ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年10月

 
  楽山の口から出まかせ
 
 『世界を動かす「宗教」と「思想」が2時間でわかる』
 蔭山克秀著
 2021年10月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、また、性懲りもなく書いてきました。その都度、批判します。
 
楽山は概念把握が出来ていません。この段階で、理路が壊れてゆくのです。そのことを全く自覚しない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なので、まともな言論者を気取って、自己顕示してきます。
 
いくら書いても、恥の上塗りに過ぎません。公共に対する大迷惑であり、楽山は、ペテン師であり、いかなる言論者でもありません。楽山の、本の紹介を真に受けないでください。楽山は、都合のよい文言を漁っているだけで、読解していません。だから、破綻が表れます。
 
*概要と感想
本書では、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東アジア諸国などの国民のものの考え方を解き明かしつつ、キリスト教、イスラム教、儒教、社会主義についても説明してある。
 
宗教・思想の名前を並べて「説明してある」は、何の説明にもなりません。ゆえに、何の主張にもなりません。こういうことも分からない楽山です。イントロだとしても、そのあと、何も説明らしい説明が続いていないのです。
 
その文体は軽妙、平易でとてもわかり易く、すらすら読める。ただ大ざっぱすぎると感じるところがなくもない。たとえばイギリスについては「島国人は村人だし、村人は保守的だから、その結果、みんなそこそこのところで満足し、その後現状にそこそこ不満を抱く」(p.72)云々という具合に単純化しすぎて偏見を助長することになりはしないかと心配になるところはある。
とはいえ、本書はいろいろな思想宗教の要点を掴んだり、それぞれの国民性を大まかに把握するには良い本である。
 
楽山は、何を「良い本」などと、教える立場で言っているのでしょう。楽山に、評価する能力はありませんし、教える器量もありません。楽山は、理路が組み立てられないため、文章が成り立たないので、何も「把握」していません。嘘を詭弁でつないで載せてきます。
 
それが、約3年間の批判の結論であり、今回も、覆ることはありません。恥を知らない楽山だから無遠慮に書いてくるのです。言葉は、その時その場で、楽山の頭に浮かんで、意味なく浮遊して、バラまかれ、保持されず、霧散して消えてゆきます。
 
*科学と宗教
個人的には、本書の中ではこの部分にはよく納得できた。
科学や理性は「頭」で宗教は「心」と、それぞれ担当部署が違う。科学や理性は簡単に「神を殺す」が、心は神を求め、神に居場所を与える。なら科学が「神の存在証明をしようぜ」なんて野暮なことを言い出す前に、科学とは別ジャンルの「安らぎの源」として、完全に棲み分けてしまった方がいい。その方が、お互いにとって幸せだ。
(『世界を動かす「宗教」と「思想」が2時間でわかる』蔭山克秀著、青春出版社、2016年、p.48)
 」
本来なら科学と宗教が一致しているのが理想であろうし、「棲み分け」という考え方には抵抗を感ずる人もいるだろうが、現実的には両者の一致も、共存も難しいだろうし、いらぬ衝突を避けるには一定の距離を保つということも時には必要なのだろう。
 
「科学と宗教が一致しているのが理想」・・楽山の無理解が表れています。科学と宗教を、自然科学と人文科学+信仰を、どうやって同じ土俵に置くのでしょう。この発言は、例えば、数学と国語をいっしょに扱うようなものです。概念形成が未熟で、楽山の理想は妄想にしかなりません。
 
科学と宗教を一致させて、公式のように神を考えるのでしょうか、滅裂です。学問・思想・宗教の、方法論の初歩から、楽山には分かっていません。楽山の思考と言論が、小学生以下だと思うだけでなく、他者を混乱させるだけのインチキであることが表れています。
 
楽山という人は、こういうふうに、疲労と混乱と害悪だけをもたらしてきます。楽山は、科学も宗教も理解していません。恐らく、数学も国語も理解せずに大人になり、理解を見せかけで気取りたいだけだと思います。楽山は、常識欠如の小便を引っ掛けて、言論の公園を汚しています。
 
私は、理論家でも専門家でも学者でもないので、常識的な理路と、温もりと潤いのある心を求めて文章を書くように努めているつもりです。そのような良心の欲求を踏みにじってきたのが、楽山です。楽山は、文章が書けないことがバレても、嫌がらせの嘘と詭弁で、だましてくる人です。
 
楽山は、学ばずに教えようとし、百害あって一利なく、邪魔をして役には立たず、本を舐めて読書家を気取り、人の口を悪用して自己を顕示し、大人の口真似をして足らざるを露呈し、永遠を語って目の前を見ず、文章を書いて三途の川の石積みを続けています。
 
 
河と面の皮の宿命

河と面の皮の宿命
 
 
(2021年10月31日)
 
 
 
  アンビバ…烈
 
嘲(あざ)笑いの顔
侮(あなど)りの口
俯(うつむ)いた身を見下ろして
氷を当てて舐(な)め上げる冷たい視線
 
あるとき世辞
皮肉
頼みもしない評価
の一蹴
無視
 
何事もなかったかのように
過ぎ去ったそれら
向けられた者には
癒えない傷を残して
 
しかし向けたことはなかったか
向けたことは
なかったとは言えないはずだ
と癒えない傷が疼(うず)く
自らの目が赤いと感じる
兎の目か
鬼の目か
 
自らの存続から
人類の存続の是非までを
ときに激しく神に問いかけ
自ら慙愧(ざんき)のうちに切々と祈り
強烈なる厭世をもってなお
烈々とこの世を愛さねばならぬ
 
(※ アンビバレンツ(独)アンビバレンス(英)=両価性
 =同時に2つの相反する感情を同時に持つこと。愛と憎しみなど。)
 
 
  薄い
 
薄い
あまりにも薄い
ネットにおける匿名の関係
 
しかし利害でも理屈でもなく集うとき
 
薄い
最も薄い
目蓋の皮膚
だから目の
最も近くにある
 
 
  狼狽える顔
 
老醜へ向かえば向かうほど
いやもっと若くても
悪知恵をつければつけるほど
面の皮は厚くなり
鼻の皮は硬くなり
鼻の穴は黒くなる
腹の中が黒くなるように
という繰り言で
鏡に向かうと
見えない
老眼と結膜炎だ
狼狽(うろた)えて眼を洗い
しばらくするとピントが合ってくる
みんな当たっているのだが
加之(しかのみならず)
面の皮は荒れており
鼻の皮は脂ぎり
鼻の穴から洟(はな)が垂れている
顔全体が垂れて弛(たる)んで
今にも流れてしまいそう
 
目と鼻と口の位置は
昨日と同じでしょうか
あわわ・・・
 
鼻の穴が黒くなりました
毛穴という毛穴も
黒く開いて没没没・・・
二十歳過ぎたら
顔は自分の責任です
 
---------------------------------------
※「没没没・・・」は敢えて誤用です。
狼狽える(うろたえる)
 
 
 
悪意の嫌がらせを抑えられない楽山は、また、有害な記事を書いてきました。根拠が無いので、殆どネット荒らしです。したがって、また、当分、下記のコメントも載せることになります。
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であることを、拒み続けています。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
 
 
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  人間に分かる宗教(キリスト教について)
 
 
「神の前に何を捧げられるというのか。」
「感謝と讃美を。それだけを。」
「いつから、神を褒めるような理解者となったというのか。」
「神の前に恥ずかしくない言葉を。」
「神の前に恥ずかしくないほど罪のない汝がどこにいるというのか。」
「では、どういう祈りが相応しいのでしょう。」
「ただただ、正直であろうと努めること。それ以外に何があるだろう。」
 
 
百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教があるというのが、人の世なのでしょう。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではありません。守ろうと努める人であり、守れないことを心の底から最もよく知る人のことだと思います。
 
そうでなければどうして罪を知りえましょう。どうして救いを知りえましょう。キリスト者はキリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうるのだと思います。非力ゆえに不可能が身にしみて、ようやく、人は、神の存在に気づくのです。
 
イエスキリストは神であり神の子として信じています。そして神は聖書により、またその人個人の人生において人を癒し慰め励まし導かれます。そのことを否定しようとは思いません。個人的に否定できないからです。
 
ではいったい人は何者なのでしょう。感じることも考えることも人の自由です。しかし神の導きを知りうるものではありません。聖なるもの、例えば神の導き・聖霊・神のお告げ・預言などは、人があれはそうである、あるいはそうであったと決められるものではない。
 
喜怒哀楽・思想・行為がいかに信仰に始まるものであっても、それらはすべて不完全な人間としてのものであることを弁えるかぎりにおいて、人に許されている自由であります。そういう人生を過ごせるように、祈りの信仰があります。
 
いかなる修道も信仰生活も伝道も、人が聖なるものに近づくためにあるのではなく、また人が聖なるものとして高められるためにあるのでもなく、信仰は、ただ、人間が人間であり、人間として成長するためであります。
 
何よりも神の前に正直であることが必要です。疑いをもったならば、それを正直に告白し祈るべきです。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白するべきです。神などいないと言いたくなったら、そう言いたいわけを正直に告白するべきです。
 
キリスト者はそのために祈りという、温もりと潤いに満ちた時と所が、情緒的で人間的な手段が、与えられています。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を与えられており、またその義務を知るべきである。
 
嘘のない、飾らない祈りを、好み、人にそれだけを求め、待っておられ、聞いておられるのは神であります。隠す必要がなく、正直に、伝え、祈り願う同伴を得ること、それが信仰であります。
 
真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違います。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりです。
 
さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるでしょう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのです。
 
魔術を捨てるべきです。悪魔に住みかを与えてはなりません。神秘の思い込みから離れるべきです。日常を疎かにして聖なる答えを探してはいけません。聖なる答えを口に出来ると思ってはいけません。聖なるものを自らに擬するのをやめるべきです。それらは神の持ち物です。
 
人間は生きている限りどこまで行っても、どれだけ修道しても、人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りであり、救われる民である証しなのです。
 
 
御前(みまえ)に

御前(みまえ)に
 
 
(2021年10月30日、再録+)
 
 
 
  欠落の矛盾
 
茶色に変色し
いびつに変形して
またひとつ
脳細胞が死ぬ準備を始めている
脳が最も豊かな
神経細胞を有していた間に
それらすべてを使ったことがあったのだろうか
脳細胞の死によって
精神機能に欠落があっても
気づかずに過ごしている
脳の欠落が
欠落した脳に分かるだろうか
残された神経のネットワークが
補ってくれるのだけが頼りだと
探し始めている
細胞はともかく
どこか欠けたところ
こころこころと
堂々めぐりしている
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
 
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
「 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。誰でもあることみたいに、一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
 
 
 
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  楽山の誘導2
 
 真理を語りつくした宗教は存在しないということ
 2020年08月02日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山が、人間を、いかに知らないか、ということが表れています。幼稚なことばかり書いてきて、人の言うことは聞かないのです。誰も、楽山を、批判する以外、相手にしてはいけないと思います。宗教は、信じれば真理が分かるんじゃろ・・という偏見が、妄想的に訂正不能です。
 
「真理を語りつくした宗教は存在しない」・・宗教は、人として生きるためであって、人は、神ではないのだから、完全な真理を知ることはありません。だから、このことで、宗教を批判することは、全く無意味なのです。何を、評論家気取りで、言い得たつもりになっているのでしょう。
 
最近、内村鑑三の「宗教座談」で、神は聖書より大きいとしているのを読んで、思わず膝を打ってしまったのだったが、次のツイートを見ると、スピリチュアルな方面でも同じような考え方をあるらしい。
 
神を信じない楽山が言っています。聖書も曲解している楽山が言っています。膝を打つというのは、感心したときのジェスチャーですが、その根拠が、楽山にはありません。何もかも、自分の妄想に都合がよいかどうかで判断しているだけだと思います。どこまで思い上がれば気が済むのでしょう。
 
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。
 」
ちなみに、自分がこの問題に興味を持ったのは、某宗教の信者と信者の論争を観戦していたときだった。この時、ある信者が「あなたが言っていることは教義にありますか。どこにも説かれていないのではありませんか。そんなものは真理ではなく、あなたの妄想にすぎません」という主旨で相手を批判しており、自分はこれに対して、いやいや教義に無いからといって真理ではないとは限らないだろうと思ったのだった。
 
そもそも、人が、真理の総てを知ることは出来ません。人間の知りうる時空が限られているからであり、人の心ひとつも総て知り得るものではない、ということが分かっているなら、当たり前のことなのです。楽山は、他者の論争を観戦するだけだと思います。
 
真理を尽くしたのが完全な宗教などという先入観の世迷言で宗教を語ろうというのは、自己愛に慢心した自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山のような自分信仰の狂信者が捏造し吹聴したがっているだけであります。楽山は真っ当な理路を持っていません。
 
神は全き真理なのでしょう、されど、人は不完全なので、神の真理を完全には知りません。しかし、人が生きるためには、ひとかけらの真実があればよいのです。絶望した人が、ひとかけらの真実によって、生き直すことこそ、復活であり、信仰なのです。楽山は何も分かっていません。
 
教義や教理を信仰してしまうと、説教で語られる言葉や聖書の言葉しか使わなくなる可能性があります。これは、神が与えた自由意志に反することなのです。大事なことは、聖書を読んで、何を受け取ったかということです。楽山は、何も受け取っていないようです。
 
「教義に無いからといって真理ではないとは限らない」と楽山が言うのは、自己顕示欲から、自分が好きなように言って真理だと言いたがっており、実際は無知で無恥の発言を正当化するために他ならず、言い張るための黒いエネルギーにしたいからに他なりません。
 
楽山の言うことは、まず、知性の常識と良心の直観に反しています。楽山の言は、良心と常識を持っていないのに、恣意的に、詭弁で誘導し刷り込んで、だますために語る言葉ですから、決して信用しないでください。偏った人格からは、偏見しか生まれてこないのです。
 
「教義にないことは、教義ではありません。教義でないものを、教義であるかのように言うのは止めてください。教義と個人的な感想や意見は、きちんと区別して言ってください」と言うならまだ分かる。でも、「教義にないことは真理ではありません。あなたの妄想にすぎません」というのは、ずいぶん、ヘンテコな話なのだ。
 
それ以上に「ヘンテコ」なのは、教義を知らない楽山が、教義云々を語ることです。妄想かどうかは、それを、もし多くの人が信じたら反社会的にさえなるだろうと推測されることであって、楽山の言っている自己愛と自己中の無反省こそが、それに当てはまります。
 
楽山は、教義を知っても、聖書を読んでも、人間の良心に基づくことがないために、少しも理解できていないことが、今までの記事とコメントから明らかになってきたのです。楽山こそ、神を完全に知らないと気が済まず、実際は何も分かっていない見当違いで、神を否定してきたのです。
 
信仰というのは、それを与えられる機会を得たときには、そもそも、苦難があり、それでも良き人でありたい、そのための勇気と平安を求めるという良心の欲求によって判断されてゆきます。最初から、聖書の正しさを先天的に持っているわけではないという自明の理から始まるのであります。
 
したがって、信仰は、人間の良心を促し、人間の悪意を減らしてゆく方向に行くのは言うまでもないことなのです。何か特別の神の啓示でもあって、良心を蹴散らして信仰に向かう、などということは、カルトならあり得ますが、正しい信仰にはあり得ないことです。・・楽山は偏見だらけです。
 
こういう場面を見ていると、宗教信者は、唯物論者に向かって、「この世がすべてではありません。この世を超えた世界があるのです。そのことを知ってください」と言ったりもするけれども、これは宗教信者にも言えることであって、宗教信者の方も、宗教で説いていることがすべてではなく、宗教を超えた世界があることを知らなければならないのではないかと思う。
 
楽山は、「この世」と「宗教」という別の話を、無理に並列して、「宗教を超えた世界」というのを捏造しています。これは、どう考えるんだろう、だけではなく、何も考えないで、いちゃもんを書くだけで、気持ちがよくなる症状なのです。
 
宗教についての話を自己愛によってゆがめてしまい、自前の字面の屁理屈しか言えなくなっているのが、楽山です。それは、自己愛と自己中による無反省と学習不能と訂正不能によって起こっています。楽山ほど、前もって警戒を要する人は、むしろ、珍しいのです。
 
信仰者は、陶酔気分で誇大妄想を語ることがあります。現実を弁えずに思い込んで信じ込んでいる人は、考えることも、共感することも、自ら止めてしまって、そのために、現実離れや人間離れを起こしてゆくこともあるでしょう。キリスト教においても、決して小さい問題ではありません。
 
むしろ逆に、楽山こそが、多くを隠しているようですが、大方、妄想化に当てはまると思います。人心を操作しようと企み、先入観のように吹き込み、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する、という今までの経過に表れています。楽山は、現実を考えることも人間的に共感することも出来ないのです。
 
宗教にハマってしまうと、宗教で説かれていることこそが真理であって、それに反することや、説かれていないことについては真理ではないという短絡的な思考に陥ってしまうこともあるが、ここはぜひとも注意したいところである。
 
自分信仰の自己愛に嵌ってしまうと、他者の意見を無視して、反省をしなくなるので、学習と成長がなくなります。楽山がしているような、自分に都合の良い字面ばかりを漁って積み重ねることは学習でも成長でもありません。記事を、どれだけ書いても、何の糧(かて)にもなりません。
 
楽山のように無反省で訂正不能になると、他者の意見や思想や宗教を侮辱し、あるいは、軽く見なして、何を言われても無視して、悪に悪を、欺瞞に欺瞞を、偽善に偽善を、悔いることもなく、重ねてゆくようになります。自己愛性パーソナリティ障害NPDによるものだと思います。
 
一年以上批判してきて、楽山の言から、何らかの納得を得られたことは、一度もありません。だまし誘導する意図だけが、気色悪く伝わってきます。そういうことを平気で書いてくるのが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質の症状です。
 
あまりに酷い記事が続くので、楽山批判の記事のタイトルにも「楽山の・・」というように、"楽山" という名前を出して、責任者および批判対象を明示するようになりました。遣り取りしてはいけない相手です。コメントなど遣り取りすると、とても異常な疲労を受け取ることになるでしょう。
 
楽山の偽善性を批判できるのは、ある程度、批判者が詭弁と誘導について学習している場合であって、カルトや誘導に対する免疫や抵抗力や批判力に自信が無くて影響を受けやすい人は、楽山の言うことに対しては、決して相手にしない、という方針しかないと思います。
 
楽山に関わって、良いことは何もないと思います。影響を受けてしまうと、知性も感性も鈍くなり、楽山と同じように他者を無視するようになり、自分の言いたいことだけをアワアワと繰り返すようになるでしょう。楽山のボンヤリ言語やトホホ言語に似た言い逃れをするようにもなるでしょう。
 
真実の追求を志すならば、修正可能で学習可能な心性を持ち、他者の言ったことをそのまま受け入れるのではなく、自分の学習経過と結果である知性と感性によって処理して、総ての人が信じたらどうなるかを考えて、生かすか、保留するか、否定命題とするかを、判断する必要があります。
 
 
理路も共感もない誘導

理路も共感もない誘導
 
 
(2020年08月05日)
(2020年08月13日、一部修正)
(2021年10月29日、再録+)
 
 
 
  悪魔とは
 
悪魔とは蛇の誘惑の微笑か
欲望から欲望へ渡るための偶像か
突然襲い来る不幸の類か
 
知らない ただ少なくとも
悪魔とは何か
それは今 私の中に満ちているものである
と考えてみる必要があるだろう
 
人と交わる席において
私は悪しき謀(はかりごと)であり
孤独の椅子において
私は魔と友人である
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて真顔で盃の宴に加わり
いつか笑えず泣けず顔を背けた
私は私を他人のように呼んだ
 
私は私が招いた出来事を
私に出入りする何者かのせいにした
 
例えば幸運は天使の目録に記(しる)し
災難は悪魔の罪状に加えた
私は他人の魔女狩りをした
私は自らの悪魔狩りを試みた
 
それらは到底できることではなかった
私に関するかぎり
私は私以外の悪魔を実感したことがない
 
 
  ある日の祈り
 
私が意図し
私が求め
私が追いかけ
あるいは諦めたもの
私が企み
私が謀(はか)り
私が手に入れ
あるいは失ったものから
 
私を誘惑し
私を陥(おとしい)れ
私を快楽(けらく)に酔わせ
私を責め呵(さいな)むものから
 
どうかお救い下さい
 
そして私を裁き
しかるべき所へと導いて下さい
それが永遠の無でも
地獄でも
せめてその時には
私の抗う醜さが
断末魔の呪いになりませぬように
 
せめてその時には
私が俯(うつむ)いて
裁かれる姿勢で受けられますように
言い渡される宣告の前に
跪(ひざまず)かせて下さい
 
せめてその時には
私の悔いが全て見えますように
できればその時まで
知る時まで
見る時まで
ずっと
ずっと
御前において
跪かせて下さい
 
 
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
「 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山の無理の路2(2)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
つづきです。楽山の、ハッとさせられるものが皆無の記事です。
 
*愛と利己主義
この言葉は、霊界における霊たちが、地上の人々の手助けをしたく思うのは、利己主義と言われればその通りかもしれないという流れからの発言である。
愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。
(同上、p.96)
 」
自分がこの種の考え方を知ったのは、マーク・トウェインの『人間とは何か』でだった。その中では人はどんなに世のため人のためと思って行動したところで、しょせん利己性からは逃れられないとしていた。
 
酷い利己主義と自己中心の、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山が言っています。決して真に受けてはいけません。
 
たとえば仮に、ある人物が人のために自分の命を捨てた場合、傍目には何の見返りも求めず、人のためにわが身を捨てた純粋な利他行為に見えたとしても、実際にはその出発点には自分の命を捨てでも人に尽くしたいという自己の願望があり、純粋な利他行為とは言えないという論法である。
 
利己主義というのは、ふつう、自分の利益だけを求めるものです。楽山は、命を捨てる、つまり、そこで、いっさいの、物質的精神的利益が終わる行為を、実に軽く、同じ利己主義と見なしたいようです。言葉と意味についての分別のない証拠と言ってよいでしょう。
 
利他の願望は、その人の願望だから利己主義と言いたのでしょうか。どういう理路なんでしょう。何でもかんでも利己主義にしたいのでしょうか。理路にも論理にも理屈にもなっていない。
 
愛が我がままで自己中になりやすいとしても、利益や報酬を求めない行為であるならば、利己主義とは区別されるべきです。楽山の言うことは、成り立ちません。楽山は、いつも、自分を高めて、よく見せようとするナルシスト・エゴイストであります。
 
恐らく、楽山は、深みのある高等感情を理解できないために、無償の愛を理解できず、ゆえに、利他ということが分からないのだと思います。分からないのに書いてくるところが、楽山の病質だと思っています。
 
多くの新興宗教では、世のため人のために生きましょうということは言っても、その根底に潜んでいる利己心まで暴きたてることはないので、シルバー・バーチの霊言はここでも並の宗教よりよほど深いものがある。
 
以前から、呆れているのは、楽山は、自らが、自己愛、自己中からの、無反省、訂正不能、という、少なくとも精神的な、自己愛の利己主義者だということに、全く気づいていない、ということです。自己愛性は、常に自己を高めようとする欲望によって酔っていますから、利己主義なのです。
 
ちなみに竹内均は、上の現実を承知した上で、利他的利己という生き方を推奨していた。人は利己的な生物だとしても、自分だけがよければ他人のことはどうでもよいというのではなくて、自も他も幸福になる道を目指そう、他を幸福にすることが結局は自分の幸福にもなるという考え方だったかと思う。
 
訂正不能の自己愛の病質で、利他から最も遠い楽山が、こういう引用をしても、説得力は皆無であります。
 
自分としては、見返りを求めない無償の愛を実践しようというのはいささか理想主義的に過ぎて現実離れしているし、他をかえりみずに利己的に過ぎれば結局は他だけでなく自分も傷つけるだけになろうし、この利他的利己という生き方が最も現実的であり無難な指針であると思う。
 
利他を理解していない楽山の言う利他的利己とは何でしょう。どこが現実的で、どこが無難なのでしょう。「過ぎれば」云々・・と言っていますが、どうやって過ぎたと分かるのでしょう。基準が書いてありません。とても大事な問題を、いい加減な結論で済ませて満悦している楽山です。
 
相反する意味を持つ言葉の字面を、よく考えもせず安易に合成しただけではないかと思われます。洞察のない者は、言葉を勝手に結びつけて引き寄せて満悦するという特徴があります。
 
*真理を押し付けないこと
これも自分には耳に痛い言葉だ。
自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。
[省略]
私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをおもちしているだけです。
(同上、p.118)
 」
とある宗教の信者だった自分は、教祖の伝道せよ、伝道せよ…という掛け声に従って、周囲の人々に宗教をすすめてばかりいたのだった。そんなに強引にすすめているつもりはなかったが、それでも周囲の人々からしたらさぞ迷惑なことだったろう。申し訳ないことをしたものだ。
 
改宗を勧める代わりに、楽山のやり方は、いちゃもんの詭弁によってキリスト教をおとしめる、また、丁寧語の曖昧なボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語で誘導するという、実に嫌らしい手口です。決して関わらないでください。
 
でも今にして思えば、この教祖は、他人の心は変えられない、変えられるのは自分の心だけだと説きながら、伝道、伝道…と繰り返していたわけで、これはどうも矛盾しているように思える。
 
キリスト信仰の福音伝道は、良き訪れを伝えるという意味であり、変わるのは本人であります。つまり、楽山の「伝道、伝道…と繰り返」す、ということは、「変えられるのは自分の心だけ」と矛盾しないわけです。
 
人の言葉尻を捕らえて、HSか何かの批判をしている体で、宗教全体を否定したい楽山の狡猾な婉曲表現でしょう。信仰は、見えない導きという神秘性と、努力と学習という自主性とが、不可分になっています。人間に、意識して出来るのは、後者であります。
 
他人の心は変えられないといいつつ、他人に信仰を持つように改心を迫れというのは、おかしな話だ。
 
伝道ならば、伝えることであり、迫ることはないのですから、矛盾ではありません。楽山は、言葉の勘違いが多くて、言っていることが、一般的な言論としては、的外れになってゆきます。それは、だんだん、著しくなってゆくでしょう。無反省では、成長しないからです。
 
反省と学習を怠ってきた楽山は、気取りのために、いつも、言論の理路が、ふつう未満で、足りないと感じます。とても迷惑です。こういう人が、無反省と訂正不能になって、好きなように語っているわけですから、及ぼす悪影響も計り知れなくなるので、批判を続けています。
 
他人の心は変えられないと承知しつつも、啓蒙活動も怠らないというのなら分からなくもない。でも他人の心は変えられないと説きつつも、大きな危機が迫っているとして、急いで人々に改心を迫れというのは無茶だし、終末論で煽るカルト臭が強烈にすぎる。
 
むしろ、脅しながらの、救われ妄想信条に、惑わされないことが大切です。楽山のような詭弁と刷り込みによって、霊が分かるっぽい自己愛を満たそうとする悪魔性も、カルトと同じような対処が必要になります。
 
この辺りのおかしさに気づけなかったのは、自分の子供時代には、ノストラダムスの大予言ブームがあり、終末論にさほどの違和感を感じなくなっていたことも原因の一つになっているのかもしれぬ。
 
テレビなどで「ノストラダムスの大予言ブーム」は、70年代~遅くとも20世紀の間だったと思います。それが、楽山の「子供時代」なら、今、楽山は、30~50代ででしょうか。それにしては、文章が稚拙過ぎるとも思います。
 
しかも、自分の不覚と未熟を、今度は、ノストラダムスのせいにしています。本当に、自分の責任を認めない楽山です。くれぐれも、上のほうの、反省、トホホ、などと言う芝居に、だまされないでください。
 
*信仰者と無神論者
前の記事で書いたように大川周明の『安楽の門』では、何を信じるかではなく、いかに信じるかが大切だとしていたが、シルバー・バーチも同じような発言をしている。
祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
(同上、p.171)
 」
以前自分が信じていた、とある新興宗教では、無神論者や唯物論者は地獄に堕ちるとしているが、このシルバー・バーチの発言が真実であるとすると、ことはそれほど単純ではなさそうだ。
 
まず、楽山が書いているような「〝選ばれし者〟の一人になったと信じている」なら、その人は信仰者ではないということです。
 
「無神論者や唯物論者は地獄に堕ちる」・・無神論者や唯物論者は、地獄を信じているのでしょうか。腹いせのような言葉です。言うだけ無意味なことのように思われます。
 
そして、楽山は、単純ではなさそうだ、という言い方しか出来ません。それも、そのはずで、楽山は、他者の意見を字面だけ利用して、心を受け取ることが出来ないのです。楽山にとっては、自他の総ての言論が、霊が分かるっぽい次元の、遊びごとに過ぎないのだろうと思います。
 
特定の宗教を信じ込んでしまうと、この宗教を信じる者は救われるが、この宗教を信じず、否定する無神論者や唯物論者は地獄に堕ちると思いたくなることもあろうが、それは公平ではないし、スピリチュアリズム的な真理にかなったものの見方でもないのだ。
 
まだ「地獄」のことを言っています。「公平ではない」というのは、単純すぎる言葉です。一方、「スピリチャアル的な真理」という言葉は、信じる者だけの不思議言葉です。この二つを並べてしまうところに、楽山の、いい加減さが、また、表れています。説明と根拠が無さすぎるのです。
 
そういえば、とある国民作家は、高僧とされる僧侶と幾人もあったことがあるが、そういう人々よりもむしろこの道ウン十年という職人さんの方が立派な人格を持っていると感じることが多い云々と言っていたそうだ。
 
とある国民作家とは誰なのでしょう、楽山は書かないのです。そして、高僧という言葉で宗教を代表させ、職人さんのほうが立派な人格と、例示の印象操作による刷り込みの汚い手口です。説明と根拠が無さすぎるのは、楽山が、説明も、根拠の提示も、できないからです。ずっとそうなのです。
 
人の霊性というものは、信仰、思想、主義、職業、立場などの表面的なことだけでは分からないものであるし、それだけで分かったつもりになるのは差別主義者くらいのものなのだろう。
 
楽山は、表面的なことに、信仰と思想と職業を並べています。本質において違うと思います。また、職業という言葉は浮いているように感じます。これらが表面的だと言いたいのでしょうか。それとも、これらの表面的な部分を指して言いたいのでしょうか。説明がありません。
 
理路が、言葉の選択が、曖昧で、いい加減で、書いときゃいい、という表面しか持たない楽山です。冷静に書いているように見せかけていますが、こういう粗雑な理路は、乱暴者の特徴です。
 
共通の理解があるわけでもないのに、楽山は、何をもって、表面的と言えるのでしょうか。何も説明がありません。思いついた言葉を、また原始反応で、よく考えもせず、貼り付けて、言い得たと満悦するのでしょうか。
 
一方、楽山という個人について言えば、確かに、自己愛のために、表面的にしか受け取っていないと思います。ゆえに、そういう表面だけで、あるいは、表面という言葉の字面を書くだけで、分かったつもりになり、何やら気取りになるのが、ずっと、楽山の特徴です。
 
本当の信仰者は、分かったと決めつけることなく、人の話を聞きます。むしろ、聞きたいので、ネットを巡ったりもします。そして、切り捨てることなく考えてみます。その上で、分からないことと分かることを分けてゆくのが考える信仰です。
 
もちろん、百害あって一利なしの、楽山やシャロームなどの悪意ある詭弁は、見るたびに、良きものは何も伝わってこないし、無駄に疲れるだけなので、ある段階で、まともに相手にしてはいけないと判断することになります。
 
「差別主義者」とは、どういう差別の意味で、楽山は書いたのでしょう。差別されたと言いたいのでしょうか、何かの種類の人物を指しているのでしょうか、特定の人物を指しているのでしょうか。差別と区別を、言葉遣いにおいて、ちゃんと分けていないようです。
 
楽山は、説明もなく書いて、丁寧語を使っているだけで、自らを、丁寧な人のつもりでいるのです。説明はしないか、できないのに、「分かったつもりになる」のは傲慢だから、批判され、否定され、退けられるのです。先入観だけの差別主義者は楽山でしょう。
 
何を言われても、何も返せないのに、高慢な自己愛ゆえに、なおも居座って、そこから、見下ろしながら、まともなつもりで、ひどい文章を書いて公表し、ごまかしに、トホホ言語で、謙虚芝居をするのが楽山です。
 
 
相手が具体的にいるかどうかにかかわらず、自分が書いていることの説得力を意識するとき、その文章には、双方向への努力が生まれています。楽山のように、自分の言い分を書くだけの場合、説得力を意識せず、その文章は、単方向の自己満足にしかなりません。
 
 
光無き誘導

光無き誘導
 
 
(2021年10月28日)
 
 
 
  視線と刃先
 
人ごみは
人ではない
人ごみは
ごみではない
 
知恵をつけ始めた子供が
はじめて手にするナイフの刃先のように
さまよう視線
ときに動きは素早くても
しばしば明確な目標を定めていない
 
目標が定まる刃先に至るとき
切り裂かれる道理が生まれ
無理が生まれるまでは
 
人ごみは人ごみである間
切る道理も切られる無理もなく
情もなく無情もなく
計られる明確さによって切り取られ
分けられてゆく
 
 
  永遠と絶対
 
永遠や絶対を求めたりするのは
それらに近づこうとするのも
人間だけ
 
動物は限りある命を
生きられるだけ生きて果てる
だから動物には
ゆとりはあっても無駄のように見えても
無駄なことをする必要もなく
無駄なことをする時間もない
 
身近なところに
その眼差しにさえ
永遠と絶対に連なる僕(しもべ)
人間も動物であるのに
 
痩せ犬が首を振り振り通り過ぎる
信じてもいい しかし
久遠
 
それは最初から届かないものとして
水晶の遙か彼方に
捨て去ったのでもなく
捨て去られたのでもなく
光の速度で止まっている
見捨てたのでもなく
見捨てられたのでもなく
 
 
 
楽山日記のコメントです。誰かは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
2019年だから、それほど古いコメントではない。
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山の無理の路2
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
去年の記事ですが、楽山は、だらだらと長い記事を書いています。内容は、殆ど空疎であります。自慢に過ぎないと指摘しても、執拗に、飾りのように貼りつけて、文脈から浮いている謙虚芝居のトホホ言語と、整わない理路と、欠落した高等感情の有り様を見ることになります。
 
*シルバー・バーチの霊訓
最近、スピ系のツイートを見るようになったせいか、にわかにその方面への興味が復活してきたので、
 
以前から、楽山は、霊が分かるっぽい自覚だけの人です。超常の辻褄だけをあげつらって、人間について考え学ぶことを疎かにすると、人間離れ、現実離れして、楽山のようになるのでしょう。
 
『シルバー・バーチの霊訓(一)』を読んでみた。ものの考え方だとか、人はいかに生きるべきかという話には、思わずハッとさせられる箇所があって面白い。
 
「人はいかに生きるべきか」ということを、霊訓?から学んで「思わずハッとさせられる」のだそうです。自分で考えることはできないのでしょうか。一気に分かったことにしたい自己顕示の霊能への欲望が表れています。
 
スピリチュアル、即ち、霊から得たものだから悦んで信頼して、人からの言葉は信頼できないのでしょう。人間の世界の怪しさのランキングが逆になっているようです。
 
恐らく、自分も霊能者という自覚があり、教祖願望があり、霊が分かるっぽいから、霊でないと信じない、になっているのかもしれません。努力をしたくない怠慢と、人間嫌いで人間離れしたがる傾向が、楽山の特徴なのでしょう。
 
年を取って感性が鈍ったせいもあってか、
 
元は感性が鋭かったかのような書き方です。
 
今はもう霊がどうしたこうしたという話にはさほどリアリティは感じなくなったのだが、
 
昔は、霊がどうしたこうしたという話にリアリティを感じていたのでしょうか。気味の悪い人です。良心的なスピリチュアルは、人間を見ることを忘れないでしょうに、霊にばかりこだわってきた楽山には、良心も良識もあるとは思われず、人間らしい感性の名残すらも見られないのです。
 
人生論だとか、価値観の話には今でも心を動かされるというのはうれしい。
そんなわけで、今回の読書でハッとさせられた部分について書いておきたい。
 
楽山は、人生論と価値観とスピリチュアルが、同質になっているようです。怖いことです。楽山にとって、心霊の話は、楽をして、お山に登りたい欲望だと思います。楽山が「ハッとさせられ」ることは、恐らく、一度もなかったのではないかと思います。
 
*ものごとには時期があるということ
まず本書では、霊的な思想を他人に押し付けてはいけないということが繰り返されているの印象的だ。
真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(一)』アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳、潮文社、平成3年、p.55)
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。
(同上、p.35)
 」
実をいえば、以前の自分はこのことが全然分かっておらず、とある新興宗教の影響を受けて、真理を受け入れない人がいると、下根だとみなしていたのだった。
 
「以前の自分はこのことが全然分かっておらず」・・今は分かっているような口ぶりです。楽山は、人間にとって大切なことが何も分かっていないと思います。だから、発言の信用度はゼロです。
 
(ネットより)
げ‐こん【下根】 の解説
《「根」は本来の性質の意》仏語。教えを受ける性質・能力が生まれつき劣っていること。仏道を修行する力の乏しいこと。また、その者。下機 (げき) 。下機根。→上根 →中根
 
楽山は、しっかりした自らの思想を持っておらず、もっと邪悪な妄想や先入観のほうを選んで、自らの思想を詭弁によって執拗に刷り込もうとしてきたのです。私のブログに、いっぱい楽山の妄念が引用として表れています。ここもそうです。
 
楽山は、今までの経過から、他者を下根と見なしていたが、自らに、下根を当てはめる、罪や偽善を当てはめる、ということがないようです。評論家気取りの文章で、他者を見下ろす姿勢は、今も変わりません。訂正不能の自己愛の表れであります。
 
でもさすがに今はもういい年なので、
 
反省は、いい年だからする、というものではありません。若いときからの積み重ねであることが、全く分かっていないようで、相変わらず、いい加減なことしか言わない楽山です。書けば書くほど、いたるところに、自己愛、慢心、いい加減さが、漏れ出てくる楽山です。
 
そんなことは思わず、シルバー・バーチと同じ考え方になってきている。霊的なことを受け入れない人がいたとしたら、その人にとってその時期が来ていないか、はたまたその人の個性に応じて他の方面での役割があるということなのだ。下根だとか、上根だとかとは別のことだ。
 
「シルバー・バーチと同じ考え方になって」・・これが、高ぶりの霊能者気取りだということが分からない楽山です。詭弁を弄してきたことに、何の反省もないほどに悪質な楽山です。しかも、責任逃れに、教訓的でもあるシルバーバーチの霊言を悪用しています。
 
時期が来ていない、個性に応じて、という言い方は、いい加減で、思いついた体のいいことを書いただけだと思います。楽山は、恐らく、真摯に反省することさえできない人だろうと思います。「下根だとか、上根だとかとは別」・・上根ということなら、批判に答えられるはずです。
 
*真理の独占?
これは耳に痛い言葉だ。
人間はとかく自分のかかわった組織や団体にのみ霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。
(同上、p.79)
 」
いつも書いている如く、かつて自分はとある新興宗教の信者だったのだが、その教団ではまるで自分たちが真理を専有しているかのように主張していたのだった。
 
楽山が、今、霊力を占有しているつもりがないなら、本当に謙虚であったなら、批判を無視することはなかったでしょう。偽牧師シャロームshalomに無条件賛同もしなかったでしょう。またしても、邪悪な作為です。過去がどんどん追いかけてきて、無反省の楽山を斬っているのです。
 
つまり、楽山の、昔は専有、今は違う、という嘘です。楽山の今までの発言が、否定しています。言論の履歴によって、今の言論の嘘が表れてくる例なのです。真理を占有することを批判している楽山こそが、今までの経過から、訂正不能の自己中だということが明らかになっています。
 
教団の創成期のうちは、他にも真理にかなった教団はあるとして、他教団にも一定の敬意を払っていたのではあるが、じきに当教団の教えは最高、最大、最強であって、天上界の高級諸神霊も当教団に集結しているとして、まるで自分たちだけが真理を独占しているかのような主張をするようになり、自分はそういう教祖、教団の主張を信じて、他宗教を低く見ていたわけである。これは今となっては実に恥ずかしいし、自分史としてはまさに黒歴史である。とほほ。
 
ならば、キリスト教への、難癖、いちゃもん、一方で、ほめ言葉、そして、今、他宗教を低く見ていた、などと言う、ばらばらの反省は、芝居でしかありません。「黒歴史」「とほほ」、これも嘘、そのまま、嘘吐きの謙虚芝居のトホホ言語と呼んでいます。楽山の成り立たない正当化です。
 
楽山の言は、粘着して収まるところがないようで、このことが、楽山の、他者を見下ろす自己愛と自己顕示の無反省による訂正不能なのです。しかも、しつこく何度も、自分を出して、グリグリと押してくるように繰り返すのは、自己愛性人格障害のサディスティックな体質の表れなのでしょう。
 
*善と悪
これは勇気ある発言だ。
私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。
(同上、p.83)
 」
悪を捨てて善を取れ、闇から離れて光を求めよと説くのは、ある意味、楽である。これなら多くの人々が納得できる話であろうし、余計な波風も経たず、面倒がなくてよい。
 
善人となることは、それほど楽ではありません。完全な善人は、一人もいません。楽山は、納得できないことが多く、波風が寄せてきて、面倒なことの多い、この地上の世界を、すべて無視して言っているということを覚えてください。低劣な短絡なのです。
 
善だけでなく、悪にも神の存在が宿る、と楽山は、言いたいようです。楽山には、神と悪魔の区別がつかないことが分かります。どちらも目に見えない存在ですが、目に見えて、楽山は、自らの悪の正当化を、こともあろうに、神という言葉によって企んでいるのです。
 
神が悪に宿るというのは、悪も救われるかのような、誤解を招きやすい言い方です。早速、楽山に利用されています。神が、悔い改めない悪に及ぼすことは、結局、裁きしかないのです。どうして、訂正不能の悪を救う神?がいるでしょうか。どうして、そういう神?が信じられるでしょうか。
 
楽山に、神が宿っていたら、楽山が、悪そして偽善者でなかったら、善または偽悪者であったなら、今までのような嘘と詭弁の経過はなかったはずです。楽山に宿っているのは、一時的な悪以上の、嘘と詭弁の、偽善の最悪でしかないのです。罪悪感がなく反省しないことが証拠です。
 
でも、善と悪、光と闇、神の絶対性などについて思案すれば、ことはそう単純でないことはすぐわかるし、上のような考えに行き着くのも道理ではある。
こういうところは、シルバー・バーチの霊言は、単純な二元論を語るそこいらの新興宗教よりも、よほど思想的である。
 
善を勧め、悪を離れよ、というだけの説教は、言うだけなら誰にでもできる、という、はっきり言って、何も言っていないのと同じです。そこに、人間の闇の部分を考察しなければ、空疎で幼稚な説教であります。その典型的な幼稚さが、楽山を通して、霊言の解釈にも、表れています。
 
楽山は、妄想的であって、思想的ではありません。ゆえに、楽山は、単純な言葉では表せないところを、一度も説明できたことがありません。逆説的な香りに、興味本位の原始反応を加えて、自己顕示欲から、言っているだけなのです。
 
それが、楽山のような、自己愛からの自己顕示欲という、反省できない者の宿命なのです。そして、楽山が、実質の深さも示すことのないまま、資格も能力もなく、霊言を褒め讃えているのは、個人でありながら、有害なカルト性を示していることにしかならないのです。
 
善と悪には、二元論以前に、既に、良識からの直観的な区別があります。楽山は、そこに欠陥があり、単純な二元論などと、知ってるふうを装いますが、実際には、自分を正当化し、結果として、悪だけを勧める者でしかありません。良心のない者、心ない者は、こういうことしか言えないのです。
 
 
(2)に、つづく
 
 
詭弁の空 無理の暴走

詭弁の空、無理の暴走
 
 
(2020年08月12日、同日一部修正)
(2021年10月26日、再録+)
 
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりして
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか
 
 
  委ねるとき
 
たとえば癒しの御言葉
「思い煩うな」が
ときに無理強いの「してはならない」に
否定の「べき」になってはいないか
自分で自分に強いてはいないか
 
すでに思い煩っているのだが
思い煩え
と試しに言ってみる
思い
わずらってみる
すると思い煩うこと
に耐えられない自分しか残っていない
そういう時ではないかと・・・
 
いかなる優れた言葉も
自分の持ち物のように使えば使うほど
持ち物のように磨(す)り減って
死んでゆく性質を持っているようです
そういうときには
そのたびに改めて正直に悔いて祈り
新品として頂くしかないようで・・・
 
 
 
楽山日記にある、誰からか分からないコメントです。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
「人間の性」のせいにしています。一般化という詭弁です。
2019年だから、それほど古いコメントではない。
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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