ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年11月

 
  人の気持ちが分からない楽山
 
 「人の気持ちがわかるには」を読んだ。
 2021年11月23日 幸福の科学とは何だろう?
 
 
書けば、書いただけ、白々しさが表れてくる楽山です。今までの嘘つきの弁が、追いかけてきて、楽山を否定してゆきます。なのに、また、否定を呼ぶかのように、書かずにはおれない楽山です。精神衛生のために、どうか、楽山と、交流しないでください。楽山に、関わらないでください。
 
楽山ほど、人の気持ちが分からない人は珍しいです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感や罪悪感や羞恥心などの高等感情が楽山には、ありまません。楽山にとって、他者は、利用するか、無視するか、あざ笑う対象でしかありません。
 
*心の指針
「人の気持ちがわかるには」を読んだ。
202110 人の気持ちがわかるには― 心の指針203―
・人の気持ちがわかるには―大川隆法総裁 心の指針203―
 」
相手の気持ちを知るには、まずその話をよく聞こうというのには賛成である。人の話を聞くのは大事なことだ。
 
人の話を全く聞かないで無視してきた楽山が言っています。だから「人の話を聞くのは大事なことだ」は、大嘘です。それと、楽山は、アンチではないことが、表れています。ORを否定できないから、読んで、部分的に賛同しているのです。
 
私は、楽山に、部分的にも、賛同できるところは全くありません。これほど、人を欺いてきた人は珍しいと思います。だから、今も欺いているのです。この期に及んで、まだ、当たり前の道徳「人の話を聞くのは大事」を書いているところが、異常者であることを証明しています。
 
*神仏の気持ち
とはいえ、この部分はどうにも気にかかる。
神や仏のように、
はるかなる高次元から、
迷える衆生を見守れたら、
一体どれほど胸がスッキリすることか。
 」
著者は、高みから迷える衆生を見ることに爽快感を感じるのだろうか。
 
楽山に言う資格はないと思います。楽山こそ、霊が分かるっぽい自覚で、インテリ気取りで、高みから見下ろす満悦ぶりが、今まで、数えきれないくらい記事に表れてきたのです。こういうところを見ても、本当に、楽山が、自分を見ることの出来ない人だということが分かります。
 
自分だったら、とてもそんな風にはなれない。たぶん、ハラハラしたり、心配したりで気が休まることはなくなりそうだ。
 
だから、これは、真っ赤な嘘です。楽山が嘘を吐けば、楽山の今までが、嘘を暴いてゆくのです。自業自得とはこのことです。「ハラハラ」も「心配」もせずに、平気で嘘を吐いてきた楽山です。気が休まらないのは、だんだん、誰からも、支持も信頼もされなくなっているからでしょう。
 
また神様とは、高みから迷える衆生を見ているばかりでなく、その傍らに寄り添い、救けようとする存在であるとも思う。もし高みから迷える衆生を見てスッキリしているとしたら、それは神様失格だろう。
 
寄り添い、同伴する神を、楽山は知りません。むしろ、高みから、無神論を引用したり、いちゃもんを言って、人を迷わせ、神を否定してきたのが、楽山です。このペテン師に、どうか、だまされないでください。
 
「高みから迷える衆生を見てスッキリしているとしたら、それは神様失格」・・どういう神のことでしょう。また、楽山に、神の合否を決める資格はありません。さらに、詭弁屋で嘘吐きの楽山に、人の是非を決める資格もありません。
 
好き嫌いで物事を判断するのは、あまり褒められたことではないことは承知しているが、やっぱり自分は著者のこういうところは好きになれないなと思う。
 
信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになり、人生の同伴者として、生きる縁(よすが)として頼みとすることです。楽山に褒められる必要は全くありません。といっても、楽山が、世辞以外で、褒めているのは、いつも、楽山自身です。
 
冒頭では著者に賛成し、ここでは、著者を好きになれないと言っています。この記事の文脈は、始めと終わりで、楽山の精神が分裂しているようです。楽山は、基底となる気分と精神が、ボンヤリしているので、そこから何か言っても、一貫性がないのです。
 
楽山は、信頼度ゼロになって久しいのに、言ってることもバラバラなのが書くたびに表れるのに、いつまで、理性も情緒もないところから、繰り言か寝言のような記事を書いて、興ざめさせてくるのでしょう。多くの人に、精神の疲労と危機を与えてきたツケが回ってきているのに。
 
 
薄もやに棲む支離の人

薄もやに棲む支離の人
 
 
(2021年11月25日)
 
 
 
 キーワード: 気持ち
 
 
  意識の怪談
 
私らには奇跡的に意識がある
しかも全く別のことをしながら
確かめたわけではないが
どうやら同じ時を過ごしているらしい
とりわけ私の意識は
私にしかないので
私は離れて暮らしている
しかしすでに私の中には
逝ってしまったはずの意識が
たくさん住み着いている
 
だから悪く思わないでくれ
私が意識を失うとき
君らの中に忍び込むかもしれない
 
失った意識は思うに任せない
逃げようとしても無駄なのだ
いやそうではない
私など人畜無害の
アレルゲンにもならない埃に過ぎないから
隅に置いてもらえばいい
君らは忘れた気持ちでいられるだろう
 
万が一の逆の場合のことだ
君らが私の中に入ってきたとき
私が迎えるに当たって
むさくるしいところへようこそ
と寝起きの顔のまま
欠けた歯をむき出しにして
ニッコリ笑っても
悲鳴を上げないで欲しい
失った意識は逃げようとしても無駄なのだ
 
 
  父に言ったこと
 
昔のことである
父に言ったことがある
大学を留年して進路に迷っていた時期
「言いたいことがある」と言う父に
私は言ったことがある
「僕はお父さんを信頼していない」
 
父は言葉を詰まらせた
「お、お前ねぇ・・・
人の気持ちというものを・・・」
そのあと父が何を言ったか
言わなかったか覚えていない
 
父は読書家である
戦争のために貧しさのために
大学へは行けなかったが
努力家で物知りである
 
父は自らを厳しく律してきた
家族のためである
だからそれなりに
人生観に自信があったのかもしれない
よく説教めいた話をした
 
しかしあの頃だけは
何も言って欲しくなかった
すでに二十代半ばの私を
ただ黙って見ていて欲しかった
 
ずるい私は承知の上だった それが
ひと言で父を黙らせる
最も有効な手段であること そして
最も父を傷つける一言だということも
 
 
  救急車
 
深夜に救急車のサイレン
近づいてくる
止む
遠くないところで
何か不幸でもあったのか
急病人でも出たのだろうな
 
急に思い出して
父と母が二人だけで住んでいる家に
同じことが起こっていないかと
しばしおののく
 
サイレンが再び鳴り響いて
音階を低く変えながら
夜に吸い込まれていく
 
親の安否をちょっとだけ気遣う息子
もう聞こえないサイレンに切り捨てられて
夜に一人だけ取り残された気持ちで
何もできるものかと首を振って
ときに手足をふらつかせながら
仰向けになって
見えない空と戯れている格好だ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
午後8:51 · 2021年11月23日
 
信仰者の主張は、神が存在することや、神が真であることや、自分の主張が真であることが、証明出来ることを根拠とはしていない。客観的証拠があるなら、信じる必要はない。なお「根拠の無いものを真実であると語る」のは、楽山に見られる所業である。
 
人が根拠を示せるのは、客観に成りえない個人の精神生活に起こることである。絶望が希望に変わることを経験した者は、その恵みを信じて、生きる縁(よすが)にするのは、至極当然の成り行きであり、客観的根拠など、科学を持ち込んで理屈を求めるのは、勘違いも甚だしい。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
カルト被害相談窓口・心の相談室りんどう
@soudanrindou · 10時間
何度でも繰り返して言いますが、「嫌だな」とか「変だな」と感じたらその感覚を大事にしてください。その感覚はあなたが属する組織や信じている人に「どこかおかしな点がある事」を知らせる大切なサインです。
午前11:39 · 2021年11月24日
 」
午後0:38 · 2021年11月24日 
 
身近な危険に「気づけるチャンスは沢山」あります。「嫌だな」とか「変だな」と感じることから、邪悪な働きに気づいてゆきます。楽山の丁寧語は、そういう嫌な感じに溢れています。楽山は「どこかおかしな点がある事」というより、よく読めば、おかしなところだらけです。
 
楽山は、このツイートを、逃避と自己正当化のために引用しています。楽山の正義の味方芝居に、決して、だまされないでください。長年の自分の嘘と詭弁の罪と偽善から目を背け、他者の目を逸らせようとしています。そのために、切実な真実の追求の言葉を、賛同リツイートしているのです。
 
楽山に、引用またはリツイートされて、気をよくして、楽山と付き合うと、いずれ、ひどい人だと気づくでしょう。しかし、その時までに、とんでもない疲労を味わうことになり、思考と感性が、鈍くなったり、最悪の場合、人格を破壊されることになります。楽山は、良心の敵です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
発言が、もはや、信頼度ゼロなのだから、たとえ謝罪しても、それが、嘘であることを考えざるを得ない、という、童話の "狼と少年" 状態であります。現に、何度も「反省。とほほ」と書いてきましたが、実は、反省ではなく、反省を、トホホで、おふざけにしてきた楽山です。
 
 
 
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  インチキ思想の楽山
 
 『決定版 日本人論』渡部昇一著
 2021年11月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山には、宗教も思想も成り立たないので、政治思想を語れば、とにかく右翼的に書けばいいじゃろ・・という投げやりが見られます。今までも、ずっとそうだったのでしょう。言葉を覚えても、言葉を使うための、心が無いのです。ゆえに、説得力もなくなっています。
 
楽山は、人に分かるように説明することが出来ないのです。人に分かるように工夫することが出来ないのです。自己愛性人格障害だからでしょう。インテリ気取りで発表して、満悦する人です。共感性がないので、読む側の気持ちを察することが出来ないのです。
 
インテリ気取りで、まともに見せかけようとしても、読んで受け取れるものが何もない文章です。例えば、小中学校で、感想を聞かれて、・・ヨカッタ・・と答えて、先生に叱られる部類の文章です。それに類する語尾が多いと思います。
 
例えば、「筋が通っているようだ」「何かしたいと思わせるものでもある」「一読の価値ありと思う」・・こういう褒め言葉だけで、曖昧で婉曲で、無責任な結論だけで、切実さが、何も感じられません。「ようだ」「思わせる」「ありと思う」・・楽山の、ボンヤリ言語と呼んでいます。
 
著者は本書において、日本の歴史を振り返りつつ、日本の長所および日本の独自性について語っている。皇室、神社、大和言葉、本地垂迹説、武士道など。
 
日本の長所と独自性を、右翼思想で語ろうというのでしょうか。言葉を、並べてみても、その説明も説得力もないなら、読者に無駄な時間を費やさせるだけの、短絡、幼稚、字面だけ、妄想的、訂正不能の危険思想にしか出てこないという楽山の精神病理が、より明らかになるだけです。
 
記事を書いても、文章は短く、短いのに中身がなく、理路は散乱~滅裂となり、思想を語るのではなく、思想の偏りだけが鮮明になってゆくようです。根拠のない偏りを、押し出してくる楽山は、無反省と無責任のペテン師ぶりを、書くたびに明らかにしています。
 
とはいえ著者は日本を褒めてばかりいるわけではない。たとえば靖国神社参拝を問題視する人々の浅薄さを批判したり、
 
靖国参拝を問題視しなくていいという根拠を何も書いていません。結論だけで、説得力の無いことが、明らかです。右翼の旗を振って、その旗に、絡まって、転びながら、言葉と結論だけが、浮いて、納まりもつかないことで、楽山が、いかに、いい加減に思想を唱えているかを表すのです。
 
他者が批判したことを書いて、何の意味があるでしょう。いつものように、怠慢な楽山は、面倒だから、自分で批判しないのでしょうか。それだけではなく、理路を正した批判ができないものだから、無駄に、丁寧語でありながら、シュプレヒコールのように、賛同だけを繰り返すのでしょう。
 
日本は東京裁判の判決は受け入れても、その裁判を受け入れたわけではないにもかかわらず、近年は政治家の中にさえ、この区別に無頓着で判決のみならず、裁判をも受け入れたと勘違いしている輩がいるとして憤り、かつ憂えている。
 
判決は受け入れて、裁判を受け入れない、という摩訶不思議な理屈を、「政治家」という言葉だけをあげて、箔をつけたいのでしょうか。何も言えない楽山の、無理、怠慢、偏見、思い込みが、羅列されてゆく文章など、もはや、理路が散乱して、読んでも、空疎でしかありません。
 
受け入れるかどうかではなく、日本人300万人の命を奪った戦争について、何の見解も持ち得ない楽山の、右翼だから右翼の思想の言葉を並べるだけ、という気色の悪い自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の末路が、ここに表れています。
 
そういわれてみれば確かに東京裁判には、事後法だとか、共同謀議を立証できなかったとか、裁判官は中立国でなく戦勝国人ばかりだったなどという批判がある。とすれば、やむなく刑には服したとしても、その裁判は受け入れないというのは筋が通っているようだ。
 
このように「筋が通っているようだ」とボンヤリ言語で書いても、楽山は、根拠と説明が、右翼の意見を書けばいいじゃろ・・という安易さに、帰結しているだけで、知性のまとまりがなくなっています。右でも左でも中立でも、無責任思想の迷惑だけを表している楽山です。
 
本書は「日本人でよかった」という気分にさせてくれる本である。しかしそれと同時に「このままではいけない。日本のために何かしたい」と思わせるものでもある。
 
楽山の言の、どこに「日本人でよかった」「このままではいけない。日本のために何かしたい」という説明が表されているでしょう。このような安い刷り込みをしてくる楽山は、右翼でも思想家でもありません。もはや、右翼的な言葉を、壊れたエンジンのようにブルブルブルと失禁するだけです。
 
右翼に短絡しただけで、右翼を書くだけの素養が何もないのです。さらに、筋の通った思想一般に、楽山の居場所など無いと言えるでしょう。あらゆることに責任を負わない無緊張の生き方は、楽山に、喜びではなく、笑われることだけを与えるでしょう。楽山の思路が、弛緩しています。
 
楽山には、反省も、修正も、学習もしないまま、インテリや学者を真似た気取りだけで、一人前を装う無理が、どんどん表れているようです。全てが、大根役者の、三文芝居だったのでしょう。何事にも、人生をかける気力も勇気も、楽山には感じられないのです。
 
現状を肯定するとともに、現状打破を志すというのはなにやら矛盾しているようではあるが、この矛盾こそが前に進むために原動力となるものなのだろう。月並みな言い方ではあるが、本書は日本人なら一読の価値ありと思う。
 
結びに「日本人なら一読の価値あり」と、理路の過程を何も書かず、結論だけを書いて、ごまかしています。このように、つまるところ、何も分かるような説明など出来ない楽山です。楽山は、自らの現状を打破できないのに、人に、現状打破を向けて、何が成り立つと言うのでしょう。
 
楽山は、何事を主張するにも根拠を示せない、ということが分かる結びです。現状肯定と現状打破、矛盾が原動力、などと、意味のない理路を並べています。こうなってしまうのは、楽山に、心が無いからです。楽山においては、肯定も否定も安っぽくなって、結局、何も主張できないのです。
 
こういう人がいると、その集団の主張は混乱し、詭弁だらけとなり、嘘だらけとなり、丁寧語で、ごまかしても、いずれ、馬脚をあらわして、誰からも信用されなくなります。まともそうだけど、見ているうちに、ただの自信過剰の怠け者だとバレてしまうのです。
 
楽山は、右翼ではなく、我欲しかありません。楽山は、思想ではなく、屎尿のような臭さだけの文章を、恥知らずだから、載せてくるのでしょう。楽山は思想など持ってはいません。楽山の心無い精神においては、何も、まとまらないのです。人格破壊が進んでいます。
 
 
屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)

屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)
 
 
(2021年11月24日)
 
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
  仲間と責め
 
ねえねえ
・・・だって
・・・だよねえ
ねえ
孤独な仲間たち
寄り添う
似たような視線になる
責めをすり替える
身を守る
捨てられたものがある
ときに加担する
ときに捨てられる
仲間ではない仲間
責めではない責め
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
すごい容赦ない言葉だ。
でもこれが残酷な真実というやつか…顔文字(考えている顔)
引用ツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
 · 11月17日
頭の悪い人は自分の無知・愚かさを理解できていない。自分の欠点を認める謙虚さが足りない傲慢な人達です。そんな人に理解させようとしても時間の無駄。本人の意欲が低く、努力ができないのなら、もうどうしようもない人だと諦めることも賢人には必要です。そうしないと、あなたまで狂わされる。
午前8:48 · 2021年11月17日
 」
午後9:09 · 2021年11月17日
 
人のことしか言えず、自分を見ない楽山は「考えて」はいないと思います。相手の理路を受け取って、その上で物を言う、ということが、全然できない人です。挨拶と世辞の遣り取り以外は全く無意味です。正誤ではなく、正常な遣り取りが出来ないので、異常な疲労が残るだけです。
 
楽山は他人事と思って書いているようですが、引用ツイートが、楽山に、ぴったり当てはまっています。実に「残酷な真実」です。精神衛生の問題として、人格を破壊されたくなかったら、楽山と議論しても経過も結論も成り立たないので、関わらないことです。
 
「無知・愚かさを理解できていない。」「欠点を認める謙虚さが足りない傲慢」「理解させようとしても時間の無駄」「意欲が低く、努力ができない」「どうしようもない人だと諦める」「必要」「そうしないと」「狂わされる」・・ほぼ全文ですが、楽山は、そういう人です。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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  楽山は闇の中に
 
 『朝の光の中に』溝部脩著
 2021年11月21日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、いかに、美化しようとしても、楽山の体質は、言語を通して、楽山の卑怯と病質を表してしまうようです。
 
(ネットより)
溝部 脩(みぞべ おさむ、1935年3月5日 – 2016年2月29日)は、カトリック教会の司教でサレジオ会士。カトリック高松司教区及びカトリック仙台司教区の教区長を務めた。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」。
 
*概略
本書は溝部司教の説教集である。収録されている説教は、一、二頁と短く、読みやすいものが多いが、やや長く難しいものもある。
以下に、本書中で特に印象に残った箇所をメモしてみたい。
 
楽山は、いつも、メモするだけです。それで責任を逃れようとしています。表れてくるのは、楽山が、理路を正して自分の意見をまとめることが出来ないということなのです。
 
*聖書
著者は亡くなった司教様のことに思いを馳せつつ、次の言葉について触れている。
わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。
(黙示録2:19)
 」
これは心にじんと来る言葉だ。自分のことを理解してくれている存在があると思えば慰められる心持ちはするが、その一方で怖ろしくもある。
 
「心にじんと来る」・・楽山は、こういう単純な感動言葉を使いますが、真っ赤な嘘です。楽山に好都合だったというだけなのです。「怖ろしくもある」・・これも嘘です。そう思わせたいのでしょう。もし本当であるなら、今までの偽善と嘘と詭弁の履歴はなかったはずです。
 
*罪と救い
著者はイエスの系図に罪を犯した者がいることを指摘しつつ、次のように述べている。
罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれてきます。アウグスティヌスではありませんが、罪のないところには救いがありません。わたしたちの罪深さ、ほんとうに深い人間のもつ罪深さ、これらを通してこそ、神の救いがあるのです。
(『朝の光の中に 溝部司教の説教より』溝部脩著、ドン・ポスコ社、2003年、p.64)
 」
罪があるから救いがあるというのは、悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある。
 
罪があるから救われるみたいな話をして自己正当化したいようですが、罪があり、悔い改めるから救いがあるのです。悔い改めない自己愛性人格障害の自己中である楽山は、救いに該当しません。このように、話を進める前提に、既に、詭弁の躓きの石を置いてゆく楽山です。
 
「イエスの系図に罪を犯した者がいる」と書いて、キリストの神性を暗に否定したい楽山です。本では「罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれ」という救い主の由来を書いて、超常のスーパーマンではないゆえに罪深い人間に、愛をもって共感できるということでしょう。
 
「罪のないところには救いがありません」とか、罪人が救われる、とか言ったことは誤解を招きやすく、早速、楽山は、罪があるから救われるから自分も救われるという詭弁として悪用しています。罪人の自覚が、救いを求める動機になるということであり、楽山にはないものです。
 
「悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある」・・説明もなく、意味不明です。楽山のような作為の偽善という極悪があるから、その反対側に、善を考えられるという意味なのだろうと受け取っておきます。
 
そういえば、三浦綾子の『氷点』のヒロインは、自身の出生の秘密を知って悩んでいたのだった。先祖に不義を犯した者が一人もいない者はいないだろうが、それについてさほど気にせず生きられる人と、それらの不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人とでは、その生き方は全く違ったものにならざるを得ないのだろう。
 
楽山は、罪の物語を、他人事としてしか受け取らずに、何を言っているのでしょう。楽山は、不義も罪も偽善も全く気にしないでいられる自己愛性パーソナリティ障害NPDの生き方をしてきました。その道を行くつもりなら、このような題材で、何も書く資格はないのです。
 
「不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人」・・楽山は、いかなる悪も偽善も、感じないでいられるのだということが、今までの記事に表れてきました。確かに、罪深さを自覚する人と、自覚しない楽山では、生き方が全く違います。楽山は、根腐れになっています。
 
*聖体拝領
著者はその昔、太平洋の島にやってきた司教や白人女性が、現地住民に食べられてしまった話をしつつ、聖体拝領の意義を説明している。
現地住民は、司教のような偉い人にあやかりたい、美人の白人女性のように美しくなりたいということから食べたのであるが、聖体拝領には次のような意味があるという。
ご聖体を戴く度ごとに、わたしたちはイエス様に同化し、大きく成長して、今度は自分を人々にあげられるようになるのです。
(同上、p.188)
 」
自分としては神の血と肉を食べるというのは感覚的にどうにも受け入れがたいものがあるのだが、この説明を聞くとその論理に関しては理解できなくもない。ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かるので。
 
現地住民に食べられることを「理解できなくもない」と言っています。とんでもない不祥事でしょう。「相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・気でも狂ったのでしょうか。それとも、キリスト教はそんな宗教だと、吹聴したいのでしょうか。獣性と悪意が全開です。
 
聖体拝領(聖餐式)のことを、楽山は、人食いやライオンの話におとしめています。やはり、うち続く偽善の作業のために、悪意も疲弊して、楽山の人間性を破壊しているようです。私は教会を離れてしまったが、聖餐式は、そのような儀式ではありません。
 
聖餐式は、キリストの犠牲の血と肉の、象徴的儀式です。楽山は、ふつう読めば分かることが、分からなくなっているようです。こういうことしか書けないのは、既に末期なのか。楽山のことをケダモノとは書いてきたけれど、本当に肉食本能だけの飢えた動物に堕ちているのでしょうか。
 
「ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・比喩だという明示もありませんから、根拠もないことを言う楽山は、正気ではありません。
 
 
 
どんな失言や間違いをしても、反省も訂正もしない、という楽山のような人間になってはいけません。そういう人間は成長しません。人間は成長するのが特徴ですから、訂正不能人間は、人間ではありません。そういう人は、関わる人々に迷惑をかけながら、混乱し劣化し崩壊してゆくだけです。
 
 
ケダモノ、本能?

ケダモノ、本能?
 
 
(2021年11月23日)
 
 
 
  引き継がれ
 
ときに和み
ときに競い
ときに揺さぶり
ときに闘って
似ていても
相反していても
結局どこまでも孤立しており
いつまでも孤立していながら
引き継がれる力がある
 
微かな光を浴び
あるいは底知れぬ陰に沈み
あるいは叩かれて去り潰されて消え
あるいは独り獣道に迷い込んで倒れ
犬か鼠のように死んだとしても
 
信じようと信じまいと
それぞれは役割を担っており
そのそれぞれを刺激し賦活し
いつまでも秘密でありながら
引き継がれ押し出そうとする
大いなる力がある
 
だから心置きなく
時が来たら安らかに速やかに死ね
だから心置きなく
時が来るまで苦しみ抜いて生きよ
 
無数の苔むした躓(つまず)きの石の潜む
果てしない樹海へ
無数の肉食プランクトンの生息する
果てしない深海へ
押し出されて行け
 
 
  混線ラップ
 
ぎ・み・さ・わら
少しでいい
いがらっぽい毎日に
煙草のせいではなさそうだ
呪いの国 笑いの街角 箱の中
 
殺伐たる事件の数々
せめて明るいニュースで埋めて
メリットだらけのメッセージ入れて
 
無理な遊戯の化粧と愛想が
期待通りの笑みを浮かべて
飛びたい刃物の獣性を隠して
二十歳(はたち)過ぎても三十過ぎても
食えるのにまだ飢えている
 
 どんなに図体(ずうたい)でっかくても
 線が細いと長持ちしないぜ
 だって太い線はみんな完全
 感電・感染しているくせに
 罅(ひび)割れ漏電しかけているから
 下手に触ると怪我(けが)するよ
 
これはフィクションです
これはフリクションでガーガーガーガー
 
銃声とジェット機が
走る背中を追い越してゆく
 
呪詛の国
笑って殺すか殺されるか
期待の未来の原稿読むか
うりゅ・ぎ・み・さ・わら・ぷりー?
これはフィクションです
水を水を水を水を
聞こえますか どうぞ?
 
 
※ 一行目は、一応、give me some water のつもり。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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  また逃げている楽山
 
 「まだ追いかけて批判してた」を見た。
 2021年11月20日 楽山日記(LD)
 
 
緊急速報的に、楽山と付き合うと、災難に巻き込まれるという事件です。人の迷惑を省みない楽山の悪あがきです。ずるずる人を巻き込んでくる楽山です。根腐れの特徴です。
 
何も理解せずに書いてくる。悪いことは総て相手のせいにする。平気で他人を巻き込む。こういう人には、本当の友達はいません。ネットの他人も、本を書く有名人も、利用する対象なのです。楽山には、決して関わらないでください。
 
*謝罪
マリアさんが、こんな記事を書いていた。
・まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋
https://magtaranomaria.blog.fc2.com/blog-entry-8539.html
 」(この記事の後半で批判)
これはstさんのことだろうか。もしそうなら、stさんは私の前記事を見て、マリアさんのところに行ったのかもしれない。迷惑かけて、すみません。
 
楽山らしく、行ったのかもしれないと、邪推している。今日は、自称マグダラも批判します。嫌なHNを思い出させてくれる楽山です。巻き込みたいのでしょうか。卑劣。
 
*同感
それはそうと、マリアさんは当該記事で、stさんに関してはスルーもやむなしとしているようだ。前の記事と合わせると、無視はよくないが、やむをえず、そうしなければならない場合もあるということかな…。
それなら私も同感である。こういっては何だけど、stさんの批判記事は曲解、投影、邪推ばかりだ(1、2、3)。申し訳ないが、そんな無駄話に付き合っている暇はないのだから仕方がない。
 
自称マグダラは、ご無沙汰でした。スルーで結構です。楽山は、こちらを、スルーと称して、無視し続けていますが、書いてくることが、いちいち、偏見と妄想と自己満なので、批判し続ける以外ないのです。
 
*コメント欄
マリアさんの記事を読んで思い出したが、ヤフー時代のstさんは、他ブログのコメント欄に押しかけて暴れてたのだった。
 
「暴れてた」は、楽山らしい悪口の汚い決めつけです。ヤフー時代の楽山(自由)は、今と同様、卑怯者でした。そして、書くには書くが、批判を無視して弁明しない自己愛性人格障害の体質が、バレてきたのです。
 
これは楽山ブログでも同様で、しょっちゅう押しかけてきてはシャローム批判を書きなぐっていた。
 
「押しかけて」「書きなぐって」・・印象操作です。楽山は、実質的に、視野は暗く、悪口だけで反応して、あとは理解できずに無視し、幼稚な戯れ言の言語しか持たず、それをもって、宗教や神を語るので、今も批判対象であります。
 
やがては楽山も批判対象となった。シャロームさんはstさんの傍若無人な振る舞いを注意してたが、stさんはこれに従うことはなかった。私の方からも、stさんは十回レベルの連投が連発してたので、せめて連投は五回程度にしてほしいと頼んだこともあったが駄目だった。
 
私は、約10年間、シャロームの、牧師はおろかキリスト者とも思えない傍若無人の発言を批判してきたのです。罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、・・この発言は、決定的でした。それを書くように誘導している、シャロームの友か成りすましの楽山です。
 
ところが、ある日stさんは、私との議論中、突然「あなたは怖ろしい人だ」というようなことをいって逃げて行き、それ以降、楽山ブログのコメ欄には来なくなったのだった。
私の発言のどれかがstさんの急所に刺さったのだとすれば申し訳ないことをしたと思う。
 
サスペンスの主人公になりたいのでしょうか。楽山には、挙動不審のため、通行人も無理です。コメント欄に書かないのは、じっくり記事に書いたほうがミスが少なくてよいと思ったから。何せ、楽山は、揚げ足取りしかできないので。
 
「stさんの急所に刺さったのだとすれば申し訳ないことをしたと思う」・・楽山に、こういう誠意など無いことが分かっていますから、また、楽山は嘘を積み重ねたことになります。神は、全てを見ておられます。そこが、信仰の節操があるかないか、ということです。
 
*継続中
マリアさんの記事によれば、どうやらstさんの「楽山」監視活動は継続中のようだ。
 
まるで、初めて知ったかのような書き方をしているが、生きているあいだ、異常人格に対しては、監視が必要です。
 
恥ずかしながら、私は議論した相手から粘着されるのはこれで三人目である。いや数え方によっては四人目ともいえるかな…。
 
批判するほうが悪いという印象を刷り込むために、「粘着」と言っていますが、批判されて、何も答えず、記事を書き続けるほうが、よほど粘着なのです。何も答えることなく書き続ける・・これは、ふつう出来ないことです。真実と言論への感受性がないのだろうと思います。
 
これは私の言葉がキツくて恨みを買ったのと、粘着質な人を相手にしてしまったためなのだろうが、この点はよくよく反省しなければならないなと思う。
 
すごいですね。ここで、「反省」とか書いています。反省するなら、3年分の記事を読んで既に反省しているはずです。だまされないでください。楽山は、こういう嘘を平気で吐く人です。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山を、決して自由にさせてはいけません。要監視の危険人物です。
 
 
 マグダラのマリアの部屋
 まだ追いかけて批判してた
 2021年11月18日 (木) 
 
 
自称マグダラを一言でいえば、"ヒステリックなばあちゃん" ということです。しかし、ばあちゃんではないかもしれないし、女でもないかもしれないし、自称ヨシュアと同一かもしれないし、楽山と仲がいいなら、楽山の成りすましかもしれない、など、考えることはいっぱいあります。
 
信仰に命懸け・・みたいな、信仰自慢を吹いていました。こういう態度が、敬虔に反するとは、考えないようです。自称ヨシュアは、教えを守って完全になる行為義認が信仰と思っており、信仰義認など関係ない人です。マグダラのマリアの名を名乗っても、傲慢しか見えては来ません。
 
まだ追いかけて批判してた。苦笑
私の別ブログの方に、履歴がついて
ブログ名が前のヤフー時代と同じだから、
別ブログに、来たのがわかったのだけれど、
 
追いかけるなら、このように記事を書いて、正面から批判するわけです。楽山が引用していたから批判しました。自称マグダラが書いたから、今、批判しているということです。逆らうと、豹変して、凄まじい決めつけと、激しい罵詈雑言を、返してくるのが特徴です。
 
粘着する、相手を変えて、
まだ延々と追いかけて粘着してた。
 
批判を続けるのは、楽山などが、キリスト信仰について、真逆の、あるいは、支離滅裂のことを書き続けているからです。シャローム、自称ヨシュア、そして、自称マグダラ、などもです。批判を続けることを、根拠もなく、自称マグダラも、楽山も、「粘着」と呼んでいます。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDによる思い込みだけの自己正当化に粘着して、記事を書き続けているのは、楽山です。この男を、好きなようにさせてはいけません。批判できる人は、いつまでも、批判を続けないといけません。それが、今は、私だけという現状です。
 
反応しないより、少しでも反応するとか、
記事を書いてるから批判しやすいと思ってるのか、、
 
自称マグダラのメチャクチャな爆発反応でしたから、こちらも、退きました。楽山が引用していなければ、批判することはなかったでしょう。また、こういう記事を書かなければ、ここで批判することはなかったでしょう。
 
相手を鞍替え後も同じように粘着してて、
お気の毒に、、。
 
悪口のあとに「お気の毒に」・・相変わらず、軽蔑の偽善の言葉。焼石ぶりです。あの時は、あれで正しかったと思えます。
 
面倒なのに目をつけられて、。
ヤフーブログ時代に、、
私も、コメント欄でめっちゃ批判されたけれど、
 
悪口以外、何のレスもなく、「ぷぷぷ」「けろっと」・・が、呆れるほど、印象として残っている。
 
自分の場所で言えと、、
出禁を言い渡したり追い返したり、
それでも駄目で、記録はとって、
削除しして、を繰り返してたけれど、。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
だったら、書いてくるなということです。
 
もう3年くらい過去のコメントコピったりして
粘着してて、よく続くなーと、粘着状態を見て呆れた。
 
呆れたなら、書いてくるなということです。こちらを粘着と言うなら、そちらの書き方は、カンシャクです。破裂したときの、罵詈雑言と喚きは、さすがに閉口しました。
 
批判するのが生き甲斐?人生の生きる張り合い?
何も他にすることないのかなぁ。
 
ヒステリックが生き甲斐?、人生の生きる張り合い?、なぜ、楽山を助けている?、キリストの教えから遠く離れたところで自己中で、破裂してくるの自称マグダラ。普段の優しい世辞の筆致とは、かけ離れた豹変・・なぜ、ここで、記事を書くのか。
 
生きてる眼の前の人と関わるのも出来ずに、
パソコンの前のネットの人を批判し続ける。
 
ネットのほうが、荒れていますから、目の前で、偽善者の好きなようにさせてはいけないと、ずっと、批判しているのです。ネットでは、リアルよりも、平気で書いているからです。楽山がそうです。だから、リアルに「関わることも出来ずに」とか、ネットで書いてくるのは、悪口になります。
 
昔、ヤフーブログで、クリスチャン潰ししてた人。
 
偽クリスチャンは、潰したかったけど、現に、自称マグダラ、まだ、いるではないか。さらに、楽山というサイコパスまで、まだ、書くつもりでいるわけです。早く潰れてほしいです。この人には、信仰はおろか、人道もありません。
 
クリスチャンらしき人に食いついて
揚げ足取って、言いがかりつけて
批判して、言い負かして信仰心を失わそうとするのが趣味?
 
クリスチャンらしからぬ自称クリスチャンを批判してきました。揚げ足で出来ているような、浮ついた言で、真となる信仰者らしさが皆無なのです。説得力も皆無なのです。自称マグダラもです。
 
本人は正しいことしてると思い込んでるから、やめない。
自分の信仰観を押し付けて
同調する人には穏やかだけれど
そうでない場合は、噛みつく。
 
クリスチャンは、正しいと判断して実行しても、正しさは神のものです。癇癪玉は、理路を破裂させてゆくでしょう。私は、誰に対しても、そちらのような見せかけの穏やかさではなく、真剣な気持ちです。傲慢な自称マグダラは、心貧しい敬虔を福音とする信仰とは、真逆です。
 
自称マグダラもだが、さらに楽山は狡猾さを併せ持ち、それを無視し、あざ笑うような記事を平気で書くから、批判を続けるしかない。楽山が、上の記事を書かずリンクを貼らなかったら、前のことですから、この記事の、この後半部分は、書かなかったかもしれません。
 
一度噛みつくと、すっぽんみたいに離れない。
噛みつかれた人は、大変ですわー。
 
自称マグダラとは離れていましたが、楽山は弁明できないものだから、自称マグダラを焚きつけています。だから、思い出して「ぷぷぷ」「けろっと」など、わけのわからない怒り方をする人と書きました。
 
自称マグダラは、つながりが長く深いのか、よほど楽山の味方をしたいらしい。わざわざ楽山の狙い通り、火をつけてくるとは・・。やはり楽山の成りすましなのだろうか。ネットを混乱させて、版図を広げようとする者たちを、決して認めてはいけないのです。
 
シャロームと楽山と自称マグダラと自称ヨシュアには、何らかのつながりがあるようです。今も活動している楽山と自称マグダラには、決して関わらないでください。決して近づかないでください。キリスト信仰とは、関係ない~カルト~反キリストのインチキです。
 
 
※ 
 
結局、楽山関係は、ネットが、HNが、いかに信用できないかを、インチキブログやツイッターや、インチキ宗教や、インチキ思想や、インチキ読書の、白々しい実例をもって、伝えているという経過になっています。まとめると、インチキ情報で、ネットが生んだ負の遺産となっている楽山です。
 
 
厚顔の悪性新生物

厚顔の悪性新生物
 
 
(2021年11月22日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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  虫のように迷惑3(1)
 
    2019年11月12日
   『神は妄想か?』の感想つづき
   楽山日記(仮)
 
 
過去の批判記事を、加筆修正して、再録します。楽山の無理解と幼稚さが表れています。
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めようと、いじくっているだけです。感性の直観がないのでしょう。
 
マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。
 
完全に理解されることはないでしょう。しかし、人間として弁えるべきことはあるのです。そのことを全く理解しないで、理解されえないということからキリスト教を見下す楽山は、自己正当化をしているだけです。
  
神の救済を、何かの現象と同じように考えて、人間に理非が分かるかのような前提で語っているように思われます。神の存在か不在かを証明できて、それゆえに救いの是非を云々できるような、いかなる根拠も、人間は、持っていません。それが、キリスト信仰の中心です。
 
キリストに救われた人々が、みな、自分で救いを持ち得ないような、そういう人だったというのが根拠であります。自分で、自分の胸を打つほどに悔いたことがなく、何事にも真剣味がなく、うっすらボンヤリ物事を単純短絡で考えている楽山には、全く無縁の世界なのです。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:11
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 
18:12
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
 (ルカ18:11-14、新約聖書)
 
通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)
 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは、キリスト信仰において、全く常識ではありません。しなくていいというのではなく、人間が、善行に励んでも、それは、神の善に及ぶべくもないということです。それで救われると思ってはいけないのです。
 
つまり、人に気に入られようとして詭弁と嘘を垂れ流す楽山の、虚偽の処世などの話で、神を語ることは出来ないということです。楽山は、嫌らしい俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、神と人と信仰をけがしています。
 
人間には、心に感じるということがあるのが正常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも持つことが出来ないのでしょう。だから、神に対しても条件交渉みたいなことしか考えられないのです。
 
前にも書いたことを繰り返します。心貧しさは、余計な先入観を持たないことです。楽山などの精神の貧困は、余計な先入観しか持っていないのです。
 
この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。
 
人の信仰の有無と正当性をを判断し裁くのは、神であります。神の裁きは、人間に理解できるものではありません。ゆえに、神の存在と意志と行為について、人が、とやかく言えるものではないのです。私たちに、神の完全は、理解できません。楽山が、汚い口で文句を言っても、一切は無駄です。
 
楽山の、悪意に満ちた、いちゃもんが続いています。未熟で幼稚な反キリストは、誰とも共感できないので、誰でもだましてやろうと思うしかないのか、自己満悦と悪意だけで書いてきます。この楽山のように、恐れを知らず、文句を言い続ける者が、典型的な反キリストであります。
 
人の善行は、高が知れています。人間が、神に捧げられるのは、一途に、本気で精いっぱいの正直さだけです。信仰者においては、それは正直な祈りです。神に任せるべきことに、おのれの、お粗末な理屈を振り回す楽山は、他者の言も、無視するか、悪用するだけです。
 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。違うと思います。浅薄な知識を、自慢のように振り回すほど、楽山は、見苦しくなるばかりです。
 
人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、安易に比較していると思います。こういうのを、決めつけと言うのです。無反省で無責任の楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。
 
信仰を持たず、信仰の行いも見られない楽山が言っています。楽山は、行いによっても、信仰によっても義とされない自分を証明しているのです。なお、行いは不完全ですが、伴わないのは偽善です。しかし、信仰者は、神の前に正直であれば信仰の義とされるでしょう。
  
キリスト教内部の対立を面白がる楽山です。行いが伴うことと、善をなしていると思い上がる偽善とは、全然違います。反キリストや無神論者は、そして楽山も、そういうところで、とても短絡した論理にとどまっています。楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化している偽善者です。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、不十分でも信仰者らしい言動が伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャロームより分かりにくい分、質(たち)が悪いのです。
 
人類の敵は、国でも国家でもありません。人類の敵は、サイコパスです。それが疑われる楽山とシャロームの二人については、同一人物の成りすましの可能性も考えています。人間の知能を持ちながら、それを欲望を満たすためにしか使えず、かつ、悔いることがありません。
 
最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、
 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、善行は、非信仰者も努めるべきことでしょう。その最低限さえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、信仰の本質であるかのように書き加え、知りもしないのに、キリスト教が、迷っているかのように主張しています。次元が低すぎるのです。
 
キリスト教の人々が、一枚岩だとは思いません。内外に、理解不十分や、誤解や、曲解などや、また、偽者や、カルトがいるということも現実でしょう。しかし、キリスト教は、人の不十分と不完全を、神が、承知の上で、裁き、救うべき人を救う宗教なのです。
 
キリスト教も信仰も、何も知らず、何も分かっていない楽山のような者が、口出ししてくるのは、自己顕示欲によるものでしかなく、ゆえに、楽山を、大迷惑な、反キリストと判断しているわけです。楽山の語るキリスト教と信仰は、ルサンチマンの妄想と怨念に他ならないのです。
 
現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。
 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。信仰のみ、という言葉について、理屈ではなく、人間の在り方を考えてください。
 
真の信仰を与えられた人間は、どう行動するでしょう。信仰だから特別とばかり、勝手な理屈をこねて、楽山やシャロームのように、無反省に無責任に、嘘と詭弁で偽善を働くでしょうか、否です。
 
楽山やシャロームに、いちばん、だまされやすいのは、詭弁というものをよく知らない一般の人か、いい言葉を一途に求めている宗教人でしょう。だますために、いい人と思われるために、いい言葉に見えることを並べようとするのが、楽山とシャロームなのです。
 
低劣な詭弁を弄する楽山に、決して誰も関わることのありませぬように
主イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 
 
理路の汚染

理路の汚染
 
 
(2021年11月21日)
 
 
 
  水と空気
 
ときに無常
ときに空しさ
 
形の定まらないもの
汚染されやすいもの
汚染されているかどうか
わかりにくいもの
 
しばしば意識されないが
無いと生きてゆけないもの
わかりにくいけれど
必要不可欠
 
水と空気のような
知・情・意
分けられない心の中から
 
汗、涙、唾、息、……
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと 
 
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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