ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年11月

 
  老化・・聖書抜粋2
 
   旧約聖書は、神と人の違いと関係を表しています。
   分かりやすくて情感に溢れる聖句を引用しておきます。
 
   誰かのために祈るとき、母のために祈るときでさえ、
   まるで遺言のように祈っていることがあります。
   
   人は、神の性質であるところの全知全能・絶対完全・永遠不変が
   成り立たない被造物です。
   限りある存在として、人は、悲しみのうちに救いを求めます。
 
詩篇22:1
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
 
詩篇31:5より
わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。
 
詩篇39:4-6より
主よ、わが終わりと、
わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、
わが命のいかにはかないかを知らせてください。
見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために
騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません。
 
詩篇49:7
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価(あたい)を神に払うことはできない。
同10-11
まことに賢い人も死に、
愚かな者も、獣(けもの)のような者も、ひとしく滅んで、
その富を他人に残すことは人の見るところである。
たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
墓こそ彼らのとこしえのすまい、
世々彼らのすみかである。
 
箴言30:8-9より
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。
あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 
詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。
 
詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
 
 
 
テレビとPCの画面はHD画質できれいなはずだけど、視力が衰えてきたので、だんだん違いが分からなくなっている。テレビだけでなく、時々視界の一部がちらついたり揺れたりするように感じることがある。まだ生きているという幸いは何なのだろう。
 
視野の歪みや欠損を脳が補って、一見まともに見えるように脳が作った映像を見ている。それが今の視界に他ならないのだから、他のもっと良質な世界を見ることはなく衰えて見えているであろう視界が総てになります。その世界で考えて、できることをして、生きて、・・わりと、のんき・・。
 
 
詩篇と老境

詩篇と老境
 
 
(2014年09月05日)
(2021年11月20日、再録+)
 
以上の旧約聖書の聖句は私のお気に入りなので、新約聖書の聖句もたくさんあるけれど、これからも再録するかもしれません。
 
 
 
 
  届かない老境
 
ひたひたと波
寄せては返す
老いの湖
浮かべるものはなく
自ら浮かぶ
注ぐものはなく
自ら湧き出づる
老いの泉
もはや何も持たぬゆえ
あげるものは
この姿だけ
写し取っておきなされと
老いの都
買うものも売るものもなく
あらゆる代価は水の泡にも値せず
家もなく道もなく
ここが家ここが道
よそよそしくも安らいで
眠りの中に起きている
その語らいは
よほど深い皺(しわ)を
河にでもしなければ
たどり着けない
老いの里
 
 
  無人の駅
 
迎えるためか
見送るためか
無人の駅のホームで
一人の老人が待っていた
 
ここは廃線が決まっていた
すでに汽車が通る予定はなかった
人にそう言われても
「だから行かなければ」と
老人は毎日
一人で立って待っていた
 
廃線が決まってからまもなくだった
砂利が敷き詰められた
もう線路はなかった
人にそう言われても
「だから見つけなければ」と
しゃがみ込んで老人は
まだ待っていた
 
かつて駅だった空き地
子供たちが遊んでいる
老人の姿はない
隣接した国道にバス停
バスが着いた
「セイリケンヲオトリクダサイ・・・」
 
駅とは呼ばれない崩れた廃屋
ホームとは呼ばれない潰されたコンクリート
埃にまみれた瓦礫や板の中に
伝言板らしきものが落ちていた
「コクウ ニテ 」
読める字はそれだけだった
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
楽山が記事を書き、その大方に、私が批判記事を書き、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
 
 
 
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  詭弁の空しい楽山
 
 嫌な感じのする批判、しない批判(マグマリのブログ)
 2021年11月18日 楽山日記(LD)
 
 
自分の悪を人のせいにする偽善の典型です。引用された自称マグダラマリアは、キリスト者ではなく、カルトだと思っています。異を唱えると興奮して「ぷぷぷ」「けとっ」などと言って、あざ笑い、怒号を吐く人で、ヤフーでは自称ヨシュアとともに偽キリスト教を宣伝していました。
 
一緒に宣伝していた自称ヨシュアが「教えを守って完全になれる」と言ったことから、化けの皮がはがれました。酷い勘違いでした。教えを守れない自らを知って、正直に告白し祈ることがキリスト信仰なのです。聖書の登場人物の名を悪用する自称マグダラの罪は深いと思います。
 
自称マグダラマリアは、自称マグダラと略します。楽山は、楽山ですが、ヤフー時代から、様々なHNを使ってきたと思っています。まさに、楽山は、丁寧語と悪口を使い分ける荒らしなのです。決して巻き込まれないように、気をつけてください。
 
*批判されてる?
マリアさんのブログをみたら、「スルー、無視はよくない」という主旨の話を書いてた。自意識過剰かもしれないが、最近は無益な議論は避けるようになっているので、つい自分が批判されてるような気がしてしまった。
ただそれでも少しも嫌な感じはしないのは不思議だ。
 
楽山は、批判され、かつ、それを無視してきました。楽山が、自称マグダラに嫌な感じがしないのは、ほぼ同類だからでしょう。訂正不能の妄想的思想をもって、自称マグダラはカルトを広めようとし、楽山はキリスト教を否定しようとしてきます。
 
*批判それぞれ
考えてみれば、一口に批判といっても、その中には嫌な感じがするものと、しないものとがある。ネチネチした批判もあれば、公明正大でさっぱりした批判もある。
この違いは、一体どこにあるのだろう?
 
楽山は、凶悪であるにもかかわらず、長い間、ボンヤリ言語という丁寧語で、ごまかしてきました。ネチネチしているのは、自己正当化の詭弁が執拗な楽山のほうです。それもバレて、他者にすがるようになったのでしょうか。同じ穴のムジナなのでしょうか。
 
*妄想
まず一つは、妄想のあるなしが影響しているような気はする。
「あいつは内心では悪い事ばかり考えているくせに、口では綺麗事ばかりいってる」「あいつは私を貶めようとたくらんでいるにちがいない。きっと陰では悪口ばかりいってるはずだ」などなど。
こういう邪推、被害妄想ばかりの他者批判は病的で気味が悪いものだ。
 
口で「綺麗事」ばかり言っているのは、他でもない楽山です。そして、この記事のように、他者のHNを出して、「悪口」を当てつけているのも、楽山に他なりません。他者の被害妄想ということにして、すり替えの詭弁を吐いているのも、楽山の常套手段です。信頼度、ゼロです。
 
*偏見
もう一つは、偏見、決めつけ、差別も影響しているだろう。
「あいつは邪悪な奴だ。いつも悪い事をたくらんでいるに決まってる」「あいつが善行なんてするわけがない。もししたとしたら何か邪悪な目的があるからだ。みんな騙されてはいけない」などなど。
こういう差別心が剥き出しになっている発言には、多くの人が嫌悪を感じないではいられないだろう。
 
このように、他者の捏造のセリフを書いてくるのも、芝居好きな楽山の趣味ですが、痒くなるほどの白々しさに、楽山だけが気づかないのです。だから、私は言います。邪悪な楽山には、決して、だまされないように、関わらないように、近づかないようにしてください。
 
「差別心」と書いていますが、差別ではなく、楽山を人類の敵だと言っているのです。こういう男を、常識人と平等に遇することは出来ません。凶暴な性根を持っている楽山という悪と偽善に対しては、決して、一部でも肯定的な文言はあり得ないのです。
 
*人格攻撃
もう一つは人格攻撃のあるなしも関係してそうだ。
「あいつはエゴイストだ! 自己中だ!」「あいつは傲慢で、思い上がっている! 謙虚ということをまったく知らない」「あいつには愛がない。愛がない奴は何を言っても、やってもダメだ」「ああいう卑劣な奴には、意見をいう資格はない!」などなど。
こんな風に議論のテーマそっちのけで、「お前は心懸けが悪いからけしからん!」という人格攻撃ばかりだと、ただの悪口にしかならないものだ。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という人格の病気です。治す薬がありません。したがって、人格が悪いことを指摘してゆくしかありません。だから、はっきり言います。楽山は、嘘吐きのペテン師の人格の腐った病質者です。
 
*理由
想像するに、マリアさんの記事を読んで、自分が批判対象にされてるとは思っても、嫌な気分にならなかったのは、マリアさんの記事からは上の妄想、偏見、人格攻撃などの要素が感じられなかったからなのだろう。
自分も批判記事を書かねばならなくなったときには、この三要素に染まらないように気をつけたいものである。
 
自称マグダラは、世辞や丁寧語には、見かけの、やさしさを返してきます。偽善者は、多く、そのような特徴があります。妄想、偏見、人格異常、楽山には揃っています。まさに、楽山が批判者の人格を、今、批判者が攻撃すると、そういう人だと、印象を刷り込んでいるだけです。
 
楽山は、批判と、攻撃や悪口の、区別がつかないのでしょう。批判されると攻撃されたと言い、自分の、気色悪く臭い宗教否定の屁理屈のことは、棚に上げています。根拠のない婉曲的な丁寧語の悪口は、悪だと分かりやすい悪口より悪質です。丁寧だからと、そのまま信用しないでください。
 
自称マグダラは、表立っては、キリスト教?のブログを書いてきました。反キリストの楽山と同調するのは、実際にはキリスト教を全く理解していないし、信じる気もないことと、カルト妄想者という共通部分があるからでしょう。改めて言います。だまされないでください。
 
今回、楽山が自称マグダラを引用すること、自称マグダラは承知しているのでしょうね。いつも、引用は、無責任に、許可など得ない楽山ですから、一応、心配にはなります。相手の許可を得なくてもいいとされているのは、批判の場合だけなのです。
 
 
何でも利用するペテン師

何でも利用するペテン師
 
 
(2021年11月19日)
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
 
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
 
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
※ (ネットより)
きこく-しゅうしゅう【鬼哭啾啾】
悲惨な死に方をした者の浮かばれない亡霊の泣き声が、恨めしげに響くさま。転じてものすごい気配が漂い迫りくるさま。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
記事を書き、その大方に、批判記事があり、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
丁寧語を返せば、楽山が、世辞をいうのは、やっていることがペテン師の技だからです。詭弁、捏造、当てつけ、いちゃもん、そして、無反省、無責任、妄想的訂正不能、自己中、思考と感情の未熟と障害、不祥事を人のせいにするなど、現時点で、救いが全く見られない楽山です。
 
 
 
 
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  楽山の妄想性
 
 『国際法で読み解く世界史の真実』倉山満著
 2021年11月16日 楽山日記(LD)
 
 
本の名前だけが立派で、内容が、さっぱりわからない楽山の文章です。インテリ好みの題名でも、楽山は、咀嚼することも吟味することも出来ていません。人に問うような中身がありません。バレているのに書き続ける、この性根こそ自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。
 
本書では悲惨な戦争の経験から国際法という考え方が生まれたこと、各国の外交姿勢や国際法に対する態度、近現代における日本の戦争と国際法との関わりなどについて語られている。著者の意見は人によっては右寄りと受け止められることもあるかもしれないが、自分にはほぼ真ん中と感じられ大いに納得できた。
 
楽山に、著者が、「右寄り」か「ほぼ真ん中」か、分かるとは思えません。楽山自身が、壊れたネトウヨだからです。そのことは前の記事に書きました。何も、人に言えるような軸のある思想など持ってはいないのです。実際、本の内容について、何も書いていません。
 
それにしても本書を読むと、日本という国は本当に自己主張が弱く、かつ下手だと改めて思い知らされる。日本はそういう国民性であり、そこに日本らしさがあるのだろうが、これがために国益を大きく損なうのであればこれを改善する必要はないということにはなるまい。
 
楽山は、自己顕示はするが「自己主張」は、ないのです。それを、「日本は」と、勝手に、ひとまとめにしてくるところが、自己愛性人格障害の、思想の発達不全と高慢なのです。「日本はそういう国民性」「日本らしさ」などと無根拠に言っています。これが、見苦しい評論家気取りなのです。
 
楽山が、国益を語っています。今度は、政治家気取りでしょうか。偉そうに書くほどに、醜さが際立つということが、分からないのでしょう。しかも、曖昧表現の「必要ないということにはなるまい」というボンヤリ言語です。短い文章にも、楽山の害は表れています。
 
楽山は、具体的なことを何も語れないので、誰でも同意しそうなことを見繕って、ボンヤリ書いているだけです。評論はもちろん、感想文にもなっていません。ボクはいい人です・・と言っているだけような成り行きです。公開する価値も意義も皆無の文章であります。
 
よく聞く話であるけれども、日本的な美徳は、いつでも、どこでも、誰に対しても有効で、常に良い結果をもたらすというわけではなく、日本以外の国を相手にする場合は臨機応変に対応することも必要だというのは本当なのだろう。
 
楽山こそ、誰もが頷くだろうと、月並みなことを、善人を気取って、受け狙いで書いています。楽山自身は、誰に対しても無効で、悪い経過と結果だけをもたらし、臨機応変も、理路も情緒も、全く持っていないので、何かを書こうとする自己顕示欲の強迫観念だけになっています。
 
洞察もなく、深みもなく、退屈なだけの短い文章で終わっているのは、思考の散乱が治まらず、書く根気がなく、文章の理路を組み立てられず、面倒になったということでしょうか。ふつうなら持っているはずの、書くとマズいとか、書いてもまとまらない、とかいった気づきさえ無いようです。
 
それとも、天才の自負があって、何でも書けると思っているのでしょうか。だとすれば、自己愛性人格障害に加えて、妄想性障害を伴っているということなのでしょうか。文章というのは、人に意見を伝えるためにあるのに、楽山には、伝わるものが何もないのに、書いているのです。
 
叩けば埃が出るというところから、書けばボロが出るようになってゆく楽山です。今まで、どれだけ読者をだまして、高評価と好意を詐取してきたのでしょう。自己愛性障害は妄想になって、現実の状況を察知したり考えたりが出来ずに、無理やり書いては、瓦解してゆく経過のようです。
 
楽山のように、自分を見る目を持たないで、努力もしないで、欲だけを通そうとすると、このようになるのでしょう。好きなように書いて、反省はせず、責任も一切負う気のない末路には、誰にも伝わらず、どこにも開かれない袋小路があり、受け取る器の無さが、注ぐ器も奪うことになります。
 
 
空洞

空洞
 
 
(2021年11月18日)
 
 
 
  楽山が褒める魂胆
 
 信者同士の対立(信者による信者批判)…②
 2021年11月16日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山は、人のことなど言っている場合ではないのに、HS関連の記事を書いて、アンチのふりをしています。見栄だけで、実の無い人は、このようにして意地だけを張ってくるのです。しかも、楽山自身は、ほぼ引用だけで、何も言えなくなっています。それでも見栄だけを貼り付けてくるのです。
 
*つづき
本記事は、前の記事のつづき。
*二つの議論
遠江秀年氏のツイートに、アマミ氏を支持する者が反論をして議論になっていたので、その切っ掛けになったツイートを貼っておきたい。
まず第一回目の議論の発端はこちら。お相手は忽雷架氏。議論は日付をクリックすれば見られる。
 
このように、自分の意見は書かずに、道案内でもしているつもりでしょうか。楽山は、「日付をクリックすれば見られる」と書いていますが、楽山が、自分で責任を負う気がないということでしょう。楽山の案内に、誰も従ってはいけません。
 
楽山には、まともに見せかける体裁を繕っているだけで、もはや、集中力も文章力もないようです。楽山は議論と言っていますが、詭弁屋の楽山は一度も議論などしたことはないと思います。嘘と詭弁で、だまして、自己顕示欲を満たしてきただけです。
 
(楽山が引用)
遠江秀年(とおのえ ひでとし)
@hidenoe
自分の心を変えるとおっしゃるなら、こちらも仏道修行者として、精進しつつ見守るまで。
甘い期待は抜きにして。
一点、
誹謗中傷とは、やってもいないことに難癖をつけること。
正当批判とは、やってることの問題点を明らかに指摘すること。
この違いがわからねば、反省も自己変革も難しいと思う。
午後0:21 · 2021年11月6日·Twitter Web App
 」
 
批判は、問題点を明らかにすることですが、批判対象が執拗な侮辱を他の宗教などに及ぼす異常者である場合は、批判対象の情報を敷衍し、警戒を促すために、言論闘争という色彩を持つことになります。私の批判対象は、現在、自己愛性人格障害で反キリストの楽山であります。
 
第二回目の議論の発端はこちら。お相手は、きのさん氏。
 
(楽山が引用)
遠江秀年(とおのえ ひでとし)
@hidenoe
問題行動してる人に注意したら、
「そんな上から目線で言うんなら、あなたがやってみせろ」
とはどういう理屈か?まったく意味不明。
「そんなことするな」と言う人は、そんなことしないのだ。
こういう屁理屈は、隣国の報道官が得意にしてること。
それでは周りから嫌われても仕方ない。
午後2:56 · 2021年11月13日·Twitter Web App
 」
 
最初の発言者の理路がおかしいようですが、楽山は、これを引用して、何を言いたいのでしょう。屁理屈と詭弁は、誰よりも、楽山の常套手段なのです。思想が空虚なのに、書き続ける、これが自己愛性パーソナリティ障害NPDなのでしょう。
 
*感想
この議論については、遠江氏が相手方の無作法に対して、心を乱されることなく、諄々と道理を説いていたことが印象的である。
議論の内容は、HSの正統とは何か、HS信者はいかにあるべきかという風なものだから、非信者からしたら実を言えばさほど重要ではないものだ。でも議論の際の遠江氏の態度には注目せざるを得なかった。その落ち着き、姿勢、言葉遣い、説明能力など。
これは自分も見習いたいものだと思う。
 
楽山は、議論と言っていますが、この引用だけでは、議論とは言えないと思います。変なことを言われた人が、言い返しているだけです。
 
楽山は「自分も見習いたいものだ」と言っていますが、嘘だと思います。楽山が、誰かを見習うことはないと思います。真似るか、褒めるとしたら、似たような姿勢を持つアドラー心理学とか、右翼の思想家とか、反キリストの無神論者の記事などですが、実際は、悪用しているだけです。
 
何も言えないし何も書けない楽山の、べた褒めモードです。「道理」「注目」「落ち着き」「姿勢」「言葉遣い」「説明能力」・・いずれも、楽山には、得ようと努力したこともないものばかりなのです。無反省、無責任で、災いを人のせいにするので、関わらないでください。
 
口だけの褒め言葉は、文脈から浮いて、浮いた楽山を表すだけです。楽山が、賛成しても、反対しても、求めているのは、我欲だけです。ほめる、けなす、楽山にとって、これほど、安易に、分かったふうを装うのに、便利なことはないのでしょう。
 
楽山は、自己愛性人格障害ですから、本気で、賛成したり反対したり、また、尊敬したりすることはありません。同列に並びたいだけです。その企みは、ことごとく失敗してきました。楽山は、誰かを「見習う」ことのない病質者です。自己満悦のために利用~悪用するだけです。
 
 
(2021年11月18日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 キーワード: 空
 
  魂の讃美歌
 
心の奥の奥
その深みにあって
限りなく命に近いもの
と表わしても
実体に半歩も近づいたとは言えない
 
荒野に呼ばわる声がして
求めてやまないもの
弱い肉体の
心を熱してやまないもの
 
死にかけた肉体や
死にかけた心においてさえ
まだ燃えることのできるもの
求めることをやめない
望むことをやめない
 
人間の持っている
力に類するものの中で
最後まで耐え忍ぶ源
 
誰も作れない
誰も飾れない
しかし与えられて
人にあるもの
人を人にするもの
 
見るところ人には空しく
辻褄の合わない
あらゆる矛盾を孕(はら)むかのようで
果てもなく切りもなく
それでいて肉体に関わり
心に近しい
 
滅ぼされて滅びない
殺されて死なない
 
やさしい言葉から
激しい言葉まで
涙ながらに尽くしても
あらゆる形容と
定義をやすやすと拒んで
逆に以上のすべてを
生み出すもの
 
分けられず
分かれず
わからず
別れない
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
すごい容赦ない言葉だ。
でもこれが残酷な真実というやつか…顔文字(考えている顔)
引用ツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
 · 14時間
頭の悪い人は自分の無知・愚かさを理解できていない。自分の欠点を認める謙虚さが足りない傲慢な人達です。そんな人に理解させようとしても時間の無駄。本人の意欲が低く、努力ができないのなら、もうどうしようもない人だと諦めることも賢人には必要です。そうしないと、あなたまで狂わされる。
午後9:09 · 2021年11月17日
 」
 
またしても、自覚のない楽山は、常套手段として、自分が言われそうなことを、他人事として引用してきました。しかも「残酷な真実」と言っています。残酷な、楽山の実態なのです。人間らしくあるということは、この楽山のようにならないように、感じて、考えることです。
 
人のことを「頭の悪い人」と言ってはばからないアドラー教です。これは、自分は頭がいいという前提なので、批判よりも自慢が強い言い方になります。後は、大方、楽山に当てはまります。楽山は、気づかないのか、自分の欠陥がバレても平気なほど、崩れています。
 
「自分の無知・愚かさを理解できていない」「自分の欠点を認める謙虚さが足りない傲慢」「理解させようとしても時間の無駄」「意欲が低く、努力ができないのなら、もうどうしようもない人」・・これらは、そっくり、楽山に当てはまり、今まで、私が、楽山について言ってきたことです。
 
 
 
 
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  主の祈り
 
 
主の祈りは、
イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈祷文。
 
もちろん、主が祈るためではなく、下記に引用したルカによる福音書によって明らかなように、私たち信仰者が祈るためにあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、
 (マタイ6:6-9、新約聖書)
 
祈りは、独りで捧げるものだということです。信仰者は、神の前で生きているようなものです。すなわち、神は、私たちの言動と心の全てを見て、既に、知っておられます。そういう、ごまかしの利かない神に対して、告白や願いを祈るのだから、正直以外は、通用しないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 (マタイ6:9-13、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
11:1
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。 
11:2-4
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
 (ルカ11:1-4、新約聖書)
 
ここでは、弟子に乞われて、キリストは、祈り方を教えています。弟子たちだけでなく、私たち信仰者もまた、教えによって、見習うことになります。もちろん、こう祈っておけば大丈夫・・ということではありません。
 
主の祈りは、信仰者の祈りの定型文ではありません。決まり文句で祈るのではなく、一人一人がそれぞれ、個人の信仰生活において、告白と悔い改めと感謝など、正直に祈ることになります。
 
既に、全てを見抜いてご存知の神様は、信仰者が、自発的に、ただ正直に祈ることを待っておられるということです。正直でなかった場合は、別の機会に、正直を取り戻して祈ればよいのです。このことは、神の寛容を表しています。遅れた正直は、先んじる偽りよりは、マシなのです。
 
私たちが、信仰者であっても、ゆるゆると、のんびり、思い煩わずに、生きることが許されているのは、ひとえに、神が、悔い改める者に対しては、限りなく寛容だからです。
 
下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。
(主の祈り:文語訳)
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
 」
 
神の計画の成就と、日々の願いと、赦しと、救いと、讃美が、述べられています。個人の祈りにおいては、さらに、具体的に、良かったと思うこと、感謝、悔いること、罪の告白、罪の赦し、悩んでいること、・・などを、祈り願います。正直であることだけが必要十分条件です。
 
人が神に祈る時に、立派な祈りなどは、ありません。全知全能・絶対完全・永遠不変の神の前では、全知でなく全能でなく絶対でなく永遠でなく、不完全で移ろいやすい人間は、皆、口下手であります。いかに飾ることが空しいかということです。
 
 
悪い祈り(信仰)の例:
 
「キリスト様へ、私たちのために死んでくださって、ありがとう」・・キリストの十字架の苦痛が、いかばかりであったかを忘れています。私たち信仰者のための十字架であっても、キリストの犠牲の苦難に共感しておれば、言えないはずです。
 
このように、人間としての弁えがなく、心無いところから、人間離れした悪い祈りが生まれます。
 
「聖霊には昨日もお会いして話しました」・・人間には、聖霊と、陶酔気分を区別することは出来ません。聖霊は神聖であり、私たちは不完全なのです。どうして聖霊だと分かるのでしょう。こういう人間としての身の程を弁えない発言は、カルト的な超常願望から来ています。
 
聖霊体験は、無いとは言えないが、人が聖霊だと同定して良いものではありません。本当の聖霊体験を経験した信仰者は、恐らく、恐れて黙っているでしょう。そういう恐れを知る者にしか聖霊体験は起きないと思います。預言についても同様です。神秘は見せびらかすものではありません。
 
信徒も預言すると聖書に書かれているからと言って、それを求め、さらには、それが起こったと言うのは、これもまた、超常願望の人間離れなのです。人間性を失った者には、救いも恵みも与えられることはありません。そういう者は、自分は特別という願望から自分信仰に向かっています。
 
自分は特別という意識がもたらす災いの一つの類型として、豪語があります。自己顕示欲を我慢できなくなって、または、言い込められて焦ることで、起こります。言っている内容が、超常だったり、アホみたいに幼稚か当たり前だったりすることから区別できると思います。
 
異言というものもあります。聖書に書いてあるからと、神秘を探し始め、見つけたい、特別になりたい、という願望から、見つけた!・・という有頂天に至ることがあります。預言と同じように、内容を見る必要があります。
 
信仰は、のぼせ上がることで、病理になることがあります。
 
 (使徒行伝、口語訳)
19:5
人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。 
19:6
そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。 
19:7
その人たちはみんなで十二人ほどであった。
 (使徒19:5-7、新約聖書)
 
神を恐れる、ということを、神を敬う、神の前に畏まる、などという程度の気持ちしか持っていないようになると、裁く神、戒める神、懲らしめる神を忘れてしまいます。全能と不完全の違いを弁えないようになってしまいます。それは、もはや、信仰ではありません。
 
信仰は、お伽噺でもヒーロー物語でもありません。命を支える水脈です。人間離れしてゆく方向にはカルト化しか待ってはいません。そうでなければ、神秘に恐れをいだくはずです。敬虔は、神聖への恐れから生まれます。ゆえに、それを欠いて幻を語っても、"特別" に悪くなるだけです。
 
信仰の恵みは、人間らしさに与えられます。一方、超常の魔法のような奇跡は、神に任されることです。信仰者は、新しい命と、生きるための方向と、時々の癒しを得て、よりよい人間になることを目指すのであって、そこを離れて、キリスト信仰の救いはないのです。
 
信仰は、人間らしさの真実を追求することです。全能の神の存在を意識して、自らの不完全と罪深さを知ることから始まります。であるのに、超常に走ってしまうのは、欲望によるものであり、信仰の敬虔に逆行するものです。
 
おびただしいカルト系が、望ましくない方向へ向かっています。そして、そういうカルトや妄想家や自己中で人の話を聞かない無反省・無責任の流れは、人間に対するキリストの、この上ない共感とは、全く反対の方向へ誘導し、煽り、刷り込み、そして、人格を破壊するものです。
 
 
一筋の祈りと願い

一筋の祈りと願い
 
 
(2021年11月17日)
 
 
 
 讃美について
 
神を賛美することは、自分がいかに低く罪深い立場から神を仰ぐ必要があるかという実感から生まれます。神は高く、讃美する自分は正しいキリスト者、というようなお祭り騒ぎのニュアンスを受け取ることがあります。神は、絶対であり、人に讃美される必要はありません。
 
自分という信仰者は正しいという自覚で、喜んで~有頂天で、神を賛美するのは冒涜であります。そこにあるのは、信仰者の姿ではなく、カルト的陶酔気分か、または、褒めてなくては、という強迫観念化、あるいは、褒めればよい、という自己満足の強迫観念でしかありません。
 
信仰者が讃美して、それが、信仰とダイレクトに結び付いたのは、まさに、迫害が身近に迫っていて、結束しなければならないという時代の、切実な必要と欲求によるのであります。それを、現代において真似て、いい気になる讃美信仰はキリスト信仰ではありません。
 
 
 
  器を
 
この両手に囲めるだけの空を下さい
消えるものは消えるままに
この両手に掬えるだけの海を下さい
沈むものは沈むままに
この体に受けとめられるだけの光を下さい
失うものは失われるままに
この足に踏めるだけの大地を下さい
崩れるものは崩れるままに
この目に映るだけの奥行きを下さい
壊れるものは壊れるままに
喪失の限りある世界から
自らの喪失へ連なる調べを
受け入れるだけの小さな器を下さい
器はいつか喜びに砕けるでしょう
 
 
  ある日の祈り
 
私が意図し
私が求め
私が追いかけ
あるいは諦めたもの
私が企み
私が謀り
私が手に入れ
あるいは失ったもの
私を誘惑し
私を陥れ
私を快楽に酔わせ
私を責め苛むものから
どうか私を救い出して下さい
 
私が裁かれるべきであれば
しかるべき所へと導いて下さい
それが永遠の無でも
地獄でも
せめてその時には
私の抗う醜さが
断末魔の呪いになりませぬように
 
せめてその時には
私が跪いて俯いて
裁かれる姿勢で受けられますように
 
言い渡される宣告の前に
我が身の罪を食い
跪(ひざまず)かせて下さい
せめてその時には
私の罪と悔いが全て見えますように
 
できればその時までに
試みに会わせず悪より救い出してください
 
何よりも
ずっと
ずっと
私の躓(つまず)きを見ていてください
そして
その果てに私を拾い
お救いください
 
 
※ 
謀る(はかる)、陥れる(おとしいれる)、
跪く(ひざまずく)、俯く(うつむく)、苛む(さいなむ)、躓く(つまずく)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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  楽山に交われば
 
 朱に交われば紅くなる?
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
古い記事です。楽山の白々しい嘘と、今も変わらない迷惑要素が表れています。
 
五 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
 
楽山に交われば気が狂う・・と書いて置きます。理路が整わず、情感がなく、冷酷な楽山に交わると、話が通じない、遣り取りになっていない、何にも分かっていないのに、まともなつもりでいる、それは、自己愛性人格障害だからです。教祖というより発狂素とでも言うべきでしょう。
 
学ぶべきお手本を何一つ持ち合わせていないのに、上から、教える態度で、忠告する姿勢で、語ってきて、結局、嘘と詭弁以外、何もなかった・・こういう人は、はっきり言って、要りません。誰でも持っているはずの共感性も良心もないのが自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。
 
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
 
「一理ある」と、楽山が言っても、楽山からは一理など受け取ることはないのです。世辞を言われて、いい気になっても、三歩行けば忘れる人です。傍若無人が丁寧語を使って、ごまかしの人生を笑いながら過ごしているだけなのです。
 
また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
 
楽山を真に受ける者は堕落します。楽山に近づく者は、自分をを滅ぼすことになるでしょう。「何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なこと」・・楽山の嘘の始まりです。楽山は、「すぐれた状態」を知らず、「正しき者」を知らず、良心を食い荒らす者です。
 
 
 
 信仰を意識しない生活
  (ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、罪も、偽善も、人の迷惑も、省みず、「意識しない生活」です。
 
もともと彼は非常に宗教的な人間だったために、かえって神を思考することが少なかった。神の中に生きていたので、神を信じるにはおよばなかった。
(ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 
クリスチャンホーム(キリスト者の家庭)に育った人は、信仰に、さして疑問をいだかないで暮らしてきたために、のちに、現実の問題に接して疑い、信仰を捨てる人も出てくるでしょうし、信仰を見直して、余計なものを捨て、大事なものを得て、自分の信仰としてゆく人もいるでしょう。
 
自分は、いわゆる無宗教で育った
神棚と仏壇が併存していても大して気にせず
神社、仏閣、お墓では手を合わせて拝み
彼岸には団子を食べ
クリスマスにはケーキを食べる
そんな家庭で育った
 
このような、日本人に多い育ち方をしても、楽山のように、能力不足を努力で補う代わりに、人をだますことで慰めを得ようとするような者もいます。楽山は、体質として素因もあるでしょうが、性格として怠慢で、学ばないで、自己満足を選んで、貪(むさぼ)ってきたのでしょう。
 
私も、クリスチャンホームで育ったわけではなく、上と似たような環境で、家には仏壇がありますが、聖書に接する機会を得て、罪ということ、人間は不完全ということ、キリストの愛・・などを学んで、祈りだけは真面目な人間にはなってきたようです。善人になったわけではありません。
 
無宗教とはいっても
無神論や唯物論に染まっているわけではなく
ただ単に特定の宗教を信じているわけではないというだけで
神、霊、あの世の存在は当たり前のように受け入れていた
 
楽山が最近言っているのは、無神論や唯物論が多いと思います。一方で、"仏様の心が分からないっぽい親戚に驚いた" 、仏様の気持ちが分かって、"仏様が喜んでいたよ" などと言い、霊能者気取りですが、霊能を示したことは一度もありません。
 
楽山は、うまくいかない自分を、全部、人のせいにしてきたのでしょう。その分、ストレスはないでしょう。嘘と詭弁は復讐なのでしょうか。そうして、甚だ迷惑なだけの人物になっています。「神、霊、あの世の存在」を、当たり前のように浅薄な知識にして、バカにしてきたのです。
 
今、振り返ってみれば
自分の半生の中では、この時期が一番よい生き方をしていたし
神様の近くにいたような気はする
それにこの頃は、なぜか運もよかった
そのせいか、上のロマン・ロランの文章にはとても共感できる
弱い人々、あるいは弱くなっている人々の貧血している生活は神の信仰を必要とする! 彼らは草木が太陽にあこがれるように神にあこがれる。死にかかっている者は生命にしがみつく。しかし、太陽と生命とを自分のうちに持っている者は、自分の外のどこにそれらをさがしに行くことがあろう?
(同上)
 」
 
信仰は、生命の光を、自分のうちに与えられ、気づいて、育ててゆくことです。ここでも、楽山は、反キリストであることが分かります。楽山が「自分のうちに持っている」のは、自分をも人をも欺いて、自己満足と優越感を貪るという下種の人生なのです。
 
無宗教だった自分は
もっとも弱っていた時期に幸福の科学と出会い、入会し
じきに退会することになったのだった
その後はしばらくの間は
幸福の科学の代わりになるものを探したが
これだという宗教には出会うことなく、今に至り
そのことに納得している
つまり元のさやに戻り、無宗教に落ち着いている
 
楽山は、ちっとも落ち着いていません。自己顕示欲の権化となって思考が散乱しています。自己顕示欲によって症例情報だけは豊富な自己愛性人格障害の見本として、気づかれないあいだだけ、いい気になり、結局は、人に多大な精神的疲労~人格破壊という迷惑をかけ続けているのです。
 
これは上の文章にそって考えれば
内なる太陽と生命を失っているときには宗教を求めたものの
今は内なる太陽と生命が蘇ってきたので
以前ほど宗教を求めなくなったということかもしれない
 
楽山の豪語を知ってください。「内なる太陽と生命」を持っているそうです。そう思い込んだ時点で、自己愛性パーソナリティ障害NPDとして、迷惑だけをかける男となり、自分が神となり、思い上がりにブレーキが効かなくなり、宗教を求めることなど、全く、なくなるのです。
 
なんだか
ずいぶん都合の良い考え方であるし
遠回りしたようでもあるけれども
本来の自分を取り戻しつつあるようで、うれしい感じはする
宗教感覚は、人によっていろいろだろうけれども
自分にとっては無宗教が一番合っているようではある。
 
楽山の、ボンヤリ言語とトホホ言語です。「都合のよい考え方」で反省を装い、「遠回り」で謙虚を装い、「本来の自分を取り戻し」たと病識の欠如を表しています。つまり、「人によっていろいろ」で自己中を正当化して「無宗教が一番合っている」という自己満足に浸っている醜態です。
 
無反省、無責任、自己中、訂正不能、霊能者気取り、インテリ気取り、怠慢、高等感情の鈍麻、罪悪感の欠如、嘘吐き、詭弁屋、悪いことを全て人のせいにするなど、・・どこが「合っている」というのでしょう。明らかな人格障害~人格崩壊を表しています。ここまで来てしまうのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも、文字に書かれた思想でもありません。自己愛妄想を身に着けて罪悪感を感じないところの、サイコパスです。精神病質、自己愛性~反社会性人格障害などと呼ばれるものです。楽山の、これからは、恐怖です。決して近づかないでください。
 
 
サイコパス

サイコパス
 
 
(2021年11月16日)
 
 
 
 山上の垂訓について
 
(マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
(マタイ5:27-28、新約聖書)
 
守ることの不可能な教えに思えますが、十戒の拡大解釈であります。守れという道徳を言っているのではないということです。キリストは、厳しい教えを、守れとも、できるだけ守れと言っているのでもなく、罪なき者は一人もいない、という人間の例外なき罪性を言っているのです。
 
神は、正直な告白と祈りだけを求めておられます。信仰者であってもなくても、間違っても、正直以外のものを、神に向けてはいけません。なお、信仰者においても、洗礼は、信仰の意志表示であり、生命保険ではありません。弁えるべき態度は、同じです。
 
 
 
  悪魔と基督
 
悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる
 
基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さない
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ
 
肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない
 
このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難であって
父・御子・御霊の大いなる導きだけが頼みであり
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である
 
※ 軛(くびき)、絆(きずな)
 
 
  最後の逃げ道
 
神様は必ず逃げ道を
用意してくださる
最初に聞いたのは映画でした
 
この世の富を得て幸福な者は
不老長寿を追い求める
一方で富から見放されて
幸福からも見放されたと
死ぬことを考える人がいる
 
今の世にあって
逃げ道があることを知り
祈り求める人は幸いです
 
しかし人には
富める者にも貧しき者にも
悪しき者にも正しき者にも
逃(のが)れることのできない
定められた時が来るのです
しかもそれは必ずしも
納得のいく訪れ方をする
とは限りません
生きるのが辛(つら)い人はいても
死ぬのが大好き
という人はいないでしょう
 
だからこそ知る人は幸いです
逃れようのない時にも
最後の逃げ道は
用意されているのです
 
御子を信じる者が
ひとりも滅びることのないように…
 
それは御国へ至る道
穢(けが)れた肉体が壊され
塵に帰るときも
御使いに「ごくろうさま」と
言ってもらえるかどうか知らないが
肩や首筋に溜まった
凝りが解(ほぐ)されるように
重荷は解(と)かれ
軽やかに安らかに
引き上げてもらえる
最後の逃げ道
 
死が美しいと
思ったことはありません
けれど賜る死が必ずしも
悲しみだけではないことを知り
言うは易(やす)く
行うは難(かた)けれど…
祈り願います
 
御心は必ず成就するから
神様との約束は
必ず最後まで果たされるから
 
 
 
 
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