
*霊能力信仰
もう一つの論点は、霊能力信仰にまつわる議論である。tsubasa氏は、アマミ氏は霊能力信仰だとし、アマミ氏はそうではないと反論している。
2021-09-25 (12)ただ一言、漏尽通力です
https://twitter.com/JustBeBeliver/status/1439613293543387136
2021-09-25 (13)釈尊は霊能力を出来るだけ使用しませんでした
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1439889924044382213
2021-09-25 (16)霊能力信仰
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441586665177288705
 」(省略)
 
霊能力のない楽山です。何か言えると思っている霊能者気取りであります。ここで、やっていることは、自分の責任外の他人の論争だから安心して、対立を傍観しているだけです。このように、楽山は、他者同士の争いを悦ぶ人なのでしょう。
 
*非常識?
三つ目は、黒歴史の議論に関連していると思われますが、アマミ氏の批判のあり方を非常識ではないかと疑問視している方がおられた。HS信者かどうかは分からない。
2021-09-25 (15)非常識ではないでしょうか
https://twitter.com/endouryou/status/1440271934890000384
 」(省略)
 
黒歴史というなら、自己愛性パーソナリティ障害NPDからの、嘘、詭弁、読書家気取り、評論家気取り、無反省、無責任、訂正不能、無視、超常趣味と信仰の同一視、などの偽りを、未だに続けている楽山の、それこそ、成育歴から、今に至るまでが、黒歴史なのです。
 
*全否定?
上のような流れのためかどうかは分からぬが、tsubasa氏はアマミ氏を全否定するかのような勢いで、その難点をいくつも指摘し、苦言を呈している。
2021-09-25 (2)無我になりたければ、己のプライドを捨てなさい
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441392709550305288
2021-09-25 (3)褒め合うばかりでなく間違いを指摘する
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1439070682537545737
2021-09-25 (4)理論ばかり振りかざしても
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1439074689670795269
2021-09-25 (5)⑨この一週間くらい彼女のツイートを読みました
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441259954707460097
2021-09-25 (6)あなたには、愛の思いを感じられない
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441266818912428048
2021-09-25 (7)過剰な自己弁護も過剰反応じゃないのか
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441107574498086912
 」(省略)
 
全否定されるべきは、自己愛性人格障害の楽山であります。人格が原因なので、良くなる可能性が期待できません。ゆえに、楽山批判は、全否定しかなく、楽山は、一日も早く、言論の場から去るべき人です。ここで争われている「堕胎流産を黒歴史」とするかどうかよりも、根深いと思います。
 
*硬派な信者たち
私見ながら、アマミ氏は剛毅なところがあり強そうだし、取り巻きも多くいるので、一般の信者からしたら、たとえ言いたいことがあったとしても正面からは言い難い相手ではあるまいか。
でも今回は、遠江秀年氏、tsubasa氏らは正面切っておかしい事はおかしいと意見を述べたのであるから、ここは立派である。この勇気は尊敬する。
 
このべた褒めに、だまされる人が多いのでしょう。だから、楽山は書くのでしょう。「剛毅」「取り巻きも多く」「正面からは言い難い相手」「立派」「この勇気は尊敬」・・ネズミのように逃げ回っている楽山には、無いものばかりです。
 
*もったいない
議論の中身について感想を書くと、tsubasa氏の意見は真理としては一理あるように思う。自分が読んでも全てとは言わぬが、概ね首肯できるし、耳が痛かったり反省させられるところもある。
 
「一理ある」かどうか、自己中の楽山には、分からないことです。霊が分かるっぽい自覚~妄想、A級戦犯を讃えるネトウヨ、詭弁屋、嘘吐き、わざとらしく白々しい毀誉褒貶、などの表れてきた楽山は、ねじ曲がり過ぎて、何も、理路にならず、共感にならず、理解に至ることはないのです。
 
でもアマミ氏の方では、tsubasa氏と積極的に話をするつもりはなさそうだ。tsubasa氏のアマミ批判は、まるでアマミ氏を全否定するかのような様相を呈しているので、いちいち話をする気になれなかったとしても、それは致し方ないかもしれぬ。
 
楽山批判も、全否定になるでしょう。人間とは思えないからです。楽山と、コメントなどでの直接交流してはいけません。病原に触るようなものだからです。しかし、批判は必要です。誰も近づかないように、楽山という異常人格の害毒を、広く知らしめる必要があるからです。
 
ただtsubasa氏の意見をみると、上に述べたように相応の理があるし、ただの悪口、言いがかり、揚げ足とりにすぎないとして切り捨ててよいものではなさそうである。氏は真理知識があり、議論もできる人物であるし、対話をすれば相応の果実はあるだろうし、アマミ氏がそれを忌避するのはもったいないことではある。
 
人の言うことを聞かず、受け取らない楽山とは、議論は成り立ちません。「真理知識」があるかないかなど、低次元の詭弁屋である楽山には分かるはずもありません。今回も、楽山が、人の口だけを使って、上から、ジャッジし、評価するなどは、以ての外なのです。
 
今後、この議論がどのように展開してゆくのかは分からぬが、自分としてはこの議論には学ぶべきところはあると思うので、しばらく注視して行きたいと思う。
 
楽山に注視されるとは、最悪です。自分の楽しか考えないために、議論も、学ぶことも、今まで、一度もしてこなかった楽山の眼は、白でも緑でもなく悪内障のために濁っています。見えていないのに、見えていると言う者が、脅威となる例として、楽山は蔓延っているのです。
 
 
藪の中に逃避

藪(やぶ)の中に逃避
 
 
(2021年09月26日)
 
毀誉褒貶(きよほうへん):ほめたりけなしたりすること。
ほめる(誉める、褒める)、けなす(貶す、毀す)、貶める(おとしめる)
 
 
 
  不安の泉
 
静かな泉に
さいころを投げている森
 
洗髪した翌朝の上目遣い
頭かきかき世間を見ようとしている
 
木陰に坐って涼をとる
尻の下の虫を確かめていない
 
荒れた唇を舌で触れて
あらゆる生物に容疑をかける
 
晴れた夜に眼を見開いて
水面に星を探す
 
朝は鳥が様々に鳴く
朝は様々の鳥が鳴く
 
さいころの日々は転がるが
すごろくのようには進めない
 
静かな泉の
森は静かではない
 
 
  鳥たちよ
 
食うか食われるかだ
弱い雛は見捨てられる
だが恐れることはない
 
この肉は食えぬ
誰も食ってはくれぬ
売り物にならぬ
皮も肉も骨も
自分で食うしかない
自分でも食えぬ
 
安心したまえ
適応するほどの社会じゃない
だから安心して適応したまえ
 
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(讃美歌312番だったか・・)
 
 
 
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