ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年11月

 
  楽山の悪意2
 
 最近、よく見ているブログ
 2020年11月22日 楽山日記(LD)
 (一部省略)改めて批判。
 
 
殺伐とした記事が続いて申し訳ないです。我執だけが臭気と持ち味の楽山です。今回、楽山は、キリスト教を、新しい批判ではなく、またしても、同じ勘違いで書いてくるのです。人の言うことを、まるで受け取っていないことを、自ら表しています。
 
ずっと前に楽山が書いて、そういう言い分はキリスト教批判にはならないと言ったのに、また同じことを、昔の、針のとんだレコードプレーヤーみたいに、繰り返しています。こういうことをやって満悦する楽山は、訂正不能の一方的な病質者だから、誰も関わってはいけないと思います。
 
この記事に潜ませた悪意が、楽山の本性です。そして、またしても、他者のブログを悪用して、反キリストを表し、神否定を表しているつもりです。既に、読んで、問題外だったのに、まともなことを言えない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
数か月だまされて、そのあと、批判を始めて約3年、何も良きものの欠片さえ返すことのない、そこだけ、徹底している、いちゃもん屋の、議論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)で、無反省・無責任で、書くことをやめられないままの、成長のない楽山です。
 
今回も、ずっと前に書いてきて、批判したことを蒸し返すというより、前のまま、何の進歩もなく同じことを、キリスト教批判の他者の言い分に、迎合する形で書いているだけなのです。自己愛性人格障害は、学習も成長もしないということです。
 
*神義論(弁神論)
最近、よく見ているブログで、神義論に関連した記事が公開されていた。。
・神と災害 - キリスト教の問題点について考える
 」
自分がこの矛盾に気がついたのは、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』を読んだことが切っ掛けだった。この物語の主人公は、友達が交通事故に遭い、意識不明の重体になったことから、神は友達を守ることができたのに、そうしなかった、神は友達が事故に遭うことをゆるした、なぜ?と悩んでいたのだった。
 
楽山は、神が、ご利益的に人の都合に合わないことに、いちゃもんをつけて、キリスト教を否定していますが、神は、神秘であり、いつも、人が神の行為に納得できるわけではない、ということが、理解できない、というより、理解など、する気がないのだと思います。
 
人には成り立たないところの神の全能を考えるならば、むしろ、神の考える幸いと、人の考える幸いは、違っていて当然なのです。神の考える信仰と、人の考える信仰も、違っていて不思議はないのです。ゆえに、人間には、神を恐れ、キリストの愛に縋(すが)る信仰があるのです。
 
楽山が、神を否定するのは、楽山が、神をも、上から辻褄を追うように眺めているからであり、その楽山の辻褄は、ずっと、楽山の恣意に表れてきたところの、自己中による学習不能を経て、楽山の合理性?という低次元で、神も、超常も、霊も、宗教も眺める、という、身勝手で幼稚な話なのです。
 
神の合理が、人の合理によって、説明されることはありません。ゆえに、人は、この地上に不可避的に起こる不運と悲劇に耐え忍ばねばなりません。信仰は、むしろ、そのためにあります。神の合理を、物知り顔に讃美して満悦する信仰は偽物です。
 
神の非合理が、人の合理または非合理によって成り立つことはありません。ゆえに、人は、神を恐れる態度が必要です。楽山は、条件を出して、神の合否を決めており、信仰に一歩も近づいてはいないのです。神の非合理を豪語して、神を否定したつもりの思想は、稚児の譫言であります。
 
楽山は、稚児の譫言をもって、しかも、他者の勢いを借りる卑怯さで、実際には、実に惨めったらしく、神を否定するような、知ったかぶりだけの、楽なお山の大将を気取っている偽善者であります。読めば、楽山の高慢な姿勢は、神にも信仰にも縁はないだろうと分かるのです。
 
キリスト教の総ての救いは、人が、キリストの共感に支えられて、それゆえに、神の前に正直な祈りを捧げることによって、人ではなく、人の合理でもなく、神の御心の成就によってもたらされます。信仰は理屈ではなく、現実を生きるための希望であります。楽山は、外部の野次馬です。
 
神は善であるが、全能ではないとすると、悲劇があったとしても、神はそれを止めたくても止められなかったのだろうということで神の善性を疑うことにはならないが、神は善であり、かつ全能であるとすると、悲劇が起きたときには、「神は全能で悲劇を止めることができなのに止めなかった。なぜ? どうして?」という疑問を持たないではいられなくなる。
これは本当にやっかいな問題だと思う。
 
恐ろしいことに、楽山は、神を、人の論理で扱えると思っているようです。この時点で、楽山は、信仰には一歩も近づくことのない人となっています。だから、楽山は、信仰が「やっかい」なものに思えてならないのでしょう。「やっかい」と思うなら、何も書かないことです。
 
楽山が、神の行動方針を決めて、悲劇を止めるかどうかで、是非を決めつけているさまは、恐れを知らず、自らを高みにおいて、こともあろうに、神を、裁いていることになります。まるで、神にも、人にさえ、何の縁もないところの、虚妄の空間を徘徊する楽山です。
 
難しく飾って言っても、きわめて単純で、短絡した幼稚な理屈を、神に当てはめていることが自明であります。神は、楽山のような、やっかい者が、すっきりするように辻褄を合わせることはありません。疑問は、信仰者でもいだきますが、楽山には、ベースとなる人間性がありません。
 
楽山は、いちゃもん宣伝者であります。楽山の言は、神の意志と行為を、人が説明を受けて納得いかないと信じないということですが、そのような説明好きな?神?のあり方など屁のようなもので、そういう神ならば、私は、信じることはなかったでしょう。
 
楽山は、何でも言うことを聞いてくれる奴隷のような童話の神を所望のようです。全ての、恐らく、楽山の悲劇を止めてくれる都合のよい神でないと信じないのです。こういう御利益信仰の在り方は、現実によって全否定されるものです。楽山の都合で守ってくれる神は、どこにもいません。
 
安っぽい楽山は、宗教を考えても、安っぽく、幼稚で、なんでもかんでも、うまくいかないと信じないぞ、という、自己中の言い分に過ぎないのです。呆れたへっぴりの卑しさです。「やっかいな問題」と思うなら、書かなければいいのに、自己顕示だけのために書いてくるのです。
 
まさに、楽山のような反キリストが、いかなる愛にも、いかなる救いにも、感じるところがなく、逆に、自身の堕落を、神のせいに、宗教のせいにして、悦に入るような、この世の真善美にも、神の与える信仰の義にも、永久に恵まれないであろうルサンチマンの不細工を表しているのです。
 
楽山は、この地上に、良きものを何一つ見いだせずに、世の中を、人を、神を、キリストを、恨み続けているのでしょう。楽山は、書くたびに、潤いも温もりもない、殺伐とした、下手くそな、お絵かきの幼稚さだけを見せてきます。その惨状が楽山の精神世界なのです。
 
そして、その実質のない、みすぼらしい知性と感性を、反省することもなく、学ぶこともないまま、自慢げに、丁寧語の芝居で、人をだます行為を、もはや、やめることが出来ないでいるのです。こちらの言ったことを、何一つ受け取らないで、自分の言い分だけを繰り返しています。
 
しかも、ずっと、自分の言葉を持たず、まとまらず、学習せず、他者の、字面だけ都合のよい言葉を悪用することしか出来ません。何かを追求する意志もなく、楽山は、最初考え始めたときから一歩も進んでいないのではないかと思います。
 
楽山の言は、例外なく、下劣です。正直言って、何というクズだろうと思います。やっていることは、小蝿の所業です。いくら真面目そうに装っても、本気、真剣、真摯、誠意、という言葉から、最も遠い人です。自分を省みないで思い上がる者は、こうなるという見本です。
 
楽山が満足するような、宗教も、思想も、この地上にはありません。楽山は、現実を認識しないために、現実の地上に、現実離れした空想だけを当てているのです。だから、最初のQ&Aから、いつまでも卒業できないのでしょう。信じないなら、信仰について語らないでほしいです。
 
楽山には、人間的な潤いと温もりがありません。その欠損を自覚することも出来ません。「反省。とほほ」など、自覚に類する言葉を使ったとしても、何も変わらない前後関係と文脈から否定されています。物わかりが悪いのに、字面だけ、まともを装う楽山に、だまされないでください。
 
楽山にあるのは、悲しみでもなく、思いやりでもなく、冷笑と憎悪だけです。楽山が何か言ってきたときには、私のように批判する人以外は、返さないでください。決して楽山に近づかないでください。結局、楽山は、人をだまして、地獄への道連れにしたいだけだろうと思います。
 
 
道連れを求める闇

道連れを求める闇
 
 
(2020年11月23日、同日一部修正)
(2021年11月30日、さらに修正して再録)
 
稚児(ちご、ややこ)
譫言(うわごと、せんげん)
ルサンチマン ≒ 弱者に募る怨念。負け犬の遠吠え。自省しない妬み根性。
 
 
 
  時の筈
 
こんな筈(はず)ではないと嘆いても
朝起きたら朝起きた分だけ
いわれもなく理不尽に
訪れてくる昼を待つことになり
同じように夕を夜を待つことになる
だからといって
朝も昼も眠って夕を迎えれば
ますます理不尽ということになって
こんな筈ではないと嘆くのだが
もともと時間は来るのにも去るのにも
いわれなどある筈(はず)も
示す筈も必要も必然もないもので
ただ留まることを知らないという道理に
適(かな)うだけの
筈を誰にでも取りつかせている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
殆ど動物の反射のように、覚えた弁明の言葉を並べても、一切、弁明になっていない楽山です。悪意が、いずれ自分を破壊してゆくのを待つしかないのでしょうか。とはいえ、こちらは、疲労と徒労という被害を既に被っているので、さらに広がるのを防ぐために、批判を続けるしかありません。
 
 
 
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  焼き切れる楽山
 
 『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著
 2021年11月28日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、どんどん支離滅裂になってゆくようです。しかも、病識がありません。その点、統合失調主に似ていますが、楽山は、そういう病気ではないのです。効く薬がない体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病気です。
 
シェリー・ケーガンは、人気の大学の哲学の先生だそうです(ネットより)。その人の、死とは何か、という本を読んで、楽山は、何を思ったか、結局、アニメの話をして、現実とフィクションを混同して結びとしているようです。
 
*魂の存在について
タイトルにひかれて本書を開いてみた。著者の言葉によれば本書の前半は魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか? などについて、後半は死をどのように理解するかについて記したというが、日本語版では前半部分はほぼ省略されているとのことである。自分は前半のテーマにこそ興味があったのでこれは残念。
 
このように、書かなくていいことも、無駄に文字を費やして書いてきます。元々、死とは何かについて、考えてなどいないと思います。死ぬ前を知っていても、死んだ後が分からない人間には、考えても、結論の出ないことだからです。楽山も、一歩も進めないのでしょう。
 
でも、日本語版でも著者の魂についての考えは明らかにされているのは有り難い。著者は「非物質的な魂の存在を立証しようと試みるさまざまな主張」について、次のような結論に行き着いたという。
私の見る限り、それらを念入りに検討することはたしかに価値がある(魂という概念はけっして馬鹿げたものではないし、軽はずみに退けるべきではないから)。とはいえ、そうした主張は魂の存在を信じるのにふさわしい理由を提供することに成功していないのだ。
(『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳、文響社、2018年、p.27)
 」
理屈で考えれば、これは当然の結論であるように思う。
 
「魂」という言葉は、意味の広い、一方では、漠然とした言葉ですが、楽山にとっては、超常ホラーでの意味しか考えていないことが、今まで、明らかになってきました。その狭い概念把握だけで、「理屈で」「当然の結論」と評価してしまうところに自己満悦の訂正不能が表れているのです。
 
*「私」という存在
著者は、「私」の存続についても言及している。
けっきょく私が望んでいるのは、将来も存在し続けるということだけではなく、将来の私が、今の私がもっているものととてもよく似た人格を持っているということでもあるからだ。私はその人に、私のようであってもらいたい!
(同上、p.33)
 」
これも自分には興味あるテーマで、以前あれこれ考えたことがあった。
 
「あれこれ」を書けない楽山です。忘れたのでしょうか。今は、全体に、楽山が何かを考えているとは思えない経過です。
 
現在の自分は幼児期の自分のことはほとんど忘却しており、その頃の自分とは別人となっている、
 
「忘却し」たのに「別人」だと分かるのでしょうか。記憶の曖昧さを、忘却という言葉で表してしまう楽山の、文弱ぶりで、言論と表現についての理解の、浅さ、いい加減さが表れています。なのに、勉強もせず、学習効果もなく、執拗に書いて、自己満に浸ろうとする楽山です。
 
このことからみると仮に魂は永遠であったとしても、現在の自分と比べれば千年後の自分はまったくの別人となっていることだろう、魂は永遠でも自分は永遠でないなら、そこには一体何の意味があるのだろう?
 
急に話が「永遠」に飛んでいます。さらに「千年後の自分」?!だそうです。楽山の詭弁は、辻褄も合わせ損なっています。「魂は永遠でも自分は永遠でないなら」・・何も受け取っていない証拠でしょう。なのに「何の意味があるのだろう?」と批判でしょうか。滅裂です。
 
魂の永遠性など現在の自分にはどうでもいいことになるのではないだろうか? それとも現在の自分と千年後の自分はまったくの別人となっていても、そこにわずかでも連続性が認められればそれで自分は霊と同様に永遠だと満足すべきなのだろうか? などなど。
 
「自分には・・ないだろうか?」・・自分のことを、誰に、なぜ聞いているのでしょうか。そして、現在と千年後を比較しているつもりでしょうか、「連続性が認められれば」・・どうやって確認するのでしょう。「永遠だと満足すべきなのだろうか」・・滅裂は、滅裂の結論を生んでゆきます。
 
*トチロー
また著者は「私」は人格であるなら、将来その人格をアップロードできるようになったら、それも「私」と言えるかどうかについても論じている。これはキャプテンハーロックのアルカディア号と一体となったトチローはトチローと言えるかどうかという問題と通じるところがある。
 
トチローは、検索するとアニメに出てくる架空の人物ということで、娯楽と学問や宗教を、区別できず、思考において混同してしまう楽山の崩れ方です。楽山の知性・感性が、いかに、いい加減かが分かるでしょう。それにしても、唐突に、テーマの次元が変わってゆきます。
 
結局、アニメの話にしかなりません。ここで、アニメの話しているのに何言ってるの?とでも言いたいのでしょうか。フィクションとリアル混同は、楽山が、キリスト信仰を否定した時の筆致と似たようなもので、罠をかけて遊ぶ人だということになります。哲学もアニメも、いっしょの楽山です。
 
人を愚弄した者は、愚かだという結論になるのです。遊んだつもりで、遊ぶことしか出来なくなった人というレッテルを自分に貼ってゆく楽山です。哲学も、哲学者も、アニメも、いっしょにオモチャにして、侮辱してゆく自己愛の、身の程知らずの、路地裏のお遊戯模様です。
 
個人的な感覚ではオリジナルこそが「私」であって、コピーはコピーでしかないように思えるが、オリジナルは長い期間に変化して行き、ちがった存在になってゆくだろうことを思えば、コピーの方がかえって正しく「私」であるようにも思えてくるからややこしい。
 
コピーは云々・・と、自分のコピーを知っているのでしょうか。楽山には、アニメ、フィクション、空想と現実が混乱しているようです。こういう人が、哲学者を引用して、真面目ぶった記事を書いてくるのです。楽山は、小学生にも負けそうな、成長できなかった、貧弱な異常者です。
 
こういう現実化する可能性の低い仮定の問題はいくら考えても仕方がないことではあるが、「私」とは何かを考えるための思考材料としてはなかなかにおもしろい。
 
現実化ではなく、フィクション・創作であって、現実ではないのです。楽山が、今後、いかなる学問用語を引用しても、「おもしろい」などと言っても、畢竟(ひっきょう)、このレベルだということを知ってほしいです。決して、相手にしてはいけません。
 
*この先どうなる?
本書はまだ第1講しか読んでいないのではあるが、この先はさらにいろいろと考えさせられそうで楽しみである。ひさしぶりのアタリ本かもしれぬ。これからちょっとずつ読みすすめるつもり。
 
「この先どうなる?」が心配されるのは、楽山のほうなのです。死の問題ではなく、楽山の混乱なのです。哲学ではなく、アニメでもなく、楽山の、軽くない、傍迷惑な、体質的精神障害の問題なのです。3年前から、いや、ずっと前から、問題は、そこだけなのです。
 
 
混乱、焼き切れてゆくもの

混乱、焼き切れてゆくもの
 
 
(2021年11月29日)
 
 
 
  人が飛ぶとき
 
秒速何メートルの風で
時速何キロの風で
人は飛びますか
鳥や虫は
風がなくても飛びます
人が飛ぶためには
何が必要でしょうか
途轍(とてつ)もない強風?
何のことはない飛行機の切符
ワンウェイ・ティキッ
崖(がけ)っぷち
そろえた履き物に込める悲しい怒気?
それとも眠りに落ちて夢に飛ぶ?
人が飛びたいと思うのは
位置を失うか
位置が嫌で
嫌で嫌で
きりきりと突き上げ
抉(えぐ)るような痛みのときに
すでに最後の一線に向かって
飛び始めていることに
人がまるで気付かないとき
 
 
  管と道
 
一時的ならまだしも
長期にわたって
あるいは死に臨んで
あらゆる管を突っ込まれ
管だらけになってまで長らえることを
望まない人は少なくないだろう
もともと管だらけなのだ
管もしくは道
血管・リンパ管
気管・気道
消化管・尿管と尿道
外分泌は管を通って管へ
内分泌は直接血管へ
さまざまな道筋
道と管
細い道を通らなければならない
細い管が大切だ
太い管には管を挿入できる
それで命が助かることもある
しかし管を挿入できない細い管
毛細血管
そこでの営みが生命に直結している
毛細血管に管を突っ込むことは出来ない
あまりにも細く
絡み合っているから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  楽山の侮辱の筆致
 
 『旧約聖書入門』三浦綾子著
 2021年11月27日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、羞恥心がないので、何を言われても、平気で記事を書いてきます。そのことが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という体質的な病気を明らかにしてゆくのです。今回、また、キリスト教文学の小説家を侮辱しています。
 
*まえおき
先日は『新約聖書入門』を読んだので、今回は『旧約聖書入門』を読んでみた。心に残った箇所を以下に書きとめておきたい。
 
門だけ眺めて、中に入ったことは一度もない楽山です。ゆえに、聖書の「せ」の字も、信仰の「し」の字も、分かっていません。厚かましさだけで高慢に書いてくる文章は、とても醜いです。
 
*人生を一行で表現すると…
著者は、聖書においてエノクの一生が一行で表現されていることから、次のような問いを発している。
わたしたちが死んだ時、一行でわたしたちの生涯を誰かが記すとしたら、果たして何と記してくれるだろう。
(『旧約聖書入門』三浦綾子著、光文社、1994年、p.66)
 」
これは前に本書を読んで以来、ずっと心に残り、考え続けている問いだけども、それは今後も変わらなそうである。
 
楽山が考え続けているなら反省しないではおれないはずです。ゆえに、また、口から出まかせを言っているという判断になります。楽山は、楽山の生涯を、誰かが記すなら、もはや、病質的障害の嘘吐きペテン師ということだけが変わらないのです。
 
*自然観
著者は「地を従わせよ、すべての生き物を治めよ」という聖書の言葉を根拠にして、人は自然の管理者であるとしている。
すなわち神の意思に従って自然管理をなすことが、本来の人間の使命であったはずなのである。
(同上、p.19)
 」
自分には自然の中に人がいるという感覚は理解できるが、自然の上に人がいるというのはどうも理解し難い。それは自然に対して傲慢すぎるのではないかと怖気づいてしまう。
 
「地を従わせよ、すべての生き物を治めよ」「神の意思に従って自然管理をなす」・・どこに、自然の上に人がいると書いてあるのでしょう。神の下に人がいるということです。とても低劣な詭弁です。自然を、人が管理するのは、本質的に、人が生きるためです。
 
「自然の上に人がいる」・・この例は、ここでは、他でもない楽山であります。それは、人の上に入る妄想気分の病者であり、不治になる可能性が濃厚な、楽山その人であります。だから、成り立たないことを、考えもせずに、平気で言ってくるのです。
 
やはり自分は一神教よりは、汎神論、アニミズム的な考え方に親和性があるようだ。こんなことは普段はまったく気にすることはないけれども、キリスト教を調べるたびに自分の宗教的文化的背景に自覚的になって行くのは面白い。自己を知るには、自己とは異質なものに接触すればいいというけれども、これは本当だ。
 
楽山に宗教的文化的背景などありません。反宗教的妄想的な固陋があるだけです。さらに、ベースの無い楽山だから、平気で、無反省、無責任でいられるのです。ふつうなら、生きているのが嫌になりそうなほど、幼稚な妄想的な間違いを、性懲りもなく繰り返しているのです。
 
(ネットより)
固陋(ころう):見識が狭くて頑固なこと。古い習慣に固執して、新しいことをきらうさま。
 
*額面通り
著者は神の言葉はそのまま受け取るべきであって、自分勝手に割り引いたり、水増ししたりしてはいけないとしているためか、聖書解釈もそのようになっている。
 
シンプルな信仰は、このように、楽山のような偽善者で詭弁屋の楽山などに、容易く利用~悪用されるという例です。そのように、楽山は、シンプルな人を餌食としてきたのだろうと思います。「そのまま」を文字通りとすり替える詭弁です。
 
たとえば、バベルの塔の話を紹介した後では次のように書いている。
こうして世界の言葉は、たくさんの言葉に分かれたのである。もし、このような事件がなければ、世界は今も、全部同じ言葉を使っていたであろう。
(同上、p.83)
 」
 
聖書の出来事を、そのまま、史実だと受け取る解釈は、既に、多くの人によって、正しくないことが言われているのですが、楽山は、聖書と史実の関係に、悪意で、こだわって、いちゃもんを並べるのです。何も変わらない楽山の無理解というより謀(はかりごと)であります。
 
サイコパスからのクリスマスプレゼントです。恥知らずな楽山は、小説家だろうと何だろうと、その一つの言葉そのもので、それだけで、全て分かったという気になり、何も考えずに、他者を侮辱したい、という、この上ない趣味を満足させています。楽山は、人間と良心の敵です。
 
創造論について疑問を持つ人から、それは本当かと質されたとき、こう答えたともいう。
「そうよ。男と女を、神が創ったと、ちゃんと聖書には書いてあるのよ」
(同上、p.22)
 」
自分は聖書を古典、宗教書として読んではいても、神話的な部分をもそのまま事実として受け取ることはしていない。
 
ここにも、聖書の文字通りに信じるという信仰について、楽山が、悪用の限りを尽くしています。どう信じようとも、そこに神を恐れる敬虔があるかどうかなのです。楽山が、いかに、専門用語などを尽くして、おとしめても、表れるのは、神を恐れぬ反キリストの醜態と悪臭に過ぎません。
 
「神話的な部分をもそのまま事実として受け取ることはしていない」と、インテリを気取っても、楽山には、反キリストとしか言えません。神を恐れず、キリストとキリスト者を侮辱し、優れた作品には見られる敬虔の深みが、楽山においては獣性に過ぎないからです。
 
もし宗教とは、聖典の記述をそのまま信じるものだとすれば、自分には宗教は無理かもしれぬ。
 
聖典は解釈を通しているので、文字通り信じても、信じるだけの超常の能力など持っていない人間には無理だということです。これに類することを何度言っても楽山は、妄想に囚われて、信仰を否定するネタにしてくるのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。
 (マタイ9:20-21、新約聖書)
 
一見、愚かに見える行為に隠れた信仰の敬虔を、キリストは見逃しません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 
26:9
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:7-10、新約聖書)
 
この2つの聖句に共通するのは、二人の女性が、他に救いがないという生き方をしてきた人だったということです。だから、シンプルな信仰だけで行動し、キリストは、それを受け入れて、是としているのです。温もりも潤いもない楽山などが、とやかく言う余地などないのです。
 
神への恐れと正直が、誤りがあっても、つまるところ、信仰なのです。楽山は、信仰を何も理解できないで、史実じゃないのに・・と、著者を、全ての敬虔なシンプルな信仰しか持たないキリスト者を、あざ笑い侮辱しています。楽山は、世界中から憎まれても、おかしくないサイコパスです。
 
倫理的道徳的な戒めについては、できるだけ割り引かず、そのまま受け取るようにすべき場合もあるのは理解できるが、自然、歴史などの事実関係については科学、学問の発達を考慮してその限りでないとするなら理解できるが、それすらも聖典の記述のすべてをそのまま受け取らなければならぬというなら、それは理解できない。
 
さも、分かったふうなことを、言って、いつも、本質から外れている楽山です。「理解できる」・・楽山は、何も理解していません。聖書に書いていることを、幼稚な先入観だけで曲解して、自らは、"霊が分かるっぽい"自覚で慢心している楽山は、結局、関わる誰からも憎まれてゆくでしょう。
 
こんなに外れてしまう人というのは、珍しいと思います。キリスト信仰に対して、恐ろしい怨念しか持っていません。それをごまかすために、臭い丁寧語の、曖昧ボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語で書いてきます。人間の幸運とは、楽山のようなものに出会わないことだと思えてきます。
 
*まとめ
三浦綾子の本は、以前は好んで読んでいたのだが、近頃は信仰心が眩しすぎて読み難いと感じるようになってきている。今回、本書を読んで、その感じはさらに強まった。
 
「信仰心が眩しすぎて」・・真っ赤な嘘です。今まで、好きなようにキリスト信仰を侮辱しながら、平気で、こういうことを書いてくるから、楽山は、サイコパスと判断するしかないのです。それにしても、次から次に、批判される根拠を補足して増してくるとは、無自覚の怖さです。
 
ただそれでも著者の真摯さには感動するし、自分もできるだけ見習いたいと思う。著者のものの見方、考え方にも学ぶことは多い。信仰、それから日本観や歴史認識などについては必ずしも賛成できることばかりではないものの、それでもその人格は尊敬したい方である。
 
「学ぶことは多い」と言いながら、信仰を侮辱するネタに使っている楽山です。楽山の丁寧語は、全くのペテンの手段に過ぎません。これほど底意地の悪い悪質な人間は珍しいです。「それでも」「尊敬」を表す根拠を、楽山は、全く書いていません。楽山の、やんわりは、大方、侮辱です。
 
 
楽山は、次のようなことを言われるべきであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 (マタイ7:23、新約聖書)
 
人類の敵は、悪ではありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
 
婉曲の悪魔性

婉曲の悪魔性
 
 
(2021年11月28日)
 
 
 
  己
 
あるとき悪魔であり鬼であり
しばしば疫病神(やくびょうがみ)であり
畜生類であり冷血動物であり
虫でありバグであり
生まれない方がよかったものであり
 
近寄ろうとすればするほど
長くなる距離があり
触れようとすればするほど
高く厚くなる壁があり
逆に近寄るものは次々に裏切られ
加わる集(つど)いは中止され
いつの間にか約束事は破棄され
 
いつからか
交(まじ)わるのに向いていない
生きるためのセンスがない
と呟(つぶや)くようになり
さらに卑小になって
呟くのも一人だけ
この世でただ一人だけ
と壁を作り堀(ほり)を作り
測れぬ距離を隔てて
これでよいか
これでよいか
と気づけば崩れる壁の外にいて
水を入れ忘れた堀の中に
落ちて雨を待っている
水を流してくれ
水に流してくれ
 
 
  ある一日の告白
 
神様が一日無事に生かしてくれた
手を組み跪(ひざまず)いて
感謝すればよいのか
悪魔が一日無駄に殺してくれた
拳を握り胸を打ち
悔(くや)しがればいいのか
 
お前ではないか
一日を生きたのも
一日を殺したのも
充分に生きれなかったのも
充分に死ねなかったのも
お前自身ではないか
 
脅(おび)えさせるものが来る
底なしの闇から現れて
すぐそこまでやって来ている
根こそぎ掴(つか)み取ろうとする
底なしの臓腑へ落とそうとする
 
首の骨を潰す
脆(もろ)くなった首を吸い込む
首が伸びてゆく気が遠くなる
ぎしぎしと何処かで音がする
遠ざかる
灯がちらつく
最期に呟く
夢のようでした
 
声にならない
フッと蝋燭(ろうそく)が消える
消すのは作ったものだ
脅えるお前を追いかけて止まない
お前自身が生み出したものだ
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。自分を見ないで人のばかり言ってきた楽山の、人間離れの悪と罪と偽善です。だんだん、露骨な筆致と、ごまかしの筆致が錯綜するような楽山です。
 
 
 
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  アドラー教について(6)3
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
    2019-05-23  【シカトしろ❗️】言いたい奴には言わせておけ‼️
    加筆修正して再録。
 
 
アドラー心理学は、自己中促進カルトだと思います。ゆえに、ブログに書いて、アドラー教と呼んで警戒を呼び掛けています。日本人アホ化計画とも呼んでいます。
 
丁寧語は見せかけで断定や豪語が多いのも、カルトの宣伝に当てはまります。ぴったり当てはまる者がいます。彼は、アドラー教の宣伝者です。やめたようなことを書いていましたが、自己中、無反省、無責任のままです。
 
アドラー心理学サロンです。
あなたは他人に言われた言葉、他人にされたことを気にしてしまい、傷付いたことはありませんか?
世の中には価値観や考え方の違いから、とんでもないことを平気で言ってきたり、してきたりする人がいくらでも存在します。
困ったことに、あなたにとっては言葉の暴力であったり、嫌がらせになることでも、相手は罪悪感も無く、むしろ落ち込んでいたりすることもあるのです。
 
罪悪感のない人については、私も書いてきました。
 
とんでもないことをされたブログ主の経験と、その反発か復讐心が動機となっているのでしょうか。この記事の、数々の暴走気味の発言は。
 
本記事では、限度はありますが、他人に何を言われても、何をされても気にしなくてなる方法について解説させて頂きます。
 
このことには、自己中に走りやすい、という指摘と批判があるということです。何をされても気にしなくなる、という言葉だけだと、鈍感になり、無頓着になり、自己中になることに、ぴったり結び付いてくるのです。
 
まず、他人自分にが言ってきたこと、してきたことを気にしなくてするには、アドラー心理学の代表的な考え方である「課題の分離」を理解する必要があります。
 
課題の分離を、会って言葉を交わしたその時に判断して正確にできる、という前提のようですが、課題の判定は、そんなに容易くはないと思います。課題には、物だけではなく、人も含まれることがあるからです。
 
アドラー心理学サロンでも様々な言葉で、この課題の分離を表現しているので、人によって捉え方のニュアンスに違いがある可能性があります。
本記事では、下記の定義でご説明致します。
「他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではありません。他人が自分をどう思うのかを気にすることは、他人のことを変えようとする介入となります」
 
ニュアンスでは済まないことがあるから、批判が生まれます。相手の課題に自分が含まれ、自分の課題に相手が含まれる場合を考えていないようです。
 
ブログ主は、定義すれば、誰にとっても、意味が定まると思っているようですが、特に、人文系や宗教や倫理の話では、定義こそが、勝手に、また、不可避的に多義に、解釈されてゆくものです。
 
他人が自分をどう思うのかを気にする自分をどうするかは、紛れもなく、自分の課題です。他人の意図も気持ちも考えてみるべきですが、どこまで考えるかは、精神衛生の問題になります。
 
また、自分の思考にとどまる限り、介入とは言えず、他人を変えようとするつもりは、ないということです。自分のために、心の健康を害さない範囲で、他人のことを気にするのです。
 
考えても仕方がない、言っても無駄だ、ということなら、無視するか、公共において批判するかしかありません。そこまで、確かめたほうがいいと思います。簡単に決めてはいけないことです。
 
もし、少しは言いたいこともあるということなら、言った段階で、相手を変えてやろうという介入というより、相手に自分の意見を述べるだけだから、関わりと言うべきでしょう。ブログ主は、”介入”という印象の悪い言葉を使って強く否定したいようです。
 
自分の課題と他人の課題を区別して、自分の課題の範囲と他人の課題の範囲の分離が必要となります。
 
上の他者のこと総てを安易に自分の外に置いてしまうことで、ぞんざいで荒っぽい不都合の無視という分離?が生まれてくるでしょう。そして、豪語と断定に走るようになります。
 
課題をどの範囲で分離していくのかが難しいところですが、あなたの嫌がることを言ってきたり、やってくる人に対しては、下記のような分離が実践しやすいと思われます。
 
苦言が、のちに、金言となることもあるでしょう。嫌がること、というだけで判断してよいのでしょうか。その前に、考える、考えるために保留しておく、ということが必要な場合もあるでしょう。
 
他者の言うことには、あまり快感物質は含まれていないことが多いです。他者が言うときの確信と高慢の度合いにもよります。私は、他者を、解決するまで気にしなさい、と言っているわけではありません。
 
というのは、高慢な者に高慢な態度で、青二才の頃の私が、あるとき唐突に、進路について「○○には向かないと思うね、うん」という言い方をされたことがあります。オマエがオレの何を知ってる?・・と思い、ふるえ上がって、物が言えなくなりました。
 
また、私の進路を閉ざすために、「向かない。ひらめきとしてね」と言った人がいます。ひらめきで、人間を扱われてはたまりません。
 
そうして、無視するべきことを無視できずにいると、トラウマになるという経験があります。今でも、思い出すと、心が、恐怖に震えます。残念ながら無視することはできません。記憶から消えないからです。
 
しかし、この記憶の対処・処理・心の整理については、今も考えることが多いです。ということは、このことで、考えを広げることも出来るということです。
 
大事なのは、無視して、なかったことにすることではなく、いかに、対象化して、その影響を防ぎ、一つの資料のように、考えられるようにするか、ということなのです。
 
「他人が自分に何をしてこようと、何を言ってこようと、それをどう思うのかは自分の課題。止めさせようとする努力は自分の課題としてできるが、止めるかどうかは他人の課題」
 
つまり、ブログ主は「止めさせようとする努力は自分の課題」と自分で言っているのです。何か言い返したり、誰かに相談することは、「課題の分離」には反しないということです。
 
自分の精神の安定を脅かすほどに、心がつぶされたように、何も言えなくなったと思ったら、唖然としたら、ともかく、逃げましょう。
 
課題の分離の行き過ぎは、多く、自分の課題とするかどうかについて、常習的に自分の快楽原則の都合で選んでいることによって起こってきます。そうやって、取捨選択された課題は、自分の快楽課題に過ぎません。快楽だけで生きようとすることは、常識的に、否定されるべきでしょう。
 
こうした分離をすれば、嫌がらせを止めさせる努力をすることはできるが、最終的に自分への嫌がらせを止めるかどうかは他人が決めることなんだと、自分のできること、できないことを区別することができます。
 
本当に嫌がらせなのかをどうやって確認するのか、厳しいこと言われたら嫌がらせだと短絡するようにならないかどうか、といったことについて、リスク回避の対策がなされていないと思います。
 
もちろん、なんとかしなきゃ、なんとか言わなきゃ、どうしたら言われなくなるだろう、という焦りを防ぐことは大切です。焦りは、心を乱すだけになるからです。人の気持ちは、複雑なものがありますから、自分の都合だけで、安易に決めつけてはいけないということです。
 
できる範囲で、嫌がらせを止めさせる努力をしても、どうにもならないのなら、無理して分かり合おうとせずに、嫌がらせをしてくる人の無視を決め込むか、その人のいる場所から離れるのが賢明だと思います。
 
嫌がらせかどうかを、最初の一言や、その相手に対する先入観で、早計に決めてはいけないと思います。相手が言葉と言い方に何を込めているかによります。繰り返されるかどうか、常習であるかも、確かめましょう。
 
しかし、その時の、自分の判断ですから、相手の言葉に自分が感じた嫌悪感が耐えがたいほど大きければ、今後、しばしば、その言葉のたぐいに接することからは、逃げたほうがよい、という一応の判断はできるでしょう。
 
>分かり合えない人間は、残念ながら存在します。<
 
是としますが、出会って言葉を一言交わして、不快だから、などという早計な決めつけではなく、ある程度、常態として同じ不快が続くかどうか・・くらいは見るべきでしょう。数か月、遣り取りをして、人間とは思えなくなった自己愛性人格障害者を、現在、批判しています。
 
絶対に分かり合えないとまでは言いませんが、あなたから分かり合おうとしても、相手に分かり合おうとする意向が無いのなら自分の膨大な時間と労力を費やして振り回されただけの結果に終わってしまう可能性もあります。
振り回されず、どうにもならないなら関わりを断つようにしましょう。
 
相手に分かり合おうとする気持ちがなく、自己愛が強い人などがそうですが、そういう場合は、そう分かったというより、はっきり感じた時点で、問い詰め追い詰める自信がなければ、関わらないことが唯一の選択でしょう。
 
自己愛性パーソナリティ障害の病的ナルシシストや、サイコパス精神病質と言われる人格は、変わりようがなく、罪悪感もなく、反省もしないので、批判するのでなければ逃げるしかないのです。
 
昔、聞いた話ですが、ある良心的な精神病院の関係者が言ったことですが、精神病質者が入院してきたときには、先ず、多勢で取り囲んで、ボコボコにするのだそうです。そういう人は口で説得しても意味がなく、逆らうことは無駄であるということを体に覚えさせる、ということだそうです。
 
これは、ただの人間関係の悪化ではなく、極端な人格異常の場合です。しかも、昔の話に過ぎないので、そういうどうしようもない異常な人は、少ないがいる、ということを言いたいだけです。
 
あまり熱心に分かり合おうとあなたから一方的に努力をしてしまうと、むしろその努力は仇となってしまい、あなたが他人の課題に介入しようとしていることになって相手を逆上させてしまう可能性があります。
 
相手を逆上させてしまう、と言っていますが、つまり、相手のことを気にしているわけです。また、意見を言うことは当然であり、介入ではありません。介入するような暇は、ふつう、ないということです。
 
介入と言わなくても、他者を考えないで生きることは不可能でしょう。他者を思いやるとき、他者の課題を考えることもあるわけです。自分の課題と他人の課題、そんなに、はっきり分けられるものでしょうか。
 
上については、そこまで努力する人は、よほど奉仕の精神に溢れた人で、あるいは、自分は人間関係がちゃんとしているはず・・と強迫的に思い込んでいる人でしょうか。
 
なんとか関係を修復しようと、焦って、機嫌を取ったり、故意に丁寧で優しい言葉を選んで使ったりする人もいるでしょうから、そこで、的を外れてゆくのでしょう。
 
相手を変えようとする言動は、しばしば、こちらが自己中になっていることが多いです。そして、その結果は、特に精神面の、健康を害することが多いと思います。しかも相手は変わらない、つまり、無益なことが多いのです。
 
課題の問題ではなく、精神衛生の問題だということを、私は、広く伝えて、注意喚起を促す、または、警鐘を鳴らす、ということを目的として書いています。自己愛性人格障害者に、批判する以外で、関わってはいけないと思います。
 
また、あなたが自分の課題に加えて他人の課題を背負って余計に悩み苦しむだけになってしまう危険性があります。
 
むしろ、他人のことを考えるか否かを考えるているあいだ、それは自分の課題になっていますから、他人のことを自分の課題にして気にし過ぎる、捨てられない、ということでしょう。つまり、一般的に、背負えない課題を背負ってしまうと苦しみが付いて回ります。
 
上記の課題の分離方法について、良く頂く反論が下記となります。
「そんなこと言ったら、お前の課題だからって言いたい放題、やりたい放題されても仕方ないってことか!?」
そんな訳ありませんよ。
そんな考え方をして他人を傷付けるような人と前述の対処と同じように関わらない方がいいと割り切った方がいいのだと思います。
 
そんな訳ないと、言葉だけで言っても、歯切れよく、断定的に、そんなふうに受け取ってしまうような書き方をしているのです。受け取る側の課題でしょうか、むしろ、受け取らせる側の責任という課題でしょう。
 
一方で、相手にしないことは、いずれ、相手も分かるでしょうから、無視は、無視した相手を傷つけます。課題の分離の出来ない相手が、どう出るか、嫌がらせや暴力に発展しないか、これは相手の課題だからと、安心していられない場合もあります。
 
人と人は反応し合って生きています。「課題の分離」という高尚な言葉を使わなくても、相手によっては、結局、逃げるしかない場合があるでしょう。
 
しかし、課題の分離を、いつも使って、不都合を無視している者もいるので、そういう者を批判するためには、相手に読ませることではなく、広く一般に情報を伝えるという方向を、自分の課題とするほうがよいと思います。
 
「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」という目的を持つ人は理屈が通じる相手ではありませんので、そもそも関わらないようにする努力が必要となります。
 
理屈が通じなくても、なんで、こんなことをするんだ、とか、こちらの被害を見せることで、気づく人がいることも忘れないようにしてください。冷たい心の持ち主にならないために。
 
自己愛性人格障害の人というのは、理屈も通じず、また共感も成り立たない人です。見分けることは、とても大事です。そういう人は、高い位置を占めると、とても偽善的な社会悪に結び付くと思います。
 
自分の課題に加えて、他人の課題まで背負って生きることはできないのです。
自分の人生を生きながら、他人の人生まで生きてはいけない。
 
ですから、注意点として、個人が、きっぱり、どちらの課題かを、早期に、会って言葉を交わしたときに、その時その場で、見分けることが、いつも直ぐにできるとは限らないのです。
 
そこに至るまでの、思慮を養う必要があります。でないと、好きなように使って、アドラーの名を付けて、心理学の名を付けて、自己のために利用するようになってしまうでしょう。
 
逆に、自分が、いけ好かない人と思われ、アドラー教で言われている「関わらない」対象の人格が当てはまったりすることのないように祈っています。
 
いちばん気持ちのよさそうなところに、アドラー教の言葉があり、曲解する者が飛びつけば、それは、とても気持ちの良い、また、都合の良い言葉として、恣意的に使われる可能性があります。
 
その先には、無反省で無責任の自己中人間の人格破壊が待っていると思います。蔓延させてはいけないのです。その実例を、約3年間、批判しています。彼は、ブログで、アドラー心理学を宣伝していました。
 
 
煽り、刷り込み

煽り、刷り込み
 
 
(2019年10月31日)
(2020年11月13日、一部修正再録)
(2021年11月27日、再録+)
 
 
 
  祈り・矛盾
 
主よ
あなたが主であることを知っています
あなたが主であることを教えてください
主よ
あなた以外に私に主はいません
あなた以外に主がいないことを教えてください
主よ
導いてください
お赦しください
この矛盾律の中で祈っている私を
この罪びとをお赦しください
 
 
 
 罪と赦し
  信仰という立場から考えてみます。
 
Aという人がBという人に、罪を犯したとします。Aは罪を悔いBに謝り赦しを乞います。BはAに言います。「Aよ、私はあなたを赦す」。この場合Bの記憶の中にAについて何が残るでしょう。「Aは罪を犯さなかった」「Aは罪のない人」ではないはずです。
 
つまり「Aは罪を犯したが罰することをしなかった」という記憶のはずです。つまり「赦す」とは「罪をなくす、消す」ということではなく「罪を罰しない」ということになる。しかもそれは罪を犯した者が罪を知り悔いているから起こりうることなのです。
 
これは、基本的な言葉の理解の問題です。「罪が赦される」とは「罪が消える」ということではないのです。赦されても、地上を生きるあいだ、私たち人間は罪人です。神に対しても、やはり、上と同様に考えるべきでしょう。
 
ただ、信仰者の立場で考えるならば、神様は、人が自らの罪のために本当に苦しんでいるならば、これを憐れみ、罪を罰しないだけでなく、さらに、慰めを与え正しく生き続けるように、願い、勧め、導かれるでしょう。
 
 許す(ゆるす) ≒ 許可
 赦す(ゆるす) ≒ 赦免
 
実際に神様がどう考えておられるかは分かりません。人の知恵では神の知恵は計り難いからです。神の立場で考える愚は避けたいものです。地上の霊長として、人は、人の知性と感性によって、神の意志を推測するだけです。
 
例えば、神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは神の全能についての詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神の全知は、全てを常に知っておられると考えるべきです。
 
人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで、聖書から、人の知恵で推測しているに過ぎないということを弁えるべきだと思うのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 (1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  虫のように迷惑3(2)
 
    2019年11月12日
   『神は妄想か?』の感想つづき
   楽山日記(仮)
 
 
楽山の、幼稚で、未発達の、神への決めつけが表れています。それは、神を、頭の中の筋書きだけで語れるという楽山の、恐れを知らぬ傲慢なのです。楽山は、神を鼻先で、いじくって遊んだのだから、信じるとか信じないとかの段階ではないのです。
 
たとえば神は絶対であれば、人の行いによってその判断が変わるはずもなく、もし人の行いによって救う救わないの判断が変わるのであれば、神の判断は人に依存していることであって絶対ではないことになってしまうだろうし、
 
楽山は、神を、自らの堕落した頭の中に、安いイメージの存在として描き、神の不変を勘違いして遊んでいます。神は、人の知恵で、ましてや、楽山などの浅知恵で測れる御方ではありません。神と人は、依存ではなく、双方向であり、神の絶対が人に及ぶだけという単方向ではありません。
 
神は、人を全て見ておられるというのが信仰の弁えです。楽山は、絶対という言葉を、悪用して詭弁でキリスト信仰をおとしめています。理解の欠如した者の発言です。つまり、神は、楽山の言動も全て見ておられますから、その虚偽と悪意を見逃すことはないということです。
 
神は、全知全能ですから、既に、総てを承知の上で、人の成り行きを定めているわけです。神は、人に依存しているのではありません。信仰の救いを求めている人が来て、ご自身の前に正直な告白を捧げるのを待っておられるのです。楽山は、その機会を、ことごとく故意に逸してきたのです。
 
神を、高慢な人間の辻褄だけで考えていると、楽山のように、低劣な疑問に陥るだけになります。邪悪な罠に堕ちているのは、楽山であり、机上の拙い思路で、いちゃもんだけを繰り返している、その口は、神の敵たる何者かに寄ってゆく邪悪の、もはや、代行者のようです。
 
それに神の愛が無限であればその愛は人の行いによって左右されるような小さなものではなかろうし、だいち人は先天的な資質、環境などが整ってこそ…もっといえば神による支援、導きがあってこそ善行が為せるのであって、
 
神の無限を、いつも無限の愛だけを注いでくる、という楽山の気安い神?道楽実験室からの暴言です。恐らく、楽山やシャロームは、神の愛のひとかけらも知らないままで終わるのでしょう。神のほうの辻褄合わせを、楽山はするつもりなのでしょうか。あまりにも愚かです。
 
神と人は、双方向です。人が祈り、神が導きますが、それで、人に、すぐに神の意志を確定的に理解できるようなものではありません。人は全知全能を知りえないからこそ、信仰者は、その存在と可能性を唯一の希望として生きるのです。
 
人が独力で善行を為せるし、それによって自分で自分を救えるというのはいささか傲慢にすぎるように思えなくもない。そんな風にいろいろと考えると、行いによって救われるというのは何かちょっと違う。
 
知る限りでは、独力で何の善行も為しえていないばかりか、人を惑わすような臭い言葉ばかり婉曲的に書いて、人を怒らせて快感を覚える楽山です。ベースの感情は、不機嫌と嘲笑いで、シャロームと同様だと思います。楽山のインテリ気取りの丁寧語に、だまされてはいけません。
 
既に、行為義認というのは、パリサイ人の戒律主義として否定されていることも、楽山は、学んでいないようです。キリスト信仰においては、信仰義認しかありません。恐らく、楽山は、自分の言動が、いかなる信仰にもならないために、逆切れして、神を、貶めているのでしょう。
 
神様を信じるのも大事ですが、行いにも気をつけましょう、善い行いをするように努めましょうというのであれば了解できるけれども、行いによって救われる、行いがなければ救われないというところまで行ったら行き過ぎだろう。個人的には知行合一的な考え方には魅力を感じないこともないけれども、それを人に可能とし、自分だけでなく他人にも義務づけるかのような発想は無茶だと思う。
 
また楽山の臭いボンヤリ言語ですが、楽山は、小学校の道徳のような、甘くて、いい加減な言い方をしないと気が済まないようです。しかし、大人は、むしろ、それでは不十分だと分かるから、深い洞察を求めて、小学校レベルの言い方をしなくなるのです。楽山には、その成長が見られません。
 
表面的な行いよりも、神は、その心をも、余すところなく見ておられると考えるべきでしょう。楽山は、小学校レベルにとどまっているのですから、ここに書いたりしないことです。それとも、親身になって、誰かに、ほおずりでもしてほしいのでしょうか。
 
ふつうは、こんなことをするのはいけないだろう、神が赦してはくださらないだろう、という行いがあります。それが、キリストに敵対し殺したパリサイ人の行ないのような偽善であります。拙劣で悪意で出来ているような文章を、まともぶって書いてくる楽山も同様でしょう。
 
ついでに恥ずかしながらもう少し自分語りをすると、自分は元々は宗教の教えは実践しなくては意味がないという考え方をしていた。その頃は、ヤコブの手紙にすごく共感したのだった。上に提示した「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)という言葉など。
 
信仰を語っても行いが伴わないのは偽善ということですが、楽山は、善意を気取って、反信仰を語って、善行もないのだから、悪+偽善ということです。同じことを繰り返す厄介となっている楽山は、宗教の教えを実践したことがあるとは、到底、思えません。
 
現に、小学生レベルの軽口で、邪魔ばかりしているからです。楽山については、よくこんな白々しいことが書けると、ずっと呆れています。楽山の言は、大根役者の三文芝居であり、楽山の実質は、正義とも信仰とも真実とも正反対です。これほど偽善性の高い嘘吐きが楽山なのです。
 
楽山の持ち物は、嘘と詭弁と三文芝居、ベースに、自己愛、無反省、無責任、無理解、共感と洞察の欠如など、信仰に反することばかりです。ゆえに悪い行いだけが伴ってきたのです。楽山が為すべき悪でないものがあるとすれば、神とキリスト教について何も言わず書かないことだけなのです。
 
でもその後、自分には実践は無理じゃないかと感じるようになった。三浦綾子のエッセーで、聖書の一節を徹底的に実践してみることを推奨しているものがあって、自分なりにそれっぽいことにチャレンジしようとしたものの全然だめで、自分の至らなさを実感してからは、今度はパウロの言葉に感動するようになったのだった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3.20)など。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
3:19
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 
3:20
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
 (ローマ3:19-20、新約聖書)
 
楽山の信仰?実験室での実践は、リトマス試験紙だけのような安い思考実験だと思います。楽山には、今までの文脈から、良心と呼べるものを感じたことがありません。くだらない軽口で、邪魔ばかりしてくる楽山です。要するに、楽山は、自らの怠慢と自己中を正当化したいだけなのです。
 
教えを実践しようと努める信仰者は、自分の至らないことを知っているので、このような軽口は叩かず、できることをします。楽山からは、体験談ではなく、真面目を装いながら、その実、ヘラヘラ笑って見せびらかす自己顕示欲だけを感じます。
 
ただ自分は無宗教なので、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)という考え方はよく分からない。宗教を信じて、それゆえに自分は救われたと実感して歓喜している人はいるし、自分もそういう感覚を味わったことは無くもないので信仰によって救われるというのは分かるようにも思うが、信仰のみによってしか救われない、信仰が無ければ救われないという風になるとちょっと分からなくなる。
 
信仰の無い人が救われるかどうかは、神に任されていることです。誰も分かりません。神が、信仰がない人を導いて使命を与えることがあるかどうか、人が、肯定も否定もできるわけではありません。楽山の宗教観は、極めて稚拙なものであり、視野が狭く、柔和さが皆無であると分かります。
 
無宗教のみならず、反宗教・反キリストの楽山が、何故、知ったかぶりをして、聖書や本の言葉などを書いてくるのでしょう。分からないなら、求めるべきであり、信仰者の言うことを聞くべきであり、文句を言える段階ではない。ここに、自己愛性人格障害が、如実に表れているのです。
 
宗教について「そういう感覚を味わったことは無くもない」・・ボンヤリ言語の嘘です。楽山は、訂正不能の慢心が酷いので、分からないなら、もはや、書くべきではないと思います。楽山は、信仰などなくていい、救いも必要ない、という自身の妄想を正当化しているだけです。
 
楽山の、いつもの到達点である、ああでもないこうでもない、結論がまるで出てこない、というボンヤリ言語の話になってきました。それで、断定していないなどと言い、まともに見せかけ、中庸に見せかけ、かつ、責任は負わないのだから、たまったものではないのです。
 
楽山の、ボンヤリ「無くもない」「そういう感覚」というのは、恐らく、カルトやカルト的な人に見られるところの、冷たいのに押しだけ強い薄笑いの悟り顔の慢心だろうと思います。既に、とても気持ちの悪い筆致として、楽山の書く文章に表れているものです。
 
上にちらと書いたように、神が絶対ならその判断は人の行いのみならずその思いにも影響を受けることは無かろうし、その愛が無限であるならその人の能力を超えて到底実行できないようなことを救いの条件として設定したりはしないだろうと思うので…。
 
神と人の関係が信仰です。楽山は、神がいれば、人が何もしなくても何でもオートマチックに、うまくゆくはず、という妄想を語っています。神は、人に出来ないことを求めてもいません。そんな神は、どこにもいません。そういう神は、楽山の心に長らく巣食っている悪魔のことでしょう。
 
救いの条件は、正直な祈りだけです。しかし、自己愛性人格障害で厚顔無恥の楽山の手にかかると、とんでもない自己中解釈になってゆくので、楽山を全否定してゆくしかないのです。正直の欠片もない男、楽山、何のために生きているのでしょう、分かりません。
 
なんといったらいいか、大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じがする。神を信じるほど宗教は信じられなくなるというのはおかしな理屈のようでもあるけれども、自分はどうもそうなってしまうようだ。
 
また、神?実験室の話です。神と人は双方向というのは、何度も書いてきたことですが、楽山は、人の意見などどうでもいい人なので、全く学習効果がありません。書くことと教えることだけに、満悦するというのは、シャロームと同じです。ゆえに、成りすましを疑っています。
 
決めつけはよくない、という記事も書いた楽山が、神を決めつけています。また、「神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ない」・・楽山の妄想は、大方、意味不明です。楽山の鼻の穴の中にでも汚い基準があるのでしょうが、肯定も理解も、されることはないものです。
 
「神を信じるほど」・・楽山は、一度も、神を信じたことはないと思います。楽山の、どの記事にも、信じていることが表れたことはないからです。つまり、楽山は、平気で、嘘を吐く、恐怖のナルシストです。決して関わらないでください。
 
上の「大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じ」・・このお粗末な宗教観・信仰観は何なのでしょう。楽山教でしょうか、楽山狂でしょうか。
 
キリスト信仰に、取引のような条件はありません。神との契約は、信じて拠り所とする契約です。神の前に、祈りにおいて、正直でさえあれば、信仰は、成立します。信仰をねたんで、正直の欠片もなく、自らの不全を認めない楽山の、これは、埒(らち)もない不満と憤懣の糞便であります。
 
楽山は、自分が一番偉大だと思っているから、神に嫉妬でもしているのでしょうか。そして、神が偉大であれば、ではなく、神を偉大とすればするほど無宗教になる、と言っています。どうして、人が、ましてや、楽山が、何も知らないのに、神を偉大とするかどうかを語れるのでしょう。
 
神を、楽山の机上で扱えるオモチャにしてしまう、これが、楽山の恐ろしい決めつけです。「感じがする」と書いていますが、だまされないようにしてください。ひどいことを言っているのを、曖昧な言い回しでごまかしながら、やんわり、ぼんやり、刷り込もう、吹き込もうとしているのです。
 
恐らく、楽山には、思想など、何もないのだろうと思います。楽山は、何物にも染まらないと自慢したいのでしょう、しかし、最も悪い者に、染まってきたようです。ゆえに、中立の立場を気取って、尿失禁ばかりしています。誠に失礼な男なので、礼をとることは止めています。
 
人に出来ないことを、神は、人に、救いの条件として設定するでしょうか。明らかに否であります。全能の神は、人の不完全を既にご存知だからです。人が感受して、人が考え、人が出来るという信仰が、何も出来ない楽山によって惑わされないようにしてください。
 
偉大 → 無宗教、信じる → 信じられなくなる、という、おかしな理屈、と結び付けてくる楽山は、これからも、おかしな理屈しか言わない妄想粘着の子供レベルであり、しかも、宗教の敵、キリストの敵、総ての真面目に生きている人の敵です。
 
楽山は、噂話レベルのような小便臭いこと以外、何も書いてきませんでした。難しい本や、有名人の名前は、自己顕示のために利用しているだけだと思います。反宗教、そして、反キリスト、嘲って笑うゲーム感覚、というシャロームと同じ有り様になっています。
 
そして、楽山は、前に書いたところの、否定と嘘と嘲りのスパムとなって、人を怒らせて悦びとするサディスティックな面だけが、目立ってきました。自己愛性パーソナリティ障害NPDからの、良心のない自己中に支配されているサイコパスというところでしょうか。
 
 
私は、時に、厳しい喩えを挿んで書いていますが、私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは、思っていても出来ないという自覚から、このような、ゴミ虫のようにネットに巣食う者を相手にしているのだろうと思います。楽山は、何の糧にも参考にもなりません。
 
人間は、バランスの取れた中立で柔和なキリスト者でありえないのです。その自覚のない楽山は、バランスを保って批判することが全くできないところの、言葉でだまそうとする卑劣さであり、あちこち這い回ってゴミ虫のようにエサを求めています。
 
間違っていても、本気で、罵詈雑言を言っている人は、ひどいと分かる分だけ、まだ、楽山よりはマシなのです。楽山は、そこを隠しています。暴けば、きれいなもの、よいもの、すぐれたものなど、何ひとつなく、真っ黒な炭か闇だと思います。
 
つまり、何より、バランスが取れて中立で柔和だと見せかけて、人を騙すのが、彼らゴミ虫のような者たちの特徴だからです。(実際のゴミ虫は、ごみ溜めによく見かけられ、新鮮な死肉や、寄ってくる他の虫などを食べるそうです。)
 
楽山やシャロームなどの、ゴミ虫のようなカルト思想宣伝者は、もし権力を得たなら何人でも人を害するでしょう。ゆえに、社会悪のサイコパスだと判断しています。ゆえに、多くの人に、広く知らせる必要があります。そのために、批判の必要性が生まれます。
 
彼らには現実での無知によって、どうしようもない欲求不満があると思います。そのための深い怨念によって、暗くて見えにくいところに侵入して、邪悪を潜ませて仲間を増やしたがっているのです。彼らは、反動のように尊大に高く舞い上がって、さらに、自らを無恥に導いてゆくのです。
 
無知から無恥へと誘導する企みに、だまされないでください。楽山は、丁寧語とは裏腹に、とても野蛮な心性をもって、何を言われても平気で、同じインチキを続けられる病質者なのです。
 
 
害虫

害虫
 
 
(2020年11月15日、同日一部修正)
(2021年11月26日、再録+)
 
 
 
  蜘蛛を殺さなくなった
 
木造の家にはしばしばいる
あの大きな蜘蛛(くも)だ
巣を張る様子も見かけず
天井や壁や床に
じっとしていたり
這っていたりする
 
昔は殺虫剤をぶっ掛けて
丸くなるまで殺していた
気持ち悪さに鈍感になったのか
それどころではない気持ちでもあるのか
殺すまいと思った。
 
ある日玄関のドアを開けると
内側の壁に張り付いて
こちらを向いている
至近距離
そっと軽く足に触れてみる
数歩は素早く後退(あとずさ)りしたが
それ以上逃げようとしない
 
生まれて初めて蜘蛛に自分から触った
 
蜘蛛は
「何しはりますねん」
とでも言っているかのように
まだこちらを見ている
 
なめられているのか
馴染(なじ)まれているのか
ひょっとして眠っているあいだ
顔中を這い回っているのでは・・・!?
洗うたびに赤くなる顔
剃刀(かみそり)や
電気シェーバーにさえ気触(かぶ)れて
髭を剃るたびに出血して
爛れる口の周り
荒れて硬く脆くなった皮膚
 
いっそぐるぐる巻きにして
血を吸ってみよ
毒でも入れてみよ
と思い切ったときから
大きいのも小さいのも
蜘蛛を殺さなくなった
 
 
  風を追う
 
来し方を振り返れば
風を追うようなものだ
行く末を眺めれば
風を追うようなものだ
今日一日を大切に・・・といっても
今日一日がいちばん近くて
今日一日がいちばん身に沁みて
今日一日がいちばん辛(つら)くて
危なくはないのか
(だからこそ→GOTO5行目)
という狭いループを抜け出して
少しく広い息
 
いずれ滅びることは分かっている
塵(ちり)に帰ることも知っている
犯した過ちは訂正できないのに
逝った人は戻って来ないのに
いつどこでどうなるかなんて
まるで分からないのに
独り姥捨山(うばすてやま)に坐って
どうして此処(ここ)に居るのかと
首を傾(かし)げるように
何ゆえか悔い
何ごとか案じて
風に追討ちを食らっている
気息奄々(きそくえんえん)
誰の吐息か
誰の呼気か
今吸い込んでいるのは
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ついでに、感想をもう一つ。
遠江批判には、遠江氏の意見に異論を述べるというより、意見を言うこと自体に反対するものも目立ちますね。
意見を言うなら公開でなく、こっそり言うべきだ、議論になるようなことは言うべきでない、みたいに。
HSには、秘密主義で密室政治が好きな人が多いのかな。
2021年11月25日
 
私は楽山の体質からの嘘と詭弁を批判し続けています。したがって、上のような、一見、私とキリスト教に無関係なツイートにも、楽山の体質が表れているなら批判対象となります。ここで、楽山は、下記のことについて反対しているようです。
 
楽山「意見を言うこと自体に反対する」に反対・・意見を言うのは言論の自由です。しかし、言論の責任が伴います。その責任を負わない人には、言論の自由も資格もないのです。ずっと前から、受けて答える理路を全く持っていない楽山の、無反省、無責任は、明らかになってきたのです。
 
楽山「議論になるようなことは言うべきでない」に反対・・何のために意見を公開するのでしょう。公開され議論の対象にならない言論はないと思います。楽山は、自己満足か詭弁で刷り込むために書いてきます。つまり、議論しない、逆らうな・・と言っているような楽山です。
 
楽山「秘密主義で密室政治が好き」に反対・・楽山こそ、言うには言うが聞かない、という単方向ゆえに、正当な受け答えが全くできません。つまり、根拠も価値もない妄想を、公開して、まるで神秘のように修正不要に見せかけるところの議論不能のペテン師なのです。
 
意見を言う自由、ということを、全く自己中の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、責任を無視して発信することを、正当化しようという楽山の詭弁なのです。そういう立場というのは、まさに、自分を神の座に置いているようなものなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根が治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。「だよなあ」どころではないのでう。
 
 
 
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